播州平野
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著者名:宮本百合子 

        一

 一九四五年八月十五日の日暮れ、妻の小枝が、古びた柱時計の懸っている茶の間の台の上に、大家内の夕飯の皿をならべながら、
「父さん、どうしましょう」
ときいた。
「電気、今夜はもういいんじゃないかしら、明るくしても――」
 茶の間のその縁側からは、南に遠く安達太郎(あだたら)連山が見えていた。その日は午後じゅうだまって煙草をふかしながら山ばかり眺めていた行雄が、
「さあ……」
 持ち前の決して急がない動作でふり向いた。そして、やや暫く、小枝の顔をじっと見ていたが、
「もうすこしこのまんまにして置いた方が安全じゃないか」
と云った。
「――そうかもしれないわね」
 小枝は従順に、そのまま皿を並べつづけた。
 台の端に四つになる甥の健吉を坐らせ、早めの御飯をたべさせていたひろ子は、この半分息をひそめたような、驚愕から恢復しきれずにいる弟夫婦の問答を、自分の気持にも通じるところのあるものとしてきいた。
 東北のその地方は、数日来最後の炎暑が続いていて、ひどく暑かった。粘土質の庭土は白く乾きあがって深い亀裂が入った。そして毎朝五時すぎというと紺碧の燦(かがや)く空から逆落しのうなりを立てて、大編隊の空襲があった。
 前夜も、その前の晩もそうであったように、八月十四日の夜は、十一時すぎると空襲警報が鳴り、午前四時すぎ迄、B29数百機が、幾つもの編隊となって風のない夏の夜空をすきまもなく通過した。おぼつかないラジオの報道は、目標は秋田なるが如しと放送していたが、それを信じて安心しているものは一人もなかった。富井の一家が疎開してきて住んでいる町の軍事施設や停車場が猛烈な空爆をうけたとき、空襲警報のサイレンは、第一回爆撃を蒙って数分してから、やっと鳴った始末であった。
 十四日の夜は、行雄とひろ子とがまんじりともしないで番をした。壕に近い側の雨戸は、すっかりくり開け、だまって姉弟が腰かけている縁側のむこうには、おそく出た月の光で、ゆるやかに起伏する耕地がぼんやり見えた。米軍機の通過する合間を見ては、町の警防団が情勢を連呼していた。そのなかに、一つ女の声が交って聞えた。細いとおる喉をいっぱいに張って、ひとこと、ひとこと、「てーきは」と引きのばして連呼する声を聴いていると、ひろ子は悲しさがいっぱいになった。低く靄がこめている藷畑(いもばた)の上をわたって、大きい池のあっちから、その女の声はとぎれとぎれにきこえた。責任感でかすかにふるえているかと思うその中年の女の声は、ひろ子に田舎町のはずれに在る侘しいトタン屋根の棲居(すまい)を思いやらせた。古びた蚊帳の中で汗をかきかき前後不覚に眠ってしまった何人かの子供らの入り乱れた寝相と、一人の婆さまの寝顔とが思いやられた。その家には、たしかに男手が無いのだ。
 三人の子供をつれて小枝が横になっている蚊帳をのぞくと、どんなに足音を忍ばせて近づいても必ず小枝は、
「どう? 御苦労さまね」
と、おとなしく、心配にみちた声をかけた。
「父さんもいるの? 今夜は、なんてどっさり来るんでしょう」
 いざというとき子供たちを抱え出す足許をやっと照すだけの明りが、用心深くかこわれて、小枝の枕頭に置いてある。蚊帳の青味と隈の濃いその灯かげの陰翳(いんえい)とで、美しい小枝の小鼻は、白い枕被いの上で嶮しくそげて見えるのであった。
 最後の編隊が、耕地の表面の土をめくり上げるような轟音をたてて通過した。そのあとは、いくら耳をすましても、もう空は森としていて、ひろ子は急に体じゅうの力がぬけてゆくのを感じた。
「――すんだらしいわね」
 もんぺ姿の小枝が蚊帳からにじり出て来て、さもうるさそうに頭をふり、頸のまわりから防空頭巾の紐をといた。行雄は、靴ばきで踏石の上に立ったまま、煙草に火をつけた。行雄は最初の一服を深く、深く、両方の頬ぺたをへこますほど長い息に吸いこんだ。
 十五日は、おそめの御飯が終るか終らないうちにサイレンが鳴った。
「小型機だよ! 小型機だよ!」
 十二歳の伸一が亢奮(こうふん)した眼色になって、駈けだしながら小さい健吉の頭に頭巾をのせ、壕へつれて入った。三日ばかり前この附近の飛行場と軍事施設とが終日空爆をうけたときも、来たのは小型機の大編隊であった。
「母さん、早くってば! 今のうち、今のうち!」
 小枝が病弱な上の女の児を抱いて一番奥に坐り、一家がぎっしりよりかたまっている手掘りの壕の上には夏草が繁っていた。健吉が飽きて泣きたい顔になると、ひろ子はその夏草の小さい花を採って丸い手に持たせ、即席のおはなしをきかせるのであった。この日は、三時間あまりで十一時半になると、急にぴたりと静かになった。
「変だねえ。ほんとにもういないよ」
 望遠鏡をもって、壕のてっぺんからあっちこっちの空を眺めながら、伸一がけげんそうに大声を出した。きのうまでは小型機が来たとなったらいつも西日が傾くまで、くりかえし、くりかえし襲撃されていたのであった。
「珍しいこともあるものねえ」
「昼飯でもたべにかえったんだろう。どうせ又来るさ」
 そんなことを云いながら、それでも軽いこころもちになって、ぞろぞろ壕を出た。そして、みんな茶の間へ戻って来た。
「御飯、どうなさる? 放送をきいてからにしましょうか」
 きょう、正午に重大放送があるから必ず聴くように、と予告されていたのであった。
「それでいいだろう、けさおそかったから。――姉さん、平気かい?」
「わたしは大丈夫だわ」
 伸一が、柱時計を見てラジオのスイッチ係りになった。やがて録音された天皇の声が伝えられて来た。電圧が下っていて、気力に乏しい、文句の難かしいその音声は、いかにも聴きとりにくかった。伸一は、天皇というものの声が珍しくて、よく聴こうとしきりに調節した。一番調子のいいところで、やっと文句がわかる程度である。健吉も、小枝の膝に腰かけておとなしく瞬(まばた)きしている。段々進んで「ポツダム宣言を受諾せざるを得ず」という意味の文句がかすかに聞えた。ひろ子は思わず、縁側よりに居た場所から、ラジオのそばまで、にじりよって行った。耳を圧しつけるようにして聴いた。まわりくどい、すぐに分らないような形式を選んで表現されているが、これは無条件降伏の宣言である。天皇の声が絶えるとすぐ、ひろ子は、
「わかった?」と、弟夫婦を顧みた。
「無条件降伏よ」
 続けて、内閣告諭というのが放送された。そして、それも終った。一人としてものを云うものがない。ややあって一言、行雄があきれはてたように呻いた。
「――おそれいったもんだ」
