日は輝けり
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著者名:宮本百合子 

日は輝けり宮本百合子        一 K商店の若い者達の部屋は、今夜も相変らず賑やかである。まぶしいほど明るい電燈の下に、輝やいた幾つもの顔が、彼等同志の符牒のようになっているあだ名や略語を使って、しきりに噂の花を咲かせている。 けれども、変幅対と呼ばれている二人の若者は、いつもの通り、隅の方へ机を引き寄せて、一人は手紙を書き一人は拡げた紙一杯に、三角や円を描き散らしていた。「三角形BCEト、三角形DCFトノ外切円ノ交点ヲGトシ…………」 崩れるような笑声が、広い部屋中の空気を震動させて、彼のまとまりかけた考えと共に、狭い窓から、広い外へ飛び出してしまった。若者は苦々しそうに舌打をして、上気(のぼ)せた耳をおさえながら鉛筆を投げ出すと、立って向うの隅にいるもう一人の処へ行った。 彼は杵築(きづき)庸之助という本名で、木綿さんというあだ名を持っている。人間は黒木綿の着物と、白木綿の兵児帯(へこおび)で、どんなときでも充分だという主義を持っていて、夏冬共その通り実行していたからなのである。ときには滑稽だとほかいいようのないほど、馬鹿正直な、生一本な彼は、他の若い者の仲間からはずれた挙動ばかりしている。冗談も云わず、ろくに笑いもしない。徹頭徹尾謹厳だといわれたがっているように見られた庸之助は、或る意味の嫉視(しっし)と侮蔑から変物扱いにされていたのである。武士道の遵奉者であった。「浩さん! 手紙か?」彼は仲間の上に身をかがめた。「うん。もう君はお止めなのかい? まだいつもより早いんじゃあないか!」「駄目だよ。奴等の騒で考えも何もめちゃめちゃだ。何があんなにおかしいんだ。娘っ子のように暇さえあれば、ゲラゲラ、ゲラゲラ、笑ってばかりいやがる」 庸之助は、浩に対してよりも、もっと当つけらしい口調で云った。一つ二つの顔が振向いた。そしてもう一層の大笑いが、壁をゆするようにして起った。彼の口小言を嘲笑したのはいうまでもない。「あれだ! 見ろ!![#「!!」は横1文字、1-8-75]」「まあ君、そんなに怒ったって駄目だよ。宿直へでも行ったら好いじゃあないか、あすこならお爺さん一人で静かなもんだよ」「なに好いよ。今夜は……誰れ? お父さんかい?」「ああ手間ばっかりかかってね」「姉さんのことでも云ってやるのかい。同胞(きょうだい)があると、お互に三人分も四人分も心配しなけりゃあならないねえ。結句僕のように独りっきりだと、そんな心配は要らないで、さっぱりとしている。まあ書き給え、僕は湯にでも行って来ようや!」 浩は、片手で耳をおおうようにしながら、小学の子供の書く通りに、一字一字に粒のそろった、面の正しい字を書き出した。のろのろと筆を動かしてゆくうちに、彼の心持は次第に陰鬱になってきた。不幸な運命の、第一の遭遇者である彼の父、孝之進の、黒い眼鏡をかけた※(やつ)れた姿。優しい老母。気の毒な姉。 家柄からいえば、孝之進は名門の出である。けれども、若いときから、生活の苦味ばかりを味わってきた。ちょうど彼が出世の第一歩を踏み出そうとしたときに起った、政治上、社会上の大津浪が、家老という地位をも、先祖伝来の家禄をも、さらって行ってしまったので、彼の一生はもうそのときから、すべて番狂わせになった。文部省の属吏を罷(や)められてから、村長を勤めたことがあるというだけの履歴は、内障眼(そこひ)で社会的の仕事から退かなければならなくなってからの、彼等一家の生活を保障するには、何の役にも立たなかった。 世間並みの立身を望んで焦るには、孝之進は年をとりすぎたし、また不治の眼疾をどうすることも出来なかった。で、求めて得られなかったあらゆる栄誉、名望、目の醒めるような出世を、ひたすら息子の浩にのみ期待した。けれども、完全に順序だった教育をするほどの資力がないので、思いあまった孝之進は、或る知己に頼んで、浩を、ガラスや鉄材の輸入を専らにしているK商店に入れてもらった。五年前、まだ十四だった浩は、独りで上京し、自分で自分を処理して行かなければならない生活に入った。学費から食料までK商店で持って、或る職業教育を授ける学校に通わせてくれる代り、卒業すれば幾年か、忠実な事務員として報恩的に働くべき条件が、附随していたのである。 三年四年。小さいときから、いろいろなことに接してきた浩の心のうちには、さまざまな変化があった。善いことも、悪いことも、ごたまぜに、ただ彼が選ぶにまかされたような状態のうちにあって、彼の先天的の自重心、年のわりには鋭かった内省が、多少の動揺はもちろんあったが、彼を希望していた道に進ませて行った。そして、自分からいえばあまり喜ばれない心持の多かったときでも、周囲の者、特にたくさんの上役からは、いつでも正直な善い子供、若い者として認められていた。比較的、無口で落付いていることや、すべての服装が商店に育つ若い者にありがちな、一種の型から脱していたことなどが、彼をどこか他の者とは違った頭をもっているらしく思わせたということもある。もう五十を越している取締りなどは、「お前は、偉くなろうと思えば、きっとなれる質(たち)だ。うんと勉強をし、吉村さんのように主人が洋行させてくれるかもしれない」と激励するほどまでに、彼を可愛がっていた。従って、一日に一度、山の手の住宅から出かけてくるだけの主人も、店の若い者の中では、浩を一番有望な者だと思っていた。それに特別な関係――自分等で育てて一人前にしてやろうとするものが、かなり見どころある人間になってくるのを見る、先輩たちの心持――が、浩に対する信用とも、好意ともなって、表われてきたのである。 が、青年となった浩には、ただK商店の忠実な一使用人というだけでは、満足出来ない何か或るものがその衷心に起った。毎日をさしたる苦労もないかわり、また跳り上るほど大きな歓びもなく、馴れた事務を無感激にとっているだけで、自分の生活を全部とするには、不安な頼りない心持があった。彼の生れつき強い読書慾は、心に不満のあった彼を文学で癒すように導いた。浩は十七になった年から、盛に読み出した。僅かな時間を割(さ)いて図書館に通った。そして、ほんとに自分を育てて行く力というものを、自分自身のうちに発見すると同時に、すべてにおいて「自分」の自由でない毎日の生活が、ますます満足出来なかった。彼は決して贅沢(ぜいたく)なことはのぞまないが、もう少し静寂な時間と、自分独りの時間が欲しかった。けれども浩はよく働いた。真面目に上役の命令に服した。若し考えることを望むなら、それより先に食べる方を安全にしておく必要がある。それ故、目下生活状態を変えることは、不可能であった。まだ十九の、この春学校を出たばかりの者に、十五円ずつ支給してくれる位置は、そうどこにでも転がっていないことは解っていたのだ。いろいろ先のこと、また現在のことを考えると、浩は、絵葉書の集めっくらをしたり、気どった――浩には少しもよいとは思えない――先のムックリ図々しく持ち上った靴などを鳴らしていられなかった。店でくれる黒い事務服の古くなったのを、彼は外出しないときは着ることにしていた。僅かの時間を出来るだけ、利用しようと努めた。それが、変り者と呼ばれる原因である。が、彼はそんなことに頓着するほどの余裕がなかった。