禰宜様宮田
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:宮本百合子 

禰宜様宮田宮本百合子        一 春になってから沼の水はグッとふえた。 この間までは皆むき出しになって、うすら寒い風に吹き曝(さら)されていた岸の浅瀬も、今はもうやや濁ってはいるがしとやかな水色にすっかり被われて明るい日光がチラチラと、軽く水面に躍っている。 波ともいわれない水の襞(ひだ)が、あちらの岸からこちらの岸へと寄せて来る毎に、まだ生え換らない葦が控え目がちにサヤサヤ……サヤサヤ……と戦(そよ)ぎ、フト飛び立った鶺鴒(せきれい)が小波の影を追うように、スーイスーイと身を翻す。 ところどころ崩れ落ちて、水に浸っている堤の後からは、ズーとなだらかな丘陵が彼方の山並みまで続いて、ちょうど指で摘み上げたような低い山々の上には、見事な吾妻富士の一帯が他に抽(ぬきん)でて聳(そび)えている。 色彩に乏しい北国の天地に、今雪解にかかっているこの山の姿ばかりは、まったく素晴らしい美しさをもって、あらゆるものの歎美の的となっているのである。 山は白銀である。 そして紺碧である。 頂に固く凍った雪の面は、太陽にまともから照らされて、眩ゆい銀色に輝きわたり、ややうすれた燻(いぶ)し銀の中腹から深い紺碧の山麓へとその余光を漂わせている。 遠目には見得ようもない地の襞、灌木の茂みに従って、同じ紺碧の色も、或るところはやや青味がちに、また或るところはくすんだ赤味をまして、驚くべき巧みな蔭のつけられてある麓の末は、その前へ一段低く連なった山の峯のうちへと消えている。 そして、静かな西風に連れて、来ては去る雲がその時々に山全体の色調にこの上なく複雑な変化を与える。 或るときは明るく、或るときは暗く、山はまるで生きているように見えた。 大きな楓(かえで)の樹蔭にあぐらをかき、釣糸を垂れながら禰宜様宮田はさっきから、これ等の美しい景色に我を忘れて見とれていたのである。「まったくはあ、偉えもんだ……」 彼は思わずもつぶやく。 そして、自分の囲りにある物という物すべてから、いきいきとして、真当(まっとう)なあらたかな気が立ち上って来るように感じたのである。 一本の樹でもどんな小さな草でもが皆創られた通りに生きている。 背の低いものは低いように、高いものはまた高いもののようにお互にしっくりと工合よく、仲よさそうに生きているのを見ると、何によらず彼は、「はあ、真当なことだ」と思う。 そしてどことなく心がのびのびと楽しくなって、彼のいつも遠慮深そうに瞬いている、大きい子供らしい眼の底には、小さい水銀の玉のような微かな輝やきが湧くのである。 いったい彼の顔は、大変人の注意をひく。 利口そうだというのでもなければ雄々しいというのではもとよりない。 東北の農民に共通な四角ばって、頬骨の突出た骨相を彼も持ってはいるのだけれども、五十にやがて手が届こうとしている男だなどとはどうしても思えないほど若々しく真黒な瞳を慎ましく、けれどもちゃんと相手の顔に向けて、下瞼の大きな黒子(ほくろ)を震わせながら、丁寧に口を利く彼の顔を見ると、誰でもフトここらでは滅多に受けない感じに打たれる。 大変ものやわらかに、品のいいような快さを感じるとともに、年に似合わない単純さに、罪のない愛情を感じて、尨毛(むくげ)だらけの耳朶(みみたぶ)を眺めながら自ずと微笑(ほほえ)まれるような心持になるのである。 禰宜様宮田は至って無口である。 どんな諷刺を云われようが、かつて一度も怒ったらしい顔さえしたことがないので、部落の者達は皆、「ありゃあはあ変物(へんぶつ)だ」と云う。その変物だという中には、間抜け、黙んまり棒、時によると馬鹿(こけ)かもしれないという意味が籠っている。 真面目に働いても利口に立ちまわれないから、女房のお石が桑の売買、麦俵のかけ引きをする。彼女がするようにさせて、一口の小言も云わないので、お石は大抵の場合彼の存在を念頭に置かない。たまに、彼女の口から、「とっさん」という言葉が洩れるときは、きっと何か仕事がうまく行かなかったときとか、気がむしゃくしゃして、腹を立ててやる相手が必要なときに限られているといっても、決してそれが誇張ではないほど、彼の権威は微かであった。「ヘッ! 俺(お)ら家(げ)のとっさんか……」 他人の前でも、地面に唾を吐きながら、彼女の持っているあらゆる侮蔑を何の隠すとてもなく現わしても、不思議に思う者はない。 家柄は禰宜様――神主――でも彼はもうからきし埒(らち)がないという意味で、禰宜様宮田という綽名(あだな)がついているのである。 人中にいると、禰宜様宮田の「俺」はいつもいつも心の奥の方に逃げ込んでしまって、何を考えても云おうとしても決して「俺の考」とか「俺が云ったら」というものは出て来ない。けれども、野良だの、釣だのに出て来て、こういう風に落付くと、彼はようやっと「俺」をとり戻す。 そして、だんだん心は広々と豊かになって、彼のほんとの命が栄え出すのであった。 今も長閑(のどか)な心持であたりの様子を眺めているうちに、禰宜様宮田の心は、次第に厚みのある快さで一杯になって来るのを感じた。 そして、平らかな閑寂なその表面に、折々雫(しずく)のようにポツリポツリと、家内の者達のことだの、自分のことだのが落ちて来ては、やがてスーと波紋を描いてどこかへ消えて行ってしまう。 沼で一番の深みだといわれている三本松の下に、これも釣をしているらしい小さい人影を見るともなく見守りながら、意識の端々がほんのりと霞んだような状態に入って行ったのである。 それからやや暫く立ってから、彼はフトもとの心持に戻った。どのくらい時が過ぎたか分らない。 禰宜様宮田は、ついうっかりしていた竿を上げてみた。餌ばかりさらわれて、虫けら一匹かかってはいない針が、きまり悪そうに瞬きながら上って来た。 彼はもう何だか、わざわざ切角こうやって生きている蚯蚓(みみず)の命まで奪って僅かばかりの小魚を釣るにも及ばないような心持になって、草の上に針を投げ出すと、そのまま煙草をふかし始めた。 さっきまでは居る影さえしなかった鳶(とんび)が、いつの間にかすぐ目の前で五六度圏(わ)を描いて舞ったかと思うと、サッと傍の葦間へ下りてしまう。 キ……キッキ…… 微かな声が聞えて来る。「はて、小鳥でもはあ狙われたけえ……」 葦叢(あしむら)をのぞき込むようにして膝行(いざり)出た禰宜様宮田の目には、フト遠い、ズーッと遙かな水の上に、何だか奇妙なものがあがいているのが写った。 鳥でもないし、木片でもない。「今(えま)時分人でもあんめえし……」 浮藻に波の影が差しているのだろうと思って見ると、そう見えないこともない。 が、しかし…… 何だか気になってたまらない彼は、煙管(きせる)を持った手を後で組み、継ぎはぎのチャンチャンの背を丸めて、堤沿いにソロソロと歩き出した。「オーイ、誰(だんか)来てくんろよ――オーイ」 近所の桃林で働いていた三人の百姓は、びっくりして仕事の手を止めた。「オーイ来てくんろよ――沼だぞ――」「あら、オイ禰宜様の声でねえけえ?」 彼等が沼地へ馳けつけたときには、真裸体(まっぱだか)の禰宜様宮田が、着物の明いているところじゅうから水が入って、ブクブクとまるで水袋のようになっている若い男を、やっとのことで傍の乾いた草の上まで引きずり上げたところであった。 