瀑布
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著者名:林芙美子 

 橋の上も、河添ひの道も、群集が犇めきあつてゐる。群集の後から覗いてみたが、澱んだ河の表面が、青黒く光つて見えるだけで、何も見えない。そのくせ群集は、折り重なるやうにして、水の上を覗いてゐる。何だらうと云ひあひながら、前の方へ押し出されたものは、見てしまつた安堵で、後から押される人間の力を振り切つて、犇めく人の間を、ぐんぐんと外側へ出て来てゐる。「何です?」いやにおもねるやうな尋づねかたで、訊くものもある。直吉も、人の切れ目のなかに肩を入れて、ぐいぐいと押されて、前の方へ吸ひ込まれて行つた。埃に汚れた八ツ手の葉が胸元へばらばらと葉を弾き寄せる。それを掻き分けて、ぐつと木柵に凭れるやうにして、河底を覗き込むと白つぽいものが、汚れた水の上に浮いてゐた。靄のかゝつた水の上に、人間が腕組みをして、ぽかりと浮いてゐた。よく見ると、大柄な男が、眼をつぶつて、浮袋の上に身動きもしない。男の様子が妙だつたので、突差には、その場のありさまが判然と呑みこめなかつたが、浮袋のわきに、酒場の名前をペンキで書いた、白い板が浮いてゐるのを眼にして、直吉は、なるほど、生きてゐる人間の商売なのかと、吻つとすると同時に、その男の悠々とした、たゞよひかたが、ひどく気に入つた。向ひ側のA新聞社の窓々からも、人の顔が覗いてゐた。狭い河底の一点は、ぐるりに群集を置いたまゝ、森閑と静まりかへつてゐる。宣伝の為に、水の上に寝転んでゐる男は、蒼い化粧をしてゐた。まるで死人のやうに見えた。孤独で寄辺のない生きながらの骸は、ゆつくり水の上で動いてゐる。細長い浮袋には、長い縄がついてゐて、石崖の杭に結びつけてある。久しぶりに外出して、直吉はすさまじい世相を見たが、その水の上の生ける骸に対して、直吉は、誘はれるやうな反射を受けた。四囲に、わあつと広告塔や、電車や自動車の音がけたゝましく響かなかつたら、その河底の骸は、深い谷川を流れてゆく姿にも見えて、惨酷な風趣だつた。直吉は、すぐにも立ち去る気にはなれなかつた。何時までも眼を閉ぢてゐるので、見降ろしてゐる方で退屈だつたが、群集は仲々散つて行かない。S橋の上では、進駐軍の兵隊も、驚いて何人も河底を覗き込んでゐる。石油臭い河水の匂ひが、四囲にこもつてゐた。割合大きい顔をした男だつた。白いY襯衣の胸を拡げて、黒い洋袴をはき、素足だつた。眠つてゐる。おだやかな表情である。直吉の後の方で、日当が五百円から、千円位ださうだねと云つてゐるものがあつた。それにしても、水の上に寝転ぶ芸当はよういな仕事ではない。見てゐるものゝ眼に、この河底の人生は、異様に写らないではなかつた。直吉は暫く木柵に凭れて、男の動き出すのを待つてゐたが、男は仲々起きる気配もなかつた。捨て身な構へでもある。時々唇のあたりに、微笑の表情が浮きあがつたが、水の上の男は、衆人環視のなかの己れの姿に、冷笑してゐるのかも知れない。時々、河底から饐えた臭ひが吹き上げて来た。
