作品のテーマと人生のテーマ
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著者名:宮本百合子 

『中央公論』の十月号に、荒木巍氏の「新しき塩」という小説がある。中学校の教師を勤めているうちに自身の少年時代の生活経験から左翼の活動に共感し、そのために職を失った魚住敬之助という男が、北海道まで行って、不良少年感化院の教師となって暮している。左翼の力が退潮した後、思想上の混乱から彼は死のうとして失敗し、やがて「感化教育の中に一生を投じ、自分の思想、信念を生かそうとして」いる現状である。妻の胤子が、女にあり勝の外部からの刺激に動かされ易い性質から左翼の活動に入ったが、その高揚期がすぎると失望し、生活の目当を失い、辛うじて良人と共に、感化事業に献身しようとする。しかし、事業の困難さは、耐久力のない胤子を再び失望させたのみか、北海道へ来たことも、良人の生活態度にも、すべてに気をくさらし、同じ感化院の教務主任守屋と不健全な関係に陥る。作者は、この間の消息を精神的によりどころを失った胤子が生活気分のよりどころを男のあらあらしい肉体に求めた結果として説明しているのである。ところで、魚住は妻の不貞に苦しみながら、一方では不良少年らの統御するにむずかしい性格によって引きおこされる事件、脱走だの集団的反抗だのととり組み、更に他の一方では、守屋が不貞をされている良人としての軽蔑をも示しつつ彼の教師という地位を危うくしようとする悪計と闘っている。魚住もある時期この錯雑した事情にまけて、受動的な頬杖をついたような気分で暮すが、日頃目をかけていた黒須千太郎をこめる集団脱走事件がおこり、折からの大雪で凍死するにきまっている千太郎を救おうという情熱によって振い立ち、情熱をもって一事を敢行しようとする人間の精神的高揚をよろこぶ感情の表現で、一篇の小説を終っているのである。
 小説としてのできばえからいえば、この作品は作者自身にとっても自信ある作とはいえないであろう。胤子の感情の必然性も十分描かれていないし、全体が説明的で、それもいきいきと納得ゆくように一人の人間の内的推移の跡を示しているとはいえないのである。
 作者の意企は、魚住を中心として、感化院の教師間の生活葛藤を描くところにあったことは明瞭なのであるが、少くとも黒須千太郎と魚住との人間的交渉がもう一歩ふみ込んで書かれていたら、最後の魚住の情熱的な雪中突進の動機も、読者の心にもっと真実性をともなって同感をよびさまし得たであろう。
 私はこの小説の作者が、感化院の園児の脱走という、最も特徴的な、心理的な生活の面を、もっと慎重に突き入って注目しなかったことを残念に思うのである。
 感化院の生活を強いられている少年が、そこにいたたまらず脱走しようとする。そして、やっと逃げ出すとすぐ警察でつかまる。すぐ、事務的にもとの感化院へ送りかえされる。そこで待っているのは、きびしい懲罰であろう。「新しき塩」の中に語られているように、全員に対してお八つぬきが行われ、その憤懣が、はけどころを求めて、脱走した少年を半殺しにするようなこともあるかも知れぬ。しかも、少年らは、逃げる、逃げようと欲している。感化され、馴致されることに、常に反撥している。その心持はどこから来るのであろうか。
 私は、自分が、狭い、臭い格子のうちで五ヵ月、半年と暮した間に、何人かそのような、言葉をかけてその心持をきいて見たい少年らの姿を見たのである。

 そもそも、現在の感化院というのは、いかなる人間的生活を目標において、不幸な、性格の弱い、均衡の失われた少年らを、感化してゆこうというのであろうか。答えは、比較的簡単に、かつ明瞭に、出されているのであろうと思う。人格のある、勤労をこのむ市民に養い育てるのが当院の目的であると。この答えに対して、少年らの胸中には、おのずから別な訴えと自棄とが活きて、羽ばたいて、彼らを、脱走へそそり立てるのではないだろうか。それなら、この社会では、誰でもみんな勤労しているのか? 働けば働いただけきっと幸福になっている世の中だとでもいうのか? 加えて、少年らの心の中には、いったん不良児として銘をうたれ、すべての行動のかげに、いつも何をしても、いわゆるよくない動機だけをさぐり出されなければならないことに対して、我とわが身を破るような人間性の苦しみと悲しみと、訴えるにはくちおしい大人の世界への反抗が燃えているのであろう。
 感化院では、よくなったと認められる少年たちを小僧や徒弟に出し、この世で一本立ちになる修業をさせるのであるが、小僧、徒弟の日暮しは、現在の日本では、まだまだ封建的な伝習の中につながれている。その見とおしに向って、一定の希望をつなぎ、常識に順応し、自身をよくしてゆくこと、ひとに使われるもの、命令をされるもの、夜昼よく働いて主人の昼寝を安らかならしめるために、よい者としての自分の前途を明るく眺めることは、はたして彼ら少年にとってたやすいことであろうか。