 そのときになってひろ子は、周囲の寂寞(せきばく)におどろいた。大気は八月の真昼の炎暑に燃え、耕地も山も無限の熱気につつまれている。が、村じゅうは、物音一つしなかった。寂(せき)として声なし。全身に、ひろ子はそれを感じた。八月十五日の正午から午後一時まで、日本じゅうが、森閑として声をのんでいる間に、歴史はその巨大な頁を音なくめくったのであった。東北の小さい田舎町までも、暑さとともに凝固させた深い沈黙は、これ迄ひろ子個人の生活にも苦しかったひどい歴史の悶絶の瞬間でなくて、何であったろう。ひろ子は、身内が顫(ふる)えるようになって来るのを制しかねた。
 健吉を抱いたまま小枝が縁側に出て、そっと涙を拭いた。云いつくせない安堵と気落ちとが、夜の間も脱ぐことのなかった、主婦らしいそのもんぺのうしろ姿にあらわれている。
 伸一が、日やけした頬をいくらか総毛立たせた顔つきで、父親の方からひろ子へと視線をうつした。
「おばちゃん、戦争がすんだの?」
「すんだよ」
「日本が敗けたの?」
「ああ。敗けた」
「無条件降伏? ほんと?」
 少年の清潔なおもてに、そのことは我が身にもかかわる屈辱と感じる表情がみなぎっているのを見ると、ひろ子はいじらしさと同時に、漠然としたおそれを感じた。伸一は正直に信じていたのだ、日本が勝つものだと。――しばらく考えていてひろ子は甥にゆっくりと云った。
「伸ちゃん、今日までね、学校でもどこでも、日本は勝つとばかりおそわったろう? おばちゃんは、随分話したいときがあったけれど、伸ちゃんは小さいから、学校できかされることと、うちできくことと、余り反対だと、どっちが本当かと思って困るだろうと思ったのさ。だから黙っていたのよ」
 戦争の十四年間、行雄の一家は、初から終りまで、惨禍のふちをそーっと廻って、最小限の打撃でさけとおして来ていた。主人の行雄が、本人にとっては何の不自由もない些細な身体上の欠点から兵役免除になっていた。それが、そういう生活のやれた決定的な理由であった。所謂(いわゆる)平和建設の建築技師である行雄は経済封鎖にあっていた。手元も詰りながら、一般のインフレーションの余波で何とか融通がついて、一年半ほど前から祖父が晩年を送ったその田舎の家へ一家で疎開暮しをはじめたのだった。
 戦争中、新聞の報道や大本営発表に、ひろ子が、疑問を感じる折はよくあったし、野蛮だと思ったり、悲惨に耐えがたく思ったりすることがあった。ひろ子の気質で、そのままを口に出した。行雄は、それもそうだねえと煙草をふかしている場合もあったし、時には、姉さんは何でも物を深刻にみすぎるよ。僕たちみたいのものは、結局どうする力もないんだから、聞かされるとおり黙って聞いていりゃいいんだ。そう云って、眼のうちに暗い険しい色をうかべる時もあった。戦争が進むにつれて、行雄の気分はその面がつよくなった。行雄のそういう気持からすれば、息子がきかされる話についても神経の配られるのを感じて、ひろ子はたくさんの云いたいことを黙って暮して来たのであった。
 十五日は、そのままひるから夕方になり、やがて夜になっても、村じゅうの麻痺した静けさは変らなかった。
 翌日、ひろ子は余り久しぶりで、却って身に添いかねる平和な明るさの中でもんぺをぬぎ、網走の刑務所にやられている良人の重吉へ、たよりを書きはじめた。ひろ子が小娘で、まだ祖母が生きていた時分、祖父の遺愛の机として、赤銅の水滴だの支那焼の硯屏(けんびょう)だのが、きちんと飾られていたその机の上には、今ここで生活している若い親子たちの賑やかでとりまとまりのない日々を反映して、伸一の空襲休暇中の学習予定の下手なプリントや、健吉が忘れて行ってしまった玉蜀黍(とうもろこし)の噛りかけなどがころがっている。
 ひろ子は、少し書いては手を止めて、考えこんだ。網走の高い小さい窓の中で、重吉は、きっともう戦争の終ったことを知っているだろう。十二年の間、獄中に暮しつづけて来た重吉。六月に、東京からそちらへゆく前、面会所の切り窓から「まあ半年か、長くて十ヵ月の疎開だね」と云って笑った重吉。その重吉こそ、どんな心で、このニュースをきいたであろう。ひろ子は、こみ上げて来る声なきかちどきで息苦しいばかりだった。
 この歳月の間に、ひろ子は検閲のある手紙ばかり千通あまりも書いて来た。いつか変通自在な表現と、お互のわかりあいが出来て、自然の様々な景観の物語などのうちにも、夫と妻との微妙なゆきかいがこめられるようになっているのだった。手紙をかき出して、ひろ子は、いつか習得させられた自分の気の毒なその技術を、邪魔なばかりに感じた。ひろ子は、はっきり、それこそその手紙の眼目としてききたいことがあった。たった一行それだけ書けばいいということがあった。しかし、まだ、それは書けまい。いつお帰りになるでしょう。書きたい言葉はその一行である。ほんとに、重吉はいつ帰れるだろうか。
 この十四年ほどの間に、日本の治安維持法は、ナチスの予防拘禁所のシステムまで輸入して、息つくすきも与えないものとなって来た。狭い日本に張りつめたこの重石(おもし)は、先頃発表されたポツダム会議の決定によれば、直ちにとりのぞかれ、粉砕されるべきものとして示されている。支配者たちは、自分たちのこんな敗北さえも、野良や工場に働く人々には、すぐのみこめないような云いまわしであらわした。そこには、何処かで、出来る丈握っている繩の端を手離すまいと腐心している陰険さがうかがわれるのであった。治安維持法を、どういうやりかたで、どんな範囲で、彼等は処理しようとするのだろうか。
 ひろ子の書く手を止めるのは、この点について、経験した者でなくては想像しにくい程の苦しい不安と警戒とであった。一言、うれしい、という率直な表現をもつことさえも、重吉への手紙の中では安心できなかった。妻であるひろ子の、打ちひろげすぎた感情が、生きるために最小限の条件を確保するためにさえ、根づよく闘わなければならない重吉の体に、見えないところでてきめんな意地わるい仕打ちとして返されて行くようなことがあってはならない。こうして綴る一行一行のうちには、身もだえのように、脈搏つ心のうねりがある。いがぐり頭になって、煉瓦色の獄衣を着て、それでも歴史の前途はいとど明るし、という眼色でいる重吉は、このうねる熱さを彼の掌のなかにうけとった時、自分たち二人が時間と距離とにへだてられつつ、結ばれて生きて来た年月を何と顧るだろう。にわかに急な斜面が展(ひら)けたような今日の感動を、重吉もぐっと、その胸でこたえている。それが、まざまざと感じとられるのであった。
