晶子鑑賞
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:平野万里 

「新墾筑波を過ぎて幾夜か寝つる」といふ形、即ち五七・七の片歌といふ短い唄がわが民族の間に発生し、それが二つ重つて五七・五七・七の今の短歌の形が出来たのは何時の頃であらうか。少くもそれは数千年の昔のことで、その後今日までこの形式をかりて思ひを抒べた人々は恐らく幾千万の多きに上ることであらう。その内本来無名の民衆を除いて所謂歌人だけを数へても今日分明してゐるもの数千名はあらう。それほど短歌の形式はわが民族の好みに合つてゐるらしく今日でも数万人が朝に夕にこの形式を玩んでゐるやうだ。しかしその多数の歌人、非歌人の中にあつて我が與謝野晶子さん位沢山の歌を詠み、また優れた歌を詠んだ人は先ず無からう。人麻呂歌集の歌が全部人麻呂の作だとしても、貫之、和泉式部、西行、定家、伏見院さては近世の誰彼を以て比べても比較にはならない。二十代からなくなる六十五まで詠みつづけ、万を単位にして数へるほど詠まれたのであるから単に量の上からだけでも驚くに足りるのに、その内少くも二千首は秀歌の部類へ入るべき作で、之を古来の秀歌――私の標準に従ふと千首とはない――に比すると質の上からも一人で全体を遥に凌駕してゐる様に私には思はれる。しかし之を鑑賞する上からいふとその数の多い事が甚しく妨げとなつて、折角の宝も国民大衆とは殆ど交渉なく、少数のお弟子さん達の間にもてはやされ或は僅に好事家の書棚の隅に眠つてゐる位に過ぎない。之は甚しく不合理な事であると共に恐ろしく勿体ないことでもある。今や私達の日本は文化国家として新発足をする事になつたが、何を土台としてその上に何を建つべきであらうか。答の一半は明亮である。曰く近代の反動的風潮を一掃せよ。之を歌に就いて云へば万葉を一掃せよといふ事になる。罪が万葉にあるわけではないが、万葉の悪歌を祖述する反動的日本主義がわるいのである。又古臭い万葉などにこだはつてゐては新らしい詩歌の天地など開けつこはない。我より古を為すといふことが一番よいのであるが、誰にでもは望めない。多くの場合拠り処がほしいであらう。今日の短歌の拠り処は大体二つあつて、一は万葉、一は啄木であるやうだ。啄木は大に宜しいが、万葉は暫く之を捨つべきであらう、その万葉の代りになるものとして私はここに晶子歌をとりあげて之を国民大衆に紹介したい。而してまだ諸君の全く知らない、日本にもこんなよいものがあるといふ事を分つて貰ひ、精神的食糧の一部にも当てて貰ふと共に来るべき新文化建設の礎にもして欲しいと思つて之を書き出すわけだ。さうは云ふものの私にも晶子歌の全体などとても分らない。その分つた人は故寛先生一人位のものだらう。云ひ直せば、晶子歌のほんとうの読者は唯一人よりゐなかつたとも云へるわけだ。私など半分も分るか分らない位である。人間の偉らさが違ふのだから仕方ない。それにしても今日斯ういふ試みをする上に私以上の適任者があるかといへばそれも無ささうである。そこで止むを得ず私が当るのである。
 前置はその位にして直ちに歌を引き出さう。私は近年岩野喜久代さんのイニシヤチフによつて「晶子秀歌選」なる一書を編んだ。この本も紙型が焼けたので今では珍本になつてしまつたが、作者が前後四十余年間に作つたといはれる数万首中当時私の見る事の出来た二万余首を資料として二千六百首を選んだものである。のち之を年代順に春夏秋冬二巻に分ち、その前にプレリウドとして「乱れ髪」、「源氏振」の二小巻を付けて之を作つた。私は自分が選んだものながらこんなよい本はないと思つて日夜珍重し讃歎してゐる。私はこの本を台本として青年層の読者の為にはその中から美しいまた不覇奔放な初期の作から順に、然らざる読者層の為には晶子歌の完成した縹渺たる趣きを早く知つて貰ひたく晩年の作から逆に交互に拾つて行くことにする。

黒髪の千筋の髪の乱れ髪かつ思ひ乱れ思ひ乱るる

 明治三十四年七月、作者二十四歳の時出た第一集「乱れ髪」は一躍著者の文名を高からしめ、その自由奔放、大胆率直な内容と稍唐突奇矯な表現とを以て一世を驚倒させ毀誉相半ばしたものであるが、作者に取つては一生後悔の種ともなつた。罪は主としてその表現法にある。明治の歌を研究する人が出たら分ることと思ふが、私の胡乱な記憶と推定とに従へば、晶子調、之を拡げていへば明星調、いひ替へれば明治新調の成立したのは明治三十六年頃の事で、それ以前を私は発酵時代と名づける。さうして「乱れ髪」はその混沌たる発酵時代を代表してゐるのである。試みに開巻第一の歌 夜の帳にさきめきあまき星の今を下界の人の鬢のほつれよ を取つて見よう。あの星のまたたくのを見てゐると天上界では人々翠帳にこもつて甘語しきりなるを思はせるのに、その同じ時下界の私は一人で悶々としてゐるといふ様な意味に解せられるが、「星の今を」など随分無理な言ひ廻しであり、終りの「よ」なども困りものである。しかし詩の内容と外形とは二にして実は一つのものであるから、作者と雖後になつては之を如何ともしかたがなかつたものと思はれる。その「乱れ髪」の中にも相当調つた歌が少しはある。秀歌選には二十二首採つたが、この黒髪の歌もその一つで、私は之を開巻第一首とした。乱れ髪といふ本の名がどこから来たものか、つひ質さずにしまつたが、或はこの歌などから採られたのではないかとも思はれる。私はさう思つて秀歌選ではその「乱れ髪」の巻のはじめに置いて見たのである。一人孤閨にあつて思ひ乱れる麗人の心緒を髪の乱れに具象した作でそれだけのものであるが、髪の字を畳みかけて三つ重ね、その印象を読者の脳裏に刻みつけつつ、思ひ乱れ思ひ乱れと更に二つ言葉を重ね深く強く言ひ表はして成功してゐると私は思ふ。「かつ」といふ字句もよく利いてゐる。作者は岩波文庫本を自ら選ぶに当つて「乱れ髪」から十四首を採つたが、この歌は這入つてゐない。作者も重く見ず、世間的に有名な歌でもないが、繰り返し朗誦して厭くことを知らない佳作だと私は思つてゐる。

鵠沼の松の敷波ながめつつ我は師走の鶯を聞く

 病歿の前年昭和十六年の十二月、十二月は作者の誕生月であるから病床にありながら最後とも思はれる内祝もすませ、折から初まつた戦争の事を思へば いくさある太平洋の西南を思ひて我は寒き夜を泣く と歌ひながらも暫くは之を忘れ、心静かに木高い杉並辺には今なほ来鳴く武蔵野の冬の鶯を聞いてゐると鵠沼の松林がまぼろしに見える。上から見ると海の波の様にも見えるといふのであらう。何時の初冬であらうか、私も御いつしよに鵠沼に行つて皆で歌を詠んだことがあるが、この歌を読むと寝ながらその松林を想像に描いてゐる光景が私の脳裏にまざまざと浮んで来る。洵に大家の間吟として相応しい心憎い歌といふべきであらう。その内秀歌選の再版を出す様な折もあらうが、その際は極く少し許り改訂を試みたい。即ち軍に関係したものや満洲開拓の分などは削りたい。さうすると巻尾の歌はこの歌になるであらう。又鵠沼の歌には十三年頃詠まれた 鵠沼は広く豊かに松林伏し春の海下にとどろく といふのがある。

ゆあみして泉を出でしわが肌に触るるは苦し人の世の衣(きぬ)

