放浪記(初出)
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:林芙美子 

   秋が来たんだ

 十月×日
 一尺四方の四角な天窓を眺めて、始めて紫色に澄んだ空を見た。
 秋が来たんだ。コック部屋で御飯を食べながら私は遠い田舎の秋をどんなにか恋しく懐しく思った。
 秋はいゝな……。
 今日も一人の女が来た。マシマロのように白っぽい一寸面白そうな女。厭になってしまう、なぜか人が恋いしい。
 そのくせ、どの客の顔も一つの商品に見えて、どの客の顔も疲れている。なんでもいゝ私は雑誌を読む真似をして、じっと色んな事を考えていた。やり切れない。
 なんとかしなくては、全く自分で自分を朽ちさせてしまうようだ。

 十月×日
 広い食堂の中を片づけてしまって始めて自分の体になったような気がする。真実に何か書きたい。それは毎日毎晩思いながら、考えながら、部屋へ帰るんだが、一日中立っているので疲れて夢も見ずに寝てしまう。
 淋しいなあ。ほんとにつまらないなあ……。住込は辛い。その内通いにするように部屋を探そうと思うが、何分出る事も出来ない。
 夜、寝てしまうのがおしくて、暗い部屋の中でじっと目を開けていると、溝の処だろう、チロチロ……虫が鳴いている。
 冷い涙が不甲斐なく流れて、泣くまいと思ってもせぐりあげる涙をどうする事も出来ない。何とかしなくてはと思いながら、古い蚊帳の中に、樺太の女や、金沢の女達三人枕を並べているのが、何だか店に晒らされた茄子のようで佗しい。
「虫が鳴いてるよう……。」
 そっと私が隣のお秋さんにつぶやくと、
「ほんとにこんな晩は酒でも呑んで寝たいね。」
 梯子段の下に枕をしていた、お俊さんまでが、
「へん、あの人でも思い出したかい……。」
 皆淋しいお山の閑古鳥。
 何か書きたい。何か読みたい。ひやひやとした風が蚊帳の裾を吹く、十二時だ。

 十月×日
 少しばかりのお小遣いが貯ったので、久し振りに日本髪に結う。
 日本髪はいゝな、キリヽと元結いを締めてもらうと眉毛が引きしまって、たっぷりと水を含ませた鬢出しで前髪をかき上げると、ふっさりと額に垂れて、違った人のように美しくなる。
 鏡に色目をつかったって、鏡が惚れてくれるばかり。日本髪は女らしいね、こんなに綺麗に髪が結べた日にゃあ、何処かい行きたい。汽車に乗って遠くい遠くい行きたい。
 隣の本屋で銀貨を一円札に替えてもらって故里のお母さんの手紙の中に入れてやった。喜ぶだろう。
 手紙の中からお札が出て来る事は私でも嬉しいもの……。
 ドラ焼きを買って皆と食べた。
 今日はひどい嵐、雨が降る。
 こんな日は淋しい。足がガラスのように固く冷える。

 十月×日
 静かな晩だ。
「お前どこだね国は?」
 金庫の前に寝ている年取った主人が、此間来た俊ちゃんに話かける。寝ながら他人の話を聞くのも面白い。
「私でしか……樺太です。豊原って御存知でしか?」
「樺太から? お前一人で来たのかね。」
「えゝ!」
「あれまあ、お前きつい女だね。」
「長い事函館の青柳町にもいた事があります。」
「いゝ所に居たんだね、俺も北海道だよ。」
「そうでしょうと思いました。言葉にあちらの訛がありますもの。」
 啄木の歌を思い出して真実俊ちゃんが好きになった。
函館の青柳町こそ悲しけれ
友の恋歌
矢車の花。
 いゝね。生きている事もいゝね。真実に何だか人生も楽しいものゝように思えて来た。皆いゝ人達ばかりだ。
 初秋だ、うすら冷い風が吹く。
 佗しいなりにも何だか女らしい情熱が燃えて来る。

 十月×日
 お母さんが例のリウマチで、体具合が悪いと云って来た。
 もらいがちっとも無い。
 客の切れ間に童話を書く、題「魚になった子供の話」十一枚。
 何とかして国へ送ってあげよう。老いて金もなく頼る者もない事は、どんなに悲惨な事だろう。
 可哀想なお母さん、ちっとも金を無心して下さらないので余計どうしていらっしゃるかと心配します。
「その内お前さん、俺んとこへ遊びに行かないか、田舎はいゝよ。」
 三年も此家で女給をしているお計ちゃんが男のような口のきゝかたでさそってくれた。
「えゝ……行くとも、何日でも泊めてくれて?」
 私はそれまで少し金を貯めよう。
 いゝなあ、こんな処の女達の方がよっぽど親切で思いやりがある。
「私しぁ、もうもう愛だの恋だの、貴女に惚れました、一生捨てないのなんて馬鹿らしい真平だよ。あゝこんな世の中でお前さん! そんな約束なんて何もなりはしないよ。私をこんなにした男は今、代議士なんてやってるけど子供を生ませると、ぷいさ。私達が私生児を生めば皆そいつがモダンガールさ、いゝ面の皮さ……馬鹿馬鹿しいね浮世は、今の世は真心なんてものは、薬にしたくもないよ。私がこうして三年もこんな仕事をしてるのは、私の子供が可愛いからさ……ハッハッ……。」
 お計さんの話を聞いていると、ジリジリとしていた気持が、トンと明るくなる。素的にいゝ人だ。

 十月×日
 ガラス窓を、眺めていると、雨が電車のように過ぎて行った。
 今日は少しかせいだ。
 俊ちゃんは不景気だってこぼしている。でも扇風機の台に腰を掛けて、憂欝そうに身の上話をしたが、正直な人だ。
 浅草の大きいカフェーに居て、友達にいじめられて出て来たんだが、浅草の占師に見てもらったら、神田の小川町あたりがいゝって云ったので来たのだと云っていた。
 お計さんが、
「おい、こゝは錦町になってるんだよ。」
と云ったら、
「あらそうかしら……。」
とつまらなさそうな顔をしていた。
 此の家では一番美しくて、一番正直で一番面白い話を持っていた。
 メリービックホードの瞳を持って、スワンソンのような体つきをしていた。

 十月×日
 仕事をしまって湯にはいるとせいせいする。広い食堂を片づけている間に、コックや皿洗い達が先湯をつかって、二階の広座敷へ寝てしまうと、私達はいつまでも湯を楽しむ事が出来た。
 湯につかっていると、一寸も腰掛けられない私達は、皆疲れているのでうっとりとしてしまう。
 秋ちゃんが唄い出すと、私は茣蓙の上にゴロリと寝そべって、皆が湯から上ってしまうまで、聞きとれて[#「聞きとれて」はママ]いるのだった。

貴女一人に身も世も捨てた
私しや初恋しぼんだ花よ。

 何だか真実に可愛がってくれる人が欲しくなった。
 だが、男の人は嘘つきが多いな。
 金を貯めて呑気な旅でもしよう。

 ――此秋ちゃんについては面白い話がある。
 秋ちゃんは大変言葉が美しいので、昼間の三十銭の定食組みの大学生達は、マーガレットのようにカンゲイした。
 十九で処女で、大学生が好き。
 私は皆の後から秋ちゃんのたくみに動く瞳を見ていた。目の縁の黒ずんだそして生活に疲れた衿首の皺を見ていると、けっして十九の女の持つ若さではなかった。

