新しい一夫一婦
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著者名:宮本百合子 

 私たちが、恋愛とか結婚とかの問題について話す場合、特別その上に新しいという形容詞をつけて持ち出す場合、それは多かれ少かれ、従来理解され、また経験されて来た恋愛や結婚より何かの意味で豊富な、新鮮な、我々の生きる歓喜となり得るものを求めようとする心持が働いていると思う。
 昨今のように、一般の社会状勢が息苦しく切迫し、階級対立が最も陰性な形で激化しているような時期に、鬱屈させられている日常生活のせめてもの明るい窓として、溌剌として、新しい恋愛がどことなし人々の心に翹望されていることは感じられる。しかも、社会の現実は進んでいて、往年の情熱詩人、与謝野晶子が「みだれ髪」に歌ったような恋愛の感情は、今日の若い人々の心には住み得ない。ましてや「万葉」の境地においておやである。中産階級の急速な貧困化、それにともなって起っている深刻な失業、インテリゲンツィアの経済的、精神的苦悩は、実際にあたって、恋愛や結婚問題解決の根蔕(こんたい)をその時代的な黒い爪でつかんでいるのである。この事実を痛切に自覚しない若者は、恐らく一人もないであろう。
 まず根底をなす社会機構が、もっとすべての人民にとって人間的に生きる可能性を与えるようにならない限り、窮極は社会関係の最も綜合的な表現である恋愛や結婚の問題が、人類的な規範で、各人の幸福にまで発展せられないこともまた大多数の人々に、はっきり理解されていることであると思う。けれども、歴史がそこまで進む過程は実に単純でなく、容易でなく、多くの堅忍が要求される。今のように表面的にはそういう新たな歴史の建設的推進力が見にくくされているような時期には、窮乏化する小市民インテリゲンツィアが、確信をもって新たな次代の階級へ自身を移行させることが困難であると同様に、恋愛や結婚の実際に当っても、本質的な発展は非常にされにくい状態にある。だから、気分的には新たなつよい、晴やかで情趣深い恋愛が求められているとしても、男女の社会関係の実体は、ふるい世界の鎖にからみつかれている有様である。
 基本的な社会関係までを自分の問題としてとりあげる迫力がなく、しかも常に朗らかでばかりあり得ない気分の上でだけ新らしさを追求する結果、すでに映画制作者が巧みにも把えている古いものの新らしげな扮飾が、恋愛の技巧の上で横行する。互にまともな結婚もなかなかできない下級サラリーマンとウーマンとが、自分たちのゆがめられしぼられている小さい恋の花束を眺めて、野暮に憤る代りに、肩をすくめ、目交ぜし合い、やがて口笛を吹いてゆくような新らしげな受動性。あるいは「女の心」に扱われているような至極手のこんだデカダニズムなど。それとても条件の自由なスクリーンの上での影である。われわれを埃っぽくとりまく実際のきのう、きょうを見わたして、新しい恋愛や結婚が、はたしてブルジョア社会のどこに見出せるであろうか。
 子福者小笠原伯爵の何番目かの娘さんが最近スポーツマンであった体躯肥大な某氏と結婚された写真が出ていた。月給は七十円だけれども、豪壮な新邸に住まわれるそうである。一寸名のあるスポーツマンになるといいぜ、就職が楽だぜ。そういう功利的通念は、今や、オイ、御新邸を背負って華族の娘さんが嫁に来るぜ、という例外の一例とはなるかもしれないが、この結合を、社会的な評価で新しい内容をもつものであるといい得ないことは自明である。
 われわれ個人の恋愛や結婚の幸福を、かくも不自由きわまるものとしている根本原因が、階級社会の諸関係である以上、真の新しい恋愛や結婚が内容・形態ともに、その諸関係のより合理的な組みかえのための闘争の過程において発展されつつあるのはむしろ当然ではなかろうか。今日は一見大差なく目前の困難に圧せられているごとくではあるが、それどころか、勤労階級の男女は一層ひどい封建性の下で家庭生活を営んでいるのであるが、新たな歴史の担い手である勤労階級の社会関係の必然から、見とおしとしては結局、プロレタリアートの勝利のみが、恋愛や結婚の幸福をも我々に与え得るものであることは実に興味深い事実であると思う。
 ソヴェト同盟における新しい内容での一夫一婦制の確立は、男女の日常生活に作用する社会関係全体が、彼ら自身の犠牲多い積年の努力で健康な土台の上に組み直されて始めて、現実の可能となったのであった。
