法窓夜話
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著者名:穂積陳重 

法窓夜話穂積陳重 一 パピニアーヌス、罪案を草せず 士の最も重んずるところは節義である。その立つやこれに仗(よ)り、その動くやこれに基づき、その進むやこれに嚮(むか)う。節義の存するところ、水火を踏んで辞せず、節義の欠くるところ、王侯の威も屈する能わず、猗頓(いとん)の富も誘うべからずして、甫(はじ)めてもって士と称するに足るのである。学者は実に士中の士である。未発(みはつ)の真理を説いて一世の知識を誘導するものは学者である。学理の蘊奥(うんのう)を講じて、天下の人材を養成するものは学者である。堂々たる正論、政治家に施政の方針を示し、諤々(がくがく)たる※議(とうぎ)、万衆に処世の大道を教うるは、皆これ学者の任務ではないか。学者をもって自ら任ずる者は、学理のためには一命を抛(なげう)つの覚悟なくして、何をもってこの大任に堪えられよう。学者の眼中、学理あって利害なし。区々たる地位、片々たる財産、学理の前には何するものぞ。学理の存するところは即ち節義の存するところである。 ローマの昔、カラカラ皇帝故(ゆえ)なくして弟ゲータを殺し、直ちに当時の大法律家パピニアーヌス(Papinianus)を召して、命じて曰く、朕、今ゲータに死を賜えり。汝宜しくその理由を案出して罪案を起草すべし。と、声色共に※(はげ)しく、迅雷(じんらい)まさに来らんとして風雲大いに動くの概があった。これを聴いたパピニアーヌスは儼然(げんぜん)として容(かたち)を正した。既に無辜(むこ)の人を殺してなお足れりとせず、更にこれに罪悪を誣(し)いんとす。これ実に第二の謀殺を行うもの。殺親罪を弁護するはこれを犯すより難し。陛下もし臣の筆をこの大悪に涜(けが)さしめんと欲し給わば、須(すべか)らくまず臣に死を賜わるべし。と答え終って、神色自若。満廷の群臣色を喪(うしな)い汗を握る暇もなく、皇帝震怒、万雷一時に激発した。咄(とつ)、汝腐儒(ふじゅ)。朕汝が望を許さん。暴君の一令、秋霜烈日の如し。白刃一閃、絶世の高士身首その処を異にした。 パピニアーヌスは実にローマ法律家の巨擘(きょはく)であった。テオドシウス帝の「引用法」(レキス・キタチオニス)にも、パピニアーヌス、パウルス、ウルピアーヌス、ガーイウス、モデスチーヌスの五大法律家の学説は法律の効力ありと定め、一問題起るごとに、その多数説に依ってこれを決し、もし疑義あるか、学説同数に分れる時は、パピニアーヌスの説に従うべしと定めたのを見ても、当時の法曹中彼が占めたる卓然たる地歩を知ることが出来よう。しかしながら、吾人が彼を尊崇する所以(ゆえん)は、独り学識の上にのみ存するのではない。その毅然たる節義あって甫(はじ)めて吾人の尊敬に値するのである。碩学の人は求め得べし、しかれども兼ぬるに高節をもってする人は決して獲易(えやす)くはない。西に、正義を踏んで恐れず、学理のためには身首処を異にするを辞せざりしパピニアーヌスあり。東に、筆を燕(えん)王成祖(せいそ)の前に抛(なげう)って、「死せば即ち死せんのみ、詔や草すべからず」と絶叫したる明朝の碩儒方孝孺(ほうこうじゅ)がある。いささかもって吾人の意を強くするに足るのである。吾人はキュージャスとともに「法律の保護神」「万世の法律教師」なる讃辞をこの大法律家の前に捧げたいと思う。ギボンは「ローマ帝国衰亡史」に左の如く書いた。“That it was easier to commit than to justify a parricide” was the glorious reply of Papinian, who did not hesitate between the loss of life and that of honour. Such intrepid virtue, which had escaped pure and unsullied from the intrigues of courts, the habits of business, and the arts of his profession, reflects more lustre on the memory of Papinian, than all his great employment, his numerous writings, and the superior reputation as a lawyer, which he has preserved through every age of the Roman jurisprudence.(Gibbon's the Decline and Fall of the Roman Empire.)[#改ページ] 二 ハネフィヤ、職に就かず 回々(フィフィ)教徒(きょうと)の法律家に四派がある。ハネフィヤ派、マリク派、シャフェイ派、ハンバル派といって、各々その学祖の名を派名に戴いている。学祖四大家、いずれも皆名ある学者であったが、就中(なかんずく)ハネフィヤの学識は古今に卓絶し、人皆称して「神授の才」といった。学敵シャフェイをして「彼の学識は学んで及ぶべきにあらず」と嘆ぜしめ、マリクをして「彼が一度木の柱を金の柱なりと言ったとしたならば、彼は容易(たやす)くその柱の黄金なることを論証する智弁を有している」と驚かしめたのを見ても、如何に彼が一世を風靡(ふうび)したかを知られるのである。 ハネフィヤは、このいわゆる「神授の才」を挙げて法学研究に捧げようとの大志を立て、決して利禄名声のためにその志を移さなかった。時にクフファーの太守フーベーラは、氏の令名を聞いて判官の職を与えんとしたが、どうしても応じない。聘(へい)を厚くし辞を卑くして招くこと再三、なお固辞して受けない。太守もここに至って大いに怒り、誓ってかの腐儒をして我命に屈従せしむべしというので、ハネフィヤを捕えて市に出し、笞(むちう)たしむること日ごとに十杖、もって十日に及んだが、なお固く執(と)って動かなかったので、さすがの太守も呆れ果てて、終にこれを放免してしまった。 この後(の)ち数年にして、同一の運命は再び氏を襲うて来た。マースールのカリフ[#岩波文庫の注は、「マースールのカリフ」を著者の書き間違いとし、「アッバス朝二代のカリフがマンスール」であるとする]は、氏をバグダッドに召して、その説を傾聴し、これに擬するに判官の栄職をもってした。しかも石にあらざる氏の素志は、決して転(ころ)ばすことは出来なかった。性急なる王は、忽ち怒を発して、氏を獄に投じたので、この絶世の法律家は、遂に貴重なる一命を囹圄(れいご)の中に殞(おと)してしまった。 ローマ法族の法神パピニアーヌスは誣妄(ふぼう)の詔を草せずして節に死し、回々法族の法神ハネフィヤは栄職を却(しりぞ)けて一死その志を貫いた。学者一度(ひとたび)志を立てては、軒冕(けんべん)誘(いざな)う能わず、鼎※(ていかく)脅(おびや)かす能わざるものがなくてはならぬ。匹夫(ひっぷ)もその志は奪うべからず、いわんや法律家をや。[#改ページ] 三 神聖なる王璽 国王の璽(じ)は重要なる君意を公証するものであるから、これを尚蔵する者の責任の大なることは言を待たぬところである。