古き小画
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:宮本百合子 

古き小画宮本百合子        一 スーラーブは、身に迫るような四辺(あたり)の沈黙に堪えられなくなって来た。 彼は、純白の纏布(ターバン)を巻いた額をあげ、苦しそうにぎらつく眼で、母を見た。 彼女は、向い側で、大きな坐褥の上に坐っている。その深い感動に圧せられたようにうなだれている姿も、遠くから差し込む日光を斜に照り返している背後の灰色の壁もすべてが、異様な緊張の前に息をつめ、見えない眼をみはっているように感じられる。 スーラーブの、過敏になった神経は、それらのものから、異常な刺戟を受けた。部屋じゅうには、何か窮屈な、身動きも出来ない霊どもが一杯になって、切に、彼からの一言、快適な一つの動作を、待ち、望んでいるように思われる。 実際、スーラーブは、この場合、自然な自分の数語、一挙手が、どんなに内房(アンダルーン)の空気を和げ、くつろがせるか、よくわかっていた。けれども、平常、あれ程自由に使われると思った言葉が、彼の頭から消えてしまった。実につきない余韻を以て鳴り響くようなこの感動を声に出して表わそうとすれば、意味をなさない、一息の、長い唸りでも響かせるしかないのだ。 強て、何とかしようとする焦心は、一層、スーラーブの感情を苦しくした。 彼は、いたたまれない様子で、いきなり立ち上った。そして、真直に母の前を横切り、内房に属する柱廊に出た。 そこには、日増しに暖くなって来た四月のツランの日光が、底に快よく肌を引しめる雪解の冷気を漂わせながら、麗らかに輝いている。スーラーブは、思わず貪るように新鮮な外気を吸い込んだ。そして不思議に混乱した力を、再び集めとり戻そうとするように、立ち止まって、拳を一二度握りしめ、開きし、のろい歩調で、柱廊の端迄出て行った。 粗い、自然石を畳みあげた拱(アーチ)の中からは、一目に城内の光景が見晴らせた。 つい傍に迫っている建物の翼のはずれでは、六七人の男が坐り、白い纏布をうつむけ、調子よく体を動かしては、武器の手入れや、新しい弦の張工合をすかして見ている。 遠く家畜小屋の附近では、活溌な猟犬の吠え声が聞えた。強い羽ばたきの音を立てて、ぱっと何処かの軒から鳩が翔(と)び立つ。 不規則な点滴の音や、溶け始めた泥濘に滲みながら鋭く日に燦(かがや)く残雪の色などは、皆、軟かな雲一つない青空の円天井に吸い込まれ、また軈(やが)て、滋味に富んだ陽春の光線となって、天からふりそそいで来るかと思われる。 然し、スーラーブは、その晴やかな外景を、至極、恬淡(てんたん)な、放心した状態でながめた。 黙って働いている人間の姿も、陽炎(かげろう)でちらつく広場の様子も、何かひどく自分とは無関係な、よそよそしいものに感じられる。 一心籠めて考えなければならないことがある。――しかも、その考えなければならないのは何なのか、はっきり当がつかず、徒らに不安を感じるという、落付かない心持になるのだ。スーラーブは、やや暫く、歩廊の石畳の上を、往ったり来たりしたが、気を鎮めるに何のかいもないと知ると、歩をかえして、内房を出た。スーラーブは十九年の間隠されていた父の名を知ることが、これ程の動顛を齎すものとは知らなかった。        二 ツランでは、男の子が生れると満七歳になる迄、母の内房でばかり育てられることになっている。スーラーブも、七度目の祝の日が来る迄、自分の囲りに、女ばかりを見て育った。大きくなってからでも、彼は、よくその時代の追憶を、朦朧(もうろう)と、一種神秘的な色彩を添て思い出した。今見る内房とは、まるで違うように思われる、少し薄暗い、静かな、好い匂いの漂っていた奥の部屋。朝から晩まで、その中で、小さい自分の相手になって、玉を転したり、笑ったり、時には腹を擽ったりした、白い手の、大きい金の耳輪を下げた、母とは違う若い女房の、悠(ゆっ)くりした腰袴の裾につらまって、始めて、歩廊の淡雪を踏んだときの驚き。 七年目の誕生日が来た朝、スーラーブは、初めて青々と剃った小さい頭に、赤い条入りの絹の纏布を巻きつけられた。そして、腰に宝石入の幅狭帯と、短剣とを吊った。 仕度が調うと、内房じゅうの女が一人一人彼に祝福を与え、内房の外仕切りの垂帳の処まで送って出た。外には、男の家臣が、迎えに来ている。スーラーブは、大きな大人が、こごみかかって自分に捧げる歓迎の言葉に、赤くなり、嬉しさと当惑とを半々に感じた。それでも、小さい足に力を入れて、先に立ち、勢いよく、別棟の、男の、住居に入って行った。 その日から、彼は祖父の保護の下に置かれることになった。今迄のように、内房の嬰児ではなく、サアンガンの統治者となるべき少年としての訓練が始まった。スーラーブは、祖父の居室の一隅に積み重ねてある坐褥の上に眠った。空が明るくなると同時に起き出して、白髭の祖父と並び、天と地とを照し、正義ある王を守る太陽に礼拝することと、その時称うべき祈祷の文句を教わる。 少量の朝餐が済むと、日が山陰に沈む迄、彼は、戸外で暮した。祖父か、或は他の臣と共に馬に騎(の)り、狩に出かけ、何もない野原で食物を煮る火を作ることから、馬の傷の手当をすること、獲った動物の皮を剥ぐことまで――一人の勇ましいツランの戦士が知らなければならない総てのことを、男らしい、実際の場合に即したやり方で、教え込まれるのであった。活々した冒険心に富んだスーラーブの少年期は、極く愉快に三年経った。彼は十歳になった。その年、厳しい冬の間から祖父が内臓の苦痛を訴え始めた。そして、脾腹(ひばら)が痛むと云って飲食も不可能になると、間もなく、老人は瀕死の重体になった。 煎薬のにおいや、悪魔払いの薫物の香が、長い病人の臥床につき纏(まと)う、陰気な、重苦しい空気と混って、まだ寒い広間の中に漂っている。スーラーブは、明りの差し込む窓の下で侍者と一緒に、ぼんやり湯の沸くのを待っていた。 天井から吊った懸布の下の床では何か不具の重い虫でも飛ぶような息の音を静寂な四辺に響かせながら病人が家臣の一人と話している。スーラーブは、侘しい退屈な心持で、そのゼーゼーいう音をきき、雪の上をちょいちょい歩く二三羽の鶫(つぐみ)を看ていた。 誰かが後向になった彼の肩に触った。見ると今迄祖父と話していた男が、「祖父様がお呼びになります」と、立っている。スーラーブは、その男の顔と、病人の方とを、一寸見較べた。 彼は、進まない心持で歩き出した。病人になってから祖父は、幼い彼に何処となく見違えるこわさを持っている。        三 床の傍まで来ると、スーラーブは、恭しく右手を胸に当てて頭を下げた。そして、張り切った子供の注意で凝っと祖父の顔を見下した。老人は、急に沢山になった藪のような白髭と白眉毛の間に、弾力のない黄色い皮膚をのぞかせ一言を云おうとする前に、幾度も幾度も、あぶあぶと唇を動かす。唇に色がなく、口を開けると暗い坑のように見えるのが、スーラーブに無気味に感じられた。 付添っていた家臣が、背に手を当てて、彼を病人の顔に近く、かがませた。スーラーブは、我知らず、自分の顔が、異様な祖父の顔にくっつくのを恐れ、頭を持ち上げた。 祖父は、なお暫く息を吸ってから、やっと聴こえる声で、「スーラーブ!」と、彼の名を呼んだ。