今戸心中
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著者名:広津柳浪 

     一

 太空(そら)は一片(ぺん)の雲も宿(とど)めないが黒味渡ッて、二十四日の月はまだ上らず、霊あるがごとき星のきらめきは、仰げば身も冽(しま)るほどである。不夜城を誇り顔の電気燈にも、霜枯れ三月(みつき)の淋(さび)しさは免(のが)れず、大門(おおもん)から水道尻(すいどうじり)まで、茶屋の二階に甲走(かんばし)ッた声のさざめきも聞えぬ。
 明後日(あさッて)が初酉(はつとり)の十一月八日、今年はやや温暖(あたた)かく小袖(こそで)を三枚(みッつ)重襲(かさね)るほどにもないが、夜が深(ふ)けてはさすがに初冬の寒気(さむさ)が身に浸みる。
 少時前(いまのさき)報(う)ッたのは、角海老(かどえび)の大時計の十二時である。京町には素見客(ひやかし)の影も跡を絶ち、角町(すみちょう)には夜を警(いまし)めの鉄棒(かなぼう)の音も聞える。里の市が流して行く笛の音が長く尻を引いて、張店(はりみせ)にもやや雑談(はなし)の途断(とぎ)れる時分となッた。
 廊下には上草履(うわぞうり)の音がさびれ、台の物の遺骸(いがい)を今室(へや)の外へ出しているところもある。はるかの三階からは甲走ッた声で、喜助どん喜助どんと床番を呼んでいる。
「うるさいよ。あんまりしつこいじゃアないか。くさくさしッちまうよ」と、じれッたそうに廊下を急歩(いそい)で行くのは、当楼(ここ)の二枚目を張ッている吉里(よしざと)という娼妓(おいらん)である。
「そんなことを言ッてなさッちゃア困りますよ。ちょいとおいでなすッて下さい。花魁(おいらん)、困りますよ」と、吉里の後から追い縋(すが)ッたのはお熊(くま)という新造(しんぞう)。
 吉里は二十二三にもなろうか、今が稼(かせ)ぎ盛りの年輩(としごろ)である。美人質(びじんだち)ではないが男好きのする丸顔で、しかもどこかに剣が見える。睨(にら)まれると凄(すご)いような、にッこりされると戦(ふる)いつきたいような、清(すず)しい可愛らしい重縁眼(ふたかわめ)が少し催涙(うるん)で、一の字眉(まゆ)を癪(しゃく)だというあんばいに釣(つ)り上げている。纈(くく)り腮(あご)をわざと突き出したほど上を仰(む)き、左の牙歯(いときりば)が上唇(うわくちびる)を噛(か)んでいるので、高い美しい鼻は高慢らしくも見える。懐手(ふところで)をして肩を揺すッて、昨日(きのう)あたりの島田髷(まげ)をがくりがくりとうなずかせ、今月(この)一日(にち)に更衣(うつりかえ)をしたばかりの裲襠(しかけ)の裾(すそ)に廊下を拭(ぬぐ)わせ、大跨(おおまた)にしかも急いで上草履を引き摺(ず)ッている。
 お熊は四十格向(がッこう)で、薄痘痕(うすいも)があッて、小鬢(こびん)に禿(はげ)があッて、右の眼が曲(ゆが)んで、口が尖(とんが)らかッて、どう見ても新造面(しんぞうづら)――意地悪別製の新造面である。
 二女(ふたり)は今まで争ッていたので、うるさがッて室(へや)を飛び出した吉里を、お熊が追いかけて来たのである。
「裾が引き摺ッてるじゃアありませんか。しようがないことね」
「いいじゃアないか。引き摺ッてりゃ、どうしたと言うんだよ。お前さんに調(こさ)えてもらやアしまいし、かまッておくれでない」
「さようさね。花魁をお世話申したことはありませんからね」
 吉里は返辞をしないでさッさッと行く。お熊はなお附き纏(まと)ッて離れぬ。
「ですがね、花魁。あんまりわがままばかりなさると、私が御内所(ごないしょ)で叱(しか)られますよ」
「ふん。お前さんがお叱られじゃお気の毒だね。吉里がこうこうだッて、お神さんに何とでも訴(いッつ)けておくれ」
 白字(はくじ)で小万(こまん)と書いた黒塗りの札を掛けてある室の前に吉里は歩(あし)を止めた。
「善さんだッてお客様ですよ。さッきからお酒肴(あつらえ)が来てるんじゃありませんか」
「善さんもお客だッて。誰(だれ)がお客でないと言ッたんだよ。当然(あたりまえ)なことをお言いでない」と、吉里は障子を開けて室内(うち)に入ッて、後をぴッしゃり手荒く閉めた。
「どうしたの。また疳癪(かんしゃく)を発(おこ)しておいでだね」
 次の間の長火鉢(ながひばち)で燗(かん)をしながら吉里へ声をかけたのは、小万と呼び当楼(ここ)のお職女郎。娼妓(おいらん)じみないでどこにか品格(ひん)もあり、吉里には二三歳(ふたつみッつ)の年増(としま)である。
「だッて、あんまりうるさいんだもの」
「今晩もかい。よく来るじゃアないか」と、小万は小声で言ッて眉を皺(よ)せた。
「察しておくれよ」と、吉里は戦慄(みぶるい)しながら火鉢の前に蹲踞(しゃが)んだ。
 張り替えたばかりではあるが、朦朧(もうろう)たる行燈(あんどう)の火光(ひかげ)で、二女(ふたり)はじッと顔を見合わせた。小万がにッこりすると吉里もさも嬉(うれ)しそうに笑ッたが、またさも術なそうな色も見えた。
「平田さんが今おいでなさッたから、お梅どんをじきに知らせて上げたんだよ」
「そう。ありがとう。気休めだともッたら、西宮さんは実があるよ」
「早く奥へおいでな」と、小万は懐紙で鉄瓶(てつびん)の下を煽(あお)いでいる。
 吉里は燭台(しょくだい)煌々(こうこう)たる上(かみ)の間(ま)を眩(まぶ)しそうに覗(のぞ)いて、「何だか悲アしくなるよ」と、覚えず腮を襟(えり)に入れる。
「顔出しだけでもいいんですから、ちょいとあちらへおいでなすッて下さい」と、例のお熊は障子の外から声をかけた。
「静かにしておくれ。お客さまがいらッしゃるんだよ」
「御免なさいまし」と、お熊は障子を開けて、「小万さんの花魁、どうも済みませんね」と、にッこり会釈し、今奥へ行こうとする吉里の背後(うしろ)から、「花魁、困るじゃアありませんか」
「今行くッたらいいじゃアないか。ああうるさいよ」と、吉里は振り向きもしないで上の間へ入ッた。
 客は二人である。西宮は床の間を背(うしろ)に胡座(あぐら)を組み、平田は窓を背(うしろ)にして膝(ひざ)も崩(くず)さずにいた。
 西宮は三十二三歳で、むッくりと肉づいた愛嬌(あいきょう)のある丸顔。結城紬(ゆうきつむぎ)の小袖に同じ羽織という打扮(いでたち)で、どことなく商人らしくも見える。
 平田は私立学校の教員か、専門校の学生か、また小官員(こかんいん)とも見れば見らるる風俗で、黒七子(くろななこ)の三つ紋の羽織に、藍縞(あいじま)の節糸織(ふしいとおり)と白ッぽい上田縞の二枚小袖、帯は白縮緬(しろちりめん)をぐいと緊(しま)り加減に巻いている。歳(とし)は二十六七にもなろうか。髪はさまで櫛(くし)の歯も見えぬが、房々と大波を打ッて艶(つや)があって真黒であるから、雪にも紛う顔の色が一層引ッ立ッて見える。細面ながら力身(りきみ)をもち、鼻がすッきりと高く、きッと締ッた口尻の愛嬌(あいきょう)は靨(えくぼ)かとも見紛われる。とかく柔弱(にやけ)たがる金縁の眼鏡も厭味(いやみ)に見えず、男の眼にも男らしい男振りであるから、遊女なぞにはわけて好かれそうである。