 直吉は、群集を押し返へして、その場所から、やつと抜け出る事が出来た。歩き出すと、四囲の騒音が、さつきの河底の人生とは、何のかゝはりもない。とらへどころなく茫漠としてゐる。知己にめぐりあつた親近さで、その男の生活の背景を空想してみた。大胆で、捨て身な考へになつて行く。勇気さへあれば、どんな事をしても生き抜けるのだらう。なるべく四囲は見ない方がいゝ。そのくせ、直吉は、路上の、現実の流れに、喰ひ入るやうな視線を向けずにはゐられなかつた。文明的なものと原始的なものが、不安もなく交流してゐる。不思議な世界に変り果てた、都会の夕景を眺めて、直吉は、呆んやりと足の向くまゝに歩いた。ネオン・サインが方々の建物にきらめき、忙はしさうに人々は流れてゐる。若い女も喜々として歩いてゐる。光つた自動車が、しゆんしゆんと直吉のそばを滑つた。よろめきかしいで、荷車を曳いて行く男もゐる。それぞれが、夜のねぐらに急いでゐるのだ。――直吉は時計を見た。里子と逢ふまでには、まだ三時間あまりの時間があつた。早く行つたところで、あのあたりをぶらぶらしてゐなければならない。此度は、二時間あまりを寒いところに立たされた苦味い経験から、なるべく、賑やかな場所で、時間を消費して行きたかつた。――四月が近いと云ふのに、馬鹿に肌寒い夕方である。直吉はきびすを返へして、銀座の方へ歩いた。疲れてゐた。薄暗い河の上の生ける骸が、直吉の瞼からしつこく離れなかつた。狭い檻の中で、何処へ行く当てもない群集が、閉じこめられてゐる。息苦しくて、直吉は不安な底に落ち込むやうだつた。いつそ里子とは別れてしまふべきだと、その思ひのなかに、また引きずり込まれて行く。自分の生活を大手術してかかるには、まづ、名前だけの夫婦関係を断ち切るべきであらうかと、里子の行末に就いて、直吉は、責任を持つべきものかどうかを疑問に思つてゐる。離れて住む夫婦の、かうした関係に就いて、誰も何の疑問も持たないのは、さうした自分達夫婦のやうなものが案外少ないのではないかとも考へる。ソ連から引揚げて来て、直吉は、家と云ふものをいまだ持てなかつた。半年にもなるのに、自分の努力は少しもその方へ向いて行かなかつたのだ。最初のほどは焦々してゐたのだが、半年も経つてみると、かへつて、投げやりな気持ちになり、現在では、里子に対しても、昔程の激しさはなくなつてゐた。誰が悪いと云ふ事もなかつたが、直吉は時々、世の中の誰へともなく、怒つてみる時がある。「だつて、仕方がないわ。どうにもならないンぢやありませんか。貴方は長い事外国にいらして、空襲なンかを御ぞんじないから、そんな不服もお持ちなのでせうけれど、私一人ではどうにもならなかつたのよ。――何も好きこのんで、働きに出てゐるわけぢやありません。私だつて、一軒の家に貴方と住みたいンですけれど、住めないのよ。何も判らないから、貴方はそんな無理をおつしやるけれど、これが敗戦だと思つて、私、あきらめて働いてゐますの‥‥」里子はさう云つて、怒つてぶりぶりしてゐる直吉を、なだめにかゝるのだ。何時も、別れる時の里子の言葉は、こんなふうにきまつてゐた。二人とも別々の檻に入れられた、雌雄の動物のやうに、少しも人間らしい自由はなかつた。――露店と、商店のショウ・ウインドウに挟まれた狭い歩道を、直吉は人波に押されながら歩いてゐる。直吉は、不思議な外国の街を歩いてゐるやうな気がした。出征当時の乏しい街ではなかつた。何処から、こんな街がにゆつと現はれたのかが不思議だつた。不安もなく人間は歩いてゐる。露店も商店も沢山の品物を積み上げて、通行の人々の眼を呼びとめてゐる。沢山の人間の抜け殻が、歩いてゐるやうだつた。何が幸でこんなに沢山の人間が歩いてゐるのか、直吉にはさつぱり判らなかつた。ノボオシビルスクにも、こんな賑やかな街はなかつた。すつかり浦島太郎になりきつてゐる直吉にとつては、今宵の銀座の街は幻の街だつた。さつきの、河底の広告マンの必死の生き方が、何故ともなく直吉の心の中をゑぐつて来る。春か、秋かも、季節のない都会の街路に、頬に沁みるやうな冷い風が吹きつける。