弱々しい切なげな声が恐ろしい容貌を忘れて馴れた祖父を思い出させ、スーラーブは、俄に喉がぐっとなるのを覚えた。彼は、熱心に次の言葉を待って息を抑えた。「儂はもう駄目だ。卿と狩にも行けぬし……」 祖父は言葉を選んでいるように躊躇し、つづけた。「いろいろ教えてやることも出来ん。シャラフシャーの云うことをきけ。シャラフシャーが、儂の役を引受けた。」スーラーブは自分の傍に立っている家臣を見た。何か不満足な、意に満たない感じが彼の胸に湧いた。けれども物々しいその場の有様が、彼に沈黙を守らせた。「シャラフシャーは間違ったことは云わぬ。サアンガンの恥になることはせぬ。よく云うことをきけよ」 祖父は、草臥(くたび)れるほど長いことかかって、これだけを云うと、枯れた小枝を継ぎ合せたような手を延して、枕の上を探るようにした。 シャラフシャーがこごんで、何か訊き、頷くのを待って、積んだ枕の下から、羊皮の小さい袋を出した。そして、それを病人の手に渡した。 厳粛な四辺の雰囲気の裡にもスーラーブは、激しい好奇心を、その小袋に対して感じた。祖父は大切そうにそれをあげ、額につけ、スーラーブに向って合図をした。スーラーブは、シャラフシャーに云われるままに、祖父の方に右手を出した。祖父は、ぶるぶる震える手でその小袋を彼の掌に置くとそのまま確かり自分の手で外から握らせ、「儂の守りを遣る。儂は、父上が死なれる時その臨終の手から貰った。サアンガンの幸運が卿と卿の子孫とに恵まれることを」今迄薄すりと眼を瞑り、唇だけ動かしていた祖父は、この時急に、生きている勢いの全部をその刹那に込めるように、ぱっと双眼を開いた。 そして、スーラーブの、切れの長い、真面目な眼を射抜くように見据えながら、はっきり、「父のない子を見よ、と云われるな」と云った。 スーラーブの全身に、訳の分らない寒気が走った。堅く、冷たい、骨張った十の指に手を掴まれ、死にかかった人間の眼で、それ程きっと見据られ、耳に聞いた言葉を彼は、非常に恐ろしく感じた。容易ならぬこと、しかも、何か恥ずべきことを戒められたという直覚が鋭く心を貫いた。彼は、困惑した眼で祖父を見た。彼は、祖父が心の中でひどく何かを憤ってい、自分の手をそうやって小袋ぐるみ掴んだまま、何処か遠い変な処へ翔んででも行こうとするのではないかと恐れた。        四 祖父は、その出来事のあった翌日、この世を去った。生れて始めて人間の葬送の場合に会い、幼いスーラーブは、事々に忘れ難い印象を受けた。 ふだんあれほどしとやかな内房の女達が、祖父の死を知ると、俄かに狂気したようになって頭に纏う布を引裂きながら、額を床に打ちつけ胸を叩いて号泣した有様、星ばかりの夜の空の下で祖父の屍を荼毘(だび)にした火の色。黒煙を吐きながら赤い焔の舌が、物凄い勢いで風のまにまに雪の面に吹きつけた光景や、今、広場の端迄延びたかと思うと、忽ちどっと崩れて足許に縮む影法師の中を入り乱れ、右往左往した多勢の男達の様子が、それがすんだ朝になると、スーラーブにはこわい、一つの夢のようにさえ思われた。 けれども、夢でなかった証拠には三日三夜の退屈至極な儀式が彼を捕えた。昼間一杯と夜の三分の一ほど、スーラーブは、数多(あまた)の家臣の先頭に立って、シャラフシャーの云う通り、「我等の神、ミスラ、汝の嫡子、サアンガンの王の王」と、大きな声で繰返したり、理由のわからない面倒な手順で、石の平べったい台の上に、穀物や、乾果や、獣肉を供えなければならない。 それにも拘らず、スーラーブの心には、ちょいちょい、祖父が死に際に云った言葉が蘇って来た。そして、彼を不安にした。 何かしている最中でも、ふと、「父のない息子を見よ、と云われるな」という文句をまざまざと耳元でささやかれるように感じる。瞬間、彼は何も彼も放ぽり出して、後を振向いて見たいような衝動を覚えた。彼にそれをさせないのは、シャラフシャーの意味ありげな、咳払いと流眄(ながしめ)があるばかりである。辛うじて、統治者らしく威厳を保ちはするものの、暫時彼は、臆病な、困った顔付きで、無意識にしかけた仕事をつづけるのであった。 スーラーブに、祖父の云った言葉の全体の意味は解らなかった。ただ、何か大切な訳のあるらしいことだけは感じた。その特殊な重大さは、全く自分に関係していることに違いないのだが、そのことに就いて、何も知らず、告げられもしないということが、一層、祖父の言葉を恐ろしく思わせる。 祖父の代りに、今度はシャラフシャーを指導者として、スーラーブの日常は、再び、従前通りに運ばれ始めた。元と違う点といえば与えられる訓練が益々秩序的になったことと、今迄無頓着に語られていた昔噺や英雄の物語が何処となく教訓的な意味を添えて話されるようになったという程度であった。 然し、スーラーブの内心では、著しい変動が起った。祖父の言葉をどうしても忘られない彼は、次第に自分の境遇に特別の注意を向けるようになった。 城全体の生活が女ばかりの内房と、男ばかりの表の翼とにきっぱり二分されているため、その間に、家族とか夫婦とかいう生活の形式を、まるで知らなかった彼は、シャラフシャーのする物語の中から種々な疑問を掴み出して来た。 スーラーブは、傍に坐って、小刀を研ぎながら話をするシャラフシャーに、子供らしい遠慮を以て訊いた。「ねえ、シャラフシャー、この間卿、祖父様はナディーというひとの子だと云ったろう?」 シャラフシャーは、仕事から注意を奪われず真面目な声で答える。「左様です」「――スーラーブの父上は何という名?」 シャラフシャーは、答えない。        五 四辺には、刃物が砥石の上を滑る音が眠たく響く。 スーラーブは、シャラフシャーが沈黙しているのを知ると別な方面から、問いを進めた。「シャラフシャー、父上のいないのは、悪いことなのかい?」「悪いことではありません。祖父様のおっしゃったのは」シャラフシャーは、刃物の切味を拇指の腹で試し、正直な、心遣いの籠った眼で、小さく胡坐(あぐら)している自分の主人を見た。「貴方が、一生懸命、戦士の道を修業して、サアンガンの王のまことの父である大神ミスラに見棄てられないようにしなければならぬ、ということであったのです」 スーラーブは、暫く腑に落ちない顔をして黙った。何処かに、はっきりしない処のあるのは感じる。けれども子供の頭脳は、そこに条理を立てて、もう一歩迫ることが出来ない。黙って、考えている積りのうちに、彼の纏布を巻いた小さい頭の中には、ぼんやりと、昼間の狩の思い出や、明日の遠乗の空想が湧き上って来る。シャラフシャーは、彼の恍惚(うっとり)とした口つきと、次第次第に面を輝かせる生活の楽しさとを見逃さない。スーラーブは、巧にシャラフシャーが持ち出した新しい話題に全心を奪われ、数分前の拘(かかわ)りを、さらりと忘れてしまうのであった。 然し、それで紛れきってしまうには、彼の受けた感銘が余り強すぎた。ふと、思い出し、急な不安を感じ、スーラーブは同じ問いを母にも持ち出した。 彼は、本能に教えられ、シャラフシャーに対する時よりずっと甘えて、直截に、「母上、スーラーブの父上はどうしたの? 祖父様はこわい顔をして『父のない息子を見よと云われるな』とおっしゃった。父上は始めっからいないの? 死んだの?」と、迫る。 始めて、この問いを受けた時、ターミナは、スーラーブが思わず、喉をゴクリといわせたほど、驚きの色を示した。