漱石の「行人」について
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著者名:宮本百合子 

「吾輩は猫である」が明治三十八年に書かれてから、「明暗」が未完成のままのこされた大正五年まで、十二年ほどの間に漱石の文学的活動は横溢した。円熟した内面生活の全幅がこの期間に披瀝されたと思う。同時に、作品のどれもが、人生と芸術とに向う態度、テーマなどの点で一定の成熟の段階にとどまっていて、局面の変化としてあらわれる扱いかたの多様さや突っこみかたがそれぞれの相貌を示しつつ本質の飛躍はなかったということも、今日の私たちには興味ふかく考えられる。「明暗」は十二年間のあらゆる意味でのどんづまりであったと感じられる。四十歳を越して作家生活に入った漱石の豊富さと限界とは極めて複雑微妙な矛盾をも包含して輝きわたったのだと思う。
「行人」は、近代における自我の問題として人間交渉の姿に敏感・執拗・潔癖であったこの作家の苦悩に真正面からとり組んだ作品であるばかりでなく、両性の相剋の苦しみの面をも絶頂的に扱われた小説と思える。この作品が、漱石の作家としての生涯の特に孤立感の痛切であった時代のものであるという小宮豊隆氏の解説も肯ける。漱石は一郎という不幸な主人公を自分が鋭敏なだけに、自分のこうと思った針金のように際どい線の上を渡って生活の歩みを進めてゆく人間として提出した。自分がそうである代り、相手も同じ際どい針金の上を、踏み外さずに進んで来てくれなければ我慢しない人間。同じ甲にしても甲のその形、その色合いが、ぴたりと思う壺に嵌らなければ承知出来ない人。そしてそれは一郎の我儘というよりは、美的にも智的にも倫理的にも彼が到達しているところまで来ていない社会に対する嫌厭として、彼の身魂を削り、はたの者の常識に不安を与える結果となっている。漱石はこの小説で自己というものを苛酷な三面鏡のうちに照り出そうとした。一郎、二郎、Hさん。漱石の内部には一郎が厳然と日常生活の端ッこまで眼を閃かせ感覚を研いで君臨していたとともに、二郎の面も性格の現実としてはっきり在ったと思える。一郎は或る瞬間には二郎をおっちょこちょいとして罵倒する。そのような一郎の姿、二郎の在りよう、それを客観的に観察し、解明するHさんは、猫に先生である自分を観察させた作家漱石の自己への客観的態度の又の表現であろう。これだけ手のこんだ構成のなかで、漱石は偽りでかためられている家庭として自分の家庭を感じ、妻直の掴み得ないスピリットを掴もうとして憔悴する一郎の悲劇を追究しているのである。
 兄の妻とならなかった頃からの直を二郎が知っているという偶然が、一郎の苦悶を一層色どって、「二郎、何故肝心な夫の名を世間が忘れてパオロとフランチェスカだけ覚えているのか。その訳を知ってるか」とも口走らせる。
 二郎がその問いを不快に感じる心、あなたが善良な夫になれば、嫂さんだって善良な妻ですよ、という態度にも一郎は弟のその常識性の故に激しく反撥する。直という女は、何処からどう押しても押しようのない女、丸で暖簾(のれん)のように抵抗(たわい)ないかと思うと、突然変なところへ強い力を見せる性格として描かれている。おとなしいともうけとれるし、冷淡ともうけとれる。そういう日常の姿態の女として描かれている。妻とのせっぱつまった苦しい感情、父、弟からの人間として遠い感情、この一郎の暗澹とした前途をHさんは「一撃に所知を亡(うしな)う」香厳の精神転換、或は脱皮をうらやむ一郎の心理に一筋の光明を托して、一篇の終りとしているのである。
 漱石の女性観は、いわば「吾輩は猫である」の中にはっきり方向を示していると思う。オタンチン・パレオロガスというユーモラスな表現が女の知性の暗さに与えられているばかりか、ミュッセの詩の引用にしろ、タマス・ナッシの論文朗読の場面にしろ、女は厄介なもの、度しがたきものと観る漱石の心持は、まざまざと反映している。「猫」のなかではそれでも一抹の諧謔的笑いが響いているが、「三四郎」の美禰子と三四郎との感情交錯を経て「道草」の健三とその妻との内的いきさつに進むと、漱石の態度は女は度し難いと男の知的優越に立って揶揄しているどころではなくなって来ている。「行人」の一郎が妻の心の本体をわがものとして知りたいと焦慮する苦しみは、見栄も外聞も失った恐ろしい感情の真摯さで現われていると思う。「女は腕力に訴える男より遙に残酷なものだよ」「どんな人の所へ行こうと、嫁に行けば、女は夫のために邪(よこしま)になるのだ」という一郎の言葉に、作者は何と悲痛な実感を漲らしているだろう。