夕暮の雲一つない水色の空に、平凡な風景を見る気がした。何処へ行くあてもなかつたが、PXの前まで歩いて、さて、どの方向に電車道を渡るべきかと、直吉が立ち停ると、耳のそばで、聞きなれない異国の言葉が聴えた。直吉は振り返へつた。若い進駐軍の兵隊が何人も立つてゐる。どの兵隊も、健康さうで赧い顔をしてゐた。身だしなみや、躾のいゝすつきりした姿で、それぞれの仲間同士と話しあつてゐる。そこだけが直吉には別世界のやうだつた。何の恐怖もなく、そこへ立つてゐられる事が不思議だつた。それに、自分のみすぼらしさが卑下されるのも。その兵隊達を見て、初めて、直吉は自分の立ち場を知るのだ。線路の十字路になつた、分岐点の処で、日本人の巡査がゴオ・ストツプの合図を不器用な手つきでやつてゐる。その合図にあはせて、自動車や電車の流れが、十文字に滑走して流れて行く。直吉は珍しいものでも見るやうに、暫く、その騒々しいゴオ・ストツプの合図に見とれてゐた。子供の無心さにかへつて、その巡査の動作を眺めてゐた。すつかり外国風な合図の仕方になり、若い巡査は白い手袋の手をくるくると振りまはしては、呼び子の笛を吹いた。直吉は腹が空いたが、何処で食事をすると云ふ当てもない。
 黄いろい木柵に凭れて、いかにものんびりした恰好で、直吉は立つてゐたが、雑音や人通りも、総てまたぴたつと戦時中のやうに停止してしまひさうな不安になつて来る。何処かで子供が産まれ、何処かで死者を葬つてゐる毎日の、人間の営みが銀座の四辻には、一向感じられない。みんな永遠に生きてゐられるやうなそぶりで、人波は行きつ戻りつしてゐた。自分のそばに濠洲兵が一人立つてゐた。直吉は珍しさうに、その兵隊をじろじろ眺めてゐた。白い帯、白いたすき、つば広の帽子の片側ぶちを折り曲げたのを、はすに被り、茶色に光つた眼で呆んやりと歩道の人波を眺めてゐた。遠い処から来た兵隊なのだらうが、いつたい地球のどのへんから来たのだらうかと空想してみる。直吉も丁度こんな事があつた。ノボオシビルスクの停車場で、二人連れの少年が、直吉の兵隊姿をじろじろ眺めてさゝやきあつてゐたものだ。直吉はその少年の方に笑ひかけたが、少年達は不快さうな表情をして、哄笑しながら行つてしまつた。直吉は、いま、さうした昔の或日の自分の生活を、思ひ出してゐたのだ。あんなに恋ひこがれた東京へ戻つて来ると、妙な事には、時々ノボオシビルスクの夢を見て、涙を流してゐる時があつた。濠洲兵は、直吉に並んで黄いろい木柵によりかゝつて、頬杖ついて、呆んやりと、十字路を流れる人波を見てゐた。何を考へてゐるのだらう。見るともなく見てゐると、まだ若いぴちぴちした兵隊だつた。無邪気な表情である。鼻つきといひ、眼のくぼみといひ、横顔が仲々の美男子であつた。濠洲兵は、貧相な日本人に注意されてゐるのを知ると、ふつと、直吉の方へ視線を向けて、何の表情もなく、さつと人波の中へまぎれ込んで行つた。直吉は兵隊の視線を受けて、突差に笑ひかけようとしたが、何と云ふ事もなく、ノボオシビルスクの、ソ連の少年の眼を思ひ出してゐたのだ。どうにも仕様のない、民族的な一種の卑下を、直吉は、これは宿命なのだと思はないわけにはゆかなかつた。笑ひかけた微笑の眼のやりばに困つて、直吉は前よりも不機嫌で木柵に凭れてゐた。もう眼は何も見てゐなかつた。暫くすると、またアメリカ兵が、直吉の頬杖ついてゐるそばに、飛び上つて、楽々とした腰の掛けかたで、大きい手で木柵を掴んで体を支へた。ミルク色の大きい手だ。小さい額縁のなかに、女の首を浮彫りにした金色の指輪を小指にしてゐた。