「乱れ髪」の五十八首目にあり、裸体讃美の歌であるから、同集の持つ華麗な彩色の一つに数へられる。その頃明星は一條成美の簡単なスケツチ風裸絵の為に発売を止められた。さういふ時代であつたからこれも珍しかつたのである。集中無難な歌の一つで、それ故に作者も前記十四首の中に入れてゐる。

禅院のそとの高松水色に霙けぶりて海遠く鳴る

 禅院は鎌倉の円覚寺を斥し、それは作者が好んで訪れ、又故寛先生の忌日なども大抵はここで行はれた因縁の深い寺院である、それを病床で空想に描いた歌で、この海もまた作者に最も親しい海である。鎌倉の海を思ふと直ちに私の口から出て来る歌がある。それは 鎌倉の由井が浜辺の松も聞け君と我とは相思ふ人 といふ歌である。「佐保姫」に出てゐるが、明治四十一年だと思ふ、私の動坂の寓居の歌会で作られたものである。はじめ互選の際作者を知らぬ儘に余りあらはなので私がけなしつけた処、後でそれが晶子さんのだと分つて、私の感じは不思議に表裏一転し忽ち之を讃美するやうになつた。さういふことがあつたので、今でも忘れないでゐる。若い人よ、歌を作るなら大胆に率直にこんな風に作つて見たら如何ですか。

黒髪は王者を呼ぶに力わびず竜馬来たると春の風聴く

 これは第二集「小扇」(明治三十七年一月出版)の巻尾の歌で、調子の出来上つた後の作であるが、内容は「乱れ髪」を特色づける凛々たる勇気を誇示して恥ぢない歌だ。若い女が何物をも動かさずには置かない自らのはちきれさうな力を讃へるもので、日本文学にはそれまであまりなかつた思想である。春風を竜馬の訪れと聞くなど驚くべき矜貴といふべきである。 罪多き男こらせと肌きよく黒髪長くつくられし我 とか又有名な やは肌のあつき血汐に触れも見でさびしからずや道を説く君 など同じテマに属する一連の作があること昔は誰でも知つて居た。

正月に知れる限りの唱歌せし信濃の童女秋も来よかし

 久しく病床に伏す人の何物かを待つ気持がこれほどよくあらはれてゐる歌は多くあるまい。又 危しと命を云はず平らかに笑みて[#「笑みて」は底本では「笑ゐて」]我あり友尋ね来(こ)よ とも歌はれてゐる。余り屡□病床を御尋ねしなかつた私などはこれらの歌を読むとほんとうにすまなかつたといふ気がする。

こし方や我れおのづから額(ぬか)くだる謂はばこの恋巨人の姿

 之は作者自身の場合を述べたものであるから、事実を知らないとよく分らない。晶子さんが與謝野夫人になるには実に容易ならぬ障礙を突破しなければならなかつた。寛先生の側にも面倒があり、作者は 親兄の勘当ものとなり果てしわろき叔母見に来たまひしかな といふ歌のやうに、父兄から勘当同様の身となり、剰へ新夫妻は恋仇の恐ろしい報復を受けて一時は文壇の地位をさへ危くしたほどであつた。それは即ち一切の因習、道徳、義理、人情、善悪等を超越した行為であつた。それは殆ど宗教的の意義をさへ持つてゐた。或は人間至上主義といつたら反つて当つてゐるかも知れない。晶子さんの人間として偉大な一生はこの強烈な恋の道行から出発し、それを一筋に最後まで押し進めていつたことに尽きる。これだけの予備知識を以て臨めば、この歌の意味もその強い調子も自ら分るであらう。自分自身にさへも頭が下るといふのである。又人間性に対し深く考へさせられるこの一つの場合が簡潔に巨人の姿の一句で表現せられてゐることも適切である。これに依つて晶子さんが自身の場合をどう見てゐたかよく分り、世間の道徳律などを盾に彼此批判すべき筋のものでないことも分つて、悲痛の響をさへ帯びてゐる歌である。さうは云ふものの作者も亦唯の人間だ。その人間らしい歌に 親いろせ神何あらんとぞ思ふああこの心猛くあれかし といふのも見出される。

紅(べに)の萩みくしげ殿と云ふほどの姫君となり転寝(うたたね)ぞする

 これは病床から偶□起き上つて坐椅子か何かに助けられ、僅に接し得る外界、庭の萩を見ながら詠まれたもので、作者の平安趣味のすらすらと少しも巧まずに眼前の風物を縁にあらはれてゐる気持のよい歌である。しかし斯ういふ歌はあまり真似をしてはいけない。真似ても歌にはなりにくい。なぜなら人間の反映がこの歌を為してゐる。さういつても過言でないからである。

少女(をとめ)なれば姿は羞ぢて君に倚る心天ゆく日もありぬべし

 晶子さんを親しく知らない人は、その書いたものから逞しい女丈夫などを想像するかも知れないが、実は若い時から物静かなはにかみやで、見た所は純日本風のしとやかな奥様でしかなかつた。唯心中に炬火が燃え盛つてゐて、又自らの天分を高く評価して居られたのが他との相違である。それをその儘詠出するとこの歌になる。

片隅に柿浸されし上つ毛の古笹の湯の思はるる秋

 静かに病床に横たはる長い病人が、大分薄れた意識で曾遊の地を思ひ出す場合、印象の強く残つたものだけが浮び上つて来ることだらうと推定される。従つてさうして出来た歌も自ら印象的のものとなつて、殆ど凡てが金玉の響を伝へ、その数は少いが健康時の作の持たぬ濃いニユアンスを持つのはその処である。この歌もその一つで、渋を抜く為に温泉に浸されてゐた柿の色が強く印象に残つてゐたものと思はれてこの歌が出来たのであらう。作者が笹の湯に遊んだのは十四年頃で 逞しき宿屋の傘を時雨やみ大根の葉へ我置きて行く などその時も多数の作が残つてゐる。

紫の我が世の恋の朝ぼらけもろての上の春風薫る

 久しくあこがれてゐた恋がいま成就しようとしてゐる、その時の心を、かぐはしい朝の春風がもろ手の上にをどるといふ境に具象した歌であるが、こんな歌さへ晶子以前には決してなかつただらう。因に紫といふ色は晶子好みとでもいふべき色で、著る物なども多くこの色で染められ晩年まで変らなかつたといふことである。

友帰り金剛峰寺の西門の入日に我をよそへずもがな

 常に吟行を共にした御弟子の近江滿子さんが一人高野山に登られたのを病床で想像しながら詠まれた歌の一つ。何れ死ぬのであらうが死ぬ事はやはり淋しい事だ。そんな事は思ひたくないといふ感じを西門の入日に托した歌で、さういふ場合の心細い感じが洵によくあらはれてゐる。しかしまた脱俗した趣きもあり健康時には反つて出来さうにもない歌である。同じ時の作に 色づきし万年草のひさがるゝ高野の秋も寒かりぬべし 桔梗など刈萱堂に供へつゝ高野の山を友の行くらん などがある。

つばくらの羽にしたたる春雨を受けて撫でんかわが朝寝髪

 日本では女の髪を黒髪といつて女そのものと同じ値をつけてゐる。その大切な黒髪を少女心のこよなくいたはる心持を詠んだ歌であるが、情景相応した気持のよい出来栄えで乱れ髪の中では最も無難な歌の一つに数へられる。

刈萱は烏の末の子と云はん顔して著たるぶつさき羽織

 昭和十五年の春夫人の仆れた脳溢血は可なり程度の強いもので一時は意識さへ朦朧となられたが次第に囘復し翌年の夏には起き上ることが出来、やがて上野原の依水荘へ出養生に行かれるまでになつた。精神力も著しく囘復し、半切なども書かれ、歌もここでは沢山よまれた。その帰途、小仏峠辺で車窓に映つた光景の一つがこれだと思はれる。ぶつさき羽織は武人の著た羽織で刀を差す為に背中から下が裂けてゐるあれである。烏の末の子とでもいふ様な顔をしてぶつさき羽織を著てゐる刈萱が車窓に映つたのである。斯ういふ表現は全く個人的な印象に本づくものであるから他人はどうすることも出来ない。唯それが天才の目に映じたものである場合に読者はそれに依つてものを見る目を開けて貰ふことが出来るだけである。天才の作品を読むことに依つて生活が豊かになるのはその為である。また斯ういふ表現法は従前の日本には無かつたことであるが、実は少しも珍しくはない。また短歌のやうな短い形式の詩では、斯ういふ風な表現によつて印象を適確に再現し得る場合が多い訳でもある。