彼女は、スーラーブの傍に躙(にじり)より、手を執り、誠を面に表しながら、彼は今も昔もサアンガンに唯一人の偉い王になるため、天から遣わされた者であるということ、その命令を成就させるために、母もシャラフシャーも心を砕き、神への祈りを欠かしたことはないのだ、と話して聞かせた。 スーラーブは、凝っと母の顔を見つめ、判り易い言葉で云われることをきき、半信半疑な心持と、畏れ、感激する心持とに領せられた。納得するしないに拘らず、母の熱の籠った低声の言葉や、体、心全体の表情が、幼い彼を沈黙させずに置かない真剣さを持っていた。 十五六歳になる迄、スーラーブは、折々その質問を繰返して、母やシャラフシャーを当惑させた。けれども、だんだん質問の仕方が実際的な要点に触れ、返事を一層困難にするようになると逆に、彼の訊ねる度数が減った。青年らしい敏感が、そんな問を、露骨に口に出させなくなった。彼は、自分にそのことを訊かれる母の心持も同情出来るようになったし、少年時代から一緒に暮しているとはいっても、一人の臣下にすぎないシャラフシャーに自分の父の名を聞く、一種の屈辱にも堪えなくなって来たのである。 彼は、黙って、鋭く心を働かせ、自分という者の位置を周囲から確め始めた。種々な点から、彼は、シャラフシャーが、全く自分の出生に関しては与り知らないのも判った。家臣等の自分に対する感情は、いささかもその問題には煩わされていない純粋なものであるのも知り得た。        六 晴々として快活な時には、愉快な無頓着でスーラーブは、自分の運命を、稍々(やや)滑稽化しさえした。もうミスラの子というお伽噺(とぎばなし)に信仰を失っていはしても、まあよい時が来る迄神の息子という光栄を担っていよう。誰が父であるにしろ、自分が誰からも冒されないサアンガンの王であるには違いないのだ、と気安く淡白に思う。然し、折にふれて激しい憂鬱が心を圧し、彼から眠りを奪うことがあった。自分の誕生というものに最も忌わしい想像がつきまとった隠されている父の名は、或は、実に恥べき人間と場合とに結びついているのではないだろうか。自分が生れたのを母は、怨みで迎えたのではあるまいか。そう思うとスーラーブの、青年らしい生活の希望は打ちのめされた。 彼は、見えない自分の血の中に、洗っても洗っても落ちない何者かの汚染が滲み込んでいそうに感じた。何時か自分が、我にもない醜悪さを暴露させるのではあるまいか。生きていることさえ恐れなしとはいえない。 そのような疑惑に苦しめられる時、スーラーブは、時を構わず、馬に鞭をくれ、山野を駆け廻った。彼を、致命的な意気消沈から救うのは、僅に一つの反抗心があるばかりであった。「よろしい。母に自分を生ませた男が、最も卑劣な侵略者なら構うものか、そうあらせろ、自分が、母と自分の血を浄めて見せるぞ。賤しい男の蒔いた種からどんな立派なサアンガンの糸杉が生えたか、見せて遣ろう」 反対に、何ともいえない懐しさと憧れとが、天地の間に、自分という生命を与えた父に対して、感じられることもある。 深い、生活の根柢に触れるこれらの感情に影響され、スーラーブは年に合わせては重々しい、時に、憂を帯びた威で、見る者を打つ青年になった。 彼の日常は、戦士の理想に叛(そむ)かなかった。簡素で、活動的で、女色にも耽らなかった。サアンガンの統治者としての声望は、若い彼として余りあるものがあった。けれども、心の裡に深く入り、喰い込んでいる愁を彼と倶に感じるものは、恐らく誰一人いなかったろう。スーラーブは、自分の武勇や心の正しさなどというものが、一方からいえば、皆悲しい一つの反動であるのを知っていた。彼は、生長すればするほど、祖父の臨終の一言を畏れた。たとい運命が、自分の前に何を出して見せても、動じない自信を持ちたいばかりに、男を練る唯一路である戦士の道を励んだといってよい。 彼が、若々しい衝動に全心を委せ切れず、いつも、控え目勝ちであることも、決して彼の本心の朗らかな悦びではなかった。 若し前途の不安と、父の名を知る時に対する一種宗教的な畏怖がなければ、スーラーブは、躊(ためら)わず愛人の地位に自分を置いたであろう。 父を知る日を境にして、自分の一生はどうなるのかと思うと、彼の情熱は鎮まった。あとに、尽きない寂しさに似たものが残る。 自分の運命を真面目に考えるようになってから、スーラーブは、彼の最善を尽して、来るべき一日のために準備していたのであった。        七 その朝スーラーブは例によって、何心なく母の処へ挨拶に行った。ターミナは、優しく彼を迎えた。そして、侍女に命じ、わざわざ新しく繍(ぬ)ったという坐褥を出してすすめたりした。スーラーブはいつもの通り、次第に麗かになって来た天候のことや、この春はかなり仔羊が生れそうなこと、前日の羚羊(かもしか)狩の模様などを話した。彼は、近いうちにチンディーの宝石売が来るという噂を伝えた。「母上にも何かよいのを見繕いましょう。この前はいつ来たぎりか、もう二年ほどになりますね。美しい紅色の瑪瑙(めのう)なんかは、いつ見てもよいな」 ターミナは、遠慮深そうに、「もう派手な宝石でもありますまいよ」と云った。「女達のに、さっぱりしたのを少しばかり見てやっておくれならさぞ悦ぶことだろうけれど」「女達も女達だが……」 スーラーブは、何心なく顔を近よせるようにして、母の胸元を見た。「どんなものをしておられます? いつもの卵色のですか」 彼にそう云って覗き込まれると、何故か、ターミナは、品のよい顔にうろたえた表情を浮べた。そして、さりげない風で、低く、「別に見るほどのものでもありませんよ」と云いながら、落付いた肉桂色の上衣の襞の間に、飾りを隠そうとした。が、頸飾りは、彼女の指先をもれ、スーラーブの目に、鮮かな碧色の土耳古(トルコ)玉がかがやいた。手の込んだ細工の銀台といい、立派な菱形に截(き)った石の大きさ、艶といい、調和のよい上衣の色を背景に、非常に美しく見える。彼は、母が寧ろ誇ってそれを見せないのを不審に思った。「素晴しいものではありませんか」 ターミナは黙って、自分の胸元に目を注いだ。「余程以前からあったものですか? 一寸も見なかった」「気がおつきでなかったのだろう」 スーラーブは、何だかいつもとは調子の違う気のない母の応答ぶりに注意を牽かれた。何処となく堅くなり、強て興味を唆(そそ)るまいとし、一刻も早く話題の変るのを希っているようにさえとれる。彼は宝石の面に吸いよせられていた瞳を辷らせて、母の様子を見た。ターミナは、自分も一緒に珠の美しさに見とれたように、下目はしているが、顔には、張り切った注意と一寸した彼の言葉にも感じそうな鋭い神経があらわれている。―― スーラーブは、膝の上に肱をつき、屈(かが)んでいた体を起した。急に湧き上った疑問に答えて、彼の頭は、種々の推測を逞くしだした。第一、この地方で土耳古玉は、珍奇な宝玉に属する。母の意味ありげな素振は、何か、この珠の由来に特殊な事情のあることを告げているのではないだろうか。母のこれ迄の生涯で、若し特別な出来事があったとすれば、それは、自分の何より知りたいこと、知りたい人に、連関したものでなければならない。 スーラーブは、胸の底に熱いものの流れ出したのを感じながら、凝っと、俯向(うつむ)いている母を眺めた。 愈々時が来たのか? 余り思いがけない。