乳房
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著者名:宮本百合子 

        一

 何か物音がする……何か音がしている……目ざめかけた意識をそこへ力の限り縋(すが)りかけて、ひろ子はくたびれた深い眠りの底から段々苦しく浮きあがって来た。
 真暗闇の中に目をあけたが頭のうしろが痺(しび)れたようで、仰向きに寝た枕ごと体が急にグルリと一廻転したような気がした。寝馴れた自分の部屋の中だのに、ひろ子は自分の頭がどっちを向いているか、突嗟(とっさ)にはっきりしなかった。
 眼をあけたまま耳を澄していると、音がしたのは夢ではなかった。時々猫がトタンの庇(ひさし)の上を歩いて大きい音を立てることがある、それとも違う、低い力のこもった物音が階下の台所のあたりでしている。
 ひろ子は音を立てず布団を撥(は)ねのけ、裾の方にかけてある羽織へ手をとおしながら立ち上った。染絣(そめがすり)の夜着の袖が重なるぐらいのところに、もう一人の同僚の保姆タミノが寝ている。足さぐりで部屋の外へ出ようとして、ひろ子は思わずよろけた。
「なに?……あかりつけようか?」
 タミノは半醒の若々しい眠さで舌の縺(もつ)れるような声である。
「……待って……」
 泥棒とも思えなかったが、ひろ子の気はゆるまなかった。九月に市電の争議がはじまってから、この託児所も応援に参加し、古参の沢崎キンがつれて行かれてからは時ならぬ時に私服が来た。何だ、返事がないから、空巣かと思ったよなどと、ぬけぬけ上り込まれてはかなわない。ひろ子にはまた別の不安もあった。家賃滞納で家主との間に悶着が起っていた。御嶽山お百草。そういう看板の横へ近頃新しく忠誠会第二支部という看板を下げた藤井は、こまかい家作をこの辺に持っていて、滞納のとれる見込みなしと見ると、ごろつきを雇って殴りこみをさせるので評判であった。脅(おど)しでなく、本当に畳をはいで、借家人をたたき出した。
 四五日前にもその藤井がここへやって来た。藤井は角刈の素頭で、まがいもののラッコの衿をつけたインバネスの片袖を肩へはねあげ、糸目のたった襦子(しゅす)足袋の足を片組みにして、
「女ばっかりだって、そうそうつけ上って貰っちゃこっちの口が干上るからね。――のかれないというんなら、のけるようにしてのかす。洋服なんぞ着た女に、ろくなのはありゃしねえ」
 いかつい口を利きながら、眼は好色らしく光らせた。スカートと柔かいジャケツの上から割烹着(かっぽうぎ)をつけ、そこに膝ついているひろ子の体や、あっち向で何かしているタミノの無頓着な後つきをじろり、じろり眺めて、ねばって行った。いやがらせでも始めたか。畜生! という気もあって、ひろ子は六畳の小窓を急に荒っぽくあけて外を見おろした。
 夜露に濡れたトタンが月に照らされている、平らに沈んだその光のひろがりが、ひろ子の目をとらえた。見えないところで既に高く高くのぼっている月の隈(くま)ない光は、夜霧にこめられたむこうの原ッぱの先まで水っぽく細かく燦(きら)めかせ、その煙るような軽い遠景をつい目の先に澱(よど)ませて、こわれた竹垣の端に歪んで立っている街燈が、その下に転(こ)ろがっている太い土管をボンヤリと照し出している。夜霧にとけまじった月光と、赤黄く濁った電燈の色とは、そこで陰気な影を錯雑させている。
 貧しく棟の低い界隈の夜は寝しずまっている。ひろ子はそのまま雨戸をしめようとしたら、こっちの庇の下からいそいで男が姿を現した。足より先にまず顔をと云いたげに体を斜(はす)っかいに運んで二階の窓を振仰ぎながら、手をふった。細面の顔半面と着流しの肩に深夜の月は寒そうで、ひろ子は窓の奥から眼を見はったが、
「なアんだ!」
 お前さんだったのかという声を出した。それを合図に待っていたらしく、寝床に起き上っていたタミノが手をのばして、電燈をひねった。俄(にわか)の明りで、タミノは眠たい丸顔を一層くしゃくしゃさせた。
「大谷さん?――何サ今ごろんなって」
 寝間着の前をはだけ、むっちりしたつやのいい膝小僧を出したまんま腹立たしそうに呟いた。
「用事だったらまた起すから寝てなさい、よ、風邪ひくわ」
 片隅によせあつめものの古くさいテーブルなどが置いてある三畳の方から、急な階子段がむき出しに下の六畳へついている。ひろ子は暗がりの中を手さぐりでそこの十燭をつけ、間じきりの唐紙ははずしてある四畳半をぬけ、流しの前へ下りた。節約で、台所の灯はつけてない。水口の雨戸の建てつけが腐っているところをコトコトやっていると、外から少しじれったそうに、
「――どれ」
と戸をひくようにした。
「駄目、駄目。こっちを先へもち上げなけりゃ」
 戸があくと同時に一またぎで大谷が土間に入った。
「なるほどこれじゃ骨が折れる。却って用心がいいようなもんだね」
 そして、持ち前の毒のない調子で目をしばたたきながらふ、ふ、ふ、と笑った。
「どうしたの、今時分」
「急に頼みが出来たんだがね」
「何だか音がしたと思って見てるのに、すぐ顔を出さないんだもの」
「失敬、失敬」
 大谷は首をすくめるような恰好をして笑いながら、
「しょんべんしてたんだ」
 低い声で云って舌を出した。

 大谷の用事は、ここから明朝誰か柳島の組会へ出てくれというのであった。強制調停に不服なところへ馘首(かくしゅ)公表で、各車庫は再び動揺しはじめているのであった。
「八時に、山岸って、支部長ですがね、その男を訪ねて事務所の方へ行けばいいことになっているんだ。突然ですまないけれど――頼む、ね!」
 ひろ子は、髪を編下げにし、自分に合わせては派手な貰いものの銘仙羽織を着て揚板のところにしゃがんでいるのであったが、
「――困ったナ」
とバットに火をつけている大谷を見上げた。
「――亀戸の方から誰かないかしら。こっちは飯田さんが広尾へ出るんです」
「あっちは臼井君にきいて貰ったんだ。錦糸堀があるんだそうだ」
「――あのひと……ききに行ったのかしら……」
 妙な工合ににやつきながら、大谷を見つめるひろ子の視線をまともに受け、大谷は煙草を深く吸いこみながら何か前後の事情を考え合わせる風であったが、
「いや、行ってるだろう。……行ってるよ」
 確信のある言勢で云った。
 臼井時雄については、当人の口から元九州辺で運動に関係していたことがあると云われているばかりで、誰も確実な身元や経歴を知らなかった。いつの間にか診療所へ出入しはじめ、組合の活動に人手が足りなくなって来たら、これもまたいつの間にか、書記局の手伝いのようになった。二十四五の、後姿を見ると肩の落ちたような感じの小柄な男であった。
 ひろ子は、あんまり人嫌いしない性質であったが、この臼井がニュースなど持って来て、喋るでもなく、子供らと遊ぶでもなく、その辺を愚図愚図して自分たちの立居振舞を見ていられると、背中がむずついて来るような居心地わるさを感じた。いつになっても本能的に馴染(なじ)むことの出来ないところがあって、ひろ子に一種の苦しい気分を起させるのであった。臼井の云うことにはちぐはぐなこともあった。