故に御璽(ぎょじ)を保管する内大臣に相当する官職は、いずれの国においても至高の要職となっており、英国においては掌璽(しょうじ)大臣に“Keeper of the King's Conscience”「国王の良心の守護者」の称がある位であるから、いやしくも君主が違憲の詔書、勅書などを発せんとする場合には、これを諫止(かんし)すべき職責を有するものである。フランスにおいて、掌璽大臣に関する次の如き二つの美談がある。 フランスのシャール七世、或時殺人罪を犯した一寵臣(ちょうしん)の死刑を特赦しようとして、掌璽大臣モールヴィーエー(Morvilliers)を召して、その勅赦状に王璽を※(きん)せしめようとした。モールヴィーエーはその赦免を不法なりとして、これを肯(がえ)んぜなかったが、王は怒って、「王璽は朕の物である」と言って、これを大臣の手より奪って親(みずか)ら勅赦状に※したる後(の)ち、これをモールヴィーエーに返された。ところがモールヴィーエーはこれを受けず、儼然として次の如く奏してその職を辞した。「陛下、この王璽は臣に二度の至大なる光栄を与えました。その第一回は臣がかつてこれを陛下より受けた時であります。その第二回は臣が今これを陛下より受けざる時であります。」 ルイ十四世が嬖臣(へいしん)たる一貴族の重罪を特赦しようとした時、掌璽大臣ヴォアザン(Voisin)は言葉を尽して諫争(かんそう)したが、王はどうしても聴き容れず、強いて大璽を持ち来らしめて、手ずからこれを赦書に※して大臣に返された。ヴォアザンは声色共に激しく「陛下、この大璽は既に汚れております。臣は汚れたる大璽の寄託を受けることは出来ません」と言い放ち、卓上の大璽を突き戻して断然辞職の決意を示した。王は「頑固な男だ」と言いながら、赦免の勅書を火中に投ぜられたが、ヴォアザンはこれを見て、その色を和(やわら)げ、奏して言いけるよう、「陛下、火は諸(もろもろ)の穢(けがれ)を清めると申します。大璽も再び清潔になりましたから、臣は再びこれを尚蔵いたしますでございましょう。」 ヴォアザンの如きは真にその君を堯舜(ぎょうしゅん)たらしめる者というべきである。[#改ページ] 四 この父にしてこの子あり 和気清麻呂(わけのきよまろ)の第五子参議和気真綱(まつな)は、資性忠直敦厚(とんこう)の人であったが、或時法隆寺の僧善※(ぜんがい)なる者が少納言登美真人直名(とみまひとのじきな)の犯罪を訴え、官はこれを受理して審判を開くこととなった。しかるに同僚中に直名に左袒(さたん)する者があって、かえって「闘訟律」に依って許容違法の罪を訴えた。そこで官は先ず明法(みょうぼう)博士らに命じて、許容違法の罪の有無を考断せしめたが、博士らは少納言の権威を畏避(いひ)して、正当なる答申をすることが出来なかった。真綱はこれを憤慨して、「塵(ちり)起るの路は行人(こうじん)目を掩(おお)う、枉法(おうほう)の場、孤直(こちょく)何の益かあらん、職を去りて早く冥々(めいめい)に入るに加(し)かず」と言うて、固く山門を閉じ、病なくして卒したということである。この事は「続日本後紀(しょくにほんこうき)」の巻十六に見えておる。[#改ページ] 五 ディオクレス、自己の法に死す ディオクレス(Diocles)はシラキュースの立法者であるが、当時民会ではしばしば闘争殺傷などの事があったので、彼は兵器を携えて民会に臨むことを厳禁し、これに違(たが)う者は死刑に処すべしとの法を立てた。或時ディオクレスは敵軍が国境に押寄せて来たという知らせを聞いて、剣を執って起ち、防禦軍を指揮せんがために戦場に赴(おもむ)こうとしたが、偶々(たまたま)途中で民会において内乱を起さんことを議しているという報知を得たので、直ちに引返し、民会に赴いてこれを鎮撫しようとした。 ディオクレス民会に到り、まさに会衆に向って発言しようとした時、叛民の一人は突然起立して、「見よディオクレスは剣を帯びて民会に臨んだ。彼は己れの作った法律を破った」と叫んだ。ディオクレスはこれを聴いて事急なるがために想わず法禁を破ったことを覚り、一言の内乱鎮撫に及ぶことなく、「誠に然り。ディオクレスは自ら作った法を行うに躊躇する者に非ず」と叫んで、直ちに剣を胸に貫いてその場に斃(たお)れた。 この至誠殉法の一語は、民会に諭(さと)す百万言よりも彼らの叛意を翻すに殊効(しゅこう)があったろうと思う。 ツリヤ人の立法者カロンダス(Charondas)についても、殆んどこれと同一の伝説があるが、この二つの話の間に関係があるや否やについては未だ聞いたことがない。[#改ページ] 六 ソクラテス、最後の教訓 大聖ソクラテスの与えた最後の教訓は、実に国法の威厳に関するものであった。 今を去ること凡(およ)そ二千三百有余年の昔、彼が単衣跣足(たんいせんそく)の姿で、当時世界の文化の中心と称せられておったギリシアのアテネの市中、群衆雑鬧(ざっとう)の各処に現れて、その独特会話法に依って自負心の強い市民を教訓指導し、就中(なかんずく)よく青年輩の指導教訓に力を致したことは、甚だ顕著なる事実である。もとよりソクラテス自らは決して一世の指導者をもって敢えて自任していた訳ではない。ただ人々と共に真善の何ものなるかを知ろうと欲したのであった。しかしながら、彼の真意を了解しない大多数の俗衆は、かえってソクラテスのために、各自の自負心を傷つけられたものと考え、これがために彼に対して怨(うらみ)を抱(いだ)くこととなったが、終に或機会をもって、彼は新宗教を輸入唱導して国教を顛覆し、且つまた詭弁を弄して青年の思想を惑乱する者である、という事を訴えることとなった。 かくてメレートスやアヌトスなどの詐言(さげん)のために、とやかくといろいろ瞞着(まんちゃく)された結果、種々の裁判の末に、我大聖ソクラテスは遂に死刑を宣告せられることとなった。 さて、いよいよ死刑が執行されるという日の前日になって、ソクラテスの門弟の一人なるクリトーンはソクラテスに面会して、この不正なる刑罰を免れるために脱獄を勧めようと思って、早朝その獄舎に訪ねて来た。来て見たところが、ソクラテスは、さも心地(ここち)よさそうに安眠しておったのである。クリトーンは、師がその死期の刻々に近づきつつあるにもかかわらず、かく平然自若たるを見て如何にも感嘆の情を禁(とど)めることが出来なかったが、やがてソクラテスの眠より覚めるのを俟(ま)って、脱獄を勧めた。 クリトーンは、裁判の不正なること、刑罰の不当なることを説いて、師がかく生命を保ち得られる際に、自ら好んで身を死地に投じてこれを放棄せられるのは、むしろ悪事を敢えてなさんとせられるものであって、今甘んじてこの刑に就くのは、これ即ち敵人の奸計に党(くみ)するものであるといわねばならぬと述べ、またこの際、妻や子供らを見捨てるのは、師が平素から、子供を教養することの出来ない者は子を設けてはならぬと言われておった垂訓にも悖(もと)るものであり、またこの容易にして且つ危険のない脱獄を試みないのは、畢竟(ひっきょう)、善にして勇なる所業をなさないものであるから、平生徳義の貴ぶべきことを唱導せられた師としては、甚だ不似合なことで、自分は、師のためにも、はたまたその友たるクリトーン自身のためにも、慚愧(ざんき)の念に堪えざる次第であると説き、なおその辞をつづけて、サア、どうぞこの処を能(よ)く能(よ)く御考え下さいまし。否もう御熟考の時は已(すで)に過ぎ去っております。――私どもは決心せねばなりませぬ。――今の場合、私どものなすべきことはただ一つだけ、――しかも、それを今夜中に決行せねばなりませぬ。