南路
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著者名:宮本百合子 

南路宮本百合子        一 シューッ、シューッ、……ギー。 カッカッカッと揺れながら線路を換え、前の方からだんだん薄暗く構内にさしかかるにつれて、先頭の、重い機関車(ロコモティブ)からは世にも朗らかなカラーンカラン、カラーンカランという、鐘の響が伝って来る。 車内は、降りる支度で総立ちになっている。窓硝子に顔を近よせて外を見ると、遙か前方にチラチラと赤や緑の警燈が瞬き、黒く、夜のような地下の穹窿(きゅうりゅう)の下には、流れる灯に照らされて、人影が、低い歩廊(プラットフォーム)に三々五々動いている。 次第に緩くのろく止りかける車室に立って、ギャソリンくさい停車場の空気を嗅ぎながら、この楽しそうな鐘の音を聞いたらば、誰でもいい難い感慨に胸を打たれずにはいないだろう。 如何にも、今、長い旅から還って来たというように鐘は鳴る。嬉しく楽しく、帰った者新来の者の到着を告げ知らすように鐘はなる。 深いコンクリートの円天井に響き渡り、車輪や荷担ぎの騒音を超えて、そのリズミカルな鐘の音は、云いようない暖かさと休安とを旅人の心に注ぎ込むのである。 始めて紐育(ニューヨーク)へ着いてこの鐘の音を聞いたとき、自分は危く涙をこぼしそうになった。 単調な長旅で、もういい加減心も体も疲れている。 これで、紐育へも着いたのか、と思い、安心と新たな緊張とで、何心なく窓に近寄ろうとした途端、彼方から、思いもかけない鐘の音が、カラーンカラン、カラーンカランとなり始めた。 幾昼夜、耳に聴えた物音といえば、急しい車輪の轟か、神経を刺す鎖の軋りばかりであった。そこへ図らずもこの抒情的な Ring a bell をきき、自分は、暫くそこに立ち尽したまま、身動きも出来ない心持になった。 ここにも生活がある。ここにも暖い冬日の大都市がある。その地上へ。その市中へ。――見えない心が導いて、未知の圏境へ、しっかり憧れを結びつけるような親密と懐しさとが、胸に満ち溢れて来たのである。 ――そのときから、まる一年と二ヵ月が経った。今、自分の立っているのは、嘗て自分を迎え入れてくれたと同じ停車場である。 あのとき、私の傍には父がいた。が、今、四枚の切符を、手套をはめた手で揃えているのは、良人である。 どこからも鐘の響は聞えない。 石畳みの、広く高いホールには、かげの方から差し込む白い艶消しの光線が漲って、踵の音を四辺に反響させながら、旅行服の婦人が通る。うす灰の空色がかった制服を着たポーターが、赤い帽子の頭を傾けて、旅行鞄を下げて来る。 待合室で区切られ、また改札口で区切られて、ここではまるで停車場らしいどよめきの来ない乗車口に立って、自分はぼんやりと四周を見廻した。「自分は今、一年以上も棲み馴れた紐育を去ろうとしている。紐育ばかりではない。幾日かの後には、北亜米利加(アメリカ)を去ろうとしているのだ。――」 が、人々の顔を眺めながら、私の頭に浮んだこの考えは、一向我ことらしい感興をもって来なかった。この静けさ、この旅の仲間でそんなことは、ちっとも驚くべき大事らしく感じられない。 地下の歩廊(プラットフォーム)へ通う鉄柵の際で、腕組をしながら時刻の来るのを待っている改札掛の赧ら顔は、これより平気であり得ようか。 手荷物を足許に置き、不規則な縦列に連った旅客の眼に、これ以上の何でもなさを注ぎ込むことが出来ようか。 到着のとき、停車場では、機関車から小さい手押車まで、あらゆる声と響とを振撒いて、階調のある活動をする。けれども、出て行くときは、何時に限らず、気抜けのするほど、実際的に落付いている。たとい、親の死目に逢おうためでも、愛人と待ち焦れた婚宴を挙げようためでも一切構わない。時間が来れば、乗り込ませる。乗り込んだら何時には動き出すだろう、と冷静に納った雰囲気が、高い石壁に落ちる燦(きら)めきのない光線とともに、凝(じ)っと我々の心まで、沈澱させてしまうのである。 感傷的になりようがない。 時間が来ると、私共は“All right, sir !”と頭で合図をしながら、ゆさりと鞄を持ち上げたポーターの、盤石のような背後に従って、黙って改札口を通り抜けた。 先は、爪先下りのだらだら坂になっている。それが尽きるところから人の顔も見分け難い薄暗闇の歩廊(プラットフォーム)が続いている。左手に、電気燈がキラキラする空の列車が横づけにされている。黙って大股に、車室の暗い腰羽目を幾つも通り越したポーターは、やがて一つのステップの前に立ち止ると、路を開いて、「ここです」 と云いながら我々に入口を示した。 ステップの傍には、黒坊の給仕が、これも腕組をして立っている。「何号の寝台ですか」 寝台券を渡すと、彼は、先に立って、我々の場席に案内してくれた。内部はまだ、がらんどうになっている。ちょうど、後の、コムパートメントに近い一隅に、私共を、一昼夜載せて駛(はし)るべきところが定められているのであった。 良人が、ポーターに賃銀を払い、手廻りのものを入れた小さいスーツ・ケースを座席の下に片寄せている間に、私は、給仕のくれた紙袋に、脱(と)った帽子をしまい込んだ。 そして、外套の襟(カラー)を寛ろげ、緩くり、夜のような燈火の下に向い合って、深い椅子に埋まり込むと、始めて六日以来の疲れを味うような心持になった。 今は十一月十八日の午後三時――多分四十分位になっていよう。十二日以前の今時分、自分は、こうやって南方に向う列車に乗込もうなどとは、夢にも思っていなかったのである。椅子の高い背に後頭部を凭(もた)せかけ、やや下眼で、後から乗込んで来る人々を眺めている彼に、私はほっとして、「やっとこれで一段落ね」と囁いた。        二 何処でも、大都会の外郭は、こんな風景をもっているのだろうか。 三時四十分という定刻を、殆ど一秒の差もなく出発した列車は、紐育の市中を離れると、暫く止って機関車を換えた。煤煙を吐きかけて、市民の健康や建物を害わない用心に、或る処までは電力で運転する。滑らかに軽く地下や高架橋を辷って行く。けれども或る処まで来ると、汽車は普通の石炭を焚き、シュッシュッ、ゴッゴッと駛り始めるのである。 暗緑色の場席には、疎な人影ほかない。片側には日除けが下りている。午後の静かな窓から、私共は、今迄とまるで異う小刻みな動揺を体中に感じながら、言葉寡(すくな)く外景を眺めているのである。 鋼のように瘠せ枯れた雑草が、蓬々(ほうほう)とほおけ立っている空地に、赤錆びた鉄屑が、死骸のように捨て重ねてある。 今にも崩れそうな無人の荒れ果た小工場、真青に藻の浮いた水溜り。ちらりと、襤褸(ぼろ)の干し物が眼尻を掠める一(ワン)ブロックも占めていそうな大工場から斜に吹き下す黒煙の下で、腕ぎりのブラウズに袴の女が、拳を腰の左右に当てがい、破れた露台に立ってこちらを眺めている姿などが、カッと隈ない西日の中に、小さくはっきり、瞬間の視線を捕えるのである。 窓に倚(よりかか)り、黙って外を眺めては、折々互の工合を訊き合っている我々の様子を、若し想像して観たら、いかにも去ろうとする大都会の一瞥を惜んでいるように見えたかもしれない。 実際、少くとも私にとっては、また何時来るか分らない都市を今、去ろうとしているのであった。が、黙っているのは、その別離の哀愁に胸を圧せられたためではない。