春短し何に不滅の命ぞと力ある乳(ち)を手に探らせぬ

「乱れ髪」の代表的な作として久しく喧伝せられたものの一つであるが、これなどは今取り出して見ても若い生命の躍動が感ぜられて面白い。難は少しく明白に過ぎることだが、古陋な因習を断ち切つて人間性を強く主張するにはこの位にやらねばならなかつたのである。この歌の基調は現在主義であつて生命不滅観や既成宗教の未来観などを蹴とばしたものであるが、また同じ作者のものが一生を通じて生活の基調を為してゐて少くも変ることがなかつた。

唐傘(からかさ)のお壼になりし山風の話も甲斐に聞けばおどろし

 前記依水荘に出養生に行つて居られた時の作の一つ。夏の山の雨は往々にしてすさまじい勢ひを見せるものだ。この間にもさういふ雨が降つたと思はれ その昔島田の橋に君の会ひ我の会ひたる山の雨降る といふ歌があるが、その風雨の中を帰つて来た人の話を聴いて、こわいことだと山国の甲斐にあることを感じたのである。

わが春の笑みを讃ぜよ麗人の泣くを見ずやと暇(ひま)なきものか

 これは第三集「毒草」にある歌で、その調子は既に生長してゐて流麗まことに鶯の囀ずる如きものがある。さて歌の意味であるが一寸分りにくい。当時作者の好んで歌つた京の舞姫の場合ではないかと思ふ。さうだとすれば朝は「私の笑顔をほめよ」といひ夕は「こんな美人が泣いてゐるのに」と戯れつつたわいない一日を過ごすといふ様に解せられるが如何いふものだらうか。

死も忘れ今日も静に伏してあり五月雨注ぐ柏木の奥

 これも大分よくなられてからの歌だと思ふが、前の西門の入日の歌もあり又末嬢の藤子さんの家の焼けたことを依水荘で聞かれて やがてはた我も煙となりぬべし我子の家の焼くるのみかは と死の近づきを想見する歌もあるが、床上生活の大部分はこの歌のやうに静かに余りものを考へずに休んで居られた時間であつたらうと想像せられる。人間性の尊貴のために又自己の天分を高度に発揮しようとしてその旺盛な生活力を駆つて一生奮闘し続けた作者を知るものに取つては、せめて残された床上の生活位は安らかなものであつて欲しかつたが、事実もさうであつたらしくこの歌をよんでほつとした人も多いことであらう。

いとせめて燃ゆるがままに燃えしめよ斯くぞ覚ゆる暮れてゆく春

 春はいま終らうとしてゐる、その間だに青春の血の燃ゆるに任せようといふ例の積極的な力強い感じが批の打ち処なく美しくあらはれてゐる名歌の一つ。作者もこの歌は捨てなかつた。

隅田川長き橋をば渡る日のありやなしやを云はず思はず

 昼夜寝続けてゐる病人の幻想にあらはれるものは必ずや多少とも深い印象の残されたものに相違ない。隅田川もその一つであつて、一時は浜町辺の病院にゐる幻覚をつづけ 大君の都の中の大川にほとりして病む秋の初めに といふ歌さへ作られてゐる程であつた。この歌は、思想の動揺に堪へる気力がない、も一度直つて隅田川を渡れるか如何かそんなことさへ口へ出したり考へたりしないで置かうといふので、意識のうすれた心情がよく現はれてゐてあはれが深い。

松前や筑紫や室(むろ)の混り唄帆を織る磯に春雨ぞ降る

 この歌はどういふものかあまり本に出て居ない。與謝野家がまだ渋谷の丘の下の家にゐた頃四五人集つて歌をよむこと毎月一度位はあつたやうであるが、ある日のさういふ席で作られたものである。当時歌の作り方の分らなかつた初心の私に強い印象を刻みつけた歌であるから今に忘れないものの一つである。偶□その席に来合せた故馬場孤蝶先生もまたこの歌にひどく感心したやうな記憶がある。「室」は室の津である、あとは説明を要しないが、如何にものどかな磯の景色が絵のやうに浮ぶではないか。ただし之は明治の大御代の話であるから今日の読者には如何か分らない。

身のいたしゆたのたゆたに縞葦の浸れる川へ我も入らまし

 同じ姿勢で寝つづけてゐる病人が、体が痛いのでどうかしたいと思つた時、ふと豊かな水の中で静かに縞葦のゆれる光景が目に浮んだ。あの葦のやうに川へつかつたら如何だらう。如何にも気持がよささうだと途方もない空想を描く歌である。さうしてこの途方もない空想こそ詩人に与へられた一つの特典なのである。

紅(あけ)の緒の金鼓寄せぬと覚まさばやよく寝(ね)る人を憎む湯の宿

 京の舞姫を詩題に使つたもの若い晶子さんのやうなのは先づない。(後を吉井勇君によつて継承せられてはゐるが)。この歌もその一つで、有馬辺の小さな朝の光景のスナツプである。「金鼓」は軍鼓で、但し紅い紐がついてゐるから女持の軍鼓である。敵が攻めて来ましたよといつて起しませうかといふわけなのであらう。世間一般の歌といふものが味もそつけもないつまらない唯事歌となり了つて既に久しい。どうです、少しこんな歌でもも一度はやらせて世直しがして見たいとは思ひませんか。

日を経ては香に焦げたる色となる初めは白き山梔(くちなし)の花

 之も病床吟であるから、瓶に□した山梔の花を詠じたものである。もし露地の花をよんだものだとするとこれではいけない、何故なら少しも露地の景色があらはれてゐないからである。瓶の山梔を毎日眺めてゐると既に色づいて来て香にこげたやうな色になつたといふので如何にも床上の山梔の花のやつれてゆく様がその儘にあらはれてゐる。やつれながらも尚匂つてゐるのを香にこげたといふ風にいつたのだと解くものがあるかも知れないがさう迄考へなくてもよからう。

相見んと待つ間も早く今日の来て我のみ物は思ふ衰へ

 由来純抒情詩のカテゴリイに属する作にはむづかしくて意味の分りにくいのが少くないが、特にこの作者のにはそれが多い。中には女でなければ分らないのもあるし、分つたやうで分らないのもある。この歌などもどうもよく分らない。再会を約した日が今日となつてしまつたがこの私の衰へ様は如何だ、それはこちら許りが物思ひにふけつた為である。さうとも知らずにこのやつれた様を何と思ふだらうといふ様に私は解くが果して如何いふものか。

経文を伝法院に学ばんと貞子の語り蟋蟀の鳴く

 由来家常茶飯事を歌によんで立派な歌にしたてたこと作者のやうな人は先づなかつた。この歌などもさうだ。貞子とは多分今赤須貞子となつた元の圓城寺さんのことだらうと思ふが、貞子さんは病中最も多く病床に侍した人の一人である。その貞子さんが話の序に或は伝法院の表に観音経読誦会の立札か何か立つてゐた話をして私も出て見ませうかしら位のことをいつたのではないか。それをしかし一寸面白いことだと聞手は思ふ。蟋蟀がしきりに鳴いてゐる。先づこんな風にとかれるが淡々として何ともいへない面白味が感ぜられる。それは私一人の感に止るであらうか。

