婦人と文学
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:宮本百合子 

  婦人と文学

一、藪の鶯  一八八六―九六(明治初期一)
二、「清風徐ろに吹来つて」  (明治初期二)
三、短い翼  一八九七―一九〇六(明治三十年代)
四、入り乱れた羽搏き  一九〇七―一七(明治四十年代から大正初頭へ)
五、分流  (大正前期)
六、この岸辺には  一九一八―二三(大正中期)
七、ひろい飛沫(しぶき)  一九二三―二六(大正末期から昭和へ)
八、合わせ鏡  一九二六―三三(昭和初頭)
九、人間の像  一九三四―三七(昭和九年以後)
十、嵐の前  一九三七―四〇(昭和十二年以降)
十一、明日へ  一九四一―四七(昭和十六年―二十二年)

  前がき

 この「婦人と文学」は、はからずも思い出のこもった一つの仕事となった。
 一九三八年(昭和十三年)の正月から、進歩的な数人の作家・評論家の作品発表が禁止されて、その禁止は翌年の三、四月頃までつづいた。やっと、ほんの少しずつ短いものが公表されるようになったとき、偶然三宅花圃の思い出話をよんで、そこに語られている樋口一葉と花圃との対照的な姿につよく印象づけられた。それについて、随筆のように「清風徐ろに吹来つて」を書いた。そしたら、興味が湧いて自然、一葉の前の時代についても知りたくなり、またその後の日本文学と婦人作家の生活も見きわめたくなった。
 日本の社会生活と文学とが日一日と窮屈で息づまる状態に追いこまれていたその頃、大体近代の日本文学はどんな苦境とたたかいつづけて当時に到っていたのか、その努力、その矛盾の諸要因をつきとめたくなった。人生と文学とを愛すこころに歴史をうらづけて、それを勇気の源にしたかった。そこで一旦「藪の鶯」に戻って、年代順に一九三九年の初夏から翌年の秋まで、一区切りずつ『文芸』に連載した。
 文献的にみれば不十分であろうし、文芸史としても、もとより完璧ではないけれども、近代日本の社会が辿って来た精神の幾山河と、そこに絡む婦人作家の運命について或る概観はつかむことが出来た。
 中央公論社から出版されることになって、すっかり紙型も出来、装幀もきまったとき、一九四一年十二月八日が来た。アメリカとの戦争が開始された。九日には、数百人の人と同様、私も捕えられて拘禁生活にうつされた。中央公論社では、この突発事で出版を中止した。
 平和がもどって来たとき、私は紙型になったまま忘られた「婦人と文学」をしきりに思い出した。丸の内の中央公論社は焼けなかった。紙型はのこっていやしないだろうか。度々きき合わせたが、どこにも其らしいものはなく、多分よそにあった倉庫で焼けてしまったろう、ということになった。
 すると、或る日、思いがけず実業之日本の船木氏が、偶然よそから手に入れた「婦人と文学」のゲラをもって来られた。実におどろき、そしてうれしかった。赤インクでよごれて判読しにくいゲラを、すっかり原稿紙に写し直していただいて、又よみ直し、書き加え、中央公論社の諒解も得て出版されることとなった。
 よみ直して、あの時分精一杯に表現したつもりの事実が、あいまいな、今日読んでは意味のわからないような言葉で書かれているのを発見し、云うに云えない心もちがした。日本のすべての作家が、どんなにひどい状態におかれていたかということが、沁々と痛感された。今日の読者に歴史的な文学運動の消長も理解されるように書き直し、最後の一章も加えた。
 近い将来に、日本文学史は必ず新しい社会の歴史の観点から書き直されるであろう。この簡単にスケッチされた明治以後の文学の歴史は、そういう業績のあらわれたとき、補足されなければならない幾つもの部分をもっているにちがいない。けれども、一人の日本の婦人作家が、日本の野蛮な文化抑圧の時期、自分の最もかきたい小説はテーマの関係から作品化されなかった期間に、近代日本の文学と婦人作家とが、どう生きて来たかということを切実な思いをもって追究した仕事として、主観的な愛着のほかに、何かの意味をもっているだろうと思う。

   一九四七年三月
著者

[#改ページ]



     一、藪の鶯
          一八八六―一八九六(明治初期一)

「藪の鶯」という小説が、明治になってからはじめて婦人の作家によって書かれた小説らしい小説であるということを、つい先達てになって知った。今の三宅花圃が田辺龍子嬢として明治二十一年に二十一歳のとき、書かれたものである。
 花圃の「思い出の人々」という昔がたりの中で、この作品が出来た前後の事情が話されている。「私が風邪かなにかを病んで、女学校を休んでいたときでございましたが、なくなりました兄の一周忌が近づいて来るのに、その法事をするお金がないと母がこぼしているのを聞きました、ふと思いつきましたのが、小説をかいて法事の費用をつくろうということでございました。」
 父の田辺太一という人は元老院議員という当時の顕官で、屋敷のなかに田圃まである家を下谷池の端に構えていた。青い着物を着た仲間(ちゅうげん)や馬丁というものが邸内の長屋に家族づれで住み込んでいるという大がかりな生活ぶりであったそうだが、その父という人の気質には旧幕臣としての鬱憤が激しくもえていて、「金の出て行くうしろ姿がよい」などと申し、お金を湯水のように使ってよろこんでいたのでございますという事情だったから、そのお屋敷の内実は法事の費用にも窮するという有様だったのであろう。才八という「家来(けらい)」と母とが、法事らしいことも出来ないと泣いているのを、風邪でねている若い龍子はしみじみと聴いていた。
 すると、その才八という「一寸文(ぶん)のわかる男」が、風邪でふせっている令嬢の気ばらしに、「当時評判の坪内逍遙さんのお書きになった『当世書生気質』という小説本をもって来てくれました。私は、その小説をよんで居りますうちに、これなら書ける、と思いまして一いきに書きあげましたのが『藪の鶯』でございました。」
 こうして出来た小説は、そのころ、春廼屋朧といった逍遙の序文、中島歌子の序文、作者の序文をつけて金港堂から出版された。原稿料三十三円二十銭という金は、二十五円の月給が立派に通用していた当時にあっては、大金であったろう。この金で、田辺家は亡兄の一周忌をすませ、田辺龍子という名は、その時代の若い婦人たちの目を見はらせ、若い婦人たちの間に女流作家志望の熱をまき起す刺戟となったのであった。
 逍遙の「当世書生気質」という作品は、周知のとおり明治十八年に出た新しい文学への手びき「小説神髄」につづいて、書かれた小説であった。この一篇には、逍遙がそれを書いた当時の社会の歴史的な矛盾や、作家として個人的な持ちものの特色などが、複雑に絡みあってあらわれている。先駆的な価値は十分評価されるべきものだが、作品全体から云えば寧ろ、逍遙が理論においてはそこから脱しようとしていた戯作者風の調子のつよくしみ出たものである。その調子は今日の読者に生活感情として馴染(なじ)みにくいものでもある。この「当世書生気質」の出た二年後の明治二十年に、二十四歳であった二葉亭四迷によって「浮雲」が書かれたとき、その頃の習慣で、はじめの部分を発表するときには自分の名をかして、二葉亭四迷と春廼屋朧共著という体裁にした。しかし、二葉亭の作品を見て聰明な逍遙は小説家としての自身の資質に深い反省をもった。イギリス文学から、現実主義の文学を主張した逍遙とは異って、ロシア文学の深い教養と、そういう文学に入ってゆくにふさわしい真摯な性格とをもつ二葉亭は、「浮雲」によって、逍遙にこれまでの自身を深思させる人生と文学への態度を示したのであった。将来の小説と小説家の生きる態度について、遠く見とおすだけの真面目さをもっていた逍遙は、文学者又処世人として最も現実的な良識をはたらかせ、以来次第に小説の筆を断った。そして、日本における新劇運動とシェイクスピアの翻訳とに自己の歴史を完成させた。