――もしこの機会を外したなら、それは、とても取り返しが附きませぬ。――サア、先生、ソクラテス先生、どうぞ私の勧告をお聴き入れ下さいまし。情には脆(もろ)く、心は激し易いクリトーンが、かくも熱誠を籠めて、その恩師に対(むか)って脱獄を勧めたのであった。ソクラテスは、その間、心静に、師を思う情の切なるこの門弟子(もんていし)の熱心なる勧誘の言葉に耳を傾けておったが、やがて徐(おもむろ)に口を開いて答えていうには、親愛なるクリトーンよ、汝の熱心は、もしそれが正しいものならば、その価値は実に量(はか)るべからざるものである。が、しかし、それがもし不正なものであるならば、汝の熱心の大なるに随って、その危険もまた甚だ大なるものではあるまいか。それ故、余は先ず、汝の余に勧告する脱獄という事が、果して正しい事であるか、あるいはまた不正の事であるかを考える必要がある。余はこれまで、何時(いつ)も熟考の上に、自分でこれが最善だと思った道理以外のものには、何物にも従わなかったものであるが、それを今このような運命が俄(にわか)に我が身に振りかかって来たからと言って、自分のこれまで主張してきた道理を、今更投げ棄ててしまうことは決して出来るものではない。否、かえって余に取っては、これらの道理は恒(つね)に同一不易のものであるから、余の従前自ら主張し、尊重しておったことは、今もなお余の同じく主張し尊重するものであるのだ。と述べ、なお言葉をついで、ただ生活するのみが貴いのではない。善良なる生活を営むのが貴いのである。他人が己れに危害を加えたからとて、我れもまた他人に危害を加えるなら、それは、悪をもって悪に報いるもので、決して正義とは言えない。して見れば、今汝がいうように、たといアテネの市民らが、余を不当に罰しようとも、我れは決してこれを報いるに害悪をもってすることは出来ないのである。と言い、また、もし余がこの牢屋を脱走せんとする際、法律および国家が来って、余にソクラテスよ、汝は何をなさんとして居るか。汝が今脱獄を試みようとするのは、即ち汝がその力の及ぶ限り法律および全国家を破壊しようとするものではないか。凡そその国家の法律の裁判に何らの威力もなく、また私人がこれを侮蔑し、蹂躙するような国家が、しかもなおよく国家として存立し、滅亡を免れることが出来るものであると汝は考えるかと問うたならば、クリトーンよ、我らはこれに対して何と答うべきであるか。と言い、なおこれに次いで、国家および法律を擬人して問を設け、国法の重んずべきこと、また一私人の判断をもってこれに違背するは、即ち国家の基礎を覆さんとするものであるということを論じ、更にクリトーンに向って、我らはこれに答えて、「しかれども国家は已(すで)に不正なる裁判をなして余を害したり」と答うべきか。と言い、クリトーンが、勿論です。と言ったのに対して、しからば、もし法律が、ソクラテスよ、これ果して我らと汝と契約したところのものであるか。汝との契約は、如何なる裁判といえども国家が一度これを宣告した以上は、必ずこれに服従すべしとの事ではなかったかと答えたならば如何に。と言い、更にまた、たとい悪(あ)しき法律にても、誤れる裁判にても、これを改めざる以上は、これに違反するは、徳義上不正である所以(ゆえん)の理を説破し、なお進んで、凡そアテネの法律は、いやしくもアテネ人にして、これに対して不満を抱く者あらば、その妻子眷族(けんぞく)を伴うて、どこへなりともその意に任せて立去ることを許しているではないか。今、汝はアテネ市の政治法律を熟知しながら、なおこの地に留っているのは、即ち国法に服従を約したものではないか。かかる黙契をなしながら、一たびその国法の適用が、自己の不利益となったからといって、直ちにこれを破ろうとするのは、そもそも不正の企ではあるまいか。汝は深くこのアテネ市を愛するがために、これまでこの土地を距(はな)れたこととては、ただ一度イストモスの名高き競技を見るためにアテネ市を去ったのと、戦争のために他国へ出征したこととの外には、国境の外へは一足も踏み出したことはなく、かの跛者や盲人の如き不具者よりもなお他国へ赴いたことが少なかったのではないか。かくの如きは、これ即ちアテネ市の法律との契約に満足しておったことを、明らかに立証するものではあるまいか。且つまたこの黙契たるや、決して他より圧制せられたり、欺かれたり、または急遽の間に結んだものではないのであって、もし汝がこの国法を嫌い、あるいはこの契約を不正と思うたならば、このアテネ市を去るためには、既に七十年の長年月があったではないか。それにもかかわらず、今更国法を破ろうとするのは、これ即ち当初の黙契に背戻(はいれい)するものではないか。と言うて、縷々(るる)自己の所信を述べ、故にかかる契約を無視すれば、正義を如何にせん、天下後世の識者の嗤笑(ししょう)を如何にせん。もしクリトーンの勧言に従って脱獄するようなことがあれば、これ即ち悪例を後進者に遺すものであって、かえって彼は青年の思想を惑乱する者であるという誹毀者らの偽訴の真事であることを自ら進んで表白し、証明するようなものではないかといい、更に、正義を忘れて子を思うことなかれ。正義を後にして生命を先にすることなかれ。正義を軽んじて何事をも重んずることなかれ。と説き、滔々(とうとう)数千言を費して、丁寧親切にクリトーンに対(むか)って、正義の重んずべきこと、法律の破るべからざることを語り、よりてもって脱獄の非を教え諭したので、さすがのクリトーンも終(つい)に辞(ことば)なくして、この大聖の清説に服してしまったのである。[#改ページ] 七 大聖の義務心 古今の大哲人ソクラテスが、毒杯を仰いで、従容(しょうよう)死に就かんとした時、多数の友人門弟らは、絶えずその側に侍して、師の臨終を悲しみながらも、またその人格の偉大なるに驚嘆していた。 ソクラテスは鴆毒(ちんどく)を嚥(の)み了(おわ)った後(の)ち、暫時の間は、彼方此方(あちらこちら)と室内を歩みながら、平常の如くに、門弟子らと種々の物語をして、あたかも死の影の瞬々に蔽い懸って来つつあるのを知らないようであったが、毒が次第にその効を現わして、脚部が次第に重くなって冷え始め、感覚を失うようになって来た時、彼は先(さ)きに親切なる一獄卒から、すべて鴆毒の働き方は、先ず足の爪先より次第に身体の上部へ向って進むものであるということを聞いておったので、自分で自分の身体に度々触れて見ては、その無感覚の進行の有様を感じておった。そうして、それが心臓に及ぶと死ぬるのであると言うておったが、やがてそれが股まで進んで来た時、急に今まで面に被っていた布を披(ひら)いて、クリトーンを顧みて次の如く語った。クリトーンよ、余はアスクレーピオスから鶏を借りている。この負債を弁済することを忘れてはならぬ。(プラトーンの「ファイドーン」編第六十六章)嗚呼(ああ)これ実に大聖ソクラテスの最後の一言であって、こは実に「その義務を果せ」という実践訓を示したものである。プラトーンの「ファイドーン」編の末尾に記していわく、「彼は実に古今を通じて至善、至賢、至正の人なり」と。[#改ページ] 八 副島種臣伯と大逆罪 明治二年、新律編修局を刑法官(今の司法省)内に設け、水本保太郎(成美)、長野文炳、鶴田弥太郎(皓)、村田虎之助(保)に新律取調を命ぜられた。