私共は、言葉に云ってはいくら喋っても喋っても喋りきれない、驚や、感慨やに心を満たされていたので、口を利けば、「まあ、ほんとに、思いがけなかったわね」と云うよりほかない。突然変動を起した境遇に面して我々は、声も出ないほど、全心を領されたという状態だったのである。 私共は、先月の三十日に、自分等の結婚をアナウンスした許りであった。この日の一日には、眼の廻るような思いをして、故国に送るべき書きものを発送した。その五日に、思いがけない父から、思いがけない報知を受取ったのである。 五日は、どこやら時雨(しぐ)れた薄ら曇りの日であった。自分は、種々な精神感動や、仕事を纏めてしまおうとして不自然な緊張を続けたために非常に疲れて、神経質になっていた。 ちょうど、水曜日で、大学に時間はない。家にいても仕方がないので、我々は午後から連立って歩きに出た。家は、大学の近く、幾年の昔、東京府から紐育市に贈ったという桜が、あまり見事でなく生えている公園の下にあった。芝生の小路を抜け、広い街路を横切ると直ぐ、河岸公園(リバーサイド・パーク)に出る。そこからは、目の下に、初冬の日に光るハドソン河と、小霧にかすんだ対岸の樹木、渡船場等が見える。 冬枯れ時でも、午後になると、公園を瞰下す歩道の胸墻(パラペット)近くや、公園に入る灌木の茂み、段々の辺には、無数の人が往来した。皆、ゆっくりと日光を浴び、遠い広い海のような河口から渡って来る新鮮な微風を吸い、楽しむように見える。 女や子供、年寄が多く、片足で飛び飛び一輪車を廻して来る小児、まるで動物と思えないような小犬を、華奢な鎖で引つれて、ファーコートの間から、仄かな花の香りを暖い午後の空気に残して行く婦人。 そぞろ歩きする沢山の人と色彩との間を抜けて、私共は、或る、日本人の会館へ行った。自分達の今いるアパートメントは、何時どんな都合で引移るか分らない。その後で、故国から来る郵便が、まごついては困る。そういう心配のなくて済むように、引越しなどのない宗教団体宛に、手紙を受取っていたのである。 そこで、私共は、予期しない父からの長い角封筒の書簡を見出した。いつもは、きまって母が書いてくれていた。父の分までも代表して、彼女の大きい非常に曲線的な文字が表紙も中も埋めているのが常なのである。私は、「まあ! お父様から?」と、思わずそこで封を切った。そして、読みながら、屋外に出、歩道へさしかかった。 けれども、内容は、落付かない往来を歩き歩き読むような種類のことではなかった。始めは、何でもない家庭の情況、次に、改めて「卿等」という、父には稀らしい呼びかけの言葉で、我々の結婚に対する返事が書かれているのだ。 私は、それを良人に見せ、「あとにしましょうね」と云って、仕舞って貰った。瞬間、父や母の面影が見え、自分は云いようのない心持がした。―― 暫く、店舗やデパートメント・ストアの賑やかな街道りを歩き、私共はその頃評判であった“Broken Blossoms”を看た。それから、夕靄の罩(こ)め、燈火の煌(きら)めくブロードウエーを、ずっと下町に行って、食事をした。家に帰ったのは、およそ八時頃であったろうか。 湯をつかい、楽な部屋着に換え、窓枠に載せて置いた草花の鉢をとりこんだりしてから、さてゆっくりと、先刻(さっき)の手紙を読み始めたのである。 文面は、如何にも父や母の慈愛と、率直な真心とを漲したものであった。遠く離れている彼等の心配と、幸福を祈ってくれる心持とが胸に滲みるように感ぜられた。 恐らく父は、食堂の隅にあるライティング・テーブルの前に坐って、大きな暖い頭を心持右に傾げながら、考え考えこの手紙を書いてくれたのだろう。 字句は単純で、どこにも親らしい威厳や権威を仄めかしたところはなかった。ただ、自分等の愛する者が、どうぞ不幸でないように、どうぞ正当であるように、手も眼も届かないここから、どんなに希望しているかということが、静に、抑制ある言葉の裡に籠められているのである。 頭を突き合わせて読みながら、私は涙の湧くのを感じた。この時ほど、父や母の心が、切に我々を打ったことはない。彼等が、遠く遠く離れているために、却って近く、我心の裡に感ぜられる心持がしたのである。 始め、この手紙は、母が書く積りでいたのだそうだ。けれども、生憎、この二三日、体の工合が悪くて筆を執られないので、自分が代って書いた、という文字を見ると、私共は、不安になって一層、紙に近く眼を動した。 実は、やや突然で驚くかもしれないが、母は、十二月の末頃に、出産の予定になっている、体の工合の悪いのもそのためで、近頃は、大儀で頭も大分疲れているらしく見えるという。それを読むと、私共は、思わず、「まあ!…………」と云って顔を見合わせた。云うに言葉も出なかった。激しい不安が互を照り返した。 父は、我々の驚を予期したように、大事ではあるが、一方から見ればそれだけ健康が恢復したことになるのだから安心しているようにと云っている。然し、自分は、それを強いて父が自分等二人に与えている、或は彼自身に与えている気休めだとほか受取れなかった。静穏に、淀みのない彼の書翰は、ここまで来ると、見えない曇を帯び、無理に、何ものかを意識の外に押しやったような形跡がある。 彼も心配しているのだ。それにしても、母は、どんな心持でいるだろう! 私は、更紗模様の被布(スプレッド)をかけたベッド・カウチの上に坐り、手に手紙を持ったまま、全く進退谷(きわ)まったように感じた。             ○ 年齢からだけいえば、母は、決して出産が不自然な年ではなかった。彼女はまだ若い。私の同胞は、少なからず夭折していた。淋しくなった我々の仲間に、更に新らしい、愛らしい赤児を恵まれることは、五つになった妹のためにもよい。私共もどんなに歓び笑うことだろう。 けれども、母は、三四年前、十五になる二男を失ってから、重症な糖尿病にかかっていた。激しい精神衝動の結果、衰弱した彼女の神経は一時に多年の疲労を現したように見えた。齦(はぐき)が弛んでまだ確かりした歯が、後から後からとずり抜け、不眠になり、瘠せて来る。一時は大きいことで鳴らしていた彼女の体も、沐浴の時などに見ると、痛ましいほど小さくなった。細胞が脆弱になり抵抗がないので、少し暑気が激しいと、美しい皮膚が、惨めな汗瘡で被われる。一言でいえば、彼女の裡にある生活力が、次第に力強く再生して内部の廃滅を恢復するかまたはそれに斃(たお)されるか、二つに一つの危い状態にあったのである。 自分が、こんなにして予期しない時旅行に出られたのも、一方からいえば、彼女の健康が原因となっていた。何時死ぬか分らない、何時どんなことが起るか分らないと、絶えず死に脅迫されていた母は、万一自分が歿した場合、私はどうなるかを考えずにはいなかった。ただ一人ほかない弟妹どもの姉として、私はいやでも彼等の母を務めなければならない。五つから十七八の同胞を置きすてて、私がどうして、自分のためだからといって、楽にゆっくりと外国を遊んで来られよう。生きているうち、一寸でも様子を見て来たら、またその次にはどうにかなるだろう、というのが、母の衷心の計画であったのである。 それを――、如何に私が医学に無智でも糖尿病と分娩とが、どんな危険な道伴れだか位は分っている。――「大丈夫なの?」 私は、手紙を握り、声を圧えて良人に訊いた。「大丈夫なの? 私がいないでも。……お産はいつだって随分重いのよ」「家でなさるのかしらん」「それはそうですとも。