 最近ソヴェトの若い労働者の作家、アヴデンコというひとが書いた小説「私は愛す」が翻訳されて、ナウカ社から発行された。
 これも小説の技術からいえば、さまざま批評の余地がある、完成した様式をもっているとはいえない作品なのであるが、その中には、この「新しき塩」に描かれているものとは全く対蹠的な社会的事情――感化院の教師と少年らの関係の内容の緊密さ、愛情、教化の方法すべてを貫いて温く流れている社会人としての共同感情が、単純にそれゆえ一層感動的に描かれているのである。
 主人公となっている労働者の息子サーニが、優秀な機関手となり、コムソモールとなる迄の生活は、浮浪児の一人として波瀾重畳であり、社会的な犯罪にさえも近づいた時期があった。国内戦時代のことで、そのような悪童的な放浪の道はたまたま赤軍の装甲列車にぶつかり、そこで汽鑵(かま)たき助手などやることがあったりした。そのサーニが、臓品分配のことから刃傷沙汰を起し、半殺しの目にあってシベリアの雪の中に倒れていたところを、その地元の「嘗て浮浪児たりし人々のコンムーナ」すなわち少年労働訓練所に救護された。サーニが到頭、自身を卓抜な青年労働者にたたき上げる迄の過程に描かれているその「白い大理石の家」の内での生活は、特に老パルチザンである指導者アントーヌィッチの洞察と生活の意義に対する目標の確固不抜性、人生に対する愛と評価との態度は作者の心に湧いている生きることのよろこびとともに鳴って描かれている。後篇の前半を占めるこの部分は地球の到るところで、分散させられながらよりよく生きようとして力をつくしているすべての人間の目に、希望とよろこびの涙を浮ばしめるのである。
 観察力のすぐれた読者は、そして皮肉が人生に何事かを決すると思い違いをしている種類の人は、あるいはいうであろう。「新しき塩」が描かれている社会的背景、条件はソヴェトとは全く違う。不良児と浮浪児とはある点で違ったものであるし、まして、ソヴェトの浮浪児、サーニのようなのは、国内戦によって引おこされた一時の社会的な混乱が生んだ、家を失い保護者を失ったために、社会生活の秩序を知らない子供である。社会の秩序を知り得る場所で性格の破綻からそれをあえて破ろうとするアナーキー的本質のものではない。サーニは、ああなるのは当然だ、何故なら、土台社会人としての可能を持って生れているのだから。黒須千太郎や平尾を筆頭とするその教師らのように、社会の排泄物的存在ではないのだから。二つを、並べて問題にするのは幼稚である、と。
 私は、二つのタイプがそれぞれに異ったものであるということに反対しようとはしない。同じ浮浪児・指導者にさえ歴史的な二つの段階が示されているからこそ、ここで私どもの関心の的となり得るのである。この二つの世界の一方から、サーニの経験した社会的な内容へうつる歴史の橋が、今の生活の刻々のうちに異常な困難と堅忍を通じながら架せられつつある。私どもはその架橋工事に参加する世代としての権利をもっているのである。浮浪児の社会人的教化は決して、感化院の中からの努力だけでは成就されない。それらを包蔵する社会の全面的、根本的前進があってはじめて可能であり、やがて同じ浮浪児でもその発生の社会的原因が崩壊と貧困化と廃頽のみであったものからより強く社会の発展的要素の反面を反映するものとなってゆくところに、非常な面白さがあるのである。文学というものを活かすのが題材ばかりでなく、テーマであるという、その根本をなす人生のテーマがここにこそかくされているのである。〔一九三六年九月〕



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