あんなに隠され、かくまわれていた秘密、或は神秘と呼ぶべきことが、これほど偶然の機会で明されるのかと思うと、スーラーブは、妙に、信じかね、あり得べからざることのように感じずにはいられない。        八 考えているうちに、彼の心には次々に、新な疑問が起った。かりにも母が、その飾りを身につけていることが、却って、スーラーブを、思い惑わせたのである。万一、自分の想像が当り、見知らぬ父と関係あるものなら、彼女がそれを頸にかけるという一事だけで充分、その人の価値と、母のその人に対する愛を示されたということになる。ところが、案外の勘違いで、母のまごつきは、その宝石が、娘らしい物欲しさから、祖父の許しを得ず、そっと織物とでも換えたものだという、思い出から出たのかも知れない。 いつ? 自分だけの考えに沈み、スーラーブは心付いて、四辺の沈黙の深さに愕(おどろ)いた。 何とか口を開こうとした拍子に、彼は一つのよいことを思いついた。彼は、要心し、母を脅かすまいためわざと軽く、冗談めかして、「ねえ母上、私には、その土耳古玉が、不思議にいろいろのことを考えさせますよ」「――どうしてでしょうね」 スーラーブは、真直に母の眼を見た。「母上が誰か忘れられない人からでもお貰いなされたように思われてならないのです」 彼は、この一言に、重い使命を与えた。若し母が、自然に「まあ! 何を云う!」という顔か、笑いでも洩せば、スーラーブは、自分の想像が的外れであることを認めるしかないと思ったのであった。がターミナは、かくし終せない、心を衝かれた色でスーラーブを見かえした。彼女は、明かに、直は言葉も続けかねたのである。彼は、今更、心が轟き、指先の冷たくなるような思いに打たれた。彼は心を落つけ、礼を失わないように、一歩を進めた。「不しつけな云いようで、すみませんでしたが、どうぞ悪く思わないで下さい。不断から折があったらと思いつめているので、おやと思ったら押えかねたのです」 スーラーブは、劬(いた)わるように改めて尋ねた。「ほんとに、私の想像は当っているでしょうね? 母上、そのお返事なさって下さい」 ターミナは、彼の印象に永く遺った重々しい感情をこめた動作で左手を額にあげ、静かに、そこを抑えた。「そんなに心にかけておいでだったのか」「――私ぐらいの年になって、父の名を知らず、その人を愛してよいのか、憎んでよいのかも判らないというのは、楽な心持ではありません。……云って下さるでしょう? 今日迄持ち堪えたら、母上の義務はすんでいるでしょう?」 スーラーブは、なにか黎明の日の光に似た歓ばしい期待が、そろそろ心を溶かすのを感じた。胸の中では「吉報! 吉報!」と子供らしい叫びをあげて動悸が打つ。彼は、単純に云った。「父上は、どうされたのです? とにかく愧(は)ずべき人間でないのだけは確かですね」 しかし、母は、彼の亢奮をともにせず、一時に甦って来た過去の追想に包まれきったように打沈んで見える。彼は、同情を感じた。 そして、自分も地味な心持になり方法を変えた。「こうしようではありませんか、母上。今迄隠して置かれたのには何か深い訳があったのだろうから――私が、ききたいことだけを問(たず)ねましょう。簡単にそれに答えて下さい」        九 何から先に問(たず)ねるべきなのか、スーラーブが手がかりを求めているうちに、ターミナは、俯向(うつむ)いていた頭を擡(もた)げた。そして、低声に然し、はっきり云った。「それには及びません。私が話しましょう。卿がこの飾りに目をつけた時に、ああ、到頭今日こそは、と思いました。今日これをつけていたのは……」 ターミナは云いよどみ、何ともいえず趣の深い、仄かな含羞(はにかみ)の色を口辺に浮べた。「――十九年昔の今日、卿の父上がこの城へ来られたのです」 スーラーブは、厳粛な心持になって問ねた。「今、その人は、どうしているのです? 生きているのですか、死んでしまったのですか?」「生きておられるでしょう。生きておられることを祈ります。あれほどの方が、死なれて噂の伝わらない筈はない」「そんなひとなのですか」 彼は、見えない、偉(おお)きな何ものかが、心に迫って来るのを覚えた。「――誰です?」「…………」「ツランの人ですか?」「ツラン人ではありません」「まさか、この領内の者ではあるまい。――」「イランの人です。卿の父上は……」 ターミナは、大切な守りの神名でも告げるように、恭しく、スーラーブの耳に囁いた。「卿の父上は、イランのルスタム殿です」 スーラーブは、始めて自分が、天の戦士といわれている英雄の子であることを知った。ルスタムの名を聞いて畏れない者は、人でない。いや、アザンデランの森の獅子は、ルスタムの駒の蹄の音を聞いて、六町先から逃げたとさえいわれている。 十九年昔、ルスタムは、サアンガン附近で狩をし、野営しているうちに、放牧して置いた愛馬のラクーシュを、サアンガンの山地人に盗まれた。ルスタムは、この城迄その捜索を求めて来た。ターミナは、その時十八歳であった。表の広間は、勇将を迎えて、羯鼓(かっこ)と鐃※(にょうはち)の楽が絶えなかった。内房には、時ならぬ春が来、ターミナは、不思議な運命が与えた恩寵に、花の中での花のように愛らしく、美しく見えた。一箇月後、ルスタムは、再びラクーシュに騎って山を踰(こ)え、イランに還った。スーラーブが生れた時、ターミナと父とは、異常な宝を、嫉妬深い二十年イランと干戈(かんか)を交えているツランの覇者、サアンガンの絶対主権者であるアフラシャブの眼から隠すに必死になった。星のような一人の男児が、誰の血を嗣いでいるか知ったら、アフラシャブは片時も生しては置くまい。また一人の子もないと聞いたルスタムが、自分の懐から幼児を引離すまいものでもない。 父と娘とは、心を合せ、策を尽して、スーラーブを匿(かく)まった。無邪気な唇が、どんな大事を洩すまいものでもないと、彼にさえ、父の「チ」の字も云わなかったことをスーラーブは始めて知ったのであった。        十 話し終ると、ターミナは、殆ど祈願するように云った。「それで卿がルスタム殿の息であるのを知っているのは、この世の中で、私と、卿と、二人になりました。どうぞ今迄の心遣いと、尊い血とを無駄にはして下さるな。サアンガンの王の王を作ろうという希いは、サアンガンの女が持つことを許された最大の祈りです」 彼女は、深い吐息をつき、後の坐褥にもたれかかった。「ルスタム殿を父に持ったとわかったら、卿も母を恨んではくれまい。――あれほどの夫を持ちながら、永い一生にただ一度、会ったばかりで死ななければならない私が、卿をミスラの子だと云う心持は……嘘や偽りではありません」 スーラーブは、期待した朗かな喜びの代りに、何とも知れぬ圧迫を心に感じるのに驚いた。彼は当途のない亢奮に苦しみ、馬に騎って、野外に出た。 スーラーブは、暗くなる迄春の浅い山峡を駆けめぐり、細い月をいただいて、黒い城門をくぐった。 翌朝、スーラーブはだんだん深い水底からでも浮上って来るような、憂鬱な気持で目を醒した。彼は、枕に頭をつけたまま瞳を動かして四辺を見た。馬毛織の懸布や、研いだ武器が、いつも見なれた場所に、見なれた姿でかかっているのが、妙に物足りなく寥しい心持を起させる。 疲れていたので、幾時間かぐっすり眠ったのに、目が覚めて見ると何処にも熟睡で心を癒やされた爽やかさがなく、依然として、昨日と今日とは、きっちり、動きのとれないかたさで心持の上に結びついている。 