制せられない知識慾――押えられる場合が多いにつれて、反動的に強くなりまさってくる――は、ときどき彼に苦しい思いさえさせたのである。 浩が、暇を惜しんで勉強するとか、月給の中から、ほんの僅かずつでも、国許の両親へ送っているということなどは、彼がくすぐったいように感じる賞め言葉を、ますます増させる材料になった。何ぞというと、引き合いに出される。それも、他の多くの若い者の励ましのためだと余りはっきり解っているときなどは、彼は嬉しいどころか、かえって不愉快になりなりした。が、ともかく一族の中では、どのくらい幸運な部に属する自分か分らないと思って、彼は一生懸命に自分のほんとの道を拓(ひら)くべき努力をつづけた。けれども、ときには彼の心も情けないと感じることがあるくらい、好意の枷(かせ)が体中に、ドッシリと重く重く懸っていたのである。 浩の一族は、実際幸福に見離されたように見えた。多勢生れた同胞(きょうだい)も、皆早く死んで自分と遺ったただ一人の姉のお咲も決して楽な生活はしていない。嫁入先は、相当に名誉のあった仏師だったのだそうだが、当主――お咲の良人――恭二は見るから生存に堪えられなそうな人であった。かえって隠居の仁三郎の方が、若々しく見えるくらい衰えている。もとから貧乏なのだが、お咲が十六のとき、娘の婚期ばかり気にやんでいた母親が、自分の身分と引きくらべて何の苦情なく、嫁入らせてしまったのである。この縁を取り逃したらもう二度とはない好機らしく思われたのであった。翌年咲二が生れてこのかた、お咲の全生命は子供に向って傾注され、生活のあらゆる悩ましい思いは、子供に対する愛情でそのときどきに焼却せられながら、どうやら今日まで過ぎて来たのである。派手な、明るい世間から見れば、ざらにある、否それより惨めな家に、相当に調(ととの)った容貌を持ち、心も優しい姉が、埋もれきった生活をしているのを見るのは、浩にとって辛かった。情ない心持がした。が、或る尊さも感じていた。体の隅から隅まで、憫(いじ)らしさで一杯になっているように見える彼女の、たださえよくはなかった健康状態が、このごろはかなり悪い。どうしても只ごとでないらしいのは、彼女を知る者すべてにとって、憂うべきことである。病気になられるには全く貧乏すぎる。 姉さんにも、自分等にとっても辛すぎる。可哀そうすぎる……。 浩は「案じられ申候」という字を見詰めながら心の中につぶやいたのである。 何物かに引きずられるように、思いつづけていた彼の心は、突然起った幾つもの叫び声に、もとへ引き戻された。「うまいうまい! なかなか上手だ!」「ネ、これなら……ホラそっくりだろう!」「帰ってくると、また火の玉のようになって怒るぜ!」「かまうもんかい! そうすると、見ろそっくりこのままの面になるからハハハハハ」「フフフフフフフ」 振り向くと、笑いながらかたまっている顔が、石鹸のあぶくを掻きまわしたように見える間から、今いつの間にか作られたと見える一つの滑稽な人形がのぞいている。 括(くく)り枕へ半紙を巻きつけた所には、擬(まが)うかたもない庸之助の似顔が、半面は、彼がふだん怒ったときにする通り、眉の元に一本太い盛り上りが出来、目を釣り上げ、意気張って睨(にら)まえている。半面は、メソメソと涙や鼻汁をたらして泣いて、その真中には、どっちつかずの低い鼻が、痙攣(けいれん)を起したような形で付いていた。庸之助の帽子をかぶり、黒い風呂敷の着物を着せられたその奇妙な顔は、浩を見ながら、「どうしたら好かろうなあ……」と歎息しているように見える。浩は苦笑した。おかしかった。が、心のどこかが淋しかった。賑やかなうちに妙に自分が、「独りだ」とはっきり感じられたのであった。        二 お咲の体工合の悪いのは、昨日今日のことではない。じき体が疲れるとか、根気がなくなったとかいうことは、今更驚くほどでもないけれども、いつからとなくついた腰の疼(いた)みが、この頃激しくなるばかりであった。上気せのような熱が出たりするようになると、お咲は起きているさえようようなのが、浩にもよく分った。心を引き締めて、自分を疲らせたり、苦しませたりするものに、対抗して行くだけの気力が、姉の体からは抜けてしまったらしい。ちょうど亀裂(ひび)だらけになって、今にもこわれそうな石地蔵が、外側に絡みついた蔦の力でばかり、やっと保(も)っているのを見るような心持がした。実際お咲にとっては、小さいなりに一家の主婦という位置が、負いきれない重荷となってきたのである。 人のいない二階の隅で、部屋中に輝やいている夕陽の光りと、チラチラ、チラチラ、と波のように動いている黒い葉影などを眺めながら、お咲は悲しい思いに耽った。若し自分が死ぬとなれば、否でも応でも遺して行かなければならない息子の咲二のことを思うと、胸が一杯になった。ようよう今年の春から小学に通うようになりはなっても、何だか他人に可愛がられない子を、独り置いて逝(ゆ)かなければならないのかと思うと、死ぬにも死なれない気がした。一足、一足何か深い底の知れないところへ、ずり落ちかかっているようで、お咲は気が気でなかった。「咲ちゃん、母さんが死んじゃったらどう?」 訳の分らない顔つきをしている息子を、傍に引きよせながら、お咲は淋しく訊ねた。そして、ひそかに期待していた通りに、「死んじゃあいや!![#「!!」は横1文字、1-8-75]」と、はっきり一口に云われると、滅入っていた心も引き立って、「ほんとうにねえ。今死んじゃあいられないわ」と思いなおすのが常であった。小さい手鏡の中に荒れた生え際などを写しながら、「まあずいぶん眼が窪みましたねえ。こんなになっちゃった……。死病っていうものは、傍(はた)から見ると、一目で分るものですってねえ。ほんとにそうなんでしょうか? あなたどうお思いなすって?」と云ったりした。「私なんかもう生きるのも死ぬのも子のためばかりなんですものねえ、咲ちゃんのことを思うと、ちょっとでも、もう死んだ方がましだと思ったりしたことが、こわくなるくらいよ」 浩が買って来た人参を飲んだり、評判の名灸に通ったりしても、ジリジリと病気は悪い方へ進んで行った。普通なら大病人扱いにされそうに※れたお咲が、せくせくしながら働いているのを見ると、浩は僅かばかりの雪を掌にのせて、輝く日光の下で解かすまい解かすまいとしながら立たせられているような心持になった。目に見えて姉の体は、細く細くなって行く。けれども自分の力ではどうにもならない。大きな力が、勝手気ままに姉の体を動かして行くのを、止めたとてとても力が足りない。ただ涙をこぼしたり思い悩んだりするほかしようのない自分等が、浩には辛かった。激しい波浪と闘いながら、辛うじてつかまり合っているような自分達のうちから、また一人攫(さら)われて行くということを、考えてさえゾッとしずにはおられなかった。自分と年のあまり違わないただ一人の姉、女性という、同情の上に憧憬的な敬慕を加えて感じている者の上に、死を予想するのは堪らない。彼は死なせたくなかった。ほんとうに生きていて欲しかった。出来るだけ姉に力をつけながら、浩はつくづく自分がふがいないというように感じたりしたのである。 家の中を歩くのさえ大儀になってからはお咲も、もう死ぬときがきたと感じた。「死ななけりゃあならないんだろうか?」 お咲は、誰にともなく訊ねた。「私が死ぬ? 今?」 