かくて委員諸氏は大宝律令、唐(とう)律、明(みん)律、清(しん)律などを参酌して立案し、同年八、九月の頃に至ってその草案は出来上ったが、当時の参議副島種臣(そえじまたねおみ)氏はこれを閲読して、草案「賊盗律」中に謀反(むほん)、大逆の条(くだり)あるを発見して、忽ち慨然大喝し、「本邦の如き、国体万国に卓越し、皇統連綿として古来かつて社稷(しゃしょく)を覬覦(きゆ)したる者なき国においては、かくの如き不祥の条規は全然不必要である。速に削除せよ」と命じた。依って委員はこれに関する条規を悉(ことごと)く草案より除き去り、同年十二月[#岩波文庫の注は「翌三年十二月の誤り」とする]に「新律綱領」と題して頒布せられた。昔ギリシアのアテネにおいて、何人もその父母を殺すが如き大罪を犯すことはあるまじき事であるというので、親殺の罪を設けなかったのも、けだし同じ趣旨に出たものであろう(Manby v. Scot, Smith's Leading Cases.)。またヘロドーツスの歴史によれば、古代のペルシアにおいては、真正の親を殺す者のあるはずがないとし、偶(たまた)ま親を殺す者があっても、その者は私生児であるとしたということである。 明治六年五月に頒布せられた「改定律例」にも、やはり謀反、大逆の罪に関する箇条(かじょう)は載せられなかった。その後(の)ち、仏国人ボアソナード氏が大木司法卿の命を受けて立案した刑法草案は、明治十年十月に脱稿したが、同年十二月、元老院内に刑法草案審査局を置いて、伊藤博文氏を総裁とし、審査委員を任命して、その草案を審議せしめることとなった。 しかるに、その草案中、第二編第一章に、天皇の身体に対する罪、第二章に、内乱に関する罪の箇条があったので、その存否は委員中の重大問題となったが、竟(つい)にその処置に付き委員より政府に上申して決裁を乞うに至った。しかるに、翌十一年二月二十七日、伊藤総裁は審査局に出頭し、内閣より上奏を経て、皇室に対する罪および内乱に関する罪は、これを存置することに決定したる旨を口達せられた。依って明治十三年発布の刑法以来、皇室に対する罪および国事犯に関する条規を刑典中に見るに至った。[#改ページ] 九 大津事件 法の粗密に関する利害は一概には断言し難いものであるが、刑法の如き、特に正文に拠(よ)るに非ざれば処断することを許さぬ法律は、たとい殆んど起り得べからざる事柄でも、事の極めて重大なるものは、その規定を設けて置かねばならぬということは、大津事件および幸徳事件の発生に依(よ)って明らかである。皇室に対する罪は、前に話した如く、副島伯の議論に依って一度削除されてしまったが、その後ち、伊藤公の議に依って規定を設けられたために、幸徳らの大逆事件も、拠って処断すべき法文があったのである。しかるに、同じく伊藤公の議によって刑法中にその規定を設けられなかった事について、最大困難に逢着したことが起った。それは即ち有名な大津事件である。 明治二十四年五月十一日、滋賀県の巡査津田三蔵なる者が、当時我邦に御来遊中なる露国皇太子殿下(今帝陛下)を大津町において要撃し、その佩剣(はいけん)をもって頭部に創(きず)を負わせ奉った。この報が一たび伝わるや、挙国震駭(しんがい)し、殊に政府においては、今にも露国は問罪の師を起すであろうとまで心配し、その善後策について苦心を重ねたのであった。しかるに当時の刑法においては、謀殺未遂は死刑に一等または二等を減ずることになっていたので、津田三蔵は、重くとも無期徒刑以上に処することは出来なんだのであった。しかも、政府は心配の余り、三蔵を極刑に処するに非ざればロシヤに対して謝するの道なきものと考え、廟議(びょうぎ)をもって、我皇室に対する罪をもってロシヤの皇室に対する罪にも適用すべきものなりと定めて、三蔵の非行に擬するに刑法百十六条の「天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」とある法文をもってし、遂に検事総長に命じてこれを起訴せしめた。 当時は、憲法が実施せられて僅に一年の時である。憲法には司法権の独立が保障してあり、また明文をもって臣民の権利を保障して、「日本臣民ハ法律ニ依ルニ非ズシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ」と規定してある。また刑法第二条には「法律ニ正条ナキ者ハ何等ノ所為ト雖モ之ヲ罰スルコトヲ得ズ」との明文があるのである。これにも係(かかわ)らず、検事総長は、当局の命令によって、我皇室に対する罪をもって三蔵の犯行に擬せんとした。しかのみならず、時の司法大臣および内務大臣は、自ら大津に出張し、裁判官に面会して親しく説諭を加えんとした。しかれども、幸いにして当時の大審院長児島惟謙氏が、身命と地位を賭して行政官の威圧を防禦し、裁判官の多数もまたその職務に忠実にして、神聖なる法文の曲解を聴(ゆる)すことなく、常人律をもってこれを論じ、三蔵の行為を謀殺未遂として無期徒刑に処し、我憲法史上に汚点を残すことを免かれたのであった。 当時我ら法科大学の同僚も意見を具して当局に上申し、皇室に対する罪をもって三蔵の犯罪に擬するの非を論じた。しかるに当局および老政治家らの意見は、三蔵を死に処して露国に謝するに非ざれば、国難忽ちに来らん、国家ありての後の法律なり、煦々(くく)たる法文に拘泥して国家の重きを忘るるは学究の迂論(うろん)なり、宜しく法律を活用して帝国を危急の時に救うべしというにあった。副島種臣伯の如きは、さすがは学者であったから、余らの論を聴き、天皇三后皇太子云々を外国の皇族に当つるの不当なることを知り、また前に草案中の外国に関する箇条は悉(ことごと)く削除したることも知りおられたるをもって、慨嘆して「法律もし三蔵を殺すこと能わずんば種臣彼を殺さん」と喚(よば)わられたとのことである。我輩は当時これを聞いて、「伯の熱誠は同情に値するものである。三蔵を殺すの罪は、憲法を殺し、刑法を殺すの罪よりは軽い」と言うたことがある。 そもそも、大津事件においてかくの如き大困難を生じたのは、これ全く立法者の不用意に起因するものと言わねばならぬ。はじめ、明治十年に旧刑法の草案成り、元老院内に刑法草案審査局が設けられた時、第一に問題となった事は、実に草案総則第四条以下外国に関係する規定と、第二編第一章天皇の身体に対する罪との存否であった。委員会はこれを予決問題としてその意見を政府に具申したところ、十一年二月二十七日に至り、総裁伊藤博文氏は、外国人に関する条規は総(す)べてこれを削除すること、また皇室に対する罪はこれを設くることを上奏を経て決定したる旨を宣告した。当時に在っては、あたかも「新律綱領」制定の当時副島伯が皇室に対する罪を不必要と考えた如くに、外国の主権者または君家に対する犯行が起るべしとは、夢にも想い到ることはなかったことであろう。しかるに、幸徳事件はこの時に皇室に対する罪が定められてあったために拠(よ)るべき条文があり、大津事件はこの時に外国に関する条文が総べて削られてあったので、拠るべき特別の条規がなく、そのために外国の皇室に危害を加えたる場合といえども、常人に対する律をもってこれに擬して、無期徒刑に処するの外はなかったのである。即ち明治十三年発布の刑法には皇室に対する罪が設けられてあったために、幸徳事件にはこれに適用すべき特別法文があり、外国に関する事が悉(ことごと)く削られてあったために、大津事件にはこれに適用すべき特別法文がなかったのである。