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著者名:林芙美子 

 暗い晩で風が吹いていました。より江(え)はふと机から頭をもちあげて硝子戸(ガラスど)へ顔をくっつけてみました。暗くて、ざわざわ木がゆれているきりで、何だか淋(さび)しい晩でした。ときどき西の空で白いような稲光(いなびか)りがしています。こんなに暗い晩は、きっとお月様が御病気なのだろうと、より江は兄さんのいる店の間(ま)へ行ってみました。兄さんは帳場の机で宿題の絵を描(か)いていました。
「まだ、おッかさん戻らないの?」
「ああまだだよ。」
「自転車に乗っていったんでしょう?」
「ああ自転車に乗って行ったよ。提灯(ちょうちん)つけて行ったよ。」
 より江たちのお母さんは村でたった一人の産婆(さんば)さんでした。より江はつまらなそうに、店先へ出て、店に並べてある笊(ざる)や鍋(なべ)や、馬穴(ばけつ)なぞを、ひいふうみいよおと数えてみました。戸外では、いつか雨が降り出していて、湿った軒燈(けんとう)に霧のような水しぶきがしていました。兄さんは土間へ降りて硝子戸を閉(し)め、カナキンのカアテンを引きました。より江はさっきから土間の隅(すみ)にある桶(おけ)のところを見ていました。
「健(けん)ちゃん! 蛙(かえる)がいるよ。」
「蛙? どら、どこにいる?」
「ほら、その桶のそばにつくばっているよ。」
「ああ、青蛙(あおがえる)だね。何で這入(はい)って来たのかねえ――こら! 青蛙、なにしに来た?」
 より江は怖(こわ)いので、兄さんの後(あと)にくっついていました。青蛙はきょとんとした眼玉をして、ひくひく胸をふくらませています。ぼんぼんぼん、店の時計が八時を打ちました。より江は時計をみあげて、お母さんはどこまで行ったのかしらと怒ってしまいました。より江は淋(さび)しいので、兄さんが大事にしているハモウニカを借して貰(もら)って、一人で出鱈目(でたらめ)に吹いて遊びました。小学校六年生の健ちゃんはときどき机から顔をあげて、
「よりちゃん、ハモウニカに唾(つば)を溜(た)めちゃ厭(いや)だよ。」
 といいました。より江はハモウニカを灯(ひ)に透かしてみました。沢山窓があるので、小さいより江は、すぐ汽車の事を考え出して、ハモウニカを算盤(そろばん)の上へ置いて「汽車ごっこ」とひとりで遊びました。より江が板の間の方までハモウニカの汽車を走らせていると、戸外で、
「今晩、今晩、今晩!」
 という声がします。
 兄(にい)さんの健ちゃんはびっくりした顔をして「誰(だれ)かね。」と大きい声で返事をしました。すると、表の硝子戸を開(あ)けて、見たこともない一人の男のひとが這入(はい)って来て、
「腹が痛いのだが薬を売ってくれないかね。」
 といいました。
 健ちゃんは、煤(すす)けた天井(てんじょう)から薬袋(くすりぶくろ)を降して見知らぬ男のひとのところへ持ってゆきました。男のひとは大変疲れていると見えて、土間へ這入って来ると、すぐ板の間へ腰をかけて「ああ」と深いためいきをしました。
「誰もいないのかい?」
 とその男は健ちゃんに訊(き)きました。
 健ちゃんは泣(な)きそうな顔をして、「うん」と云いました。雨が強くなったのでしょう硝子戸がびりびりふるえています。その男のひとは健ちゃんから水を一杯もらって銭(ぜに)を置いて帰りました。帰りしなに乗合い自動車はもうないだろうかとききました。
「九時まであります。」
 と健ちゃんが応(こた)えると、その男のひとは硝子戸を丁寧に閉めて雨の中へ出て行きました。より江は、ざァと云(い)う雨の音をきくと、いまのおじさんは濡(ぬ)れて可愛(かあい)そうだとおもい、
「傘(かさ)を借してあげればいいに……」