 ひろ子が机に向っている障子の外は、つい一昨晩まで、夜じゅう恐怖のうちに開け放されていた縁側である。いくつもの風呂敷包。リュックサック。食糧を入れた石油カン。そういうものが、まだほっぽり出されたまんま、そこにあった。雨戸が一二枚ひき残されていて、その節穴から一筋矢のように暑い日光が薄暗がりに射し込んでいる。亀の子に細引をかけた小型の行李が、丁度その光の矢を浴びている。
 自分も重吉のいる網走へ行って暮そう。文筆上の自由職業をもっているひろ子が、そう決心したのは七月下旬のことだった。何も知らずに、巣鴨宛に書いた重吉への手紙が、網走へ本人を送致したからという役所の附箋つきで戻されて来た。粗末な紙片に、にじむインクで書かれた網走という文字を見たとき、ひろ子は、自分の生きて来た張合が、すーと、遠くへ引き離された感じがした。網走というところは、名前ばかりで知っている。そこへやられた重吉と自分との間には、狭い日本の中ながら幾山河が在る。空襲が益々苛烈になり、上陸戦の噂もあったその頃の事情で、この幾山河は、場合によっては、二人の間が何年間か全く遮断されるかもしれないという心配をもたらした。
 ひろ子は、そこで暮していた東京の弟の留守宅の始末を全速力で片づけて、ともかく東北のこの町へ来た。そして、小一里ある停車場や交通公社へ行って津軽海峡を渡る切符が買えるのを待ちながら、旅の仕度をした。
 ひろ子のいるところでさえ八月になれば、山々の色が変化した。網走には、もう秋の霧が来ているだろう。オホーツク海からの吹雪が道を塞ぐ前に、せめて北海道まで渡りたい。ひろ子は寒いところでの暮しに役立ちそうな物を選んでは、夏の西日の下で小さい行李につめた。知り合いというようなものもいないそこで、どんな生活が出来るのか見当もつかなかった。保護観察所の役人は、くりかえし、ひろ子が行った先で人と交際することを禁じた。もうその頃、海を渡る旅行は体一つでさえ困難になっていた。道具めいた何一つも持っては行けない。それでも、棲むところは網走ひとつに思いきめて、ひろ子は青森が空襲をうける度に、あら、またよ、と歎息した。青森市は焼かれ、連絡船の大半が駄目になったのであった。
 切符が手に入れば、明日にもそちらへ行くと書いた手紙を封筒に入れながら、ひろ子は、ほんとに、この行李が海をこえるのかしらと思った。東京の親切な知人が、つてのない網走へゆくときめたひろ子を思いやって、すこし離れた都会にいる或る人に、紹介をたのんでくれた。待ちかねるほどたって返事が来た。ハガキにせわしい字で、当地も昨今は空襲を蒙るようになった。知人も疎開したり死亡したりしていて御希望に添うような便宜は得にくい、御主人によくお話になり、御渡道はお見合わせになるが然るべく、という意味が書かれていた。
「御主人によくお話になり」――云いつけで、ひろ子が遠いところへ行きでもするように。――懇篤な紳士と云われる人が、身に迫った戦禍に脅えて、浅く迅く視線を動かして身辺を視ている落付かないさまが、ハガキの面に溢れていた。またそこには、一人の女としてひろ子が体にからめて運んでいる面倒な事情も、おのずから影響していると思えた。
 実の弟の家へ逗留しているというだけなのに、町の特高は、同じ頃そこへ用向で訪ねて来た客たちの関係までを、訊きただした。駐在は親切で、お客があるときも、その名と年とを書き出してくれさえすれば、すぐ応急米を渡すから、と小枝に云った。小枝はよろこんでそのとおりにした。特高が来て、どうして知っているかと思うようなつまらない名をいうとき、それはみんな、米とつながる姓名なのであった。どうでしょう! 小枝は、眉をもち上げて首をすくめた。
 それらのあれこれに拘らず、ひろ子は網走へゆこうとしているのだった。
 封筒につかう糊をとりに立ってゆくと、茶の間に、きき馴れない男の声がした。もう大分酔いのまわった高声で、
「はア、どうも、こういう超非常時ででもねえと、思い切ってこちらさアは来にくくてね」
 行雄が、それに対して、おだやかに応答している。
「何しろ、もうこうなっちゃあ、酒でも飲むほッか、手はねえです。馬鹿馬鹿しいちゃ、話にもなんねえ。いかがです一杯――わしらの酒でも、はあ満更馬鹿にしたもんじゃない、純綿でやすって――ね、旦那、一杯。つき合いちゅうもんだ」
 ひろ子は、下駄をはいて、杏(あんず)の樹の陰から台所へまわった。小枝が、一方に柴木を積み上げた土間に跼(かが)んで、茶の間のやりとりに耳を傾けながら馬鈴薯の皮をむいていた。
「お客?」
 こっくりして、小枝が困ったという表情をした。
「だれ?」
「与田の音さん」
 町の、統制会社へ出ている男であった。
 ひろ子は、小さい健吉をつれて、往還の角にある郵便局へ手紙を出しに行った。いかにも明治になっての開墾村から町に変った土地らしく、だだっぴろい街道に、きのうまでは軍用トラックとオートバイが疾走しつづけていた。きょうは、そういうものはもう一つも通らない。街道は白っぽく、埃りをため、森閑として人気なく、おしつぶされたように低い家と家との間にある胡瓜(きゅうり)畑や南瓜(かぼちゃ)畑の彼方に遠く、三春の山が眺められた。
 草道をかえって来ると、茂った杉の木かげの門から、音さんの腕に肩をからまれながら出てゆく行雄のワイシャツ姿が見えた。

 十五日から、ラジオは全国の娯楽放送を中止した。武装解除について、陸海軍人に対する告諭、予科練、各地在郷軍人に与うる訓諭、そういう放送が夜昼くりかえされた。その間に、広島と長崎とを犠牲にした原子爆弾の災害の烈しさと、そのおそろしい威力とについての解説がきこえた。銀行のとりつけを防ぐため、経済は安定であると告げる放送。食糧事情について安心せよという農林大臣の放送。これからは平和日本、文化国日本を再建せよと命じる文部大臣。ラジオが途切れる間の沈黙にも耐えないという風で、次から次へ、諭告は、ひろ子達のいる田舎の町に鳴りつづけた。どの家でも熱心に、ラジオをかけっぱなしにして聴いていた。が、聴いているそれらの顔に滲んでいるのは、云いあらわすに術のない一種の深いあてどなさと疑惑であった。今日までこれ程の思いをさせて、勝つ勝つとひっぱって来た繩を、ぷっつり切って、力の反動でうしろへひっくり返るということさえもないかのように、別な紐をつき出してさあこんどはこれを握れと云われても、人々はどういう心持がするだろう。
 半年ぶりで富井の家の電燈も煌々(こうこう)とついて、昔ながらのすすけた太い柱や板の間をくまなく輝かせるようになった。台所の天井に届く板戸棚の前に、大きくて丸い漬物石がいつの間にか転がっていたのが、ひょっこり目について皆を笑わせたりした。馴れない明るさは、テニス・シャツをブラウス代りに着ているひろ子に、自分の体の輪郭までをくっきり際立って感じさせた。井戸端の電燈がついたので、いつ廊下を通っても閉った雨戸のガラスから、荒れた花壇のある深夜の庭が、はっきり見えた。久しぶりの明るさは、わが家の在り古した隅々を目新しく生き返らせたが、同時に、その明るさは、幾百万の家々で、もう決して還って来ることのない一員が在ることを、どんなにくっきりと、炉ばたの座に照らし出したことだろう。強い光がパッと板の間を走ったとき、ひろ子はよろこびとともにそのことを思いやって鋭い悲哀を感じた。