僅の間でも眠れたのが却て不思議な心持さえする。珍らしく、スーラーブは、目を醒してから後暫く床の上に横わったまま、まじまじと朝日の輝く室内の有様を眺め、やがて真面目すぎる眼つきで褥(しとね)を離れた。侍僕が、気勢をききつけ水と盤とを持って入って来た。 手と顔とを浄め食事に向うと、シャラフシャーが入って来た。彼はスーラーブと向い合う敷物の上に坐り、種々な業務の打合せをする今朝、スーラーブは、まるで心が内に捕われた、無頓着な風で、シャラフシャーが述べる馬の毛刈りについて聞いた。彼は、もうそろそろ馬の毛刈りをせずばなるまいが、もう二三度霰(あられ)がすぎてからがよかろうと云うのである。スーラーブは、結局、どちらでもよいのだという風に、「よしよし、それで結構だ」と云った。そして、ろくに手をつけない食膳を押しやって立ち上った。「今日は、少し用事があるから、皆には卿の指図でよろしくやって貰おう」 彼は、数間内房に行く方角に向って歩き出した。が急に気をかえたらしく、シャラフシャーを顧た。「面倒でも、卿に今日は内房に行って貰おう。シャラフシャー、私は疲れているので御挨拶に出ませんと、伝えてくれ」 シャラフシャーが立ち去ると、スーラーブは、居心地よい落付き場所をさがすように、ぶらぶら室じゅうを歩き廻った。 けれども、いつ外から挙げられまいものでもない彼方此方の垂幕が気分を落付かせない。遂に、彼は、城の望楼を思いついた。あそこなら誰も、丁寧な無遠慮で自分を妨げる者はないだろう。        十一 稍々疲れを感じるほど、長い、薄暗い、螺旋形の石階を登り切るとスーラーブは、一時に眩ゆい日光の海と、流れる空気との中に出た。ここは、まるで別世界のようだ。音もせず、空に近く明るい清水のような空気に包まれて、狭い観台の上では、人間が、天に投げられた一つの羽虫のように、小さく、澄んで感じられる。スーラーブは、始めて吸うべき息のある処に来たように、心から、深い息を吸い込んだ。そして、胸墻(きょうしょう)の下に取つけた石の、浅い腰架に腰を卸した。下を瞰下(みおろ)すと、遙に小さく、城外の村落を貫き流れる小川や、散らばった粘土の家の平屋根、蟻のように動く人間や驢馬(ろば)の列が見える小川の辺りでは、女が洗いものでもしているのか、芽立った柳の下で、燦く水の光が、スーラーブの瞳に迄届いた。遠く前面を見渡すと、緩やかな起伏を持った丘陵は、水気ゆたかな春先の灌木に覆われ薄臙脂(えんじ)色に見える。その先の古い森林は、威厳のある黝緑(ゆうりょく)色の大旗を拡げ立てたように。最後に、雪をいただいた国境の山々が、日光を反射し、気高い、透明な、天に向っての飾りもののように、澄んだ青空に聳え立っている。 肱をつき濁りない自然に包まれているうちに、スーラーブの心は、白雲のように、音もなく、国境の山並の彼方に流れた。そして茫漠としたイランの空の上で、降り場所を求めるように円を描いて舞う。けれども、彼の心を、地上から呼びかけて招いてくれるものもなければ、落付き場所を教えてくれてもない。スーラーブは、父の名を知らなかった時、それさえ解ったら、どんなにさっぱり、心強いことだろうと思い込んでいた。ところが、事実は、正反対になった。まるで想像も、しなかった辛さが心に生れた。それは、偉大な戦士としての父に対する限りない尊敬、愛、帰服の心とともに、ここに切りはなされてぽっつり生きなければならない自身を、ひどく詰らなく、無意味に感じるという苦しさなのである。スーラーブは、昨日迄の生活を、無意義極まるものとして、考えずにはいられなかった。若し、何かの見どころがあれば、それは、ただ今後の生れ更った自分の生活に何かの足しになるものであったという理由にすぎない。彼の若々しい熱意や、憧憬に燃る心は、あのルスタムを父と知ってから、再び、元の眠ったような生活には思っただけでも堪えなかった。どうかして、ルスタムの子にふさわしい生き方がしたい。父と倶にあれば、たとい自分が末の末の数ならない一人の息子であったとしても、前途には、もっと希望と、男に生れた甲斐のある約束があった筈だ。 現在のままの境遇では、父に会うという一事さえ、容易に果せない。小さいツラン属領の城番で、獣しかいない山野に囲まれ、生活を変えるとしても、何の根拠によることが出来よう。スーラーブは、死んだ祖父や母に対し、始めて、不満と、絶望的な皮肉とを感じた。祖父が、習慣に背いて、自分を父の手に渡してくれなかった理由、下心が、賤しく考えられた。スーラーブは、眉を顰(ひそ)めて、目の下に見える、堅固な城の外廓と、二重の城門とを瞰下した。それ等は皆、祖父の代に、改築されたものであった。祖父は、あの厚い城壁と、要心のよい二重の扉で自分をこの中にとり籠めて置く積りだったのだろうか、または、小さな威厳という玩具を与えて、自分を一生、サアンガンの嬰児にして置こうとしたのだろうか。        十二 母が遂に、父の名を明かしたのは勿論、それを聞いたら自分が落付き、現在の生活に一層満足するだろうと思ってのことであるのは、スーラーブによくわかった。父との短い、思い出の深いだろう恋を考えれば、その心持にも同情されるものがある。 然し、気の毒なことに、彼はもう自分が、彼女一人の、スーラーブではなくなったことを感じた。寧ろ女らしい姑息さで、自分を動く、大きな運命の輪から引きはなしてくれたことで、却って、自分の本性というものからは遠い、無縁なものであることが明らかになったような形さえある。 考えれば、祖父は勿論、母も、彼等自身の満足の方便として、自分を自由にした。ちっとも、自分の希いは思ってくれなかった。最も近いそれらのひとびとから、政治的に何ぞというと掣肘(せいちゅう)を加えずに置かない冷血な、蒼白いアフラシャブに至る迄、今のスーラーブには一人として、心の通じ合う、誠を以て尽し合う者はなく感じられた。 ただ、ルスタム、父。その繞りだけは生命がある。真心と自分を牽く光明とがある。けれども、何か異常なことが起り、周囲の絆を断ち切って、真直自分がイランに飛んで行けない限り、その退屈な、石塊のような、生活を続けなければならないのだ。 スーラーブは、太い、激しい息をつき、今、ここから、そのまま双手を翼に変えて、翔び立ってしまいたく思った。時が来る迄に、無意味な日々が、いつとはなく自分の筋骨を鈍らせ、衰えさせてしまいはしまいかと考えると、ぞっとする懼れが心を噛んだ。 万一、機会が来る迄に、もう老年に達したに違いない、父が死ぬことがありはしまいかと思うと、スーラーブは、無言に、辷り、移ろう日かげを掴み、引止めて置きたいほど不安になった。 スーラーブは、広い空の裡に、ただ自分と父だけの命を感じた。見えない、ずっと遠い彼方の端に父はいる。此方の端に自分がいる。父の熾な、雄々しい気勢を自分は夜明けに何より速く暁の光を感じる雲のように感じている。けれども、父の方は、自分がどんな感激に震え、待望に息をのんでいるか、まるで知らない。声もかけ得ず、面も合せ得ないうちに、老た太陽は、堂々と、天地を紅に染めて地の下にかくれてしまうかもしれない。雲には、明日という、大きな約束がある。けれども自分には何があるだろう? 月ならば、沈んだ日の照り返しで、あんなに耀くことも出来る。自分は、奇妙な因縁で、地に堕ちた月だ。未だ成り出でない星ともいえる。