 日本の解放運動は、広く知られているとおり、最近八九年間に世界史にも多く例を見ないほど複雑な困難を経験した。その困難な実践をとおし、次代の建設との関連において、恋愛・結婚観も徐々に高められて今日に至っていることを私たちは見落してはならぬと思う。
 階級的な男女の結合というと、すぐコロンタイの「赤い恋」が話題にのぼったのは、かれこれ七年くらい前のことであろうか。当時私はモスクワにいた。そして本家本元のソヴェト同盟では厳密に批判され、本屋に本も出ていないようなコロンタイズムが流布することを知って、非常に苦しいような驚いた心持がしたのを今もはっきり覚えている。
 コロンタイズムは、全く一九一七年から二三年間の混乱期にふるいブルジョア社会の性的放縦の最後の反映、火花として現れた変則な社会現象であった。四五年以上も経過してから、日本において、一つの急進的な性関係のタイプとして、イデオロギー的にコロンタイズムが流布したのには、またそれだけの社会的必然があったと思われる。
 いわゆる、マルクス・ボーイ、エンゲルス・ガールという名ができたほど、当時は広汎に小市民層の若い男女がマルクシズムをうけ入れた時代であった。
 それらの急進的な若い男女があふれるような活力と感受性とを傾けて、学内の活動などに吸収されて行った有様は、めざましいものであったろう。ところが彼らが研究会やなにかでイデオロギー的に獲得した輝かしい未来の社会、両性関係の見とり図と、現実の日常生活との間には、少なからぬギャップがあったであろうことは、たやすく推察することができる。歴史的にも若々しかった彼らのある者は、性急にそのギャップを自分たちの身をもって埋めようとした。性的な欲望を満たすことは喉の干いた時一杯の水をのむにひとしいという言葉の最も素朴な理解が、恋愛、結婚に対する過去の神秘主義的封建的宿命論の反撥として、勇敢に実行にうつされた。個人生活と階級人としての連帯的活動とが二元的な互に遊離したものとして承認され、階級的な活動の邪魔にさえならなければ、個人的な生活の面では何をしようとそれはその人の勝手であるという考えかたがあったらしい。このことを、当時性関係の面で論議をかもされつつも強い勢力をもって一部に実行されていたコロンタイズム類似の行動と照らしあわせて今日の目で見ると、その頃の運動の歴史がもっていた小市民的な制約性の性質がまざまざとわかり、深い教訓を我々に語るものであると思う。
 三・一五、四・一六などの後、運動の困難と再建の事業が集注的関心となった時代には、コロンタイズムは一応揚棄され、運動のためにはあらゆる個人の感情、個人生活の利害を犠牲にしなければならぬものであるという、いわゆる鉄の規律が一般の理解におかれた。
 片岡鉄兵氏が一九三〇年に書かれた「愛情の問題」は、その点で非常に興味のある作品であると思う。闘争に参加している夫婦が部署の関係で別々の活動に従わなければならないことになり、妻である婦人闘士はある男の同志と共同生活をはじめる。男の同志はその女に性的な要求を感じ、「同棲しているのなら近所に変に思われない為にでも、本当の夫婦になってしまわなければ不便でもあるし、不自然でもある」といい出す。女はそのことに同意できない感情で苦しむ。同志というより一人の好きでない男という心持がその共働者に対して爆発し、ある夜、良人である同志の家へ逃げ出して来る。すると、良人はその一部始終をきいて、静かに、眼を伏せながらいった。「お帰り。」女は「だって……」と了解しかねていうと良人は昂奮し、
「ここへ来て、そんな問題がどう片づくというんだ。そんなことで部署をすてて、それでこれからどうするというんだ?」
「だって――だって――」彼女も亢奮して一生懸命だった。
「あんまりきたなすぎるわ、まるで泥まみれじゃない」
「泥まみれになるのが厭か」彼は笑った。
「泥まみれも事によると思うわ」
「そうか。泥まみれの選り食いも好かろう。だがな、そんな問題が起るたびに部署をすてたんじゃ、限りない退却があるばかりだ。俺はそんな敗北主義には賛成しないな」
 やがて若い階級的な妻である女は、自分が良人のところへかけ込んだことを自己批判し、終局に「物事が乱れるような結果になるかもしれない。けれどもそれが何だろう」あらゆるものを投げ出したものに貞操なんか何だ? そして石川という共働者との場合には逃げ出した彼女は、「もっともっと自由な女性を自分の中に自覚していた、たとえ肉体は腐ってもよかった。革命を裏切らず、卑怯者にならずに自分を押しすすめてゆく途中で、どうせすてた体だ。もはや彼女にとって革命以外に大切にするものは何もないのだ。貞操ばかりをこわれ物のように気にかけていたら、それでどうなるというのだ」と、可憐にも当時の不十分に心の深められていなかった鉄則に屈することが、描かれているのである。