 或る席で、ひろ子が臼井に対してもっている否定的な印象を述べた時も、大谷は例によって目を盛にしばたたき、口を尖らすようにして、あぐらをかいた膝の前でバットの空箱を細かく裂きながら注意ぶかく傾聴はしたが、決定的な意見は云わなかった。最後に頭を上げ、
「――調査する必要はあるね」
と云った。市電のことが起ってから、大谷は応援活動の方面での責任者となり、忙しさにまぎれて調査もおそらくそのままなのだろう。臼井のことを云うひろ子と大谷との心持の間には、それだけのたたまって来ているものがあるのであった。
 大谷は、土間に落した吸い殼を穿(は)き減らした下駄のうしろで踏み消しながら、
「――じゃ頼みました、八時に、山岸、ね」
「…………」
 ひろ子は、片腕を高く頭の上へまわして、左手でその手の先を引ぱるような困惑の表情をした。
「子供のものもらいのことがあるし――、弱ったわ、本当に」
「ん――。ひる前ですむよ。それからだっていいだろう? もし何なら夜だっていいさ、診療所はどうせ十時までだもの」
 ひろ子は、そういうやりかたでなく、もっと親たちの心持にも響いてゆくように、託児所の手不足からひろがったものもらいの始末をしたいのであった。夕方、迎えに立ちよるおっかさんの顔を見るなり、
「おっかちゃん! 六坊、きょう先生んとこへ行ったよ、目洗ったんだよ! ちっとも痛くなんかないや!」
 ぴんつくしながら子供の口からきかされれば、同じことながら母親たちが感じるあたたかみはどんなに違うだろう。
 沢崎がつかまえられているからばかりでなく、特に今そういう心くばりは母親たちの託児所に対する気持の傾きに対しても大切だ。ひろ子にはその必要が見えていた。大谷がいそがしい活動の間で、そこへ迄気がつかないのは無理ないし、大体、今度の応援につれて託児所として起って来ている毎日の様々の困難は、個人的な立話で解決されることでもないのであった。
「じゃ、とにかく何とかしますから」
 ひろ子は、やがて両手を膝に突ぱるようにしてゆっくり立ち上りながら云った。
「――今頃ふらふらして、あなた、大丈夫かしら」
「マアいいだろう、第三日曜だから。――じゃ失敬。折角寝たところを起してすみませんでした」
 元気よく外へ出かけて、大谷は、
「ホウ」
 敷居をまたぎかけたなり、ひろ子の方へ首を廻らして、
「もうこんなだよ」
 フーと夜気に向って白く息を吐いて見せた。夜霧に溶けた月光は、さっきより一層静かに濃く、寒さをまして重たそうに見えた。そこを劈(つんざ)いて一筋サッとこちらからの電燈の光が走っている。ひろ子は雨戸に手をかけた姿で、身ぶるいした。
「――重吉さんから手紙来るか?」
「もう二週間ばかり来ないわ――どうしたのかしら」
「戦争からこっちまたなかの条件がわるくなったんだナ。――会ったらよろしく云って下さい」
「ええ。ありがとう」
 ひろ子はつよく合点した。そして、良人の深川重吉の古い親友であり、現在の彼女にとっては指導的な立場にいる大谷の戛々(かつかつ)と鳴る下駄の音が、溝板を渡るのをきき澄してから、戸締りをして、二階へ戻った。

        二

 横丁を曲ると、羽目に寄せて、ズラリと自転車が並んでいるのが目についた。夫々(それぞれ)うしろに一寸した包をくくりつけたままで、斜かいに頭を揃えて置いてあるのだが、その一台には、つつじの小鉢が古い真田紐(さなだひも)で念入りにからげつけてあった。
 青葱(あおねぎ)の葉などが落ちている朝の往来をそっちに向って近づきながら、ひろ子は或る言葉を思い出した。その国の労働者の生活状態はその国の労働人口に比例して何台自転車をもっているかということで分る、多分そんな文句であった。今目の前に市電の連中の自転車は二十台以上も並んではいたが、スポークがキラキラしているような新しいのは唯の一台もなかった。
 ガラス戸が四枚たつ入口のところへ、三々五々黙りがちに従業員がやって来ていた。入口のすぐ手前のところで立ち停ってバットの最後の一ふかしを唇を火傷(やけど)しそうな手つきで吸って、自棄(やけ)にその殼を地べたへたたきつけてから入るのがある。どっかりと上り框(がまち)に外套の裾をひろげて腰をおろし高く片脚ずつ持ち上げて、いそぎもせず靴の紐を解いているのがある。
 ひろ子は足許の靴をよけて爪立つようにしながら、
「あの、山岸さん見えていましょうか」
 上り端の長四畳のテーブルにかたまっている連中に声をかけた。黒い外套の背中を見せてあちら向に肱を突いていたのが、向きかえり、土間に立っているひろ子を見た。
「――オーイ、支部長いるかア」
 声だけ階段口に向って張り上げた。
「おウ」
「用のひとだ」
 踵に重みをかけド、ド、ドと響を立てて誰かが降りて来かけた。折から、ゆっくり登って行った三四人と窮屈そうに中段で身を躱(かわ)し、のこりの三四段をまたド、ド、ドと小肥りの、髪をポマードで分けた外套なしの詰襟が現われた。
「やア」
 如才ない物ごしで声をかけてひろ子に近づいた。ひろ子は、大谷にきいて来たと云った。
「やア、それはどうも御苦労さんです、上って下さい」
 ひろ子が靴をぬいでいる間、山岸はそのうしろに立って両手をズボンのポケットに突っこんだまま、
「大谷君、今日は見えんですか」
と云った。
「私ひとりなんですけれど……」
「いや、却って御婦人の方が効果的でいいです。ハッハッハ」
 階子口に行きかかると、山岸が何気なく、
「じゃア……」
 片手で顎を撫で、通路からはずれて立ち止った。
「どういう順序にしますかな」
 ひろ子は講演にでも出る前のような妙な気持がした。
「御都合で、私は別にどうって――」
「じゃ――一つ先へやって貰いますか」
 早口に云って山岸自身先に立ち二階へ登って行った。
 大小三間がぶっこぬかれていた。正面の長押(なげし)から墨黒々とビラが下っている。「百三十名馘首絶対反対!」「バス乗換券発行反対! 応援車掌要求」強制調停後のと並んで「百二十一万三千二百七十円、人件費削減絶対反対!」というのも下っている。
 すっかり開け放された左手の腰高窓から朝日がさし込んでいた。まだ暖みの少い早朝の澄んだ光線を背中にうけてその窓框に数人押し並び、その中の一人が靴下の中で頻(しき)りに拇指(おやゆび)を動かしながら何か説明している。ひろ子の坐ったところから其等の人々の姿は逆光線で、黒っぽく見えるうしろに、広く雲のない空が拡がり、隣のスレート屋根の上で、四つずつ二列に並んだ通風筒の頭が、同じ方向に、同じ速さで、クルクル、クルクル廻っているのが見える。
 隅っこに、どういう訳か二脚だけある椅子へこっち向に跨(またが)り、粗末な曲木(まげき)のよりかかりに両腕をもたせて一人は顎をのせ、一人は片膝でひどく貧乏ゆすりをしている。畳の上では立てた両方の膝を抱えこんだ上に突伏しているもの。あぐらをかいた両股の間へさし交しに手を入れ体をゆすぶっている者。――