 其の来た晩に、皆で風呂にはいる時、秋ちゃんは佗しそうにしょんぼり廊下の隅に立っていた。
「おい! 秋ちゃん、風呂へはいって汗を流さないと体がくさってしまうよ。」
 お計さんはキュキュ歯ブラシを使いながら大声で呼びたてた。
 やがて秋ちゃんは手拭で胸を隠すと、そっと二坪ばかりの風呂場へはいって来た。
「お前さん! 赤ん坊を生んだ事があるだろう……。」

 ――庭は一面に真白だ!
 お前忘れやしないだろうね、リューバ? ほら、あの長い並木道が、まるで延ばした帯革のように、何処までも真直ぐに続いて、月夜の晩にはキラキラ光る。
 お前覚えているだろう? 忘れやしないだろう?
 ――…………
 ――そうだよ。此桜の園まで借金のかたに売られてしまうのだからね、どうも不思議だと云って見た処で仕方がない……。
と、桜の園のガーエフの独白を別れたあの男はよく云っていた。
 私は何だか塩っぽい追憶に耽って、歪んだガラス窓の白々とした月を見ていた時だった。

 お計さんの癇高い声に驚いてお秋さんを見た。
「えゝ私ね、二ツになる男の子があるのよ。」
 秋ちゃんは何のためらいもなく、乳房を開いてドポン! と湯煙をあげた。
「うふ……私処女よ、もおかしいものだね。私しゃお前さんが来た時から睨んでいたよ。だがお前さんだって何か悲しい事情があって来たんだろうに、亭主はどうしたの。」
「肺が悪るくて、赤ん坊と家にいるのよ。」
 不幸な女が、あそこにもこゝにもうろうろしている。
「あら! 私も子供を持った事があるのよ。」
 肥ってモデルのようにしなしなした手足を洗っていた俊ちゃんがトンキョウに叫んだ。
「私のは三日めでおろしてしまったのよ。だって癪にさわったからさホッホ……。私は豊原の町中で誰も知らない者がない程華美な暮しをしていたのよ、私がお嫁に行った家は地主だったけど、ひらけていて私にピヤノをならわせてくれたの、ピヤノの教師っても東京から流れて来たピヤノ弾きよ、そいつにすっかり欺されてしまって、私子供を孕んでしまったの。そいつの子供だってことは、ちゃんと分っているから云ってやったわ、そしたら、そいつの言い分がいゝじぁないの――旦那さんの子にしときなさい――だってさ、だから私口惜しくて、そんな奴の子供なんか生んじゃあ大変だと思って辛子を茶碗一杯といて呑んだわよホッホ……どこまで逃げたって追っかけて行って、人の前でツバを引っかけてやるつもりさ。」
「まあ……。」
「えらいね、あんたは……」
 仲間らしい讃辞がしばしは止まなかった。
 お計さんは飛び上って風呂水を何度も何度も、俊ちゃんの背に掛けてやった。
 私は息づまるような切なさで聞いていた。
 弱い私、弱い私……私はツバを引っかけてやるべき、裏切った男の頭をかぞえた。
 お話にならない大馬鹿者は私だ! 人のいゝって云う事が何の気安めになろうか――。
 
 十月×日
 ……ふと目を覚ますと、俊ちゃんはもう仕度をしていた。
「寝すぎたよ、早くしないと駄目だよ。」
 湯殿に皆荷物を運ぶと、私はホッとした。
 博多帯を音のしないように締めて、髪をつくろうと、私はそっと二人分の下駄を土間からもって来た。朝の七時だと云うのに、料理場は鼠がチロチロして、人のいゝ主人の鼾も平かだ。
 お計さんは子供の病気で昨夜千葉へ帰ってしまった。

 真実に、学生や定食の客ばかりでは、どうする事も出来なかった。
 止めたい止めたいと俊ちゃんと二人でひそひそ語りあっていたものゝ、みすみす忙がしい昼間の学生連と、少い女給の事を思うと、やっぱり弱気の二人は我慢しなければならなかった。
 金が這入らなくて道楽にこんな仕事も出来ない私達は、逃走するより外なかった。

 朝の誰もいない広々とした食堂の中は恐ろしく深閑として、食堂のセメントの池に、赤い金魚がピチピチはねている丈で、灰色に汚れた空気がよどんでいた。
 路地口の窓を開けて、俊ちゃんは男のようにピョイと飛び降りると、湯殿の高窓から降した信玄袋を取りに行った。
 私は二三冊の本と化粧道具を包んだ小さな包みきりだった。
「まあこんなにあるの……。」
 俊ちゃんはお上りさんのような格好で、蛇の目の傘と空色のパラソル、それに樽のような信玄袋を持って、まるで切実な一つの漫画だった。
 小川町の停留所で四五台の電車を待ったが、登校時間だったのか来る電車は学生で満員だった。
 往来の人に笑われながら、朝のすがすがしい光りをあびていると顔も洗わない昨夜からの私達は、インバイのようにも見えたろう。
 たまりかねて、二人はそばやに飛び込むと始めてつっぱった足を延した。そば屋の出前持の親切で、円タクを一台頼んでもらうと、二人は約束しておいた新宿の八百屋の二階へ越して行った。
 自動車に乗っていると、全く生きる事に自信が持てなくなった。
 ぺしゃんこに疲れ果てゝしまって、水がやけに飲みたかった。
「大丈夫よ! あんな家なんか出て来た方がいゝのよ。自分の意志通りに動けば私は後悔なんてしないよ。」
「元気を出して働くよ、あんたは一生懸命勉強するといゝわ……。」
 私は目を伏せていると、サンサンと涙があふれて、たとえ俊ちゃんの言った事が、センチメンタルな少女らしい夢のようなことであっても今のたよりない身には、只わけもなく嬉しかった。
 あゝ! 国へ帰ろう……お母さんの胸ん中へ走って帰ろう……自動車の窓から、朝の健康な青空を見た。走って行く屋根を見た。
 鉄色にさびた街路樹の梢にしみじみ雀のつぶてを見た。
うらぶれて異土のかたゐとならふとも
故里は遠きにありて思ふもの……

 かつてこんな詩を読んで感心した事があった。

 十一月×日
 愁々とした風が吹くようになった。
 俊ちゃんは先の御亭主に連れられて樺太に帰ってしまった。
 ――寒むくなるから……――と云って、八端のドテラをかたみに置いて東京をたってしまった。
 私は朝から何も食べない。童話や詩を三ツ四ツ売ってみた所で、白いおまんまが、一ヶ月のどへ通るわけでもなかった。
 お腹がすくと一緒に、頭がモウロウとして、私は私の思想にもカビを生やしてしまった。
 あゝ私の頭にはプロレタリヤもブルジョアもない。たった一握りの白い握り飯が食べたい。
 いっそ狂人になって街頭に吠えようか。
「飯を食わせて下さい。」
 眉をひそめる人達の事を思うと、いっそ荒海のはげしい情熱の中へ身をまかせようか。
 夕方になると、世俗の一切を集めて茶碗のカチカチと云う音が下から聞えて来る。グウグウ鳴る腹の音を聞くと、私は子供のように悲しくなって、遠くに明い廓の女郎達がふっと羨ましくなった。
 沢山の本も今はもう二三冊になって、ビール箱には、善蔵の「子を連れて」だの「労働者セイリョフ」直哉の「和解」がさゝくれてボサリとしていた。