 吉里が入ッて来た時、二客(ふたり)ともその顔を見上げた。平田はすぐその眼を外(そ)らし、思い出したように猪口(ちょく)を取ッて仰ぐがごとく口へつけた、酒がありしや否やは知らぬが。
 吉里の眼もまず平田に注いだが、すぐ西宮を見て懐愛(なつか)しそうににッこり笑ッて、「兄さん」と、裲襠(しかけ)を引き摺ッたまま走り寄り、身を投げかけて男の肩を抱(いだ)いた。
「ははははは。門迷(とまど)いをしちゃア困るぜ。何だ、さッきから二階の櫺子(れんじ)から覗いたり、店の格子に蟋蟀(きりぎりす)をきめたりしていたくせに」と、西宮は吉里の顔を見て笑ッている。
 吉里はわざとつんとして、「あんまり馬鹿におしなさんなよ。そりゃ昔のことですのさ」
「そう諦(あきら)めててくれりゃア、私も大助かりだ。あいたたた。太股(ふともも)ふッつりのお身替りなざア、ちとありがた過ぎる方だぜ。この上臂突(ひじつ)きにされて、ぐりぐりでも極(き)められりゃア、世話アねえ。復讐(しかえし)がこわいから、覚えてるがいい」
「だッて、あんまり憎らしいんだもの」と、吉里は平田を見て、「平田さん、お前さんよく今晩来たのね。まだお国へ行かないの」
 平田はちょいと吉里を見返ッてすぐ脇(わき)を向いた。
「さアそろそろ始まッたぞ。今夜は紋日(もんび)でなくッて、紛紜日(もめび)とでも言うんだろう。あッちでも始まればこッちでも始まる。酉(とり)の市(まち)は明後日(あさッて)でござい。さア負けたア負けたア、大負けにまけたアまけたア」と、西宮は理(わけ)も分らぬことを言い、わざとらしく高く笑うと、「本統に馬鹿にしていますね」と、吉里も笑いかけた。
「戯言(じょうだん)は戯言だが、さッきから大分紛雑(もめ)てるじゃアないか。あんまり疳癪を発(おこ)さないがいいよ」
「だッて。ね、そら……」と、吉里は眼に物を言わせ、「だもの、ちッたあ疳癪も発りまさアね」
「そうかい。来てるのかい、富沢町(とみざわちょう)が」と、西宮は小声に言ッて、「それもいいさ。久しぶりで――あんまり久しぶりでもなかッた、一昨日(おととい)の今夜だッけね。それでもまア久しぶりのつもりで、おい平田、盃(さかずき)を廻したらいいだろう。おッと、お代(かわ)り目(め)だッた。おい、まだかい。酒だ、酒だ」と、次の間へかけて呼ぶ。
「もうすこし。お前さんも性急(せッかち)だことね。ついぞない。お梅どんが気が利(き)かないんだもの、加炭(つい)どいてくれりゃあいいのに」と、小万が煽(あお)ぐ懐紙の音がして、低声(こごえ)の話声(はなし)も聞えるのは、まだお熊が次の間にいると見える。
 吉里は紙巻煙草(シガー)に火を点(つ)けて西宮へ与え、「まだ何か言ッてるよ。ああ、いやだいやだ」
「またいやだいやだを始めたぜ。あの人も相変らずよく来てるじゃアないか。あんまりわれわれに負けない方だ。迷わせておいて、今さら厭だとも言えまい。うまい言の一語(ひとこと)も言ッて、ちッたあ可愛がッてやるのも功徳(くどく)になるぜ」
「止(よ)しておくんなさいよ。一人者になッたと思ッて、あんまり酷待(いじめ)ないで下さいよ」
「一人者だと」と、西宮はわざとらしく言う。
「だッて、一人者じゃアありませんか」と、吉里は西宮を見て淋(さみ)しく笑い、きッと平田を見つめた。見つめているうちに眼は一杯の涙となッた。

     二

 平田は先刻(さきほど)から一言(ひとこと)も言わないでいる。酒のない猪口(ちょく)が幾たび飲まれるものでもなく、食いたくもない下物(さかな)を□(むし)ッたり、煮えつく楽鍋(たのしみなべ)に杯泉(はいせん)の水を加(さ)したり、三つ葉を挾(はさ)んで見たり、いろいろに自分を持ち扱いながら、吉里がこちらを見ておらぬ隙(すき)を覘(ねら)ッては、眼を放し得なかッたのである。隙を見損(みそこ)なッて、覚えず今吉里へ顔を見合わせると、涙一杯の眼で怨(うら)めしそうに自分を見つめていたので、はッと思いながら外(はず)し損ない、同じくじッと見つめた。吉里の眼にはらはらと涙が零(こぼ)れると、平田はたまらなくなッてうつむいて、深く息を吐(つ)いて涙ぐんだ。
 西宮は二人の様子に口の出し端(は)を失い、酒はなし所在はなし、またもや次の間へ声をかけた。
「おい、まだかい」
「ああやッと出来ましたよ」と、小万は燗瓶(かんびん)を鉄瓶から出しながら、「そんなわけなんだからね。いいかね、お熊どん。私がまた後でよく言うからね、今晩はわがままを言わせておいておくれ」
「どうかねえ。お頼み申しますよ」と、お熊は唐紙(からかみ)越しに、「花魁、こなたの御都合でねえ、よござんすか」
「うるさいよッ」と、吉里も唐紙越しに睨んで、「人のことばッかし言わないで、自分も気をつけるがいいじゃアないか。ちッたアそこで燗番でもするがいいんさ。小万さんの働いておいでなのが見えないのか。自分がいやなら、誰かよこしとくがいいじゃアないか」
「はい、はい。どうもお気の毒さま」と、お熊は室外(そと)へ出た。
「本統に誰かよこしておくんなさいよ。お梅どんがどッかいるだろうから、来るように言ッておくんなさいよ」と、小万も上の間へ来ながら声をかけたが、お熊はもういないのか返辞がなかッた。
「あんないやな奴(やつ)ッちゃアないよ。新造(しんぞ)を何だと思ッてるんだろう。花魁に使われてる奉公人じゃアないか。あんまりぐずぐず言おうもんなら、御内所へ断わッてやるぞ。何だろう、奉公人のくせに」
「もういいじゃアないかね。新造衆(しんぞしゅう)なんか相手にしたッて、どうなるもんかね」
 小万は上の間に来て平田の前に座ッた。
 平田は待ちかねたという風情で、「小万さん、一杯献(あ)げようじゃアないかね」
「まアお熱燗(あつ)いところを」と、小万は押えて平田へ酌(しゃく)をして、「平田さん、今晩は久しぶりで酔ッて見ようじゃありませんか」と、そッと吉里を見ながら言ッた。
「そうさ」と、平田はしばらく考え、ぐッと一息に飲み乾(ほ)した猪口を小万にさし、「どうだい、酔ッてもいいかい」
「そうさなア。君まで僕を困らせるんじゃアないか」と、西宮は小万を見て笑いながら、「何だ、飲めもしないくせに。管(くだ)を巻かれちゃア、旦那様(だんなさま)がまたお困り遊ばさア」
「いつ私が管を巻いたことがあります」と、小万は仰山(ぎょうさん)らしく西宮へ膝を向け、「さアお言いなさい。外聞の悪いことをお言いなさんなよ」
「小万さん、お前も酔ッておやりよ。私ゃ管でも巻かないじゃアやるせがないよ。ねえ兄さん」と、吉里は平田をじろりと見て、西宮の手をしかと握り、「ねえ、このくらいなことは勘忍して下さるでしょう」
「さア事だ。一人でさえ持て余しそうだのに、二人まで大敵を引き受けてたまるもんか。平田、君が一方を防ぐんだ。吉里さんの方は僕が引き受けた。吉里さん、さア思うさま管を巻いておくれ」
「ほほほ。あんなことを言ッて、また私をいじめようともッて。小万さん、お前加勢しておくれよ」
「いやなことだ。私ゃ平田さんと仲よくして、おとなしく飲むんだよ。ねえ平田さん」