 夜の明るさが、政府放送のたよりなさと拙劣さとを、ひとしおしみじみと感じさせるような雰囲気のうちに鈴木貫太郎内閣が退陣した。そして東久邇の内閣が代った。

        二

 杏の樹の下枝へ結びつけた荒繩の輪と納屋の軒下とにかけて、竿がわたしてある。ゆすぎ出した浴衣を、ひろ子は、その竿にかけている。
 納屋では小枝が、馬鈴薯の腐ったのをよりわけていた。その年は、丁度わるい時季に雨が続いて、その地方では、麦も馬鈴薯もひどく傷められた。殺虫剤を入れた噴霧器を裸の背中に背負った五兵衛が、納屋の格子へ立ちよって馬鈴薯の処理を教えていた。
 納屋の話題はいつの間にか変ったと見えて、小枝が、
「まあ、そうお! たまげたわねえ」
 土地の言葉と東京弁をまぜこぜにして、独特に愛嬌のある云いかたで感歓しているのがきこえた。
 ひろ子が、二枚めの洗濯ものを腕にかけて来て干しはじめると、
「おばちゃん」
 小枝が呼びとめた。
「連隊じゃね、何でもかんでも、持てるだけ持っていけって、わけているんですって。自動車にドラムカンのガソリンまでつけて、もらって行った人があるんですって。――凄いわねえ」
 富井の家の一郭は、開墾村の南よりの端れに近かった。連隊は、北の端にあった。五兵衛の家は、北の町角にあって、連隊には近かった。兵隊たちは、ひもじかったり、茶が飲みたかったりする時には、村じゅうどこと選りごのみなしに南の端の富井の台所の上(あが)り框(がまち)にまで入って来て、腰をかけた。そして、茶を所望したりした。しかし八月十五日以来は兵隊たちの歩く道が、きまった。連隊から、小一里はなれた市中の停車場へ通じる堤下の一本道だけを、続々と兵隊たちが通った。背中の重い荷物で体を二つに折り曲げ、気ぬけした表情の老若の兵士が、重荷で首をうしろへつられる関係上、誰も彼も上眼づかいで、のろのろと、遠くの山並は美しい旧街道を、停車場さして歩いて行った。その街道は五兵衛のところの裏からはじまっている。五兵衛一家やそのあたりのものが、おのずから敏い農民の眼で戦争の間から今日まで、どっさりのことを目撃して来たのは当然のことであった。
「牛肉や豚肉みたいなものまで、とり放題だったんですって」
 主婦らしい羨望が小枝の声に響いた。その頃、一般の家庭ではどこでも、肉類などを買うことが出来ずにいた。
 五兵衛は、小枝の報告ぶりをわきに立ってきいていたが、
「はア、たまげたね。まあ、無えつうもんはまず無えな。毛布だれ、軍靴だれ、石油、石鹸、純綿類から、全くよくもああ集めたったもんだ。民間に何一つ無えのは、あたり前だね、あれを見れば」
 それを自分の眼で見て来た驚きを、披瀝した。
「話のほかよ。奴等、背負(しょ)えるったけ背負って帰れ、って云わっちゃもんだから、はあ、わが体さ四十五貫くくりつけて、営門を這って出た豪傑があります」
「まあ」
 小枝もひろ子も笑い出した。
「そりゃそうさね、営門さえ背負って出れば、そいだけは呉れてやるつうんだもん、一生に一遍這う位、何のこたなかッぺ」
 それにつれて五兵衛は、何か自分にもかかわりのあった滑稽なことを思い出したらしく、ハハハと、一人でひどく笑った。
「さ、畑さ行がねえば。ばっぱさに又ぼやかれるかんな」
 五兵衛が去ったあと、小枝とひろ子とは何とはなしに暫く話のつぎほを失った。
 生活は、かわりはじめていた。
 東久邇内閣は、毎日毎日、くりかえして、武器、軍需品、兵器物資を自分勝手に処分してはならない。秩序を守って、上部からの命令に従えと全国に向って放送しつづけていた。しかし、その警告が現実には却って、早いもの勝ち、今のうちにと、手あたりばったりな掠奪の刺戟となっているように見えた。
 八月十五日から二三日、全く麻痺したようになっていた小さな町が正気をとり戻したときは、もう、誰それが何をどの位せしめたそうだ、という風な噂で活況を呈した。
 ひろ子が風呂を貰いに行く農家の勘助のところでは、隠居所のようにして、二間の家を富井の門わきにもっていた。十五日の夜行ったとき、根っ子が低く燃えている夏の炉を囲んで勘助父子は褌一本、女房のおとめは腰巻一つの湯上り姿で、ぐったり首を垂れていた。けれどもこの頃では、三人の様子が変った。何とはなしに絶えず気を配り、敏捷に動き、夜になってから、重いリアカーを父子づれで杉の木の闇へ曳きこんだりすることが多くなった。それにいくらかふれるように、
「ゆうべはおそくまで御精が出たのね」
 流しのところで小枝が、そう云っても、
「はあ。なんだかしんねえが、はア……」
 おとめはあいまいに受け流したまま、いそいで井戸ばたの方へ去った。
 これらの、小さいけれども意味深い一つ一つの徴候が、ひろ子の心に感銘を与えつつ重ねられて行った。
 富井の一家のいる村は、市に併合されて町になってから、まだ間のない開墾村であった。明治政府が、大久保利通時代の開発事業の一つとして、何百町歩かの草地を開墾し、遠くの湖水から灌漑用の疏水を引いた。その事業に賛成して、町の資産家たちは「社」を組織して、資金を出した。開墾が出来たとき、「社」の連中は出資額に応じて、田地を分割した。農民は維新で疲弊した東北地方のあちらこちらから移住して来て、初めからこれらの農民の生活は小作として出発された。時代が移っても、小作が多くて、田地もちの少い村であることに変りはなくて、今日まで来たのである。
 恐ろしい戦争がすんだ。村じゅう、気がぬけたようになった。さてそのあと、ここの農民たちの心に、真先に浮んで来る考えは何だろうか。ひろ子は、関心を抑えることが出来なかった。
 八月九日、夕方のラジオで、ソヴェト同盟が日本に宣戦布告した公表があった。そのとき、五兵衛は畑がえりで富井のうちの縁側に休んでいた。迅速に占領された北朝鮮や満州などの戦略地点が報道されると、五兵衛は、野良もんぺを穿いただけの裸の体を、ぺったりとうつ伏せて縁側ごしに畳の上へ汗で黒く光る顔をおとした。
「日本も、はあ、こんで、仕舞った!」
 ニュースがすんでから、ひろ子が、自分に向って納得のため、というように云った。
「しかし、此は案外な事なのかもしれないよ。浦塩から日本まで爆撃機で三時間位でしょう。本当に潰す気なら、どうして、そっちをしないで、朝鮮や満州を抑えているのさ、ね? 始りにキッカケがいる、終るにもキッカケがいる、そんなこともあるんじゃないかしら」