お母様は、お産の時なんかはなお病院がお嫌だわ。……だけれども、一寸、ほんとに大丈夫なの、私。――」 少し顔色を蒼ざめ、緊張した良人を睨むように見つめて、私は、激しく涙をこぼし始めた。「――死なれては堪らないわ」「もちろん、尽されるだけのことは尽されるだろうが」「それはそうだわ。だけれども、きっと死なないってどうして分って?」 私の心の中には、怖ろしいほどはっきり、五年前の七月の二日が甦って来た。ちょうど、妹が生れようとするときであった。私はもうそのとき、母が死ぬものと思い込んだ。それほど、難産であった。涼しい日で、産室の硝子窓は皆ぴっしり閉められている。そこから廊下を隔てていながら、隣室にいる私の耳には、まるで人間と思えない母の叫び声が聞えて来た。「あ! 先生。先生」 今にも死ぬかと思う。「苦しい! 苦しい! 早く」 自分が生きているのか死んだのか夢中のようになり、私は入れない部屋の厚い扉にぴったりと貼りつき、ぼろぼろ泣きながら立っていた。 中には、どんなことが起っているのかまるで分らない。最大の危険があるように思い、もう、駄目だと思う。辛抱が出来ないで、蒼くなって震えている女中に、「どうするの? 若しお母様が死んだらどうするの?」と詰めよせて行ったのを覚えている。その朝、その、平常から強情であった女中が、ひどく何か云い抗らって母を激昂させた。自分は、十六で、この女が母を殺すと思ったのであった。 六七時間も地獄のような絶叫で家じゅうを震わせてから、やがて急にぴったりと四辺が鎮り、平和な、安息が流れ出した。 母は死ななかった。もう一歩のところで生命を二つながら取りとめ、深い深い感謝を夢の心に湧立たせたのであった。 けれども、さいわい、彼女の体躯が普通より大きかったばかりに生きられたほど、多量の血液を失って、母は、後、激烈な神経障害を受けた。 あのとき、若し自分が傍にいて、煩瑣な家事を皆引受けてしなかったら、母はどんなになっただろう。 考えて見ても恐ろしい。 それが、今度は、さけ難い状態として彼女の、たとい安全には済んでも、容易でないに違いない出産の予後に控えているのではないか。 自分がいないばかりに、母を死なせるのは堪えられない。それは、私の、真実な誠意であった。 自分がいさえすれば、助けになることのあるのは知れきっている。彼女の安全の度は多量に増す。それを知りつつ、自分の延びても僅かな楽しみを偸(ぬす)むのは実に安らかではない。―― 長い沈黙の後、私は、うるんだ声で、然しはっきり、「帰った方がいいと思うことよ」と云った。「私共は、金さえあれば何時でもまた来られる。けれども……お母様の命は、一つほかない」「うん……私もそう思っていたところだ。その方がよかろう」「そうするわ。……」 種々な感動が入り乱れて、私は涙を止められなかった。自分が着くまでに母は死んでいやしまいかという危惧、種々な想像の不吉な予感、また、自分達の、始まったばかりの優しい暖い生活と引離れる辛さ。 私は、心が二つにひきちぎれる心持がした。 大学の仕事の都合で、良人が一緒に帰られないのは、云わないでも分っている。 仕舞に、私は、涙が全く神経的に流れ出すのに心付き、「大丈夫よ、神経だから。大丈夫よ」と、かまわず、必要な相談を始めた。 もう夜が更け、一二時になり、森とした家々を超えて、高架電車の駛る音が、寂しく機械的に耳に響く。             ○ 翌朝、自分達は着物も着換えないうちに、汽船会社に電話をかけた。 ハワイの方を廻ってもよし、来た通りでも仕方がない。 早く日本に着きさえすればよい願で訊いて見ると、東洋汽船では、一月の下旬に出る船にほか空がないという。 危い思いをして郵船にかけると、わざわざT氏が出て来られ、事情をきき、温い言葉で慰められたとき、自分は手を執って謝したい心持になった。 ちょうど、一人婦人で契約の曖昧な客があるのだそうだ。 早速その方を確めて、出来るだけ便宜を計ってくれられることになった。若しそれが好都合に行けば、「十二月の三日にシアトルを出て、二十日前後には、東京にいられよう」というのである。 万事を氏の好意に一任して、とにかく、自分達は正金に出かけた。旅行券の裏書をして貰うために、領事館へも行かなければならない。―― 今まで、種々な意味で自分の感興を牽(ひ)いていた街上のさまざまな情景は、一時に光彩を失ってしまった。 心の中には、重苦しい、点と点とが出来た。それを、事務的な行動という連鎖で結びつける必要から、眼は、ひたすらそれ等の点ばかりを見つめて動き廻る。街路はただ或る処に行くためにあるく路、地下電車(サブウェー)は、或る一点に、出来るだけ速く体を運ぶ交通機関と、生活は、すっかり潤いと興味とを奪われてしまったのである。 馴れない下町の喧囂(けんごう)の裡に半日を費して、帰ると、T氏から電話で、船室はとうとう自分のために割かれることになった。 金を送り、Acanthus, Tokyo. という略号で、故国の家へ帰朝を知らせる電報を打った。 これは、父が、自分と一緒にこちらへ来たとき、留守中の事務のためや万一の場合の用心に、登録して置いたものであった。それが、今、こんな便利を与えようと、誰が思っていただろう。 電信取扱所の、高いカウンターの上に両腕を置き、今度は、こちらに独り遺る良人のために Dervish, New York という略号を選んだとき、私の心は寒いほどに翳(かげ)った。 ――もう、どんなに周章(あわ)てても、気を揉んでも、来月三日に船が出るまでは、何も仕様がない。 毎朝、毎朝、今日は手紙が来るか、今日は電報が来るか、と期待に緊張しては、親しい教授や友人に、さようならを云って歩いた。 突然で、自分さえも信じられないほどだ。帰らなくては駄目そうですから、と云いながら、心の中では、どんなに、その不必要を確証する報知を握りたく感じただろう。 故国の父母は、もちろんまた自分がそんな決心をしたことも知らないのは判っている。それだのに、今、目を覚したら、ほっと安心して、万事の予定を崩してしまう吉報が来ていはしまいかと、朝起る毎にいい難いストレーンを感じるのだ。 心が、我知らず敏感になった。友が、今度の出来事に対して、どれだけ真実な重大(イムポータンス)さを感じてくれるか、心持の悪いほど、覚らされた。 自分が結婚を決心したときと、今のこととで、私は、平常快活な遊び仲間として、親切で愉快な友人が、しんに、どんな性格と意向をもって生活しているか少し辛辣すぎるほど、知ることが出来た。 次から次へと、深い感動の連続で、紐育を立つべき日はだんだん迫って来る。然し、五日に手紙を貰って以来、故国からは、一葉の葉書さえも来ない。いよいよ立つほかない。 朗らかな小春日和の十八日、自分はなお衷心では思い惑うような感じを抱きながら、自動車に揺られて、停車場に行った。 来年の四月頃になったら、ほんとうの書生旅行でいい、欧州へ行こうと云っていた自分等の希望は、この次何時実現されるのだろう。 闇をついて駛る列車の、明るい車室にカタカタ、カタカタ揺れ、煌く窓硝子を眺め、自分は、思わずその中に写っている良人の顔を見つめた。 同じ汽車で数日を暮すのに、また、ロッキーを越えて行くのは変化がない。ただ通るだけでも南を廻って、シアトルに行こうというので、今度の旅程が定ったのである。        