[#改ページ] 一〇 副島種臣伯と量刑の範囲 副島伯は漢儒であって、時々極端なる説を唱えられたから、世間には往々(おうおう)伯を頑固なる守旧家の如くに思っている人もあるようなれども、我輩の伝聞し、または自ら伯に接して知るところに依れば、伯は識見極めて高く、一面においては守旧思想を持しておられたにもかかわらず、他の一面においては進歩思想を持して、旧新共にこれを極端に現された人のように思う。前に掲げた大津事件の際に、「法律もし三蔵を殺す能わずんば、種臣これを殺さん」と喚(よば)わられた如きは、一方より観れば、極端なる旧思想の如く思われるけれども、また他方よりこれを観れば、伯はよく律の精神を解しておられた人であるから、暗に普通殺人律論の正当なるを認められたものとも解釈せられる。 明治三年、「新律綱領」の編纂があった時、当時の委員は皆漢学者であったので、主として明(みん)律、清(しん)律などを基礎として立案したのであるが、伯は夙(つと)に泰西の法律に着目し、箕作麟祥(みつくりりんしょう)氏に命じてフランスの刑法法典を翻訳せしめ、これを編輯局に持参して、支那律に倣(なら)って一の罪に対して一定不動の刑を定むるの不当なる所以を論弁し、量刑に軽重長短の範囲を設くべき旨を主張せられたという事である。伯のこの議論は、当時極端なる急進説と認められたので、明治六年発布の「改定律例」にも採用せられなかったが、爾来(じらい)十年を経たる後、明治十三年発布の刑法に至って、漸(ようや)く採用せられたのである。[#改ページ] 一一 ドラコーの血法 ドラコーはアテネの上古に酷法の名高き「血法」を制定した人である。この法律は、実に紀元前六二一年、彼が執政官の職に在ったときに制定せられたものである。ただしバニャトー(Bagnato)らの説によれば、右の酷法は、決してドラコーの創意に出たものではなく、その内容は、アテネ古来の慣習法としてドラコー以前に存在し、彼はただこれを成文法としてなしたるに過ぎないということである。 この説の当否はとにかく、ドラコーの法は実に驚くべき酷法であって、「血法」とは名づけ得て妙と言わざるを得ない。そしてその最も惨酷極まる点は、実に死刑の濫用にあるのである。叛逆殺人などの重罪を罰するに死刑をもってするさえ、現今では兎角(とかく)の論もあるのに、ドラコーの法では、野に林檎(りんご)の一二顆(か)を盗み、畑に野菜の二三株を抜いた者までも、死刑に処する。否、これなどは血法中ではまだ寛大な箇条というべきであって、怠惰なる者を罰するに死刑をもってするに至っては、実に思い切った酷法と謂わなければならぬ。なおその上に、刑罰を科せられるものは、人類のみに止まらずして、無生物にまでも及び、石に打たれ木に圧されて死んだ者があった時には、その木石に刑を加えるのであった。けだしこれは、民をして殺人の重罪たる事を知らしめる主意であったのであろう。 ドラコーの法は、実に酷烈かくの如きものであって、一時満天下を戦慄せしめたが、苛酷がその度を過ぎていたために、かえって永くは行われなかったということである。 或人ドラコーに向って、「何故に犯罪は殆ど皆死をもって罰するのであるか」と尋ねた。ドラコーは答えて、「軽罪があたかも死刑に相当するのである。重罪に対しては余は適当の刑罰なきに苦しむのである」と言ったとか。たといバニャトーの説の如く、この酷法の内容は以前より存していたにもせよ、立法者の刑罰主義もまた与(あずか)って力あったことは疑うべくもない。 プルタークの英雄伝によれば、「血法」なる名称はデマデス(Demades)の評語に起源している。曰く、ドラコーは墨をもってその法を記したるものにあらず、血をもってせしなりと。[#改ページ] 一二 ディオニシウス、懸柱の法 昔シラキュース王ディオニシウス(Dionysius)は、桀紂(けっちゅう)にも比すべき暴君であったが、彼は盛んに峻法を設けて人民を苦しめた。一つの法令を発するごとに、これを一片の板に書き付け、数十尺の竿頭(かんとう)高く掲げて、これをもって公布と号した。人民は竿頭を仰ぎ見て、また何か我々を苦しめる法律が出来たなと想像するのみで、その内容の何たるを知ることが出来ず、丁度頭の上で烈しい雷鳴が鳴るように思うて、怖れ戦(おのの)くの外はなかったと言い伝えている。 立法者にして殊更に文章の荘重典雅を衒(てら)わんがために、好んで難文を草し奇語を用うる者はディオニシウスの徒である。民法編纂の当時、起草委員より編纂の方針に関する案を法典調査会に提出して議決を経たる綱領中に、「文章用語は意義の正確を欠かざる以上なるべく平易にして通俗なるべきこと」とあるは、特にこの点に注意したるためであった。[#改ページ] 一三 踊貴履賤 斉の景公、或時太夫晏子(あんし)に向って言われるには、「卿の住宅は大分町中であるによって、物価の高低などにも定めて通じていることであろう」。晏子対(こた)えて「仰(おおせ)の通りで御座ります。近来は踊(よう)の価が貴(たか)く、履(り)の価が賤(やす)くなりましたように存じまする」と申上げた。これは、履とは普通人の履物のこと、踊とは※刑(げっけい)を受けた者の用いる履物のことで、今で言ったら義足とでもいうべきところである。当時景公酷刑を用いること繁きに過ぎたので、晏子は物価の話によそえてこれを諷したのであった。景公もそれと悟って、その後は刑を省いたという。 唐律疏議表に、この事を称賛して「仁人之言其利薄哉」と言っておる。[#改ページ] 一四 商鞅、移木の信 秦が六国を滅して天下を一統したのは、韓非子(かんぴし)・商鞅(しょうおう)・李斯(りし)らの英傑が刑名法術の政策を用いたからであって、その二世にして天下を失うに至ったのは、書を焚き儒を坑(あな)にしたに基づくことは、人の知るところであるが、有名なる「商鞅、移木の信」の逸話は、この法刑万能主義を表現するものとして頗(すこぶ)る興味あるものである。 商鞅が秦の孝公に仕えて相となったとき、その新政の第一着手として、先ず長さ三丈の木を市の南門に立てて、もしこの木を北門に移す者あらば十金を与うべしという令を出した。しかし、人民はその何の意たるを了解せず、怪しみ疑うて敢えてこれを移そうとする者がなかった。依って更に令を下して、能(よ)く移す者には五十金を与うべしと告示した。この時一人の物好きな者があって、ともかくも遣(や)ってみようという考で、この木を北門に移した。商鞅は直ちに告示の通り五十金をこの実行者に与えて、もって令の偽りでないことを明らかにした。ここにおいて、世人皆驚いて、商君の法は信賞必罰、従うべし違うべからずという感を深くし、十年の内に、令すれば必ず行われ、禁ずれば必ず止むに至り、新法は着々実施せられて、秦国富強の端を開いたということである。 けだし商鞅は、この移木令の一挙をもって、民心をその法刑主義に帰依(きえ)せしめたものであって、その機智感ずべきものがないではないが、かくの如き児戯をもって法令を弄(もてあそ)ぶは、吾人の取らざるところであって、これに依って真に信を天下に得らるべきものとは思われぬのである。そもそも法の威力の真の根拠は、その社会的価値であって、「信賞必罰」というが如きは、単にその威力を確実ならしめる所以に過ぎぬ。木を北門に移すべしという如き、民がその何の故たるを知らぬ命令、即ち何らの社会的価値なき法律を設けて、信賞必罰をもってその実行を期するという態度は、誠に刑名法術者流の根本的誤謬であって、彼ら自身「法を造るの弊」を歎ずるの失敗に陥ったのみならず、この法律万能主義のために、かえって永く東洋における法律思想の発達を阻害する因をなしたのは、歎ずべく、また鑑(かんが)みるべき事である。