腕にも金色の時計をはめてゐる。ぢいつとその時計を見ると、五時十分である。時計のぐるりには毛がもしやもしやと生えてゐた。平べつたい大きい爪はたんねんに磨かれて清潔だつた。そつと見上げると、透きとほるやうな灰色の眼をしてゐた。柔かい白つぽい金髪で、皮膚は酔つたやうに赤かつた。眼の下を通る人波を眺めてゐる。誇張した微笑の眼で、直吉はその兵隊を観察してゐたが、兵隊は別に注意もしなかつた。習慣的に微笑の顔をつくつてゐる自分の浅ましさに、直吉はまた民族的な宿命を感じる。ソ連に捕虜になつてゐた日本の兵隊は、ぢいつと見てゐると、[#「、」は底本では「、、」]兵隊服をとほして、大工とか、魚屋とか、会社員とかの職業がにじみ出てゐた。それぞれの兵隊に、およその勘を利かす事は出来たのだが[#「たのだが」は底本では「のだか]、かうした皮膚の違ふ兵隊を見てゐると、その一人一人の職歴を見抜く事は困難でもあつた。言葉が自由に語れたならば「どうでせうか、少しばかり、貴方とお喋りをしたいのですが‥‥」と話してみたかつた。肉づきのしまつた腰から脚へかけての洋袴は皺一つなかつた。長い脚を柵の下すれすれにぶらさげてゐる。直吉はみすぼらしい自分の姿が佗しかつた。倚りかゝつてゐる木柵に、二人は何の関係もない並びかたでゐたが、かつて、兵隊だつた直吉は、隣りのアメリカ兵に対して、無関心ではゐられなかつた。率直で感じのいゝ兵隊のそばに立つてゐる事だけで、直吉は対立的な気持ちにはなれない。雑沓する一つの場所で、暫く、直吉は、心に浸みるやうな孤独を味つてゐた。人格とか、威厳とか、何一つ調和しない敗者の生活が、眼の前に渦をなして、ごみごみと雑沓の中に流れてゐる。平板な敗者の安心感だけで、どの東京人の顔も、懐疑的な表情で歩いてゐるものはない。嘔吐をしたあとのすがすがしさである。――さつきの河底に[#「さつきの河底に」は底本では「さつきの 河底に」]浮いてゐた広告マンの勇気が、直吉には、馬鹿に羨しかつた。我一人行くの勇気を持つた、あの広告マンに対して、直吉は、あすこまで行けば、気楽なのではないかと思つた。その日暮しの連続で生活してゐた事に、直吉は、やりきれなくなつてゐる。一寸したきつかけで、かうした兵隊と、仲良しになつて、極くさゝやかな幸運をもたらせてくれないものかと、空想もしてみる。兵隊は友人に出逢つたのか、大きい声を挙げて、身軽るに木柵から腰を降ろすと、まつすぐな歩き方で、PXの建物の方へ足早やに行つた。
 直吉も木柵を離れ、ゆつくりした歩きかたで、数寄屋橋の方へ仕方なく戻つた。

 直吉が山の手線で、巣鴨の駅へ降りた時は四囲は[#「時は四囲は」は底本では「時は 四囲は」]とつぷり暮れてゐた。待ち合せる場所まで行つてみたが、里子はまだ出て来てゐない。こゝはまた馬鹿に淋しい町通りである。寒い夜風が吹きつけてゐたが、深く呼吸をしてゐると、春らしくもある。沈丁花の垣根が匂つてゐる。ラジオの騒々しい対話が聴える。電信柱と、産婆の赤い灯とが向きあつてゐる。そこへ立つたびに、直吉は不愉快であつた。湯殿の煙突が火の粉を噴き、台所で肉を焼く匂ひがしたり、子供の甘つたれた声がした。白い石の門柱の前には、高級車が停つてゐる。沈丁花の垣根に添つた溝には、米を洗つた白い水が、溢れて流れてゐる。平和なその家の賑やかさが、直吉には妬ましかつた。焼け残つた広い家の石塀に添つて、直吉は、何時も相当の時間を、こゝで行つたり来たりして、里子を待つてゐなければならない。煙草を吸つてみたり、時には待ち疲れて、蹲踞んでみたりする。