「ふん。不実同士揃(そろ)ッてやがるよ。平田さん、私がそんなに怖(こわ)いの。執(と)ッ着(つ)きゃしませんからね、安心しておいでなさいよ。小万さん、注(つ)いでおくれ」と、吉里は猪口を出したが、「小杯(ちいさく)ッて面倒くさいね」と傍(そば)にあッた湯呑(ゆの)みと取り替え、「満々(なみなみ)注いでおくれよ」
「そろそろお株をお始めだね。大きい物じゃア毒だよ」
「毒になッたッてかまやアしない。お酒が毒になッて死んじまッたら、いッそ苦労がなくッて……」と、吉里はうつむき、握ッていた西宮の手へはらはらと涙を零(こぼ)した。
 平田は額に手を当てて横を向いた。西宮と小万は顔を見合わせて覚えず溜息(ためいき)を吐(つ)いた。
「ああ、つまらないつまらない」と、吉里は手酌で湯呑みへだくだくと注ぐ。
「お止しと言うのに」と、小万が銚子(ちょうし)を奪(と)ろうとすると、「酒でも飲まないじゃア……」と、吉里がまた注ぎにかかるのを、小万は無理に取り上げた。吉里は一息に飲み乾し、顔をしかめて横を向き、苦しそうに息を吐いた。
「剛情だよ、また後で苦しがろうと思ッて」
「お酒で苦しいくらいなことは……。察して下さるのは兄さんばかりだよ」と、吉里は西宮を見て、「堪忍して下さいよ。もう愚痴は溢(こぼ)さない約束でしたッけね。ほほほほほほ」と、淋しく笑ッた。
「花魁(おいらん)、花魁」と、お熊がまたしても室外(そと)から声をかける。
「今じきに行くよ」と、吉里も今度は優しく言う。お熊は何も言わないであちらへ行ッた。
「ちょいと行ッて来ちゃアどうだね、も一杯威勢を附けて」
 西宮が与(さ)した猪口に満々(なみなみ)と受けて、吉里は考えている。
「本統にそうおしよ。あんまり放擲(うッちゃ)ッといちゃアよくないよ。善さんも気の毒な人さ。こんなに冷遇(され)ても厭な顔もしないで、毎晩のように来ておいでなんだから、怒らせないくらいにゃしておやりよ」と、小万も吉里が気に触(さわ)らないほどにと言葉を添えた。
「また無理をお言いだよ」と、吉里は猪口を乾(ほ)して、「はい、兄さん。本統に善さんにゃ気の毒だとは思うけれど、顔を見るのもいやなんだもの。信切(しんせつ)な人ではあるし……。信切にされるほど厭になるんだもの。誰かのように、実情(じつ)がないんじゃアなし、義理を知らないんじゃアなし……」
 平田はぷいと坐を起(た)ッた。
「お便所(ちょうず)」と、小万も起とうとする。「なアに」と、平田は急いで次の間へ行ッた。
「放擲(うッちゃ)ッておおきよ、小万さん。どこへでも自分の好きなとこへ行くがいいやね」
 次の間には平田が障子を開けて、「おやッ、草履がない」
「また誰か持ッてッたんだよ。困ることねえ。私のをはいておいでなさいよ」と、小万が声をかけるうちに、平田が重たそうに上草履を引き摺ッて行く音が聞えた。
「意気地のない歩きッ振りじゃないか」と、わざとらしく言う吉里の頬(ほお)を、西宮はちょいと突いて、「はははは。大分愛想尽(あいそづか)しをおっしゃるね」
「言いますとも。ねえ、小万さん」
「へん、また後で泣こうと思ッて」
「誰が」
「よし。きっとだね」と、西宮は念を押す。
「ふふん」と、吉里は笑ッて、「もう虐(いじ)めるのはたくさん」
 店梯子(みせばしご)を駈(か)け上る四五人の足音がけたたましく聞えた。「お客さまア」と、声々に呼びかわす。廊下を走る草履が忙(せわ)しくなる。「小万さんの花魁、小万さんの花魁」と、呼ぶ声が走ッて来る。
「いやだねえ、今時分になって」と、小万は返辞をしないで眉を顰(ひそ)めた。
 ばたばたと走ッて来た草履の音が小万の室(へや)の前に止ッて、「花魁、ちょいと」と、中音に呼んだのは、小万の新造のお梅だ。
「何だよ」
「ちょいとお顔を」
「あい。初会(しょかい)なら謝罪(ことわ)ッておくれ」
「お馴染(なじ)みですから」
「誰だ。誰が来たんだ」と、西宮は小万の顔を真面目(まじめ)に見つめた。
「おほほ――、妬(や)けるんだよ」と、吉里は笑い出した。
「ははははは。どうだい、僕の薬鑵(やかん)から蒸気(ゆげ)が発(た)ッてやアしないか」
「ああ、発ッてますよ。口惜(くや)しいねえ」と、吉里は西宮の腕を爪捻(つね)る。
「あいた。ひどいことをするぜ。おお痛い」と、西宮は仰山らしく腕を擦(さす)る。
 小万はにっこり笑ッて、「あんまりひどい目に会わせておくれでないよ、虫が発(おこ)ると困るからね」
「はははは。でかばちもない虫だ」と、西宮。
「ほほほほ。可愛い虫さ」
「油虫じゃアないか」
「苦労の虫さ」と、小万は西宮をちょいと睨んで出て行ッた。
 折から撃ッて来た拍子木は二時(おおびけ)である。本見世(ほんみせ)と補見世(すけみせ)の籠(かご)の鳥がおのおの棲(とや)に帰るので、一時に上草履の音が轟(とどろ)き始めた。

     三

 吉里は今しも最後の返辞をして、わッと泣き出した。西宮はさぴたの煙管(パイプ)を拭いながら、戦(ふる)える吉里の島田髷を見つめて術なそうだ。
 燭台の蝋燭(ろうそく)は心が長く燃え出し、油煙が黒く上ッて、燈(ともしび)は暗し数行虞氏(すうこうぐし)の涙(なんだ)という風情だ。
 吉里の涙に咽(むせ)ぶ声がやや途切れたところで、西宮はさぴたを拭っていた手を止(とど)めて口を開いた。
「私しゃ気の毒でたまらない。実に察しる。これで、平田も心残りなく古郷(くに)へ帰れる。私も心配した甲斐(かい)があるというものだ。実にありがたかッた」
 吉里は半ば顔を上げたが、返辞をしないで、懐紙で涙を拭いている。
「他のことなら何とでもなるんだが、一家の浮沈に関することなんだから、どうも平田が帰郷(かえら)ないわけに行かないんでね、私も実に困っているんだ」
「家君(おとッ)さんがなぜ御損なんかなすッたんでしょうねえ」と、吉里はやはり涙を拭いている。
「なぜッて。手違いだからしかたがないのさ。家君さんが気抜けのようになッたと言うのに、幼稚(ちいさ)い弟(おとと)はあるし、妹(いもと)はあるし、お前さんも知ッてる通り母君(おッかさん)が死去(ない)のだから、どうしても平田が帰郷(かえ)ッて、一家の仕法をつけなければならないんだ。平田も可哀そうなわけさ」
「平田さんがお帰郷(かえり)なさると、皆さんが楽におなりなさるんですか」
「そうは行くまい。大概なことじゃ、なかなか楽になるというわけには行かなかろう。それで、急にまた出京(でてく)るという目的(あて)もないから、お前さんにも無理な相談をしたようなわけなんだ。先日来(こないだから)のようにお前さんが泣いてばかりいちゃア、談話(はなし)は出来ないし、実に困りきッていたんだ。これで私もやっと安心した。実にありがたい」
 吉里は口にこそ最後の返辞をしたが、心にはまだ諦めかねた風で、深く考えている。
 西宮は注(つ)ぎおきの猪口を口へつけて、「おお冷めたい」
「おや、済みません、気がつかないで。ほほほほほ」と、吉里は淋しく笑ッて銚子を取り上げた。
 眼千両と言われた眼は眼蓋(まぶた)が腫(は)れて赤くなり、紅粉(おしろい)はあわれ涙に洗い去られて、一時間前の吉里とは見えぬ。