 ひろ子は、あたりの雰囲気の裡(うち)に複雑なものを感じた。会合に馴れ切った、一通りのことでは驚きもせぬと云いたげなその室内の空気の底に、実は方向のきまっていない或る動揺、口に出して云い切るまでにはなっていない予期というようなものが流れているのが感じられる。それは、椅子に跨って貧乏ゆすりしている三十がらみの従業員の落付かなく人の出入りに注がれる眼くばりの中にも認めることが出来るのであった。
 やがて、正面の小机のところへ、喉に湿布を捲きつけた一人の背の高い従業員が来た。その男は立ったなり自分の腕時計を見、ネジをまき、さっきからその机へ頬杖をついてぼんやりあぐらをかいていた中年の従業員と何か話した。
「じゃあ、始めますからア」
 椅子に跨っていた一人の方は下りて畳へあぐらをくみ、一人はそのままいた。
「お、しめなよ、寒いや」
 窓際のが外套の襟を立てた。
「じゃあこれから第五組組会を開きます」
 じじむさく喉に湿布を捲いたのが組長であるらしく、司会をした。
「一昨二十六日午後、川野委員長対大石、佐藤との会見においては、百二十七名に対する不当なる馘首に対する我々の側からの強硬なる抗議に拘らず、あっさり蹴られた顛末(てんまつ)は、即刻掲示したとおりであります。今日は、その後の経過について報告し、我々第五組としての態度を決したいと思いますが、その前に、今ここへ、労救が人をよこしているから、その方からやって行きたいと思います」
 すると、ひろ子が坐っているすぐわきにあぐらをかいていた一見世帯持の四十がらみの従業員が、誇張した大声で、
「異議なし!」
と下を向いたまま首をふって叫んだ。
「――……じゃ、どうぞ」
 ひろ子はその場で居ずまいを直し、口を切ろうとしたら、
「こっちへ出て下さい」
 議長が自分のわきを示した。ひろ子がほんのり上気した顔でそっちへ立って行くと、更に、
「異議なアし!」
と後の方で頓狂に叫んだ者がある。笑声が起った。
 それにかかずらわないことで全体の空気をひきしめつつ、ひろ子は飾りけのない、はっきりした口調で、今度の争議が一般の労働者の神さんたちにまで、どのくらい関心をひき起しているかということを、鍾馗(しょうき)タビへ出ている秀子のおふくろの言葉などを実例にひいて話した。そして、今朝、既に広尾では家族会を応援して移動託児所をひらいていることを説明した。
「きのう、慶大裏で飛びこみ自殺をした大江さんはほんとにお気の毒だったと思います。新聞は日頃呑んだくれだったと書きましたけれど、広尾の人からじかにきいた話はちがいます。大江さんのお神さんが病身だものでどうしても欠勤が多く、それを首キリの口実にされたからああいうことになったんだそうです。私たちがもっと強くて、病院でも持っていたら、大江さんは病身のおかみさんのためにクビにはならずにすんだのにと思います。自殺しなくてもよかったと思うと、残念です」
「異議なし!」
「そうだ!」
 つよい拍手が起った。ひろ子は自分ではまるで気づかない集注した美しい表情で顔を燃し、
「どうぞ、皆さん、がんばって下さい」
と云った。
「私たちは及ばずながら出来るだけのおてつだいの準備をしています。それが無にならないように、どうぞしっかりやって下さい!」
 さっきのような彌次気分のない、誠意ある拍手が長く響いた。
「――では続いて報告にうつります」

 皆に要求されて、支部長の山岸が片手をズボンのポケットに入れた演説口調で、
「不肖私は、この際支部長の責を諸君と共に荷(にな)っております以上は、あくまで闘争の第一線に殪(たお)れる決意をもつ者であることを声明します。ついては、即刻闘争の具体的方法について忌憚(きたん)ない大衆的討論にうつりたいと思います」
 そう云ったころから、場内は目に見えて緊張して来た。
「支部長の提案に、質問意見があったら出して下さい」
「…………」
「議長!」
 この時、ひろ子の坐っている壁ぎわの場所からは斜向いに当るところで、一人の若い従業員が肱を突きのばすような工合に手を挙げた。
「第三班の決議を発表したいと思います」
「やって下さい」
「われわれ第三班は、今朝改めて班会を持ち、要求は当然拒絶されるであろうという見とおしに立って、即刻ストを決議し、闘争委員を選出しました」
「…………」
 微妙なざわめきが場内にひろがりはじめた。百二十七名の馘首反対を絶対に妥協しないこと。要求がきかれなければストライキ準備に入れという指令は本部から既に数日前発せられているのだ。山岸は力のつよい小波のように動きはじめた雰囲気を強いて無視し、わざとらしく燻(けむ)たそうに眉根を顰(しか)めて丸っこい手ですったマッチから煙草に火をつけている。
「ちょいと……そのウ、質問なんだが――」
 不決断に引っぱって、のろくさと一つの声が沈黙を破った。
「その第三班の決議ってのは――どういうんかね。俺にゃちょいと分らないんだが――全線立たなくても、ここだけで行こうってのかね」
「第三班ではその気なんだ」
 若い従業員は短く答えて口を噤(つぐ)んだ。
「それなら」
 のろのろものを云っていたその男は俄に居直ったように挑発的な声を高め、
「俺あ、絶対に、その案には反対だ!」
 ひろ子はその声が、さっき自分が立ってゆくとき後の方から「異議なし」と彌次った声であるのをききわけた。
「異議なし!」
 別の声が続いた。
「俺も反対だ! ここっきりなんぞでやって見ろ。馬鹿馬鹿しい。根こそぎやられて、それこそ玉なしだア」
 ひろ子は全身の注意をよびさまされた。異議をとなえているものたちの間には妙に腹の合った空気がある。
「議長!」
「議長ッ!」
 二つの声が同時に競(せ)り合って起り、甲高い方が一方を強引に押し切って、
「そりゃ違うと思うんだ」
と強く抗議した。
「二月の広尾のストのことを考えて見たって分ると思うんだ。部分的ストは可能だし、それがきっかけで全線立つ情勢は現実にもう熟しているんだ。そんなことは誰だって実際現場の様子を知っているもんには分ってるはずだと思う。さもなけりゃ、本部はどうしてああいう指令を出したんだ?」
「議長!」
 万年筆だのエヴァシャープだのを胸ポケットにさしている年配のが、落着いたような声で云った。
「俺は第一班だが……これは個人的意見なんだが、ストをやることに俺は絶対、賛成だ!」
 一言一言に重みをつけてそう云っておいて、
「但し、だ」
 一転して巧に全員の注意を自分にあつめた。
「但し、全線が一斉に立たないならば、ストをやることは、俺は絶対に反対だ!」
 ひろ子は胸の中を熱いものが逆流したように感じて唇をかんだ。何とこの幹部連中は狡猾に心理のめりはりをつかまえて、切り崩しをしているのだろう。自分がこの会合で発言権のないお客にすぎないことをひろ子は苦痛に感じた。炭がおこって火になるときだって、どこかの一点からついて全体へうつってゆくのではないか。それだのに――。
 言葉使いの意味ありげなあやに煽(あお)られて、パチ、パチ手をたたいたものがあった。
「力関係を考えないで、何でもストをやろうなんて、それこそ小児病だ。今、ここだけでなんてやれるかい!」
「議長!」
 再び甲高い声が主張した。