動けなくなる前に、せめて咲二の平常着(ふだんぎ)だけでも、まとめたいと、お咲は妙にがらん洞になったような心持を感じながら、鍵裂きを繕ったり、腰上げをなおしたりした。学校へも一度は是非行って、よくお願いもしておきたいと思っていると、或る日、先生の方から咲二に、呼び出しの手紙を持たせてよこした。一月に一度か二度は、きっと学校に呼ばれて、お咲は、人並みでない咲二について、親の身になれば情ない、いろいろの小言を聞かなければならなかったのである。 四月の第一日。R小学校の運動場には、新入学の児童が多勢、立ったり歩いたりしていた。最後に教室から出されて、小砂利を敷きつめた広場の一隅に並ばされた一群の中には、紺がすりの着物を着た咲二が混っていた。付き添ってきた母親達の傍に二列に立ちどまらせると、「皆さん! 右と左を知っていますか? お箸を持つのはどっちでしょう?」と先生が笑いながら訊ねた。「先生僕知ってます!」「僕も!」「僕も知ってます!![#「!!」は横1文字、1-8-75]」 元気な声が、蜂の巣を掻き立てたように叫んだ。咲二も何時の間にか知っていた。お咲は有難かった。「それじゃあ、今先生が右向けえ右! と云いますから、そうしたら皆さん右を向いて御覧なさい。さあよしか、右向けえ、右!」 子供達は機械のように、体中で右向けをした。たくさんの足の下で、崩れる小石のザクザクという音、楽しげな笑声が、明るい四月の太陽の下で躍(おど)った。 けれども! 咲二だけは動かない。 お咲は目の前で、青い空と光る地面とが、ごちゃ混ぜになったような気がした。頭がひとりでに下った。 振返って、この様子を見た先生は、意外な顔をして訊ねた。「なぜ右を向かないの?」「僕右向きたくない!」 母親達の中から、囁(ささや)きが小波のように起った。「面白いお子さんですこと」と云う一つの声が、咎(とが)めるようにお咲の耳を撃った。 先生は体をこごめて何か云った。そして、「好い子だからね」と云いながら、頭を撫でて、両手で右を向かせた。先生の顔には、始終微笑が漂っていた。手やわらかであった。が、屈んでいた体を持ち上げた彼の眼――詰問するように母親達の群へ投げた眼差し――を見た瞬間、お咲は直覚的に或ることを感じた。「もう憎まれてしまった!」「あれが始まりだったのだ」とお咲は思い廻らした。「何もお前ばかり悪いんじゃあないわねえ」いない咲二を慰めるようにつぶやいた彼女は涙を拭いた。 翌日は大変暑かった。が押してお咲は出かけた。毎度の苦情――注意が散漫だとか、従順でないとかいうこと――が、並べられた。そして注意しろと幾度も幾度も繰返された。 妙に念を入れた、複雑な表情をして云った気をつけろ、注意をしろという言葉の中から、彼女は何か心にうなずいた。帰途に買った一ダースの靴下を持って、翌(あく)る日遠いところを先生の家まで行って、とっくりと咲二のことを頼んできたのである。なぜ早く気が付かなかったろうというような軽い悔みをさえ感じた。 二日つづけて、暑い中を歩いたことは、お咲の体に悪かった。帰宅するとまもなく、彼女は激しい悪寒(さむけ)に襲われ、ついで高い熱が出た。開けている下瞼の方から、大波のように真黒いものが押しよせて来て暫くの間は、何も、見えも聞えも、しないようになった。押えられ押えられしていた病魔が、一どきに彼女を虐(さい)なみにかかったのである。 浩が驚いて駈けつけたときには、お咲は熱と疲労のために、病的な眠りに落ちていた。 熱の火照(ほて)りで珍らしく冴えた頬をして、髪を引きつめのまま仰向きに寝ているお咲の顔は、急に子供に戻ったように見える。荒れた肌、調子を取っている鼻翼の顫動、夢に誘われるように、微かな微笑が乾いた唇の隅に現われたり、消えたりした。浩は、陰気な火かげで、かつて見たことのなかったほど活動している彼女の表情を見守った。彼女の持っている、すべての美くしい魂が、この貧しくきたない部屋の中で、燃え輝やいているように彼は感じた。紫色の陰をもって、丸く小さく盛り上っている瞼のかげで、いとしい、しおらしい姉の心はささやいているようであった。「ほんとうに、可哀そうな私共! 私達の気の毒な一族……。けれども、今私が死ななけりゃあならないということを、誰が知っているの?」 あやしむような、魅惑的な微笑が、彼女の唇に浮んで、また消えた。        三 お咲の病気は、皆が予期していたより大病であった。手後れと、無理な働きをしたのが、一層重くさせていた。骨盤結核という病名で、お咲は神田のS病院に入院して手術を受けたのである。 このことを知らされた国許の親達は、非常に驚いた。まさかこれほどまでになろうとは、誰も思っていなかったので、暫くは何をどうして好いやら、途方に暮れたような様子であった。 孝之進は、娘の病気などには、少しも乱されないように、強いて心を励ました。死ぬのではあるまいかという不安。どうかしてなおしてやりたいものだという心持などが、追い払ってもしつこくつきまとって心から離れなかった。八人も生れた子はありながら、その中の六人まで連れて行ってしまった死神が、今また大切な一人をねらっていると思うと、年をとり、心の弱くなった孝之進は堪らなかった。いろいろな心痛で、とかく心が打ち負かされそうになっても、彼は老妻のおらくなどには、一言も洩さなかった。人間一人二人の死は、さほど悲しむべきものと考えないように教育された若いときの記憶習慣が、孝之進の心に、何かにつけて堪え難い矛盾を感じさせた。仏壇の前に端坐して、祈念を凝(こら)している妻の姿などを、まじまじと眺めながら、彼は「女子(おなご)は楽なものじゃ」と思った。女は泣くもの歎くものと昔から許されていることも、口先では侮(あな)どっているものの、衷心ではほんとに美しいこともある。涙を浮べながらでも笑わずに済まない男の意地――たといそれは孝之進が自分ぎめの考えではあったにしろ――はずいぶんと辛いものであった。娘が病気になってから、おらくは、以前よりはっきりと、地獄、極楽の夢を見るようになった。 或るときは一家睦まじく一つの蓮の上に安坐していることもあり、また或るときは、お咲だけが、蓮から辷り落ちて、這い上ろうとしながら、とうとう、下のどこか暗い方へ落ちて行ってしまったところなどを見た。生きるのも死ぬのも因縁ごと、如来様ばかりが御承知でいらっしゃると観じている彼女は、怨むべき何物も持たない。精進を益々固く守り、彼女にとっては唯一の財宝である菩提樹(ぼだいじゅ)の実の数珠が、終日その手からはなれなかった。「南無阿彌陀仏、阿彌陀様!」 おらくの瞼は自ずと合った。「若し生きますものなら、どうぞお助け下さいませ。また若しお迎え下さいますものならば、どうぞ極楽往生の出来ますように……」 サラサラ、サラサラと好い音をたてて数珠を爪繰(つまぐ)りながら、おらくは涙をこぼした。「私のこの婆(ばば)の力で何ごとが出来ましょう……?」 その間にも、お咲の弱りきった体のすぐ上のところまで、しばしば死が迫ってきた。今か、今かとまで思われたことも一度や、二度ではなかった。けれども、いつも、もう一息というところで、彼女の若さが踏み止まった。一週間も危篤な状態を持ちつづけると、もうほんのほんの少しずつ生きる望みが湧いてきた。そして、急にどういうことはないと云われるまで、皆は自分等まで一緒に死にかかっているような心持でいたのである。