「どうだね、一杯(ひとつ)」と、西宮は猪口をさした。吉里は受けてついでもらッて口へ附けようとした時、あいにく涙は猪口へ波紋をつくッた。眼を閉(ねむ)ッて一息に飲み乾し、猪口を下へ置いてうつむいてまた泣いていた。
「本統でしょうね」と、吉里は涙の眼で外見(きまり)悪るそうに西宮を見た。
「何が」と、西宮は眼を丸くした。
「私ゃ何だか……、欺(だま)されるような気がして」と、吉里は西宮を見ていた眼を畳へ移した。
「困るなア、どうも。まだ疑ぐッてるんだね。平田がそんな男か、そんな男でないか、五六年兄弟同様にしている私より、お前さんの方がよく知ッてるはずだ。私がまさかお前さんを欺す……」と、西宮がなお説き進もうとするのを、吉里は慌(あわ)てて遮(さえぎ)ッた。「あら、そうじゃアありませんよ。兄さんには済みません。勘忍して下さいよ。だッて、平田さんがあんまり平気だから……」
「なに平気なものか。平生あんなに快濶(かいかつ)な男が、ろくに口も利(き)き得ないで、お前さんの顔色ばかり見ていて、ここにも居得(いえ)ないくらいだ」
「本統にそうなのなら、兄さんに心配させないで、直接(じか)に私によく話してくれるがいいじゃアありませんか」
「いや、話したろう。幾たびも話したはずだ。お前さんが相手にしないんじゃないか。話そうとすると、何を言うんですと言ッて腹を立つッて、平田は弱りきッていたんだ」
「だッて、私ゃ否(いや)ですもの」と、吉里は自分ながらおかしくなったらしくにっこりした。
「それ御覧。それだもの。平田が談話(はな)すことが出来るものか。お前さんの性質(きしょう)も、私はよく知ッている。それだから、お前さんが得心した上で、平田を故郷(くに)へ出発(たた)せたいと、こうして平田を引ッ張ッて来るくらいだ。不実に考えりゃア、無断(だんまり)で不意と出発(たっ)て行くかも知れない。私はともかく、平田はそんな不実な男じゃない、実に止むを得ないのだ。もう承知しておくれだッたのだから、くどく言うこともないのだが……。お前さんの性質(きしょう)だと……もうわかッてるんだから安心だが……。吉里さん、本統に頼むよ」
 吉里はまた泣き出した。その声は室外(そと)へ漏れるほどだ。西宮も慰めかねていた。
「へい、お誂(あつら)え」と、仲どんが次の間へ何か置いて行ッたようである。
 また障子を開けた者がある。次の間から上の間を覗いて、「おや、座敷の花魁はまだあちらでございますか」と、声をかけたのは、十六七の眼の大きい可愛らしい女で、これは小万の新造(しんぞ)のお梅である。
「平田さんもまだおいでなさらないんですね」と、お梅は仲どんが置いて行ッた台の物を上の間へ運び、「お飯(まんま)になすッちゃアいかがでございます。皆さんをお呼び申しましょうか」
「まアいいや。平田は吉里さんの座敷にいるかい」
「はい。お一人でお臥(よ)ッていらッしゃいましたよ。お淋(さみ)しいだろうと思ッて私が参りますとね、あちらへ行ッてろとおッしゃッて、何だか考えていらッしゃるようですよ」
「うまく言ッてるぜ。淋しかろうと思ッてじゃアなかろう、平田を口説(くど)いて鉢を喰(く)ッたんだろう。ははははは。いい気味だ。おれの言う言(こと)を、聞かなかッた罰(ばち)だぜ」
「あら、あんなことを。覚えていらッしゃいよ」
「本統だから、顔を真赤にしたな。ははははは」
「あら、いつ顔なんか真赤にしました。そんなことをお言いなさると、こうですよ」
「いや、御免だ。擽(くす)ぐるのは御免だ。降参、降参」
「もう言いませんか」
「もう言わない、言わない。仲直りにお茶を一杯(ひとつ)。湯が沸いてるなら、濃くして頼むよ」
「いやなことだ」と、お梅は次の間で茶を入れ、湯呑みを盆に載せて持って来て、「憎らしいけれども、はい」
「いや、ありがたいな。これで平田を口説いたのと差引きにしてやろう」
「まだあんなことを」
「おッと危(あぶ)ない。溢(こぼ)れる、溢れる」
「こんな時でなくッちゃア、敵(かたき)が取れないわ。ねえ、花魁」
 吉里は淋しそうに笑ッて、何とも言わないでいる。
「今擽られてたまるものか。降参、降参、本統に降参だ」
「きっとですか」
「きっとだ、きっとだ」
「いい気味だ。謝罪(あやまら)せてやッた」
「ははははは。お梅どんに擽られてたまるもんか。男を擽ぐる急所を心得てるんだからね」
「何とでもおっしゃい。どうせあなたには勝(かな)いませんよ」と、お梅は立ち上りながら、「御膳(ごぜん)はお後で、皆さんと御一しょですね。もすこししてからまた参ります」と、次の間へ行ッた。
 誰が覗いていたのか、障子をぴしゃりと外から閉(た)てた者がある。
「あら、誰か覗いてたよ」と、お梅が急いで障子を開けると、ぱたぱたぱたぱたと廊下を走る草履の音が聞えた。
「まア」と、お梅の声は呆(あき)れていた。

     四

「どうしたんだ」と、西宮は事ありそうに入ッて来たお梅を見上げた。
「善さんですよ。善さんが覗いていなすッたんですよ」と、お梅は眼を丸くして、今顔を上げた吉里を見た。
「おえない妬漢(じんすけ)だよ」と、吉里は腹立たしげに見えた。
「さっきからね、花魁のお座敷を幾たびも覗いていなさるんですよ。平田さんが怒んなさりゃしまいかと思ッて、本統に心配しましたよ」
「あんまりそんな真似をすると、謝絶(ことわ)ッてやるからいい。ああ、自由(まま)にならないもんだことねえ」と、吉里は西宮をつくづく視(み)て、うつむいて溜息を吐(つ)く。
「座敷の花魁は遅うございますことね。ちょいと見て参りますよ」と、お梅は次の間で鉄瓶に水を加(さ)す音をさせて出て行ッた。
「西宮さん」と、吉里は声に力を入れて、「私ゃどうしたらいいでしょうね。本統に辛いの。私の身にもなッて察して下さいよ」
「実に察しる」と、西宮はしばらく考え、「実に察しているのだ。お前さんに無理に頼んだ私の心の中も察してもらいたい。なかなか私に言えそうもなかッたから、最初(はじめ)は小万に頼んで話してもらうつもりだッたのさ。小万もそんなことは話せないて言うから、しかたなしに私が話したようなわけだからね、お前さんが承知してくれただけ、私ゃなお察しているんだよ。三十面を下げて、馬鹿を尽してるくらいだから、他(ひと)には笑われるだけ人情はまア知ッてるつもりだ。どうか、平田のためだと思ッて、我慢して、ねえ吉里さん、どうか頼むよ」
「しかたがありませんよ、ねえ兄さん」と、吉里はついに諦めたかのごとく言い放しながらなお考えている。
「私もこんな苦しい思いをしたことはない」
「こういうはかない縁なんでしょうよ、ねえ。考えると、小万さんは羨(うらや)ましい」と、吉里はしみじみ言ッた。
「いや、私も来ないつもりだ」と、西宮ははッきり言い放ッた。
「えッ」と、吉里はびッくりして、「え。なぜ。どうなすッたの」と、西宮の顔を見つめて呆れている。
「いや、なぜということもない。辛いのは誰しも同一(おんなじ)だ。お前さんと平田の苦衷(こころ)を察しると、私一人どうして来られるものか」