「力関係って云ったって、相対的なもんだぜ、放ったらかして、こっちから押さないでいても有利になって来る力関係なんて、資本主義の社会にあるもんか。現に強制調停までにだって、一ふんばりふんばればやれたんだ。それを、天下り委員会にまかしといて、謂わば、いなされたんじゃないか」
「そうだ!」
「異議ナシ!」
「今度だって、本部がこっそりクビキリ候補の名簿をこさえて、さし上げたんだっていう話さえあるじゃないか」
「チェッ!」
 大会の前後に、各車庫から「傾向的」な従業員が六十人以上警察へ引っぱられ、労救員もその中に何人かまじっていた。あらかじめ、そうしてしっかりした分子を引きぬいてしまった経営者側の意企が、こういういざという場合になって見ると、まざまざ分るのであった。ひろ子は益々くちおしく思った。
 全線ストか、さもなければ全然ストには立たない、立っても意味ないという敗北的な考えかたを、指令や方針の解釈に当って争議のはじまりっから、東交幹部の大部分が盛に従業員の心にふきこんで来ていた。情勢がこみ入ると、そういうあれか、これかへの考えかたはどこにでも起りがちであった。亀戸託児所が市電の応援をやりすぎて親たちがこわがりはじめた、その時にもやはり、争議応援を全然打切ろうという意見と託児所ぐらい一つ潰したっていいという見解とが対立して、大谷がその席でその両方とも誤っていることを指摘した。
 度々の弾圧で東交の職場大衆の中には、このいかがわしいかけ引きの底をわって、自分たちのエネルギーを正しい闘争の道へ引っぱり出すだけの組織者、先頭に立つべき指導者がのこされていない。それが、はたで見ているひろ子にさえ分った。
 場内は、立ちこめる煙草のけむりと一緒に益々混乱し、いろんな突拍子もない意見や質問が続出した。
 ストは是非やるべしだ。が、今度こそは百パーセント勝つという保証つきでやって貰いたい。
 そういうのがあるかと思うと、どういう意味か、わざわざ、
「俺は支部長にききたいんだが」
と、国家社会主義とはどういうものかと質問したものがあった。ひろ子はそれをきいて、はじめその質問者は、窮極には資本家の利益を国家が権力で守ってやる国家社会主義は、労働者の幸福とどんなに反対のものであるかということについて、誰にでも呑みこめるような説明をひっぱり出そうとしているのかと思ったら、そうでもなくて、山岸の曖昧な、階級というものの対立する関係の説明をぬいた答弁だけで、反駁さえも加えられずに終った。そして、
「議長!」
 次には、まるで別な話のように、こんな提案がされた。東交はスローガンとしてファッショ打倒をかかげているが、俺はそのスローガンに反対だ。東交の規約には、政党、政治に関係なく全従業員の経済的利益を守るとある。それだのに、ファッショ打倒なんかというスローガンをあげることは規約を無視している。だから、
「その点がはっきりしねえうちは、俺あもう組合費は出さんつもりだ」
「チャッカリしすぎてるぞ!」
「下田は何だヨ!」
 それは、東交内で有名なダラ幹で新聞にさえその御用的立場はすっぱぬかれていた。
「ファッショのヤタイ店、ひっこめ!」
「議長! 議場整理!」
「みなさん、静かに願います。順々に発言して下さい!」
 議長は形式的にそう云ったぎりで、支部長の山岸はその間ずっと片手をポケットにつっこんだなり、小机の端に頬杖をつき、おきているのか居睡りしているのか、瞼の重い目をつぶって場内を混乱にまかせている風である。散々ごやごやしぬいて肝心の討論の中心ははぐらかされ、全体の気分がだれて散漫になった時分、議長はさも潮どきという風に色の悪い顔をのび上らせ、
「じゃア、もう時間が来ましたから」
と決議を求めた。柳島車庫は、何処かがストに立ちさえすれば、直ちに罷業に入るという奇妙な決定をしたのであった。

        三

 事務所の裏口から出て、コークス殼の敷かれた長屋の横丁を歩いて来るうちに、ひろ子は苦しい、いやな心持がつのって来た。
 それは複雑な心持であった。東交が、全く従業員の高揚を引止める役にしか立っていない。それだのに、自分はうまく幹部に扱われて実質的な激励の役にも立たない前座で、応援のことを話させられてしまった。その失敗が今はっきりと感じられた。ひろ子が情勢をよく見ぬいて自分の話をあとに押えておくだけの才覚があったら、全体の気分があんなにだれた時、少しは引緊める刺戟にもなったかもしれまい。山岸ははじめっからそれを見越して行動した。大谷が来ないと云ったとき、山岸は笑っておだてるようなことを云った。それも、ひろ子の顔を屈辱で赧(あか)らめさせた。山岸がひろ子を後で喋らせなかったのは、すれきった彼の政治的な技術なのであった。
 広い改正道路へ出る手前に新しく架けられたコンクリートの橋があった。片側通行止で、まだ工事につかったセメント樽、棒材、赤いガラスをはめこんだ通行止の角燈などがかためて置いてある。人が通れる日向(ひなた)の歩道の上で、茶色ジャケツにゴム長をはいた七つばかりの男の児と絣の筒っぽに、やっぱりゴム長をはいたいがぐり頭の同じ年頃の男の児とが、独楽(こま)をまわして遊んでいる。二つの小さい鉄独楽が陽に光りながら盛に廻っているぐるりをめぐって、繩をもった二人の男の児は、シッ、シッ、唾を飛ばしながら力一杯に繩をふり、自分の独楽に勢をつけ、横を何が通ろうが傍目もふらない。その様子を見るとひろ子はなおさら、今出て来た会合と自分に腹が立った。
 歩調をゆるめて腕時計を見、ひろ子は一層おそく歩きながらハンドバッグをあけて、中仕切を調べた。一週間ばかり前に裁判所へ行って貰っておいた接見許可証は、四つに畳んだ端がささくれたようになって入っている。十銭、五銭とりまぜの財布の口をしめ、ひろ子はもう一遍首をかしげるような恰好をしたが、時計を見直すと、今度は地味な黒靴をはっきりとした急ぎ足になって停留場に向った。
 重吉が市ケ谷の未決に廻されたのは、半年程前のことであった。警察には十ヵ月以上置かれた。はじめ半年ばかりの間は、ひろ子まで警察に留められていたのでもとより会えず、ひろ子がかえってからも、重吉への面会は許可されなかった。重吉が未決にまわったことがその日の夕刊でわかって、裁判所へ初めて許可を貰いに行った時、ひろ子は予審判事にこう云われた。
「警察では自分の姓名さえも認めておらんのだから、深川重吉という人物は謂わばいるかいないか分らんようなものだ。然しマア、いろいろの証拠によって、こちらには分っていることだから許可します」
 重吉は白紙で送られているのであった。
 終点から引返しになるそこの電車は空いていた。日の当る側の座席を選んで四角な大きい白木綿の風呂敷包をわきにおいて腰かけ、それに肱をかけながら長くのばした小指の爪で耳垢をほじったりしているモジリの爺さんのほか、乗客はまばらである。前部のドアの横に楽な姿勢でよっかかっている年輩の車掌が、手帖を出し、短くなった鉛筆の芯(しん)を時々舐(な)めながら何か思案している。市電の古い連中では株をやっているものが少くなかった。肩からカバンを下げていても、そうやって自分ひとりの世界の中に閉じこもっているその老車掌の自分中心にかたまった顔つきを見ていると、ひろ子の心には重吉からはじめて来た手紙の一節が無限の意味をふくんで甦った。重吉は、なかで注意して行っている健康法をしらせ、さて、外でも変ったことがあるだろう。歴史の歯車はその微細な音響をここには伝えないが、この点に関しては、何等の懸念もない。そう云ってよこした。何等の懸念もない。――だが、ひろ子はその不自由に表現されている言葉の内容を狭く自分の身にだけ引き当てて、自負する気にはとてもなれなかった。かりに自分の身にだけひき当てて解釈したとして、どうして「何の懸念もない」自分であろう。応援の挨拶一つ、正しい機会をつかんで喋れないのに。そういう未熟さがあっちにもこっちにもあるのに。