日の余光は強くあっても、自分には、大らかに空を運行して、その輝きを受くるだけの、あの宇宙を充す不思議な生き方の力の分け前を得ていないのだ。 冷やかな石の欄に頭をつけていたスーラーブは、ふと、何処かに人の跫音をききつけた。 彼は、思わずきっと頭をもたげ、耳を※(そばだ)てた。四辺のひっそりとした静けさを踏みしめるように、石階を登って来る。スーラーブの、藪かげに獣の気勢をききつけた敏い耳は、それがフェルトの長靴を穿いた足で、丹念に一段、一段と登る一方が軽く跛(びっこ)を引くのまできき分けた。 歩き癖で、来たのは誰だかわかると、スーラーブは、腰架の上で居ずまいをなおし、左手の掌で徐に自分の顔を撫でた。        十三 スーラーブは、何気なく頬杖をついて、空を眺めていた。窮屈な階段を昇り切ったシャラフシャーの暗い眼にぱっと漲る日光とともに、彼の薄茶色の寛衣を纏った肩つきが、くっきり、遠景の大空を画(くぎ)って写った。 シャラフシャーは、上体をのばすようにソリ反り、凝っとスーラーブの後姿を見、大股な、暖か味のある足どりで近づいた。「我君!」 スーラーブは、始めて気がついたように、シャラフシャーを振向いた。そして幾分、不機嫌に、「何だ!」と云った。が彼は、妙な子供らしい間の悪い感情から、真直にシャラフシャーの眼を見られず、さも大切なものが浮いてでもいるように、空の方を横目で見た。「昨日申上た宝石売が、はや、参りました」 スーラーブは、この親切な、父代りに自分を育てた老人がほんとに云いたいのは、宝石売のことなどではないのを知っていた。彼は「どうなされた、さあ、気を引立てて」と、囁かれるのを感じた。宝石売などは、自分を滅入らせる一方の独居から引出そうとする口実にすぎない。スーラーブはその心をなつかしく感じた。彼は、「行って会おう」と云わずにはいられなかった。「先刻食物を与え、休息させてございます」「…………」 スーラーブは立上った。そして何処となく乾いた樫の葉と獣皮との匂が、混って漂っているようなシャラフシャーの身辺近く向き変る拍子に、彼は、自分の心にかかっている総てのことを、あらいざらい云ってしまいたいような、突然の慾望に駆られた。 スーラーブは、我知らず、シャラフシャーの、厚い、稍前屈みになった肩に手をかけた。が、何とも云えない羞しさが、彼の口を緘(とざ)した。自分とひとの耳に聞える声に出して「ルスタム」と云うことすら、容易なことではなく感じられる。階段の降り口に来ると、スーラーブはそのまま黙ってシャラフシャーの肩から手を離し、先に立って段々を降りた。 宝石売の男は、広間の隅に、脚を組んで坐っていた。向い側の垂帳が動き、スーラーブと他の三四人の姿が見えると、彼は、慌しく坐りなおし、額と両掌とを床にすりつけて跪拝した。スーラーブは、拡げられた敷物の上に坐った。坐が定まると、宝石売の男は、黒い釣り上った胡桃形の眼を素ばしこく動かし、スーラーブの顔色を窺(うかが)い窺い、仰々しく感謝の辞を述べた。そして、卑下したり、自分から褒めあげたりしながら、荷嚢から、幾個(いくつ)もの小袋を引出し、特別に調えた天鵞絨(ビロード)の布の上に、種々の宝石を並べた。それを引きながら、スーラーブの前に近く躪(にじ)りより、下から顔を覗き、身振をし、宝石の麗わしさ、珍らしさなどを説明する。 スーラーブは、寧ろうるさく、速口の説明をきき流した。けれども、流石(さすが)に、宝石の美しさは、彼を歓ばせた。 小柄な黒い眼の男が、器用にちょいと拇指と人さし指との先につまんで、日光に透し、キラキラと燦めかせる紅玉や緑玉石、大粒な黄玉などは、囲りの建物の粗い石の柱、重い迫持と対照し、一層華やかに生命をもち、愛らしく見える。母のためにと思って、スーラーブが蕃紅花(サフラン)色の水晶に目をつけると、商人は、いそいで別な袋の底をさぐり、特別丁寧に、羊の毛でくるんだ一粒の玉を出した。        十四 彼は、ありもしない塵を熱心に宝石の面からふき払うと、それをスーラーブの眼の前につきつけた。「如何でございます。これこそ、若い、勲(いさおし)のお高い君様になくてはならない、という飾りでございましょう。御覧なさいませ。ただ一色に光るだけなら、間抜けな奴隷女の頸飾でもする芸です。ほら」 商人はうまく光線を受けて、虫の卵ほどの宝石をきらりと、燐光のような焔色に閃かせた。そのまま一寸光の受け工合を更えると、玉は、六月の野のように、燃る肉色や濃淡の緑、溶けるような空色、深い碧をたたえて色種々に煌(かがや)く。「この一粒が、百の、紅玉、緑石に当ります。イランの王は、この素晴らしい尊さの代りに、失礼ながら私共の嚢の中では屑同様な縞瑪瑙(しまめのう)に、胎み羊二十匹、お払いなされました」 彼は、狡く瞼も引下げ、悪口でスーラーブに阿諛(あゆ)した。シャラフシャーに、珍らしい蛋白石を手渡していたスーラーブは、その言葉で、俄に心が眼醒めたようになった。彼は思わず男の顔を見なおし、唾をのんだ。そして調子を変えまいと思って、却って不自然な、低い物懶(ものう)そうな声で、「卿は、イランから来たのか?」と訊ねた。「仰(おおせ)の通りでございます。宝石の珍しいものを集め、君様の御意を得ますには、どうしてもイランから東へ、参らねばなりませんので……」 スーラーブは、わざと、見る気もない土耳古玉を一つ手にとりあげて弄った。「イランに変ったことはなかったか?」 商人は、ちらりと、スーラーブと、スーラーブを見るシャラフシャーとを偸見(ぬすみみ)た。そして、さも滑稽に堪えないという表情を誇張して笑った。「いや、もう変ったというほどを越した話の種がございます。丁度、私がイランの王廷に止まっておりました時のこと。御承知の通りあのカイ・カーウスと申す方は、神の秤目が狂って御誕生ですから……」何処かの、彼より馬鹿な男が、宴の席で、鳥のように天を翔べたらさぞ愉快だろう。イランほどの大国の王は、誰より先に、蒼天を飛行する術を極めるべきだと云った煽てに乗った。そして、七日七夜、智慧をしぼった揚句、或る朝、臣に命じて、二十尋(ひろ)もある槍を四本、最も美味な羊の肉四塊、四羽の鷲より翼の勁い鷹を用意させた。「それで何をしたと思召します?」 宝石売は、膝を叩いて、独りでハッハッハッと大笑した。「城の広場で、えらい騒ぎが致しますから、私も珍らしいことなら見落すまいと駆けつけますと、王自身が、世にも奇妙な乗物に乗っておられます」 カイ・カーウスは、玉座の四隅に矛先に肉塊を貫いたその途方もなく長い槍を突立て、もう少しで肉に届く、然し、永久に二尺だけ足りないという鎖で四羽の鷹を、一羽ずつその下に繋いだ。「お小姓が、酒と果物の皿を捧げますと、カーウスは、手をあげて合図をされました。いや、あの時の光景は、観た者でなければ想いもつきますまい。何しろ四方は山のようなんだからでございます。内房の女達まで覗いている。鷹匠は声を嗄して、四羽の鷹を励ましております。王は、得意な裡にも恐ろしいと見え、しっかり、頸の長い酒の瓶を握りしめておられる。気勇立つ鷹を押えていた男が、呼吸を計って手を放すと、昇った、昇った。王は、七日七夜の思惑通り、ふわり、ふわりと、揺れながら、玉座ごと地面の上から舞い立たれました」        十五「若しそれぎり雲の中に消えてしまえたら、イランの王の腰骨も、あれほど痛い目には会わなんだでございましょうに……」 男は、わざと、溜息をついて、言葉を切った。