里住の春雨降れば傘さして君とわが植う海棠の苗

 渋谷時代の作。「海棠の苗」とは盆栽にする様な小さい木の意味であらう。海棠は花の咲く前に掘り起して鉢に植ゑればやがて葉が出て花が咲く。一日小雨のそぼふるのをよい事に露地の苗を掘り上げ鉢に移し植ゑてやつた、之も町娘の知らなかつた里住みのをかしさであるといふのであらうか。この歌は第四集「恋衣」の歌だ。調子が調つてゐて隙のないのも蓋しその所である。

わが上に残れる月日一瞬によし替へんとも君生きて来よ

 中年以後晶子さんには心臓の弱い自覚病状があり、折□病床にも伏したに反し、良人寛先生は全くの健康体を享楽することが出来た。そこで晶子さんは良人にみとられながら先に死んでゆく運命にあるものと信じてゐた。然るに事実は之に反し 我死なず事は一切顛倒す悲しむべしと歎きしは亡し といふことになつてしまつた。元来寛先生は作者にとつては尋常の配偶者以上の意味を持つ存在で、晶子さんをしてよくその天分を発揮させ大を為さしめたものは実に寛先生であり、歌の場合特に晩年は唯一人の読者ですらあつた。であるから側に先生の居ないことがどれ程寂しいことであつたか想像される。さうして多数の歌がこの心情を記録してゐるがこれがその最後のもので、悲痛を極めて居る。

やや広く廂出したる母屋造(もやづくり)木の香にまじる橘の花

「母屋造」は普通の入母屋造の略ではなく、王朝の寝殿造のことで栄花か源氏の光景を詠じたものと思はれるが、蜜柑の花の咲く暖地に出来た新建築と見ても構はない、木の香と橘の匂ひと交錯する趣きを味へばそれでも宜しからう。橘を思ふと私は直ぐ 五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする といふ歌を思ひ出す。作者の潜在意識にも或はこの歌があつたかも知れない。

明るくて紀(とし)子は楽し薔薇を摘み茅花抜く日も我れみとる日も

 どんな静かな、またどんなじめじめした席であらうと紀子さんが一枚加はれば、朝日の射し込んだやうに急に明るくなる。生れついてさういふ賑やかさを紀子さんは持つてゐる。その人を歌つたこの歌の何とまた明るくて楽しいことよ。病人がこの人の看護でどれ程楽しい思ひをしたか、歌がその儘を示してゐる。茅花抜くといふのは紀子さんが「茅花抄」といふ歌集を出したのに因る。

海恋し潮(しほ)の遠鳴り数へては少女となりし父母の家

 この歌などは既に文学史上クラシツクに入るべきもので、今更鑑賞もをかしい位のものだが、いへば堺の生家を思ひ出した歌で海は静かな大伴の高師の海である。

自らは不死の薬の壼抱く身と思ひつつ死なんとすらん

 発病の翌年の春意識の漸く囘復して歌を作りうるまでになつた時のもので、芸は長く命は短しの句を現実に自己の上に体験する作である。作者は自己の天分を深く信じその作が不朽のものであることを疑はないのに、それにも拘らず現に今死なうとしてゐる。而してそれを如何することも出来ないといふ心であらう。同じ頃の歌に 病む人ははかなかりけり縺れたる文字の外にはこし方もなし 木の間なる染井吉野の白ほどのはかなき命抱く春かな といふ様なのがある。之等はしかし、悲痛といふより反つてもの静かなあきらめの調子を帯びてゐて同調し易い。

つゆ晴の海のやうなる玉川や酒屋の旗や黍(もろこし)の風

 之は決して写生の歌ではない。作者の白日夢でありシンフオニイである。歌を解剖したり色々詮議立をしたりなどしてはいけない。ドビツシイを味ふやうにその儘味へば滋味尽くる所を知らないであらう。繰り返し繰り返し唯口に任せて朗誦すればそれでよいのである。

船下り船上りくる橋立の久世の切戸に慰まぬかな

 之は昭和十五年の春作者の試みた最後の旅行で、御弟子さん数名と橋立に泊つて作つた歌の一つだ。橋立は與謝野の姓の本づく所で特に因縁が深く、そこの山上には歌碑も建つてゐる。美しい水の上を遊船がしきりに上下する久世の切戸を見てゐれば厭きることもない。それだのに私は慰まない。あるべき人がゐないからである。それが因縁の深い橋立だけにあはれも深い。

髪に□せばかくやくと射る夏の日や王者の花の黄金向日葵(こがねひぐるま)

 雑誌「明星」の基調の一つは積極性であつた。さびやしをりの排撃であつた。花なら夏の向日葵が之を代表する。寛先生に有名な向日葵の詩があり、作者にこの歌がある。実際渋谷の家も千駄谷の家も表は向日葵で輝いてゐた、蒲原有明先生の如きもこの花を当時の新詩社の象徴だつたとして囘顧し居られる。

たかだかと太鼓鳴り出づ鞍馬山八島にことの初まりぬらん

 同じ時鞍馬山に遊んだ作の一つ。貫主僧正が御弟子さんなので屡□遊ばれ、この折は金剛寿命院の新築が成功した際とて沢山歌を読まれてゐる。急に太鼓が鳴り出したのでおや八島で戦ひが初まつたらしいといふ牛若の生長した義經を使つたノンセンスを言ひ構へ、それに依つて当の鞍馬の情景を彷彿せしめた歌だ。こんな手法は相当の達人でなければやれない事だが又やつてはならない事でもある。

八月や水蘆いたく丈伸びてわれ喚びかねつ馬洗ふ人

 蘆が伸びて視界を隠した為、呼んでも声が届かない様な錯覚に陥る、そこに興味の中心が置かれてゐるやうであるが、その田舎びた環境と共に珍しい面白い歌である。

花見れば大宮の辺の恋しきと源氏に書ける須磨桜咲く

 誰にでもよいから試みに須磨にて桜の咲くのを見て詠めるといふ前書の歌を作らせたらどうであらう。これ以上の歌が出来ようか。私は出来まいと思ふ。啄木でも吉井勇君でも出来まい。いはんや他の諸君など思ひもよらない。須磨桜などいふ造語の旨さはたまらない。

今日充ちて今日足らひては今日死なん明日よ昨日よ我の知らぬ名

 これこそ晶子さんの一生を通じて生活の基調となつてゐた哲学であり宗教であつて、六十五年の偉大な生涯は唯その実行に外ならなかつた、しかし浅薄な刹那主義と混同して貰ひたくない。四十余年の長い間作者に接近した私としては、禅の即今に通じ、道元禅師の今日一日の行持に通じ、耶蘇の空飛ぶ鳥の教へに通ずる永遠の現在らしいものを生れながらにして身に著けてゐた人だと思ふ外はない。

花吹雪兵衛の坊も御所坊も目におかずして空に渦巻く

 有馬での作。何々坊といふのは有馬の湯の宿特有の名でその広大な構へと相俟つてこの温泉の古い歴史と伝統とを誇示してゐる。有馬には桜が多くその散り方の壮観が思はれるが、それが坊名をあしらふことによつて有馬情調そのまゝに表現されてゐる。

下京(しもぎやう)や紅屋(べにや)が門(かど)をくぐりたる男うつくし春の夜の月

 [#全角アキは底本ではなし]うつくしはもとかはゆしとあつてそれ故に名高かつた歌の一つである。ここには作者の意志を尊重して改作の方に従つたが、晶子フアンの一人兼常博士などはかはゆしでなければいけないと主張される。成程さう聞くとかはゆし[#「かはゆし」は底本では「かあゆし」]の方がよいかも知れない。しかし要は下京あたりの春の夜の情調が出ればそれでよいのであらう。紅屋とは紅花を煮て京紅をつくる家の意味であらう。若旦那か番頭か美男が一人門から出て来たといふのであるが、断るまでもなくこれは明治時代の話です。