 上野を大分過ぎたころ気がついて車内を見わたすと、いつの間にか、乗客の身なりから顔の色艶、骨相までが最初柳島で乗った人々とは違って来ているのに、ひろ子は新しく目を瞠(みは)った。大東京の東から西へ貫いて、ひろ子は揺すぶられて行っているのだが、同じ電車が山の手に近づくにつれて、乗り降りする男女の姿態は、煤煙の毒で青い樹さえ生えない城東の住民とはちがう柔軟さ、手ぎれいさ、なめらかさで包まれているのであった。
 ひろ子は、新宿一丁目で電車を降りた。そして、差入屋の縦看板の並んだ、狭苦しい通りに出た。行手の正面に、異様に空が広く見える刑務所の正門があった。門のそとに、コンクリート塀の高さと蜒々(えんえん)たる長さとを際立たせて、田舎の小駅にでもありそうなベンチがある。そのベンチの上のさしかけ屋根は、下から突風で吹き上げられでもしたように、高く反りかえっている。雨も風もふせぐ役には立たなかった。
 ひろ子はこの道を来て、森として単調な長い長いコンクリート塀の直線と、市中のどこよりもその碧さが濃いように感じられる青空を見上げるにつけ、胸を緊(し)めつけられるようにその不自然な静寂を感じるのであった。
 砂利を鳴らしてひろ子は入って行った。人の跫音のよく響くようにというためであろう。どこにも、かしこにも砂利がしいてあった。
 内庭に面して別棟に建っている待合室は、男女にわかたれていた。ガラス戸をあけると煉炭の悪臭が気持悪く顔へ来た。割合すいていて、毛糸編の羽織みたいなものを着て、くずれた束髪にセルロイドの鬢櫛(びんぐし)をさした酌婦上りらしい女が口をだらりとあけて三白眼をしながら懐手で膝を組んでいる。そのほか四五人である。十二時から一時までは面会を休む。あと十五分ばかりで一時という刻限であった。
 ひろ子は売店で十銭の菓子と、のりの佃煮を差入れ、待合所の外の日向に佇んでいた。内庭には松などが植えこんである。面会所は左手の奥にあったが、初めて来た時、ひろ子は勝手がわからずそこが便所かと思って行きかけた。そういう間違いも不思議でないような見かけであった。門扉の外でタイアが砂利を撥(はじ)きとばす音がすると、守衛が特別な鍵で門をあけ、そこから自動車が一台内庭へ入って来た。三四人の男がその車から下りて、敬礼を受けつつ別棟の建物の中に入って行った。はなれたところからその様子を眺めていて、ひろ子は、重吉がここへ来たとき玄関の石段を登るに、拷問ではれた脚の自由がきかないで手をついてあがったと人からきいた話を思い出した。
 気になって時計を見たが、まだ五分も経っていない。待つ間はこんなに永いが、いざ顔を見て口を利く時になると、幾言もまだ話したと思えないのに、もういい、と窓をおろされる。期待の永さと、短い間にひどく緊張して気をはりつめるせいで面会はくたびれた。面会窓があいた瞬間に、やあ、と笑顔になりながら大きい両肩をゆっくり揉み出すようにのり出してくる重吉の身ぶりや、いつも落ちかかって来る窓ぶたに語尾を押し截(き)られるように、じゃ元気で、という重吉の声の抑揚は忘られなかった。次に会うまでに一ヵ月の時がたっていても、最後に見た重吉の眼の中や、唇のあたりに浮んでいた細かい表情はそのままの暖かさで、ひろ子の心にのこっているのであった。
 ひろ子はハンドバッグをあけて、ひびの入った小さい鏡をのぞきこんだ。そしてハンケチで鏡のごみをふき、ハンケチの別なところを出して堅く丸め、頬っぺたの上をきつくこすった。皮膚のいくらか荒れた頬に少し赤味がさした。
 待合所の壁にとりつけられている拡声機に、ようやくスイッチが入って鳴り出した。ガラス戸をあけて覗くと、雑音が混って聞きとり難い呼声を間違いなく聴こうとして、女連は今までよりなお深く襟巻に顎をうずめ、袂をかき合せている。
「エー、お待たせしました。……エー、二十八番、二十八番は六号へ。六号。エーそれから三十番」
 その声につれて思想関係らしい四十ばかりの細君風の女が、薄べりを敷いた床几(しょうぎ)から立ち上り、ショールへ片手をかけ、黒いラッパを頼りなげに下から振り仰いだ。
「エー、三十番――あなたの面会しようとする人は他の刑務所に送られました」
 ザザ鳴る雑音に遮られ、他の刑務所というのが、サの刑務所と云われたようにひろ子の耳にも聞えた。おとなしい細君風の女は、思わず一足のり出して、
「え?」
と、黒い拡声機に向って女らしく首をかしげてききかえした。が、スイッチはそれきりプツと音を立てて切れ、その女のひとは何とも云えない、困惑の身ぶりで、恰度(ちょうど)旧劇の女形が途方にくれたときのしぐさにやるあのとおりの片足をひいた裾さばきでひろ子の方を見た。
 ひろ子は同情に堪えない気がした。
「どこかよその刑務所へいらしたっていうらしかったわ。事務所へ行ってきいて御覧なさい、あすこから入っていらしって」
 ペンキで塗られた二階建の玄関口を指さした。
 一時間以上待って、ひろ子はやっと二三分重吉と話すことが出来た。
 ひろ子は、痛い程柵の横木へ自分の胸を押しつけ、重吉の体の工合をきき、中風で寝たっきりの重吉の父の様子を話すと、いつも註文の本が入らないで本当にすみませんと云った。託児所の逼迫(ひっぱく)した自主的やりくりの生活の中で、ひろ子は本を借りに歩く交通費さえないことがあった。少し金があるときは時間の余裕がなく、両方そろった時をのがさず、重吉の最低限の必要のまた何分の一かを満たす差入れをするのであった。いやがらずに本を貸してくれる人は概してひろ子の欲しい種類の本を持っていなかった。持っていそうな人々は、本を人に貸すことを一般的にきらった。そういうところに重吉が察しる以上の不便があるのであった。
 重吉は、突然面会につれ出され、立ったまんまで宙で、一時にいろいろ思い出さなければならないので、工合わるげに眉を動かしたり、足を踏みかえたりしながら本の名をあげ、
「しかし、ひろ子の都合もあるだろうから、あんまり無理はしないでいいよ。よしんば本の読めない時があっても我々はいろいろ有益なことを考えているしね」
と云った。
 これは、特に告げるのだがという心持をこめて、ひろ子はゆっくりと、
「私、けさは柳島へまわって来たんで、こんな時間になってしまった……。託児所の仕事がひろがって来ていて、大人のことにまでのびているもんだから――御無沙汰も、わたしが怠けていたからじゃなかったのよ。電車の父さんたちだって負けちゃ仕様がないでしょう? だからね」
 そう云って、眼で笑った。