三 夜、十時頃、列車は、いつ聴いても懐しい響を振撒きながらワシントンの停車場に入った。一時間ばかり停車するという。 華盛頓(ワシントン)に着くまでは、と云って、寝台(バース)も作らせずに置いた人々は、皆、外套をつけ、帽子を被って歩廊に下りた。「少し歩いて御覧になる?」「ああ、出て見ましょう」「帽子なしでもいいわね」 素頭に快く夜気を感じながら、私どもは、地下から長い段々を昂(あが)って、待合室の方へ行って見た。 乗込もうとする人は、もう皆、下へ行ってしまったものと見え、広大なウェイティング・ルームには、人影もない。 高い円天井の下に、低く据っている空虚な腰掛の規則正しい列、靴音の反響するやや暗い広間では、白い柱列(コラム)や大きな硝子扉が、淋しく強く眼に写る。 拱廊(アーケード)になった正面入口まで出て見た。が、到る処に、風のない初冬の夜が満ちている。 去年の十二月始め、自分は父に連れられて、四五日をここで費した。そのとき、モント・ヴァアノンに行きワシントン将軍の夫人が、最後に良人の墓を眺めつつ逝去したという、質素なしかも愛らしく、女性らしい寝室を見た。ひどく混雑した印刷局に行った覚もある。「議事堂が見えて?」 自分は、身の囲りに外套を引そばめるようにして、遠い彼方の樹立を透した。 アーク燈が、静に瞬いている。自動車が探照燈のように蒼白く煙たつ強光を投げて、暗い闇に駛り去る。―― また、がらんとした待合室に戻り、売店(スタンド)で絵葉書を書いていると、急に後から賑かな足音が、入り乱れて聞えて来た。 何か喋り喋り、陽気に笑う若い女や男の活々した声が、まるで厳しい建物に落ちる歓びの流れのように感じられる。「何なの?」 ペンを持ったなり振返って見、自分は思わず良人と眼を見合わせて微笑んだ。 結婚したばかりの花嫁花婿を、新婚旅行に送り出すために、華やかに興奮した友達の一群れが、花環のように若い二人を取繞いて来たのである。 何か囁いては、仲間の一人が、新婦の頸元に花の粉をふりかける。身を捩る、笑う、手を叩く。ひらひらする銀色のレースや飾紐(リボン)や小さい袋が、仄かな明りの裡で、宛然(さながら)お伽噺のように可愛らしい。 これほど、優しく派手な旅行の首途を見たのは、自分にとって始めてであった。 笑いながら、外套のポケットに両手を入れて眺め、自分は一寸、花粉をつまみたく思った。 十一月十九日 一夜を汽車の裡に過し、自分等は、よほど旅行に出たらしい気分になった。刻々変化する外景の刺戟につれて、神経は、殆ど生理的に一点に凝固していられなくなる。 ひた駛りに駛る鋼鉄の車室に坐って、アクティブな肉体の運動は、何も要求されない。 自分の頭には、ちらり、ちらりと、種々な思いが通り過ぎた。しかも、一つとして纏まった考えはない。 ちょうど、今過ぎて行くカロライナ州の天地が、瞬間、棉の耕地を見せ、忽ち、木造の危うげな小屋と入れ換る有様によく似ている。 相変らず、風の無い、穏やかな小春日和である。 南北に二分されたカロライナの風景は、砂の多い、光る地面と、寧ろ晩秋らしい日を吸って緩やかに起伏している樹林の色彩多い遠景、とり遺された実が白く鮮やかなために、却って一体の感じは穢れて見える棉の耕地に於て、共通している。 ぽつり、ぽつりと散在する小屋は、皆、この地方特有のサンド・ストームに倒されないために、床を高く、土台石の間は吹き抜けにしてある。 空は、いかにも暖くあおく、明るい。 赤や茶や緑や、種々な樹木は、近く見ると濃厚な色絨毯のように、遠く眺めると、ぽかぽかした雑色に、耕野の涯(はて)を区切っている。 明に、色の交響楽を感じる。自然は、やや元始的に賑やかなのを感じる。 けれども、その中に、ぽつねんと立っている泥色の黒人は、見る者に、何という寂寥を感じさせるだろう。北緯三十五度辺の、南部に近い温帯の眠さ。 不思議な物懶(ものう)さと憂鬱とが、派手な、然し透明を欠く色彩に包まれて澱んでいる。永遠の晩秋。ひっそりとした風景。 耳の長いドンキーに、沢山綿を括りつけてのろのろと黒人が影を追って行くのを見る。 北部カロライナと、南方カロライナのちょうど境界線の上にあるブラックスブルグで、始めて、停車場に“Coloured”“White”と、別にした札を下げてあるのを見た。 私共は、ポーターが持って来てくれた嵌(は)め込み卓子を中にして、話したり、地図を拡げて見たり、骨牌(カード)、ドミノをいじったりして、単調な一日を送った。        四 眠っているうちに、アラバマは通り抜けてしまったのだろうか。 どこかの停車場を出ようとする激しい動揺で目を覚し、バースの裡に起き上って窓懸けを引くと、外は、目を驚ろかす南方の風景に換っている。 最初の乗換場であるニュー・オルレアンスには、多分十時頃着く予定である。 珍しい外景に、自分は知らず知らず興奮した。そして、急いで着物を着け、良人を誘って、食堂に行った。First Call が済んだばかりで、未だ内部はすいている。静に朝日をうける窓から、ここでならゆっくり外を眺められるのである。 窓枠に区切られて、連続した小画のように飛び去る自然の、先ず植物の異様なのが注意を牽く。 カロライナ辺では、黄葉する闊葉樹が多いらしく、一目見て、秋の田野、空気と空とを連想させた。 然し、今、眼に写る植物といえば、第一、皆黒ずんだ暗緑に鬱蒼としている。葉のこまかな、幹の古さびた名の知れない大木が、雲をつくような柳の、気味悪く暖いうねりに混って生えている。 海藻のような寄生木(やどりぎ)が、灰緑色にもさもさと親木を覆いつくして、枯れ枝が、苦しげにその間から腕を延して外に出ている。 自分は、気をつけてそれ等を眺め、植物が、ここでは、何という動物的な、凄じい感を与えるか、驚かずにはいられなかった。 従来、自分の心にある植物という観念は、いつも変らない静謐(せいひつ)さ、新鮮、優しい沈黙の裡の発育というような諸点にかかっていた。ところが、こうして見る樹木ややどり木は、決してそんなに穏やかな生物ではない。厖大で、血が通っていそうで、激しく人間を圧迫する。南方の強烈な熱と、ミシシッピイ附近の豊饒な水分とが、特異な養液を根に送って、植物は皆、自身の感情と情慾を意識する動物のように見えるのである。 沼沢地が多い。そこには、底知れず蒼い藻が生え蔓っている。いかにも瘴気の立ち迷っていそうな処に、丸木を組んだ小屋がある。 チヤシを結って、木立ちの奥深く小径のついた場所もある。 日が高く昇るにつれて、自然には、云いようのない倦怠と、生活力の鬱勃(うつぼつ)とが漲って来る。この樹木と草とが、先を競って新緑に萌え立つだろう三四月頃を想うと、北方の血をうけた自分は、息の窒るような心持がした。 棉畑の中に立っては、淋しいなりに黒人も、自然を或る程度まで支配していることを思わせた。けれども、ここでは、彼等も、同じ地上に棲息してい、同じ圏境に生えているという点で、一本の大柳と、全く同様に感じられる。それほど、精神の閃きがない。あまりに官能が天地の間を満している。 北方では、精神力の欠けた、または不活溌を寒気の圧迫と見ることが出来よう。内へ、内へと追い込まれ、それが極度になると、活溌な雪消も見ないで萎縮してしまう。それに反して、南方では余りの熱や自然界の刺戟に会って、脳髄そのものが、融けてしまうのではないだろうか。毛穴が拡がる通りに、脳細胞も拡がり、流れ出す。