山荘へ凧吹かれぬと取りに来ぬ天城なりせば子等いかにせん

 伊豆三津の五杉山荘滞在中の作、子供が山荘へ落ちた凧を取りに来た。山荘だからよかつたものの、このうしろの天城山へでも飛んだのだつたらどうだらうといふ即事のユウモアであるが、このユウモアがこればかりの些事を生かして一個の詩を成立させてゐるのである。

網倉の隅に古網人ならば寂しからまし我がたぐひかは

 どこの漁村でも網倉といつたものはあらう。三津浜のそれは相当大きなもので私もそれをのぞいて見たことがある様な気がする。その隅の方に今は使はれない古網が棄てられてあつた。作者はそれを我が身に引きくらべ、わたしどころではないと寂しさうな古網に同情した歌である。非情をとらへて生あるものの様に取り扱ふ手法は何も珍しい事ではないが、この作者の場合は実に迫つて相手の非情に自己の生命を分けてゐるやうにさへ感ぜられる。

養はるる寺の庫裡なる雁来紅輪袈裟は掛けで鶏(とり)追はましを

 この歌も今日では立派なクラシツクで、古来の名歌と一列に朗々として誦すべきものの一つであらう。庫裡の前の雁来紅が真紅に燃えて秋も漸く深い、さて配するにこの寺の養子であるいたづら盛りの小僧さんを以てして情景を浮び上らせてゐるわけだ。寛先生自身又その令兄達皆幼時からそれぞれ寺に養はれた事実があるが、それがこの歌のモチイフを為してゐること勿論の話だ。

雪厚し長浜村の船大工槌打つほどの赤石が岳

 これも三津浜で作つたものの一つ、しかしこの歌はほんとうには私によくわからない。それをここへ出したのは、その取り合せが如何にも面白いからである。三津から見た富士は天下第一と云はれる美観だが、あの辺りからはまた低く赤石山脈も見える。浜は桜が満開なのに山は雪で真白だ。低くて手が届きさうにさへ見える、長浜村の船大工なら槌でこつこつ叩けさうな気がする。まあそんな風にこじつけて見るより外私には致し方がないが、まあ意味はどうでも宜しい。赤石岳と船大工の取り合せが面白いので私は之を愛誦する。

さしかざす小傘(をがさ)に紅き揚羽蝶小褄(こづま)とる手に雪散りかかる

 京の芸子のこつてりした風俗は、作者の好みによく合致したものらしく、第一集乱れ髪の主要テマとなつたと共にそれからも長い間歌題を供給した。この歌などもその最も成功したものの一つで、説明する迄もなく、昔の鴨東辺の情景が絵のやうにはつきり現はれてゐる。同じ雪の夜の歌に 友禅の袖十あまり円く寄り千鳥聞く夜を雪降り出でぬ 之は舞子ばかりの集りらしい。又 川越えて皷凍らぬ夜をほめぬ千鳥啼く夜の加茂の里びと 又明けては 後朝(きぬ/″\)や雪の傘する舞衣うしろ手見よと橋越えてきぬ 冬川は千鳥ぞ来啼く三本木紅友禅の夜著干す縁に 舞衣五人紅(いつたりあけ)の草履して河原に出でぬ千鳥の中に 嵐山名所の橋の初雪に七人渡る舞衣かな など色々あるが皆とりどりに面白い。

再生の荷葉(かせふ)と拝む大愚なき世に安んじてよく眠れ牛

 伊豆伊東に近い大室山[#「大室山」は底本では「大宝山」]の麓にこの頃一碧湖といはれてゐる吉田の大池がある。その丘陵上に島谷亮輔さんの抛書山房があるが、先生夫妻の好んで遊ばれた所である。近年乳牛も飼はれてゐたので、乳牛の歌も数首作られた、その一つ。大愚といふ和尚は支那にも日本にも居る。荷葉の生れ替りだといつて牛を拝んだといふ話、私は知らないがありさうな話だ。牛から云へば至極迷惑のことでくすぐつたいこと夥しく、こんなことが始終あつては落付いて眠れもしない。しかし安心するがよい、牛の拝めるやうな大悟徹底した坊さんは今日ゐないからといふわけである。牛を詠んだのやら禅僧をなめたのやら、どちらつかずの辺にこの歌の面白味が漂ふのであらう。

酒造る神と書きたる三尺の鳥居の上の紅梅の花

 私はこの社のことを知らないからこれ以上説明しようもないが、三尺の鳥居といふからは極く小さいもので従つて或は路傍の小社らしくも思はれる。或は造り酒屋の庭の隅などにあるものも想像される、さうだとすれば鳥居の文字と紅梅とを取り合せて早春の田舎の情調を出さうとしたものではなからうか、すつきりした気持のよい歌である。

春雨の早雲寺坂行きぬべし病むとも君がある世なりせば

 箱根の湯本で之もお弟子の鈴木松代さんの経営する吉池の奥の別棟に、少しく病んで逗留して居られた時の作。[#「。」は底本では「、」]もし世が世であつたら、雨を侵し病を押してでも直ぐ上の旧道へ出て急な早雲寺坂を登りもするのだが、今はとてもそんな気力はない、室にこもつて一入春雨にぬれる箱根路の光景を想像するだけだといふ例の良人を欠く心持を春雨に托し病に托し情景相かなはせた歌だ。

手力(たぢから)の弱や十歩(とあし)に鐘やみて桜散るなり山の夜の寺

 山寺の夜桜を賞する女連れが試みに鐘をついた所、嫋々として長く引くべき余音が僅に十歩行くか行かないうちに消えてしまつた。女の力なんて弱いものねといふほどの興味を表へ出した朧月夜の日本情調である。

雲にして山に紛(まが)ふも山にして雲に紛ふも咎むる勿れ

 二つ前のそれと同じ時湯本で早春の箱根に雲の往来する姿を朝夕眺めつつ、或時は雲にして山に紛ひ、或時は山にして雲に紛ふ変幻極りない山の事象を其の儘正抒し、それをかりて同時に現象世界の不合理不都合を許容しようとする心持をさへ咎むる勿れといふ一句で象徴したものと解せられないこともない。

伽藍過ぎ宮を通りて鹿吹きぬ伶人めきし奈良の秋風

 山川草木一切成仏といひ有情非情同時成道などといつて大乗仏教には人とその他とを区別しない一面がある。晶子さんは大乗経典も一通り読んで居られるが、晶子さんの同じ思想、同じ感じは経典から学び取つたものでなくて生れながらにして持つてゐたものらしい。擬人法が少し過ぎる位に使はれるのもこの思想感情のあらはれで作者にとつては少しもわざとらしいことではないのであらう。この歌の場合などは「めきし」となつてゐて擬人とまで行つて居らず、奈良を吹く秋風が伽藍の中でも、お宮の中でも伶人らしく振舞つてそれぞれの楽を奏して来たが、しまひに春日野に出て鹿の背を撫で、なほ嫋々たる余音を断たないといふほどの心で人を驚かすほどのことはないが、他の多くの場合には後に出て来る筈だが大にそれがある。

千鳥啼き河原の上の五六戸が甘げに吸へる日の光かな

 之はまだ健康体であつた十四年の正月、上野原の依水荘での作。窓から冬枯の川原が広広と見渡され、千鳥が啼き、川糸遊が立ち山の朝日が昇つて初春らしい気分になる。河原の左側の堤の上の農家の家根がさも甘さうに日光を吸つてゐるといふのであるが、対境に同感するやさしい心、歌に裏をつける心持も同時に感ぜられる。

比叡の嶺に薄雪すると粥くれぬ錦織るなる美くしき人

 一寸難しい歌だが、こんな風にも解せられる。北山の辺で錦を織つてゐる美人の許へ男が通つてゆく。いつもならその儘早く帰してしまふのであるが、冬も進んで今朝は特に寒く叡山に薄雪が見える、恋人に寒い目をさせまいと暖かい朝粥を食べさせて帰したと。別の解釈もあらうが兎に角綺麗な古京らしい歌で、時代が帰らぬやうに斯んな歌も今の京都では出来ないであらう。兼常博士に教はつたことだが、叡山に何とか懴法会の行はれる日は粥接待といふ行事があるさうで、それは霰の降る様な寒い日ださうである。