徹底的に打ちのめされたやうな気がして来る。何に打ちのめされたのかは判らなかつたが、直吉は心細さと、未来の不安で、小道を焦々して歩いた。じれて、里子の家の前の板塀の処まで来ると、きまつて、家の中から、犬が吠えた。大きい犬だと聞いてゐたので、不気味な吠え方であつた。外套の襟をたて、門の前を通り過ぎる。耳門が開いて、里子が白い肩掛けをして小走りに、産婆の赤い灯の方へ歩いて行つた。直吉は後を追つて、大股に里子の後をついて行つた。里子は、肩掛けの片方を後へ垂したまゝ、せかせかと前かゞみ歩いてゐる。大通りへ出ると、初めて、里子は足をゆるめて、後から来る直吉を待つた。
「お待ちになつて?」
 何時も同じ事を里子は云つた。時間を守れない癖に、同じ事を云ふ里子に対して、直吉は、初めから腹をたててゐるのだ。長い間、里子に接しない恨みもあつたが、それにしても、言葉つきだけは優しい事を言つてゐながら、里子は言葉以外の動作で、ひどく直吉には邪けんにふるまつた。直吉は、それをよく知つてゐたし、また同じ事のむし返へしだと思はないわけにはゆかなかつたが、それでも、何となく、里子に惹かれて、のこのこと出向いて行く、自分の卑しさが、直吉にはたまらないのだ。
「腹が空いたが、此辺に、何か食ふ店でもないのか」
「あら、何時でも、貴方は、私に逢ふ時は、おなかが空いてゐるのね‥‥。おうちで御飯を召し上つていらつしやらないの」
「食べないよ」
「さア、此辺、何処かあるかしら……大塚まで行けば、何かあつたわね、お蕎麦みたいなものでもいゝンでせう?」
「何でもいゝ」
「何を、そんなに、ぷりぷり怒つていらつしやるの?」
「馬鹿にいゝ匂ひがするな。香水をつけてゐるのかい?」
「あら、香水つて、そンなもンぢやないけど、今日久しぶりで髪を洗つて、香油をつけたから匂ふンでせう?」
 里子はさう云つて、後へさがつた肩掛けを、引き上げる次手に、頭髪へ手をやつた。珍しく上の方へ髷を結つてゐるので、襟足がすつきりして、夜目にも首筋が白く見えた。時々、風のかげんで、里子のまはりに、甘い匂ひがただよふ。直吉はもつれつきたいやうな気持ちだつたが、照れてゐるので、そばへくつゝいて歩く事も出来ず、わざと、怒つた様子で里子と歩調をあはせてゐる。里子は暫く黙つて歩いてゐたが、肩掛けで唇をかくすやうにして、
「仕事みつかりましたの」
 と訊いた。直吉は自然に里子のそばへ寄つて行き、ぽつんと、「まだ、駄目だ」と云つた。一度、自分の就職について色々と話したかつたし、また、何時もの[#「何時もの」は底本では「何時も」]やうに、味気ない別れは厭だつたので、
「今夜、何処か、宿屋へ泊れないのか」
 と、尋づねてみた。里子は暫く返事もしなかつたが、明るい電気屋の前まで来ると、小さい声で「泊つてもいゝわ」と云つた。直吉は吃驚した様子で「家へ断わらなくてもいゝのか」と聞いた。宿屋へ行つて、うまく電話をかければいゝでせうと、里子はぷつゝりと黙つたまゝ歩いてゐる。見覚えのない紫お召の羽織を着てゐた。時々直吉の手に触れる、お召の感触が冷たかつた。直吉は宿屋へ泊ると云つた里子の、今夜の心境が不思議だつたが、別にその気持ちの変化を聞きたゞす気にもなれなくて、賑やかな通りへ出ると、自分で、宿屋を物色して歩いた。何時来ても知らない街を歩いてゐる気がして、直吉は煙草屋の店に立ち寄つて宿屋を聞いてみたりした。煙草屋の硝子瓶に、光やピースがぎつしりと這入つてゐるのを見て、直吉は、戦争中の、煙草の乏しかつた時代を思ひ出してゐる。光を二つ買つた。