飛んだと思ったのもほんの瞬きをする間で、十尋も地面を離れないうちに、四隅で吊上げられた玉座は、ひどい有様に揺れ始めた。王は、上で滑ってこの槍につかまったかと思うと、彼方の槍の根元に転げかかり、七転八倒するうちに何時まで経っても届かない餌物に気を苛立てた鷹は、槍の矛先を狙うのをやめて、さんざんばらばらにあがき出した。下では群臣が、拳を振りあげ、声を限りにあれよあれよと叫んでいる。するうちに、一羽の鷹がどよめきの裡でも特に鋭い鷹匠の懸声をききつけたのか、さっと翼を張って下方に向った。拍子に、ぐらりと玉座が傾いたかと見る間に、王は籠からこぼれる棗(なつめ)のように、脆くも足を空ざまにして墜落した。「その機勢(はずみ)に、王は何の積りか、無花果(いちじく)の実を一つ、確かり握って来られました。汁で穢れた掌を開いて潰れた実をとってあげようとしても、片手で挫けた腰を押え押え、いっかな握りしめた指を緩めようとされず、困ったことでございました。『あの鷹匠奴! あのしぶとい奴等め!』と息も絶え絶えに罵られましたが、流石に愧じてでしょう。十日ばかりは、お気に入りの婦人でさえ、お傍へ許されませんでした。先刻申上た縞瑪瑙も、実は、煎薬の匂いで噎(む)せそうな臥床の中でおもとめなされたような訳で。――一事は万事と申します」 商人は、意味ありげに、声を潜めた。「イランは、ルスタムという柱で持っております」スーラーブは自分の内の考えに領せられ、笑いもしなければ、見えすいた追従を悦ぶ気振もなかった。彼は暫く黙ったまま、先刻から手に持ったぎりでいた土耳古玉を目的もなく指の間で廻すと、思い切った風で、「卿はルスタムに会ったか?」と問ねた。彼の顔には、目に止まらないほどの赧らみと、真面目な、厳しい表情とが浮んだ。「今度は、残念ながら会いませんでした。ルスタムは、一昨年、マザンデランで白魔を退治してから、ずっと、シスタンの居城にいるとききました」「もう余程の年配か?」「六十度目の誕生は、間違いなく祝われましたでしょう」「…………」 商人は、流眄でスーラーブの黙っている顔を見た。熱心な集注した様子が、彼を愕かした。商人は、心私(ひそ)かに、自分の煽てが利いたと想像し、ツランのアフラシャブへよい注進の種が出来たのにほほ笑んだ。そして、一層誠らしく、丁寧に、「お若い、雄々しい君様の御将来には、大国の王座が約束されているようなものでございます」 傍に、髭を撫で、注意深く話を聞いていたシャラフシャーが、じろりと、鋭く商人を視た。「卿は、宝石だけを売っておればよろしい」 そしてスーラーブに向い、ゆっくり、一言ずつ切って、「我君、どの玉をお買いなされますか?」 スーラーブは通一遍の興味で、隋円形の紫水晶と、六七顆(つぶ)の円長石とを選んだ。「何と云ったか、その種々に光る石は、美しいことも美しいが少し高価すぎる。考えて置くから、まあ悠くり滞留するがよかろう」 スーラーブは、立ったまま、代として渡す羊について一言二言つけ加え、広間を去った。        十六 これ迄になく、スーラーブは、半月余も宝石売を城に止めて置いた。その間彼は、朝の遠乗をすますと買おうとする宝石の撰択をきっかけにしては、一日の幾時間かを、宝石売とシャラフシャーと三人で過した。そして、好い機会があると逃さず、イランのこと、ルスタムのこと、或はその他の国々の様子を訊く。 彼が、宝石より何より、それ等の話を聴きたいばかりに、宝石売を止めて置くことは、明かであった。然し理由は、シャラフシャーにさえ説明しない。もとより、スーラーブは、悪賢い旅商人などの云うことを、何処まで信用してよいものか、弁(わきま)えるべきことは知っていた。けれども、意外の事実を知った時に来合せた。とにかく城内の誰より、イランに就ては詳しい話を聞かされると、彼は、どうしてもそれに無頓着ではいられなくなった。スーラーブは、父に対して当途のない感動に燃えていた思慕の心が手がかりを得、実際の纏った力となろうとして頻りにうごめき出したのを感じた。 このままではいられない、何とかしよう。どうしたらよいか、という執着の強い、絶え間ない囁きが、彼をつけ廻し出した。彼の不安に拘わらず、夜は眠れないほどの苦しさにかかわらず、唯一の考えは、彼の全精力を集中させようとする。スーラーブの心も、体も、魔もののような「どうしたらよいか」という渦の囲りに、離れようとしても離れられない不可抗の力で吸よせられた。彼は、日常の出来事に、溌溂とした注意を分離し、滞りなくそれらを処理する愉快さなどは、まるで失った。事務は皆、シャラフシャーに任せきってしまった。そして、愈々(いよいよ)寡黙に、愈々人ぎらいになった。宛然(さながら)、傷ついた獣が洞にかくれて傷を舐め癒すように、彼は、自分の心とさし向いになり、何かの道を見出そうとする。 僅か十六七日の間に、スーラーブの相貌はひどく変った。突つめた老けた、心を労す表情が口元から去らなくなった。憂鬱に近い挙止の間々に時とすると、燻(くす)ぶる焔のように激しい閃きがちらつくことがある。 宝石売が去ったのは、丁度四月の下旬であった。ツランの天候の一番定まりない時である。朝のうち薔薇色に照って、石畳や柱の縁を清げに耀かす日光は、午すぎると、俄にさっとかげって来る。ざわざわ、ざわざわ、不安に西北風が灌木や樹々の梢を戦がせると見るうちに、空は、一面煤色雲で覆われる。広場で荷つけをしているものなどが、急な天候の変化に愕きあわてる暇もない。凄い稲妻が総毛だった天地に閃いたかと思うと、劇しい霙が、寒く横なぐりに降って来る。 それも一時で、やや和いだ風に乗り、のこりの雫をふり撒きながら黒雲が彼方の山巓に、軽く小さく去ると、後には、洗いあげたようにすがすがしい夕陽が濡燦めき、小鳥の囀る自然を、ぱっと楽しく照りつける。ぞろぞろと雨やどりの軒下から出て来て、再び仕事を取り上げる男達の談笑の声、驢馬が鼻あらしを吹き、身ぶるいをする度に鳴る鈴や、カタカタいう馬具の音などが入り混り、如何にも生活のよろこびを以て聞える。夕暮は、柔かい銀鼠色に、天地が溶けるかと思われる。夜はまた、それにも増して美しい。スーラーブは、近頃、幾晩か、霊気のような夜に浸て更した。 今晩も、歩廊の拱から丁度斜め上に、北極星、大熊星が、キラキラ不思議な天の眼のように瞬いている。月はない。夜の闇は、高く、広く、無限に拡がってうす青い星や黄がかったおびただしい星は、穏密な一種の律をもって互に明滅するようだ。        十七 灯かげのない拱に佇んでいるうちに、スーラーブは、心が星にでも届くように、澄み、確かになって来るのを覚えた。 天から来る微かな光に照されていると、瞳がなれて、一様な闇の裡でも、木の葉の戦ぎまで見えて来るそのように、スーラーブは、混沌とした動揺の中から、次第に、自分の心持、結局の行方をはっきり覚り、考え出した。快い冷気の中に、今夜は特別な魔力が籠っているのか。彼は、今迄自分が苦しみ悩んでいたのは、ただ、とうに解っていたことを、自分の心持だけで判らないものとしていたことに原因しているのを知った。自分が、衷心で何をしたがり、何を望んでいるか、それは自分に解っている。それを遂げるに方法は一つしかないのも実は、ちゃんとわかっていたのだ。妙な臆病、未経験な若い不決断で、後のものが自分に定った運命だと思いきれなかったばかりに、苦しさは限りなく、止めどのない混乱が来たのだ。