背が低くて、力持ちでない禰宜様が助け上げたのが不思議なくらい、若者は縦にも横にも大男である。 が、もうすっかり弱りきっている。 心臓の鼓動は微かながら続いているから、生きてはいるのだが、見るも恐ろしいような形相をして絶息している。 もう一刻の猶予もされない。 水を吐かせ、暖め摩擦し、そのときそこで出来るだけの手当がほどこされたのである。 ここいらの百姓などとは身分の違う人と見えて、労働などは思ってみたこともなさそうな体をしている。自分が裸体だなどということはまるで忘れて、水気が一どきに乾こうとする寒さで、歯の根も合わずガタガタ震えながら、それでもひるまない禰宜様宮田は、若者の上に跨(また)がるようにして、 ウムッ! ウムッ!と満身の力をこめて擦(こす)っている。 青ざめた、けれどもどうあってもこの男を生かさずにはおかないぞというような、堅い決心を浮べた彼の顔は、平常(ふだん)に似合わずしっかりとして見える。 心から調子の揃った四人の手は、やがてだんだん若者の生気を取り戻し始めた。 呼吸が浅く始まる。 紫色だった爪に僅かの赤味がさして、手足にぬくもりが出る。 おいおい知覚されて来た刺戟によってピリピリと瞼や唇が顫動(せんどう)する。 やがて、ちょうど深い眠りから、今薄々と覚めようとする人のように、二三度唇をモグモグさせ、手足を動かすかと思うと、瞬(まばた)きもしないで見守っていた禰宜様宮田の、その眼の下には、今、辛うじて命をとりとめた若者のみずみずしい眼が、喜びの囁(ささや)きのうちに見開かれた。 この瞬間! 禰宜様宮田は、自分の体の中で何かしら大した幅のあるものが、足の方から頭の方へと一目散に馳け上ったような心持がした。 そして、彼のいい顔の上には、しん底からの微笑と啜泣(すすりなき)が一緒くたになって現われた。「はあ、真当(まっとう)なこった。 若けえもんあ死なさんにぇわ……なあ……」 今までただの一度でも感じたことのない歓喜と愛情が、彼の胸には焔のように燃え上って来た。 もうどうしていいか分らなくなってしまった彼は、傍の草の中に突伏して、拝みたくて堪らない心持になりながら子供のように泣吃逆(なきじゃく)ったのである。 そして、安心して気が緩んだので、いつかしら我ともなく心がポーッとなりそうになったとき、「オイオイ禰宜様、何(あによ)うしてるだよ。 俺らあおめえん介抱(けえほう)まじゃあ請合わねえぞ」と云いながら、誰かがひどく彼の肩を揺った。 スースーとちょっとずつ区切りをつけながら、蜘蛛(くも)が糸を下げるように、だんだんと真暗な底の知らないところへ体が落ちて行くように感じながら、どうしても自分で頭を擡(もた)げることの出来ないでいた禰宜様宮田は、このときハッと思うと同時に、急に自分の体が自由に軽くなったように感じた。 そろそろと起き上った彼は、仲間と一緒に若者をようよう近所の百姓屋まで運んで行った。 救われた若者は、町で有名な海老屋という呉服屋の息子で、当主の弟にあたる人であったのである。 名乗られると、急にどよめき立った者達は、ふだんは使わない取って置きのいい言葉で御機嫌をとろうとするので、大の男までときどき途方もないとんちんかんを並べながら、ワクワクして助けてくれた人は何という者だと訊かれると、「ありゃおめえさ禰宜様宮田で、へ…… もうからきしはあ……」などと、お世辞笑いばかりする。 今の場合、わざわざ拾って来られたところでどうしようもない魚籠(びく)だの釣竿だのを、一つ一つ若者の前へ並べたてながら、彼らは財布と銀時計――若者も内心ではどうなったろうと思っていた――をこっそり牒(ちょう[#ママ])し合わせて、見付からないことにしてしまった。「オイきっと黙ってろな、え? ええけ、きっとだぞ!」 皆に拳固をさしつけられた禰宜様宮田は、部屋の隅の方でコソコソと身仕度をした。 そして、大切そうに皆に取り巻かれ、気分もよほどよくなったらしい面持ちをしながら、家からの迎えを待っている若者を眺めてから、愛(いつ)くしみに満ち充ちた心を持って、裏口から誰も気の付かないうちに、さっさと帰って行ってしまった。        二 今まで、何かにつけて禰宜様宮田は自分の心のうちに年中飢(ひも)じがって、ピイピイ泣いては馳けずりまわっている瘠せっぽちな宿無し犬がいるような気持になりなりした。平常は半分まぎれて気がつかないでいても、何か少し辛いことや面白くないことが起って来ると、どこかの隅に寝ていた瘠せ犬がムックリと起き上る。そして、微かな足音を立てながら、悲しげに泣きながら、彼の体中を歩きまわる。 ソクソクソクソクという足元から、悲しい寂しい心持が湧き出して、禰宜様宮田の心も体も押し包んでしまうのである。 そして、ときには瘠せ犬が自分の心の持主なのか、または自分が、その瘠せ犬の主なのか、よく分らなくなってしまうほど、追い払っても、追い払っても、また戻って来るみじめな、瞬く間に自分の心を耄碌(もうろく)させてしまいそうな辛さが、彼の心を苦しめたのである。 けれども、有難いことには、昨日のあの瞬間から――彼が泣き伏しながら拝みたい心持になったときから――彼の魂は真当な休みどころを見つけた。 そこだけは、いつも明るく暖かく輝いている。 辛かったら来るがいい…… 泣きたくなったら、泣きに来い…… 彼は、今まで俺はもうもう不仕合わせなけだものだと思っていた自分の心を――あの瘠せ犬があんなにも引掻きまわす自分の心を――ちゃあんと、どなたかが見ていらっしゃって、こういう休みどころを下すったのじゃああるまいかということを大変思った。 そのどなたかは、世の中じゅうの真当なことの持ち主であらっしゃる…… 禰宜様宮田は、広場へ筵(むしろ)を拡げて、※(たら)の根を乾かしながら、大変仕合わせな、へりくだった心持で考えていたのである。 南向きの広場中には、日がカアッとさして、桔槹(はねつるべ)の影は彼方の納屋の荒壁を斜に区切って消えている。 二十日ほど前に誕生した雛共が、一かたまりの茶黄色のフワフワになって、母親の足元にこびりつきながら、透き通るような声で、 チョチョチョチョチョ…… と絶間なく囀(さえず)るのを、親鳥の クヮ……クウクウ……クヮ……という愛情に満ちた鼻声が一緒になって、晴れた空に響いて行く。 娘のまき[#「まき」に傍点]と、さだ[#「さだ」に傍点]に守りをされながら、六(ろく)の小さい裸足の足音は湿りけのある地面に吸いつくような調子で、今来て肩につかまったかと思うと、もうあっちへヨチヨチとかけて行く。「ア、六。 そげえなとこさえぐでねえぞ。 血もんもが出来てああいていてになんぞ、な。 こっちゃて、ほうら見、とっとがまんま食ってんぞ、おうめえうめえてな……」 麦粉菓子の薄いような香いが、乾いて行く※の根から静かにあたりに漂っていた。 すると、昼過ぎになって、突然海老屋の番頭だという男が訪ねて来た。 昨日のお礼を云いたいから、店まで一緒に来てくれと云うのである。 いろいろ言葉に綾をつけながら、わざと早口に、ぞんざいな物云いをする番頭は、彼の妙にピカピカする黒足袋を珍らしがって※共が首を延すたんびに、さも気味悪そうに下駄をバタバタやっては追い立てる。 ※がはあおっかねえとは…… 心の内でびっくりしながら、まき[#「まき」に傍点]やさだ[#「さだ」に傍点]は番頭が厭な顔をするのも平気で、真正面に突っ立ったまま、不遠慮にその顎のとがった顔を見守っている。 