煙草屋ではマッチを一つ添へてくれた。世の中がすつかり変化してゐる。直吉はかへつて歴史のうつりかはりを感じた。街の店先には、何処にも防空壕が掘られて、こんもりした防空壕の築地の上に、菜つぱや、コスモスの植つてゐた時代がかつてあつた。街路樹は薪に切られ、家々の軒先きには、トビ口や、火叩きや、砂袋がかならず置いてあつたものだ。男も女もけじめのつかない素朴な姿になり、乏しさによく耐へて生きてゐた。大豆や雑穀の配給を受けて、辛うじて露命をつないでゐた戦争中のしこりが、直吉には、煙草屋の店先きでふつと息苦しく回想された。灯火や、硝子窓に黒い布がかぶさつてゐたのも、つい三四年前の事だ。さうした暮しの乏しい祖国を離れて、里子のつくつてくれた、千人針をふところにして、直吉が出征して行つたのは昭和十九年の秋であつた。
 直吉が此のあたりに旅館はないかと聞きかけると、先きに歩いてゐた里子が後返へりして来た。中学生のやうな店番が、二軒先きの路地のなかに、昔、下宿を兼ねて旅館をしてゐた家があると教へてくれた。焼け残りの一郭とみえて、かなり古い家並みが続いてゐる。路地口に染物の看板の出てゐる家があつたので、直吉は店先きで自転車の手入れをしてゐた男に、煙草屋で教はつた旅館の所在を聞いた。男は気軽るに、路地の前まで行つて、この横丁を出はづれた右側に、青いペンキ塗りの家があると教へてくれた。路地のなかはひつそりとしてゐた。凸凹の切石を敷き詰めた道を暫く行くと、広い道へ出はづれる右側に、二階建ての四角なペンキ塗りの家があつた。新しく看板を塗り変へたとみえて、葵ホテルと書いた白い看板がさがつてゐた。二枚の硝子戸にも、金文字で葵ホテルの文字が出てゐる。直吉は硝子戸を開けた。
 赤いジヤケツを着て、花模様の短いスカートをはいた小柄な太つた娘が出て来たが、直吉が部屋がありますかと尋づねると、直吉の後に立つてゐる里子を娘は透かして見ながら、「はい、一寸お待ち下さい」と云つて、ぺたぺたと素足で廊下の奥へ引つ込んで行つた。入口の部屋には、障子が閉つて人の話し声がしてゐる。広い板敷の廊下には、玄関へ背を向けた梯子段の下には、荷箱や、卓子や椅子が積み重つてゐた。暫くしてから、黒い上張りを着た中年の女が出て来た。
「お二人さんですか?」
「さうです」
「御一泊ですね?」
「さうです‥‥」
 女は二足の古いスリッパを上り框へ揃へてくれた。直吉と里子は、その女の後から二階の梯子を上つて行つたが、表側の、廊下へ向つた部屋へ通された。かね折りの二方が障子で、片方は襖、奥は、三尺の床の間に[#「床の間に」は底本では「床の間の」]一間の押入れがついてゐる。障子も襖も新しいせゐか、案外こざつぱりした部屋だつた。紫檀まがひの卓子の前へ坐ると、隣室から、女は銘仙の座蒲団を二枚持つて来た。直吉は坐つたなりで外套をぬぎながら、夕飯を一人前とビールを註文した。簡単なものなら出来ると云ふので、直吉は吻として、卓子に頬杖ついた。里子は肩掛けをしたまゝ直吉の前へ坐つたが、直吉の方へ視線をむける事はしなかつた。遠くに省線の音が聞こえる位で静かである。里子はシヨールの房をいぢりながら、時々溜息をついてゐた。直吉はよその女と出会つてゐるやうな気がした。甘い匂ひがした。直吉は、里子のうつむいた額のあたりを暫くみつめてゐたが、今日見た、河底の広告マンの姿を思ひ出して、あれだけの勇気を出す事が出来たら、何とか里子を引きさらつてやつてゆけない事もないだらうと思つた。
「この家、電話ないンでせうね?」