そして、危く皮膚一重のここで止り、恐ろしく繁茂する植物のように、旺盛な官能生活に浸り込んでしまうのではないだろうか。「ひどいものね」 その室に帰り、卓子の上に地図を拡げておおよその見当をつけながら、自分は感歎して外を眺めた。 北緯三十度。東半球でいうとちょうど埃及(エジプト)のカイロ辺と同じ線上を駛っていることになる。 気候の平穏な故国にいては、想像に於てさえも漠然としていた、ナイル河の氾濫とか、有名なロタス、パピラス、パアム等の叢生した様子が、かなり鮮に思い廻らせる。埃及人は仕合わせに、アッパア、イジプトの沙漠と石山とを持っていたために、酷熱や他の自然的運命に呑み込まれずに、あの愛すべき芸術を産んだのではあるまいか。同じ、炎暑、赤道の近傍でも、土地が高燥だと、人間の精神は殺されないですむように思う自分の考は間違っているだろうか。 メキシコにしても、そのプロダクションの種類や性質は異うが、そう考えれば考えられないこともない。 自分が熱中して喋ったり、覗いたりしている間に、汽車は、どんどんミシシッピイの瀬戸に沿うて走った。いつか山火事があったと見えて、或る処では広大もない樹林が皆焼き払われ、黒焦げの大木が、痛々しく空に立っている。 だんだんそれも疎になり、やがて我々の周囲は、東を向いても西を向いても、一面のスワムプになってしまった。北海道を嘗て旅行したとき、自分は、随分広いヤチを見た。そのときは、何という処だろうと思って動かされたが、今、ここを通ると、それが比較にもならない面積であったことを知った。 あのときのように、彼方には、堅い普通の地面があるのだという感じが、どこからも来ない。目に見える限りの地平線は、同じ光る、黄色い蘆と水溜りに浸されている。涯のない、抜け切れない、彼方の側にも、このように異様な境域が拡がっているに違いないという直覚が鋭く、心を外景に牽くのである。 どこまで行っても、どこを見ても、地面の見えない頼りなさに、感情を動かされたのは、自分等ばかりではなかった。 始めは、黙って眼を瞠っていた乗客が、誰云うとなくその広さや、列車の速力やについて、口をきき始めた。「何という広いことだろう!」「全くですね、然し、景色としては独特じゃあ、ありませんか」「さあね、日本にも、こんな妙な処がありますか?」 皆の心には、一様に、このぶよぶよの、震える沼の中では、鋼鉄作りの汽車が、余り重すぎはしないのか、という、ぼんやりした危惧の蠢(うご)めいているのを感じ、自分は非常に興味深く思った。 平地や田野を駛っているとき、幾百人いるか、悉くの乗客は、一切を機関車に委せている。安心して、列車の動いていること、線路を間違えずに目的地に向って進んでいることを信じ切って抛って置く。けれども、それが、一旦、こんな場所や恐ろしい山の絶壁にでも差しかかろうものなら、眠っていた人々の意識は急に溌剌となる。無数の心が後から後から各自の体をぬけ出して、列車の前後左右を守り包むように感ぜられる。 水の上では、出来るだけ幅広く、短く、さっと渡り切ってしまうことを希い、断崖の上では、一斉に、坐席(シーツ)の上で身動きすることさえも憚って、出来るだけ、細長く、しなやかに、すらりと危い角を辷りたく思う。―― うるんだように白っぽく輝く空の下に、やや黄味を帯びた浅黄色の水面、金色のきらめく繊細(デリケート)な枯葦の上を、翼の淡紅色な鶴に似た鳥がゆるやかに円を描いて舞う光景が、暫く自分に我を忘れさせた。        五 ニュー・オルレアンスの、小さい雑駁な停車場に降りて見て、始めて、自分の心持は、長閑(のどか)な Tourist の心境と、どれほど異ったものであるかを知った。 合衆国有数の棉花市場で、一八〇三年かにジェファソンに取られるまでは仏蘭西(フランス)の植民地として、今でも或る部分には、少なからず仏国風の慣習や気分を保っているというこの市は、廻って見たら決して詰らない場所ではないだろう。 我々は、次の列車に乗込むまで、およそ六時間ほど、余裕を持っていた。若し、気さえあれば、相当に賢いサイト・シーイングが出来ない訳ではなかったのだ。 けれども、手間を取って荷物をシアトルまでリチェックし、二三日滞在する予定になっているロスアンジェルスの知人に電報を打ちなどすると、先ず自分が、神経的に精力を失ってしまった。 屋外には、紐育の復活祭(イースター)時分のように烈しい日光が照っている。 停車場の附近は一帯の黒人街で、いかにも南方の植民地らしく拱廊(アーケード)になった歩道の片側には、塵まびれの小店が、びっしりと軒を並べて詰っている。 屋蓋つきの荷馬車が、鞭で打たれるドンキーに挽かれて、後から後から凄じい勢で駈け去る車道の明るさと相反して、強い暗がりが、拱廊の奥を領している。 そのうちに、ストゥールにちょいと跨(またが)ったシャツ一枚の黒奴が、閃く眼と、古物の短銃、短刀、馬具類の金属を不気味に光らせて、行人を見守っているのである。 歩道を縫い、車道を横切って暫く行くうちに、自分は、人種が混雑し、感情と意欲が激しく錯綜した市街の空気を明に嗅ぎ知るような心持がした。それと、同時に、今の自分の心持とは、余りに懸け離れた雰囲気であることをも感じずにはいられない。 騒音や雑踏、絶間ない動揺は、もう飽きられた。どこか安らかなコオジー・コオナーに、暫くでも静に黙っていたいという欲望が、激しく自分達二人の胸を満しているのである。 然し、歩けば歩くほど、市中の喧囂に深入りしてしまう。 生憎、昼餐の前後なので、歩道という歩道は、暫時外気を楽しむ事務員や店員やで、溢れるように賑っている。紐育の女事務員や売子のように、濃厚な白粉気はなく、いかにも身軽な白衣に素頭の若い女達が、一種独特の活溌さ、或は、常に侮蔑する対照を持ち馴れたものの粗暴さで、漫歩している。 止まった自動車は、歩道の傍には寄せられず、却って車道の真中に、列を作って眠った大きな甲虫のように輝きながら並んでいる。―― 自分は強いて感興を湧起すように、彼方を眺め、此方を見して歩いた。けれども、一向面白くない。心のしんでは、ちっともこんな処を歩いていたくないのに、ほかにどこにも居処のないという、漠然とした寂寥で、我々は捗々(はかばか)しく話しもしないのである。 列車が駛り、その進転に従って、いやでも外界が注意を他に牽く間、私共は、殆ど強制的に懶さを晴し、自然や村落を観察する。けれども、強いて引張るものがなくなると、我々は互の顔を見る。心を感じる。そして、家のない、不安な、行く処まで行ってしまわなければ、到底落付けない旅路を思い知るのである。 午後七時に、また車室の座褥(クッション)が我々を迎えるまで、二人は、云い難い心持を互に堪えながら、本屋を訪ね、図書館に行きして、時を費した。 ニュー・オルレアンスという街は、たとい黄金で道路を葺(ふ)いてあっても、我々には淋しいストレンジャアであったろう。             ○ 昼見ると夜見るのとでは、同じ場所でも全然異った感じを与えられる。 晩食を早めに終って停車場へ来て見ると、燈光が隅々まで煌めき渡った建物の内部は、まるで今朝来た処とは思えない。一時預けにして置いた手荷物を取り、赤帽に荷の始末を頼んで、我々は、発車に間のある列車に這入(はい)った。 窓枠や扉の仮漆(ヴァニッシュ)は、相変らず天井の燈で燦ついている。暗緑色の座席には、同じように微かな煤煙の匂いが漂っている。 暫くで馴れた光景を見出すと、自分は深い懐しさを覚えた。