「なぜそんなことをお言(い)なさるの。私ゃそんなつもりで」
「そりゃわかッてる。それで来る来ないと言うわけじゃない。実に忍びないからだ」
「いや、いや、私ゃ否(いや)ですよ。私が小万さんに済みません。平田さんには別れなければならないし、兄さんでも来て下さらなきゃ、私ゃどうします。私が悪るかッたら謝罪(あやま)るから、兄さん今まで通り来て下さいよ。私を可哀そうだと思ッて来て下さいよ。え、よござんすか。え、え」と、吉里は詫(わ)びるように頼むように幾たびとなく繰り返す。
 西宮はうつむいて眼を閉(ねむ)ッて、じッと考えている。
 吉里はその顔を覗き込んで、「よござんすか。ねえ兄さん、よござんすか。私ゃ兄さんでも来て下さらなきゃア……」と、また泣き声になッて、「え、よござんすか」
 西宮は閉目(ねむっ)てうつむいている。
「よござんすね、よござんすね。本統、本統」と、吉里は幾たびとなく念を押して西宮をうなずかせ、はアッと深く息を吐(つ)いて涙を拭きながら、「兄さんでも来て下さらなきゃア、私ゃ生きちゃアいませんよ」
「よろしい、よろしい」と、西宮はうなずきながら、「平田の方は断念(おもいき)ッてくれるね。私もお前さんのことについちゃア、後来(こののち)何とでもしようから」
「しかたがありません、断念(おもいき)らないわけには行かないのだから。もう、音信(たより)も出来ないんですね」
「さア。そう思ッていてもらわなければ……」と、西宮も判然(はき)とは答えかねた。
 吉里はしばらく考え、「あんまり未練らしいけれどもね、後生ですから、明日(あした)にも、も一遍連れて来て下さいよ」と、顔を赧(あか)くしながら西宮を見る。
「もう一遍」
「ええ。故郷(おくに)へ発程(たつ)までに、もう一遍御一緒に来て下さいよ、後生ですから」
「もう一遍」と、西宮は繰り返し、「もう、そんな間(ひま)はないんだよ」
「えッ。いつ故郷(おくに)へ立発(たつ)んですッて」と、吉里は膝を進めて西宮を見つめた。
「新橋の、明日の夜汽車で」と、西宮は言いにくそうである。
「えッ、明日の……」と、吉里の顔色は変ッた。西宮を見つめていた眼の色がおかしくなると、歯をぎりぎりと噛(か)んだ。西宮がびッくりして声をかけようとした時、吉里はううんと反(そ)ッて西宮へ倒れかかッた。
 折よく入ッて来た小万は、吉里の様子にびっくりして、「えッ、どうおしなの」
「どうしたどころじゃアない。早くどうかしてくれ。どうも非常な力だ」
「しッかりおしよ。吉里さんしッかりおしよ。反ッちゃアいけないのに、あらそんなに反ッちゃア」
「平田はどうした。平田は、平田は」
「平田さんですか」
 いつかお梅も此室(ここ)に来て、驚いて手も出ないで、ぼんやり突ッ立ッていた。
「お梅どんそこにいたのかい。何をぼんやりしてるんだよ。平田さんを早く呼んでおいで。気が利かないじゃアないか。早くおし。大急ぎだよ。反ッちゃアいけないと言うのにねえ。しッかりおしよ。吉里さん。吉里さん」
 お梅はにわかにあわて出し、唐紙へ衝(つ)き当り障子を倒し、素足で廊下を駈(か)け出した。

     五

 平田は臥床(とこ)の上に立ッて帯を締めかけている。その帯の端に吉里は膝を投げかけ、平田の羽織を顔へ当てて伏し沈んでいる。平田は上を仰(む)き眼を合(ねむ)り、後眥(めじり)からは涙が頬へ線(すじ)を画(ひ)き、下唇(したくちびる)は噛まれ、上唇は戦(ふる)えて、帯を引くだけの勇気もないのである。
 二人の定紋を比翼につけた枕(まくら)は意気地なく倒れている。燈心が焚(も)え込んで、あるかなしかの行燈(あんどう)の火光(ひかり)は、「春如海(はるうみのごとし)」と書いた額に映ッて、字形を夢のようにしている。
 帰期(かえり)を報(し)らせに来た新造(しんぞ)のお梅は、次の間の長火鉢に手を翳(かざ)し頬を焙(あぶ)り、上の間へ耳を聳(そばだ)てている。
「もう何時になるんかね」と、平田は気のないような調子で、次の間のお梅に声をかけた。
「もすこし前五時を報(う)ちましたよ」
「え、五時過ぎ。遅くなッた、遅くなッた」と、平田は思いきッて帯を締めようとしたが、吉里が動かないのでその効(かい)がなかッた。
「あッちじゃアもう支度をしてるのかい」
「はい。西宮さんはちッともお臥(よ)らないで、こなたの……」と、言い過ぎようとして気がついたらしく、お梅は言葉を切ッた。
「そうか。気の毒だッたなア。さア行こう」
 吉里はなお帯を放さぬ。
「まアいいよ。そんなに急がんでもいいよ」と、声をかけながら、障子を開けたのは西宮だ。
「おやッ、西宮さん」と、お梅は見返ッた。
「起きてるのかい」と、西宮はわざと手荒く唐紙を開け、無遠慮に屏風(びょうぶ)の中を覗くと、平田は帯を締め了(おわ)ろうとするところで、吉里は後から羽織を掛け、その手を男の肩から放しにくそうに見えた。
「失敬した、失敬した。さア出かけよう」
「まアいいさ」
「そうでない、そうでない」と、平田は忙がしそうに体を揺すぶりながら室(へや)を出かけた。
「ああ、ちょいと、あの……」と、吉里の声は戦(ふる)えた。
「おい、平田。何か忘れた物があるんじゃアないか」
「なにない。何にもない」
「君はなかろうが……。おい、おい、何をそんなに急ぐのだ」
「何をッて」
 西宮は平田の腕を取ッて、「まア何でもいい。用があるから……。まア、少し落ちついて行くさ」と、再び室の中に押し込んで、自分はお梅とともに廊下の欄干(てすり)にもたれて、中庭を見下している。
 研(と)ぎ出したような月は中庭の赤松の梢(こずえ)を屋根から廊下へ投げている。築山(つきやま)の上り口の鳥居の上にも、山の上の小さな弁天の社(やしろ)の屋根にも、霜が白く見える。風はそよとも吹かぬが、しみるような寒気(さむさ)が足の爪先(つまさき)から全身を凍らするようで、覚えず胴戦(どうぶる)いが出るほどだ。
 中庭を隔てた対向(むこう)の三ツ目の室には、まだ次の間で酒を飲んでいるのか、障子に男女(なんにょ)二個(ふたつ)の影法師が映ッて、聞き取れないほどの話し声も聞える。
「なかなか冷えるね」と、西宮は小声に言いながら後向きになり、背(せなか)を欄干(てすり)にもたせ変えた時、二上(にあが)り新内を唄(うた)うのが対面(むこう)の座敷から聞えた。
「わるどめせずとも、そこ放せ、明日の月日の、ないように、止めるそなたの、心より、かえるこの身は、どんなにどんなに、つらかろう――」
「あれは東雲(しののめ)さんの座敷だろう。さびのある美音(いいこえ)だ。どこから来る人なんだ」と、西宮がお梅に問(たず)ねた時、廊下を急ぎ足に――吉里の室の前はわけて走るようにして通ッた男がある。
 お梅はちょいと西宮の袖を引き、「善さんでしたよ」と、かの男を見送りながら細語(ささや)いた。
「え、善さん」と、西宮も見送りながら、「ふうむ」
 三ツばかり先の名代(みょうだい)部屋で唾壺(はいふき)の音をさせたかと思うと、びッくりするような大きな欠伸(あくび)をした。
 途端に吉里が先に立ッて平田も後から出て来た。
「お待遠さま。兄さん、済みません」と、吉里の声は存外沈着(おちつ)いていた。
