もう少しの親切を
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著者名:宮本百合子 

 近頃、またひとしきり恋愛論が盛になって来ている。どの雑誌にもそういうような論文や座談会の話が出ている。そして、この雑誌も、数頁をそれのために費そうとしているのであるが、私の心には、率直に云って一つの疑いが、此等囂々(ごうごう)たる恋愛論に対して生じているのである。
 最近数年間の社会の事情は急速にうつりつつある。現代人の全生活は日夜それらの波に中心を揺られ、或はその縁を洗われ、いずれにせよ強く動かされている。しかも、大多数のものにとって、自分達の生活の中に反響して来ている波の方向とか歴史的な性質などというものは、はっきり把握されず、ただ推し移されつつある自覚が、極めて感覚的なものとなって各自の胸に、頭に感じられている。
 こういうなかで、恋愛は、人間生活、社会生活の強い綜合的な発動である性質上、めいめいの生活の中で敏感に時代を反映せざるを得ない。今日という時代の歴史性に結びつけられているそれぞれの人の、固有な傾向や発展の特長また転落の道行きを物語るのである。
 人それぞれに、自分の恋愛生活、結婚生活に対する何かの不安、疑問、確信の欠如があるから、何かその間に均衡を見つけ出せるような理窟、考え方、或は単なる処しかたでもないかという欲求が、恋愛論の炉へ旺に薪をさし加えるのであろう。一方には、知性の抑圧せられ勝な息づまる世態への反撥、人間性の主張の一つの形として、肉体的にも精神的にも強く逞しい恋愛の翹望が存在している。これは、磨ぎ澄まされ偏見を脱して輝く精神力や、それを盛るところの疲れを知らず倦怠を知らない原始生命的な男女の肉体を予想し、一部の人の間にローレンスの作品等がもてはやされるロマンティックな空想の素因をなしている。
 私の疑問というのは、恋愛論の要求は何かの意味で社会的なものなのであるが、それをとりあげ、座談会に出席し、或は執筆している人々の態度が、これ迄幾度か恋愛の問題について論じられた時より一層個人的に主観的に立てられているのは、どういうものだろう、というところにある。
 例えば、或る中年を越した左翼的生活経験をもつ一人の男が、過去の家庭生活を更えて、妻子と離れ仕事に於ても共通点のある若い女と同棲生活に入ろうと欲する。その欲望は、男にのこされている生涯がそう永いものではないという見透しや、男一生の思い出にという熱情の爆発やによって甚しく強烈であり、過去の全生活に対して今や負担と退嬰的な要素しか見出せない状態に陥ったとする。人生の或る深刻な危機、モメントとして、それだけのことは諒解されるとして、そのひとが、その主観に立って、進歩的世界観に立脚する新たな恋愛論として、移行論或は清算論めいたものを主張することは、はたして当を得ているであろうか。健康な、十分の社会性をもった発展的恋愛論を求めるならば、そういう困難な現実の個々の場合をも包含しつつ、そのような事情を惹き起すにいたった過去の恋愛、結婚生活の性質の究明、将来に於てその悲しむべき紛糾が減らされるための社会的見とおしが与えられなければなるまいと思う。日本のような特徴的な結婚、家庭生活が行われているところでは、このことは特別に考慮されなければならない点である。封建的な恋愛、結婚、家庭生活の重みに反撥することから、進歩的見解をもつ若い人々が我知らず機械的唯物論に陥ったり、アナーキスティックな放縦へ墜落したりすることの多い現代の分解的・醗酵的雰囲気の中では、このことは特に大切であると思われる。
 或る婦人雑誌が、恋愛についての座談会をもち、林芙美子氏、深尾須磨子氏その他が話した。その記事を偶然読んだ。お定の話が出ている。林芙美子氏は「私はお定のようになりたくてねえ」と云い「みんな体裁をかまっているから駄目なんですよ」と云っている。深尾氏はお定が変態的であると評されている点が決して変態的でないと主張しておられるのであるが、私が膝を叩いて感じいったことは、私はお定のようになりたくってねえと云わしめた言葉の根底には、世間の大部分の男は「お定の対手になって見たかったと云っていますね」という条件に対する反応の意識が伏在しているのであった。どんなに面白く、思い切って恋愛論をするかというようなことが、せち辛い世の中では、身すぎ、世すぎをもふくめて男のひとに対する女それぞれの一種の嬌態、ジャーナリズムへの秋波としてさえ役立てられているのである。
 これらの二重、三重の利害によって夥しく氾濫せしめられている恋愛論が、果して大衆の現実問題としての恋愛、結婚生活の困難、障害を取りのぞくためにどれだけの働きをするであろうか。先ず陸軍大臣が保健省設立を提案するという興味ある形で今日とりあげられている青年男女の体格低下の問題や、婦人労働者の退職手当金の問題、又頻々たる心中事件の意味など、恋愛論が、恋愛論の枠の中を廻っていただけでは解決し得ぬ先行的事情が、附随してとりあげられなければ、実際性は稀薄なのである。ひとは「物云わねば腹ふくるる」ものである。まともなことが公然と云えなくなると、話が所謂(いわゆる)おいろけに傾く。徳川末期は、何故あのように色情文学が横行したかということを私共は真面目に考えるべきであると思う。現代の恋愛論が、多分の猥談的要素に浸潤されていること、両者の区別が極めて曖昧になっているところ。そこでは男も女も卑屈にさせられている。日本的事情というものが斯くの如くにして表われているところに、私は、或る憤りを感じるのである。
 杉山平助氏の『婦人公論』における恋愛論は、ジャーナリストとしての技術を傾けて書かれているものであるが、中に短く引用されている加賀耿二氏の文章がある。「労働者に恋愛などという高尚なものはない。あるのは『おい、どうだい?』ばかりである」云々とあり、それを労働者性の如く扱われてあるのである。真に労働者と呼ばれるにふさわしい人々は果して無条件に加賀氏のその結論をうけ入れ得るであろうか。〔一九三六年九月〕



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