「――なるほどね」
 五兵衛は頬骨の高い顔をもち上げて、渋色になった手拭で顔の汗をふいた。
「なるほどね、当っているかも知んねえ」
 その五兵衛にしろ、ポツダム宣言というものにつれて、変え得られるものとしての、自分の生活を考えていなかった。五兵衛は富井の土地をかりている。だがその土地について考えていない。
 勘助のうちでは、占領軍が、すべての農作物を徴発してしまうのではないかと、やたらに心配した。ひろ子に、くりかえし、その心配を訴えた。勘助の心配はそこに止った。勘助もよその土地を耕していた。そしてその土地について考えているようでもないのであった。
 人民の歴史が飛躍する大きいテーマの一つと感じられた題目の一つは、少くともこの界隈の農民の欲求として、その時期には把握されていなかった。そのまま種板はもう別の一枚にとりかわって、目先の物資の奪い合いに、焦点がずれて行っているのであった。
 土間で代用食の玉蜀黍の皮をむきながら、小枝はしみじみと述懐した。
「ほんとうに、この頃はどこの奥さんたちも大したものねえ。かなわないわ……」
 小枝の生れつきは、そういう意味での敏腕ではなかった。主人の行雄と云えば、戦争中、利益にありつく動きかたをする気がなかった通り、事情が急変したからと云って、急にどうという賢こげな動きかたもしなかった。富井のうちのぐるり一帯には噂話ばかり横行していて、しかも小枝たちの日常生活には、子供のゴム長靴一足現れるではなかった。律気な小枝は、子供たちのおやつの桃を買うために、夜明から自転車にのって、遠い村まで出かけていた。
 五兵衛たちの話しぶりは一種独特なものになって来た。豚肉が何貫目とか手に入ったという話。食用油を一カンずつ分配したという話。そういう事がみんな、何日か前にすんでしまったとき、さもなければ、もう申込を締切ったというような時になっていつも小枝の耳に入った。
「まあ。そんなことがあったの!」
 日やけした小枝の頬は、そうきいたとき、ほんの短い間、さっと赧(あか)らんだ。その赧らみはすぐ消えた。消えたとき、小枝はもう二度とその話には戻ってゆかなかった。
 そういう小枝を見るのがひろ子には切なかった。日頃、小枝は、近所となりや村じゅうから好意をもってつき合われていた。彼女の勤勉と、人柄のよさが、生活の細々したところで、主婦としての彼女のしのぎよさになっていた。それはそうなのだけれど、そして、今でもそれにちがいないのだけれども、違いないなかに、はっきりちがいが生じて来ている。
 物資にからんでその中心地となっている連隊から、富井の家が遠いからばかりではない。五兵衛たちのぬけ目のない日暮しの才覚が縦横に走っている村人の生活の流れの筋は、富井の屋敷のぐるりを四角く囲んで、白いどくだみの花を咲かせている浅い溝まで来て、ぴたりと止っている。ひろ子は切実に、それを感じた。村の人々の生活の流れはそこまで来て一応とまった。また折れ曲って、次のどこかへ流れ込むにしろ、決して富井の内庭までびたびたと入って来ることはないのである。
 これは、小枝のせいでも、行雄のせいでもなかった。富井という家がこの土地でもって来た家としての性質が、今、はっきりと証明されている意味であった。富井の一家は、村の農民仲間ではない。中学校の教師でもなかった。その人々から見れば、富井のものが自分たちと全く一つ利害に立って暮しているとは考えられていない。そういう立場の反映であった。
 ひろ子は、いよいよ重吉のいる網走へ行きたく思った。そこで、ひろ子はたった一人むき出しの生活をしなければならない。思想犯の妻という、狭い暮しであるかもしれない。しかし、そこではひろ子はひろ子なりに、愛されても憎まれても、それはみんな自分に直接かかわることとして生きて行けるだろう。日本は変る。変る波の一つ一つを、ひろ子は重吉の妻としての我が身の立場にはっきり立って、犇々(ひしひし)とうけて、生きてみたかった。
 空爆で途絶していた青函連絡船は、今度は復員で一般の人をのせなくなってしまった。
 網走へもって行く筈の行李につめてあった秋の単衣(ひとえ)をまたとり出して、ひろ子は駅までの行き来に着た。地図で見れば、小指の幅ほどの海、小さい陸地の裂けめ。眺め、眺めて、とうとうひろ子は、その陸地の裂けめの突端に立って、向う岸を見ていようという気になった。そこで待っていて、いざと乗れる船をつかまえよう。そういう気になった。焼けた青森の地に、バラックを立てて住みはじめたという親しい友達に、ひろ子は自分の計画を相談する手紙を出した。

        三

 東京港に碇泊中のミゾリー号の甲板で、無条件降伏の調印がされた。
 ラジオできいていると、その日のミゾリー号の甲板に、ペルリ提督がもって来た星条旗が飾られていたという情景も目に見えるようだった。秋らしい陽の光のとける田舎の風景に、ラジオの声は遠くまで響いた。
 村なかの街道は、どちらへ向いて歩いて行っても山並が見えた。耕地を越して公会堂の円屋根の遙か彼方に連っている山々。農家の馬小屋の間から思いもかけずに展がる目路に高い西の山々。どの山も、秋の山襞を美しく浮き立たせ、冬の近づく人間の暮しを思わせた。ひろ子は、ひとしお網走を恋うた。
 そういうある午後、富井の門の内に男の子たちが集まって大さわぎをやっていた。伸一を先頭に金鎚、薪割、棒きれを握った少年たちが、声を限りに大活動をやっている中心には、光る銀灰色に塗られた流線型の小型ボートめいた物がころがっていた。
 パーンと、反響を大きくそれを打つ音がした。
「アレ! 俺らの手、ズーンちったよ」
「駄目だてば! 吉川、ここだったら、ホレ!」
 三四人が懸声を合せて、流線型をひっくりかえした。そのはずみに、自分も裸足(はだし)になって大いに参加していた四つの健吉が、ころんところがされた。
「健ちゃんがころげたぞ!」
「なアに、つええなア、もう一つ、ホーラ。でっくり返すべ!」
 稚なごえをはり上げて、「健タン、健タン」と叫びながら起き上った健吉が、またもや勇ましく流線型にとりついて行った。
 それは、飛行機につけるガソリン・タンクであった。こしらえたばかりで戦争が終って、村へ燃料として分配された。銀灰色の塗料から、きつい揮発性の匂いが立った。今は街道じゅうどの家の背戸からもこの匂いがしているのであった。
 縁側に立ってその光景を見物していて、ひろ子は幾度か腹から笑った。小人間たちの嬉しそうなこと! 全く遊戯にうちこんでいる。ガソリン・タンクというものを目の前に見るだけでも一大事件である上に、それをころがし、叩き、のっかってもいい。おまけに、大人は壊してくれと頼んでいるのだ。ワッセッセ! ワッセッセ!