先立ちて帰りし友の車中の語聞かで知るこそあはれなりけれ

 昭和十三年の秋、笹の湯から法師温泉を廻られた時、行を共にした中に二、三先に帰つた人達があつた。あの人達が車中話す第一の話は何だらう、晶子先生もすつかり年をとつて弱られましたねといふのであらう。聴かずとも分る。その位自分は衰へてしまつた。ことに前にこの法師温泉へ来た頃に比べると自分ながらよく分るといふわけで、読後の感じの恐ろしい位の歌だ。

京の衆に初音まゐろと家毎に鶯飼ひぬ愛宕(をたぎ)の郡

 晶子秀歌選を作るに当つて私はそのプレリウドの一つに「古京の歌」なる小題を設け、八十五首を収めた。曰く「年二十四で上京される迄両親の膝下で見聞された京畿の風物は深く作者の脳裡に刻み込まれてゐて、上京後も長い間ここに詩材を求められた。舌足らずの感ある初期の作中でも京の舞姫を歌つたものは難が少い。風物鑑賞は作者の最も得意とする処で本集後半の歌の大部分はこの種類に属してゐるがそれが早期にあらはれた分中、京畿を対象とするものを収めた」と。そこで鑑賞の方も若い面はしばらく「古京の歌」ばかりになる。この歌も別に説明を要しない。唯上等の読者はその中に鶯の囀るやうな音楽を聴き分けることが出来るに違ひない。

法師の湯廊を行き交ふ人の皆十年ばかりは事無かれかし

 法師温泉は今時珍しい山の中の温泉で電灯さへない。温泉は赤谷川の川原を囲つたやうな原始的な作りで、長い廊下でおも家と結ばれてゐる。そこで湯に入る為に「廊を行き交ふ」ことになる。私は十余年を隔ててゆくりなくもまた法師湯に浸つた。しかしその間に私には一大変化が起りこのやうにやつれてしまつた。今日ここへ来て湯に入る人達だけは、せめてあと十年間は事の起らないよう、祈らずにはゐられないといふので、洵にこの作者に著しい思ひやりの深い、自他を区別しない温かい心情のにじみ出てゐる作である。

鳴滝や庭滑らかに椿散る伯母の御寺の鶯の声

 手入れのよく届いた御寺の庭を庭なめらかにといひ、椿をあしらひ、鶯をあしらひ更に伯母の御寺と限定具象して鳴滝辺の早春の情調を漂はせた美しい作である。

赤谷川人流すまで量まさる越の時雨はさもあらばあれ

 赤谷川はその源を越後境の三国峠に発して法師湯の前を流れる常時静かな渓流である。それが急に水量が増した。越後側に降つた時雨がどんなものであるかそんなことは考へないことにするが、唯この目前の水量の増し方は如何だ、一歩足を入れゝば押し流されさうだ。

春の水船に十人(とたり)の桜人(さくらびと)皷打つなり月昇る時

 嵯峨の渡月橋辺の昔の光景でも想像しながらこの歌を読めば完全に鑑賞出来ようといふものである。さくらびとは造語で舞子達の桜の花簪でもさしてゐるのを戯れたものと見てよからうか。勿論古歌のさくらびととは何の関係もない。

故ありて云ふに足らざるものとせぬ物聞橋へ散る木の葉かな

 新々訳源氏物語が完成してその饗宴が上野の精養軒で開かれた。可なりの盛会であつた、その直後に伊香保吟行が行はれ、四五人で千明(ちぎら)に泊つた。私も同行したが、平常は分らなかつた衰へが、不自由勝な旅では表面へ出て来て私の目にもとまつた。前の車中の話の歌が心にしみたのもその故である。作者が初めて伊香保に遊ばれたのは「私の盛りの時代」と自らいはれる大正八年頃の事で沢山歌が出来てゐる。この行は夫妻二人きりのものではなかつたか。この歌をよむとその際であらう。物聞橋の上で何事かあつたらしい。物聞橋は小さいあるかなきかの橋ながら、私にとつては如何でもよい唯の橋ではない。その時は初夏で満山潮の湧くやうであつたが、今は秋やうやく深く木の葉が散つて来る。さうして私は一人になつて衰へてその上に立つてゐる。万感交□至る趣きが裏にかくれてはゐるが、表は冷静そのもので洵に心にくい限りである。

春の雨高野の山におん稚児の得度(とくど)の日かや鐘多く鳴る

 春雨が降つて天地が静かに濡れてゐる。その中に鐘がしきりに鳴つてゐる。この歌のめざす情景はそれだけのものだが、それに具体性を与へて印象を深めるために高野山の得度式を持ち出したわけであらう。音楽的にも相当の効果をあげてゐる。

心にも山にも雲のはびこりて風の冷たくなりにけるかな

 前と同じ時榛名湖畔での作。秋も深く湖畔の風が冷い、山には雲が走る、ただに山許りかは、人の心も雲で一杯だ。山上のやるせない秋のさびしさがひしひしと感ぜられる。同じ時の歌に 一つだに昔に変る山のなし寂しき秋はかからずもがな 相馬岳榛名平に別れ去るまた逢ふ日など我思はめや などがある。

六月の同じ夕(ゆふべ)に簾しぬ娘かしづく絹屋と木屋と

 町娘鳳晶子でなければ決して作れない珍品である。又それは撫でさすりたい位の見事の出来でもある。絹屋は呉服屋、木屋は材木屋のことだらうと思ふが、或は商号かも知れない。兎に角堺の町の商家に違ひない。互に近所同志で、同じ年頃の娘があつて、何れも美しく大事にかしづかれてゐる。その二軒が夏が来たので戸を払つて簾をおろした。それが相談した様に同じ日でもあつたといふのである。何と珍しい趣向の歌ではないか。いくら褒めても褒め足りない様な気がする。その音楽的効果も亦すばらしい。

提灯(ちやうちん)に蛍を満し湯に通ふ山少女をば星の見に出づ

 天城の山口の嵯峨沢の湯に遊んだ時の作。蛍の多い所と見え、土地の娘が提灯に蛍を一杯入れそれを明りにして湯に通ふ光景にぱつたり出合つた作者は感心して呆然と見送つた。空には初秋の星が降る様に光つてゐる。上からこの珍景を見て居るのだらう。

舞の手を師の褒たりと紺暖簾入りて母見し日も忘れめや

 少女時代の思ひ出が多数歌はれてゐるその中の一つ。源氏や西鶴に読み耽る以前にこんなあどけない時代もあつたのであらう。しかし遊芸の如きは幾許もなく抛棄せられ独り文学少女が育つて行つたらしい。

南国の星の大島桜より大きく咲ける春の夜の空

 之も前記抛書山荘での作。空気の澄んだ天城山麓で見る東海の星は、東京などより大きくも見え色も美しい。それを丁度そこに咲いてゐた花の小さい野生の大嶋桜を引き合ひに出して、染井吉野には及ばないが、大嶋桜よりは星の方が大きい位だといつたので、表現法の最高の標準が示されてゐる歌だ。

川風に千鳥吹かれてはたはたと打つや蘇小(そせう)が湯殿の障子

 京の芸子を歌つた歌は無数にあるが、この一首だけその調子が他と違つてゐる。それが珍しいのでここへあげた。晶子さんの歌には、内容からも表現法からも調子からも殆どありとあらゆる体が網羅されてゐて、欠けてゐるものがありとすれば口語体の表現位のものだらう。であるからこの歌にあらはれてゐる様な調子が出て来ても何の不思議もないが、ただ芸子ものだけに少し変なのである。蘇小は校書といふと同じく芸者の支那名で白楽天にある言葉の由、それだけに調子もどことなく漢文調を帯び、甚しく芸者屋らしくなくなつてゐる処が面白い。