スーラーブは、幾日ぶりかで、自分の精神が、明らかな力で働き出したのを感じた。どうでも、自分は父に会わなければ、満足しない。どんな方法でも採ろうと思いながら、唯一の道であるイランに行くこと、その行方が侵入という形をとるという考えに怯じて、躊躇していたことが、今、彼に、ありありと解ったのであった。 彼は、自分を憫笑するような心持と、切って落された幕の彼方から出て来たものを、猶確かり見定めようとする心持とで、愈々考えを集注した。「兵力を以て、イランに侵入するということは、いずれ、何時かは、アフラシャブに強制されてでもしなければならないことではないか。怯懦の癖に、野心は捨てることを知らない彼は、これ迄の失敗にこりて、ルスタムのいる間こそ、手を控えていよう。一旦、イランの守りがなくなったら、自分の命が明日に迫っていても、そのままに済さないのはわかっている。その時自分は、否応なしに、戟(ほこ)をとらせられる――然し、父のない後のイランが自分にとって何だ。アフラシャブの道具になって、命をすて、イランを侵略する位なら今、父上のおられる時、自分から動きかけ、機先を制して、その父に会いたさで燃える心を、戦士として、最もよく役立てるのは、当然すぎるほど当然ではないか」 スーラーブは、解(ほ)ぐれ、展開して来る考えに乗移られたように、我知らず、暗い歩廊を歩き始めた。「ツランから侵入したといえば、王は、必ずルスタムを出動させるだろう。……よいことがある、自分は、ツランの主将として、イランの主将に一騎打を挑む。父上が出て来られる。この機会を、先人の知らなかった方法で利用しよう。自分は、その人をルスタムと確め、いつかの頸飾りを見せさえすればよい。恐ろしい戦場は、忽ち、歓呼の声に満ちた、親子の対面の場所となるのだ」 スーラーブの目前の薄暗がりの中には、その場の光景が、明るく、活々と一つの小さい絵のように浮み上った。思いがけない頸飾りを手にとり、愕き、歓び、言葉を失って、自分を見るだろう父。その頭を被う兜の形から、瞳の色まで、ついそこに見えているようだ。自分は何として、その悦び、感謝を表すか。その時こそ、命は父のものだ。力を合わせ、アフラシャブを逆襲するか、或は王に価しないカーウスをイランから追うか、父の一言に従おう。彼としては、恥なき息子として、父ルスタムに受け入れられるだけでもう充分の歓びなのであった。        十八 感動? やや空想的すぎる火花が納まると、スーラーブは、一層頭を引きしめ、心を据えて、種々、重大な実際問題を考究し始めた。事実、幾千かの人間を動かし、小さくてもサアンガン一領土を賭してかかると思えば容易でない。然し、計画は、充分肥立って孵(かえ)った梟の子のように、夜の間にどんどん育った。 黎明が重い薄明りを歩廊に漂わせ始める前に、スーラーブの心の中では、ちゃんと、アフラシャブに対する策から、凡そ出発の時日に関する予定まで出来た。スーラーブは賢い軍師のようにうまいことを思いついた。それは手におえないアフラシャブを、逆に利用すること――自分ではなるたけ痛い目を見まいとするアフラシャブは、サアンガンが立ったときけば、きっと、それを足場にして、利得を得ようとするだろう。イランを、仮にも攻撃すると信じさせるに、サアンガンの軍勢ばかりでは余り貧弱だ。アフラシャブは、サアンガンの兵に混ぜて自分の勢力をイランに送って置けば、何かの時ためになると思うに違いない。ツランの力を分裂させるためにも、万一父の必要によって、その勢いを転用するにも都合がよい。加勢を、無頓着に受けてやろう、という考えである。互に連絡を持ち、敷衍されて行くうちに、策略の全体は、益々確かりした、大丈夫なものに思われて来た。 スーラーブは、自分の決意と、着想に深く満足した。すっかり夜が明け放れたらしようと思うことを順序よく心に配置し、彼は、誰にも見られず、自分の寝所に戻った。 ほんの僅かの時間であったが、スーラーブは、近頃になく、四肢を踏みのばし、前後を忘れて熟睡した。 彼は、目を醒した時、思わず寝過したのではあるまいかと愕いて飛び起きたほど、ぐっすり睡った。スーラーブが、元気で、心に何か燃えているもののあるのは、手洗水を運んで来た侍僕の目にさえ止まった。別に愛想よい言葉をかけたのでもないが、彼の体の周囲には、何処となく生新な威力に満ちたところがあり、傍で見てさえ、知らず知らず信頼を覚える特殊な雰囲気が醸されているのだ。 スーラーブは自身も、まるで蘇えった心の拠りどころと、前途の希望とを感じた。心を引緊め智を働かせて仕遂ぐべき大事があると、却って心が落付き、静かな勇気が内に満ちる。 彼は、昨日までの苛立たしげな様子は忘れ、悠くり手を浄め、軽い食事を摂った。そして、朝の挨拶に来たシャラフシャーに、機嫌よく言葉をかけて、一緒に、望楼にのぼった。そこで、彼は始めて自分の計画を打ちあけた。ルスタムを父と知ったことさえ、その朝初めて、明かしたのであった。 最後まで彼の言葉を黙って聞いていたシャラフシャーは、極要点を捕えた二三の質問を出した。スーラーブは、自信を以てそれに答えた。 半時も沈思した後、シャラフシャーは、徐に賛成の意味を表した。彼は「それはよい。やるべしです」という風にではなくやや沈み年長者らしい情をこめて、「そこ迄御決心なされたのなら、遣らずにはすみますまい。貴方の血が眼を覚ましたのだ。シャラフシャーがこの上希う唯一つのことは、どうぞはやらず、一人の命も無益にはお使いなされぬように、と云うばかりです」と云ったのであった。彼の言葉つきはどうであろうとも、彼が尽してくれる真心、賢い忠言に変りある筈はない。昼前中二人は、望楼にいた。スーラーブは、アフラシャブの所へ送るべき密使のこと、至急調るべき糧食、武器などのことに就て、相談した。        十九 急なことであるにも拘らず、準備は、何も彼も、都合よく運んだ。殊に、スーラーブが、私かに最も不安に感じていた糧食の問題が、案外好結果に解決されると、彼は自分の計画全部に対する吉兆のように喜んだ。 アフラシャブの許に至急送られた密使も、二十日後、スーラーブの、満足する返答を得て来た。アフラシャブは、スーラーブのこの度の企てと、彼自身が主将として行きたいという希望は、快よく容れる。援軍としては、一万の兵と信用ある五人の副将とを送ろう。但し、若しイランで勝利を得たら、後は、アフラシャブの命を待って事を進めること。万一失敗すれば、サアンガン領は没収する。というのである。 スーラーブは、内心微笑を浮べて、勝手なアフラシャブの条件を聴取した。彼方から寄来すというフーマン、バーマンなどという戦士は、ツランでは第一流の戦士である。彼等が数年前アフラシャブの軍に加わってイランに行き、親くルスタムの顔を見知っているということが、ひどくスーラーブをよろこばせた。(このことは、スーラーブの満足であっても、彼等にとって冷汗の出る記憶が伴っていた。十年昔、アフラシャブは三度目の決戦をする覚悟で、大軍を率いてイランを攻めた。アフラシャブは前回が失敗であったにも拘らず虚を衝くつもりで、一年も経ず、また出かけたのであった。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:136 KB

担当:undef