 明治初年の思いきった欧化教育をうけ、男女交際を行い、馬車にのって夜会にも行く明治大官の二十ばかりの令嬢が「当世書生気質」をよんで「これなら書ける」と思ったというのは、今日の目から見れば、なかなか面白いところだと思う。その明治二十年こそ「浮雲」が与えた衝撃によって新しい文学への思いがゆすぶられていた時であったが、花圃の生活環境は「当世書生気質」を先ず彼女に近づけたということも意味ふかいし、更に、当時の新教育をうけた一人の若い婦人の心持として、その作品の世界に大した反感も感ぜず疑いをも挾まず、誘い出されて小説を書いたというのも、婦人の生活と文学の成長の歴史と関係して、何かみのがせないものを感じさせる。
 会話中心に、短く一回一回局面を変化させ、雅俗折衷の文章で話の筋を運んでゆく趣向にしろ、その局面のとり合せにしろ、「藪の鶯」は「当世書生気質」の跡をふんで行っている。独創があるということは困難である。作中人物の心持が惻々として迫って来るというところに筆が到るには、花圃の人生は、未だ浅くあった。やみがたい内心の叫びがほとばしったという作品では元よりない。謂わば才に従って偶然に書かれた「藪の鶯」一篇には、しかしながら、何という生々しさで、日本の明治二十年という時代の波の影がさし込んでいることだろう。
「藪の鶯」の開巻一頁は、こんな工合ではじめられている。男「アハヽヽ、このツーレデースは、パアトナア計りお好で僕なんぞとおどっては夜会に来たようなお心持があそばさぬというのだから」女「うそ。うそ計。」云々、と。
 これは鹿鳴館の新年舞踏会の場面である。恐らくあたりに響いていたであろう音楽や、人のざわめく雰囲気の描写などは一切なく、桃色こはくの洋服を着てバラの花を髪にかざし、赤い房の下った扇子で折々胸のあたりをあおいでいる美しくも凜としたところのある「年のころ二八ばかり」つまり十六歳ばかりの少女。多分に作者の俤を湛えていると思えるこの少女は服部浪子。「白茶の西洋仕立の洋服にビイツの多く下れるを着し」前髪をちぢらせた夜会巻にしているやや年かさの娘は、成上り華族で、家の召使たちにまで西洋風の仕着せをきせている極端な欧化主義者の娘篠原浜子。この浜子が、交際の自由だの社交の術だのを、放肆ととりちがえて、家へ出入りの男と誤ちに陥る。ロンドンへ留学していて、浜子の良人となる筈であった養子の篠原勤は、本場で暮して見て日本の猿真似のような皮相の欧化にすっかり嫌気がさし、帰朝後は、些も心がたのしまない。そこへ浜子の不品行がきこえ、結婚は断念して浜子に財産をつけて相手にやるが、その男にはお貞というしたたか者がついていて、浜子は遂に悲惨な境遇になってしまう。勤は、生意気でなくて、しっかりした娘として毛糸編物の内職で弟の世話をしてやりながら弟に教えてもらって英語の万国史などをも読み、和歌も上手な松島秀子という娘と結婚する。その結婚式は芝の紅葉館であげられて、「藪の鶯」は大団円となっているのである。
 どこやらに、極端な欧化主義への懲戒めいたところのうかがえる筋立てである。一回ごとに、作者の感想と思われる一見識が披瀝されている。鹿鳴館の夜会で桃色こはくの服を着た少女浪子が「うちでは交際の一つだと申してすすめられますけれども、どうもまだ気味わるいような心持がいたしまして外国人とはよう踊られません」というのなどは、かわゆく自然で、微笑まされる。第六回女塾の場面を、逍遙は序のなかで圧巻とほめているのであるが、明治二十年というその時分の女学生の喋り工合が活々としているばかりでなく、云われていることが、今日の私たちの心に、一かたならぬ様々の感想をよびおこすものをもっている。浪子がヒロインとして、女に学問をさせることが当時一問題となっていることを述べている。
「この頃は学者たちが女には学問をさせないで皆無学文盲にしてしまった方がよかろうという説がありますとサ。すこし女が学問すると先生になり、殿様は持たぬと云いますから人民が繁殖しませんから愛国心がないのですとさ。明治五六年頃には女の風俗が大そうわるくなって肩をいからして歩いたり、まち高袴をはいたり、何か口で生いきな慷慨なことを云ってまことにわるい風だそうでしたが、此頃大分直って来たと思うと、又西洋では女をとうとぶとか何とかいうことをきいて少しあともどりになりそうだということですから、今の女生徒は大責任があるのでございます。」浪子とりもなおさず作者と思われる少女は、「女徳を損じないようにするために」何でも一つ専門をきめてそれをよく勉強して生意気にならないようにしなければならないと云っている。そして、学問をする人と結婚して共かせぎをするという将来の方針をも、はっきり語っているのである。
 明治二十三年の国会開設を目前にして、かつての中江兆民、板垣退助の自由民権運動は急速に圧迫し終息させられはじめていた明治二十年。明治初年の欧化に対する反動時代の暁としての明治二十年。中島湘煙や福田英子の政治活動が、なるほど或る点では奇矯でもあったろうが、それもその時代の歴史の生きた姿であり男女同権の真実な要求としては評価されず、「女の風俗が大そうわるかった」時代としてばかり教え込まれ、当人たちもそう感じるような自分の教育を正しいものと思いこんでいる時代の空気。そのような明治二十年代の雰囲気が、色濃くこの「藪の鶯」に盛られている。しかも、今日の公平な読者の目には、これらの識見が、決して二十歳そこそこであった花圃自身の自発性によって見出され身につけられたものばかりでないことは明瞭に写って来る。「女の人ではどうも物足りなくて、男子の方から啓発をうけたことが、やはり多かったように存ぜられます。」思い出の中でそう言っている。「藪の鶯」の作者が周囲の男子の方から啓発された当時の反動期に入った日本の上層者のものの考えかたの方向、周囲に語られていたその時代の主導的なものが、歴史の鏡として、作者も自覚しないところにこの作中に照りかえしているのである。
 尾崎紅葉が法律学生であったことが伝記にかかれている。法律学校に学んだ青年を政治に幻滅させて、文化・文学の面に活動させるようになった明治の半封建の藩閥官僚主義への反撥や、猟官流行への軽蔑の風潮も、「藪の鶯」の中に響いている。作中の或る人物について、若い作者はなかなか辛辣で「ゴマカシウム百分の七十にオベッカリウム百分の三十という人物」と云っている。官吏よりも技術家を尊重する気風が女生徒の口をかりて語られているのも、いかにも近代社会として急速に成長しなければならなかった当時の日本の後進資本主義国としての必要が、女子教育にも娘の子の婿さがしの気分にも影響していたことがわかって面白い。