ここでは、少くとも、二人で腰かけていられるだけの場所がある。―― 我々は、ちらほら人のいる幾つもの車室を抜けて、最後尾の展望車に行って見た。 デックに立って見ると、ちょうど、改札口が目の前にある。木棚一重に画られたそこには、黒い顔をした大人や子供が、ずらりと首を並べて凝っと動かない列車や、乗込もうとして急ぐ旅客、威厳を繕って腕組みする同じ黒人のポータア等を眺めているのである。 故国の停車場などで見馴れる情景が、次第に自分等の心持を寛(くつ)ろがせた。 二人三人、後から来た人が内部の肱掛椅子を占める。自分は、低い声で、冗談を云い、珍らしく声を合わせて笑った。 一人の黒奴の女の子が、群を離れて此方を見ている。その髪が素晴らしい。黒く、ちりちり、おちぢれのようになった毛髪を、何としたことか「あぶ、はち、とんぼ」を三倍した位、小分けに処々で結んでいる、それも、ただ結んで止めたばかりでなく、一々先を丸めて色々なリボンをつけてあるので、下の小さい顔は、宛然、原始的な草花を山盛りに飾った素焼壺のように見えるのである。仔細らしく頭を曲げ、何か見恍(みと)れている様子は、実に可愛ゆく、滑稽である。 自分が、五つか六つで、一かど大人に感じ、唐人髷の附け髷を結って貰っては、叔母の長襦袢を引ずっていた頃を思い出し、思わず軽い冗談が、唇をついて出たのであった。 微笑を口辺に湛えたまま、片手を欄干にかけて下を覗いていると、右手の昇降口に近く立っている良人の処へ、一人の男が近づいて来た。 手真似で彼を呼び、上と下とで、延び上り、身を屈(かが)め何か云っている。 自分は、構わず工夫の働いているデックの下を見つづけた。と、急に彼は振返り、私の腕に触って、「中へ入ろう」と促した。「何故?」私は、良人の顔を見あげた。「寒くはなくってよ、ちっとも」「そうじゃあない。入りましょう、早く!」 言葉が英語だったのと、彼の表情が余り気色ばんでいたのとで、囲りの二三の顔が、怪訝(けげん)そうに我々を見較べる。 自分は黙って、彼の先に立ちデックと室内とを区切る戸と硝子扉とを押して内部に入った。「どうなさったの?」「今の男がね、変なことを云ったから、気持が悪くなったのさ」「まあ、何て?」 どこからも視線の届かない奥の腕椅子にかけてから、良人は、始めて理由を話した。 先刻の男は、彼に金をくれと云ったのだそうだ。 それを断ると、暫く黙っていてから、「どこから来なすったかね」と訊く。何心なく紐育からだと云うと、今度は、この汽車でどこまで行くのか、あの女の人も一緒かと、拇指と横眼で、私の方を指したのだそうだ。 彼は、急に気味が悪くなった。そこへ「お体を大切になさい。御婦人づれじゃあ注意がいります」とか何とか云われ、揚句に、また、ぶらりと出て来た風体の悪い男と、頻りに此方を見い見い囁き合っているので、彼はがまんがならず、私を急(せ)き立てて内へ入ったというのである。 自分は、はっきりと、遮断された闇の中に、先刻ちらりと見た鳥打ち帽の浮浪人らしい男の姿を思い浮べた。どこかの隅から狙われていそうで、何となく心持が悪い。けれども、まさか、ほんとに何をしようというのではないだろう。「大丈夫よ。お金が貰えなかったから、一寸面白半分に脅かしたのよ」「そうでしょう。けれども、心持が悪いからね。貴女がいなければ、そんなことは何とも思わないが。……」 よく見る活動写真の或る場面がふと自分の眼に浮んで来た。それと同時に、切迫した不気味さは、忽ち当面から去ってしまった。「ちょうど、夜中にテキサスに入るから、油断なさると大変よ。私が攫(さら)われでもすると、△△△氏追撃の光景でござい、をお遣りにならなければならないわ」「馬鹿な!」 私共は、怖いにしては、かなり陽気な苦笑いをした。 けれども、停車場を離れ切るまで、さすがにまたとデックに立つ心持はしなかった。        六 十一月二十一日。 昨夜の脅し文句は、もちろん現実に何の形をも顕わさなかった。周囲が明るくなってから考えて見れば、その男は何心なく云った挨拶を、却って良人の方が、旅人らしい神経過敏で受取ったのではあるまいか、とさえ思われる。 今日一日は、広茫として限りもないテキサスの野を横切って暮れるのだろう。 朝、八時半頃、寝室(バース)を出て化粧室に行くと、昨夜、自分等と同じ場所から乗込んで来た婦人が、椅子に腰をかけ、しきりに何か云っては両手で頭を搾めあげているのを見出した。 傍には、連れらしくも見えないもう一人の婦人が、屈みかかって肩に手をかけ優しく労(いた)わってやっている。―― 朝日がちらちらする鏡の前に立ち、顔を洗い髪を解し始めたが、一つ部屋の中に何事か起っていそうなので、何となく気が落付かない。 自分は到頭髪に手をやったまま傍によって行って、「どうかなさいましたか?」と訊いて見た。 着物をつけず、派手なドレッシング・ガウンだけを羽織って、寛やかな胸元から、奇麗なレースの縁飾りを覗かせたまま、彼女は、ぐったりと肱をついて一隅の鏡の前に靠(もた)れているのである。「有難う。どうぞお構いなく」 傍から額を押えていた婦人が、私の方を顧みて、「頭がひどくお痛みになるんですって」と説明した。「有難う。ほんとにお世話をかけます。汽車に乗ると、きまっていつもこうなんですの。動揺がいけませんのね、きっと」 私は、気の毒に思うけれども、何と云ってよいか分らない。 暫の沈黙の後、傍の女の人は、「旦那様をお呼びして来てあげましょうか?」と訊ねた。「私共は急いで支度をしてしまいますから。ね」 私は、もちろん同意した。もう二三分もかかれば、私はすっかり着物を著けてしまわれる。 然し、頭の痛い女の人は、それを拒絶した。そして、立ち上り、私が自分の仕末をしている間に、もう一人の手を借りて、殆ど驚くほど念入りに身なりを整えた。 時々、おお、おお、と云って頭を押えながら、彼方にピンをとめてくれ、それではヴェスティーが曲っていると、まるで女中を使いでもするように命令して、おそらくここで始めて顔を合わせた人に手伝わせているのである。 傍でそれを見ているうちに、だんだん自分の心の中には、最初とはまるで異う現象が起って来た。病人と称する婦人に対する同情が次第に薄らぐと共に、もう一人の、アメリカにもこんな人がいるかと思うほど、従順な地味な婦人に、一種の感歎を持ち始めたのである。 自分に、とても、あの真似は出来ない。恐らく歇私的里(ヒステリー)か何かで、頭の痛さを誇張すると同時に、わがままと傲慢とを憚らない態度に遭いながら、あれほど虚心にはいはいと世話が出来るだろうか。 種々手数を煩した揚句、ようよう満足して先の婦人が出て行ってしまうと、今度は彼女自らが、溜息一つつかず、身支度にとりかかった。 私は、思わず、「貴女は、ほんとに親切な方だ」と云った。そして、見栄えのしない丸顔を、一層沈める薄鼠色の絹服を裾の方から引あげる様を見守った。「――一つは気で痛むんですね……」 彼女は、もう今迄のことをまるで忘れたように訊き始めた。「どちらからいらっしゃいましたの?」「紐育から」「まあ、紐育はようござんすね。去年半年ほどおりました。――遠くまでですの?」 私は、自分の計画を話した。「私は、今日の夕方着く△△△で降ります。――いつ頃御結婚になりまして?」 こまごましたものを化粧箱にしまっていた自分は、我知らず意外な感に打れた。 