風に煽おられて、今にも消えそうに、大きく小さく揺らめいたり、瞬(またた)いたりしていた蝋燭の焔が、危くも持ちなおした通りに、快方に向くと彼女のまわりは、にわかにパッと明るくなった。安心と歓喜と、愛情の強いほとばしりで、お咲の病床に向って、楽しげに突進して行くように浩は感じた。当面の死から逃れ得たことは、彼女の生命が永久的に保証されたかのような安心をさえ与えたのであった。運がよかったということが口々に繰返され、医者まで、「全く好い塩梅でしたなあ!」と、自分等の技術に対してよりも、むしろ何か無形の力に対して感歎しているらしいのを見ると、浩も、「ほんとに危ういことだった」としみじみ感じない訳には行かなかった。そして、あれほど生かそうとする力と死なそうとする力が、互に接近し、優劣なく見えていたときに、ほんの機勢(はずみ)といいたいほどの力が加わったために、彼女が今日こうやっていられるのだと思うと、何だか恐ろしかった。自分が一生送る間に――もちろん一生といったところで、その長さを予定することは出来ないが――今度のような、微妙な力の働きを感じて、心を動かされることがどのくらい多いのだろうかと思うと、もっとせっせと、根柢のある心の修練を積んでおかなければ、不安な心持もしたのである。姉の発病以来、浩は自分の心があまり思いがけない作用を起すことに我ながら驚ろかされている。 或ることに対して、ふだんこう自分はするだろうと思っていたこととはまるで反対に、或は同じ種類ではあっても、考えもしなかった強度で、いざというとき心が動いて行く。ふだん思っていることは、もちろん単に予想にすぎないのだから、絶対にそうなければならぬものではないが、あまり動じ過ぎたと思うことはしばしば感じられた。むやみにびっくりし、感歎し、悲しみ、歓び、たとい僅かの間ではあっても、ほとんどその感情に自分全体を委せてしまうようなことのあるのは、嬉しいことではなかった。いかにも軽浮な若者らしいことも苦々しかったのである。 単に浩にとってばかりでなく、お咲の病気は家中の者の心に、大変有難い目醒めを与えた。散り散りバラバラになっていた幾人もが、彼女のために一かたまりになって働くというのは、今まで感じられなかった互の位置とか力量とかを認め合う機会ともなり、かなり純な同情をお咲に持つことも出来させて来た。いろいろな苦労はあっても、皆の心は割合に穏やかに保たれていたのである。 その晩は大変蒸暑かった。星一つない空から地面の隅々まで、重苦しく水気を含んだ空気が一杯に澱んで、街路樹の葉が、物懶(ものう)そうに黙している。 かなり長い路を、病院から帰ってきた浩は、もういい加減疲れていた。小道を曲って、K商店の通用門を押した。厚い板戸がバネをきしませながら開くと、賑やかな笑声が、ドーッと一時に耳を撲(う)った。明るい中で立ったりいたりするたくさんの人かげが、硝子越しに見える。外界からの刺戟にも、内面からの動揺にも、絶えず緊張し通して一日を送った彼は、せめて寝る前僅かでも、静寂な、落付きのある居場所を見出したかった。 陽気すぎる中に入れきれずに暫く立っていた浩は、やがて思いなおして、一歩入り口に足を踏み込もうとした瞬間、隅の暗がりから、不意に彼の袴を引いたものがある。「浩君! ちょっと……」 彼をもとの往来に誘い出したのは、庸之助であった。街燈の下まで来ると、彼は立ち止まった。憚(はば)かるようにキョロキョロと周囲を見まわしてから、一枚の地方新聞を浩の前に突出すと、往き来するものが、浩のそばへよらないように、彼の体の近くを行きつ戻りつしはじめた。 何から何まであまり不意だったので、訳の分らなかった浩は、云われるままに新聞を見ると、庸之助のつけたらしい、爪や涙のあとのある部分には、読者の興味を、さほど期待しないような活字と標題(みだし)で――郡役所の官金費消事件が載せられていた。「――郡!……?」 浩の脳裡を雷のように一条のものが走った。皆解った。庸之助の父親はここの郡書記をしているのであった。果して、拘引された者の一人として、杵築好親という名が、並べてある。浩は何だか変な心持になった。それは悲しいのでも、恐ろしいのでもない。苦甘いような感情が一杯になって、庸之助に何と云ったら好いのか、解らなかった。彼は新聞をもとのように畳みながら、だまっていた。「見たか?」「うん!」「どうしたら好かろう……」 二人はそろそろと歩き出した。 正直そうな、四角い――目や鼻が几帳面に、あまりキッチリ定規で引いたようについていて、どこにも表情のない――庸之助の顔は、青ざめて引き歪んでいる。例の紺木綿の着物の衿に顎を入れて、体中で苦しんでいるらしい姿を見ると、大きな声で唄うように字を読みながら植えて行く、植字小僧のことを、浩は思い浮べた。「杵築、杵築……好、好親!」と平気に、何事もなく植えられたのだ。変な感じは、一層強く彼の心に拡がったのである。「親父は何にしろ、あまり敵を作るからね……」 庸之助は、僅かずつ前へ動いて行く足の先を見ながら、独言するように云った。「ああいう役所にいて、頭の下らない者は損だよ。今度のことも、いずれ平常から親父を憎んでいる奴がこのときこそと思って、企らみやがったのだと思うがなあ……。皆世の中が腐敗したからなんだ。親父のように硬骨な者は、出来るだけすっこませようとばっかりしやがる!」 常から、現代の種々な思想、事物に反感を持って、攻撃ばかりしている庸之助は、今度のことに持論を一層堅たくしたらしく見えた。彼が「今」に生きている人間であるのを忘れたように、この事件のかげに潜んでいることを罵倒した。「君は僕の親がそんな破廉恥な所業をすると思うかい? え?」 庸之助は、浩が当の相手のように、意気まいて、つめよりながら鋭く訊ねた。「僕の親父はそんな人間だと思うかよ!」「そんなことはあるまいとは思うが、僕には分らない」「なぜ分らないんだ?」憤りで声が太くなった。「なぜ分らないんだ? 君には、悪いことをしそうな人間と、善いことをしそうな人間とが分らないのか? かりにも僕の親が、僅かな金、いいか金のためにだよ、祖先の名を恥かしめるような行為をするかというんだ! 貧乏したって武士は武士だ、そうじゃあないかい、馬鹿な!」 興奮してきた庸之助の眼からは、大きな涙がこぼれた。啜泣(すすりな)きを押えようと努める喰いしばった口元、顰(しか)めた額、こわばった頬などが、動く灯かげをうけて、痛ましくも醜く見えた。彼の胸は、八裂(やつざ)きにされそうに辛かった。 世の中の「悪」といわれるような誘惑や機会は、たといそれがいかほど巧妙に装い、組み立てられて来ようとも、信頼すべき父親と自分の、士(さむらい)の血の流れている心は、僅かでも惑わせないものだという、平常の信念に対して、このように恥辱な事件に父の名が並べられるというのは! あんまりひどすぎる。彼は大地が、その足の下で揺ぐように感じた。口惜しい、恥かしい、名状しがたい激情が、正直な彼の心を力まかせに掻きむしった。あてどのない憎しみで燃え立って庸之助は、「うせやがれ! 畜生!![#「!!」は横1文字、1-8-75]」と叫んだ。往来の者が皆この奇怪な若者に注意した。そして或る者は嘲笑い、或る者は同情し、恐れた若い女達は、ひそかに彼の方を偸(ぬす)み見ながら、小走りに駆ぬけて行った。 ずいぶん長い間歩いていつもの部屋に帰るまで、浩はほとんど一言も口を利かなかった。