「又、料理店でも行ってかせぐかな。」
 ちんとあきらめてしまった私は、おきやがりこぼしのように変にフラフラした体を起して、歯ブラシや石鹸や手拭を袖に入れると、風の吹く夕べの街へ出た。
 ――女給入用――のビラの出ていそうなカフェーを次から次へ野良犬のように尋ねて……只食う為に、何よりもかによりも私の胃の腑は何か固形物を慾しがっていた。
 あゝどんなにしても食わなければならない。街中が美味そうな食物じゃあないか!
 明日は雨かも知れない。重たい風が漂々と吹く度に、昂奮した私の鼻穴に、すがすがしい秋の果実店からあんなに芳烈な匂いがする。――一九二八・九――[#改ページ]

   濁り酒

 十月×日
 焼栗の声がなつかしい頃になった。

 廓を流して行く焼栗のにぶい声を聞いていると、ほろほろと淋しくなって暗い部屋の中に、私はしょんぼりじっと窓を見ていた。

 私は小さい時から、冬になりかけると、よく歯が痛んだ。
 まだ母親に甘えている時は、畳に転々泣き叫び、ビタビタの梅干を顔一杯塗って貰っては、しゃっくりをして泣いていた私だった。
 だが、ようやく人生も半ば近くに達し、旅の空の、こうした佗しいカフェーの二階に、歯を病んで寝ていると、じき故郷の野や山や海や、別れた人達の顔を思出す。

 水っぽい瞳を向けてお話をするのゝ様は、歪んだ窓外の漂々としたお月様ばかり……。
「まだ痛む……。」
 そっと上って来たお君さんの大きいひさし髪が、月の光りで、黒々と私の上におおいかぶさると、今朝から何も食べない私の鼻穴に、プンと海苔の香をたゞよわせて、お君さんは枕元にそっと寿司皿を置いた。そして黙って、私のみひらいた目を見ていた。
 優しい心づかいだ……わけもなく、涙がにじんで、薄い蒲団の下からそっと財布を出すと、君ちゃんは、
「馬鹿ね!」
 厚紙でも叩くようなかるい痛さで、お君さんは、ポンと私の手を打つと、蒲団の裾をジタジタとおさえてそっと又、裏梯子を降りて行った。
 あゝなつかしい世界だ。

 十月×日
 風が吹く。
 夜明近く水色の細い蛇が、スイスイと地を這っている夢を見た。
 それにとき色の腰紐が結ばれていて、妙に起るとから[#「起るとから」はママ]、胸さわぎのするようないゝ事が、素的に楽しい事があるような気がする。

 朝の掃除がすんで、じっと鏡を見ていると、蒼くむくんだ顔は、生活に疲れ荒さんで、私はあゝと長い溜息をついて、壁の中にでもはいってしまいたかった。

 今朝も泥のような味噌汁と、残り飯かと思うと、支那そばでも食べたいなあと思った。
 私は何も塗らない、ぼんやりとした顔を見ていると、急に焦々として、唇に紅々と、べにを引いてみた。

 あの人はどうしているかしら……AもBもCも、切れ掛った鎖をそっと掴もうとしたが、お前達はやっぱり風景の中の並樹だよ……。
 神経衰弱になったのか、何枚も皿を持つ事が恐ろしくなった。

 のれん越しにすがすがしい朝の盛塩を見ていると、女学生の群にけとばされて、さっと散っては山がずるずるとひくくなって行く。

 私が此家に来て二週間、もらいはかなりある。
 朋輩が二人。
 お初ちゃんと言う女は、名のように初々しくて、銀杏返しのよく似合うほんとに可愛いこだった。

「私は四谷で生れたのだけど、十二の時、よその叔父さんに連れられて、満洲にさらわれて行ったのよ。私芸者屋にじき売られたから、その叔父さんの顔もじき忘れっちまったけど……私そこの桃千代と云う娘と、よく広いつるつるした廊下をすべりっこしたわ、まるで鏡みたいだった。
 内地から芝居が来ると、毛布をかぶって、長靴をはいて見にいったわ、土が凍ってしまうと、下駄で歩けるのよ、だけどお風呂から上ると、鬢の毛がピンとして、おかしいわよ。
 私六年ばかりいたけど、満洲の新聞社の人に連れて帰ってもらったのよ。」

 客の飲み食いして行った後の、テーブルにこぼれた酒で字を書きながら、可愛らしいお初ちゃんは、重たい口で、こんな事を云った。
 も一人私より一日早くはいったお君さんは脊の高い母性的な、気立のいゝ女だった。

 廓の出口にある此店は、案外しっとり落ついていて、私は二人の女達ともじき仲よくなれた。
 こんな処に働いている女達は、始めどんな意地悪るくコチコチに要心して、仲よくなってくれなくっても、一度何かのはずみでか、真心を見せると、他愛もなく、すぐまいってしまって、十年の知己のように、まるで姉妹以上になってしまう。
 客が途絶えると、私達はよくかたつむりのようにまるくなった。

 十一月×日
 どんよりとした空。
 君ちゃんとさしむかいで、じっとしていると、むかあしかいだ事のある、何か黄ろっぽい花の匂いがする。
 夕方、電車通りの風呂から帰って来ると、いつも呑んだくれの大学生の水野さんが、初ちゃんに酒をつがして呑んでいた。
「あんたはとうと裸を見られたわよ。」
 お初ちゃんがニタニタ笑いながら、鬢窓に櫛を入れている私の顔を鏡越しに見て、こう言った。
「あんたが風呂に行くとすぐ水野さんが来て、あんたの事聞いたから、風呂って云ったの……」
 呑んだくれの大学生は、風のように細い手を振りながら、頭をトントン叩いていた。
「嘘だよ!」
「アラ! 今言ったじゃないの……水野さんてば、電車通りへいそいで行ったから、どうしたのかと、思ってたら、帰って来て、水野さん、女湯をあけたんですって、そしたら番台でこっちは女湯ですよッ! て言ったってさ、そしたら、あゝ病院とまちがえましたってじっとしてたら、丁度あんたが、裸になった処だって、水野さんそれゃあ大喜びなの……。」
「へん! 随分助平な話ね。」
 私はやけに頬紅をはくと、大学生は薄いコンニャクのような手を合わせて、
「怒った? かんにんしてね!」
 裸が見たけりゃあ、お天陽様の下に真裸で転って見せるよッ! とよっぽど、吐鳴ってやりたかった。
 一晩中気分が重っくるしくって、私はうで卵を七ツ八ツパッチンパッチンテーブルへぶっつけてわった。

 十一月×日
 秋刀魚を焼く匂いは季節の呼び声だ。
 夕方になると、廓の中は今日も秋刀魚の臭い、お女郎は毎日秋刀魚じゃあ、体中うろこが浮いてくるだろう……

 夜霧が白い白い、電信柱の細っこい姿が針のように影を引いて、のれんの外にたって、ゴウゴウ走って行く電車を見ていると、なぜかうらやましくなって鼻の中がジンと熱くなる。
 蓄音器のこわれたゼンマイは昨日もかっぽれ今日もかっぽれだ。

 生きる事が実際退屈になった。
 こんな処で働いていると、荒さんで荒さんで、私は万引でもしたくなる。女馬賊にでもなりたくなる。
 インバイにでもなりたくなる。

若い姉さんなぜ泣くの
薄情男が恋ひしいの……

 誰も彼も、誰も彼も、ワッハ! ワッハ! あゝ地球よパンパンと真二つになれッ、私を嘲笑っている顔が幾つもうようよしてる。

「キングオブキングを十杯飲んでごらん、拾円のかけだ!」
 どっかの呑気坊主が、厭にキンキラ顔を光らせて、いれずみのような拾円札を、ピラリッとテーブルに吸いつかせた。
「何でもない事だ!」
 私はあさましい姿を白々と電気の下に晒して、そのウイスキーを十杯けろりと呑み干した。
 キンキラ坊主は呆然と私を見ていたが、負けおしみくさい笑いを浮べて、おうように消えてしまった。
 喜んだのはカフェーの主人ばかり、へえへえ、一杯一円のキングオブを十杯もあの娘が呑んでくれたんですからね……ペッペッペッだ。ツバを吐いてやりたいね。