「ふーん」
 重吉は、もう窓ぶたをしめる構えでそれを引っぱる紐に手をかけている看守の方を一瞥し、その視線を真直ひろ子の顔の上に移し、兵児帯(へこおび)をグッと下げるような力のこもった体のこなしで云った。
「もし、ひろ子が『病気』にでもなった時、急にこまらないように、出来たら少し金をいれておいてくれ」
 重吉のそういう言葉を、ひろ子は突嗟に自分たちの生活で理解できる限りの豊富な内容で理解した。重吉は本当は金のことを、云ったのではなかった。ひろ子の託児所もまきこまれている市電の闘争では、また自分たちが会えなくなる時が来るかも知れない。そのことを重吉は諒解し、諒解しているということでひろ子をはげまし劬(いたわ)ってくれたのであった。
 冷たい共同便所に似た面会所から出て、日のよく当っている門へ向って帰りかけながら、ひろ子は自分も矢張面会を終ってかえるほかの女のひとたちと同じような足つきで砂利の上を歩いている、そう思った。会えて嬉しい、そんな一言では云いつくされないものがひろ子の体の裡にのこされてある。
 門を出るとすぐそこの広い砂利のところに、チャンチャンコを着せられた小猿が一匹来ていた。その小猿をぐるりと囲んで背広の男が二三人とピストルを吊下げた守衛もまじって、立ったり、しゃがんだりして笑っている。猿まわしの背中につかまっている猿ともちがう、どこかのその小猿は、黒い耳を茶色のホヤホヤ毛の頭の両方につき立て、蒼ずんだ尻尾を日向の砂利の上にひきずってしゃがみながら、皺だらけの顔を上下にうごかし、せわしなく目玉をうごかし、こせこせ何か食っている。
「こうしているところを見るとなかなか可愛いもんだね、ハハハハ」
 それは貧相ないやしげな猿であった。人間に向ってピストルを下げている人は猿になら気やすく愛想を云って笑っていた。ここには、人間についてすべての愛嬌を禁止した規則があった。けれども、猿となら笑っても反則ではなかったから。――

        四

 数日経ったある午後のことであった。赤坊二人が二階で昼寝している。その間にと、ひろ子が上り端でおしめを畳んでいると、スカートへ下駄をつっかけたタミノが遠くからそれとわかる足音を立てながら外から戻って来た。土管屋と共同ポンプのわきまで来ると、
「ちょっと、どうしたのさァあの看板、ひっくり返ってるじゃないの」
と大きな声を出した。庭先に遊んでいた二郎が、
「飯田さん、なんなの? ネ、何んだってば、なんのカンバンが、しっくりかえったのかい」
 五つの袖子や秀子、よちよち歩きの源までタミノのまわりにたかった。
「橋のわきに、白い三角のものが立ってたろう? あれが溝へおっこちてるのよ」
 子供たちぐるみ上り端の前に立った。ひろ子は、怪訝(けげん)そうに、
「だって――あれそんなはじっこに立ててありゃしなかったじゃないの」
と云いながら、自分も土間へおりた。蛇窪無産者託児所と白地へ黒ペンキで書いた標識は、土管の積(かさ)ねてある側、溝からは一間以上も引こんだ場所に、通行人の注意をひくように往来へ向って立ててあったはずである。
「ホラ!――ね? 誰がやったんだろう、こんなわるさ」
 なるほど、枯草の生えた泥溝の中へ、頭を突こむような恰好で標識がぶちこまれている。
「今朝は何ともなっていなかったわねえ」
「うん、出がけには気がつかなかったわ」
 板橋の上へ並んで子供らは驚きを顔に現し目を大きくして見ていたが、タミノに手をひかれていた袖子がいきなり、オカッパをふり上げて叫んだ。
「ね、あれ、うちの父ちゃんがこしらえたんだね」
「そうよ。わるい奴、ねエ」
 ひろ子は、土管の側からそろそろと片脚をおろし、枯草の根っ株を足がかりに、腰を出来るだけ低くして手をのばして見た。そうしても、鯱鉾立(しゃちほこだ)ちをしている標識までは、なお二尺ばかり距離があった。
「ちょっと! あなたまでおっこっちゃ、やだよ」
「大丈夫」
 その時道路のむこう側に洗濯屋の若い者が来て自転車をとめ、女と子供ばかりでがやついている様子を珍しげに眺めていた。
「――そりゃ、綱でもなけりゃ無理でしょう」
 手の泥をはたき落しながら、ひろ子も断念して、
「袖ちゃんのお父さんが来たら上げて貰おう、ね」
 皆で引かえす道で、二郎がしつこく訊いた。
「ね、だれがやったの? どうしてあんなにすてたんだろ」
 腹を立てていたタミノは、赤い頬っぺたを四角いようにして、袖子の手をひっぱって大股に歩きながら、
「きっと、藤井のごろつきの仕業だ。――ぐるんなってやがるんだもの、何をするかしれたもんじゃない」
 酔っぱらいなどの気まぐれな所業でないことは、明らかであった。
「ポンプのことだって、スパイの奴がたきつけてるにきまってるんだもの」
 おとといの朝、臨時に託児所を手伝いに来ている女子大出の小倉とき子が、井戸端でおしめの洗濯をしていた。水を流す音がしたと思うと、土管屋の台所口のガラス戸が開いた。すると、主人の政助が顔を出し、
「あんまり方図なくつかわれちゃこまりますよ。井戸をつかうのは、そっち一軒じゃねえんだからね、勝手に自分の方でばっかりつかわれちゃ、こっちじゃ、ゆっくりおまんまをとぐひまもありゃしねえ」
と云っている声がした。
「どうもすみません」
 洗い上げたおしめをもって物干竿へまわる時、とき子は四畳半にいたひろ子と窓越しに顔を見合わせ、荒々しい扱いに不馴れなものの、訴える表情を浮べて笑った。ひろ子にはとき子の心の状態がよくわかり、却って、何も云わなかった。
 ひろ子は考えにとらわれた顔つきで、先へ家へ上った。
「さて、と。御苦労様、どうだった?」
 タミノは、とんび足に坐ったスカートのポケットからハトロン紙の小袋を出し、一つ一つふるって白銅三枚と銅貨を十一二枚畳へあけた。
「依田の小母さん、二度目なんでねえって、渋ってた。これっきりか!」
 市電争議の基金を託児所でもあつめるために袋がまわしてあった。
「直接のことじゃないから、何てったってちがうねえ。本当に勝つかどうか分りもしないのに、弾圧くうだけ馬鹿らしいっていうところもあるらしいね」
 市電の従業員の中には、労農救援会の班がいくつか出来ていた。蛇窪が赤坊寝台を買う必要に迫られた時、柳島では班が中心になってその基金を集めた。その金で今ある三つの籐の寝台が備えつけられたのであった。藤田工業、井上製鞣(せいじゅう)、鍾馗(しょうき)タビ、向上印刷などへ出ているここの父さん母さん連は、そういうことから市電の連中と結ばれた。隣り同士の義理堅さというようなところもあって、一回の基金募集の時は三円近く集った。然し、おッ母さん連は、自分達が出ているそれぞれの職場で市電従業員のために基金を集めるというような活動をすることは概して進まず、綱やのお花さんが、消費組合の即売会に誘って行った同じ長屋の神さんから、二十銭足らずあつめただけであった。