彼女は、鏡の方に向いたまま、肩のフックを押え至極平静な声で質問をかけているのである。 いつの間に、自分達を観察したのだろう! おどろきながらも、私は暖い心でありのままを告げた。「そうお。私もね来月には結婚いたします。今度も実はフィアンセのところへ参りますの。幾度も幾度もニュー・オルレアンスと△△△との間を往復して、もう好い加減草臥(くたび)れてしまいました。――でも――今度でもうお仕舞いだから。……」 云いながら、彼女は一寸鏡の中を覗きこんで、手早く前髪の形をなおした。そして、振返るなり、突然、何を思ったか力をこめた声で、“Isn't that splendid !”と云って私の顔をじっと眺めた。“I wish your happiness.” 私は、懇ろに彼女の肩を叩いた。 紐育からニュー・オルレアンスまで、同車の旅客の中には、これぞといって特色のある人も見えなかった。数の少ないこと、珍らしいこと等で、却って我々が折々人の注意を牽く位のものであった。 けれども、今朝になって周囲を見まわすと、道伴れはよほど変化している。何等かの意味で注目を牽く人が、一つ車室に必ず一人か二人はいるらしく見受けられるのである。 先ず先刻の、鼠色の絹服の婦人を始めとして、我々の背後には、眼を醒すなり、賑やかな年寄りの夫婦に娘づれの一組がいる。 丸々と肥って同じように赧ら顔の夫婦は、一見、小金を溜めた八百屋(グロサリー)の店主という位に受取れる。感謝祭の前後を、カリフォルニアの親類ででも過そうというのであろう。近所の座席から気軽に人を誘って来ては、小児のように骨牌に熱中しているのである。 けれども、髪を巻パンのように結ったお婆さんは、いくら骨牌に興が乗っても、決して経済のことは忘れない。十分位停車するステーションに来ると、持札を投げすてて外の売店に駈けて行く。そして、果物や糖菓(キャンディー)の紙袋を抱えて来て、皆に食べさせる。出来るだけ食堂に出ず入費を除いて充分に旅行を楽しもうというのである。 たださえ退屈しているところだから、窓を透して、転って行くお婆さんの後つきを見るのは、なかなか罪のないみものであった。 コンダクタアが、ちゃんと番をしているのだから、たとい時間になっても、一分や二分待っていてくれるのは知れきっている。が、年を取って一層不正確になった女性の頭を持つ彼女は、幾度繰返しても、なお初めてのように周章狼狽する。 独りで構内まで行くのは心細いのだろう。娘に、お前もおいで、来ておくれよ、と後を振返って呼びかけ叫びかけ駈けて行く。どうしても、周囲の人が視線を集める。十六七で緑色の着物を着、軽いケープを纏った娘は、丸い顔を赧くし、可愛らしく膨れて、無遠慮な母親を怨めしそうに躊躇しているのである。 幾つもの顔が彼女に向って、窓や踏段(ステップ)から笑み解(ほ)ぐれる。母親はなおも彼女を呼び呼び駈けて行く。――とうとう辛抱が出来ないで、小娘らしくおこりながら、自分も後から勢よく駈けつける。 その様子を見ると、私は微笑まずにはいられない。嘗て十六七であった女は、誰でも一度や二度、こんなに、笑いながらも涙をこぼさずにいられないような場合を経験しているだろう。―― 然し、長い列車は、決してこのように平民的な笑の種ばかりを載せてはいない。 彼方のコムパアトメントには“Vogue”の中から抜け出して来たような若夫婦がいる。また、静かな軍人の家族も見える。 特に自分は、後者から深い印象を与えられた。 その陸軍軍人は、位官は何だか、相当の地位にある人らしい容貌と挙動とを具えている。若い婦人と生れて間もないらしい嬰児との三人づれで、ちょくちょく展望車に行く道すがら、我々の横を通り過ぎるのである。 始め、彼が逞しい軍服の腕に、大切そうに白い柔毛ずくめの嬰児を抱いて行くのを見たとき、自分は、彼等が父親、娘、孫という関係にあるのだと想像した。 パアジング将軍の模写のように颯爽(さっそう)たる彼の風姿は、見る目にも鮮やかだけれども、髪や髭は、大部分白くなっている。眼尻や口辺に漂う表情から見ても、五十より下には感じられない。 これに反して、婦人は、自分よりも若いほどに見え、どことなく臆病に余り趣味も豊かでない服装で広い軍服の背後に跟(つ)いて行くのである。 ふとしたことから、彼等が、あの瞳の碧い嬰児の両親だと知ると、私にとってその Trio は、更に感銘の深い一つの絵となった。 日に焦げた頬の色から推察すると、彼も、仏蘭西(フランス)の戦線から帰国して間のない軍人なのだろう。 そこで彼はあらゆる瞬間に生命を賭けて来た。今は死なない。然しこういう刹那に死んでいるかもしれない。無数の人間が殺されて行く。人類に本能的な、平安、幸福、希望の輝を皆圧し伏せて、恐ろしい、惨忍な光景に眼を据え、手足も抗し得ず“No man's Land”に流しこまれる心持は、堪らないものだろう。 肉体が弾丸に射られ、刺される前に、先ず精神があらゆる虐殺を受ける。一方からいえば、肉体の苦痛、感覚的な苦悶というようなものは、極度に達すれば、意識を不明にさせる点で凌ぎ易いものだ。然し、心の苦しみは、死ぬまで持続する。今、死ぬか? 今死ぬか? しかも死なないで、また一日の、暗い、底の知れない不安が新たになる。或は、死ぬまで、死ぬことを忘れて、深い、愕(おどろ)き怪しみ、考えても考えても判らない憂鬱に噛まれているといった方がよいのかもしれない。 そういう恐ろしい集注、力の凝結が、一旦平和によって解放されたときを想うと、嬉しいというより先に息の塞がる思いがする。 一どきに撥ねかえった精力や熱中や、あらゆる場合に自分の生きている力を試したい活力が、彼等を狂暴にさえする。 戦時の、いい難く深い陰鬱や、惨虐な記憶を洗い去るには、それと同量の情熱が必要なのではないだろうか。大抵の場合、彼等は夢中で恋をする。 今度の欧州戦乱で、英国フランス白耳義(ベルギー)その他から“War bride”として紐育の埠頭に著いた婦人の靴だけでも、夥しいものであった。 デスペレートな点では、女性も同様であったのだと思う。彼女等は、殆ど皆胸に当歳の嬰児を抱き、粗末な風で甲板に並び、愛嬌の微笑と動揺する不安とを外国人らしい瞳の裡に湛えながら、写真にとられているのである。或る場合、人間のする恋は、環境と動機の悲痛さから、眼もあてられない感を起させる。 ――もちろん、彼の若い母が、仏国から来た人でないことだけは、顔の様子でも明に分っている。けれども、背景にこれ等の忘れ難い印象をもって看るためか、彼等三人が一塊りになり、揺れる座席の間を釣合をとりとり通り過るのを見ると、身辺から、無数の人群と生活とが見徹せるように感じた。        七 二十二日一日を、ニュー・メキシコの一部とアリゾナの砂漠に送り、自分は始めて、砂漠が、如何程微妙な美に満ちているかを知った。 日本にいて砂漠というと、自分はよくゴビの砂漠という、遠い、夢より朧(おぼ)ろな或る場所を想像に浮べた。そこでは、灰色の砂が、波のように蜒(うね)りをうって、地平線の彼方まで続いている。カラバンが通る。人間は頭にタアバンを巻き、駱駝(らくだ)は頸に鈴を鳴らして、白い夕月の淡い空の下を、のろのろと旅行する。オアシスという緑地もある。恐ろしい禿鷹の影も映るそうだ、ということなどを、漫然心のどこかに止めていたのである。 けれども、今、この眼で、たといゴビの砂漠とは異ってもディザアトと呼ぶ場所を見ると、私は、鋭い色調と音楽的な美感に胸を打たれずにはいられない。 