[#改ページ] 一五 側面立法(Oblique legislation) 土佐の藩儒野中兼山(のなかけんざん)は宋儒を尊崇して同藩に宋学を起した人であるが、専(もっぱ)ら実行を主とした学者であって、立言の儒者ではなかった。したがってその著作は多く伝わっていないが、その治績の後世に遺(のこ)ったものは少なくない。即ち仏堂を毀(こぼ)ち、学校を興(おこ)し、瘠土(せきど)を開拓して膏腴(こうゆ)の地となし、暗礁を除いて航路を開き、農兵を置き、薬草を植え、蜜蜂を飼い、蛤蜊(こうり)を養殖するなど、鋭意新政を行って四民を裨益したことは頗(すこぶ)る多かった。 しかしながら、彼は資性剛毅の人であったこととて、新政を行うにも甚だ峻厳を極めて、いやしくも命に違う者は毫末(ごうまつ)も容赦するところなく、厳刑重罰をもって正面よりこれを抑圧したのであった。即ち「撃レ非如レ鷹」と言われたほどであったから、ために竟(つい)に禍を買って、その終を全うすることの出来なかったのは痛惜すべきことである。 しかし、彼にもまた巧妙穏和なる間接立法の例がないではない。当時土佐の民俗には一般に火葬が行われておったが、兼山はその儒教主義からしてしばしばこれを禁止したのである。けれども、多年の積習は到底一朝にして改めることが出来なかった。ここにおいて彼はその方針を一変して、強いて火葬を禁ぜぬこととし、かえって罪人の死屍は必ずこれを火葬とすべき旨を令した。これよりして、火葬の事実は次第に少なくなり、遂にこの風習はその跡を絶つに至ったということである。兼山の採ったこの方法は即ち敵本主義の側面立法であって、民心を刺激すること寡(すく)なくしてしかも易俗移風の効多きものである。もし兼山にして、常に今少しくその度量を寛大にし、人情の機微を察することかくの如くあったならば、その功績はけだしますます多大となって、貶黜(へんちゅつ)の奇禍を招くが如き事情には立至らなかったことであろう。[#改ページ] 一六 竹内柳右衛門の新法、賭博を撲滅す 伊予の西条領に賭博が大いに流行して、厳重なる禁令も何の効力を見なかったことがあった。時に竹内柳右衛門という郡(こおり)奉行があって、大いにその撲滅に苦心し、種々工夫の末、新令を発して、全く賭博の禁を解き、ただ負けた者から訴え出た時には、相手方を呼出して対審の上、賭博をなした証迹明白な場合には、被告より原告に対して贏(か)ち得た金銭を残らず返戻させるという掟にした。こういう事になって見ると、賭博をして勝ったところで一向得(とく)が行かず、かえって汚名を世上に晒(さら)す結果となるので、さしも盛んであった袁彦道(えんげんどう)の流行も、次第に衰えて、民皆その業を励むに至った。 この竹内柳右衛門の新法は、中々奇抜な工夫で、その人の才幹の程も推測られることではあるが、深く考えてみれば、この新法の如きは根本的に誤れる悪立法といわねばならぬ。法律は固(もと)より道徳法その物とは異なるけれども、立法者は片時も道徳を度外視してはならない。竹内の新法は、同意の上にて悪事を倶(とも)にしながら、己れが不利な時には、直ちに相手方を訴えて損失を免れようとする如き不徳を人民に教うるものであって、善良の風俗に反すること賭博その物よりも甚だしいのである。これけだし結果にのみ重きを措(お)き過ぎて、手段の如何(いかん)を顧みなかった過失であって、古(いにし)えの立法家のしばしば陥ったところである。立法は須(すべか)らく堂々たるべし。竹内の新法の如き小刀細工は、将来の立法者の心して避くべきところであろう。[#改ページ] 一七 喫煙禁止法 煙草の伝来した年代については、諸書に記しているところ互に異同があって、これを明確に知ることは出来ないようであるが、「当代記」の慶長十三年十月の条に、此二三ヶ年以前より、たばこと云もの、南蛮船に来朝して、日本の上下専レ之、諸病為レ此平愈と云々。と見えているから、この頃には喫煙の風は既に広く上下に行われて、当時のはやり物となっていたようである。かの林羅山(はやしらざん)の如きも、既に煙癖があったと見えて、その文集の中に佗波古(たばこ)、希施婁(きせる)に関する文章が載っており、またその「莨※文(ろうとうぶん)」の中に、拙者(せっしゃ)性癖有レ時吸レ之、若而人(じゃくじじん)欲レ停レ之未レ能、聊(いささか)因循至レ今、唯暫(しばらく)代レ酒当レ茶而已歟(のみか)。と記している。 しかるに、幕府は間もなく喫煙をもって無益の費(つい)えとなし、失火の原因となり、煙草の植附けは田畑を荒すなど種々の弊害あるものとして、これを禁止するに至った。「慶長年録」慶長十四年の条に、七月、タバコ法度(はっと)之事、弥(いよいよ)被レ禁ト云々、火事其外ツイエアル故也。と見えているが、これが恐らくは喫烟禁止令の初めであろう。 この後(の)ち慶長十七年八月に至って、幕府は、一季居、耶蘇教、負傷者、屠牛(とぎゅう)に関する禁令とともに、煙草に関する禁令をも天下に頒った。一、たばこ吸事被二禁断一訖(きんだんせられおわんぬ)、然上は、商賣之者迄も、於レ有二見付輩一者(は)、双方之家財を可レ被レ下、若(もし)又於二路次一就二見付一者、たばこ並売主を其在所に押置可二言上一、則付たる馬荷物以下、改出すものに可レ被レ下事。 附、於二何地一も、たばこ不レ可レ作事。右之趣御領内江[#「江」はポイント小さく右寄せ]急度(きっと)可レ被二相触一候、此旨被二仰出一者也、仍如レ件(よってくだんのごとし)。   慶長十七年八月六日 この後ちも幕府はしばしば喫煙および煙草耕作の禁令を出したことは、拙著「五人組制度」の中にも記して置いた通りである。しかし、この類(たぐい)の禁令はとかくに行われにくいものと見えて、その頃の落首に、 きかぬもの、たばこ法度に銭法度、      玉のみこゑにけんたくのいしや。[#改ページ] 一八 禁煙令違犯者の処分 慶長年中に、幕府が喫煙禁止令を出したとき、諸国の大名もまたそれぞれその領内に対して禁煙令を出したようであるが、就中(なかんずく)薩摩の島津氏の如きは、その違犯者に対して随分厳罰を科したのであった。一体、薩摩は当時のいわゆる南蛮人が夙(はや)くから渡来した地方であるから、煙草の如きも比較的早くよりこの地方に伝播(でんぱ)して、喫煙の風は余程広く行われ、その弊害も少なくはなかったものと見えて、かの文之和尚の「南浦文集」の中にも、風俗の頽敗と喫煙の風とに関した次の如き詩を載せている。風俗常憂頽敗※ 人人左衽拍二其肩一逸居飽食坐終日 飲二此無名野草煙一 それで、島津氏も厳令を下して喫煙を禁止しようとしたのである。「崎陽古今物語」という書に次の如き記事が見えている。竜伯様(島津義久)惟新様(島津義弘)至二御代に一、日本国中、天下よりたばこ御禁制に被二仰渡一、御国許(くにもと)之儀は、弥(いよいよ)稠敷(きびしく)被二仰渡一候由候処に、令(せしめ)二違背一密々呑申者共有レ之、後には相知、皆死罪に為レ被二仰渡一由候云々。この如く違犯者を死刑に処するまでに厳重に禁制したのであったけれども、その効果は遂に見えなかったのである。同書、前掲の文の続きに、執着深き者共は、やにをほそき竹きせるに詰(つめ)、紙帳を釣り、其内にて密々呑為申者共も、方々為有レ之由候。と有るのを見ても、因襲既に久しきがため、この風の牢乎(ろうこ)として抜き難かったことを知ることが出来よう。かくて、後年に至って薩摩煙草はかえって天下の名産たるに至ったのである。