 瞳が炎える。
 誰も彼も憎い奴ばかりだ。
 あゝ私は貞操のない女でござんす。一ツ裸踊りでもしてお目にかけましょうか、お上品なお方達、へえ、てんでに眉をひそめて、星よ月よ花よか! 
 私は野そだち、誰にも世話にならないで生きて行こうと思えば、オイオイ泣いてはいられない。男から食わしてもらおうと思えば、私はその何十倍か働かねばならない。
 真実同志よと叫ぶ友達でさえ嘲笑う。

歌をきけば梅川よ
しばし情を捨てよかし
いづこも恋にたはむれて
それ忠兵衛の夢がたり
 詩をうたって、いゝ気持で、私はかざり窓を開けて夜霧をいっぱい吸った。あんな安っぽい安ウイスキー十杯で酔うなんて……あああの夜空を見上げて御覧、絢爛がかゝったな、虹がかゝった。

 君ちゃんが、大きい目をして、それでいゝのか、それで胸が痛まないのか、貴女の心をいためはせぬかと、私をグイグイ掴んでいる。

やさしや年もうら若く
まだ初恋のまぢりなく
手に手をとりて行く人よ
なにを隠るるその姿
 かつて好きだった歌ほれぼれ涙におぼれて、私の体と心は遠い遠い地の果にずッ……とあとしざりしだした。

 そろそろ時計のねじがゆるみ出すと、れいの月はおぼろに白魚の声色屋のこまちゃくれた子供が、
「ねえ旦那! おぼしめしで……ねえ旦那おぼしめしで……。」
 もうそんな影のうすい不具なんか出してしまいなさい!
 何だかそんな可憐な子供達のさゝくれたお白粉の濃い顔を見ていると、たまらない程、私も誰かにすがりつきたくなった。

 十一月×日
 奥で三度三度御飯を食べると、きげんが悪いし、と云って客におごらせる事は大きらいだ。
 二時がカンバンだって云っても、遊廓がえりの客がたてこむと、夜明までも知らん顔をして主人はのれんを引っこめようともしない。
 コンクリートのゆかが、妙にビンビンして動脈がみんな凍ってしまいそうに肌が粟立ってくる。
 酢っぱい酒の匂いがムンムンして焦々する。
「厭になってしまうわ……。」
 初ちゃんは袖をビールでビタビタにしたのをしぼりながら、呆然とつっ立っていた。
「ビール!」
 もう四時も過ぎて、ほんとになつかしく、遠くの方で鶏の鳴く声がする。
 コケコッコオ! ゴトゴト新宿駅の汽車の汽笛が鳴ると、一番最後に、私の番で、銀流しみたいな男がはいって来た。
「ビールだ!」
 仕方なしに、私はビールを抜くと、コップに並々とついだ。厭にトゲトゲと天井ばかりみていた男は、その一杯のビールをグイと呑み干すと、いかにも空々しく、
「何だ! ゑびすか、気に喰わねえ。」
 捨ぜりふを残すと、いかにもあっさりと、霧の濃い舗道へ出てしまった。唖然とした私は、急にムカムカとすると、のこりのビールびんをさげて、その男の後を追った。
 銀行の横を曲ろうとしたその男の黒い影へ私は思い切りビールびんをハッシと投げつけた。
「ビールが呑みたきゃ、ほら呑ましてやるよッ。」
 けたゝましい音をたてゝ、ビールびんは、思い切りよく、こなごなにこわれて、しぶきが飛んだ。
「何を!」
「馬鹿ッ!」
「俺はテロリストだよ。」
「へえ、そんなテロリストがあるの……案外つまんないテロリストだね。」
 心配して走って来たお君ちゃんや、二三人の自動車の運転手達が来ると、面白いテロリストはボアンと路地の中へ消えてしまった。
 こんな商売なんて止めようかなア……。
 そいでも、北海道から来たお父さんの手紙には、御難つゞきで、今は帰る旅費もないから、送ってくれと云う長い手紙を読んだ、寒さにはじきへこたれるお父さん、どんなにしても四五十円は送ってあげよう。
 も少し働いたら、私も北海道へ渡って、お父さん達といっそ行商してまわってみようか……。
 のりかゝった船だよ。

 ポッポッ湯気のたつおでん屋の屋台に首を突込んで、箸につみれを突きさした初ちゃんが店の灯を消して一生懸命茶飯をたべていた。
 私も昂奪した後のふるえを沈めながら、エプロンを君ちゃんにはずしてもらうと、おでんを肴に、寝しなの濁り酒を楽しんだ。――一九二八・一二――[#改ページ]

   一人旅

 十二月×日
 浅草はいゝ。
 浅草はいつ来てもよいところだ……。

 テンポの早い灯の中をグルリ、グルリ、私は放浪のカチウシャ。
 長い事クリームを塗らない顔は瀬戸物のように固くって安酒に酔った私は誰もおそろしいものがない。

 テへ! 一人の酔いどれ女でござんす。

 酒に酔えば泣きじょうご、痺れて手も足もばらばらになってしまいそうなこのいゝ気持。
 酒でも呑まなければあんまり世間は馬鹿らしくて、まともな顔をしては通れない。

 あの人が外に女が出来たとて、それが何であろ、真実は悲しいんだけど、酒は広い世間を御らんと云う。
 町の灯がふっと切れて暗くなると、活動小屋の壁に歪んだ顔をくっつけて、あゝあすから勉強しようと思う。
 夢の中からでも聞えて来るような小屋の中の楽隊にあんまり自分が若すぎて、なぜかやけくそにあいそがつきてしまう。
 早く年をとって、いゝものが書きたい。
 年をとる事はいゝな。
 酒に酔いつぶれている自分をふいと見返ると、大道の猿芝居じゃないが、全く頬かぶりして歩きたくなる。

 浅草は酒を呑むによいところ。
 浅草は酒にさめてもよいところだ。

 一杯五銭の甘酒! 一杯五銭のしる粉! 一串二銭の焼鳥は何と肩のはらない御馳走だろう……。
 漂々と吹く金魚のような芝居小屋の旗、その旗の中にはかつて愛した男の名もさらされて、わっは……わっは……あのいつもの声で私を嘲笑している。
 さあ皆さん御きげんよう……何年ぶりかで見上げる夜空の寒いこと、私の肩掛は人絹がまざっているのでござります。他人が肩に手をかけたように、スイスイと肌に風が通りますよ。

 十二月×日
 朝の寝床の中で、まず煙草をくゆらす事は淋しがりやの女にとって此上もないよきなぐさめ、ゆらりゆらり輪をかいて浮いてゆくむらさき色のけむりはいゝ。お天陽様の光りを頭いっぱいあびて、さて今日はいゝ事がありますように。

 赤だの黒だの桃色だの黄いろだの疲れた着物を三畳の部屋いっぱいぬぎちらして、女一人のきやすさに、うつらうつら私はひだまりの亀の子。

 カフェーだの牛屋だのめんどくさい事より、いっそ屋台でも出しておでん屋でもしようか。誰が笑おうと彼が悪口を云おうと、赤い尻からげで、あら、えっさっさだ! 一ツ屋台でも出して何とか此年のけじめをつけよう。
 コンニャク、いゝね厚く切ってピンとくいちぎって見たい……がんもどき竹輪につみれ、辛子のひりゝッとした奴に、口にふくむような酒をつかって、青々としたほうれん草のひたしか……元気を出そう。