 ひろ子は、自分たちの託児所でのそういう経験を、数ヵ月前から持たれるようになっていたフラクションの会合で話した。その日は亀戸での話もされた。亀戸では応援活動のために特別な父母の会が催された。そして、特別に若い人が来て、それぞれの職場はちがっても、労働者であるということから共通に守られなければならない労働者としての連帯ということについて熱心に説明した。親たちは、はじめから終りまで傾聴し、その場で相当な額の基金が集った。ところが程なく意外な結果があらわれた。一人、二人と子供が減りはじめ到頭長屋から五人の子がその託児所へ来なくなった。
「何から何まで一どきに話しすぎたのがわるかったんです」
 睫毛の長いそこの保姆が全体的な批判として云った。
「やっとききだしたところによるとこうなんです。話があんまり尤もで、もし争議へまきこまれたらとても断りきれない。もしそうなったら自分のクビが心配だから、今のうちに子供をひっこめちゃおうということになったらしいんです」
「なるほどね」
 大谷は、一度ふーんと呻(うな)って、笑った。
「話が尤もでことわり切れまい、か。ふーん。それで、何かね、もうそれっきり本当に子供はよこさないんだろうか」
「ええ。今のところ来ないんです」
 蛇窪でも、沢崎キンが警察へつれてゆかれてから、二人、三人、子供をよこさなくなった親たちがあった。一人は井上製鞣へ出ていた。そのおかみさんの云い分はこうであった。
「そりゃこんな暮しをしていたって、つき合いってものはありますからね、たまにゃちょいとしたうちへだって行かなけりゃなんないやね。そんな時、行坊をつれてくってと、お前さん、人前ってものもあるのにあの子ったら大きな声して『おっかちゃん、ここんちブルジョアだね、だからてきだね』って、こう来るんだからね。あたしゃまったく、赤面しちゃうのさ」
 そんな話のあったのも近頃のことではなかった。ここが、あっちこっちにあった無産者託児所として、統一された活動に入ったばかりの頃、現れた偏向なのであった。
 赤坊のぐずつく声をききつけてひろ子が二階へあがって行った。
 お花さんのちい坊が、十ヵ月近くたつのに一向発育のよくない小さい顔をしかめて、寝苦しそうに半泣きの声をしぼって頭をふっている。ひろ子はおしめを代えた。消化不良の便が出ていた。母乳のほかに山羊の乳をのませろと医者に言われて、お花さんは自分の稼ぎのつづく日にはそれを飲まし、ここへあずけて「よいとまけ」に出ているのであった。
 タア坊のおしめを代えてやっていると、窓の下で、
「いいかい、ここ、あたい達のコーバ!」
 甲高い、勝気そうな袖子の声がした。ひろ子がちい坊の寝台を二階の手すり間ぢかまで引っぱり出して日光浴をさせながら見下していると、入口の前の空地の隅に、こわれたブランコがある、その切れた繩の先を握って袖子が何かを手繰(たぐ)るような手つきでそれをふっている。二郎が、茶の毛糸と青毛糸とをいかにも間に合わせに継いで寸法をのばしたジャケツを着、ゴム長をふんばって、わきからそれを眺めている。
 やや暫く二郎はそうやって眺め、袖子は、目をつっつきそうに伸びすぎて剽悍(ひょうかん)に見える黒いオカッパの下から、時々真面目くさった視線で二郎の方を見ながら、運動をつづけているのであったが、やがて二郎が、ぶっきら棒に、
「ヤーイ、名なしの工場なんて、ないや」
と云った。袖子は睨むように二郎を見た。そして思案していたが、やがて動かしている手はとめず、
「――ブランコ工場だヨ!」
 イーというように返事している。
 見下していたひろ子は、声は立てずに大きな口をあけて笑った。
「ここ、キカイだよ!」
 矢張り生真面目な顔で、袖子は、ブランコの柱のひびわれた木目を、あいている左手の指先で押しつけるようにして二郎に示している。
 今度は二郎が黙って袖子と並んで立った。そして自分でも、もう一本の切れた繩の端を握り、袖子よりもずっと荒ぽく、調子をつけて振っている。振っていると思うと、二郎はいかにも男の児らしい敏捷さで、ひょいとゆれているその繩の先へぶら下って、脚をちぢこめた。止りそうになるとゴム長で地べたを蹴り、またぶらん、ぶらん振り直す。盲滅法に地べたを蹴ろうとする二郎の足は、やっと地べたに届いたり、そうかと思うとたった二分ぐらいのところで宙を掠(かす)めてしまったり。――
 ひろ子は、いつかつりこまれ、さながら二郎の背中を押してでもやっているように、調子をあわせ無意識のうちに自分まで顎を動かした。
 袖子は、繩を持ちかえたが、そのまま目を凝して二郎のやることを観察している。
 それに飽きると二郎は暫くどこへか姿をかくし、出て来たところを見ると、羽目板のはずれたのを、片ぺら泥だらけのまんまひきずって来た。それを、ブランコの切れた繩の下まで引っぱって行き、繩へくくりつけた、つまりブランコらしいものにしようとしているのだが、繩は太いし、板は薄くて幅がひろいし、霜やけの出来た小さい二郎の手にはしまつがつかない。ぎごちない恰好で膝までつかって何とかしようと、板を落しても落しても、二郎は声も出さず力みこんで骨を折っている。家でも、託児所でも、玩具らしい玩具を持たない二郎の努力がそこにあるのであった。ひろ子はそれをただ見下してはいられない心持になって来た。タミノはどうしたのだろう。そう思いながら下りて来て、ひろ子はおやと思った。臼井がいつの間にか来ている。そしてあっち向きに、タミノと向いあって柱によりかかっていた。ひろ子の跫音で、タミノが顔をあげると、臼井はこっちは振りかえらないまま、いそがず、しかし十分ひろ子を意識した素ぶりで何か前にあったものを畳んで紺絣の内懐へしまった。
 ひろ子は二人のいる四畳半の方へ行こうとしたのをやめた。そしてありあわせの下駄をはいて外へ出た。

        五

 夜みんな子供をかえして静かになると、タミノとひろ子とは、工夫してなるたけ人目をひくように、字の大小、ふちどりなどに心を配りながら、大きいのや小さい四角い伝単形(でんたんがた)やらのガリ版をきった。
 託児所の経済は、市電応援以来非常にわるくなった。ひろ子らは、これまでのように、定って毎日来る子供ばかりを預るだけでなく、急用で出かける母親にも便宜なように、どんな臨時でもおやつ代だけで預ること、そして託児所の仕事をもっと大衆化することを決定した。同時に従来も労救とは別に託児所としての維持員を一般の進歩的な家庭の婦人の間に持っていた、その方面も拡大しよう。原紙を切っても、手許に謄写版がなかった。診療所まで出かけて行って刷らなければならなかった。翌日タミノが、例によってスカートに下駄ばきで出かけようとしているところへ、臼井がやって来て、
「どれ?」
 タミノの手から原紙の円く捲いたのをうけとって見て、かえし、
「あっち、多分今つかっているでしょう」
 各部署の活動に通暁したように云ったりした。
「あら! やんなっちゃうね。よって来たの?」
 臼井はそれには答えず、
「そんなものくらいだったら、僕の知っているところのでやれると思うんだが――」
「なーんだ、そんなことがあるんなら早くそう云ってくれればいいのに! そこへ行こう、ね、いいんでしょう?」
「今夜あたりは、大抵いいだろうと思うんだが……」