禰宜様宮田は行きたくなかった。 そんな立派な家へ、何も知らない自分が出かけて行くのは気も引けたし、何かやるやると云われるのにも当惑した。「俺らほんにはあお使えいただいただけで、結構でござりやす…… 何(なん)もそげえに…… そんに決して俺らの力ばっかじゃあござりましねえから……」 彼は下さる物は、自分のような貧乏人にとって不用(いら)ないはずはないことは知っている。 けれども……何だか品物などでお礼をされるには及ばないほどの満足が彼の心にはあったのである。 そして物なんか貰ってさも俺の手柄だぞという顔は、とうてい出来ない何かが彼の頭を去らなかった。 番頭に蹴飛ばされそうになる雛どもを、ソーッと彼方へやりながら、禰宜様は幾度も幾度も辞退した。 が、番頭はきかない。 とうとう喋りまかされた禰宜様宮田は、海老屋まで出かけることになった。 店の繁盛なことや、暮しのいいことなどを、しまいに唇の角から唾を飛ばせながら喋る番頭の傍について、在(ざい)の者のしきたり通り太い毛繻子の洋傘をかついだ禰宜様は、小股にポクポクとついて行ったのである。 海老屋では、家事を万事とりしきってしているという年寄り――五十四五になっている先代の未亡人――が会った。 金庫だの箪笥だのを、ズラリと嵌(は)め込みにした壁際に、帳面だの算盤だのをたくさん積み重ねた大机を引きつけて、男のような、といっても普通の男よりもっとバサバサした顔や声を持ったおばあさんが、ムンズという形容がおかしいほど適した形をして座っているのを見ると、あれでもおばあさんだそうなという感じが、一層禰宜様宮田の心をまごつかせた。「はあ、お前さんが宮田とお云いか……」 丁寧に頭を下げた彼の挨拶に答えた、彼女の最初の、太いかすれた声を聞いた瞬間から、もうすっかり彼の心は、受身になってしまって、いつもの「俺」の逃げて行き方が、もっと早く、もっとひどく行われたのである。年寄りはあんな大男の息子を助けた男というだけで、もっとずーッと体も心もがっしりした元気な男を期待していたところへ現われた彼は、余りすべてにおいて思いがけない。 おばあさんは、何だか滑稽なような、お礼を云うのも馬鹿らしいような気持になってしまった。 そして、臆している彼の前にこの上ない優越感を抱きながら、お礼を云うのか命令しているのか、さほどの区別をつけられないような口調で息子の救われた感謝の意を述べた。 私のようなものが、お前にお礼を云うのさえ、ほんとなら有難すぎることなのだという口吻(こうふん)が、ありありと言葉の端々に現われているけれども、禰宜様宮田はちっとも不当な態度だと思わなかったのみならず、彼女がほのめかす通り、お礼などを云われるのはもったいないことだと思っていたのである。 お前さまは海老屋の御隠居であらっしゃる。そんにはあ俺あこげえな百姓づれだ。そこにもう絶対的な或るもの――禰宜様宮田にとってはこの上ない畏怖となって感じられた、両者の位置の懸隔――を認めることに、馴されきっているのである。 何を云われても、彼はただハイ、ハイとお辞儀ばかりをした。 一通り云うだけのことを云うと、年寄りはもったいぶった様子で、仰々しい金包みを出した。 麗々と水引までかかっている包みを見ながら、禰宜様宮田は、途方に暮れたような心持になりながら、ぎごちない言葉で辞退した。「ほんにはあお有難うござりやすけんど…… 俺ら心にすみましねえから……」 けれども年寄りの方では、喉から手が出そうに欲しくても、一度は「やってみる」遠慮だと思ったので、唇の先だけで、「まあ御遠慮は無用だよ」と云いながら、煙草を吸い込む度に目を細くしては彼の様子を見ていた。 が、彼はどうしても納めようとしない。 貰わない訳を彼は説明したかったのだ。けれども、何より肝腎の、「俺の心にすまんねえもの」を、云いとくに入用(いる)だけの言葉数さえ知らない上に、どういう訳だからどうなって俺の心に済まないのかと、いうことは、彼自身にさえよくは分っていない。 ただ心に済まない気がする。後にも先にもそれだけなのである。けれども、その漠然とした「気持」が、どんなにしてもごまかせもせず、許せもしない強さで彼の心を支配しているのである。 永い間ジーッと考えれば、云われないこともなかろうが、何にしろ、今こうやって年寄りが面と向って口元を見守っているときなどに、どうして平気でそんなことが考えていられよう。 彼のいい魂は、すっかり恐縮してがんじょうな胸の奥にひそまり返っていたのである。 幾度云っても聞かないのを見た年寄りは、内心に意外な感じと、先ず儲けものをしたという安心とを一どきに感じながら、たった一円の包みを眺めた。 そして、何となしホッとしながら、けれどもどこまでもせっかく出したものを突返された者の不快を装いつつ、不機嫌そうに傍の手文庫を引きよせて、包みを入れると、ピーンと錠を下してしまった。 隅々の糸がほつれている色も分らない古巾着(きんちゃく)を内懐から出して、鍵を入れると、「一銭や二銭のお金じゃあなし、遣ろうと云えば、一生恩に被る人が、ウザウザいうほどあります。ただ湧いて来るお金じゃあなしね」とつぶやきながら、うなだれている禰宜様宮田の胡麻塩の頭を眺めて、彼女は途方もない音を出して、吐月峯(はいふき)をたたいた。        三 海老屋の年寄りは、翌朝もいつもの通り広い果樹園へ出かけて行った。 笠を被り、泥まびれでガワガワになったもんぺを穿いた彼女が、草鞋(わらじ)がけでたくさんな男達を指揮し出すのを見ると、近所の者は皆、「あれまあ御覧よ、 また海老屋の鬼婆さんが始まったよ」と、あきれ返ったような調子で云う。 自分が鬼婆鬼婆といわれているということも、その訳も彼女はちゃんと知っている。 けれどもちっとも気にならない。それどころか却ってこそこそと鬼婆がどうしたこうしたと噂されるのを聞くと、今までに倍した元気が湧いて来るのである。 どんな悪口でも何でもつまりは、ねたみ半分に云うのだ。 自分のことを眼の敵(かたき)にして、手の上げ下しにろくなことを云わない津村にしたところで、腹の中は見え透いている。今までこそ、呉服は津村に限るとまで云われて、町随一の老舗(しにせ)で通って来たものが、このごろではうち[#「うち」に傍点]にすっかり蹴落されて、目に見えて落ちて行く。その当人になってみれば、嘘にもお世辞にもよくは思えないのも無理はない。それがこわくて何ができよう。 先だって三綱橋のお祝いのときにも、佐渡(さわたり)の御隠居があんなにわいわい云ったって、やはり寄附金が少なかったから、見たことか、ああやって私よりは下座へ据えられて、夜のお振舞いにだって呼ばれはしない。 町会議員を息子に持っていると威張ったところで、いざというときにはどうせ、私の敵じゃあないわい。 今の世じゃあ、金さえあればどんな無理も通せるというもの、現に佐渡り[#「佐渡り」はママ]の議員だって、買ったも同様の札で当ったのだというじゃあないか。 ものは方便、金がもの云う時世に生れて、変におかたいことを云うのは、馬鹿の骨頂(こっちょう)だ。 何とか彼とか理窟をつけて、溜めたくないようなふりをしている者のお仲間入りをしていられるものか。何と云われたってかまわずドシドシ溜れば、それでいいのだ。ああそれでいいのだとも……。 