どうしても口を開かせない重いものが、彼の心じゅうを圧しつけていたのである。 その晩彼は、いろいろなことを考え耽った。「或る方へ或る方へと向って押して行く力に抵抗して、体をそらせ、足を力一杯踏張って負けまい負けまいとしながらいざというときに、ほとんど不可抗的な力で、最後の際まで突飛ばされる心持を、或る時日と順序をもって、こういう事件を起す人々は感じないだろうか? 悪そのものに、興味を持っているのでない者は、踏みこたえよろよろとする膝節が、ガックリ力抜けするまでに、どのくらい体中の力を振り搾るか分らない。けれども現われた結果は、なるようにしかならなかったのである」 浩は、自分の内心に起る、実にしばしば起る、強みと弱みの争闘――自分という人間が、その長所に対して持っている自信と、その弱点に関する自意識との争――がもたらす大きな大きな苦痛を思うと、また、自分が或るときは非常に善い人間であるが、或るときはもうもう実に卑小な人間にもなるということを思うと、とかく踏みとどまりきれずに、どうにもならない際まで行ってしまう世間多数の人間を、「あいつは馬鹿だ!」とか、「思慮が浅いから、そうなるに定まっているのさ!」などと、一口には云いきれなかった。お互の長所を認めて、尊重し合って行くことは立派だ。けれどもまた、互に許し合い助け合って行きたい弱点も各自が持っているのだと思うと、浩は涙がこぼれた。 庸之助が仲間の目を盗んで、あの記事の出ている新聞を隠そうとして、畳んで懐に入れてみたり、机の中に押し込んだり、それでも気が済まぬらしく、鞄まで持ち出して、部屋の隅でゴトゴトやっているのをみると、浩はオイオイ泣きたいような心持になった。「君はきっと、出来るんなら、日本中の新聞を焼き尽してでもしまいたいんだろう? なあ庸さん!」 庸之助の父のような位置にあり、境遇にある人が、今度のような事件に、全く無関係であり得ようと、浩には思えなかった。        四 薄紙を剥ぐように、というのは、お咲の恢復に、よく適した形容であった。全く気の付かないほど少しずつ彼女はなおってきた。血色もだんだんによくなり、腕に力もついてくると、彼女の全身には、恢復期の何ともいえず活気のある生の力が充満し始めた。そして、哀れなほど、若い母親として送った二十(はたち)前の凋(しぼ)んでしまった感情が、またその胸に蘇(よみがえ)ったのである。 寝台の上に坐っているお咲の目には、開け放した窓を通じて、はてもない青空が見渡せた。かすかな風につれて窮まりもなく変って行く雲の形、あかるい日の光を全身にあびて、あんなにも嬉しそうに笑いさざめいている木々の葉、その下にずらりと頭をそろえている瓦屋根。「ア! 烏が飛んできた! 猫が居眠りをしている……。まああそこに生えているのは、何という草なんだろう? おかしいこと、あんな高い屋根の上に――、ずいぶん呑気そうだわねえ……」 子供のように、微笑みながら、先の屋根に、キラキラしながら、そよいでいるペンペン草を眺めていると、夏の眠い微風が、静かに彼女の顔を撫でて通った。彼女の耳は、風に運ばれてきたいろいろな音響――かすかな楽隊、電車のベル、荷車のカタカタいう音、足音、笑声――をはっきり聞きとった。と、同時に、「あ……私は助かった、ほんとに助かった!![#「!!」は横1文字、1-8-75]」という感じが、気の遠くなるような薫香をもって、痛いほど強く彼女の心をうった。「ほんとに私は助かった。こうやって生きていられる!」思わず嬉し涙がこぼれた。魂の隅から隅まで、美しい愛情で輝き渡って。誰にでもよくしてあげなければすまない心持になり、彼女は歓喜の頂点で、啜泣いたのである。 この不意な、彼女自身も思いがけないとき、目の眩むほどの勢で起ってくる感激は、珍らしいことではなかった。食事の箸を取ろうとした瞬間に、二本の箸を持っている手の力が抜けるほど、心を動かされたこともある。軟かい飯粒を、一粒一粒つまみあげて、静かに味わって喜ぶほど、彼女のうちにはこまやかな、芳醇(ほうじゅん)な情緒が漲(みなぎ)っていたのである。「私ほんとうに今まで浩さんに、済まないことばっかりしてきたわねえ。どうぞ悪く思わないで頂戴」 二人は向い合っていた。「なぜです? そんなことあ何んでもないじゃあありませんか、お互っこだもの……」「そりゃああなたはそう思っていてくれるけれど……でも何だわね、あなたが親切にしてくれるほど、私は親切じゃあなかったのは、ほんとうよ」 口を開(あ)こうとする浩を遮(さえぎ)って、お咲はつづけた。「姉なんだから、そのくらいしてもらうのは当り前だと思っていたんだけれど、この頃は何だか今まで、皆にすまないことばかりしていたような気がしてたまらないのよ。ずいぶん怨んだり――そりゃあまさか口には出さなくってもね――したことだってあるのを、皆がこうやって私一人のために尽してくれるのを思うと……(涙がとめどなく落ちて、言葉を押し殺してしまった)ほんとに有難いの。私が悪かったことを勘弁して欲しいのよ浩さん、私もできるだけ親切にするわこれから……。貧乏すると心が悪い方へばかり行くわねえ」 浩は大変嬉しかった。姉と一緒に涙をこぼしながら、一言、一言を心の底から聞きしめた。独りで堪えなければならない苦痛で、堅たくなったような胸を、やさしく慰撫されるのを感じた。彼が折々夢想する通り、身も心も捧げ尽してしまいたいほど、尊い立派な心を所有する女性のようにも思われる。彼の年がもっているいろいろな感情が燃え立って、どんな苦労も厭わないというほどの感激が、努力するに一層勇ましく彼を励ましたのであった。 お咲のこの涙のこぼれるやさしい心持は、彼女の周囲のすべての心を和らげた。私立のとかく三等の患者などに対して、一種の態度を持つ癖のついている病院内の者まで、お咲に対して圧迫するような口は利けなかった。皆が彼女に好意を持ち、「五号の患者さんは、何て心がやさしいんでしょうねえ」などと看護婦が噂するほどであった。が、一日一日とかさんで行く費用が、家族の頭を苦しめる問題であった。金策のため、孝之進の出京はますます必要になってきたのである。 手紙ばかり、いくら度々よこされても、孝之進は上京する決心が着かなかった。金のできるあてもない。それをただ体ばかり運んでいっても仕方がないと思っていたのである。――藩の近習として、家老の父を持ち、ああいう生活をしていたこの自分が、今、娘の療治に使う金さえ持たないということを考えると、憤りもされない心持がした。どうにもならない時世が、あのときとこのときとの間に、手を拡げていることを孝之進は感じた。が、事態は終に彼を動かしてしまった。あるだけの金を掻き集めて、孝之進は上京したのである。 東京に行ったところで、何一つ自分を喜ばせるものはないのだと、思いきめて来てみると、先ず第一停車場に出迎に来ていた浩を見たときから、それはまるで反対になってしまった。 あんなに小(ちっ)ぽけな、瘠せた小伜(せがれ)であった浩が、自分より大きな、ガッシリと頼もしげな若者になっているのを、むさぼるように見ると、「オー」という唸り声が口を突いて出た。「生意気そうな若者になりおったなあ」 肩を叩きながら、彼は泣き笑いした。 彼の一挙一動はひどく浩の心を刺戟した。身のこなしに老年の衰えが明かになって来た彼、少くとも浩の記憶に遺っていた面影よりは、五年の月日があまり年をよらせ過ぎたように見える彼に対して、浩は痛ましい感にうたれた。