 正直で単純なタミノに向う臼井のそういう話しぶりや、ひろ子がこの間二階から何心なく降りて来て目にした臼井の凄(すご)んだような態度などには何かわざとらしいものが流れているのであった。臼井と二人で出かけて行って、タミノは謄写版刷りの仕事もちゃんとして来たが、その四五日あとになって、ふと何かのはずみで云った。
「ポートラップって、私、洋酒だとばっかり思ってたら――ちがうんだね」

 或る晩のことであった。タミノが電燈を低く下げて靴下の穴つくろいをしながら、
「私、いまにここかわるようになるかもしれない」
 独言のように云った。それは風のひどい晩で、ひろ子も同じ電燈の下へ机を出して会計簿を調べていた。顔もあげず数字をかきつづけながら、ひろ子はごく自然な気持で、
「ふーん」
とタミノの言葉をうけた。
「どこか、うまいところがありそうなの?」
 タミノは三月ばかり前、山電気を組合関係で馘首になるまで、ずっと工場生活をして来ていた。組合の書記局へおいでよって云われたけど、私、職場の方が好きだ。また入りこむよ、そう云って、一時ここを手伝っているのであった。
 下を向いて、こんぐらかった糸を不器用に、若々しい粗暴さで引っぱりながらタミノは、
「まだはっきりしないんだけどね」
 間をおいて、
「臼井さん、待ってたのがやっとついたって、とてもよろこんでる……」
 ひろ子は思わず首を擡げ、下を向いているタミノを見ながら、ペンをもっていない方の指で自分の下唇をゆるゆると捩るような手つきをした。タミノはやっぱり顔をつくろいものの上にうつむけたままでいる。
「――つくって……」
 様々のありふれた推測が、ひろ子の胸に浮んだ。いずれにせよ、臼井と党の組織との連絡がついた、ということにはちがいない。
「だって、そのことと、あんたが、ここからかわるってこととは、別なんでしょう?」
 タミノは直接それには返事をせず、自分自身の考えに半分とりこまれているような調子で、暫く経って呟いた。
「なかなか役に立つ女が少なくて、みんな困ってるらしいわねえ」
 その言葉でひろ子には全部を語らないタミノの考えの道筋が、まざまざ照らし出されたように思った。
「こんどのところは――職場じゃないの?」
「…………」
 ひろ子は、若い、正直なタミノに向って、こみ入った自分の愛情が迸(ほとばし)るのを感じた。タミノは、おそらく臼井に何か云われて、彼女には職場での活動よりもっと積極的なねうちを持っているように考えられる或る役割を引きうける気になっているのではないだろうか。ひろ子としては、若い女の活動家が多くの場合便宜的に引きこまれる家政婦や秘書という役割については久しい前からいろいろの疑問を抱いているのであった。ひろ子は、なお下唇を捩るような手つきをして考えていたが、ゆっくりと云った。
「あっちじゃ、女の同志をハウスキーパアだの秘書だのという名目で同棲させて、性的交渉まで持ったりするようなのはよくないとされているらしいわね。――何かで読んだんだけれど」
 ひろ子たちの仲間で「あっち」というときは、いつもソヴェト同盟という意味なのであった。
「ふーん」
 今度はタミノが顔をあげた。眉根をキと持上げるような眼でひろ子を見て、何か云いかけたが、そのまま黙って針を動かしつづけた。
 やがて、靴下つくろいを終って、タミノは、維持員名簿をめくりながらハトロン封筒へ宛名を書きはじめた。
 夜が更けて、風が当ると庇(ひさし)のトタンがガワガワ鳴った。その木枯しが落ちると、道の凍(い)てるのがわかるような四辺の静けさである。タミノが万年筆の先を妙に曲げて持って字を書いている。減ったペンと滑っこい紙の面とが軋(きし)みあって、キュ、キュと音をたてている。
 そのキュ、キュいう音を聴きながら自分も仕事をつづけているうちに、ひろ子の心は一つの情景に誘われた。六畳、四畳半、そういう家には遠山に松の絵を描いたやすものの唐紙がたっている。そのこっちのチャブ台で、ひろ子が、物を書いていた。もう暁方に近かった。ひろ子がくたびれて、考えもまとまらずにあぐねていると、その唐紙のあっちから、丁度今きこえているようなキュキュというペンの音がした。唐紙のこっちからでも、書かれてゆく字のむらのない速力や、渋滞せず流れつづける考えの精力的な勢やを感じさせずに置かない音であった。ひろ子は、自分の手をとめたなり、心たのしくその音に耳を傾けていた。それから、唐紙ごしに、
「ちょっと」
 重吉に声をかけた。
「――何だい?」
「……デモらないで下さいね」
 ひとり口元をほころばせ、様子をうかがっていると、重吉は、突嗟にひろ子の云った言葉の意味がわからなかったらしく、唐紙のむこうで、居ずまいを直す気勢であったが、程なく、
「――なアんだ!」
 笑い出した。
「そんな柄でもないだろう」
 じきにまた、キュキュ音がしはじめた。――
 ひろ子には、タミノがこれから経てゆくであろう一つの階級的な立場をもった女としての一生が、自分の経験するよろこび、苦しみの一つ一つと、情熱的に結び合わされたものとして感じられるのであった。
 重吉が検挙されてひろ子も別の警察にとめられていた時のことであった。ひろ子は二階の特高室の窓から雀の母親が警察の構内に生えている檜葉(ひば)の梢に巣をかけているのを見つけた。
 ひろ子は覚えず、
「マア、可哀想に! こんなところに巣なんかかけて」
と云った。するとそこにいあわせた髭の濃い男が、
「なに可哀想なもんか! 安全に保護されることを知ってるんだよ」
 そう云って、ジロジロひろ子を上へ下へ見ていたが、
「君なんぞも子供を一人生みゃいいんだ。さぞ可愛がるだろうな、目に見えるようだ」
 ひろ子は、その男の正面に視線を据えて、
「深川をかえして下さい」
 そう云った。男は黙りこんだ。
 ひろ子がそこから帰って、託児所へ住むようになったばかりの夏の末、お花さんの友達が現場で大怪我をして病院にかつぎこまれたことがあった。
 ちい坊を託児所にあずかって、下の四畳半へねかしたまま、団扇(うちわ)で蚊を追い追い、ひろ子はそのわきで本を読んでいた。やがて眼をさましたちい坊は、泣き出してどうしてもだまらない。鼻のあたまに汗をかいて泣きしきるので、ひろ子はああと思いつき、その思いつきに自分で嬉しがりながら、
「さア、これでどう? ちい公もこれじゃ泣けまい?」
 そう云いながら白いブラウスの胸をひろげて、ひろ子は自分の乳房を泣いている赤坊の口元にさしつけた。ちい公は、その時分からしなびて、顔色や足の裏の血色がわるい児であったが、ほそい赤い輪のように口をひろげ、さぐりついてやっとひろ子の乳首をふくんだかと思うと、すぐ舌でその乳首を口の中から圧し出して前より一層激しく泣きたてた。三度も四度もひろ子はそれをくりかえした揚句、到頭あきらめて自分も困ってききわけのある子に云うように挨拶した。
「いやじゃあこまったことね。――でも小母ちゃんがわるいんじゃないのよ、ちい坊や」
 それから一時間あまり経って北海道生れのお花さんが、帰って来た。
「すみませんでしたね。ふー、たまんね。何んとした暑さだろう」

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