 と兄さんにいいました。兄さんは壁にあった傘を取って、硝子戸をあけ「おうい」といまの男のひとを呼びました。男のひとは二三十歩行っていましたが、健ちゃんが雨の中を走って傘を持って来てくれると、びっくりするほど健ちゃんの肩を叩(たた)いて男のひとはよろこびました。――より江たちのお母さんは九時頃(ごろ)帰って来ました。
 健ちゃんたちが、さっきの男のひとの話をすると、お母さんは心配そうに「ほう」といっていました。濡れた自転車を土間へ入れて健ちゃんが硝子戸に鍵(かぎ)をかけようとすると、さっきの蛙がまだつくばっています。
「よりちゃん、まだ蛙がいるよ。」
 と、健ちゃんが蛙をつまみあげると、薄青い色をした蛙は、くの字になった両脚(りょうあし)を強く曲げて逃げようとしました。健ちゃんは空箱(あきばこ)の小さいのへ蛙を入れて、寝床へはいったより江の枕元(まくらもと)へ持って行ってやりました。
 より江はその箱を耳につけて、いっとき、ごそごそという蛙のけはいを愉(たの)しんでいました。
 お母さんは、まだ何かお仕事のようでしたが、より江は箱を持ったまま小さい鼾(いびき)をたてて眠り始めました。
 翌(あく)る朝(あさ)。
 夜来(やらい)の雨が霽(は)れて、いいお天気でした。健ちゃんは学校へ行きました。より江は蛙がいなくなったと騒いでいました。戸外では、まぶしい程(ほど)朝陽(あさひ)があたって、青葉は燃えるように光っていました。より江が庭でほうせん花(か)の赤い花をとって遊んでいると、店の土間で自転車を洗っていたお母(かあ)さんが、
「よりちゃんや! よりちゃん一寸(ちょっと)おいで。」
 と呼びました。
 より江は何かしらとおもって走ってゆきますと、昨夜(ゆうべ)のおじさんが、バナナの籠(かご)をさげて板の間へ腰をかけていました。お母さんはにこにこ笑(わら)って、
「わたしは、まァ、心のうちで泥棒じゃなかったかしらなんて考えていましたんですよ。」
 といっていました。
 おじさんは、新らしく来たこの県の林野局のお役人で、山から降りしなに径(みち)に迷ってしまって、雨で冷えこんで、腹を悪くしたといっていました。
「ほんとに、薬を飲んだときはやれやれとおもいましたよ。これはお土産(みやげ)ですよ。」
 そういって、紐(ひも)でくくった傘(かさ)とバナナの籠を土間に置いて、より江の頭をなぜてくれました。より江はおじさんが、如何(いか)にもうれしそうに声をたてて笑う皓(しろ)い歯をみていました。お母さんは自転車を洗い終ると、店先きの陽向(ひなた)に干して、おじさんに茶を入れて出しました。
「おや、雨蛙がいるよ。」
 おじさんがひょいと股(また)をひろげると、おじさんの長靴(ながぐつ)の後(うしろ)に昨夜(ゆうべ)の雨蛙が呆(ぼ)んやりした眼をしてきょとんとしています。より江は雨蛙をどこか水のあるところへ放してやろうとおもいました。そっと両手で挟(は)さんで、往来の窪(くぼ)みへ置いてやりましたが、蛙は疲れているのか、道ばたに呆んやりつくばったままでいますので、より江はひしゃくに水を汲(く)んでぱさりと、蛙の背中に水をかけてやりました。蛙はびっくりして、長く脚を伸ばして二三度飛びはねてゆきましたが、より江がまばたきしている間(ま)に、どこかへ隠れてしまったのか煙のように藪垣(やぶがき)の方へ消えて行ってしまいました。
 乗合自動車が地響をたてて上がって来ました。おじさんは、
「さァて、山へ行くかな……」
 そう云って立ちあがりますと、より江のお母さんは、赤い旗を持って土間へ降りてゆきました。より江もひしゃくを持ったままお母さんの後(あと)へついて、表の陽向(ひなた)へ出て行(ゆ)きました。




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