 平田は驚くほど蒼白(あおざめ)た顔をして、「遅くなッた、遅くなッた」と、独語(ひとりごと)のように言ッて、忙がしそうに歩き出した。足には上草履を忘れていた。
「平田さん、お草履を召していらッしゃい」と、お梅は戻(もど)ッて上草履を持ッて、見返りもせぬ平田を追ッかけて行く。
「兄さん」と、吉里は背後(うしろ)から西宮の肩を抱(いだ)いて、「兄さんは来て下さるでしょうね。きッとですよ、きッとですよ」
 西宮は肩へ掛けられた吉里の手をしかと握ッたが、妙に胸が迫ッて返辞がされないで、ただうなずいたばかりだ。
「平田さん、お待ちなさいよ。平田さん」
 お梅が幾たび声をかけても、平田はなお見返らないで、廊下の突当りの角を表梯子(おもてばしご)の方へ曲ろうとした時、「どこへおいでなさるの。こッちですよ」と、声をかけたのは小万だ。
「え、何だ。や、小万さんか。失敬」と、平田は小万の顔を珍らしそうにみつめた。
「どうなすッたの。ほほほほほ」
「お草履をおはきなさいよ」と、お梅は上草履を平田の前に置いた。
「あ、そうか」と、平田が上草履をはくところへ西宮も吉里も追いついた。
「あんまり何だから、どうなすッたかと思ッて……。平田さん、私の座敷へいらッしゃいよ。ゆッくりお茶でも召し上ッて。ねえ、吉里さん」
「ありがとう。いや、もう行こう。ねえ、西宮」
「そんなことをおッしゃらないで。何ですよ、まアいいじゃアありませんか」
 西宮はじッと小万の顔を見た。吉里は西宮の後にうつむいている。平田は廊下の洋燈(ランプ)を意味もなく見上げている。
「もうこのまま出かけよう。夜が明けても困る」と、西宮は小万にめくばせして、「お梅どん、帽子と外套(がいとう)を持ッて来るんだ。平田のもだよ。人車(くるま)は来てるだろうな」
「もうさッきから待ッてますよ」
 お梅は二客(ふたり)の外套帽子を取りに小万の部屋へ走ッて行った。
「平田さん」と、小万は平田の傍へ寄り、「本統にお名残り惜しゅうござんすことね。いつまたお目にかかれるでしょうねえ。御道中をお気をおつけなさいよ。貴郷(おくに)にお着きなすッたら、ちょいと知らせて下さいよ。ね、よござんすか。こんなことになろうとはね」
「何だ。何を言ッてるんだ。一言言やア済むじゃアないか」
 西宮に叱られて、小万は顔を背向(そむ)けながら口をつぐんだ。
「小万さん、いろいろお世話になッたッけねえ」と、平田は言いかけてしばらく無言。「どうか頼むよ」その声には力があり過ぎるほどだが、その上は言い得なかった。
 小万も何とも言い得ないで、西宮の後にうつむいている吉里を見ると、胸がわくわくして来て、涙を溢(こぼ)さずにはいられなかッた。
 お梅が帽子と外套を持ッて来た時、階下(した)から上ッて来た不寝番(ねずばん)の仲どんが、催促がましく人車(くるま)の久しく待ッていることを告げた。
 平田を先に一同梯子を下りた。吉里は一番後れて、階段(ふみだん)を踏むのも危険(あぶな)いほど力なさそうに見えた。
「吉里さん、吉里さん」と、小万が呼び立てた時は、平田も西宮ももう土間に下りていた。吉里は足が縮(すく)んだようで、上(あが)り框(がまち)までは行かれなかッた。
「吉里さん、ちょいと、ちょいと」と、西宮も声をかけた。
 吉里は一語(ひとこと)も吐(だ)さないで、真蒼(まッさお)な顔をしてじッと平田を見つめている。平田もじッと吉里を見ていたが、堪えられなくなッて横を向いた時、仲どんが耳門(くぐり)を開ける音がけたたましく聞えた。平田は足早に家外(おもて)へ出た。
「平田さん、御機嫌(ごきげん)よろしゅう」と、小万とお梅とは口を揃(そろ)えて声をかけた。
 西宮はまた今夜にも来て様子を知らせるからと、吉里へ言葉を残して耳門(くぐり)を出た。
「おい、気をつけてもらおうよ。御祝儀を戴いてるんだぜ。さようなら、御機嫌よろしゅう。どうかまたお近い内に」
 車声(くるま)は走り初めた。耳門はがらがらと閉められた。
 この時まで枯木(こぼく)のごとく立ッていた吉里は、小万に顔を見合わせて涙をはらはらと零(おと)し、小万が呼びかけた声も耳に入らぬのか、小走りの草履の音をばたばたとさせて、裏梯子から二階の自分の室へ駈け込み、まだ温気(あたたかみ)のある布団(ふとん)の上に泣き倒れた。

     六

 万客(ばんきゃく)の垢(あか)を宿(とど)めて、夏でさえ冷やつく名代部屋の夜具の中は、冬の夜の深(ふ)けては氷の上に臥(ね)るより耐えられぬかも知れぬ。新造(しんぞ)の注意か、枕もとには箱火鉢に湯沸しが掛かッて、その傍には一本の徳利と下物(さかな)の尽きた小皿とを載せた盆がある。裾の方は屏風(びょうぶ)で囲われ、頭(かみ)の方の障子の破隙(やぶれ)から吹き込む夜風は、油の尽きかかッた行燈の火を煽(あお)ッている。
「おお、寒い寒い」と、声も戦(ふる)いながら入ッて来て、夜具の中へ潜(もぐ)り込み、抱巻(かいまき)の袖に手を通し火鉢を引き寄せて両手を翳(かざ)したのは、富沢町の古着屋美濃屋(みのや)善吉と呼ぶ吉里の客である。
 年は四十ばかりで、軽(かろ)からぬ痘痕(いも)があッて、口つき鼻つきは尋常であるが、左の眼蓋(まぶた)に眼張(めっぱ)のような疵(きず)があり、見たところの下品(やすい)小柄の男である。
 善吉が吉里のもとに通い初めたのは一年ばかり前、ちょうど平田が来初めたころのことである。吉里はとかく善吉を冷遇し、終宵(いちや)まったく顔を見せない時が多かッたくらいだッた。それにも構わず善吉は毎晩のように通い詰め通い透(とお)して、この十月ごろから別して足が繁くなり、今月になッてからは毎晩来ていたのである。死金ばかりは使わず、きれるところにはきれもするので、新造や店の者にはいつも笑顔で迎えられていたのであった。
「寒いッたッて、箆棒(べらぼう)に寒い晩だ。酒は醒(さ)めてしまッたし、これじゃアしようがない。もうなかッたかしら」と、徳利を振ッて見て、「だめだ、だめだ」と、煙管(きせる)を取り上げて二三吹(ぷく)続けさまに煙草を喫(の)んだ。
「今あすこに立ッていたなア、小万の情夫(いいひと)になッてる西宮だ。一しょにいたのはお梅のようだッた。お熊が言ッた通り、平田も今夜はもう去(かえ)るんだと見えるな。座敷が明いたら入れてくれるか知らん。いい、そんなことはどうでもいい。座敷なんかどうでもいいんだ。ちょいとでも一しょに寝て、今夜ッきり来ないことを一言断りゃいいんだ。もう今夜ッきりきッと来ない。来ようと思ッたッて来られないのだ。まだ去(かえ)らないのかなア。もう帰りそうなものだ。大分手間が取れるようだ。本統に帰るのか知らん。去(かえ)らなきゃ去らないでもいい。情夫(いいひと)だとか何だとか言ッて騒いでやアがるんだから、どうせ去(かえ)りゃしまいよ。去らなきゃそれでいいから、顔だけでもいいから、ちょいとでもいいから……。今夜ッきりだ。もう来られないのだ。明日はどうなるんだか、まア分ッてるようでも……。自分ながら分らないんだ。ああ……」