湯本なる石の館(やかた)の二階より見ゆやと覗く哈爾賓の雪

 早春函根の湯本での作。石の館とあるので川に臨んだ福住の二階らしい。春といふのに雪が降り出して夜の間に大分積つた。まるで哈爾賓辺の話の様である。湯本の福住の二階から哈爾賓の雪が見えるかどうか一つ覗いて見ませうといふ程の心であらうか。突如として哈爾賓の出て来た所が頗る面白い。併し哈爾賓は作者曾有の地であるからそれほど突飛な話ではないかも知れない。

み目覚めの鐘は智恩院聖護院出でて見給まへ紫の水

 本によつては聖護院が方広寺になつてゐる。五条辺に聞こえるものとしてはその方がよい理由でもあつての変更かと思ふが、地理的事実など何あらうと詩は詩であつて、事実ではないのであるから私はどこ迄も聖護院にして置きたい。聖護院でなければ調子が出ない。この歌の眼目は鴨川に臨む青楼らしい家の春の朝の情調を伝へるにある。その為には、歌のもつ音楽面が可なり大切である。方広寺では音楽がこはれてしまふ。この歌の持つメロヂイとリトムとを味はふ為には読者は必ず高声に朗誦しなければいけない。この場合にも私はさう云ひ度い。

箱根風朝寒しとはなけれども生薑の味す川より吹くは

 之も哈爾賓の雪と同じ時の作で、やはり早川に臨んだ福住の二階座敷の歌である。朝になつて硝子障子をあけると川から風が吹き込む。それは箱根風で寒いとは思はないが、生薑の味がする。といふのはやはり少しは寒い意味であらう。これも哈爾賓の雪と同じでその突飛な表現に生命が宿つてゐるともいへる。

春の月雲簾して暗き時傘を思ひぬ三条の橋

 三条の大橋を半ば渡つた時俄に黒い雲が来て簾でもおろしたやうに春の月をかくして暗くなつてしまつた。雨が落ちねばよいが、傘を持つてくればよかつたと思ふ。思ふものは無論作者のすきな蘇小なのであらう。雲すだれするとは面白いいひ方である。

黒潮(くろしほ)を越えて式根の島にあり近づき難し幽明の線

 十二年頃の事だらうと思ふが近江さん達と伊豆七島の幾つかを廻られたことがある。世の中がまだ静かだつた頃とは云ひながら、中々思ひきつた企てでもあつた。流石に沢山の御土産がもたらされた。之もその一つ。黒潮を越えて遠くこんな所までも来たが、なほ幽明の境の線は遠くして遠い。逢ふ由のない悲しみが言外に強く響いてゐる。式根島には海岸の岩礁の間に湯が湧いてゐて島人はそれに這入る。その湯の興味が多数詠まれてゐるので二三つ紹介すると 紫の潮と式根の島の湯を葦垣へだて秋風ぞ吹く 式根の湯海気(かいき)封じておのづから浦島の子の心地こそすれ 秋風が岩湯を吹けど他国者窺ふほどは海女(あま)驚かず 硫黄の香立てゝ湯の涌き青潮の入りて岩間に渦巻を描(か)く 地奈多の湯海に鄰れど人の世に近き処と思はずに浴ぶ 海女(あま)少女(をとめ)海馬(かいば)めかしき若人も足附の湯に月仰ぐらん 唯二人岩湯通ひの若者の過ぎたる後の浜の夜の月 などがある。又他国者の珍しさが 沙に居て浅草者の宿男島に逃れて来しわけを述ぶ などとも歌はれ居り、又船の歌には 夜の船の乾魚の荷の片蔭にあれどいみじき月射してきぬ といふのもあり、兎に角この島廻りは一寸風変りなものだつたらしい。

十五来(き)ぬ鴛鴦の雄鳥の羽の如き髪に結ばれ我は袖振る

 男の元服に相当する様な風俗でもあつたものらしく、十五になつたので鴛鴦鳥を思はせる様な髪をゆはせられた、さて鏡に向つて自分もいよいよ一人前の女になつたのかと喜び勇んだことを思ひ出した歌でもあらうか。まことに素直な歌で気持がよい。

湖の舟の動きし束の間に我唯今を忘れけるかな

 野尻湖でよまれた歌であるが、何とでも解釈が出来よう。私は今、舟の動いた拍子に過ぎ去つた日が忽然と帰つて来て現在に変つた趣きに解いて置かうと思ふ。それにしても何といふ旨い歌だらう。一生に一首でよいからこんな歌が作つて見たい。

天竺の流沙に行くや春の水浪華の街を西す南す

 昔の大阪、水の大阪、その大阪の春の情調を表現しようといふ試みであらうが、それが見事に成功し、既にクラシツクとして我が民族のもつ宝物の一つになつてゐる歌。いくら晶子さんでもざらに出来る歌でないこと勿論である。天竺の流沙はゴビの沙漠の事であらうが、そこへは沢山の川が流れ込んで消えてしまふ。大阪を流れる春の水の心持は流沙へ流れ込む水のそれに似てゐるやうに私は思ふといふわけなのであらう。天竺といひ流沙といふ処に仏典とその伝統を匂はせ歌にゆかしさと奥行を与へて居ること、全く作者の教養に本づくもので、作者が常にお弟子さん達に広く修養をすすめて居る理由もここに存するのである。水の縦横に流れる大阪の生態は作者の喜ぶものの一つであつたと見え、晩年こんな作もある。 清きにも由らず濁れることにまた由らず恋しき大阪の水 

秋風や一茶の後の小林の田代の彌太に購へる鎌

 私は杜甫など読んだこともないが、詩を作るなら人を驚かす様なものを作れといつてゐるさうである。流石に杜甫はえらいと思ふ。こんな広言の吐ける詩人は古今東西幾人も居まい。その一人に日本にも一茶がゐる。作者は若い時蕪村を学ばれ直接大きな影響を受けて居られたが、一茶からのそれは環境が違ふので大して認められない。併し可なり重く見られてゐたのではなからうか。この歌などもその証拠の一つで柏原に一茶の跡を尋ねられた時の作。又同じ時 火の事のありて古りたる衣著け一茶の住みし土倉の秋 とも作られてゐる。

お縫物薬研の響き打ち続く軒下通ひ道修町行く

 大阪に道修(どしよう)町といふ薬屋許りの町がある。この間夫君と時を同じくしてなくなられた茅野雅子さんのお里増田氏などもその一軒であつた。今の事は知らないが、昔は恐ろしく狭い町だつた。「お縫ひもの」とは多分さういふ看板の文字で、今なら和服仕立とある所だらうか。その薬屋の間にこんな看板のかかつた家も多かつたのであらう。軒下通ひとは両側から軒がつき出してゐたのでもあらう。所謂明治の good old time を偲ばせる。風俗歌としてまことに面白い歌だ。

妙高の白樺林木高(こだか)くもなるとは知らで君眠るらん

 妙高は良人と共に幾度か遊んだ処であるから感懐も深いものがあつたらう、白樺林の大きくなつたことは如何だ。それとも知らず君は武蔵野の地下深きこと八尺の臥床に今なほ眠つてゐるといふので、一人になつて初めて池の平に泊つた時の作である。又この時の歌に 山荘の篝は二つ妙高の左の肩に金星とまる 斑尾は浮き漂へるものと見え心もとなき月明りかな などがある。

皷打ち春の女の装ひと一人して負ふ百斤の帯

 日本の女の帯の美々しさを、その最も典型的な京の芸子の皷を打つ春著姿にかりて詩化したもの。[#「。」は底本では「、」]「百斤」とは男子一人の重さで、又その荷なひうる最大の重さでもある、即ち人を驚かずに足る表現法がここにも用ゐられて効果を挙げてゐる。百斤を用ひた他の例に 百斤の桜の花の溜りたる伊豆のホテルの車寄せかな といふのがある。熱海ホテルでの歌である。