 片岡氏は、当時のブルジョア道徳が逆宣伝的に、階級闘争に従う前衛のはなはだしく困難な生活の中に、不可避的に起ったさまざまの恋愛錯雑を嘲笑したのに対し、抗議としてこの小説を書かれた。そのことは、同じ小説の中の文句でもはっきり宣言せられているのであるが、今私たちがこの小説を読むと、何か一口にいい表わせぬ深い感慨に打たれざるを得ないのである。
 この小説の書かれた時代でさえも、まだ個人の感情や個人生活の利害が、階級の感情や利害と一応きりはなされ、ある種の活動家にとっては別個なもののように考えられ得る時代であったこと、また、プロレタリアの世界観は、現実の問題として、階級対立の社会にあっては支配階級のイデオロギーの侵害を多く受けているものであり、特に日本のように封建性の重いきずなが男女を圧しているところでは、女の性的受動性、男に対する自主的な選択権が隷属的に考えられる習俗をもっているのであるから、新しい社会の建設者たちの努力は、運動内部においても絶えずさまざまの形で作用する、そういう過去の残滓との闘いの面にも払われなければならないものである。そのことを「愛情の問題」において作者が念頭に置かない一般の情勢であったこと、それらが私たちの心をまじめな感想にひきこむのである。
 種々のゆがみをもちつつ、献身的な努力でともかく今日まで押しすすめられて来た運動の段階にあって、私たちは大きい成果の上に生きていると思う。
 時間的に四五年といえば短かいがその間急速に激化した闘争は、広い範囲で運動内における女の活動家をも増大させ、実際の感情として、個人の感情利害と階級の感情利害とは、一致せざるを得ないところまで具体的な条件において高められて来ている。かつて長谷川如是閑氏は、個人的感情を階級の義務の前に殉ぜしめることを主題としたプロレタリア文学に対して、「新しいつもりか知らぬが、義理のしがらみに身をせめられる義太夫のさわりと大差ない」という意味の評をしたことがある。私はその言葉を心に印されて今なお記憶しているのであるけれども、そのような批評を可能ならしめた、階級感情の小市民的分裂は、この二三年間の画期的鍛錬によって、一般的に統一の方向にむかい、もとの低さに止ってはいないのである。
 先月号の『行動』に婦人詩人中河幹子さんが、婦人作家評を執筆された。中で、私のことにもふれられ「獄中の人と結婚せられた心理はわかるようで不可能である。ああいうことはオクソクの他であるが、私は無意味であると思っている」と結論しておられる。
 私はその文章をよんで、女同士の共感というものも歴史性の相異によっては、全く裂かれているものだという事実を面白く思った。そして自分に即さず一つの社会的な事実としてこの事を観察すると、私は、日本の現在の階級対立のけわしさや、そのきびしい抑圧の中からも何かの可能性をひき出し、たとえ半歩たりとも具体的に前進しようとする階級の、いよいよ強靭にされる連帯性、積極性の大小さまざまの情熱的な現実の内容は、遙に歌人中河幹子氏の感情と芸術とを超えたものであることを痛感したのであった。
 日本の現実は、階級的に共通な立場において結ばれた男女を日々夜々実にきびしく鍛錬しつつある。活動と抑圧との実際は、ますます深められ、ひろめられる階級的連帯性の上に立って、屈伸きわまりなく発動する男女の結合を教えている。いわば連帯性の薄弱な愛情は永年にわたって持ちこしてゆけない。それほど、風雨はきついのである。あるときはちりぢりとなって、あるときは獄の内外に、あるときは一つ屋根の下に、それぞれの活動に応じ千変万化の必要な形をとりつつ階級の歴史とともにその幸福の可能性をも増大させつつ進んでゆく一貫性は、もはや単に希望されているところの理想に止ってはいないのである。
 目さきの気分にまぎらわされ、スクリーンの上で、新しい恋愛や結婚の夢を夢と知りつつ描いている実に多くの若い男女も、一度、真に愛さんと欲する熱情に燃え、真に幸福を追求すれば、現実は、おのずから社会の矛盾をそれらの人々の前にさらし、希望するとしないにかかわらず、何かの形でその桎梏との決戦をよぎなくさせる。真によく愛すことと、真によく闘うことは、今日のような階級対立の鋭い大衆の不幸な社会にあって、全く同義語のような歴史的意義をもっていると私は思うのである。〔一九三五年五月〕



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