 或ところまで来るとペッチャンコにくずれてしまう、たとえそれがつまらない事だっても、そんな事の空想は、子供のようにうれしくなる。
 貧乏な父や母にすがるわけにもゆかないし、と云って転々と動いたところで、月に本が一二冊買えるきり、わけもなく飲んで食って通ってしまう。三畳の間をかりて最少限度の生活はしていても貯えもかぼそくなってしまった。

 こんなに生活方針がたゝなく真暗闇になると、泥棒にでもはいりたくなる。
 だが目が近いのでいっぺんにつかまってしまう事を思うと、ふいとおかしくなって、冷い壁にカラカラと私の笑いがはねかえる。

 何とかして金がほしい……私の濁った錯覚は他愛もなく夢におぼれて、夕方までぐっすりねむってしまった。

 十二月×日
 お君さんが誘いに来て、二人は又何かいゝ商売をみつけようと、小さい新聞の切抜きをもって、私達は横浜行きの省線に乗った。

 今まで働いていたカフェーが淋びれると、お君さんも一緒にそこを止めてしまって、お君さんは、長い事板橋の御亭主のとこへ帰っていた。
 お君さんの御亭主はお君さんより卅あまりも年が上で、始め板橋のその家へたずねて行った時、私はお君さんのお父つぁんかと思った。お君さんの養母やお君さんの子供や何だかごたごたしたその家庭は、めんどくさがりやの私にはちょいとわかりかねた。

 お君さんもそんな事はだまっている。
 私もそんな事を聞くのは腹がいたくなる。二人共だまって、電車から降りると、青い青い海を見はらしながら丘へ出た。
「久し振りよ海は……。」
「寒いけど……いゝわね海は……。」
「いゝとも、こんなに男らしい海を見ると、裸になって飛びこんでみたいね。まるで青い色がとけてるようじゃないか。」
「ほんと! おっかないわ……」

 ネクタイをひらひらさせた二人の西洋人が、雁木に腰をかけて波の荒い風景にみいっていた。
「ホテルってあすこよ!」
 目のはやい君ちゃんがみつけたのは、白いあひるの小屋のような小さな酒場だった。二階の歪んだ窓には汚点だらけな毛布が青い太陽にてらされて、いいようのない幻滅だった。
「かえろう!」
「ホテルってこんなの……。」
 朱色の着物を着た可愛らしい女が、ホテルのポーチで黒い犬をあやして一人でキャッキャッ笑っていた。
「がっかりした……。」
 二人共又おしだまって向うの向うの寒い茫々とした海を見た。
 鳥になりたい。
 小さいカバンでもさげて旅をするといゝだろう……君ちゃんの日本風なひさし髪が風にあれて、雪の降る日の柳のようにいじらしく見えた。

 十二月×日
風が鳴る白い空だ
冬のステキに冷い海だ
狂人だってキリキリ舞いをして
目のさめそうな大海原だ
四国まで一本筋の航路だ

毛布が二十銭お菓子が十銭
三等客室はくたばりかけたどじょう鍋のように
ものすごいフットウだ

しぶきだ雨のようなしぶきだ
みはるかす白い空を眺め
十一銭在中の財布を握っていた。

あゝバットでも吸いたい
オオ! と叫んでも
風が吹き消して行くよ

白い大空に
私に酢を呑ませた男の顔が
あんなに大きく、あんなに大きく

あゝやっぱり淋しい一人旅だ!

 腹の底をゆするような、ボオウ! ボオウ! と鳴る蒸汽の音に、鉛色によどんだ小さな渦巻が幾つか海のあなたに、一ツ一ツ消えて唸りをふくんだ冷い十二月の風が、乱れた私の銀杏返しの鬢を、ペッシャンと頬っぺたにくっつけるように吹いてゆく。
 八ツ口に両手を入れて、じっと自分の乳房をおさえていると、冷い乳首の感触が、わけもなく甘っぽく涙をさそってくる。
 ――あゝ、何もかにもに負けてしまった!
 東京を遠く離れて、青い海の上をつっぱしっていると、色々に交渉のあった男や女の顔が、一ツ一ツ白い雲の間からもれもれと覗いて来る。

 あんまり昨日の空が青かったので、久し振りに、故里が恋しく、私は無理矢理に汽車に乗ってしまった。

 今朝はもう鳴門の沖だ。

「お客さん! 御飯ぞなッ!」
 誰もいない夜明けのデッキの上に、さゝけた私の空想はやっばり故里へ背いて都へ走っていた。
 旅の故里ゆえ、別に錦を飾って帰る必要もないのだったが、なぜか佗しい気持でいっぱいだった。
 穴倉のように暗い三等船室に帰って、自分の毛布の上に座ると丹塗りのはげた、膳の上にヒジキの煮たのや味噌汁があじけなく並んでいた。
 薄暗い灯の下に大勢の旅役者やおへんろさんや、子供を連れた漁師の上さんの中に混って、私も何だか愁々とした旅心を感じた。
 私が銀杏返しに結っているので、「どこからお出でました?」と尋ねるお婆さんもあれば、「どこまで行きやはりますウ……。」と問う若い男もあった。
 二ツ位の赤ん坊に添い寝していた、若い母親が、小さい声で旅の故里でかつて聞いた事のある子守唄をうたっていた。

ねんねころ市
おやすみなんしよ
朝もとうからおきなされ
よひの浜風ア身にしみますで
夜サは早よからおやすみよ……。

 やっぱり旅はいゝ。あの濁った都会の片隅でへこたれているより、こんなにさっぱりした気持になって、自由にのびのび息を吸える事は、あゝやっぱり生きている事もいいなと思う。

 十二月×日
 真黄ろに煤けた障子を開けて、ボアッボアッと消えてはどんどん降ってる雪をじっと見ていると、何もかも一切忘れてしまう。
「お母さん! 今年は随分雪が早いね。」
「あゝ」
「お父さんも寒いから難儀しているでしょうね。」
 北海道に行ってもう四ヶ月あまり、遠くに走りすぎて商売も思うようになく、四国へ帰るのは来春だと云う父のたよりが来てこっちも随分寒くなった。
 屋並の低い徳島の町も、寒くなるにつれ、うどん屋のだしを取る匂いが濃くなって、町を流れる川の水がうっすらと湯気を吐くようになった。
 泊る客もだんだん少くなると、母は店の行灯へ灯を入れるのを渋ったりした。
「寒うなると人が動かんけんのう……。」

 しっかりした故郷をもたない私達親子三人が、最後に土についたのが徳島だった。女の美しい、川の綺麗なこの町隅に、古ぼけた旅人宿を始めて、私は一年徳島での春秋を迎えた事がある。
 だがそれも小さかった私……今はもう、この旅人宿も荒れほうだいに荒れ、母一人の内職仕事になってしまった。
 父を捨て、母を捨て、長い事東京に放浪して疲れて帰った私も、昔のたどたどしい恋文や、ひさし髪の大きかった写真を古ぼけた箪笥の底にひっくり返してみると懐しい昔のいゝ夢が段々蘇って来る。
 長崎の黄ろいちゃんぽんうどんや尾道の千光寺の桜や、ニユ川で覚えた城ヶ島の唄や、あゝみんないゝ!
 絵をならい始めた頃の、まずいデッサンの幾枚かゞ、茶色にやけて、納戸の奥から出て来ると、まるで別な世界だった私を見る。
 夜炬燵にあたっていると、店の間を借りている月琴ひきの夫婦が漂々と淋しい唄をうたっては、ピンピン昔っぽい月琴をひゞかせていた。
 外はシラシラと音をたてゝみぞれまじりの雪が降っている。