村上の千草(ちぐさ)の台の秋風を君あらしめて聞くよしもがな

 十二年の秋新鹿沢に遊んだ時の作。村上の千草の台とはその名が余りに美しいので、或は作者の命名かも知れない。高原の秋風のすばらしさを故人をかりて述べたもので、この歌には追懐の淋しさなどは少しも見られない。

仁和寺の築地のもとの青蓬生ふやと君の問ひ給ふかな

 この歌も京情調を歌ふクラシツクの一つ。天才の口から流れ出た日本語の音楽である。

涼しくも黒と白とに装へる大船のある朝ぼらけかな

 十二年の夏伊豆の下田での作。夏の朝早くまた日の昇らぬ港の涼しい爽やかな光景を折から碇泊してゐた白と黒との段々染の様な大船を中心にして描出したものである。涼しくもとあるので夏である事が分るやうになつてゐる。同じ時の作に 安政の松陰も乗せ船の笛出づとて鳴らばめでたかるべし ありし日の蓮台寺まで帰る身となりて下田を行くよしもがな などがある。

秋まつり鬱金(うこん)の帯し螺(ら)を鳴らし信田の森を練るは誰が子ぞ

 一分の隙もない渾然として玉の様な歌であるが、なほ古い御手本がなくはない。 白銀の目貫の太刀を下げ佩きて奈良の都を練るは誰が子ぞ といふ歌がそれであるが、換骨脱胎もこれ位に出来れば一人前である。

東海を前にしたりと山は知り未ださとらず藤木川行く

 相州湯ヶ原滞在中の作。折からの五月雨で藤木川の水嵩がまし水勢も強い。それを見てゐると自分の行く先を知るものの様には思へない。然しうしろの山々は目があるから知つてゐる。自分達の前には東海が広がつてゐることを知つてゐる。しかし低い処を突進してゆく川には目がない。行く先に東海があらうなどとは夢にも知らずに流れてゆく。先づこんな感じがしたのであらうか。成るほどと教へられる。又同じ時の歌に 梅の実の黄に落ち散りて沙半ば乾ける庭の夕明りかな 山の湯が草の葉色を湛へしに浸る朝(あした)も物をこそ思へ などがある。

往き返り八幡筋の鏡屋の鏡に帯を映す子なりし

 あああの頃は罪が無かつたと嘆息をさへ伴ふ少女の日の囘顧であらう。更に幼い頃を囘顧したのに 絵草紙を水に浮けんと橋に泣く疳高き子は我なりしかな といふのがあるが、前に比べるとこの方ばずつと余音に乏しいやうだ。

月落ちてのち春の夜を侮るにあらねど窓を山風に閉づ

 之も伊豆の吉田の大池の畔でよんだ作。月も這入つた様だし風が寒くなつたので窓を閉めるのであるが、月が落ちたからとて春の夜を侮るわけではありません、山風が出て寒いからですといひわけをせずには居られぬ心、それが詩人の心である。

岡崎の大極殿の屋根渡る朝烏見て茄子を摘む家

 これは晶子さんには珍しい写生の歌で、春泥集にある。勿論作者の本領ではないが、何でも出来ることを一寸示した迄の作であらう。しかしその正確さは如何だ、時計の針が時を指すにも似て居る。

梅花の日清和源氏の白旗を立てざるも無き鎌倉府かな

 故寛先生の三囘忌を円覚寺で営んだ時の作(二月二十六日)。[#「。」は底本では欠落]梅の真盛りの時節であつた。先生は梅を好むこと己れの如く、その嘗て使はれた筆名鐵幹[#「鐵幹」は底本では「錢幹」]も梅を意味し、又その誕生日はいつも梅の花で祝はれた。 我が梅の盛りめでたし草紙なる二条の院の紅梅のごと といふ如きもので、これは六十の賀が東京会館で催された時の作の一つである。即ち梅花の日は即ち夫の日といふほどの意味で忌日を斥し、その日鎌倉を行くに梅咲かぬ家とてない光景を源氏の白旗を立てざるなしと鎌倉らしく抒した手際など全く恐れ入らざるを得ないが、結びの鎌倉府の府の字の如きも之を使ひこなし得る人もう一人あらうとも思はれない。また同じ景色を詠じて 天地にものの変(へん)などありしごと梅連りて咲ける鎌倉 とも又 鎌倉の梅の中道腰輿(えうよ)など許されたらばをかしからまし ともある。お寺では 梅咲く日羅浮の仙女となりて入る万法帰源院の門かな 梅散るや放生会など行はゞをかしかるべき大寺の池 などの作がある。同夜は海浜ホテルに泊られ 鎌倉の梅の中より鐘起る春の夕となりにけるかな の作が残されてゐる。

白牡丹咲かば夜遊の淵酔に君を見んとす春闌けよかし

 晶子さんの若い頃の歌は、その取材の上から大別して三つになる。一つは幼時から見聞した京畿の風物を囘顧するもの、京の舞姫に関するものも便宜この中に入れて置く。一つは源氏、栄花等にあらはれてゐる平安朝の生活を自らその中の人物となり、又は三者の立場に立つて詠じたもの。第三はその他であるが、その第二は晶子さん独特の境地で、そこへは当時一しよに作歌に精進した才人達誰もついて行かなかつたし又行けもしなかつた。私は前記秀歌選を作るに当つてこの種の歌らしいものを拾つて仮に源氏振といふ一項を起して見た。鑑賞上その方が便宜が多からうと思つたからで、外に大した意味はない。この歌などがその一例、牡丹が咲いたらそれを機会に夜宴が開かれよう、その時こそ君の御姿が見られよう、春が闌けて早く牡丹の咲く頃にならないかなといふ藤氏の女あたりの心持を詠んだものと察せられる。淵酔は宴会の意味。

山の月雪を照して我が友が四人に分つ振り出し薬

 十二年の二月同行四人で箱根早雲山の大雄山別院に泊して珍しい一夜を明かされた時の作。友の一人が少し風気で携行した葛根湯か何か煎じてゐたが、山上の寒さの身にしむ宵とて皆に分けて飲ませる光景、外の山には雪が積つてゐてその上を弦月が照らしてるといふわけである。又その時の作には 山寺は雲に満ちたる二月にて鉛の色す夕暮の庭 雪白き早雲山の頂きに近くゐて聞く夕風の音 などがあり、その帰途十国峠を過ぎては 峠路の六里の間青海を見て枯草の世界を伝ふ といひ、熱海から多賀へ出て一泊されては 海に向き材木積める空地のみ僅に白き夕月夜かな の歌を残しこの行は終る。

み侍み経を艶に読む夜などをかしかりける一人臥しかな

 源氏の紫の上などを思つて読まれたものではなからうか。近世の読経は陰気くさくもあり、宗旨の匂ひが紛々として鼻をつくが、平安朝のそれは全く感じが違ひ、著しく音楽的に響いたものの様で、されば艶にとあらはされ、心よくなめらかに響いてくる読経の声を聞くなど君の帰らぬ夜もまたをかしといふ心であらうか。また おこなひに後夜起(ごやおき)すなる大徳のしはぶく頃に来給ふものか といふ歌なども同じ姫君の上であらう。 春の宵君来ませよと心皆集めて念ず小柱のもと これは少し違つて花散る里といつたやうな人の歌かもしれない、かういふ歌をよむと、明治三十七八年頃渋谷の御宅で先生の源氏の講義を聞いてゐる学校の生徒達を思ひ出す。私もその一人であつた。夫人は赤ちやんを抱いてわきから助言された。その頃も斯ういふ種類の歌が盛に作られたやうである。

大島が雪積み伊豆に霰降り涙の氷る未曾有の天気

 作者には 大昔夏に雪降る日記など読みて都を楽しめり我 といふ歌があり、日記は吾妻鏡を斥すのであらうが、季節はづれの天候を短い歌の中でこなすことは極めて難しいわざで先づ成功は望めない。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:310 KB

担当:undef