どんな僅かの機会でも、決して見逃すことのない彼女は、幾分かの利益が得られそうだとなると、どんな手段でも策略でも遠慮会釈なくめぐらして、どうにでもしまいには勝つ。 まるで思いがけないような難題を考えたり、云いがかりを作ることは、彼女の得意とするところであり、従って何よりの武器であった。それ等の思いつきを、彼女は日頃信心する妙法様の御霊験(おしめし)と云っていたのである。 果樹園には、この土地で育ち得るすべての種類の果樹が栽培されていた。 そして、収穫時が来ると、お初穂(はつ)をどれも一箇(ひとつ)ずつ、妙法様と御先祖にお供えした後は、皆売り出すのだから、今からの手入れは決して忽(ゆる)がせにはできない。 雇人や作男などは、皆猫っかぶりの大嘘つきで、腹のうちでは何をたくらんでいるか、知れたものでないと思い込んでいる年寄りは、枝一本下すにも始めから終りまで自分の目の前でさせ、納屋へ木束を運ぶまで見届けなければ安心がならない。 大汗になりながら、馳けまわって監督するのだが、体は悲しいことに一つほかない彼女が、今こっちに来ておればあっちの畑の作男共は、どうしても手を遊ばせたり、ついなまけてしまったりする。 今朝も、鼻の頭に大粒な汗をびっしょりかいて、大忙がしに働いていながら、どういうわけかおばあさんの頭からは、どうしても禰宜様宮田のことが、離れない。「妙な男だわえ……貧乏人の分際で……金……何にしろ遣ろうと云うのは金なんだから!」 汗を拭き拭き年寄りは、「おい重、お前あれを知ってるんだろう。 ありゃあ一体どうした男なんだね」などと訊いた。「へ…… どうも、……」「いったい何で食っているんだね、よくあれで生きて行かれたもんさ」「ちいっとばっかり桑畑や麦畑を持ってるから、それでやってくんでござりましょう。が御隠居の目から見なさりゃあ、どいつもはあ気違えのようなもんでござりますよ。 へ……」 作男達の顔には、彼等特有の微笑が湧く。 誰か「エヘン!」とわざと大きな咳払いをして、おばあさんが振向く間もなくどこかへゴソゴソ隠れてしまった。 手元が見えなくなるまで、真黒になって働いていた年寄りは、食事をすませると火鉢の傍で、煮がらしの番茶を飲んでいた。 いつともなく禰宜様宮田の丁寧なお辞儀の仕振りなどを思い出していた彼女の心には、不意に思いがけずあの妙法様がお乗りうつりなすった。そして、瞬く間に誰が聞いてもびっくりせずにはいないほど、「いい思案」が夕立雲のように後から後からと湧き出して来て、頭を一杯にしてしまった。 腹心の番頭と、やや暫く評議を凝らしたときには、これからもう五六年も後のことが、ちゃんと表になり数字になって現われていたのである。 禰宜様宮田の臆病なウジウジした様子が、何か年寄りに「いい思案」のきっかけを与えたらしかった。 海老屋へ行った禰宜様宮田は、きっとふんだんな御褒美(ほうび)にあずかって来るものだと思って、待ちに待っていたお石は、空手で呆然(ぼんやり)戻って来た彼を見ると、思わず、「とっさん、土産(みやげ)あ後からけえ?」と訊かずにはおられなかった。が、「馬鹿(こけ)えこくもんでねえ」と、彼は相手にもしない。 だんだん聞いて、出された金包みを戻して来たと知ったときには、「まあお前が……まあ返(けえ)して来たっちゅうけえ!」 お石は、腹のしんが皆抜けてしまったように、落胆(がっかり)した。暫くポカンとした顔で亭主を見ていた彼女は、やがて気をとりなおすと一緒に、今まで嘗てこんなに怒ったことはないほどの激しい憤りを爆発させた。 半(なかば)夢中になって、彼をまるで猫や犬のように罵り散らしながら、自分の前かけや袖口を歯でブリブリと噛み破る。 訳が分らないで怒鳴りつけられたり擲(ぶ)たれたりして、恐ろしそうに竦(すく)んでいる子供達の肩を撫でてやりながら、禰宜様宮田は、黙然としてその罵詈讒謗(ばりざんぼう)を浴びていた。 それから毎日毎日こういう厭なことばかりが続いた。 お石は、何かにつけて金を貰って来なかったことを引合いに出して、子供がちょっと物をねだることまで皆彼女の腹癒せの材料にされたのである。「汝等(にしら)あまでたかってからに、こげえな貧乏おっかあをひでえ目に会わせくさる! あんでも父っちゃんに買って貰っちゃ、呉れるちゅう金え、突返(つっけえ)すほどのお大尽(でえじん)たあ知んねえで、我が食うもんもはあ食わねえようにして、稼(かせ)えでたんなあ、さぞええざまだったべえて、 俺らも、もう毎日(めえにち)真黒んなって働くなあ止めだ、人う面白(おもさ)くもねえ、 後(あた)あどうでもええようにすんがええや」 朝でもふて寝をしたり、食事の用意もしないまんま、どこへか喋りに行ってしまったりするので、心のうちではそんなに母親を怒らせた父親を怨みながら、まだやっと十一のさだ[#「さだ」に傍点]が危うげに飯などを炊く。 暗い、年中ジクジクしている流し元に、鍋などを洗っている姉の傍に、むずかる六をこぼれそうにおぶったまき[#「まき」に傍点]が、途方に暮れたように立ちながら、何か小声で託(かこ)っているのを見ると、禰宜様宮田はほんとに辛いような心持に打たれた。 自分がいればいるほど、大混雑になる家から逃れるようにして、彼は出来るだけ野良にばかり出ていた。 けれども、別にそう大して働かなければならないほどの仕事もない。 耕地の端れの柏の古木の蔭に横たわりながら、彼は様々な思いに耽ったのである。 透き通りそうに澄みわたって、まるで精巧なギヤマン細工の天蓋のように一面キラキラと輝いている、広い広い空。 短かい陽炎(かげろう)がチロチロともえる香りのいい地面。 禰宜様宮田は、ジイッと瞳をせばめて、大きい果しない天地を想う。 そして、想えば想うほど、眺めれば眺めるほど、彼はあの碧い空の奥、この勢のいい地面の底に何か在りそうでたまらない心持になって来るのである。 ほんとに、きっと何かが在りそうな気がする。 それならいったい何が在るのか? 彼は知らないし、また解りもしない。 ただ、底抜けでない、筒抜けでは決してないという心強さが、じわじわと彼の心の核にまで滲みこみ、悠久な愛情が滾々(こんこん)と湧き出して、一杯になっていた苦しみを静かに押し流しながら、慎み深い魂全体に満ち溢れるのである。「何事もはあ真当(まっとう)なこった……」 天地が広いのが真当なように、何も知らない意くじない自分が小さいのは、辛いことがあるのは決してまちがいではない。「どなたか」は各自の心に各自違った考えをお授けなさる。それがよし自分と同じでないとしたところで、どうして怨んでなるものか。 すべてのもののうちに潜んでいる真当、掘り下げて、掘り下げて行った底には、きっと光っているに違いない真当に、強い憧れを感じて、禰宜様宮田のあの子供らしい、上品な眼は涙ぐんだのである。 貧乏な暮しには、いい魂より金の方が大切だ。 お石は、唇を噛んでジリジリしながら、どう考えても馬鹿(こけ)の阿呆(あほう)に違いない自分の亭主を呪った。 家中の責任を皆背負って立っている自分、この自分がいるばかりにようよう哀れな亭主も子供達も生きていられるのだという自信に、少なからず誇りを感じていた彼女は、何の価値も全然認め得ない彼が、一存で礼を突返して来たということ――無能力者の僭越――によって、非常に自分の誇りを傷けられたと感じた。 