巨人仙人掌(ジャイアント・カクタス)の奇怪な叢生が珍しい許りではない。無限の砂地とそこここに聳えるテーブル・ランドが簡勁な線で我々を魅するものでもない。 砂漠には、一瞬も停止することない色彩の顫動がある。聴けば聴くほど心を彼方に牽き入れる沈黙の声に満ちている。 窓から凝っと自然を眺め、ライラック色の砂地、濃紫と鋭い金色の山巓、微に消える焔色の空を見詰めたら、人は我身を忘れるだろう。 周囲の沈黙が余り深く広いため、機械的な車輪の響などは、ちっとも我々の注意を牽かなくなる。 地平線から、真直に、涯もない思いが忍びよって来る。雲が流れ動く毎に、砂の色が明るくなり、暗くなり、心を潜めると、静かな地球の廻転につれて、滑る砂粒のささやきまで、聴えるように感じられるのである。驟雨(しゅうう)が去り、俄に一面湖水となった砂地の上を駛せ抜けるとき、自分の驚異は、頂上に達した。 一足前に、煤色の雨雲が一団、非常な速力で先駆している。けれども、頭上の雲はまるで燦き、黒燿石のような嶺と漣立つ水の面に、ぱっと、目醒めるような薔薇色を振り撒いているのである。 軽風も流れている。どこかに虹もかかっているに違いない。新鮮に、濡れ、輝く万物の中を、列車は、一筋の黒い飾帯(サッシ)のように縫って行くのである。   [#楽譜入る] 自分は、うつろう影と色とに混って、微かな音律を聴くように思った。 Chuap-tono, Chuap-tono, Kela ite tsina-u ? 目には見えないけれども、彼方の嶺や此方の山に、ホピ・インディアン(Hopi Indian)ピマ・インディアン(Pima Indian)その他、インディアンの数部族が、彼等の平屋根の上で、素焼を作り、いろいろな玉蜀黍(とうもろこし)を挽き、砂漠から砂漠へと、流れ聚(あつま)り消え去る歌を歌っているのだ。             ○ 種々様々な都市の特性。 若し我々が、深い洞察と知識とを以て見たら、この地球上に幾何在るか、多数の都会というものは、周囲の自然がそこに与える有形無形の恩沢と照し合わせて、明に、集合した人間の性格、生活の意向を代表しているものではないだろうか。 逆に見るとまた、或る目的を予想して集った一団の人類が、環境の自然によって、永年のうちに如何程馴致(じゅんち)されるかということも考えられる。 アリゾナの砂漠の中心から僅か二十四時間の行程で、更に明美なカリフォルニアに入り、楽しそうな耕地と、市街の中枢まで身軽な田園の微風に吹かれているロスアンジェルスの市を見ると、自分は深くそのことを思わずにいられなかった。 自分の見た狭い範囲だけでも、紐育と華盛頓(ワシントン)、こことでは、住む人の心持から雰囲気が、まるで異っている。 嘗て、父がまだ一緒に滞留していた時分、小蒸汽で、ずっとハドソン川の上流から河口の方へと流れ下って見たことがある。内部に這入って見上げた紐育というものではなく、外部から欧州大陸との直接国道である水の上から紐育という大都市の輪廓を見ようというのである。 左右に絶壁の聳え立った上流では、いかにも秋の樹林の色が美しい。静かに河沿いをドライブして行く自動車や、騎馬の人かげを黒く小さく見渡しながらだんだんと下にかかり、触手のように無数の棧橋の突出た下流、日に白く光る高屋が、びっしりと肩を並べ、高さを競って詰っているのを眺めると、自分は、異様な感に打れた。 あの街の中に、用事があって歩き廻っているとき、誰一人、これほど不思議な、有り得べからざる心持には打れないだろう。責任も義務もなく、静かな波の上からこの大市街を見渡すと、何ということもなく、今にも一大変動が突発して、たちまち四十階の建物も、誇らしげなウール・ウォルスの円屋根も、一時に消えて無くなりそうな心持がするのである。 建物も、高塔も、皆、人間の、金持になりたい、世界一になりたい、という絶間ない欲求の上に生えているような気がする。実に明かな、確かな、しかも蜃気楼であるというような心持がする。 一朝何かことがあって、幾百万という住民が死に絶えたら、これらの壮大な建築物は、その基礎石にたとい一厘の動揺を与えられないでも、消える人間の気息とともに、消滅してしまうかと思われる。それほど、市街自身も生物なのだ。日光を照返す金色の尖塔(ピーク)も、屋根の平たい四角な事務所建築も、厖大な紐育という一生物の体内で何等かの機能を司っている。吸収し、排泄し、住民は自分等が各々日々の生活を安全に支配していると思っていても、実は、麻酔的な都市の威力に制せられ、我以外のものの血液循環によって、知らず識らず体温を保っているようにさえ感じられるのである。 一旦この市に指の先でも触ったら、人はもう、「紐育人」以外の何者でもあり得なくなってしまうのではないだろうか。 こんなに生々しい感銘をもって来ると、華盛頓は、自分に古い画廊のような印象を与える。 実際の人はもう百年も昔に死んでいるのに、肖像画と姓名と、官位と邸宅とは、今もその当時のように生きて、権利を持っている。 前面に壮麗な階段と柱列(コラム)とを持つ議事堂の建物は、恐らく内部に一人の下院議員を持たなくなっても、それが議事堂であったという権威は、アメリカの在る限り失わないで行くだろう。白堊館(ホワイト・ハウス)にしても、与える感じは違いはない。 生き死ぬ個人の後に、記録や報告書が遺って行く。市街は、流れる行人の性格や感興というものによって、溌剌とするよりも、寧ろ大統領、国務卿、または陸軍卿という永代的貫目によって、落付けられ、威厳あらせられているように感じられるのである。 悪くいえば、紐育は吸血鬼だといえよう。然し、華盛頓は、また余りに手触りが乾き、古めかしくカサカサとしている。 これから見ると、ロスアンジェルスは、更に、自然から生れた一つの果実のような市だといえる。 明に、文化的発育の中途にある。けれども、人間が自然と入り混り、飽くまでも土に執して生活して行く有様は、善かれ悪かれ、独特な雰囲気を作っている。 自分の手で百姓をしていないものは、油田や鉱山やその他、種々の土地所有権によって生活している。山と海とにほどよく挾み護られ、四季の適宜な変遷、晴天と降雨との調和によって、地はまるで生産するために創造時代から篩(ふるい)にかけられたような場所に住んで、どうして豊饒な大地に縋らずにいられよう。 商売人も、医者や牧師も、皆、気質的に野天と、太陽とを操っているように思われる。哲学や、理想や、道義観などは、この多産な、生存に適した緯度の上で、全く「今日」に無用な学究なのだろう。腕を強く、自然と人間とが物々交換で、邪魔な者とは喧嘩をし、助ける者には握手をして暮しているのだ。        八 我々がロスアンジェルスに着いたのは、十月二十三日の朝、十時頃であったろう。 続けさまの旅行をしていると、人は、明る日も明る日も同じ列車と顔ぶれで、週日(ウイークデー)などという観念を念頭から失ってしまう。我々は、汽車が連れて来るままに到着したのであったが、その日は偶然日曜日であった。 予(かね)て時日を知らせてあるX氏は、きっと迎えに来られるだろう。 とにかく、ここで降り、二三日はゆっくり休めるという期待が、何よりもこの市に自分の悦びを繋いだ。
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