そして浩がさとった通り、孝之進は健康な息子に会うことも、生きられた――ほんとうに、もうすんでのところで、してやられるところだった危い命を取り止めた――娘に話すことがどのくらい嬉しかったか分らないのである。けれども、金のことになると――。孝之進の頭はめちゃめちゃになった。堪らなかった。そして歯と歯の間で、彼はいまいましげに唸るのであった。 電車が! 自動車が吠えて行く。走る車、敷石道を行く人の足音。犬がじゃれ、子供が泣き、屋根樋に雀が騒ぐ……。自転車が蹴立てて通る塵埃(じんあい)を透して、都会の太陽が、赤味を帯びて照っている。 正午(ひる)少し過ぎの、まぶしい町を孝之進は臆病に歩いて行った。何も彼も賑やかすぎ、激しすぎた。目が不自由なため、絶えず危険の予感に襲われている彼は、往来を何かが唸って駆け抜けると、どんなに隅の方へよっていても、のめって轢(ひ)かれそうな不安を感じた。縋(すが)る者もない彼は、脇に抱えた縞木綿の風呂敷包みをしっかりと持って、探り足で歩いた。国から持ってきた「狙仙」の軸を金に代えようとして行くのである。鈍い足取りで動く彼の姿は、トットッ、トットッと流れて行く川面に、ただ一つ漂っている空俵のように見えた。「これはどんなものだろうな?」 孝之進は、自分で包から出した「狙仙」を、番頭と並んで坐っている主人に見せた。「さあ、どれちょっと拝見を……」 利にさとい主人は、絵を見る振りをして、孝之進の服装(みなり)その他に、鋭い目を投げた。そして何の興味も引かれないらしい、冷かな表情を浮べながら、「真物(ほんもの)じゃあございませんねえ……」と云った。列(なら)べてある僅かの骨董などを、ぼんやり見ていた孝之進は、さほど失望も感じなかった。「そうかな? 頼んだ人は(彼はちょっとためらった)真物に違いないと云っておったんだが……」「ハハハハ。そりゃあどうも……。こう申しちゃ何でございますが、贋物(にせもの)にしてもずいぶんひどい方で。へへへへ」 それから主人は、孝之進がうんざりするほど、贋だという証拠を並べたてた。「が、せっかくでございますから、十円で宜しきゃ頂いときましょう。それもまあ、狙仙だからのことで……」 孝之進は、主人が列挙したような欠点――例えば、子猿の爪の先を狙仙はこう書かなかったとか、眼玉がどっちによりすぎているとかいう――を、一つ一つ真偽の区別をつけるほど、鑑賞眼に発達していない。(若し主人のいうことが事実としたら)それに、また持って歩いて、どうするという気になれないほど、体も疲れている。「一層(いっそ)売……」けれども、考えてみればかりにも家老の家柄で、代々遺して来たものに、偽物のあることは、まあ無い方が確かだろうとも思われる。うっかり口車になど乗せられて堪るものかと感じた。で、彼は売るのをやめて、帰ろうとまで思ったが、差し迫っては十円あってもよほど助かる。彼はとうとう決心をした。そして、皺だらけな札と引きかえに、家代々伝わってきた「子猿之図」を永久に手離してしまったのである。        五「ホーラ見ろ!![#「!!」は横1文字、1-8-75]」 庸之助は飛び上った。 若し万一、かの記事通りの恥ずべき行為があったなら、親子もろとも、枕を並べて切腹するほかないとまで思いつめて、事実を訊ねてやった返事として、父自身で書いたこの、この手紙を貰ったのだと思うと、五日の間あれほどまでに苦しんだ煩悶が、驚歎せずにはいられない速さで、彼の心から消えてしまった。激しい嬉しさで、彼はどうして好いか解らなかった。ひとりでに大きな声が、「ホーラ見ろ! 僕の思った通り、きっかりその通りじゃあないか! 見ろやい!![#「!!」は横1文字、1-8-75]」と叫んで、じっとしていられない二つの手が、無意識に持った手紙をくちゃくちゃにまるめた。書面のあちらこちらに散在している「公明正大」という四字が、天から地まで一杯に拡がって、仁丹の広告のように、パッと現われたり消えたりしているのを彼は感じた。「さすがは父さんだ。偉い! 見上げたものだ。なにね、そりゃ始めっからキットこうなんだとは思っていたんだが、ちっとばかり心配だったんでね、父さん! ハハハハハ」 満足するほど、独りで泣いたり笑ったりしたあげく、融けそうな微笑を浮べながら、庸之助は部屋に戻ってきて、何か書きものをしている浩のところへ、真直に進んで行った。肩に手をかけた。「オイ! よかったよ!」 弾んだ声が唇を離れると同時に、肩に乗せていた彼の手の先には、無意識に力が入って、握っていたペンから、飛沫(しぶき)になってインクが飛び散るほど、浩の体をゆりこくった。「う?」「よかったよ君! もうすっかり解った。何でもなかったんだよ!![#「!!」は横1文字、1-8-75]」 笑み崩れた庸之助の顔が、「あのことだよあのことだよ」と囁やいた。「え? ほんとうかい? ほんとうに何でもなかったんかい? そーうかい! そりゃあほんとによかったねえ君! ほんとうによかった!」 極度の喜びで興奮して、ほとんど狂暴に近い表情をしている庸之助の顔を、一目見た浩の顔にもまたそれに近いほどの嬉しさが表われた。「よかったねえ。おめでたかったねえ……」 浩は、庸之助の肩を優しく叩きながら、感動した声でいったのである。「情けないが事実に違いないと思ったのに……。そうだったのか! ほんとうに何よりだ。嬉しいだろう? 君! 結構なことだったなあ!」 庸之助は、翌日から浩の目には、いじらしく見えるほど、元気よく、一生懸命にすべてのことにつとめた。店の仕事はもちろん、自習している数学や英語にでも、今までの倍ほどの努力を惜しまない。そして、わざわざ浩を捕えては、「あのとき、君は分らないって云ったねえ」と、そのつど新しい喜びに打たれるらしい声で繰返しては、愉快げに笑った。 けれども、事件はまるで反対の方に進行していたのであった。有力な弁護があったりして、一旦帰宅を許されていた好親は、ちょうど好い工合にそのとき、息子からの手紙を受取り、返事を遣(や)った。が、それが東京へ着いたか着かぬに、彼の最も信用していた男が、予審でうっかり一言、口を滑らしたがために、好親の運命は、最も悪い方に定まってしまった。予審、公判、宣告、すべては順序よくサッサと運ばれ、彼は二年の苦役を課されたのである。 庸之助の「信頼すべき父親」の一生に、最後の打撃が与えられた日の翌日は、祭日であった。 浩は朝早く店を出て、十時過になって帰って来た。一歩、部屋の中にふみ込んだとき、浩は自分を迎えた数多(あまた)の顔に、一種の動揺が表われているのを直覚した。ざわめいた、落着きのない空気が彼の周囲を取り囲んだ。浩は、何か求めるように部屋中を見まわして、「どうかしたのかい?」と云おうとした刹那、その機先を制して、興奮した声で奥の方から、「庸さんが帰っちゃったよ。親父が、牢屋へぶちこまれたんだとさ!」と叫んだ者がある。訳の分らない笑い声が起った。そして誰も誰もが、変幅対の相棒を失った彼――何ぞといっては庸之助の味方になっていた彼――が、どんなにびっくりもし、失望もすることかというような、好奇心に満ちた目をそばだてた。けれども、皆は少しがっかりした。彼等の期待していた通りに場面は展開されなかったのである。浩は庸之助のことなどに無関心であるかと思うほど、平然としていた。