 明治二十一年というときの日本は、二十(はたち)ばかりの若い女の書いた小説でも、それが上梓され、世間が注目するだけには開化していた。一般がそこまで来るには、明治初年からたゆまず続けられた福沢諭吉の啓蒙もキリスト教教育で婦人の文化的水準を高めた新島襄の存在もその重大な先駆をなしたのであるし、中島、福田女史たちの動きも、ことごとくその土壤となっているのである。「藪の鶯」の女主人公である悧溌な浪子が、そういう歴史の脈動を評価する力を、反動期に入ったその新時代的教養からちっとも与えられていないで、至極皮相に「明治五六年頃には女の風俗が大そうわるくなって」と周囲から注ぎこまれ、おそわったとおりに片づけているところは強い関心をそそられる。廃娼運動が全国におこったのは明治五年であったし、男女交際の自由がとなえられてもいたけれども、それは特殊な上流の一部に限られていて、庶民暮しをしている当時の書生の恋愛の対象はまだ芸者だの娼妓しかなかったその時分のうすぐらい日本の現実は「当世書生気質」に描き出されている。
 その上流の開化、欧風教育そのものでさえ、どんなに矛盾し、錯雑したものであったかということは花圃の追懐談にもその情景を溢れさせている。
 花圃などは、当時の進歩的な大官の令嬢としてベッドで寝起きし、洋書を学び、洋装をして舞踏会にも出席し、家庭での男女交際ものびのびと行われていたらしい。男の友達から啓発されたことが多かったと語られているのは実際であろうが、この家庭の欧化の半面に「多勢男の方が家へ遊びにおいでになりましたので、父などは、『お茶屋が開けるぞ』と云って笑っていたほどでございました」と不思議もなく語られているのも、今日の私たちには、改めて当時の女の開化性というものの現実を見直す心持をおこさせる。
 明治十八年に出た「佳人之奇遇」などには、男子の政治的な活動に情熱をふき込む精神のつよい婦人の出現が理想として描かれたのであったが、「藪の鶯」の中のかしこい浪子は、もう政治家に対してよりも派閥から比較的自由であり、出世も出来、金もつくれる技術家へ女としてより関心をひかれる気持をはっきり表明している。政治はすべての若い人々の進歩性に対して、もうその「公論に決する」真実の機会を封鎖してしまっていたことがわかる。浪子は一向分析していない旧来の「婦徳」というものを損わざらんことをものわかりよい婦人の義務とわきまえ、或る程度まで自立し開化しながらも、決して女としての分を踰(こ)えたりしない良家の女主人としての存在を理想として、みずからに方向づけている。このことは、近代日本女子教育に一貫された政府の方針でもあったのである。作者は「男子のかたから啓発され」つついつしか当時の支配者たちの女子教育論を代弁している。
 社会的な意味で、「藪の鶯」の先駆をなした福田英子・中島湘煙たちは、文学の上ではこれぞというほどの足跡をのこさなかった。福田英子にはずっと後年になってから『妾の半生涯』という自伝があり、これは、明治初年からの女性史にとって、重要な参考品である。湘煙は漢学の素養がふかくて、明治二十年頃には「善悪の岐」その他の短篇や漢詩を『女学雑誌』にのせたり新時代の婦人のための啓蒙に役立つ小論文をのせたりしている。フランスやイギリスから渡って来た男女同権論を、湘煙は漢文まじりのむずかしい文章で書いている。当時の日本の文化がいかにも新しい勢と古いものとで混雑していた様子がうかがわれる。
 例えば、湘煙は『女学雑誌』に「婦人歎」という論文をのせている。これは婦人の歎きとよみ下すのではなくて、「ふじんたん」とふり仮名がつけられてある。この文章の骨子は、明治になってから外見上婦人の位置は向上され、昔の女の生活とは比べものにならないように思われるかもしれないが、それは皮相の観察で、女の真の境遇の本質はやはり同じようにおとしめられている。女の姉妹たちは、「単に怨み多くして怒少なきなり」それではまちがっている、堂々正論を行う心持を養わなければいけない、という極めて明快率直な趣旨なのだけれども、それが書かれている文章はというと、「幸に濃妝(のうせう)をもつて妾が雙頬(さうけふ)の啼痕(ていこん)を掩(おほ)ふを得るも菱華(りやうくわ)は独り妾が妝前(せうぜん)の愁眉(しうび)を照(てら)さざる殆ど稀なり」という文体である。私というところが男のとおり「余」と書かれている。そして、こういう漢文調の論文の終りには細かな活字で、アリストートルの詩の句が英語で引用されているのである。
 開化期の文学は混沌としていて、仮名垣魯文のように江戸軟文学の脈を引いて、揶揄的に文明開化の世相風俗を描いた作者がある。その一方では「佳人之奇遇」などのように、進歩の理想を漢文調で表現した政治小説翻訳作品があり、中島湘煙のようなひとは、後の部に近くあったのだろうと思われる。
 当時の教養の伝統が、こんな矛盾を湘煙にもたらしたということもあるけれども、その士族的な教養そのものが示しているとおり、当時の男女同権論者にしろ、女権のための運動家たちにしろ、その主体は一部の上流的な有識男女の間にとどまっていたのだということを、沁々考えさせる。
 さもなければ、湘煙がどうしてああいうむつかしい文体で文章を書いて納っていられただろう。もしも、日本の女のおくれた生活というものが、あちこちの露路、そちこちの村で営まれている日々の生活のままに湘煙の心に映っていたのならば、彼女もおそらくはそれらの女性への同情からだけでも、「濃妝をもつて妾が啼痕を」とは書かなかったであろうと思われる。
 旧いものと新しいものとの混乱は別の形をとっても現れている。明治二十二年一月から読売新聞にのった木村曙(岡本えい子)の「婦女の鑑」という小説は、トルストイの「クロイツェル・ソナタ」がかかれた時代、モウパッサンの「死の如く強し」があらわれた同じ年の作として読むと、様々の意味で私たちを駭(おどろ)かすものがある。この小説は先ず、
「冬枯れし野辺も山路も衣換へて自づと告ぐる春景色花の色香に誘はれて」
という七五調のかき出しで、某侯令嬢国子その妹秀子が、飛鳥山に新築された別荘へ花見がてらコゼットというアメリカの女友達を招待しようとおもむく道すがら、飛鳥山の花見の人出のなかで放れ小馬が貧しい一人の少女を負傷させ、その春子という少女を別荘につれて行って介抱してやるというのが一篇の発端をなしている。
 この小説が読売新聞に発表されるについては饗庭篁村がながい推薦の辞をつけている。「美学のうち絵画と小説は特に婦人に適す宜しく此地を婦人の領とすべし」という篁村の考えかたは政治は男のものとする常識で、文学・小説というものの社会的な本質を過小評価している気風を反映させていて面白い。「清紫の亜流世の風潮によどみて無形の美をあらはすこと少なく」それを憾みとしていたらば、「岡本えい子女史は、高等女学校を卒業して夙に淑徳才藻のほまれたかく学の窓の筆ずさみに一篇の小説を綴られしときゝ」懇請して発表するとかいている。