 十二月×日
 久し振りに海辺らしいお天気。
 二三日前から泊りこんでいる、浪花節語りの夫婦が、二人共黒いしかん巻を首にまいて朝早く出て行くと、もう煤けた広い台所には鰯を焼いている母と私と二人きり。
 あゝ田舎にも退屈してしまった。
「お前もいゝかげんで、遠くい行くのを止めてこっちで身をかためてはどうかい……お前をもらいたいと云う人があるぞな……。」
「へえ……どんな男!」
「実家は京都の聖護院の煎餅屋でな、あととりやけど、今こっちい来て市役所へ務めておるがな……いゝ男や。」
「………………。」
「どや……」
「会うてみようか、面白いな。」
 何もかもが子供っぽくゆかいだった。
 田舎娘になって、おぼこらしく顔を赤めてお茶を召し上れか、一生に一度はこんな芝居もあってもいゝ。
 キイラリ キイラリ、車井戸のつるべを上げたりさげたりしていると、私も娘のように心がはずんで来る。
 あゝ情熱の毛虫、私は一人の男の血をいたちのように吸いつくしてみたいような気がする。
 男の肌は寒くなると蒲団のように恋しくなるものだ。

 東京へ行こう!
 夕方の散歩に、いつの間にか足が向くのは駅。駅の時間表を見ていると涙がにじんで来る。

 十二月×日
 赤靴のひもをといてその男が上って来ると、妙に胃が悪くなりそうで、私は真正面から眉をひそめてしまった。
「あんたいくつ……。」
「僕ですか、廿二です。」
「ホウ……じゃ私の方が上だわ。」
 げじげじ眉で、唇の厚いその顔を何故か、見覚えがあるようで、考え出せなかったが、ふと、私は急に明るくなれて、口笛でもヒュヒュと吹きたくなった。

 月のいゝ夜だ、星が高く流れている。
「そこまでおくってゆきましょうか……。」
 此男は妙によゆうのある風景だ。
 入れ忘れてしまった国旗の下をくゞって、月の明るい町に出ると濁った息をフッと一時に吐く事が出来た。
 一丁来ても二丁来ても二人共だまって歩いた。川の水が妙に悲しく胸に来て私自身が浅ましくなった。
 男なんて皆火を焚いて焼いてしまえ。
 私はお釈迦様にでも恋をしよう……ナムアミダブツのお釈迦様は、妙に色ッぽい目をして、私の此頃の夢にしのんでいらっしゃる。
「じゃあさよなら、あんたもいゝお嫁さんおもちなさいね。」
「ハァ?」
 いとしの男よ、田舎の人はいゝ。私の言葉がわかったのか、わからないのか、長い月の影をひいて隣りの町へ消えてしまった。

 明日こそ荷づくりして旅立とう……。
 久し振りに家の前の三のついたお泊り宿の行灯を見ると、不意に頭をどやしつけられたようにお母さんがいとしくなって、私はかたぶいた梟の瞳のような行灯をみつめていた。

「寒いのう……酒でも呑まんかいや。」
 茶の間で母と差しむかいで、一合の酒にいゝ気持ちになって、親と云うものにふと気がついた。親子はいゝな、こだわりのない気安さで母の多いしわを見た。
 鼠の多い煤けた天井の下に、又母を置いて去るのは、いじらしく可哀想になってしまった。
「あんなもん、厭だねえ。」
「気立はいゝ男らしいがな……」
 淋しい喜劇!
 東京の友達がみんな懐しがってくれるような手紙を書こう。――一九二八・一二――[#改ページ]

   古創

 一月×日
海は真白でした
東京へ旅立つその日
青い蜜柑の初なりを籠いっぱい入れて
四国の浜辺から天神丸に乗りました。

海はきむずかしく荒れていましたが
空は鏡のように光って
人参灯台の紅色が瞳にしみる程あかいのです。
島でのメンドクサイ悲しみは
すっぱり捨てゝしまおうと
私はキリのように冷い風をうけて
遠く走る帆船をみました。

一月の白い海と
初なりの蜜柑の匂いは
その日の私を
売られて行く女のようにさぶしくしました。

 一月×日[#「 一月×日」は底本では「一月×日」]
 おどろおどろした雪空だ。

 朝の膳の上は白い味噌汁に、高野豆腐に黒豆、何もかも水っぽい舌ざわりだ。東京は悲しい思い出ばかり、いっそ京都か大阪で暮らしてみよう……。
 天保山の安宿の二階で、ニャーゴニャーゴ鳴いている猫の声を寂しく聞きながら私は寝そべっていた。
 あゝこんなにも生きる事はむずかしいものか……私は身も心も困憊しきっている。
 潮たれた蒲団はまるで、魚の腸のようにズルズルに汚れていた。
 ビュン! ビュン! 風が海を叩いて、波音が高い。

 からっぽな女は私でございます……生きてゆく才もなければ、生きてゆく富もなければ生きてゆく美しさもない。
 さて残ったものは血の多い体ばかり。
 私は退屈すると、片方の足を曲げて、キリキリと座敷の中をひとまわり。
 長い事文字に親しまない目には、御一泊壱円よりと白々しく壁に張られた文句をひろい読みするばかりだった。
 夕方――ボアリボアリ雪が降った来た[#「降った来た」はママ ]。
 あっちをむいても、こっちをむいても旅の空、もいちど四国の古里へ逆もどりしようか、とても淋しい鼠の宿だ。
 ――古創や恋のマントにむかひ酒――
 お酒でも楽しんでじっとしていたい晩だ。
 たった一枚のハガキをみつめて、いつからか覚えた俳句をかきなぐりながら、東京の沢山の友達の顔を思い浮べた。
 皆自分に急がしい人ばかりの顔だ。

 ボオウ! ボオウ! 汽笛の音を聞くと、私はいっぱいに窓を引きあけて雪の夜の沈んだ港に呼びかけた。
 青い灯をともした船がいくつもねむっている。
 お前も私もヴァガボンド。
 雪々雪が降っている。考えても見た事のない、遠くに去った初恋の男が急に恋いしくなって来た。
 こんな夜だった。
 あの男は城ヶ島の唄をうたった。
 沈鐘の唄もうたった。なつかしい尾道の海はこんなに波は荒くはなかった。
 二人でかぶったマントの中で、マッチをすりあわして、お互いに見あった顔、一度のベエゼも交した事もなく、あっけない別離だった。
 一直線に墜落した女よ! と云う最後のたよりを受取ってもう七年にもなる。あの男は、ピカソの画を論じ槐多の詩を愛していた。

 これでもかッ! まだまだ、これでもかッ! まだまだ、私の頭をどやしつけている強い手の痛さを感じた。
 どっかで三味線の音がする。私は呆然と座り、いつまでも口笛を吹いていた。

 一月×日
 さあ! 素手でなにもかもやりなおしだ。

 市の職業紹介所の門を出ると、私は天満行きの電車に乗った。
 紹介された先は毛布の問屋で、私は女学校卒業の女事務員、どんよりと走る街並を眺めながら、私は大阪も面白いなと思った。
 誰も知らない土地で働く事もいゝじゃないか、枯れた柳の木が腰をもみながら、河筋にゆれている。
 毛布問屋は案外大きい店だった。
 奥行きの深い、間口の広いその店は、丁度貝のように暗くて、働いている七八人の店員達は病的に蒼い顔をして、急がしく立ち働いていた。
 随分長い廊下だった。何もかにもピカピカと手入れの行きとゞいた、大阪人らしいこのみのこじんまりした座敷に私は始めて、老いた女主人と向きあった。
「東京から、どうしてこっちゃいお出でやしたん?」
 出鱈目に原籍を東京にしてしまった私は、一寸どう云っていいかわからなかった。
「姉がいますから……。」
 こんな事を云ってしまった私は、又いつものめんどくさい気持になってしまった。断られたら断られたまでの事だ。