 方角も吉里の室、距離(とおさ)もそのくらいのところに上草履の音が発(おこ)ッて、「平田さん、お待ちなさいよ」と、お梅の声で呼びかけて追いかける様子である。その後から二三人の足音が同じ方角へ歩み出した。
「や、去(かえ)るな。いよいよ去るな」と、善吉は撥(は)ね起きて障子を開けようとして、「またお梅にでもめッけられちゃア外見(きまり)が悪いな」と、障子の破隙(やぶれ)からしばらく覗いて、にッこりしながらまた夜具の中に潜り込んだ。
 上草履の音はしばらくすると聞えなくなッた。善吉は耳を澄ました。
「やッぱり去(かえ)らないんだと見えらア。去らなきゃア吉里が来ちゃアくれまい。ああ」と、善吉は火鉢に翳していた両手の間に頭を埋めた。
 しばらくして頭を上げて右の手で煙管を探ッたが、あえて煙草を喫(の)もうでもなく、顔の色は沈み、眉は皺(ひそ)み、深く物を思う体(てい)である。
「ああッ、お千代に済まないなア。何と思ッてるだろう。横浜に行ッてることと思ッてるだろうなア。すき好んで名代部屋に戦(ふる)えてるたア知らなかろう。さぞ恨んでるだろうなア。店も失(な)くした、お千代も生家(さと)へ返してしまッた――可哀そうにお千代は生家へ返してしまッたんだ。おれはひどい奴だ――ひどい奴なんだ。ああ、おれは意気地がない」
 上草履はまたはるかに聞え出した。梯子(はしご)を下りる音も聞えた。善吉が耳を澄ましていると、耳門(くぐり)を開ける音がして、続いて人車(くるま)の走るのも聞えた。
「はははは、去(かえ)ッた、去ッた、いよいよ去ッた。これから吉里が来るんだ。おれのほかに客はないのだし、きッとおれのところへ来るんだ。や、走り出したな。あの走ッてるのは吉里の草履の音だ。裏梯子を上ッて来る。さ、いよいよここへ来るんだ。きッとそうだ。きッとそうだ。そらこッちに駈けて来た」
 善吉は今にも吉里が障子を開けて、そこに顔を出すような気がして、火鉢に手を翳していることも出来ず、横にころりと倒(ころ)んで、屏風の端から一尺ばかり見える障子を眼を細くしながら見つめていた。
 上草履は善吉が名代部屋の前を通り過ぎた。善吉はびッくりして起き上ッて急いで障子を開けて見ると、上草履の主ははたして吉里であッた。善吉は茫然(ぼうぜん)として見送ッていると、吉里は見返りもせずに自分の室へ入ッて、手荒く障子を閉めた。
 善吉は何か言おうとしたが、唇を顫(ふる)わして息を呑んで、障子を閉めるのも忘れて、布団の上に倒れた。
「畜生、畜生、畜生めッ」と、しばらくしてこう叫んだ善吉は、涙一杯の眼で天井を見つめて、布団を二三度蹴(け)りに蹴った。
「おや、何をしていらッしゃるの」
 いつの間に人が来たのか。人が何を言ッたのか。とにかく人の声がしたので、善吉はびッくりして起き上ッて、じッとその人を見た。
「おほほほほほ。善さん、どうなすッたんですよ、まアそんな顔をなすッてさ。さアあちらへ参りましょう」
「お熊どんなのか。私しゃ今何か言ッてやアしなかッたかね」
「いいえ、何にも言ッてらッしゃりはしませんかッたよ。何だか変ですことね。どうかなすッたんですか」
「どうもしやアしない。なに、どうするものか」
「じゃア、あちらへ参りましょうよ」
「あちらへ」
「去(かえ)り跡になりましたから、花魁のお座敷へいらッしゃいよ」
「あ、そうかい。はははははは。そいつア剛気だ」
 善吉はつと立ッて威勢よく廊下へ出た。
「まアお待ちなさいよ。何かお忘れ物はございませんか。お紙入れは」
 善吉は返事もしない。お熊が枕もとを片づけるうちに、早や廊下を急ぐその足音が聞えた。
「まるで夢中だよ。私の言うことなんざ耳に入らないんだよ。何にも忘れなすッた物はないかしら。そら忘れて行ッたよ。あんなに言うのに紙入れを忘れて行ッたよ。煙草入れもだ。しようがないじゃアないか」
 お熊は敷布団の下にあッた紙入れと煙草入れとを取り上げ、盆を片手に持ッて廊下へ出た。善吉はすでに廊下に見えず、かなたの吉里の室の障子が明け放してあった。
「早くお臥(やす)みなさいまし。お寒うございますよ」と、吉里の室に入ッて来たお熊は、次の間に立ッたまま上の間へ進みにくそうに見えた善吉へ言った。
 上の間の唐紙は明放しにして、半ば押し除(の)けられた屏風の中には、吉里があちらを向いて寝ているのが見える、風を引きはせぬかと気遣(きづか)われるほど意気地のない布団の被(か)けざまをして。
 行燈はすでに消えて、窓の障子はほのぼのと明るくなッている。千住(せんじゅ)の製絨所(せいじゅうしょ)か鐘(かね)が淵(ふち)紡績会社かの汽笛がはるかに聞えて、上野の明け六時(むつ)の鐘も撞(う)ち始めた。
「善さん、しッかりなさいよ、お紙入れなんかお忘れなすッて」と、お熊が笑いながら出した紙入れを、善吉は苦笑いをしながら胸もあらわな寝衣(ねまき)の懐裡(ふところ)へ押し込んだ。
「ちッとお臥(よ)るがよござんすよ」
「もう夜が……明るくなッてるんだね」
「なにあなた、まだ六時ですよ。八時ごろまでお臥ッて、一口召し上ッて、それからお帰んなさるがよござんすよ」
「そう」と、善吉はなお突ッ立ッている。
「花魁、花魁」と、お熊は吉里へ声をかけたが、返辞もしなければ身動きもせぬ。
「しようがないね。善さん、早くお臥(やす)みなさいまし。八時になッたらお起し申しますよ」
 善吉がもすこしいてもらいたかッたお熊は室を出て行ッた。
 室の障子を開けるのが方々に聞え、梯子を上り下りする草履の音も多くなッた。馴染みの客を送り出して、その噂(うわさ)をしているのもあれば、初会の客に別れを惜しがッて、またの逢夜(おうや)を約(ちぎ)ッているのもある。夜はいよいよ明け放れた。
 善吉は一層気が忙(せわ)しくなッて、寝たくはあり、妙な心持はする、機会を失なッて、まじまじと吉里の寝姿を眺(なが)めていた。
 朝の寒さはひとしおである。西向きの吉里が室の寒さは耐えられぬほどである。吉里は二ツ三ツ続けて嚏(くさめ)をした。
「風を引くよ」と、善吉はわれを覚えず吉里の枕もとに近づき、「こんなことをしてるんだもの、寒いはずだ。私が着せてあげよう。おい、吉里さん。吉里さん、風を引くよ」
 吉里は袖を顔に当てて俯伏(つッぷ)し、眠(ね)てるのか眠てないのか、声をかけても返辞をせぬところを見ると、眠てるのであろうと思ッて、善吉はじッと見下した。
 雪よりも白い領(えり)の美くしさ。ぽうッとしかも白粉(しろこ)を吹いたような耳朶(みみたぶ)の愛らしさ。匂うがごとき揉上(もみあ)げは充血(あか)くなッた頬に乱れかかッている。袖は涙に濡(ぬ)れて、白茶地に牛房縞(ごぼうじま)の裏柳葉色(うらやなぎはいろ)を曇らせている。島田髷(まげ)はまったく根が抜け、藤紫(ふじむらさき)のなまこの半掛けは脱(はず)れて、枕は不用(いらぬ)もののように突き出されていた。
 善吉はややしばらく瞬(またた)きもせず吉里を見つめた。
 長鳴(ちょうめい)するがごとき上野の汽車の汽笛は鳴り始めた。
「お、汽車だ。もう汽車が出るんだな」と、善吉はなお吉里の寝顔を見つめながら言ッた。