「そんなことが、なんだい?」と云っているように見える。少なくとも、若い者達の予期を全然裏切った態度に見えた。が、彼の衷心はまるで反対であった。複雑な感動で極度に緊張した彼の頭は、悲哀とか、驚愕とか、箇々別々に感情を切りはなして意識する余裕を持たなかった。心のどこかに、大穴がポッカリ明いたようでもある。体中に強い圧(おもし)を加えられているようで、息苦しかった。目の奥で天井と床が一かたまりに見えるほど混乱しながら、傍で見れば、茫然と無感動らしい挙動で、浩は今まで庸之助の使っていた机上に、並べられてある遺留品を眺めていた。使いかけの赤、黒のインク壺、硯、その他塵紙(ちりがみ)や古雑誌のゴタゴタしている真中に、黒く足跡のついた上草履が、誰かのいたずらで、きっちり並べられてある。指紋まで見えそうに写っている足跡を見ると、浩は急に、年中湿って冷たかった、膏性(あぶらしょう)の庸之助の手の感触を思い出した。その思い出が、急に焼けつくほどの愛情を燃え立たせた。彼の心に、はっきりと淋しさが辷り込んで来た。涙がおのずと湧いた。「とうとうこうなったなあ……。あの人も好い人だったのに!」 自分の机に坐って、あて途もなくあるものに、手を触れて心をまぎらそうとしていた彼は、鉄の文鎮(ぶんちん)の下に、一本の封書を発見した。ハッと思って、一度目はほとんど意味も分らずに読んだ。二度三度、浩は一行ほか書いてない庸之助の置手紙を離そうともしなかった。それは端々の震えた字――読み難いほど画の乱れたよろけた字――で、「もう二度とは会わない。親切を謝す。Y生」と、弓形(ゆみなり)に曲ってただ一行ほか書かれてはいなかったが、浩にとっては、それ等の言葉から三行も四行もの意味がよみとれたのである。「木綿さん」というかわり、もう庸之助には、「火の子」という綽名(あだな)が付いていた。赤い着物の子で、それ自身もいつ、火事を起すか解らない危険性を帯びているからというのであった。 平常からずいぶん反感は持ちながら、さほどの腹癒せもできずにいた者達は、庸之助の不幸をほんとに小気味よくほか思っていないことは、浩に不快なやがては、恐しいという感じを起させた。抵抗力のないものに対して、どこまでも、自分等の力を振りまわし、威張り、縮み上らせたがっているらしいのが、厭(いや)であった。雇人が勤勉であることを希望しながら、一種の雇人根性を当然なものとして扱いつけている、店の先輩達は、庸之助が去るときまで持続した、忠実な態度を、そのまま無邪気にうけ入れられないらしかった。こうなると、彼が正直で、よく働く若い者であったという、普通ならば、賞(ほ)めらるべき経歴まで、悪罵の種にほか、なろうともしなかった。甲が三つだけ彼を悪く云うと、乙は五つまで、丙は十までと、どんづまりまで悪いだらけにしなければ、気が済まないらしく見える。そして、今まで店内で起った種々の不祥事件――たとえば、ちょっとした金銭の行違いや、顧客(とくい)先の失敗とかいうこと――は皆、庸之助のせいにされた。何の罪もない彼を、寄ってたかって罵倒するのを、幾分か肯定し、援助するような表情をして黙って聞きすてて置く者などを見ると、浩は擲(なぐ)りつけたいほど、腹が立った。ひどいと思った。けれども、口で云うほど内心では庸之助に対して、好意も悪意も、さほど強くは感じていないことが次第に解って来た。「あん畜生が、どうこうしやがった」などと、平常は慎しまなければならない言葉も、或る程度までは思う存分ぶちまけられ、庸之助という主題に、関してだけは、下等な戯言(たわこと)も批評も、かなり黙許されているような店中の空気が、平坦な生活に倦怠している若い彼等を、十分興奮させているのが、浩には分り出した。すべてが興味中心で動いて行く。面白半分である。そして或る者は、幾分庸之助に同情を持ちながら、大勢に反した行為をするだけの勇気を持たないで済まないように思いながら、皆の中に混って心ならずも、嘲笑したり、罵ったりしているのも見られた。浩は庸之助に強い強い同情を燃やしながら、また一方には、仲間の者達にも、哀憐(あいれん)の勝った好意を持っていたのである。        六 庸之助が去って、三日になり四日になった。ああして行きはしたものの、会わないで別れたことでもあり、葉書ぐらい寄こすだろうと、心待ちに待っていた浩は、その望みもそろそろ断念しなければならなくなった。興奮し通していた心持が、次第に落着くに従って、彼は、ほんとうの衷心から涙の滲み出るような思い出や、考えに耽り始めた。 それは、ちょうどその月の決算にほど近い日であった。或る一人が不意に、庸之助の扱かっていた帳簿を、一応検べる必要を云い出した。庸之助のいた時分は、かなり彼を信用していたはずの者まで、今までそのことに不念だったのを、取り返しのならぬことをしたような表情を浮べて、昼の休みを潰(つぶ)して、数字、一字一字から、説明書まで検べて行った。何か面白い発見でもするように、大声で庸之助の書いた金額を代帳に引きくらべて読み上げるのを聞きながら浩は、妙な心持がした。辱かしめを受けているような、また安心と不安の入混った心持になっていた。「庸さんには、絶対にそんな心配は無用だ!」 浩はそれだけで満足していたかった。けれども、それを許さない、自分自身の心の経験を持っていたのである。 限られた僅かばかりの金で、自分が望んで望んでいた本を買う。これと、これとを買いたいのに、持っている金では一銭足りないというとき――ほんとに持っている人から見れば、金銭という感じを起させられないほど僅かな一銭――、自分の心のうちには、実に言葉で表わせないほどの心持が起る。「文字」を尊重している彼は、著者がそれを完成するまでに注いだ心血を思うと、よほど法外だとでも思ったときのほか、価切(ねぎ)るということが出来なかった。古本屋――彼は新本を買うだけの余力を持たない。――に対しては、或る点からいえば馬鹿正直だともいえるけれども、彼の心は、或る人の本を見ると、真直ぐにそれを書いた人自身に対する尊敬となり同情となったのであった。で、彼は、そのどうしても手離さなければならない一冊の本を持って、一面理智の監視する前で、漠然とその足りない一銭の湧いて来ることや、主人がまけましょうと云うのを期待して見たりする。 たった一銭、どこかの家の、火鉢の引き出しにさえ転っていそうな一銭が足りないばかりに、こんなにも欲しいものを見捨てて行かなければならないのか?「下らないなあ、定まっていることを、なぜそうまごまごしているのか?」冷たい笑いが、自分自身のうちから発せられるのを感じながらも、彼は欲しいという心持を押えられない。「本の万引をするつもりかい?」 浩は、思わず赤面して、不思議そうな顔をしている小僧にそれを返し、一冊だけを買って帰って来る。 そんなことは、余裕のある生活をしている人には、恐らくただ馬鹿な、意志の弱いこととしてほか思えないだろうということは、浩自身も知っている。けれどもしばしばこういう心の経験をしている彼は、ほんの出来心で、反物などの万引をする女の心持がよく解った。幸(さいわい)自分は、思いきれるし、また対照となっているものが、それだけほか求めても得られないものではないから、自分自身ほか感じられない、内心の苦痛だけですむが……庸之助が、この店としては咎(とが)めずには済まされないことをしているとは、思うだけでも浩は辛かった。