 おっとりした女中が、美しい菓子皿とお茶を運んで来た。
 久しくお茶にも縁が薄く、甘いものも長い事口にしなかった。
 世間にはこうしたなごやかな家もある。
「一郎さん!」
 女主人が静かに呼ぶと、隣の部屋から、息子らしい落ちつきのある廿五六の男が、棒のようにはいって来た。
「この人が来ておくれやしたんやけど……。」
 役者のように細々としたその若主人は光った目で私を見た。
 私はなぜか恥をかきに来たような気がして、ジンと足が痺れて来た。あまりに縁遠い世界だ。
 私は早く引きあげたい気持でいっぱいだった。
 天保山の船宿に帰った時は、もう日も暮れて、船が沢山はいっていた。
 東京のお君ちゃんからのハガキ一枚。
 ――何をぐずぐずしているの、早くいらっしゃい。面白い商売があります。――どんなに不幸な目にあっていても、あの人は元気がいゝ。久し振に私もハツラツとなる。

 一月×日
 駄目だと思っていた毛布問屋に務める事になった。
 五日振りに天保山の安宿をひきあげて、バスケット一ツの漂々とした私は、もらわれて行く犬の子のように、毛布問屋に住み込む事になった。
 昼でも奥の間には、ポンポロ ポンポロ音をたてゝガスの灯がついている。漠々としたオフィスの中で、沢山の封筒を書きながら、私はよくわけのわからない夢を見た。そして何度もしくじっては自分の顔を叩いた。
 あゝ幽霊にでもなりそうだ。
 青いガスの灯の下でじっと両手をそろえてみると爪の一ツ一ツが黄に染って、私の十本の指は蚕のように透きとおって見える。
 三時になると、お茶が出て、八ツ橋が山盛り店へ運ばれて来る。
 店員は皆で九人居た。その中で小僧が六人皆配達に行くので、誰が誰やらまだ私にはわからない。
 女中は下働きのお国さんと上女中のお糸さん二人。
 お糸さんは昔の(御殿女中)みたいに、眠ったような顔をしていた。
 関西の女は物ごしが柔らかで、何を考えているのだかさっぱり判らない。
「遠くからお出やして、こんなとこしんきだっしゃろ……。」
 お糸さんは引きつめた桃割れをかしげて、キュキュ糸をしごきながら、見た事もないような昔しっぽい布を縫っていた。
 若主人の一郎さんには、十九になるお嫁さんがある事もお糸さんが教えてくれた。
 そのお嫁さんは市岡の別宅の方にお産をしに行っているとかで、家はなにか気が抜けたように静かだった。

 夜の八時にはもう大戸を閉めてしまって、九人の番頭や小僧さん達が皆どこへひっこむのか、一人一人居なくなってしまう。
 のりのよくきいた固い蒲団に、のびのびといたわるように両足をのばして、じっと天井を見ていると、自分がしみじみ、あわれにみすぼらしくなって来る。

 お糸さんとお国さんの一緒の寝床に、高下駄のような感じの黒い箱枕がちんと二ツならんで、お糸さんの赤い胴抜きのした長襦袢が蒲団の上に投げ出されてあった。
 私はまるで男のような気持ちで、その赤い長襦袢をいつまでもみていた。しまい湯をつかっている、二人の若い女は笑い声一つたてないで、ピチャピチャ湯音をたてゝいる。
 あの白い生毛のたったお糸さんの美しい手にふれてみたい気がする、私はすっかり男になりきった気持で、赤い長襦袢を着たお糸さんを愛していた。
 あゝ私が男だったら世界中の女を愛してやったろうに……沈黙った女は花のように匂いを遠くまで運んで来るものだ。
 泪のにじんだ目をとじて、まぼしい灯に私は額をそむけた。

 一月×日
 朝の芋がゆにも馴れてしまった。
 東京で吸う、赤い味噌汁はいゝな、里芋のコロコロしたのを薄く切って、小松菜と一緒にたいた味噌汁はいゝな。荒巻き鮭の一片一片を身をはがして食べるのも甘味い。
 大根の切り口みたいなお天陽様ばかり見ていると、塩辛いおかずでもそえて、甘味しい茶漬けでも食べてみたいと、事務を取っている私の空想は、何もかも淡々しく子供っぽくなって来る。

 雪の頃になると、いつも私は足指に霜やけが出来て困った。
 夕方、荷箱をうんと積んである蔭で、私は人にかくれて思い切り足をかいた。赤く指がほてって、コロコロにふくれあがると、針でも突きさしてやりたい程切なくて仕様がなかった。
「ホウ……えらい霜やけやなあ。」
 番頭の兼吉さんが驚いたように覗いていた。
「霜やけやったら、煙管でさすったら一番や。」
 若い番頭さんは元気よくすぽんと煙草入れの筒を抜くと、何度もスパスパ吸っては火ぶくれたような赤い私の足指を煙管の頭でさすってくれた。
 もうけ話ばかりしているこんな人達の間にもこんな真心がある。

 二月×日
「お前は七赤金星で金は金でも、金屏風の金だから小綺麗な仕事をしなけりゃ駄目だよ。」
 よく母がこんな事を云っていたが、こんなお上品な仕事はじきに退屈してしまう。
 あきっぽくって、気が小さくて、じき人にまいってしまって、わけもなくなじめない私のさがの淋しさ……あゝ誰もいないところで、ワアッ! と叫びあがりたい程、焦々する。
 いゝ詩をかこう。
 元気な詩をかこう。
 只一冊のワイルド・プロフォディスにも楽しみをかけて読む。

 ――私は灰色の十一月の雨の中を嘲けり笑うモッブにとり囲まれていた。
 ――獄中にある人々にとっては涙は日常の経験の一部分である。人が獄中にあって泣かない日は、その人の心が堅くなっている日で、その人の心が幸福である日ではない。
 夜々の私の心はこんな文字を見ると、まことに痛んでしまう。
 お友達よ! 肉親よ! 隣人よ! わけのわからない悲しみで正直に私は私を嘲笑うモッブが恋いしくなった。
 お糸さんの恋愛にも祝福あれ!
 夜、風呂にはいってじっと天窓を見ていると、キラキラ星がこぼれていた。忘れかけたものをふっと思い出したように、つくづく一人ぼっちで星を見た。

 老いぼれた私の心に反比例して、肉体のこの若さよ。赤くなった腕をさしのべて風呂いっぱいに体をのばすと、ふいと女らしくなって来る。
 結婚しよう!
 私はしみじみとお白粉の匂いをかいだ。眉もひき、口唇も濃くぬって、私は柱鏡のなかの幻にあどけない笑顔をこしらえてみた。
 青貝の櫛もさして、桃色のてがらもかけて髷も結んでみたい。
 弱きものよ汝の名は女なり、しょせんは世に汚れた私で厶います。美しい男はないものか……。
 なつかしのプロヴァンスの歌でもうたいましょうか、胸の燃えるような思いで私は風呂桶の中に魚のようにくねってみた。