 花圃が「藪の鶯」を出した翌る年のことだから、その刺戟で書かれたものであったろう。今日興味をうごかされるのは、この小説がその七五調を徹底させて「いざや何々候はん」と会話までその文体でおしとおしているばかりでなく、筋のくみたてが全く馬琴流の荒唐に立っていて、モラルもそのとおりの正義、人情であやつられながら、他の半面では当時の開化小説の流れをくんで場面は海外までひろがり、登場人物には外国少女も自然にとりいれられていて、しかも、それらの外国婦人の心情がそっくり日本の武士の娘の心情にとりかえられて表現されていることなどである。この「婦女の鑑」にも技術家尊重の気風は強調されていて、種々の波瀾ののち絹糸輸出のために秀子が小工場をおこし、貧家の女子供らをそこに働かしていくらかの給料のほかに朝夜二食を与え、子供のために工場の幼稚園をつくり、三つから十までの子供の世話をするようにすることで大団円となっているのである。こんな結末にしろいかにも明治二十二年ごろらしい。憲法発布のお祝いが東京市中をひっくりかえしているときに、森有礼が刺され、文学では山田美妙の「胡蝶」の插画に初めて裸体が描かれ、それに対する囂々たる反響が、同じ読売新聞にのっている。
 その時分の文芸批評の方法や形式というものには客観的な基準などなくて、美妙の插画への嘲笑も「東京にはZORAが出まして都の花をさかせます。いかにも裸は美妙です。なるほど『美』はARTにはないものと見えます」と、徳川時代の町人文学の一つであった川柳、落首の様式を踏んでいる。ZORAでなくてZOLAですよ、という投書ものっている。この読売新聞に医学士森鴎外がカルデロンの戯曲を翻訳し「調高矣(しらべはたかし)洋絃(ぎたるらの)一曲(ひとふし)。三番続」としてのせていたのが、美妙の插画に対する世論の卑俗猥雑さにつむじをまげて、まだまだ日本人にカルデロンなんか勿体ないというのを、篁村がなだめてつづけさせていることも語られている。鴎外の訳詩集『於母影』の出たのはこの年のことであった。
 こういう社会の雰囲気や真実を求めつつ新旧の間で混雑している「婦女の鑑」と見くらべれば、花圃の「藪の鶯」は、当時にあってたしかにそのまとまりのよさでも頭角をぬいた作品であったろう。全体の筋も割合に自然だし人間の感情も日常の常識のなか、その範囲ではリアルである。「藪の鶯」の世界は一種新時代との歩調を合わせ妥協していることも、若い作者花圃の人生態度の分別のよさとともに、まぎれもなく当時指導的な思想として、日本に擡頭しつつあった国粋主義の考えの一応のまとまりを反映しているのである。
「藪の鶯」の作者が、やがて、当時政教社をおこして『日本人』を発刊しはじめた雪嶺三宅雄二郎と結婚した内的必然もこの作をよめばうなずける。「どもりはかわゆい」と思ったなどという角度で雪嶺を語るのは花圃の性格或は風格であって、内的な相似は更に深くこの二人の男女の歴史性のうちにひそめられていた。今日七十を何歳か超え、中野正剛を愛婿の一人とする花圃の生きかたは、決して偶然ではなく、「藪の鶯」一巻のうちに、その展開のいとぐちを含んでいた。「藪の鶯」という題は、稚き初音という作者のこころであったろうが、一声の初音は、初音ながらも、客観的にみれば明治になっても決して野放しのまま生の愉悦にふるえた喉一杯の初音ではなかった。おのれにふさわしい籠を天地とうけがって、そこの日向に囀られた初のひとこえであったのである。
 花圃と同時代には、木村曙女史のほかにも竹柏園女史・幽芳女史などというひとびとが短篇小説をかいていた。また、小金井喜美子、「小公子」を訳した若松賤子などという今日においても忘られることのない名前も、その翻訳の業績とともに登場しはじめている。花圃をはじめとしてこれらの有能な婦人たちが、早逝した若松賤子をのぞいて、文学上の活動をずっと積極的につづけて行けなかったのは、何故であったろう。
 ほかならぬ「藪の鶯」がその答えを与えていると思う。女主人公の浪子は作者とともに、女の理想として、生意気に亙らない範囲で物を知っていること、全く旧套によるのではないがさりとて全く自身の責任で生活してゆくというほどの社会的な独立を求めるのではなく、ふさわしい配偶を得て、内助の形での品のいいともかせぎの生活を描き出している。
 当時はものを書くにも学問として伝統をふんだ教養が必要とされていたから、女でそのような教養をそなえることの出来たのは、結局上流の子女たちばかりであった。従ってふさわしい好配偶というめやすも、浪子の言葉がおのずから限定しているとおり、何かの意味で社会的には「殿様」であるということになる。そのような良人たちの開化の精神の位置と程度とは、我が愛嬢を中心にお茶屋がひらけると冗談を云う大官たる作者の父親の心情と、果してどの位距りをもっていただろう。福沢諭吉が「新女大学」の腹案を抱いたのは明治よりも昔のことであったのに、それを発表したのはやっと明治三十二年になって女学校令が出てからのことであった。その理由として、福沢諭吉は、世情はそんな女子教育論など真面目にとりあげる状態になかった事情をあげている。そうとすれば、若い婦人たちの教育見識そのものが、男の側からの「生意気でない範囲」を己の埒としていると同じように、文学の仕事も、つまりは六分の旧套を守って行われている上層社会の日常生活に負担とならない程のたしなみ或は余技とならざるを得ないわけであったろう。
 中島湘煙が、女に文学の業はふさわしい、台所や茶の間に一寸手帳をおいても物を書いて行かれるから、とその頃の女学雑誌で云っている。が、文学の本質的な精励は、半封建の日本の婦人にとって、上流人であってさえも、そんな手軽なものでなかったことを現実が証拠だてている。また篁村が「絵画と小説は特に婦人に適す」と云ったことは、近代のロマンの精神の理解に立って、婦人の社会生活のひろがりとそこからの表現の可能としてとりあげられているのではなかった。小説というものについての前時代的な解釈、軟文学としての理解で、女にも出来ることという過小評価が吐露されていたことがかえりみられるのである。
 この時代に「婦女の鑑」一篇を発表して、その後の文学活動は見られなかった木村曙の作品は、私たちの心にのこる何かをもっている。筋の組立ての人為的な欠点や文章の旧さ、登場人物の感情の或る不自然さなどが欠点として目立つにしろ、「婦女の鑑」は当時にあって珍しい社会的な題材を扱っていた。
 擡頭しつつあった当時の日本の繊維産業と、その生産で女・子供が使役されはじめた状態が扱われたのは珍しいことであった。工場の給食や託児所という、働くものの福利施設のことが出て来ていることも珍しい。木村曙という作家は、彼女の若い女性らしい正義感によって、尨大な数になりはじめた「女工」生活の非人間的な条件を観察し、それへの抗議として、そんな題材へも及んだのであったろう。けれども文体や文学技法の上での不十分さから「婦女の鑑」は所謂有名な作品とはならなかった様子である。そして、表面開化しながら内実は封建性の暗さ重さに圧しつけられていた社会全般の生活は、木村曙によって文学に導き入れられたひろい社会的生産的題材というものを、つよく云えば数十年後の今日まで、婦人による文学の領域で発展させないままに来たのであった。

     二、「清風徐ろに吹来つて」
         (明治初期二)