ちょうど、大変自尊心の強い先生がどうかしたはずみで目にもとめていなかった生徒に、遣りこめられたときのような、何とも云いようのない混雑した心持を、形式こそ違え、お石も感じていたのである。 そして、一層その金包みに愛着を感じた。 指一本触らずに置いて来た金包みのうちに、彼女は自分等の永久的な慰楽が包蔵されていたような心持がして、禰宜様宮田はまるで聖者の仮面を被った悪魔、生活を破壊させ、堕落させようと努めてばかりいる悪魔のように憎んだのである。 もちろん、お石の心の中では、こういうふうな言葉も順序もついてはいない。 掻きまわされた溝のように、ムラムラ、ムラムラと何も彼も一どきにごた混ぜになって互に互を穢し合いながら湧き出して来る。 そうするともう真暗になってしまう彼女は、訳も分らず叱りつけ、怒鳴りつけ、擲(なぐ)り散らす。 けれども、すぐ旋風が過ぎてしまうと、後には子供達に顔を見られるのも堪らないような気恥かしさが残るので、彼女は照れ隠しにわざとどこかへ喋りに飛び出してしまうのである。 妙にぎごちない、皆が各自の底意を見抜きながら、僅かの自尊心で折れて出る者は独りもないような生活が彼女にとってもはやうんざりして来たとき、思いがけずに海老屋の番頭が、欲しいものを要求してくれと云って来たときには、もう何と云っていいかまるで生き返ったような心持がした。 自分さえ打ちとければ、それに対して片意地な心を持つ者は誰もいないなどと思わないお石は、小さい娘達まで心のひねくれた大人扱いにして、自分独りですねていたのである。 辞退はされるが、どうか何なり欲しいものを云ってくれという使の趣を話されたとき、顔が熱くなるほど嬉しかったお石は、相手をこう出させるために、とっさんはあのとき断って来たに違いないと思った。 若しそうだとすれば、俺ら何のために怒ったろう? ひそかに心のうちではにかみ笑いをしながら、彼女は今度もまた謝絶している禰宜様宮田を珍らしく穏やかな眼差しで眺めていた。 彼は相変らずのろい、丁寧な言葉で断わると、うるさいものと諦めていた番頭は思いがけず、じきに納得して帰ってくれた。 禰宜様宮田は、すぐ帰ってもらったことに満足し、お石は何はともあれ来てくれたことに満足して、家中には久しぶりで平和が戻って来たのであった。 けれども、使は三日にあげずよこされる。そして、ことわられては素直に帰って行く。「またおきまり通りでございます……」 番頭がそう云って隠居の部屋へ挨拶に行く毎に、海老屋の年寄りは会心の笑(えみ)を洩していたのである。 まったくおきまり通りになって来るわえ……。 年寄りの心には、ちょうど藪かげに隠れて、落しにかかる獣を待っている通りな愉快さが一杯になっているのである。 何にも知らない獲物は、平気で頓間(とんま)な顔付きをしながら、ノソノソ、ノソノソとだんだん落しに近づいて来る……。 そのとき猟人の胸に満ちる、緊張した原始的な嬉しさが、そのまま今年寄りに活気を与えて、何だか絶えずそわそわしている彼女は、きっとこういうときほか出ないものになっている無駄口をきいたり、下らないことに大笑いをして、「ヘッ、馬鹿野郎が!」などとつぶやく。 その馬鹿野郎というのは、決して憎しみや、侮蔑から作男共に向って云われたのではない。 これからそろそろと御意なりに落しにかかろうとする獲物に対する非常に粗野な残酷な愛情に似た一種の感情の発露なのである。 年寄りは、着々成功しかかる自分の計画の巧さに、我ながら勢(きおい)立ってますます元気よく朝から晩まで、馳けずりまわって働いていたのである。 三度まで無駄足を踏ませられても、怒る様子もないばかりか、使をよこすのを止めようともしない……。 さすがの禰宜様宮田も、またさすがのお石も、少し妙な気がした。 いったいまあどうしたことじゃい! 漠然とした疑惑が起らないではなかったが、禰宜様宮田は、そういう心持を自分で自分の心に恥じていた。 どこに、自分等の大切な家族の一員の命を救ってくれたものに対して、悪い返報をするもの、また出来るものがいるだろう。 浅間しい疑を抱く自分を彼はひそかに赤面しながら、どこまでも、親切ずくのこととして信じようとしていたのである。 けれども、四度目に来たとき、海老屋の番頭はもう断わられて帰るような、そんななまやさしいものではなくなった。 彼はほんとの用向――年寄りの計画の第一部――を持って現われたのである。 今までとは打って変って高圧的な口調で、番頭は先ず隠居が大変立腹していること。こんなに手を換え、品をかえて何か遣ろうとするのにきかないのは、何か思惑があるのじゃあないか、一旦自分で突落した若旦那をまた自分で助けて来でもして、こちらで上げようとしているものより何かほかのものに望みを置いているのじゃあないかと思っていなさると、云った。 それを聞いて、真先に怒鳴り出したのはお石である。 憤りでブルブルと声を震わせ、吃(ども)りながら、番頭の前へずり出して噛みつくように叫んだ。「云う事うにもことう欠(け)えて、まあ何(あ)んたらことう吐(こ)くだ! 何ぼうはあ貧乏してても、もとあ歴(れっき)として禰宜様の家柄でからに、人に後指一本差さっちゃことのねえとっさん捕(つか)めえてよくもよくも…… よくもよくもそげえな法体(ほでえ)もねえことを吐かしてけつかる! 何ぼうはあ」 真青な顔をして、あの黒子(ほくろ)を震わせていた禰宜様宮田は、気を兼ねるように、猛り立つお石の袂を引っぱった。が彼女はもう止められないほど気が立っている。 邪慳(じゃけん)に彼の手を払いのけるとまた一にじり膝行(いざ)り出て、「何ぼう、はあ金持だあ、海老屋の婆さまだあと、偉れえことうほぜえても、容赦なんかしるもんけ! 祈り殺してくれっから、ほんに、 俺らほんにごせぇひれる!」と一息に怒鳴ると、発作的に泣き始めた。 禰宜様宮田は、すっかりまごついた。当惑した。 云わなければならないことがたくさん喉元まで込み上げて来ている。 けれども、どうしても言葉にまとまらない。何とか云わなければならないと思う心が強くなればなるほど、彼の舌が強(こわ)ばって、口の奥に堅くなってしまう。 彼は徒(いたずら)に手拭を握った両手を動かしながら、訴えるような眼をあげて油を今注いだ車輪のようによく廻る番頭の口元を眺めた。「まあまあそんなにお怒んなさんな、 御隠居だって、無理もないんだ。ああやってせっかく気を揉(も)んで使をよこすと、片っ端からいらないいらないじゃあ、誰にしろいい心持あしないもんです。 あんまり勝手がすぎると、ついそこまで考えるのも、年寄りにゃあ有勝ちのこった。ねえ。 せっかくこちらも、こうやって決してそんな気はなくているものを、御隠居にそうとられるというなあ、全くのところ損どころの話じゃあない。察しまさあ、だから今度あおとなしく御隠居の志を通しなさい、ね、そうすりゃあ決して悪いこたあない」 最後の「御褒美」として、今明いている十三俵上りの田を十俵に就き三俵で貸そう。これまで云って聞かなければどうしても、御隠居の疑いを事実と認めるほかないと云うのである。 あんまりひどい! あんまり云いがかりも過ぎている。こんな難題がどこにあろう。 禰宜様宮田は、何か一言二言云おうとして口を開いた。が、あせる唇の上で言葉になるはずの音が切れ切れに吃るばかりで、ようよう順序立てて云おうとしたことは忽ち、めちゃめちゃに乱れてしまう。 彼はますます深くうなだれるほかなかった。