 ほんとうにこの懸声で、少年たちは三つのタンクをリアカーにつんで、分配所であった国民学校の庭から運びこんで来たのであった。
 戦争が終ってからの、子供たちの遊びぶりがすっかり変った。警報が鳴り出すと、どんな親友でも、又どんなに面白いことをしている最中でも、子供らは一散に家へ駈け帰ってしまった。伸一は、それを悲しがって泣き出したことがあった。
 少年たちが、心も体もとろかして、集ったり散らばったり、穴をきり開いたタンクの胴に入って大海洋上の船を想像したりしてさわいでいる光景は、ひろ子を感動させた。平和とは、人間の生活にとって何であるか。それを深く感じさせた。
 そのとき、門柱のところからすーと、片脚を自転車からおろして、郵便配達夫が、内庭へのり入れて来た。
「おばちゃーん! ハンコだって」
 寸刻をおしむような声で、伸一が叫んだ。
「どちらの? 富井の? それとも石田?」
「石田さんのハンコ」
 来たのは書留速達であった。石田の母から来ている。立ったまま、ひろ子は封を切った。母は型どおりの時候の挨拶をのべ、秋めきましたが、とひろ子の安否をたずねている。
 読んで行って、ひろ子は、思わず一二歩体を動かした。誰かに訴えようとするように、少し口をあいて顔をもたげた。広島で重吉の弟の直次が生死不明となっているのであった。
 直次は、三度目の応召で広島に入隊した。それは、七月中旬のことであった。只今となれば、いずれ内地勤務のことと存じ、という母の手紙を、ひろ子も同じかすかな安堵でよろこんで読んだ。八月四日に直次は休暇で帰って来た。そして、五日の夕刻、いそいで隊へ戻った、六日の朝、丁度朝食の時間に、広島の未曾有の爆撃があった。
 営内のトラックに三日後までいるのを見たという者があるが、詳しくは何一つ分らない。絶望としか思えませんが、せめては死に場所なりと知りたくて。――
 汗ばんでいたひろ子の体が、小刻みに顫えた。二番目の弟の進三はもう四年南方に出征したままである。四つと二つの男の児をもつ直次の妻の、つや子の卵形の若々しい顔と古風な眼ざしが迫って来て、ひろ子はますます息苦しくなった。
 小枝は、さっきから人参を貰いに出かけて留守である。少年たちの歓声は、午後の中に愈々(いよいよ)高まり愈々燃え生きて育ってゆくものの生命の力に溢れている。ひろ子は嗚咽(おえつ)した。
 母のこれからの暮し、つや子と子供らの生涯、ひろ子にとって、それらは、みんな自分の生活のなかのことであった。母はどれだけかの辛棒で、重吉たちのこれまでの生活からうける打撃を持ちこたえて来た。直次が居り進三が居る。それだからこそ、重吉もひろ子も云いつくせない安心があった。
 母のこころのうちを思うと、ひろ子は、その手を頂いて額に当てたい気がした。
 籐椅子のおいてあるところ迄来て、ひろ子はそこに腰かけた。同じ籐の小さい円卓の上に母の手紙をひろげたままおいた。
 重吉は、このことについて何と考えるだろう。母は、おそらくひろ子に書いたと前後して、重吉にも手紙を出したにちがいない。
 重吉が、母の見舞にゆくようにとひろ子に云っていたのは、久しい前からのことであった。母の住んでいる所が最近特別な軍事都市になって、バスの中にさえ憲兵と書いた腕章の兵士がきっと一人はのっていた。その空気を思うと、ひろ子は行き渋っていた。この手紙を受けとってからも、猶ひろ子が網走行きに執着しているのと、そちらはやめて、母のところへ行くのと、どちらが重吉にとって、気がすむことだろう。
 しばらくして、帰って来た小枝が健吉を呼んでいる声がした。まだ土間に立ったままでいる小枝のところへ行って、ひろ子は母の手紙をわたした。
「ちょいと、読んで」
「何かあったの?」
 眼を走らせて、小枝は蒼くなった顔でひろ子を見上げた。
「おばちゃん。――どうなさる?」
「行かなけりゃ。重吉さんは、きっと私がそうすると思うだろうと思うわ」
「でも――何てことでしょう!」
 行雄も、やがて自転車で戻った。
「じゃ、切符は僕が何とか手配しましょう。姉さん、すぐ荷づくりなさいよ」
 話をきくと、行雄がそう云った。
「姉さんが歩いて行っちゃひと仕事だが、僕は自転車だから何でもないよ」
 こういう調子で、行雄がひろ子の行動にのり出してくれるのは日頃ないことであった。
「でも大丈夫かなあ? 一人で……何しろ凄いよ、今の汽車は……」
「私もそれが心配なのよ」
「仕方がないわ」
 ここの田舎へ来るうちにも、そのひどさは十分身にしみている。ひろ子は、弁当だけもって行くつもりであった。
「ここでいくら苦心したって、又どうせ東京で乗換えなけりゃならないんだもの」
「夜行でない方が安全だよ、同じことにしても……」
 東側の縁側へ行って、ひろ子は例の行李を開いた。広島のことをラジオできいたとき、ひろ子はすぐ安否をきいてやった。きょうの速達は十八日に田舎の局のスタンプがおされている。ひろ子の手紙とはゆきちがった。そして、これは二十日目についた。
 母やつや子が、直次のことを知ったのは、既に十一二日ごろのことであった。偶然、直次と同じ班の友達が、ふらりと、
「直次君、戻ってでありますか」と店先へ訪ねて来た。
「いえ、戻って居りませんが……どうでありますか」
 話はそのようにして初めて耳に入ったのであった。
 ひろ子は、行李の中のものをすっかり出して、大風呂敷へうつした。仕事の用意をすこしと、そして底の方へ喪服を入れた。
 直次が、除隊後第一回の応召のとき、母はひろ子をつれて、わざわざ讃岐の琴平へ詣った。雨が降り出した。下の土産屋で、番傘と下駄とをかり、下界から吹き上げる風に重い傘を煽られまいとして、数百段の石段を本堂まで登りつめたとき、ひろ子は脚がふるえて動けないようだった。雨にうたれながら、母はお守りを貰ったり、祈祷をさせたりした。母ばかりでなく、何十人もの男女がそのあたりを右往左往しているのであった。なかには裸足で髪の上から油紙をかぶりお百度をふんでいる若い女もあった。杉の大木の梢すれすれに寄進された幾本もの祝出征の幟旗が立ち並んでいた。武運長久を願ってのことだが、五月雨に濡れそぼり、染色を流したそれらののぼり旗は暗い木下蔭で、幽霊じみて見えた。
「直次の出征のときの旗をもって来ようかと思ったが、却ってもって来なんでよかった、のう、あんた」
 ひろ子の耳へ顔を近づけて母がそうささやいた。その母の一心に上気に上気した顔にかかるおくれ毛や眉毛に、雨のしずくが光った。
 荷物をつめかえているひろ子は、家族的な追憶にみたされた。それは厳粛で、きびしい戦争をとおして営まれる日本の庶民のつましい生活の網目にみちているのであった。
 網走へ、と思ってこの行李をつめるとき、ひろ子の胸には一筋のうたの思いがあった。選んで入れる一つ一つの布(きれ)について、そのうたはひろ子の胸に鳴った。そのうたの思いは、このような形で現実の内容をもって来た。
 労苦に備える勇気のこもった気持で、翌日ひろ子は街道をあちこち歩いて、移動の手続きをしたり、旅行外食券に代えたりした。

        四

 運よく、その列車の中でひろ子は座席がとれた。
 その代り、坐ったと思ったらもう動けなくて、送って来た小枝に声さえかけられなかった。
 駅を出るとじき、通路にまで立っている旅客をかきわけて、
「検札をいたします」
 中年の大柄な車掌が、巻ゲートルで入って来た。
「これは二等車ですから、乗車駅から三倍の賃銀を払って頂きます」
 そういう声につれて、後部で押し問答がはじまった。押し問答の尾をひいたまま、ひろ子のところへ来た。切符を出して見せた。鉛筆で切符のうらにしるしをつけて、先へ行くかと思ったら骨っぽい指をのばして、
「それは御使用ずみか?」
と、ひろ子が手にもっていた裂地(きれじ)づくりの紙入れをさした。その意味がすぐのみこめなくて、ひろ子は、見せた切符を挾んでおいた黄色い内側を開けたまま、