 三宅花圃が昭和十四年の春ごろ婦人公論にのせた「思い出の人々」は、いろいろの意味から面白い自伝であった。花圃の幼年時代の生活が、倒壊してゆく幕府の運命の埃を、その肩に蒙るばかり近くあったせいか、同じぐらいの年配でも地方出身の人たちは使わない徳川「瓦解」とか「御一新」とかいう表現のうちに、江戸から東京への推移の感情を生々しくつたえている。その思い出のなかに、明治十九年の秋、中島歌子の「萩の舎」で催された九日の和歌の月並会での一情景が、語られている。
「出席して見ますと、みんなの前におすしを配っている、縮れ毛で少し猫背の見なれぬ女の人が居りました。私は江崎まき子さんと床の間の前に坐ってべちゃくちゃお喋りをしておりましたが、ちょうど私たちの前へ運ばれて来たお皿に、赤壁(せきへき)の賦(ふ)の『清風(せいふう)徐(おもむ)ろに吹来つて水波(すいは)起(おこ)らず』という一節が書いてございましたから、二人で声を出して読んで居りますと、若い女の人がそれに続けて『酒を挙げて客に属し、明日の詩を誦し窈窕(えうてう)の章を歌ふ』と口ずさんでいるではございませんか。
 私たちは、顔を見合わせて『なんだ、生意気な女』と思っておりましたが、その人が他ならぬ一葉さんで、会が終って、帰るときに、先生から『特別に目をかけてあげてほしい』とお引合せがございました。一葉さんは、女中ともつかず、内弟子ともつかず、働く人として弟子入りをなすった様子に見うけられました。」
 この数行をよめば、その時代の一葉の境遇が痛いように私たちの胸に迫って来る。
 当時、日本は明治初期の欧化に対する国粋主義の反動期に入っていて、上流の人たちの間には、一度すたれかかっていた和歌だの国文学の教養が再びやかましく云われはじめていた。中島歌子が経営していた萩の舎の歌塾は、佐佐木信綱の追憶などによってみても、当時は大した勢のものであったらしい。和歌の例会の日には、黒塗の抱え車が門前にずらりと並んで、筆頭には、その頃錦鶏の間祗候田辺太一の愛娘であった花圃をはじめ、名家名門の令嬢紳士たちが花の如く集って来た。森有礼の理想によって、女子の最高学府として設立された一つ橋の東京高等女学校のポスト・グラデュエート(専修科)に通っていた花圃は、そういう歌会の席でも、床の間の前に坐っていたというところに、おのずから置かれていた地位がうかがえる。それらのはなやいだ才媛たちがうち興じながら、何心なく誦した赤壁の賦に和した僅か十五歳の夏子の才走った姿も目に見えるようである。また、彼女のかくし切れない才が穂にあらわれたとりなしが若い貴婦人たちの感情へはいきなり「なんだ、生意気な女」と、つよく映ったというのも面白い。当時まだ「家来(けらい)」というものを日常身辺にもって暮していた上流の若い婦人たちが自分たちが坐っている前へおすしを運んで来るような身分の軽い少女に対して、風流の間にもはっきりと身分の差別を感じていたというのは、こわいように思える。
 一葉の二十五年の短い生涯を、貧窮が貫いたのは周知のとおりだけれども、この時分はまだ一葉の両親は在世であった。明治五年に、東京府庁の山下町の官舎で、樋口家の次女として生れた夏子は、六つで本郷小学校へ入学した。しかしそこはどういうわけかすぐ退学して、手習師匠のところへ通わされ、十四年に家が下谷に移ったのち、その冬から池の端の青海小学校に通学した。そこに通ったのも二年ばかりで、またやめて、翌十七年に、和田重雄という父の知人である歌人の門に入った。十三の少女は、
いづくにかしるしの糸はつけつらむ
      年々来鳴くつばくらめかな
という、生気のある愛くるしい歌をつくったりしている。そこに通ったのも僅か半年で、その後は家で専心裁縫の稽古や家の手伝をしなければならなかった。
 両親とも甲斐のひとで、母の瀧子というひとは稲葉家に仕えたことのある婦人であった。父の樋口則義は甲斐の大藤村の農家に生れたのだが、侍になりたい志を立てて江戸にのぼり、則義は菊池という旗本の家に入り、後は、八丁堀の与力浅井の株を買って幕臣になったという閲歴である。今井邦子の「樋口一葉」に、「則義氏は旗本菊池家に、母君は同じく稲葉家に仕えたが」とかかれているところをみれば、甲州のひとたちらしく辛棒のつよいこの夫妻は、夫婦ともどもに江戸に出て、江戸へ出た上は別れ別れに旗本だの士族だのの家に入って、侍になりたいという素志を貫徹したのであったらしい。
 そういう経歴の瀧子が、夏子の母であったということは、一葉の一生を通じての娘としての苦衷と思いあわせ、私たちの記憶に刻まれる一事である。
 明治初年に東京府のささやかな一官吏となった主人。やっと侍の妻になったかと思うと、もうその努力の結果は、歴史の怒濤に泡となって消え去ってゆくのを見送らなければならないような、かちきな母瀧子の生活感情には、開化の声が、快く希望を唆る響としてはきこえず、世相の浮き沈みとして反映したであろう。次女夏子を小学校にあげてみたり又すぐさげてしまったりする樋口家の家庭の空気には、二つ下の幼い女の児邦子をかかえた母の、安定のない気分が少なからず作用していたらしくも推察される。
 樋口の家庭の明け暮れは、鹿鳴館の賑いなど思いもそめない風俗であった。瀧子は、昔ながらに、女の子に永く学問なんかさせると、ゆくゆく為によくないという方針で、夏子を躾けようとしていたのであった。
 父則義は、侍になりたいと思った気持にしても、その底には好学の傾きも持っていた人らしくて、その点では必ずしも妻と同じように娘をみてはいなかった。どこか凡庸でない少女の眼差しや、心のうごきが察せられたとみえ、折にふれて和歌の集や物語本など買って与えたり、あれこれ歴史物語をきかしてやったりした。そして、到頭妻を納得させて、遠田澄庵という人の紹介で、当時閨秀歌人として、水戸の志士林の妻として女傑と称されていた中島歌子の萩の舎へ十五歳の夏子を入門させたのであった。
 これが夏子の生涯の転機であった。花圃の思い出にのこっている赤壁の賦の場面は、一葉がそのようにして萩の舎に入門していかほどもない時分の一つの情景であろう。「女中ともつかず、内弟子ともつかず、働く人として弟子入りをした」と同門の令嬢たちが夏子の身分をことこまかに区別して観察しているところを考えれば、弟子というのは、十分な月謝や食費や衣類調度をもって師匠の許におき臥しする令嬢を云い、夏子の父は娘のためにそれだけのことはしてやれなかったのだと思われる。特に当時盛名を馳せ、華やかに語られていた中島歌子の貴族的な塾へ娘を入れるように骨折ったりしたことには、父として娘の才能にかける仄かな期待とともに、母の胸中には、昔、自分が甲斐の田舎から江戸の稲葉家に上ったときの心持のつながりもあったかもしれない。
 一葉の父が亡くなったのは明治二十二年七月、一葉は十八の夏であった。その前年、官吏をやめた則義は友人たちと馬車会社を起したというのも当時らしく、またその会社が思うように行かないで、則義はそのごたつきの最中、亡くなったのもその人らしい時代の俤である。夏子の上には、兄が二人もいたのだが、彼女がやっと萩の舎に入門した翌年に長兄が病歿し、次兄はよそへ養子にやられていたので樋口家の相続の責任は自然夏子の肩にかかって来た。