「例え嘘にしろ何にしろ、あの御隠居が、そうと思いこんだといったら、決してただじゃあすまさない方だ。ことによれば訴えなさるまいもんでもない。 疑いをかけられるくらい、人間恐ろしいものはないからね。 すっかり身の証(あかし)も立てて、御隠居の考えも通させた方が、どう考えても得策だね」 訴え! 訴え!![#「!!」は横1文字、1-8-75] 哀れな夫婦の耳元で、訴えの一言が雷のように鳴り響いた。 無智な農民の心を支配している法律に関するこの上ない恐怖が、彼等の頭を掻き乱したのである。 道理の有無に関らず、彼等を一竦みに縮み上らせるのは、訴えてやるぞという言葉である。 まるで証拠のないことを、若し若旦那が、ええ誰かが後から突落したのを知っていますとでも云えば、いったい俺等は何で、そうでないという明しを立てるのだ。 調べられるとき、酷(ひど)い目にでも合わされて、苦しまぎれに夢中でそうだとでも云ったら、どうすればいいのか。 訴え、恐ろしい訴え――それも自分の方には何の強みもなさそうに思われた訴え――が、すぐ目前に迫っていることを思った禰宜様宮田は、もう何をどう考えることも出来ないほどの混乱を感じた。 体中で震えながら、冷汗を掻いている彼を見ながら、番頭は口の先でまだヘラヘラと喋り続けた。「考えて御覧な。 片方は何といっても海老屋の御隠居、片方は失礼ながらお前さん達。 そうじゃあない違いますと云ったところで、世間様じゃあどっちがほんとだと思うんだね。 誰が聞いたって、御隠居を疑ぐる訳にゃあいかない。政府のお役人様だって、お前さんと、御隠居じゃあちいっとの手心あ違おうともいうもんだ。 だから、下らない意地は捨てる方が得、ね、ウンと承知すりゃあ、万事万端めでたしめでたしで納まろうってもんだ。 え! 承知しなさい、その方が得だよ」 激しい強迫観念に襲われて、あらゆる理性を失ってしまった禰宜様宮田は番頭の言葉を聞き分けることさえ出来ないようになった。 まして、それ等のうちに含まれている弱点などを考えることなどは出来得ようもない。 彼はただ恐ろしい。身にかかる疑いが恐ろしい。 思想の断片が、気違いのように頭のうちじゅう走(か)けまわる……。 大きな眼にうっすら涙を浮べて、口を開き暫く呆然としていた彼は、やがてちょっと目を瞑(つぶ)るとほとんど聞きとれないほどのつぶやきで、「……俺ら……俺らすんだら……」と、云うや否や押しかぶせるように、「何? 承知する? ああそれでようよう埒が明くというもんだ、さあ、そんならこれにちょっと印を貰いましょうか」 番頭は、包みのうちから何か印刷したものを出して、禰宜様宮田の前に置いた。 取り上げては見たが、どうしても読めない。 字の画が散り散りばらばらになって意味をなさないのを、番頭に助けられながらそれが小作証書であるのを知ったときには、もう一層の絶望が彼の心を打った。 が、もう何ということもない。 二度も三度も間違えながら筆の先をつかえさせて名前を書き入れると、彼は黙々として印を押した。        四 その田地――禰宜様宮田が実に感謝すべき御褒美として、海老屋から押しつけられた――は、小高い丘と丘との間に狭苦しく挾みこまれて、日当りの悪い全くの荒地というほか、どこにも富饒な稲の床となり得るらしい形勢さえも認められないほどのところであった。 破産までさせられて、自棄(やけ)になった彼の前の小作人が半ば復讐的に荒して行ったのだともいう、石っころだらけの、どこからどう水を引いたらいいのかも分らないように、孤立している田地を見たとき、禰宜様宮田は思わず溜息を洩した。 いったいどこから手を付ければ、こんなにも瘠せきった原っぱのような田地を、少くとも人並みのものに出来るのだろう……。 けれども、もうこうなっては否でも応でも収穫を得なければ大変になる。 全く強制的に彼は朝起きるとから日が落ちるまで、土龍(もぐら)のように働かなければならなかったのである。 禰宜様宮田は、ほんとに体の骨が曲ってしまうほど耕しもし、血の出るような工面をして、たくさんの肥料もかけてみた。寸刻の緩みもなく、この上ない努力をしつづける彼の心に対しても、よくあるべきはずの結果は、時はずれの長雨でめちゃめちゃにされた。 稲の大半は青立ちになってしまったのである。 どうしても負けてもらわなければ仕方がなくなった禰宜様宮田は、年貢納めの数日前、全く冷汗をかきながら海老屋へ出かけて行く決心をした。 小作をして、おきまり通りちゃんちゃん納められるものが、十人の中で幾人いる、何も恥かしいことじゃあない、平気でごぜ、平気でごぜ。尋常なこったと云っていられるお石の心持を半ば驚きながら、彼はいろいろと云い訳の言葉などを考えた。 あの年寄がこんなことを願いに行ったときいたばかりで、何と云うかと思っただけでさえ、足の竦(すく)むような気のする彼は、せめてものお詫びのしるしにと、新らしい冬菜(とうな)をたくさん車にのせて、おずおずと出かけて行ったのである。 台所の土間に土下座をするようにして、顔もあげ得ずまごつきながら、四俵のはずのところを二俵で勘弁してくれと云う禰宜様宮田を、上の板の間に蹲踞(しゃが)んで見下していた年寄りは、思わず、「フム、フム」とおかしな音をたてて鼻を鳴らしたほど、いい御機嫌であった。 いくら平気でいるように見せかけても、あらそわれない微笑が、ともすれば口元に渦巻いて、心が若い娘のようにはねまわった。 彼女の計画はこうなって来なければならないのだ。 こうなると、ああなって、そういう風にさえなると……。 いろいろな意味において快く承知した年寄りは、負けてやる二俵分を現金に換算して禰宜様宮田に借用証文を作らせながら、ちょうど若い人がこれから出来ようとする気に入りの着物の模様、着て引き立った美くしい自分の姿及び驚きの目を見張るそんな着物を作られない者達のことごとを想像する通りに、そわそわと弾力のある心持で順々に実現されて来る計画に心酔したようになっていたのであった。 それから三年の間、膏汗(あぶらあせ)を搾るようにして続けた禰宜様宮田の努力に対して、報われたものはただ徒に嵩(かさ)んで行く借金ばかりであった。 今年こそはとたくさんの肥料を与えれば、期待した半分の収穫もなくて、町の肥料問屋へも、海老屋へも、どうしようもなくて願った借金が殖えて行く。 今までは、貧しくこそあれ一文の貸しもない代りに、また借りもなく、家内中の者が家内中の手で暮していられた彼等の生活には、絶えずジリジリと生身に喰いこんで来る重い重い枷(かせ)が掛けられた。 どうにかしてはずしたい。 何とかして元の身軽さに戻りたい。 一生懸命にもがけばもがくほど、枷はしっかりと食いこんで来るように、僅かの機会でも利用して借金も軽め生活も楽にさせたいとあせればあせるほど、経済は四離滅裂になって来る。 ガタガタになり始めた隅々から、貧しさは止度もなく流れこんで、哀れな小さい箱舟を、一寸二寸と、暗い、寒い、目のないものが棲んでいるどん底へと押し沈めかけていたのである。 ところへ、五年目に起った大不作は彼等一族を、まったく困憊(こんぱい)の極まで追いつめてしまった。 恐ろしい螟虫(ずいむし)の襲撃に会った上、水にまで反(そむ)かれた稲は、絶望された田の乾からびた泥の上に、一本一本と倒れて、やがては腐って行く。 豊かな、喜びの秋が他の耕地耕地を訪れるとき、禰宜様宮田のところへは、何が来てくれたのか。 