「どれかしら」
「これは御使用ずみですか」
 同じ切符入に挾んであった山の手線のまだ使ってない切符をぬきとった。そして、ぼんやりしたひろ子が、一言も云わないうちに、
「頂いておきます」そして、次の番へ移った。
 その頃、地方新聞は不正乗車の激増を大きく扱っていた。ひろ子の乗った駅から小一時間先の大きな駅では、毎日二百人以上の不正乗客があって、それは益々増加しつつあると書かれていた。この列車は、その都会が始発である。車掌は気を立てている。いかにも過労らしい、肉のつくゆとりのない肩のあたりで制服は色あせている。この車掌が、山の手線の切符に対してまで責任を負う必要があるのかないのか分らなかったが、ひろ子はむしろ車掌の癇癪に同情した。鉄道従業員たちは、機銃の恐怖の中であれだけの努力をしとおした。復員、進駐と、その後寸暇も与えられていないのであった。
 ひろ子の斜隣りで、二十歳をすこし出たばかりの海軍士官の外套を着た神経質な顔つきの男が、まだ少年の丸い顔をした部下らしい青年をつれて大荷物をもちこんでいた。それが、紙片を出して問答している。
 車掌は紙片をとり上げて、前進した。この間に、さっき後部で開始された悶着の相手が車掌に追いついて来た。
「おい、車掌さん。そんなへちがてえことを云ったって、一文だってお前の得になる訳じゃあるめえし、いいだろう? たのむぜ」
 国防服の前ボタンをすっかりあけはだけて、シャツの胸を見せている巻ゲートルは、狎(な)れ狎(な)れしい大声を出した。
「おい、車掌」
 車掌は、背中に平手うちでもくらったように素早く振り向いた。
「車掌、とは何です! はじめっから私の損得で云っているんじゃありません。鉄道省の規則がそうだから、その規則通りにしなければならないんです」
「いいじゃねえか。どうせこんな滅茶苦茶な世の中になっちまって、今更二等も、へったくれもあるもんか」
「こんな世の中になったから、なお更キチンとしなけりゃならないんです。勅語は何のために出たんです!」
 ひろ子は、乗り合わせたこの列車が、ただの列車でなかったことを知った。これは明らかに一種の潰走列車である。
 斜隣りの海軍士官がどこかへ立って行って帰って暫くすると、再び車掌が入って来た。荷物をまたぎまたぎ来て、その若い士官の横に立った。
「じゃ二百八十三円頂きます」
 大股をひらいて座席にかけたままむっとした面持で、蒼い顔の若い士官は大きい紙幣入れをひらき、新しい十円札をつかみ出すようにして車掌に渡した。その代りとして紙片がかえされた。
「これで事務が片づきましたから申しますが、さっきの雑言は、あれは、どういうわけです」
 ぎごちなく神経のこわばった若い士官は、こんな情況になることとは予想もしなかったらしく、剣相な上眼づかいで、低く何か答えた。
「生意気だ、気にくわんとおっしゃるが、私のどこに生意気な挙動がありました。不正乗車をしているのは貴方です。私は車掌として事務をとっただけじゃないですか。ひとこと罵倒でもしましたか。じき手続をして上げますと云っただけじゃありませんか」
 言葉にもつまるという激昂で、車掌は青年士官を睨まえた。士官の方も、もう一ヵ月前ならばと文字に読まれる形相で睨み上げている。その面上につばきするように車掌が云い捨てた。
「あなたのようなのが軍人だから、日本は潰れたんだ!」
 ひろ子は、どちらの顔も見ていられなかった。
 その若い士官の前には、襟章をもいだ制服の陸軍将校がかけていた。となりには、東北のどこかの大きい軍需会社が解散して、東京へ還る途中らしい国防服だが、重役風の男がいる。ひろ子の真前にいるのも陸軍の古参将校で、制服の襟章がはぎとられている。
 騒動がしずまって見渡した車室は、網棚から通路から座席の間まで詰めに詰めた大荷物で、乗っているのは男ばかりであった。何かの角度で、軍と関係があったと見える風体の男ばかりであった。女と云えば、ひろ子のほかには子供づれの細君が一人乗り合わしているきりである。
 東北の自然の間を、列車は東京に向って進行した。時々、迷彩代りに、車体へ泥をぬたくったままの列車とすれ違った。復員兵と解除になった徴用工とを満載した有蓋貨車、無蓋貨車とすれ違いながら那須の荒野にかかった。
 線路のすぐそばから灌木の茂みが乱暴にきり開かれて、木の色の生新しいバラック風の大建物が、幾棟も、幾棟も、林の方へ連っている。それらはいま無意味そのもののように、愚劣そのもののように、がらんとして九月の西日に照らされている。
「これだけだって、ちっとやそっとの無駄じゃない」
 ひろ子の向い側の中老人が呟いた。
「うけ負った奴は、さぞふんだくったんだろうなあ……」
 並んでかけている将校の視線も、その尨大な濫費物の上に止っていた。しかしその視線は空虚である。中老人は、黙りこんだ。列車は、単調に動揺し車輪の音をたてていよいよ東京へ近く進行する。
 車室にはぎっしり人間が乗っていた。けれども、互を貫くたった一つの共通な気分も興味も示されていなかった。みんながてんでんばらばらであった。めいめいが自分自分にかかずらい、急に変化した自分の利害と見とおしとにかかずらっている。
 海軍士官のとなりの重役風の人物は、事業で損をしなかった人物の円滑さで、向い側の陸軍軍人に、折々四方山(よもやま)ばなしをしかけた。
「神田辺はのこったそうですな。これで、少しはいい本も出るもんでしょうか」
 軍人は上眼づかいで、
「さあ……」
 それぎりてんでとり合わない。話はそのまま消えてしまった。ずっと先に、白い毛糸の長靴下、しゃれた白い毛織の短ズボン、白の上衣、臙脂(えんじ)色のネクタイをつけ、一目して相当な地位の「南方関係」の男がいた。瀟洒(しょうしゃ)としたその服装と丸顔の上にある不機嫌さは冷酷できたないものの中へ自分が落ちこんだという眼つきで車内の混乱を傍観している。
 ひろ子は、七月の下旬、上野から乗って東北に向った夜行列車の光景を思い出した。混雑は名状出来ず、女は本当に悲鳴をあげた。ひろ子は、人波に圧されて押し込まれ、通路の他人の荷物の上で一夜を明した。しかし、その騒ぎは、同じ空爆を蒙る恐怖に貫かれ、事なかれと願う単純で正直なすべての旅客の希望で一致していた。
「いい月夜になったねえ。お月見にはもって来いだが、ちいと薄気味がよくないねえ」
「小山まで無事に行ったらね」
「ナニ、案ずるより生むがやすいってね」
 流行唄(はやりうた)を謡うものがあったりした。ひろ子のわきで、若い女と膝組みにもまれこまれた父親の好色めいた冗談を、その娘が
「いや、父さんたら。黙ってなさいってば!」
 しきりに小声でたしなめていた。煎り大豆を、わけて食べたりしてひろ子も運ばれて行った。
 今の列車では、万端が全然ちがう。ひろ子の座席の背中に肱をかけて立っている二人連の襟章なしの男たちが、聞かせたそうに、さり気なく大声に喋っていた。
「おい、山田に会ったか」
「彼奴はのこるんだろう」
「そんな筈はねえんだが――奴、要領つかいやがったな」
 何と何とで、と、ひろ子にききとれない軍用語で数えた。
「俺あ、八千円とちいとばかり貰った」
「そうなるか……フム、まあ悪かねえなア」
 東京の外郭にある駅へ来たとき、ひろ子は窓からやっと下りた。その拍子に力をかりたカーキ服の男の腕に目がとまった。その男の白い腕章には英語でミリタリ・ポリスと書かれていた。

        五

 好感をこめて、ひろ子は幾度も鮎沢の茶の間の電燈の笠を見あげた。
 網走へゆくときめて、ひろ子が焼けた東京を出発した時分は、もう東北の田舎へ向ってでも荷物の運送が出来ない状態になっていた。しかし、夜具と本だけはどうしても欲しかった。距離にすれば僅かだが、他県に属するその町に住むようになっていた篤子夫妻が、一方ならず斡旋して、ひろ子に力を添えてくれた。
