『暦』とその作者
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著者名:宮本百合子 

 壺井栄さんの「大根の葉」という小説が書きあげられたのは昭和十三年の九月で、それが『文芸』に発表されたのは十四年の早春のことであったと思う。それから後に書いた「暦」と他の短篇とを合わせて『暦』という短篇集が出たのは去年の三月である。
「大根の葉」を発表してから壺井さんが一人の婦人作家として持っている特色はすぐ一般に理解され、親愛のこころをもって迎えられて今日に至っている。今度新潮賞をうけることになったことや、それにつれてまた新しく『暦』の書評が書かれたりすることについて、壺井さんはどんな感想をもつだろうか。少し極りのわるい顔つきになって、何だか妙ねえ、というだろう。そして、心の中で、貰う賞金をいろんな子供や大人や友人たちのためによろこびとなるような使いかたを考えるだろう。
 壺井さんのそういう人柄は『暦』一巻のあらゆる作品の中に溢れていて、どんな読者もその人柄に感じる平明な温い積極な親しさについては既に一つの定評をなしている。
 けれども、壺井さんについていわれるその人柄のよさというもの、虚飾なさ、健全さというものも『暦』一冊を丁寧に読めば、決して単純な生れつきばかりでああなのではないということが考えられると思う。相当な年で円熟しているというばかりでもない。この作家の持ち前のなだらかに弾力ある生活の力は、少女時代から結婚生活十七年の今日までの間に、社会の歴史の推移について妻の境涯もなかなかの波瀾を経て来ていて、しかも、それぞれの時期を本気で精一杯に生きて来ている。十六の少女として父さんと浜で重い材木を動かす手伝いをして働いた時から、ずっと勤労の生活が経験されていて、その経験は、天性の気質に、一つの現実的な厚いゆたかで強靭な裏づけを与えることとなっている。
 作者がある意味で話し上手で、楽な印象を与えるから、壺井さんの作品をよむと成程自分もこんな風にすらすら話して行けばいいのだと思えるかもしれないけれど、強(あなが)ち誰にでもああ書けるものではない。模倣されそうで案外それはむずかしい。壺井さんは十年も前から折々小説を書いて来ていて、自分のあの物語りかたを見出しているのである。
 作家として自身の特色に対して、壺井さんは、現在の行きかたで行こうと思っているであろうけれど、文学のひろい意味でそこに一つの限界があることや、自分の文学よりももっと複雑な健全さがあり得ること、またなくてはならないのにそれが表現されていない今日の現実の事情に対して、はっきり知ってもいる。壺井さんが自分の独特さの半面でそのことも理解しているというところにこそ、この作家の真の健全さが作品の世界に息づいているのであると思う。〔一九四一年二月〕



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