息もつけない恐怖である。逼迫(ひっぱく)である。 愚痴を並べ、苦情を云っていられるうちは、貧乏の部には入らないという、そのほんとの「空虚(からっぽ)」が来たのである。 空虚な俺等(おら)……。 蓄わえた穀物はなくなるのに、何を買う金もない。何で親子五人の命をつないで行ったらいいのだろう? そこへ、海老屋ではまたも難題を持ちかけて来た。 一俵の米もよこされない。それじゃあすまないから、今まで貸してやっていた金を、暮まで待つから全部返済しろと云うのである。 食うや食わずで、たださえ生きるか死ぬかの今、無断で一割の利まで加えた百円以上のものを、どうして返せるだろう。 金で返せない? それなら仕方がない、土地を差押えるぞ! これが海老屋の年寄りの奥の手であった。 最初からこうまでするように、彼女の妙法様はお指図下すったのである。 現在海老屋の所有となっている広大な土地は、全部こういう風な詭計を用いて奪ったのだと云うことは、決して単にそねみ半分の悪口ばかりだとはいえない。 そんなことをするに、ちっとも可哀そうだとも、恥かしいとも思わないだけ、充分に彼女の心は強かったのである。 そして、またその驚くべき強い心に、この上ない誇りを感じている彼女は、何も自分の持っている力を引込ませて置く必要は認めなかった。 何のために虎は、あんな牙を持っているかね、弱い人間や獣を食うためじゃあないか、私の生れつきだってそれと同じなのだ。それでもうすっかり彼女は安んじていられたのである。 今度も彼女は、自分の天稟(てんぴん)に我ながら満足しずにはいられなかった。 もうここまで漕ぎ付ければ、後はひとりでに自分の懐に入って来るほかないいくらかの土地を思うと、優勝の戦士がやがて来る月桂冠を待つときのような心持にならざるを得なかった。 比類ない自分の精力と手腕をもってすれば、こんな相手を斃(たお)したことは、むしろ当然というべきではある。 が、嬉しい。この上なく張合がある。 土地や金が、ただ「殖える」とか「広くなる」とかいう、そんなやにっこい言葉で彼女の快感は表わせないほど、熾(さか)んなのであった。 彼女は、しんから自分自身の生命の栄えを讃美しながら、次の対照の現われを強い自信と名誉をもって待っていたのである。 が、禰宜様宮田は……。 憤るには、彼等はあまり疲弊していた。 海老屋から使がその趣を伝えて来たときでも、彼等夫婦はまるで他人のことのように、ぼんやりした、平気な顔をして聞いていた。 何だかもう、頭の中が真暗になって、感じも何も皆どこへか行ってしまったような心の状態になっていたのである。 絶えず口元に自嘲的な笑を漂わせながら、唇を噛んでいるお石は、すっかり自暴自棄になってしまった。 まだ何か望みがあり、盛り返せるかもしれないという未練が残っていたときには、懸命に稼ぐ気にもなり、怨む気もしたけれども、こうまで落ちきってしまえば、絶望した彼女の心は自棄(やけ)になるほかない。「へん海老屋の鬼婆あ! 何んもはあねえくなるまで、さっさとひっ剥(ぺえ)だらええでねえけ、小面倒臭せえ。 乞食(ほいと)して暮しゃ、家(ええ)も地面も入用(い)んねえで、世話あねえわ!」 黙り返っているお石は、折々不意にはっきり独言しながら、ゴロンと炉辺に臥(ね)ころがったりした。 禰宜様宮田も、もう土地も何にも入用(いら)なかった。ただどうかして、今のいやな心持から一刻も早く逃れたいばかりなのである。 ほんとにお石の云う通り、乞食(ほいと)して暮しても、このごろのように怨みの塊りのようになっている境涯からぬけられたら、それでいい。 こっからここまじゃあ俺らがもん、そこからそこまじゃあ汝(ぬし)がもんと、区別う付けて置くから、はあ人のもんまで欲しくなる。 地体(じてえ)、どなたか様は、そげえな区切りい付けて、地面お作りなすっただべえか? 欲しいもんだらはあ遣るがえ……。 最初の間、彼はもうすっかり諦めて、綺麗(きれい)さっぱりいつでも、土地でも家でもよこせと云うものを、遣ってしまえるような心持でいたのである。 けれども、やがて近所の者達の同情が、彼の決心を動かし始めたのであった。 いつとはなし、宮田一族の迫った難渋を知った者達は皆同情して、世界中の悪口をあらいざらい、海老屋の人鬼、生血搾りに浴せかけた。 口では、まるで一ひねりに捻り潰してくれそうな勢で彼女を罵ることだけは我劣らじと罵る。 けれども、若しその公憤を具体化そうとでも云えば、彼等は互に顔を見合わせながら、「はあ…… 相手(ええて)がわれえ……」と尻込みをして、一人一人コソコソと影を隠してしまうだろう。 それ等の同情も、いざという肝腎の場合にはさほどの役には立たない。何と云って禰宜様宮田の肩を持っても、どれほどひどく海老屋の年寄りをけなしても、つまりはなるようにほかならないにきまっている。 そこまで俺等(おらら)の力あ及ばねえということを、云う方はもちろん云われる方も漠然と感じている。 いくら無責任な同情だといっても、慰められ、辛い境遇を共に悲しんでもらって厭な心持はしないのみならず、却って彼等は事件の結果に何の責任も持たないからよけい禰宜様宮田の心を動かすような言葉を、口から出まかせ、行がかりにまかせて喋る。 諦めていたはずの土地に対しても、また新しい執着――強い、もうあんなに単純には諦めきれない未練――を覚えるとともに、怨みとも憤とも区別のつかないようにもしゃもしゃした心持が蘇返って来て、禰宜様宮田をどのくらい苦しめているのか。 そういうことは、彼の仲間の一人として考え及ぶ者はなかったのである。 慰められるにつれて、しんから底から自暴自棄になっていたお石は、ようよう気を持ちなおすに従って、体ごと真黒焦げに成ってしまいそうな怨みの焔が、途方もない勢で燃え熾って来るのを感じた。 何かしてやれ! 何とかしてくれたら、はあなじょうに小気味がよかっぺえ! 二六時中、人間のような声を出して怨念が耳元で唆(そその)かす。 よくも、よくも、こげえな目さ会わせおったな! 今に見ろ! 大黒柱(でえこくばしら)もっ返(けえ)して、土台石(どでえいし)から草あ生やしてくれっから! いても立ってもいられないような気持になったお石は、ほとんど夢中で納屋へ馳けこんだ。 そして、まるでがつがつした犬のように喘いだり、目を光らせたりして鼻嵐しを吹きながら、そこいらに散らかっている古藁で、人形(ひとかた)を作りにかかった。 彼等の仲間では昔ながら恐ろしいものにされている祈り釘をこの人形に打ちこんで海老屋の人鬼の手足を、端々から腐り殺してやりたい! 祈り殺さずにおくものか! 手先はブルブル震えるし、どうやったらこのバサバサな藁が人形になるかも分らない。 いくらしても片端じから崩れたり解(ほぐ)れたりしてものにならない藁束に向って、彼女の満身の呪咀と怨言が際限もなく浴せかけられたのである。 引きちぎったり踏み躪(にじ)ったりした藁束を、憎さがあまって我ながら、どうしていいのか分らないように足蹴にしながら、水口まで来ると、お石は上り框(かまち)に突伏してオイオイ、オイオイと手放しで号泣した。怨んだとて、呪ったとて、海老屋の年寄にはどうせかないっこないのだということが、口でこそ強そうなことを云っていても、心にはちゃんと分っているから、お石は一層たまらない。 