 父の歿後、一家はしばらく養子に行った次兄の許に身をよせたが、円滑にゆかなくて、一葉は自分だけ中島のところで暮した。その翌る年十九の夏子が母瀧子と十七の妹邦子とをひきとって、本郷菊坂につつましい一戸をかまえ、母娘三人の生活がはじめられたのである。
 元来家産があったのでもない則義が亡くなった今、十九の夏子がいかに大人びていたにしろ、どんな方法で生計を立ててゆこうと計画したのだろう。一二年の間はどうやら女三人の生活は営まれたが、三年経った二十四年の秋には、初めて親戚の家へ三十円借金をしたことが日記に出ている。貧は次第にはっきり牙をあらわしはじめた。
 花圃の「思い出の人々」のなかに、
「ある日歌の会が終って帰ろうとしておりますと、一葉さんが下駄をはいて玄関のそとまで送って来られて『私は大望をおこして、小説をかいて見たいと思うがどうか』という御相談をうけました。私は『書きたければ勝手にお書きになればいいんじゃありませんか』とにべもない返事をいたしましたが」云々と、当時自分自身の身辺がとりこんでいておちおち相談にものれなかった有様が飾りなく語られている。
 花圃が「藪の鶯」をかいたのは明治二十一年のことであった。それからひきつづいて「八重桜」だの「こぞの罪」だのという短篇を発表していたし、木村曙、小金井喜美子、若松賤子、竹柏園女史その他、婦人のものを書く人たちが少くなかった。そういう周囲の空気から心を動かされたことも無くはなかったろうけれども、一葉が「大望をおこして」と花圃のあとを追ってまでうちあけた一ことのうちには、ただ自分に小説をかくような才能があるだろうか、というような意味ばかりではない、犇(ひし)と迫った生活問題も考えられていたのではないだろうか。今井邦子の「樋口一葉」には、花圃の思い出として「一時間くらいしなを作ってさんざんシネクネとした揚句帰る時に、あの、私、貴女様のお真似をしたいのでございますけれど、あの私のようなものがそんなお真似などをしたいなどと申上げるのはお恥しうございますわ」と云ってその日はそれでかえったということが語られている。これも同じ頃のことだろうか。こっちが前で、玄関の外までおくって出ての話は、心理的に見て、あとのことかもしれない。
 萩の舎門下の才媛たちの間で、「あゐよりあをし」と定評されていたのは花圃であり、その花圃と並んでその才幹を着目されているのが一葉であった。が、世渡りの道も十分以上に心得ていた中島歌子の萩の舎の女ばかりがつくりだす空気の裡では、一葉に対する気分にも、その才能に対する評価と同時の意地わるさ、彼女の境遇への不言不語の軽蔑があったとみられる。
「中島先生のところで、みんなから集めました筆代の二円がなくなりましたとき、一葉さんに疑いのかかったことがございました。『貧乏はつらい』と云って泣いておられましたから」花圃が覚えがないなら泣かなくともよい、下らぬことで泣くものではないと慰めるよりも叱ったことがあるということも語られている。身に覚えがないのならそんな下らないことに泣くに当らないと判断する花圃は、いかにも「藪の鶯」の作者らしい。そんな下らない疑などをかけられようもない立場の令嬢らしい口ぶりと、どこまでも常識にだけ立った合理性をしめしていて、この人らしい。けれども、一葉としては、泣かずにいられない皆のしうちがあっただろう。
 赤壁の賦のときの情景。そして、こういう涙をもこぼさなければならなかった周囲の空気。萩の舎門下の富貴な淑女たちから一葉が「ものつゝみの君」と呼ばれていたということも、そのような複雑な女同士の心理を背景としてみれば、肯ける。一葉が「一時間くらいしなをして」、小説のことに触れるような触れないような話しかたをしたぎりで、かえって行った時のことを、花圃は、単純率直でない一葉の人柄の一面として見ている。それも当っているだろう。が、私たちが今日遠くはなれた明治のその時代のその環境において、十九か二十だった一葉のそういうとりなしを思いやると、そこには、花圃に泣くなんて下らないと云われても、おのずとせくりあげて来た一葉の涙があったのと同じ心理の翳を感ぜずにはいられない。
 たとえば、花圃に向ってしねくねとしながらの言葉づかいにしろ、同門の先輩への敬意というばかりで、ああいう口調になったのだろうか。「藪の鶯」のなかで、逍遙が最も傑出した部分として賞めている女学生たちの会話を見ると、当時でも開化の教育をうけた上流の令嬢たちはお互同士「アラ、よくってヨ。あんまりこもっているから、炭素を追出してやるんだワ。あんな口のへらないこと。」などという調子で喋りあっている。花圃の方ではお夏ちゃんと呼んでも、そのひとの屋敷のうちに田圃まであるような家を訪ねれば、一葉は、卑屈さからではなしに、私も小説をかきたいわ、とはあっさり云えない雰囲気のちがいを、敏感な心に感ぜずにはいられなかったのだろう。これは、時代のふるさ、一葉のふるさとばかりは云い切れないと思う。二人の若い女性は、とことんのところで全く別な二つの世界に住んでいたのだから。支配階級に属す人々の女選手としての花圃。名もない庶民生活に偶然芽生えた才能としての一葉。二人の間に共通な人生はありようなかった。
 二十四年の一月に「かれ尾花」というごく短い小説をかき、その四月には、題のつかないままのこされた習作一篇をかいた。その年の「森のした草」という随筆に「小説のことに従事し始めて一年にも近くなりぬ」と云われているから、一葉はその前の年ごろから、積極的にはげましてくれる友達もない中で、到頭小説をかく決心をしたものと思われる。「いまだよに出したるものもなく、我が心ゆくものもなし、親はらからなどの、なれは決断の心うとく、跡のみかへり見ればぞかく月日斗(ばかり)重ぬるなれ。名人上手と呼ばるゝ人も初作より世にもてはやさるゝべきにはあるまじ。批難せられてこそ、そのあたひも定まるなれなど、くれ/″\もせめらる」と述懐している。
 一葉が中島の塾を手つだって貰う月二円のほかに、賃仕事や下駄の蝉表の内職をして生計の助けとしている母の瀧子や邦子は、一葉の文作をたよって、早くものにしようとしないのを一葉の引こみ思案だとせめたてたのだろうけれど、一葉の心とすれば、「衣食のためになすといへども、雨露しのぐ為の業といへど、拙なるもの誰が目に拙しとみゆらん」とかえりみるだけの鑑識はおのずからあった。
 生活の必要におされて小説をかく覚悟はしたものの、十九の一葉にはまだ小説をかいてゆく創作上の方向、態度などが一向つかめなかったのも無理ないことであった。「かれ尾花」は、小説というよりは一篇の作文であった。題のない習作の方は、会話などもさし入れての試みであるが、これも小説には未(いまだ)しというものである。
 二十四年の四月十一日、萩の舎の人たちが向島へ花見に行った日からつけはじめられて、二十九年七月二十二日、生涯の終る四ヵ月前まで六年間つづいた日記は、一葉にとって初めは小説をかく勉強のつもりだった。「かれ尾花」と同じような流麗ではあるが型にはまった和文脈の文章でかかれている。
 萩の舎へ行かないときは、上野の図書館へ調べものに行ったり、夜はたのまれた仕立物にせいを出したり、そういう朝夕も、小説のことが念頭からはなれない一葉にとって決しておだやかに送り迎えられる一日一日ではなかったろう。