 漱石の両性相剋の悲劇の核は、一貫して女の救いがたい非条理性と男にとって堪えがたい欺瞞性とにおかれている。「行人」の直は、「明暗」のお敏のように自覚して夫を欺瞞しつつ、その恥に無感覚なような性の女ではない。しかしながら、一郎にとっては二郎がその人当りのいい俗っぽさで自己の本心をつきつめようとしないのが憤ろしいと同じ程度に、直が妻として自分の本心の在りようを夫との間につきとめる必要を感じていないのが絶えざる苦しみの泉である。作者として一郎のこの不満に万腔の支持を与えている漱石は、翻って直の涙の奥底をどこまで凝っと見守ってやっているだろう。直は、家庭のこまこました場合、淋しい靨(えくぼ)をよせて私はどうでも構いませんというひとである。「妾(わたし)のような魂の抜殼はさぞ兄さんにはお気に入らないでしょう。然し私は是で満足です、是で沢山です。兄さんについて今迄何か不足を誰にも云ったことはない積りです」そういう直である。夫に対してもうすこし積極的にしたらどうですと云われて「積極的って何うするの」と訊く直は、果して何一つ燃えるものを内にもっていない女として生れて来ているのだろうか。魂の抜け殼が「大水に攫われるとか、雷火に打たれるとか、猛烈で一息な死に方がしたいんですもの」と云ったりするであろうか。
 和歌の浦の暴風のなかでそのような言葉を嫂からきいて、二郎は、自分がこの時始めて女というものをまだ研究していないことを知ったと感じ、彼女から翻弄されつつあるような心持がしながら、それを不愉快に感じない自分を自覚している。二郎の人間心理の洞察はここに止るのだが、作家としての漱石の追求も、直のこの女としての機微にふれた心理の抑揚に対して、そこで終っているのは、興味深くもあり遺憾でもある。
 夫(おっと)のために邪(よこしま)になり、女が欺瞞にみちたものとなると見るならば、漱石はどうして直の心理のこの明暗を追って行かなかっただろう。二郎に向ったときの直の自然な感情の流露を、「行人」の中でただ夫でない男への自覚されない自然性、夫への欺瞞の裏がえったものとして扱われているようなところが、今日から見られればやはり漱石のリアリズムの一限界であると思う。
 女を夫が邪にするのであるか、それとも、夫と妻との成り立ちとその生活に世俗のしきたりが求めている何かによって、妻が邪になり、いつしか弱者の人間的堕落の象徴として欺瞞を身につけるのであるか。日本の社会の現実のなかでは、特別この点が両性相剋をもたらす因子として大きい役割を演じていることは疑えない。男女相剋の図どりも、日本ではストリンドベリーのそれとは全く異った地盤の上に発生している筈ではないのだろうか。
 そこから云えば、一郎がたとえ「一撃に所知を亡う」ことに主観の上で成功したとしても、作者が彼とともに掴もうとする人間本心の課題としての相剋は、客観的には未解決のままにおかれざるを得ない。
「行人」の中で一郎が道徳に加担するものは一時の勝利者であり、自然に立つものは永遠の優者であるということを男女のいきさつについて云っている。漱石の作品のなかでは、偽りを未だ知らない若い女の可憐さが才走った女たちと対比的に描かれているが、人妻となっている女が、周囲と自分の偽りを捨てて本心に生きたときは「それから」の代助に対する三千代の切迫した姿となり、「門」の宗助により添う、お米の生活となって現われているところも、何かを私たちに考えさせる。しかも漱石は、そのようにして自然に立った一対の男女に対していつも何かの形で加えられる烈しい復讐を見ている。男女のいきさつでは自然に立ったつもりでも遂に我が心に対して永遠の勝利者としては生きかねた一個の人間の運命が「こゝろ」の「先生」に描き出された。「行人」から引つづいて「こゝろ」が書かれたことには、見落せない漱石のきびしさがある。一郎が「こゝろ」の主人公のようなめぐり合わせに立ったとして、生きとおせるものかどうか、そのことが追究されている。「行人」で二郎がもっと激しい人間であったらば、と様々の局面を想った作者の心持がKという人物をとらえたとも思えるのである。〔一九四〇年六月〕



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