胸を掻き※(むし)られるような心持になりながら、娘達をつかまえては泣き出し近所の者に会っては怨みを並べている彼女の、厚みのないへこんだ額には、一日一日と皺が増えて、鼻のまわりに泣き皺が現われた。 もうまるで子供ではない娘達は、両親の苦痛は充分同情していた。 が、さてどうしたらいいのかということになると、彼女等は、ほとほと途方にくれてしまう。 そして、ごくごく単純な彼女等は私に遣らなければならないものなら、やったってよさそうなものだのに、……町へ行って奉公したって食っては行けるくらいに思っていた。 もちろん、親達の苦しんでいる様子に対して、それを口に出すことは、いかな彼女等でも出来なかったけれども自分等自身としてはそんなに辛くはなかった。 始終、心から離れない何か陰気な悲しいものがあると彼女等の感じていたのは、事件そのものの苦しさよりも、むしろ、大人達のように沈んで悲しく自分等を持して行かなければならないという感じが与えたものなのである。「おめえんげでも、えれえこったなあ、まきちゃん」「ああ……」 さも心を悩まされているように、ませた表情をして返事をしながら、実はそう云われても、とっさに何がえれえこったったのか心に浮ばないようなことさえあったのである。 いくら心の複雑でない禰宜様宮田だとても、子供等のように、そう単純に事を見て行くことは出来ないし、またそうかといって、お石のように、一目散に怨みこんではしまわせてくれないものを、自分のうちに持っていた。 人を怨んだり、憎がったりするなあ、はあ真当なこっちゃあねえ。 そう知りながら、恨めしいような心持や、憎らしいような心持が、忘れようとしても忘られず心にこびりついているから、彼はせつないのである。 もうやがて近々に別れなければならない、耕地を見歩きながら、このことを思う彼の眼には、いつでも止めるに止められない涙が湧き出して、大きい、あの子供らしい目が何も見えなくなってしまうのが常であった。 海老屋の御隠居……俺が田地……子供等……俺が死んだ後あ、はあ何じょって奴等あ暮してんべえ。そして、あの海老屋の若者を救い上げたときの歓(うれ)しさを思い出すと、彼は全く堪らなくなる。 今はもう、皆どこさかぶっとんで行ってしまったあのときのあんなに仕合わせだった心持を思い出すと、それが追憶である故に――これから二度と会うことの出来ない、昔の思い出であるために――一層慕わしく、なつかしく胸を揺られる。 こういう原因(もと)に「それ」がなったのだと思うと、ほんとに何とも云えない心持がして来るのである。 一思いに、あのときの「その喜び」も何も、皆怨みや憎しみで塗り潰してしまえれば、それは却って結構かもしれない。 が、そうはならない。今の苦しさが強ければ強いほど、あのときの思い出は、はっきりと、あのときのままの新しさをもって浮み出して来る。あのときの通り明るく、暖く歎いて行く自分を迎えてくれるのである。 それがたまらない。 彼の心は、ただ土地が惜しい、年寄りの仕打ちが恨めしいというばかりではない、あのときの、あの歓びを憶い起すに耐えないような心持が――それだのにまた、憶い出さずにはいられない一見矛盾した感情が、自分でどう自分を処していいか分らないように湧き上る。 生活の基礎が、ぐらついている不安、家族の者共に対する愛情、真当な何物かに対する憧憬等が、彼には一つ一つこういう風な区別をつけられていないだけ、それだけ混雑したひとしお悩ましい心持になって、彼等の言葉で云う心配負(しんぺえま)けにとっつかれた状態にあったのである。 重い白土の俵を背負って、今日も禰宜様宮田は、急な坂道を転がりそうにして下りて来た。 窮した彼は、近所の山から掘り出す白土――米を搗(つ)くときに混ぜたり、磨き粉に使ったりする白い泥――を、町の入口まで運搬する人足になっていたのである。 できるだけ賃銭を貰いたさに、普通一俵としてあるところを、二俵も背負っているので、そんなに力持ちでもない彼の肩はミシミシいうように痛い。 太い木の枝を杖に突いて、ポコポコ、ポコポコ破れた古鞋(ふるわらじ)の足元から砂煙りを立てながら歩いて来た禰宜様宮田は、とある堤に荷をもたせかけるようにしてホッと息を入れた。 さっき行った人足も、やはりここでこうやって休んだとみえて、枯れかけた草を押し伏せて白土の跡が真白く残っている。 滲み出した汗を拭きながら、彼はあたりを見まわした。 すべてが寂しい。 滅入(めい)るように静かな天地には、もうそろそろ冬の寒さが争われない勢を見せて、すがれた叢(くさむら)、音もなく落葉して行く木立の梢を包んで底冷えのする空気がそこともなく流れている。 やがては霜になろうとする霧が、泥絵具の茶と緑を混ぜて刷いたような山並みに淡く漂って、篩(ふる)いかけたような細かい日差しが向うにポツネンと立っている※角子(さいかち)の大木に絡みつき、茶色に大きい実は、莢(さや)のうちで乾いた種子をカラカラ、カラカラと風が渡る毎に侘しげに鳴りわたる。 ジジー――ジジー――…… 地の底で思い出し思い出し鳴く虫の声を聞くともなく聞いていた禰宜様宮田の心のうちへは、また海老屋のことが浮んで来た。「……なじょにしたらよかっぺえ……」 幾度考えたとて、徒に同じ埒の中を堂々廻りするほかない。 彼は駸々(しんしん)と滲み出して来る無量の淋しさと、頼りなさに、自分の身も心も溺れそうな気がした。 今までは自分の後にあって、目に見えぬ支えとなっていてくれた何か、何かの力が、もうすっかり自分を見捨てて独りぼっち取りのこしたまま、先へ先へと流れて行ってしまうような心持がする。 何も彼にもが過ぎて行く……。 グングン、グングンと何でも彼んでも、皆どっかへ飛んで行ってしまう……。 いたたまれないような孤独の感に打たれて、彼の魂は急に啜泣きを始めた。 空虚(からっぽ)が彼の心にも蝕んで来た。 彼の知らない涙が、あてどもなく凝視(みつ)めているあのいい眼から、糸を引くようにこぼれ出て、疎らな髯のうちへ消えて行った。        五 収穫の後始末もあらかた付いて、農民がいったいに暇になると、かねがね噂のあった或る新道の開拓が、いよいよ実行されることになった。 町の附近にあるK温泉へ、今までは危い坂道で俥も通れなかったのを、今度その反対の側の森を切り開いて、自動車の楽に通る路をつけようというのである。 募集された人夫の一人となった禰宜様宮田は、先ず森の伐採から着手することになった。白土運びをするより賃銭も高し、切り倒した樹木の小枝ぐらいは貰っても来られるという利益があったのである。 深く、暗く、鬱蒼(うっそう)として茂りに茂っている森は、次第次第に開けるにつれて粗雑にばかりなって来た町に、まったく唯一の尊い太古の遺物であった。 すべてがここでは幸福であった。 たくさんの鳥共も、這いまわる小虫等も、また春から秋にかけて、積った落葉の柔かく湿った懐から生れ出す、数知れない色と形の「きのこ」も差し交した枝々に守られて各自の生きられるだけの命を、喜び楽しむことが出来ていたのである。 けれども、にわかに荒くれた、彼等の仲間ではこんなに無慈悲で、不作法なものはなかった人間どもが、昔ながらの「仕合わせの領内」へ闖入(ちんにゅう)して来た。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:70 KB

担当:undef