が、嬉しいことに、彼の不安は単に杞憂に過ぎなかった。帳簿には、一厘一毛、疑問な点さえもなかったのである。 けれども、頭を集めて調べていた連中の中からは、「なあんだ! 何でもなかったじゃないかい!」という不満そうな、つぶやきが起った。上役の者までが、意外そうな――少くもただ安心したというだけではない――表情を浮べて、「偉い時間(ひま)潰しをやったなあ」と云いながら、帳簿を伏せるのを見た浩は、思わず愕然とした。ほんとうにゾッとした。「彼が正直であったのが、皆は不平なのだ! 若し、一ヵ処でも掛け先を、ごまかしてでもいたら、どんなに噪(は)しゃぐつもりだったのだ!」 憤り――友愛に強められ、燃え立った憤り――が、彼の胸一杯になった。何か云わずにはおられない感情が、喉元に込み上げた。けれども言葉が見つからなかった。何と云って好いか分らなくなって、彼はフイと、部屋を出てしまった。 それからやや暫く、仲間の一人が彼を捜しに来るまで、浩は彼の「隠れ家」と呼んでいる石段で、種々な考えに沈んでいた。(K商店の二棟の建物を、接続している廊下の外に、六段ほど苔に包まれた石段がついていた。日光が、建物に遮られて、直射したことがないので、石段から拡がっている二坪ほどの地面には、一杯苔がついて、陰気ではなかったが、外のどこよりも落付いていた。浩はそこに腰をかけては考えるべきことを考えた。隠れ家というのが、自ずとそこを呼ぶ名になっていたのである。)彼は、どんな人に対してでも、善人だとか悪人だとかいう断定は下されないものだと思った。「まして、或る人のすることは、悪いに定まっているなどと思ってはすまない。互に許し合って行かなければいけない……けれども」彼は、憤りとか、憎しみとか、抵抗とかいうことを、全然、自分の心から除去してしまうことはとうてい不可能であった。「何か一つ過失をした者の前に、我々は決して、尊大に完全そうにかまえてはいけない。自分でもいつ、するか分らないじゃあないか?」浩は「お互に人間なのだから、出来るだけ愛しあって、仲よくして行かなければいけない」と思っている。そして、弱い者の前に、強がっている者を見ると腹が立つ。特殊な自分の権利を勢一杯利用してそういう特典を持たない者に誇ろうとする者に対して憤りを感じる。 けれども、もっともっと自分が努めて、心を練り、善くし、賢くしたら、腹を立てることも、憎むこともなくなる――例えば、Aという金持の男と、Gという貧乏のどん底にいる男がある。Aが、何の働きもせずに、それでいて立派な生活をしているのを、いくら働いても食うだけのことも出来ないGが、「ああ羨しいなあ」と思い、やがては、狂的な嫉妬で、Aを殺してしまう。金を欲しいのでもない。GにはただAの面を見ると癪(しゃく)に触るという心だけが強かったのである。Aの家族は悲しむ。Gを憎む。出来るだけ酷刑に処してもらいたいと思う。が、死刑にされても、まだ足らなく思う。こういうときに、Gの心持も、Aの家族の心持も、どちらも肯定され、理智的ばかりでなく、ほんとうの心から、両方ながら憎む念などはない――というようになるはずなのかもしれないとも思った。がそれは大変むずかしいことだ。「すべて好い……」という言葉を思い浮べて、彼は涙をこぼした。        七 ちょうどこのとき、東京駅には、下関発の急行列車が到着した。彼等の頭を押し潰されそうに、重苦しく陰気な通路から、吐き出されたたくさんの旅客の中に混って、庸之助の姿が見えた。小さい鞄を一つ下げ、落着かない目で周囲を見まわしていた彼は、やがて飛び出すように雑沓するうちを、かき分けてどこかへ行ってしまった。都会の中央の、この忙がしいうちで、何の奇もない、田舎者丸出しの一青年の彼に、注意を引かれた者は、ただの一人もなかった。 庸之助は、あの日に東京を立つと、ほとんど夢中で故郷の小さい町まで運ばれて行った。そして、停車場へつくとすぐその足で、かねて見知り越しであり、今度の父親の事件に関係した某弁護士を訪ねた。職業から来る、おもおもしいまた、幾分傲慢のようにも思われる弁護士の前に、息をつめて立っている庸之助の、煤煙や塵に穢(よご)れ、不眠で疲れきり、青黒く膏(あぶら)の浮いた顔は、非常に憔悴(しょうすい)して見えた。 弁護士は、一通り形式的な同情を表してから、事件の説明にかかった。彼の言に依れば、今度の事件の陰には、もっとたくさんの小事件が伏在していて、三年前に、郡役所の増築のあった頃から胚胎していたものであったそうだ。町長、町会議員の選挙の時々に、行われていたいろいろな術策なども、法律上からいえば、立派に一つ一つの罪状となっていたのである。父親の行為からいえば、二年の刑期はむしろ軽いと云わねばならぬ。「それが私の腕一杯でもあったし、また法律上の許す範囲では恐らくこれが限度だったのでしょう」 最後に弁護士が、落付いた口吻(こうふん)で、云いおわったとき、庸之助は、大きな力でぶちのめされたような気がした。土気色な顔をし、手足を氷のようにして、うなだれている彼の唇は、ビリビリと痙攣していた。「分りました。有難う、実に……」 こわばった舌で、辛うじてこれだけ云うと、彼は早速暇(いとま)をつげた。 どこをどう歩いているのか解らずに、ただやたらに足を動かしていた彼は、しばしば「冤罪(えんざい)だ! 実に恐ろしい冤罪だ!」とつぶやいた。けれども、何か心の中で、ヒソヒソと、それを否定している響があった。「冤罪だ? お前の父親が?」 通る者の誰も誰もが、自分の顔を見ては、微かながら、侮蔑的な注目を与えて行き過ぎるのを彼は感じた。「お前かい? 息子というのは……」 どの目もどの目も咎める。身の置場のないというような不安が、始めて庸之助の心に強く強く湧いたのである。永住の地と思い定めて帰った故郷も、やはり今の自分を安らかに、落付かせてはくれぬ。狭量な、無智な批評の焦点となろうよりは――。どんな人間でも匿(かくま)う穴や、小道の多い東京へまた戻る決心をした。 もう再び踏まぬかもしれぬ土地と離れるときに、せめて父親にでも会って行きたかった。監獄の門まで行ったことさえあった。が、考えて見れば、「公明正大」とあんなに書いてよこした彼が、赤衣を着、鎖につながれた姿を見ることは、また見せることは互に、何という辛いことか、たとい冤罪にしろ(庸之助は冤罪という字を見ると、心がグーッと圧しつぶされた。)余り苦しすぎる。恐ろしい。とうとう面会を断念して彼は、僅かでも二人の間に、「何がほんとだか解らないもの」を置きたかったのである。 東京へ一足踏み込むと同時に、すべてを諦めてどこかの職工にでもなろうと思って来た、彼の心は動かされた。名誉心、功名心を刺戟するあらゆる事物が、年若い彼を苦しめ、虐(さい)なんだ。自分よりもっともっと学問のない、力のない者まで、社会の表面で相当に活動しているのを見ると、今更自分をさほどまでに見下げることも、躊躇(ちゅうちょ)された。たといのろのろとではあっても、周囲の若い者達が出世の道をはかどらせているうちに、自分一人わざと取り残される必要もなく思えた。 木賃宿に近いほど、下等な旅館の中二階で、昼飯がわりの焼薯(やきいも)を、ボツボツ食べながら、庸之助は身の振り方に迷っていたのである。
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