「どうしようねえ。もう汽車が出るんだよ」と、泣き声は吉里の口から漏れて、つと立ち上ッて窓の障子を開けた。朝風は颯(さッ)と吹き込んで、びッくりしていた善吉は縮み上ッた。

     七

 忍(しのぶ)が岡(おか)と太郎稲荷(いなり)の森の梢には朝陽(あさひ)が際立ッて映(あた)ッている。入谷(いりや)はなお半分靄(もや)に包まれ、吉原田甫(たんぼ)は一面の霜である。空には一群一群の小鳥が輪を作ッて南の方へ飛んで行き、上野の森には烏(からす)が噪(さわ)ぎ始めた。大鷲(おおとり)神社の傍の田甫の白鷺(しらさぎ)が、一羽起(た)ち二羽起ち三羽立つと、明日の酉(とり)の市(まち)の売場に新らしく掛けた小屋から二三個(にん)の人が現われた。鉄漿溝(おはぐろどぶ)は泡(あわ)立ッたまま凍ッて、大音寺前の温泉の煙(けむ)は風に狂いながら流れている。
 一声(いっせい)の汽笛が高く長く尻を引いて動き出した上野の一番汽車は、見る見るうちに岡の裾を繞(めぐ)ッて、根岸に入ッたかと思うと、天王寺の森にその煙も見えなくなッた。
 窓の鉄棒を袖口を添えて両手に握り、夢現(ゆめうつつ)の界(さかい)に汽車を見送ッていた吉里は、すでに煙が見えなくなッても、なお瞬きもせずに見送ッていた。
「ああ、もう行ッてしまッた」と、呟(つぶ)やくように言ッた吉里の声は顫えた。
 まだ温気(あたたかみ)を含まぬ朝風は頬に□(はり)するばかりである。窓に顔を晒(さら)している吉里よりも、その後に立ッていた善吉は戦(ふる)え上ッて、今は耐えられなくなッた。
「風を引くよ、吉里さん。寒いじゃアないかね、閉めちゃアどうだね」と、善吉は歯の根も合わないで言ッた。
 見返ッた吉里は始めて善吉を認めて、「おや、善さんでしたか」
「閉めたらいいだろう。吉里さん、風を引くよ。顔の色が真青だよ」
「あの汽車はどこへ行くんでしょうね」
「今の汽車かね。青森まで行かなきゃ、仙台で止るんだろう」
「仙台。神戸にはいつごろ着くんでしょう」
「神戸に。それは、新橋の汽車でなくッちゃア。まるで方角違いだ」
「そう。そうだ新橋だッたんだよ」と、吉里はうつむいて、「今晩の新橋の夜汽車だッたッけ」
 吉里は次の間の長火鉢の傍に坐ッて、箪笥(たんす)にもたれて考え始めた。善吉は窓の障子を閉めて、吉里と火鉢を挾んで坐り、寒そうに懐手をしている。
 洗い物をして来たお熊は、室の内に入りながら、「おや、もうお起きなすッたんですか。もすこしお臥(よ)ッてらッしゃればいいのに」と、持ッて来た茶碗(ちゃわん)小皿などを茶棚(ちゃだな)へしまいかけた。
「なにもう寝なくッても――こんなに明るくなッちゃア寝てもいられまい。何しろ寒くッて、これじゃアたまらないや。お熊どん、私の着物を出してもらおうじゃないか」
「まアいいじゃアありませんか。今朝はゆっくりなすッて、一口召し上ッてからお帰りなさいましな」
「そうさね。どうでもいいんだけれど、何しろ寒くッて」
「本統に馬鹿にお寒いじゃあありませんかね。何か上げましょうね。ちょいとこれでも被(はお)ッていらッしゃい」と、お熊は衣桁(いこう)に掛けてあッた吉里のお召縮緬(ちりめん)の座敷着を取ッて、善吉の後から掛けてやッた。
 善吉はにっこりして左右の肩を見返り、「こいつぁア強気(ごうぎ)だ。これを借りてもいいのかい」
「善さんのことですもの。ねえ。花魁」
「へへへへへ。うまく言ッてるぜ」
「よくお似合いなさいますよ。ほほほほほ」
「はははは。袖を通したら、おかしなものだろう」
「なに、あなた。袖をお通しなすッて立ッてごらんなさい、きッとよくお似合いなさいますよ。ねえ、花魁」
「まさか。ははははは」
「ほほほほほ」
 吉里は一語(ひとこと)も発(い)わぬ。見向きもせぬ。やはり箪笥にもたれたまま考えている。
「そうしていらッしゃるうちに、お顔を洗ッていらッしゃいまし。その間(うち)にお掃除をして、じきにお酒にするようにしておきますよ。花魁、お連れ申して下さい。はい」と、お熊は善吉の前に楊枝箱(ようじばこ)を出した。
 善吉は吉原楊枝の房を□(むし)ッては火鉢の火にくべている。
「お誂(あつら)えは何を通しましょうね。早朝(はやい)んですから、何も出来ゃアしませんよ。桶豆腐(おけどうふ)にでもしましょうかね。それに油卵(あぶたま)でも」
「何でもいいよ。湯豆腐は結構だね」
「それでよござんすね。じゃア、花魁お連れ申して下さい」
 吉里は何も言わず、ついと立ッて廊下へ出た。善吉も座敷着を被(はお)ッたまま吉里の後(あと)から室を出た。
「花魁、お手拭は」と、お熊は吉里へ声をかけた。
 吉里は返辞をしない。はや二三間あちらへ行ッていた。
「私におくれ」と、善吉は戻ッて手拭を受け取ッて吉里を見ると、もう裏梯子を下りようとしていたところである。善吉は足早に吉里の後を追うて、梯子の中段で追いついたが、吉里は見返りもしないで下湯場(しもゆば)の方へ屈(まが)ッた。善吉はしばらく待ッていたが、吉里が急に出て来る様子もないから、われ一人悄然(しょうぜん)として顔を洗いに行ッた。
 そこには客が二人顔を洗ッていた。敵娼(あいかた)はいずれもその傍に附き添い、水を杓(く)んでやる、掛けてやる、善吉の目には羨ましく見受けられた。
 客の羽織の襟が折れぬのを理(なお)しながら善吉を見返ッたのは、善吉の連初会(つれじょかい)で二三度一座したことのある初緑(はつみどり)という花魁である。
「おや、善さん。昨夜(ゆうべ)もお一人。あんまりひどうござんすよ。一度くらいは連れて来て下すッたッていいじゃありませんか。本統にひどいよ」
「そういうわけじゃアないんだが、あの人は今こっちにいないもんだから」
「虚言(うそ)ばッかし。ようござんすよ。たんとお一人でおいでなさいよ」
「困るなアどうも」
「なに、よござんすよ。覚えておいでなさいよ。今日は昼間遊んでおいでなさるんでしょう」
「なに、そういうわけでもない」
「去(かえ)らないでおいでなさいよ、後で遊びに行きますから」
「東雲(しののめ)さんの吉(きッ)さんは今日も流連(なが)すんだッてね」と、今一人の名山(めいざん)という花魁が言いかけて、顔を洗ッている自分の客の書生風の男の肩を押え、「お前さんも去(かえ)らないで、夕方までおいでなさいよ」
「僕か。僕はいかん。なア君」
「そうじゃ。いずれまた今晩でも出直して来るんじゃ」
「よござんすよ、お前さんなんざアどうせ不実だから」
「何じゃ。不実じゃ」
「名山さん、金盥(かなだらい)が明いたら貸しておくれよ」と、今客を案内して来た小式部という花魁が言ッた。
「小式部さん、これを上げよう」と、初緑は金盥の一個(ひとつ)を小式部が方(かた)へ押しやり、一個(ひとつ)に水を満々(なみなみ)と湛(たた)えて、「さア善さん、お用(つか)いなさい。もうお湯がちっともないから、水ですよ」
「いや、結構。ありがとう」
「今度おいでなさる時、きっとですよ」
 善吉は漱(うがい)をしながらうなずく。初緑らの一群は声高に戯(たわぶ)れながら去(い)ッてしまッた。
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