 網走へは行けず、まるで方角の反対な重吉の田舎へ行かなければならなくなった。それらを知らせたいからばかりでなく、幾家族もが留守に入っている弟の家へ、悲しみにある疲れた体で急行券を買ったりするためわり込んで泊る元気がなかったのであった。
 荷物のことで、泊めて貰ったりした夜に、よく警報が鳴った。往来に近い鮎沢の家では、注意ぶかく、ガンドウのような深い遮光笠を茶の間の電燈につけていた。その息苦しい光の輪の下で食事をしたり、話したりした。
 今度来てみると、その笠に、さっぱりと器用な切り抜き模様がついて、ガンドウの裾も工夫よくつめられている。すっかり明るくなるように工夫されて、ともっている。鮎沢の夫妻は、どっちがどうと云えないほど、こういう思いつきはうまかった。手狭な家を、二人のちょっとした工夫で住心地よくして、篤子はもう何年も或る経済関係の研究所に、雄治は専門の西洋史の勉強の傍ら或る出版社に通っていた。
 電燈を明るくしてよいとなったとき、ひろ子が暮していた弟のうちでは、主人公の行雄が、おもむろに戸棚から必要な数だけ白い瀬戸の笠を出して来た。小枝がそれを拭いて、また行雄がそれをうけとってつけ代えた。遮光笠の方は、物置部屋の背負籠のわきに半ば放りこまれた。それきりであった。
 鮎沢の茶の間の笠は、そういう風には扱われてはいなかった。光をさえぎるようにこしらえられていたその笠を、夫婦で作り更えて、明るいための笠に直して使っている。
 些細なことであるけれども、最近一ヵ月余り、周囲のあらゆる事々が、外からの力で機械的に、さもなければ無意識に、ただ変えられてゆくばかりなのを見て暮していたひろ子には、鮎沢夫妻が、こう変えて行くのだ、と自分たちの方針をきめて笠一つも独創しているのが快よかった。
 八月十五日前後の東京には、田舎町にいたひろ子の知らない種々の現象が起伏し、その話もきいた。
「あの二三日で、東京中にしたらどれほどの書類をやいたんでしょう。あの風景だけは、ひろ子さんに見せておきたかったわ」
 それらの激動の日に、いたるところの歩道へ、焼け焦げた紙片が散乱した。もんぺをやめた洋装の若い女が、高い靴の踵でその紙屑の山を踏みしだいて通った。
「でも、どうなるでしょうね」
「大局的にはポツダム宣言の方向さ」
 雄治が、確信のある語調で篤子に向って云った。
「そりゃそうでしょう。うちの研究所でもね、今までがあの有様だったから、すっかり計画を立て直して、大はりきりよ。これから皆が、本当にテーマをきめてやるんですって」
 話題は重吉の弟の不幸を中心とし、やがて、又、鮎沢夫妻やひろ子自身の仕事について流れ進んだ。
 夕飯後には、近所に住んでいる二三人の友達も集って来た。
 ひろ子は、深い興味をもって友達の一人にきいた。
「山内さん、あなたのところでは、今でもやっぱり、あんなに畑をやっていらっしゃるの?」
 食糧の不足が一番の原因にはちがいなかったが、ひろ子の友人たちの中には、この数年の間に郊外や近県に移って、畑仕事を相当うちこんでやって来た人々があった。その人々の働きぶりを眺めると、集注出来るだけの仕事をうばわれている者の、人間らしい活動慾が、そこに放散されているという印象を与えられた。八月十五日の意味を、全面から理解出来るこれらの人々が、これから後も、ああいう風に畑をやっていられるものだろうか。もっと、さし迫った活動の予想や計画が、畑からこの人々を別な場所へひきよせ、集め、議論させているのではないだろうか。
「僕のところなんか、もうおしまいですよ。とても、そんなひまはなくなって来た」
「そうだろう? どこでもそうなんだ。うちの畑は、八月十五日をもって一段落だね」
「しかし僕は絶対にイモだけは確保するんだ」
 河本が、すこしずつずる眼鏡を指で鼻の上に押しあげながら、苗が何本、その収穫予想はいくら。盗まれる分を三割として、実収は凡そ六十貫。それだけは確保すると力説した。
「大したもんじゃないか」
「大したものさ!」
 河本は、それだけ甘薯を確保するについては、更にそれより意味のある計画のため、と匂わせて、それを云うのであった。
 篤子が諧謔めかして笑った。
「まあ、わたしたちのところじゃトマトをたっぷり食べられただけいいと思いましょうよ」
 人々の活溌な話しぶりの裡に、気がねをやめた多勢の声が揃う笑いの裡に、磁石の尖端がぴたりと方向を指す迄の震えのような、微妙な模索がうずいていた。ひろ子は、敏感になっている心につよくそれを感じた。誰も彼も、半月前迄自分たちに強いられていた生活は終ったことを確認している。同時に、誰もかれもの心に、まだいきなり早足に歩き出せない気もちと、計画の条件にまだ欠けたものがあることとが感じられている。ひろ子はそう思った。
「間違いのない方向はあるんだから、それで着々やって行けばいいわけなんだ――それにしてもいつ頃帰って来られるだろうな、みんなは……」
「治安維持法をいつ撤廃するか、それが問題だ」
「おそくても、今年のうちには、やらざるを得まい」
「一日も早く帰したいわ、ねえ、ひろ子さん」
 きいているひろ子は、熱い大波に体ごとさらわれるようなこころもちがした。
「あんまり云わないで……」
 ひろ子は弱々しく篤子に囁いた。十二年の生活の間に、ひろ子は、きびしく自分をしつけて来た。重吉と自分とのことで、世間並にうれしいこと、そうありたいこと、そうなったらばどんなに嬉しかろうと思える予想には、最大の用心で、うかつにうれしがらないように抵抗した。
 拘禁生活の七年目に、重吉が腸結核を患って、危篤に陥った。拘置所の医者が、ひろ子に「時間の問題です」と告げた。医者は検事局へ、入院手当させる最後の機会であることを通告した。そのことも、ひろ子は知っていた。ひろ子は、どんなに療養所を調べ、医者に相談し、費用を調達して、待っただろう。
 検事局は、拘置所の医者の注意を拒絶した。重吉が思想の立場を変えないからというのが却下の理由であった。そして、ひろ子が弁護士と一緒に検事に面会して、療養許可を求めたとき、その検事は笑って、
「どうせ石田君は、はじめっから命なんかすててかかっているんだろうから、今更あなたが心配されるにも当らんじゃないですか」と云った。
 明治時代から巣鴨の監獄と云われていた赤煉瓦の建物は、数年前にとりはらわれ、そのあとが広い草原になっていた。監獄のころには、なかに茶畑などまであったらしく、数株の茶の木がまだ残ったりしている原っぱの中のふみつけ道を辿ってゆくと、旧敷地の四分の一ぐらいのところへ退いて拘置所のコンクリート塀が四角くそびえ立っていた。新開の歩道から草原ごしにその高塀を眺めると、塀の上から白っぽい建物の棟々が見えたりして、余り異様な感じは与えない。しかし、一歩ずつその塀の根もとへ近づけば近づくほどその高さが普通でないこと、その高塀があたりまえのものでないことがわかった。高塀には人の目の高さのところに、一つ小さな切窓があけられていた。面会願の手続きがすんで、番が来るとその切窓のわきのベルを押した。すると、重い扉がのろのろと内側から開けられる。その扉の大さは人の身丈の何倍もあったし、切窓に向って佇んで待っているとき、ひろ子の体はまるで、その高塀の根に生えている雑草と同じに低く、無力なものに感じられるのであった。高塀はその高さで異常なばかりでなく、その扉が内側から開けられなければ、よしんばひろ子がその扉にもたれて失神したとしても、外からのひろ子の力では一寸たりとも開けられない性質をもって、突立っているのであった。
 重吉の腸結核がわるかった間、ひろ子は一度ならず、大扉をぴたりとしめたまま、切窓から眼とチョビ髭だけをのぞかせている看守に告げられた。
「きょうは、気分がわるいから会えないそうだぜ」
「――どんな風にわるいんでしょう」
 ひろ子は、衷心から、
「困った」
と云った。
「なーに、大丈夫だよ。
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