 二十四年の四月十五日に、友達の野々宮菊子の紹介で、初めて半井桃水に会うことになった。半井の妹を菊子が知っているというほどの縁故で、一葉は桃水に自分の小説を見てもらうことになったのであった。
 桃水は当時、朝日新聞に小説を連載していて、小説担当の記者の一人であったらしい。今でいう大衆小説をかいていたのだが、その時代の作家たちのなかで、果してどれほどの文学的存在であったのだろう。
 和歌と小説とは、文学のなかでもおのずから別の分野であるとは云え、明治二十四年というときは、紅葉と露伴、逍遙と鴎外が其々対立して盛に文学の本質論をたたかわせた年であり、『早稲田文学』『しがらみ草紙』などが、新しい日本のロマンチシズム文学の成長の舞台であった。萩の舎のまわりには、一葉の小説勉強のために、師として適当な人選をしてやるだけの親切な人がなかったばかりでなく、萩の舎塾という存在そのものが、当時の若々しく激しいヨーロッパ文学の影響をうけた日本の小説界の動きに対して、全く圏外にある上流紳士、令嬢たちの嗜み余技の中心として安住していたことが察せられる。
 初対面の桃水の印象を一葉は日記にこまかく熱っぽくかきつけている。
「君はとしの頃三十年(みそぢ)にやおはすらん。姿形など取立ててしるし置かんもいと無礼(なめ)なれど、我が思ふ所のままをかくになん。色いと白う、面おだやかに少し笑み給へるさま、誠に三歳の童子もなつくべくこそ覚ゆれ。丈(たけ)は世の人にすぐれて高く、肉豊かにこゑ給へばまことに見上るやうになん。」
 桃水はこの次はこういう小説をかいて御覧なさいというような話しをしたり、一葉の生活の楽でないことから桃水自身の「貧困の来歴など残るくまなくつげ」たりして、その上に、お互に若い男女のつき合いと思えば面倒くさい、お互に「親友同輩の青年と見なしてよろづ談合をも」するからなどと云っている。
 次第に桃水にひかれて行くようになった一葉の心持を、其々の研究家たちが其々に評している。あれほど見識のあった一葉が、どうして半井ぐらいの男性に魅せられただろうか、という疑問を、ひとしく提出している。一葉は顔ごのみで、桃水はともかく美男だった、という点から観察するひともある。その時分かいたものの中にある描写から察しても、なるほど一葉の心におかれていた美しい男の風貌の標準は、ごくありふれた内容で、つまり彼女のかく美文めいた趣味であったことは推察される。けれども、一週間ほどして二度目にあったときの日記に、
「うしは先の日まみえまゐらせたるより今日は又親しさまさりて世に有難き人かなとぞ思ひ寄りぬ」とかきしるした動機には、桃水の容貌ばかりでなく、一葉の若い心情をつよくとらえたものがあったと考えられる。
 二年ごしひとりで苦しみながらあてもなく焦立っていた自分の小説について、桃水が新聞向きの作風ではないからと一葉の気質を鑑定した上、紅葉に紹介しようと云ってくれたことも、それこそが眼目で紹介されて来ている一葉にとって前途のひらけてゆくうれしさであったろう。母と妹とが、生活の上では彼女ひとりにとりすがって、息をこらし気配をうかがっているような負担を夜昼感じている一葉にとって、青年同士と思って語り合おうと云ってくれる男のひとのいることは、どんなにか頼もしく感じられただろう。
 だが、もし半井桃水という男が、同じ親切を示しながらも、金持ちの子息であって、同じように小説をかいていたとしても、万端整然たる上流貴公子の生活をしていたのであったら、一葉の感情はどう動いて行っただろう。借金とりをさけて、かくれ家にとりちらしたままの男世帯の有様を見せるような桃水のくらしでなかったら、一葉は、師たり兄たりと思う意識の底に、果してあのようなさざなみ立った情緒を経験しただろうか。
 日頃から一葉の生活では、自身の環境として身についている庶民風なものと、萩の舎門下としての貴族的なものとが、とけ合うことなく相剋しつづけて来ている。教養そのものの中にさえ、「士族の娘」という意識に立って、彼女を窮屈にしている幾多の古い力が与えられて来ているけれども、一人になった生活感情をさぐってみれば、なかなか逞しく不屈に生きる力ももっている。「我一生は破れに破れて道端に伏す乞食かたゐのそれこそ終生の願ひなりけり」という表現は文学的に気負った感懐で、現実の一葉は、下駄の緒のきれたときの用心にと、いつも小ぎれをもっているという、まめまめしい甲斐性のある気だてであった。一葉という号をきめたとき、花圃が大変いい名じゃありませんか、それは桐の一葉ですかと云うと、そうじゃない葦の一葉ですよ、達磨さんの葦の一葉よ、おあしがないからと小さい声で、これは内緒よと笑うという位の闊達な気持ももっている。
 母や妹は平凡な安穏に恋着して朝夕いらだっているのに、そういう浮世の苦労にかかわりなく何ぞというと振袖を着て集る萩の舎の空気の間で、気性の激しい一葉は、気持のどこかにいつもさばさばしない何かをもたされつづけていたことは推察される。桃水のことは友達たちに相当話したらしく、誰かがそれを注意したら、わるくも噂はしてみたいトントンと都々逸で答えてにげたという庶民らしい面目も、一葉の気持の流動のタイプとして見られる一つの活々とした面白さである。
 桃水のかくれ家に案内され、長火鉢一つを挾んでの種々の物語。小説「雪の日」よりもっと生彩にあふれた筆で日記に描かれている「雪の日」の情景。そんな住居で、男とさしむかいの半日が、当時のちゃんとした娘としていつもふれられる場面ではなかったからロマンティックな魅力を感じさせたというばかりでなく、一葉をひきつけたもののなかには、そこにありのままの生活がむき出しに示されている工合、とりつくろって冷然とした品よさなどはどこにもなく、女暮しのわが家の日々の充ちている煩わしい体裁などもすてられている趣が、魅力の大きい一部をなしていたと思われる。
 そういう生活的な共感として、自然にひかれてゆきながら、桃水との噂がたかまり中島歌子からも云われて、桃水と絶交しなければならなくなったとき、一葉は自分の心の底まで我から見つくそうとは試みなかった。普通の娘、その時分の女のようにそういう濡衣を、「浅ましとも浅まし」「我はじめより彼の人に心許したることもなく、はた恋し床しなどと思ひつることかけてもなかりき」と、師匠の指図どおりに、桃水との交際を断つための行動をしている。
「我李下の冠のいましめを思はず、瓜田に沓をいれたればこそ」「道のさまたげいと多からんに心せでは叶はぬ事よと思ひ定むる時ぞ、かしこう心定りて口惜(くちを)しき事なく、悲しきことなく、くやむことなく恋しきことなく、只本善(ほんぜん)の善にかへりて、一意に大切なるは親兄弟さては家の為なり。これにつけても我身のなほざりになし難きよ」と、あわれに封建世俗に行いすました心がけに納まろうとしている。明治二十五年という日本の時代がもっていた旧さや矛盾と、一葉自身のうちにあった所謂模範生型の怜悧さがここに発露しているのである。