 二月×日
 街は春の売出しで赤い旗がいっぱい。

 女学校時代のお夏さんの手紙をもらって、私は何もかも投げ出して京都へ行きたくなった。
 ――随分苦労なすったんでしょう……と云う手紙を見ると、いゝえどういたしまして、優さしいお嬢さんのたよりは、男でなくてもいゝものだ、妙に乳くさくて、何かぷんぷんいゝ匂いがする。
 これが一緒に学校を出たお夏さんのたよりだ。八年間の年月に、二人の間は何百里もへだたってしまった。
 お嫁にも行かないで、じっと日本画家のお父さんのいゝ助手として孝行しているお夏さん!
 泪の出るようないゝ手紙だ。ちっとでも親しい人のそばに行って色々の話を聞いてもらおう――。

 お店から一日ひまをもらうと、鼻頭がジンジンする程寒い風にさからって、京都へ立った。

 午後六時二十分。
 お夏さんは黒いフクフクとした、肩掛に蒼白い顔をうずめて、むかえに出てくれた。
「わかった?」
「ふん。」
 沈黙って冷く手を握りあった。
 赤い色のかった服装を胸に描いて来た私にお夏さんの姿は意外だった。まるで未亡人か何かのように、何もかも黒っぽい色で、唇だけがぐいと強よく私の目を射た。
 椿の花のように素的にいゝ唇。
 二人は子供のようにしっかり手をつなぎあって、霧の多い京の街を、わけのわからない事を話しあって歩いた。

 昔のまゝに京極の入口には、かつて私達の胸をさわがした封筒が飾窓に出ている。
 だらだらと京極の街を降りると、横に切れた路地の中に、菊水と云ううどんやを見つけて私達は久し振りに明るい灯の下に顔を見合わせた。私は一人立ちしていても貧乏、お夏さんは親のすねかじりで勿論お小遣もそんなにないので、二人は財布を見せあいながら、狐うどんを食べた。
 女学生らしいあけっぱなしの気持で、二人は帯をゆるめてはお変りをしては食べた。
「貴女ぐらいよく住所の変る人ないわね、私の住所録を汚して行くのはあんた一人よ。」
 お夏さんは黒い大きな目をまたゝきもさせないで私を見た。
 甘えたい気持でいっぱい。
 丸山公園の噴水にもあいてしまった。
 二人はまるで恋人のようによりそって歩いた。
「秋の鳥辺山はよかったわね。落葉がしていて、ほら二人でおしゅん伝兵衛の墓にお参りした事があったわね……。」
「行ってみようか!」
 お夏さんは驚いたように瞳をみはった。
「貴女はそれだから苦労するのよ。」

 京都はいゝ街だ。
 夜霧がいっぱいたちこめた向うの立樹のところで、キビッキビッ夜鳥が鳴いている。

 下鴨のお夏さんの家の前が丁度交番になっていて、赤い灯がポッカリとついていた。

 門の吊灯籠の下をくゞって、そっと二階へ上ると、遠くの寺でゆっくり鐘を打つのが響いて来る。
 メンドウな話をくどくどするより、沈黙ってよう……お夏さんが火を取りに下に降りると、私は窓に凭れて、しみじみ大きいあくびをした。――一九二六――[#改ページ]

   百面相

 四月×目
 地球よパンパンとまっぷたつに割れてしまえ! と怒鳴ったところで、私は一匹の烏猫、世間様は横目で、お静かにお静かにとおっしゃる。

 又いつもの淋しい朝の寝覚め、薄い壁に掛った、黒い洋傘を見ていると、色んな形に見えて来る。
 今日も亦此男は、ほがらかな桜の小道を、我々プロレタリアートよなんて、若い女優と手を組んで、芝居のせりふを云いあいながら行く事であろう。

 私はじっと脊を向けて寝ている男の髪の毛を見ていた。
 あゝこのまゝ蒲団の口が締って、出られないようにしたら……。
 ――やい白状しろ!――なんて、こいつにピストルでも突きつけたら、此男は鼠のようにキリキリ舞いしてしまうだろう。
 お前は高が芝居者じゃあないか。インテリゲンチャのたいこもちになって、我々同志よ! もみっともない。
 私はもうお前にはあいそがつきてしまった。
 お前さんのその黒い鞄には、二千円の貯金帳と、恋文が出たがって、両手を差出していたよ。
「俺はもうじき食えなくなる。誰かの一座にでもはいればいゝけど……俺には俺の節操があるし。」
 私は男にとても甘い女です。
 その言葉を聞くと、サンサンと涙をこぼして、では街に出ましょうか。
 そして私は此四五日、働く家をみつけに、魚の腸のように疲れては帰って来ていたのに……此嘘突き男メ! 私はいつもお前が用心して鍵を掛けているその鞄を、昨夜そっと覗いてみたのだよ。
 二千円の金額は、お前さんが我々プロレタリアと言っている程少くもなかろう。
 私はあんなに美しい涙を流したのが莫迦らしくなった。
 二千円と、若い女優がありゃ、私だったら当分長生きが出来る。
 あゝ浮世は辛うごさりまする。
 こうして寝ているところは円満な御夫婦、冷い接吻はまっぴらだよ。
 お前の体臭は、七年も連れそった女房や、若い女優の匂いでいっぱいだ。
 お前はそんな女の情慾を抱いて、お務めに私の首に手を巻いてくる。
 どいておくれよッ!
 淫売でもした方が、気づかれがなくて、どんなにいゝか知れやしない。
 私は飛びおきると男の枕を蹴ってやった。嘘突きメ! 男は炭団のようにコナゴナに崩れていった。

 ランマンと花の咲き乱れた四月の空は赤旗だ、地球の外には、颯々として熱風が吹きこぼれて、オーイオーイ見えないよび声が四月の空に弾けている。
 飛び出してお出でよッ!
 誰も知らないところで働きましょう。茫々として霞の中に私は太い手を見た。真黒い腕を見た。

 四月×日
一度はきやすめ二度は嘘
三度のよもやにしかされて……
 憎らしい私の煩悩よ、私は女でございました。やっぱり切ない涙にくれまする。
鶏の生胆に
花火が散って夜が来た
東西! 東西!
そろそろ男との大詰が近づいたよ
一刀両断に切りつけた男の腸に
メダカがぴんぴん泳いでいた

臭い臭い夜だよ
誰も居なけりや泥棒にはいりますぞ!
私は貧乏故男も逃げて行きました
あゝ真暗い頬かぶりの夜だよ。

 土を凝視めて歩いていると、しみじみ悲しくて、病犬のようにふるえて来る。なにくそ! こんな事じゃあいけないね。
 美しい街の舗道を今日も私は、――女を買ってくれないか、女を売ろう……と野良犬のように彷徨した。

 引き止めても引き止まらない、切れたがるきずなならば此男ともあっさり別れよう……。

 窓外の名も知らぬ大樹の、たわゝに咲きこぼれた白い花に、小さい白い蝶々が群れて、いゝ匂いがこぼれて来る。
 夕方、お月様に光った縁側に出て男の芝居のせりふを聞いていると、少女の日の思い出が、ふっと花の匂いのように横切って、私も大きな声で――どっかにいゝ男はいないか! とお月様に怒鳴りたくなった。
 此男の当り芸は、かつて芸術座の須磨子とやった剃刀と云う芝居だった。
 私は少女の頃、九州の芝居小屋で、此男の剃刀を見た事がある。
 須磨子のカチウシャもよかった。あれからもう大分時がたつ、此男も四十近い年だ。
「役者には、やっぱり役者のお上さんがいゝんですよ。」
 一人稽古をしている、灯に写った男の影を見ていると、やっぱり此男も可哀想だと思わずにはいられない。

次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:224 KB

担当:undef