[#改ページ] 一九 松平信綱の象刑(しょうけい) 支那(シナ)においては、古代絵画に依って刑法を公示し、これに依って文字を知らない朦昧(もうまい)の人民に法禁を知らしめる方法が行われた。「舜典」に「象(かたどるに)以二典刑一」といい、呉氏がこれを解釈して、「刑を用うるところの象を図して示し、智愚をして皆知らしむ」といい、また「晋(しん)刑法志」に「五帝象を画いて民禁を知る」とあるなどは、皆刑罰の絵を宮門の双闕(そうけつ)その他の場所に掲げて人民を警(いまし)めたことを指すもので、これに依っても古聖王が法を朦昧の人民に布き、これを法治生活に導くのに如何に苦心したかを想像することが出来る。 我国において、絵画に依って法禁を公示したのは、彼の智慧伊豆と称せられた松平伊豆守信綱である。将軍家綱の時、明暦三年、江戸に未曾有の大火があって、死者の数が十万八千余人の多きに達したので、火災後、火の元取締の法は一般に非常に厳重になった。「信綱記」に依れば、伊豆守の家中においても、番所にて「たばこ」を呑むことを堅く禁じたが、或日土蔵番の者が窃(ひそか)に鮑殻(ほうかく)に火を入れて来て「たばこ」を呑み、番所の畳を少し焦した事がある。伊豆守は目付の者の訴に依ってこれを知り、大いに怒って直ちにその者を斬罪(ざんざい)に申付けたが、その後ち思案して、吉利支丹(キリシタン)の目明し右衛門作という油絵を上手に画く者に命じて、火を盗み「たばこ」を呑んで畳を焼いたところと、その者の刑に処せられているところとを板に描かせて、これを邸内の人通りの多い所に立て置き、これを諸人の見せしめとした。ところがその刑罰の有様が如何にも真に逼(せま)って、観(み)る者をして悚然(しょうぜん)たらしめたので、その後ち禁を犯す者が跡を絶つに至ったということである。右衛門作、氏は山田、肥前の人で、島原の乱に反徒に党(くみ)して城中に在ったが、悔悟して内応を謀り、事覚(あら)われて獄中に囚(とら)われていたが、乱平(たいら)ぎたる後ち、伊豆守はこれを赦して江戸に連れ帰り、吉利支丹の目明しとしてこれを用いた。右衛門作はよく油絵を学び巧に人物花卉(かき)を描いたが、彼が刑罰の図を作ることを命ぜられたのもそのためであった。後ち耶蘇教を人に勧めたために、獄に投ぜられて牢死したということである。[#改ページ] 二〇 家康の鑑戒主義行刑法 水戸烈公の著「明訓一班抄」に拠(よ)れば、徳川家康は博奕(ばくえき)をもってすべての罪悪の根元であるとし、夙(はや)く浜松・駿府在城の頃よりこれを厳禁した。 江戸城に移った後も、関東にて僧侶男女の別なく公然賭博をなす者の多いのは、畢竟(ひっきょう)仕置(しおき)が柔弱であったためであると言うて、板倉四郎左衛門(後に伊賀守勝重)らに命じ、当時盗罪の罰は禁獄なりしにかかわらず、賭博をなす者は容赦なく捕えて、片端よりこれを死刑に処せしめた。 或時浅草辺で五人の賭博者を捕えて、五人共に同じ場所に梟首(きょうしゅ)してあったのを、家康が鷹野に出た途上でこれを見て、帰城の後刑吏を召して、「首を獄門に掛けさらすは、畢竟諸人の見せしめのためなれば、五人一座の博奕なりとも、なるべく人立多き五箇所へ分ちてさらし置くべし」と命じた。それ故、これより後は十人一座で捕えられたときには十箇所に分って梟首するようにした。 この如く、細心なる注意をもって、いわば経済的に威嚇(いかく)鑑戒(かんかい)の行刑法を行うたので、その結果、二三年の間に、博奕は殆んど跡を絶つに至ったということである。[#改ページ] 二一 法律の事後公布 徳川時代の刑典は極めて秘密にせられたものであるが、刑の執行はこれを公衆の前において行って、人民の鑑戒としたものである。且つ刑場には、罪状および刑罰の宣告を記した捨札(すてふだ)を立て、罪人を引廻(ひきまわ)す時にも、罪状と刑罰とを記した幟(のぼり)を馬の前に立てて市中を引廻したものであるから、法規はこれを秘密にし、裁判の宣告はこれを公にした結果、人民はこれに依って、如何なる犯罪には如何なる刑罰が科せられるかを知ることが出来たのであった。 京都においては、罪人を洛中洛外に引廻す際に、科(とが)の次第を幟に書き記した上に、その科(とが)をば高声に喚(よば)わり、また通り筋の家々にては、暖簾(のれん)をはずして、平伏してこれを見るのが例であった。しかるに赤井越前守が京都町奉行に任ぜられた時、これを廃したことがあったが、「翁草(おきなぐさ)」の著者はこれを批難して、暖簾も其儘にして常の通りに相心得、敬するに不レ及と令せられし事、大いに当たらざるか。刑は公法なり、科の次第を幟に記し、其科(とが)を喚(よばわ)る事、世に是を告て後来(こうらい)の戒とせんが為なれば、諸人慎んで之を承(うけたまわら)ん条、勿論なり。というている。法に対する尊敬は誠にかくあるべきものである。[#改ページ] 二二 法服の制定 法官および弁護士が着用する法服は、故文学博士黒川真頼君の考案になったものである。元来欧米の法曹界では、多くは古雅なる法服を用いて法廷の威厳を添えているので、裁判所構成法制定当時の司法卿山田顕義伯は、我国でもという考えを起し、黒川博士にその考案を委託した。それで博士は、聖徳太子以来の服制を調査し、これに泰西の制をも加味して、型の如き法帽法服を考案せられたのであるという。 この法服の制定せられた頃の東京美術学校の教授服もまた同じく黒川博士の考案に依って作られたもので、且つその体裁は極めて法服に似寄っておった。その頃、同博士は美術学校の教授をしておられたのであるが、教授服と法服との類似のために、はからずも次の如き笑話が博士自身の上に起ったことが「逸話文庫」に載せてある佐藤利文氏の談話に見えている。 或日の事、一葉の令状が突然東京地方裁判所から黒川博士の許(もと)に舞い込んで来た。何事ならんと打驚いて見ると、来る何日某事件の証人として当廷に出頭すべしということであった。素(もと)より関係なき事故、迷惑至極とは思いながら、代人を立てる訳にも行かぬから、その日の定刻少々前に自ら裁判所に出頭せられたが、この時博士は美術学校の教授服を着用して出頭せられたのであった。すると、廷丁は丁寧に案内して、「まだ開廷には少々間がありますから、どうぞここにてお待ち下され」と言って敬礼して往った。博士は高い立派な椅子を与えられ、これに憑(よ)りかかってやや暫(しばら)く待っておられると、やがて開廷の時刻となり、判事らは各自の定めの席へと出て来たのである。と見ると、博士は赭顔鶴髪(しゃがんかくはつ)、例の制服を着けて平然判事席の椅子に憑(よ)っておられるので、且つ驚き且つ怪しみ、何故ここにおられるぞと尋ねると、博士は云々の次第と答えて、更に驚いた様子も見えない。判事らは余りの意外に思わず失笑したが、さて言うよう、「ここは自分らの着席する処で、証人はあそこに着席せられたし」とて、穏かにその席を示したので、博士もそれと分って、余りに廷丁の疎忽(そこつ)を可笑(おか)しく思われたということである。これは同博士の着けておられた教授服が、如何にも当時新定の法官服に類似していたために、廷丁は博士を一見して、全く一老法官が、何かの要事あって早朝に出頭したものと早合点をし、その来由をも質(ただ)さずして直ちに判官席に案内したからの事であった。博士は帰宅の後、「今日は黒川判事となった」と言われたという事である。昔、秦の商鞅(しょうおう)は自分の制定した法律のために関下(かんか)に舎(やど)せられず、「嗟乎(ああ)法を為(つく)るの弊一(いつ)に此(ここ)に至るか」と言うて嘆息したということであるが、明治の黒川真頼博士は自ら考案した制服のために誤って司直壇上に崇(あが)められた。