 桃水が金と女にだらしないと悪評を蒙っていたことは事実であったらしい。けれども、一葉に対しては、ある程度の雰囲気をかもしながら、それ以上のことはなく、一葉が愈々(いよいよ)最後の訪問をしたときなどにも、一葉に結婚をすすめている。「今のうき名しばしきゆるとも」二人が生涯一人でいたりすれば「口清うこそ云へ何とも知れた物ならず」と云われるだろう。「お前様嫁入りし給ひてのち、我一人にてあらんとも、哀れ不びんや、女はちかひをも破りたらめど男は操を守りて生涯かくてあるよなどはよもいふ人も候はじとてはゝと打笑ふ」これらの言葉や俤も一葉の心に忘れがたいものとして残されたろう。
 桃水と交際を絶ってから、はじめて一葉が自分の心持を恋と知って、悩み、育ってゆく過程を、今井邦子はその人らしい抒情で「樋口一葉」のうちに辿っている。それと反対に、平塚らいてうが、大正二年出版の『円窓より』の中で「彼女の生涯は女の理想(彼女自身の認めた)のため、親兄弟のために自己を殺したもの。彼女の生涯は否定の価値である」と云っているのもその時代のその人らしく面白い。今日の第三者の心でみれば、桃水と一葉とのいきさつが心理の微妙な雰囲気でとどめられたものであったからこそ、断たれてのち猶その気持に一葉が深くもたれかかって行ったこともわかる。世間の口さがない批評を蒙る現実の対象が抹殺されてから、却って自分ひとりの心の動きに安心して、勝気で悧溌な一葉が綿々とつきぬ思いを対象のそとへまでも溢れさせて、恋の歌や日記の述懐に表現し、情感に身をうちかけているところも、あわれである。又、いかにも小説でもかこうという若い女性の心情の粘りづよさがあらわれてもいる。
 小説のことで紹介された桃水との一年ばかりの交際は、このようにして一葉の女としての生涯の心理に計らぬ局面をうちひらいたのであったが、小説の方でも、桃水の紹介で、明治二十五年三月「闇桜」がはじめて『武蔵野』という同人雑誌にのった。つづいて四月に「たま襷」七月「五月雨」を同じ雑誌に発表している。「闇桜」「たま襷」「五月雨」などは一生懸命にかかれてはいるが、和文脈の文章に格別の力もないし、物語の筋も当時の所謂小説らしい趣向の域を出ていない。
 一作二作と活字にはなっても反響がないので、一葉は深い不安と失望とで、自分にもし才能がないならば「今から心をあらためて身に応ずべきことを目論みたい」と「闇桜」をかいたとき桃水に相談したりした。どうしてそんなことを、とむしろおどろいて励ますが、一葉は依然として動揺した心持である。「女の身のかゝる事に従事せんはいとあしき事なるを、さりとも家の為なればせんなし。」
 そして何か思うところがあったらしく、俄に妹邦子について蝉表の内職につとめたりした。花圃の世話で『都の花』に「うもれ木」がのったのは、その二十五年の十一月。その原稿料は十一円七十五銭、一枚が二十五銭であった。それがきっかけとなって十二月に「暁月夜」をのせ、その稿料が入ったので、のどかな年越しをしたとかかれている。それを金額にすれば十一円四十銭也であった。
 萩の舎門下の二才媛とうたわれた一人の花圃は二十五年の秋に三宅雪嶺と結婚した。「近日鬼界ヶ島へわたるから」と花圃は諧謔的に云っているけれど、桃水との交際も断った一葉の当時の心持は単純ではなかったろう。その夏に、旧父の在世の頃一葉の聟にという話があって、殆どまとまっていたのを父の歿後利害関係のいきさつでその話はこわれていた渋谷某という男が、一葉を訪ねて来たことがあった。とりたててどうというところもない青年だったのが、今は検事試験に及第して正八位、月俸五十円。二十円が百円以上のねうちのあったその頃は、金時計など胸にかけ、もう一度昔の話のよりを戻したげな親しみをみせた。小説出版の費用を出してよいとも云う。しかし一葉の心の中には、その男が憎いのでもないし、我慢の意地をはるというでもなくて、「今にして此人に靡きしたがはん事なさじ」と思う感情がある。母と妹への責任さえ果してしまえば、我を「養ふ人なければ路頭にも伏さん、千家一鉢の食にとつかん。世の中のあだなる富貴栄誉うれはしく捨てゝ小町の末我やりてみたく」と思う一筋のものが在る。
 二十六年には、明治の日本文学の流れのなかに極めて生新な芸術的雰囲気をもたらした『文学界』のロマンティシズム運動がおこった。同人は星野天知、北村透谷、島崎藤村、平田禿木、戸川秋骨、馬場孤蝶、上田柳村などで、十九世紀イギリスのロマンティシズム文学、ドイツのロマン派の文学の影響をつたえたものであった。同じ『文学界』の同人たちの間でも、透谷のように主としてバイロンやシェリイにひかれて行ったひとと、藤村、禿木、柳村などのようにキーツ、ダンテ、ロセッティ、ウォールタ・ペイタアなどにより多く影響された人々など、資質的な相異はあったが、前時代の文学の影をひいて戯作気質のつきまとっている硯友社の境地にあきたらず、只管(ひたすら)純真な美への傾倒に立って励んで行こうとする若々しい一団であった。
 一葉はこの『文学界』にたのまれて「雪の日」「琴の音」などをのせている。「琴の音」のテーマとなっている芸術至上の情熱は、一葉の芸術観の骨格というべきものであったが、同時にそれは、年齢も一葉と余りちがわない『文学界』の青年たちの情熱でもあった。
 なかでも禿木は一番早く編輯事務のことから一葉のところへ出入りするようになったが、繊細な禿木の情調や人となりは、生活的にずっと深く刻まれている一葉にとって、たのもしい友として感じられるには到らなかったらしい。禿木によって、文学的には硯友社亜流の桃水などより、遙に新しく濁りない空気をもたらされたのであろうが、そのデリケートな脆弱さが、却ってそれとはなしの殺し文句をいうことも知っている桃水の成熟を偲ばせるせいか、一葉の思い出の上に深まる恋の苦しさは、この二十六年が絶頂の如くあった。「名に求めず隠れたる秀才を同好の間に紹介し」ようというのが眼目の『文学界』に一つ二つの短篇を発表したとて、愈々苦しい家計が何となろう。母の着物も売りつくした。「友といへど心に隔てある貴婦人の陪従して、をかしからぬに笑ひおもしろからねど喜ばねばならぬ」萩の舎の日常は、益々一葉にとっていとわしいものとなった。これまでのいきさつから云えば、一葉が塾のあとをつぐ筈の中島歌子の性格や生活にも、おのずとひらけた一葉の目にあまるところもあるようになった。母の瀧子が歎きに歎いて「汝が志弱くたてたる心なきから、かく成り行きぬと責め給ふ」と日記の文章でよめば、みやびいているようだけれども、二十一歳の一葉の胸へじかにこたえた言葉できけば、お前がほんとに意久地なしで、ハキハキしないから、親子三人この始末じゃないか、という次第である。
 心も物もせっぱつまりきった七月になって一葉は遂に一つの決心をかためた。それは、これまでのように小説でたべてゆこうという考えをすっぱりとすてて、心機一転、糊口のために商売をはじめることにきめたのである。
 その前後、小説の註文が全くなかったというのではなくて二十六年の二月には金港堂(『都の花』出版書肆)から「歌よむ人の優美なることを出し給へ」と註文され、同じく四月には歌入りの小説というものを請われている。本屋のそういう註文ぶりを一葉はいやがって「いと苦しけれ」と云っている。『都の花』には前の年に書いた「暁月夜」をのせただけであった。

次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:358 KB

担当:undef