定めて「法服を為るの弊一に此に至るか」と言うて笑われたことであろう。[#改ページ] 二三 法学博士 博士号は我国の中古には官名であって、大博士・音博士・陰陽博士・文章博士・明法博士などがあった。「職原鈔」によれば、明法博士は二人で、阪上・中原二家をもってこれに任じた様である。現今の法学博士は学位であって、明治二十年の学位令によって設けられたのである。 博士は、古えは「ハカセ」と訓じたものであるが、現今では「ハクシ」と訓ずることに定っている。学位令発布当時、森文部大臣は、半ば真面目に半ば戯れに、こういうことを言われた。「「ハカセ」の古訓を用うるも宜いけれど、世人がもし「ハ」を濁りて「バカセ」と戯れては、学位の尊厳を涜すからなー。」 支那では律学博士というた。「魏書」に、衛覬奏、刑法、国家所レ重、而私議所レ軽、獄者人命所レ懸、而選用者所レ卑、諸置二律学博士一、相教授、遂施行。と見えて、律学博士なるものは、この衛覬(えいき)の建議によって始めて置かれたものであるという。[#改ページ] 二四 妻をもって母となす神は一人に二つの心を与えず。故に神は爾らの妻を爾(なんじ)らの実の母となすことなし。 これは「コーラン」の一節である。何の事か、一寸意味を解し兼ねる文句であるが、セールの研究は、この難解の一句を解き得て、面白きアラビアの古俗を吾人に示している(Sales, The Koran, ch. xxxiii[#「xxxiii」は33を表すローマ数字の小文字]. The Confederates. p. 321.)。 結ぶということがあれば、解くということもあるのは、数の免れざるところであって、結婚がある以上、離婚なる不祥事もしばしば生ずるのは、古今易(かわ)りなき現象である。しかるに、妻を去るも、その妻の帰るべき家が無いことがある。また男の中には、夫婦の縁は絶ちたいが、その妻が家を出て他家に再※(さいしょう)するのは面白くないという、未練至極な考えを持っている者もあって、折々新聞の三面に材料を供することであるが、古代のアラビア人にも、この類(たぐい)の男が多かったと見え、実に奇抜な離婚方法を発明した。即ち妻に向って「あなたは今日より私の御母さんで御座います」という宣言をするのである。夫妻の関係はこの宣言とともに全く絶えて、昨日の妻は今日の母となり、爾後は一切の関係皆実母としてこれに奉事せねばならぬのであるが、実際は御隠居様として敬して遠ざけて置くのである。 かくの如き慣習は、余りに自分勝手な、婦人を馬鹿にし過ぎたもので、その弊害に堪えぬからして、さすがはモハメット、右の一句をもって断然この奇習を廃したのである。[#改ページ] 二五 動植物の責任 近世の法学者は、自由意思の説によって責任の基礎を説明しようと試みる者が多い。人は良心を持っている。故に自ら善悪邪正を弁別することが出来る。人の意思は自由である。故に善をなし悪を行うは皆その自由意思に基づくものである。かく弁別力を具えながら、なお自由意思をもって非行を敢えてするものがある。人に責任なるものが存するのはこの故に外ならない。しかるに禽獣草木に至っては、固(もと)より良心もなく、また自由意思もない。随って禽獣草木には責任が存する道理がないのであるというのが、その議論の要点である。しかしながら、近世心理学の進歩はこの説の根拠を覆えし得たのみならず、歴史上の事実に徴してもこの説の大なる誤謬であることを証拠立てることが出来ようかと思われる。 原始社会の法律を見るに、禽獣草木に対して訴を起し、またはこれを刑罰に処した例がなかなか多い。有名なる英のアルフレッド大王は、人が樹から墜(お)ちて死んだ時には、その樹を斬罪に処するという法律を設け、ユダヤ人は、人を衝(つ)き殺した牛を石殺の刑に行った。ソロンの法に、人を噬(か)んだ犬を晒者(さらしもの)にする刑罰があるかと思えば、ローマの十二表法には、四足獣が傷害をなしたときは、その所有者は賠償をなすかまたは行害獣を被害者に引渡して、その存分に任(まか)すべしという規定があり(Noxa deditio[#岩波文庫の注は「noxa deditioという表現はなくnoxae deditioないしnoxae datio」とする])、またガーイウス、ウルピアーヌスらの言うところに拠れば、この行害物引渡の主義は、幼児または奴隷が他人に損害を与えたとき、または他人が無生物から損害を受けたときにも行われ、その損害の責任はその物または幼児らに在って、もしその所有者が為害物体を保有せんとならば、その請戻しの代価として償金を払うべきものであったとの事である。 啻(ただ)に原始時代においてのみならず、中世の欧洲においても、動物に対する訴訟手続などが、諸国の法律書中に掲げられてあること、決して稀ではない。フランスの古法に、動物が人を殺した場合に、もしその飼主がその動物に危険な性質のあることを知っていたならば、飼主と動物とを併せて死刑に処し、もし飼主がこれを知らないか、または飼主がなかった場合には、その動物のみを死刑に行うという規定があったほどであって、動物訴訟に関する実例が中々多い。今その二三を挙げてみよう。 西暦一三一四年、バロア州(Valois)において、人を衝(つ)き殺した牛を被告として公訴を起したことがあるが、証人の取調、検事の論告、弁護士の弁論、すべて通常の裁判と異なることなく、審理の末、被告は竟(つい)に絞台の露と消えた。その後ちブルガンデー州(Burgundy)でも、小児を殺した豚を法廷に牽(ひ)き出して審問、弁論の上、これを絞罪に処したことがある。なお一四五〇年にも豚を絞罪に処した事があったとのことである。 仏国の歴史家ニコラス・ショリエー(Nicholas Chorier)は、こういう面白い話を述べている。一五八四年ヴァランス(Valence)において、霖雨(りんう)のために非常に毛虫が涌(わ)いたことがあった。ところが、この毛虫が成長するに随ってゾロゾロ這(は)い出し、盛んに家宅侵入、安眠妨害を遣(や)るので、人民の迷惑一通りでない。遂には村民のため捨て置かれぬとあって、牧師の手から毛虫追放の訴訟を提起するという騒ぎとなり、弁論の末、被告毛虫に対して退去の宣告が下った。ところが、被告はなかなか裁判所の命令に服従しない。これには裁判官もはたと当惑し、如何にしてこの裁判の強制執行をしたものかと、額を鳩(あつ)めて小田原評議に日を遷(うつ)す中に、毛虫は残らず蝶と化して飛び去ってしまった。 シャスサンネ(Chassanee[#「ee」のうち、始めのeはアクサン(´)付き])という人があった。オーツン州で鼠の裁判に弁護をしたので世人に知られ、遂に有名な状師となった。同氏は、鼠に対する公訴において種々の理由の下に三度まで延期を請求したが、第三回目の召喚に対しては、こういう面白い申立をした。当地には猫を飼養する者が多いから、被告出廷の途次、生命の危険がある。裁判所は、被告に適当の保護を与えんがために、猫の飼主に命じて開廷日には猫を戸外に出さないという保証状を出させてもらいたい。裁判所は大いに閉口した。召喚に際して適当の保護を与えるのは、固(もと)より当然のことであるから、その請求はこれを斥ける訳には行かない。
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