 里子が顔を挙げて、電話があるかどうかを云ひ出した。額の狭い、眉の濃い里子の顔が若い。小さい鼻や、唇のきりつと締つた小さい顔が、不安さうに直吉の表情を、額ぎはでうかゞつてゐる。少し藪睨みの眼が、うるんで見えた。
「今日、前田の事務所へ寄つたら、税務署から差し押へが来たと云つてゐた。」[#「ゐた。」」は底本では「ゐた。」]
「あら、ぢやア、前田さん悄気ていらつしたでせう? 税金、大変なんでせう?」
「事務所を閉めてしまつた方が、かへつていゝやうな事を云つたがね。前田も細君が、近々、子供が産れるので、その方の金の工面が大変だと云つてゐた、世間も金詰りだね‥‥」
「銀座のあの場所は、人に渡るンですか?」
「いや、ありやア前田の事務所ぢやないンだから、あのまま出ちまへばいゝンだ。今度は自動車[#「自動車」は底本では「自動者」]のブロオカーでもしようかと云つてゐた。どうせ、夏になれば、アロハ襯衣がまた全盛だらうから、ネクタイの商売は駄目ださうだ」
「でも、前田さんは、世渡りが上手だから、何をしたつてやつてゆけますわ」
 軈て、丼飯、二三品のおかずの皿がついた膳とビールを、さつきの娘が運んで来た。火鉢はなかつたが案外寒くなかつた。直吉はビールを抜いて、里子のコツプにもついでやつた。腹が空いてゐたのでビールは腹に浸みた。――都会の片隅に、こんな旅館があり、飯やビールを運んでくれるやうになつた時世が、直吉には夢のやうだつた。里子は、肩掛けを取つて、ビールのコツプに手を出した。白い襟もとが直吉の慾情をそゝる。娘が火鉢を持つて来たので、里子が電話があるかどうかを聞いた。
「以前はあつたンですけど、戦争中に売つちやつたらしいンです。二丁ほど行つたら、市場の前に自動電話がありますけど‥‥」
 里子はもう少ししてから、電話をかけに行くと云つて、火鉢に手をかざし、ビールのコツプを唇もとへ持つて行つた。直吉は追ひかけるやうに、またビールを里子のコツプにつぎ、
「別れたいと云ふのは、手紙だけぢや判らないが、またいい相手でも出来たのかね。籍の問題なンか、どうでもいゝンだよ。書類さへつくつて来たら、判は何時でも押してやる‥‥」
 里子は固くなつて、ビールの泡に眼をやつてゐたが、別に悪びれた様子もなく、「あのね、今夜、私、みんな貴方に話してしまふつもりで、泊る気になつたのよ‥‥」と云つた。いつもする癖で、舌で前歯をすうすうと吸ひながら、里子はちらと光つた藪睨みの眼で、直吉の方を見た。直吉は里子の云ひ出す話が、どうせいゝ事でないのは判つてゐたが、それでも、泊つて行くと云つてくれた言葉の奥に、幾分かの望みをかけてゐた。

 直吉が出征してから、里子は、直吉と世帯を持つてゐた千駄ヶ谷の家を半年ほどしてたゝみ、里子の郷里である、千葉の山武郡の、N町へ戻つて行つた。貧しい家だつたので、遊んでゐるわけにもゆかなくて、知りあひの世話で、綿工場へ勤めてゐたが、そこですつかり体をこわしたので、遠い親類にあたる、千葉市の図書館の近くにある、旅館と料理屋を兼ねてゐる家へ、手伝ひかたがた、病院通ひをしながら、体の保養につとめてゐた。段々空襲は激しくなり、何も彼も一時しのぎな生活が続いて来ると、自分の気持ちも荒み勝ちになり、浅草暮しの派手さが忘れられず、誰にともなく、また頼つてみたくなつてゐた。里子は出征した直吉の事を忘れたわけではなかつたけれども、去るもの日々にうとしで、心細さと荒んだ暮し向きには抗しがたく、時々酒を飲みに来る食糧営団に勤めてゐる、舞田と云ふ男とねんごろになつた。もう五十を二つ三つ出た男だつたが、大兵肥満の仲々明るい性格の男であつた。まだ二十二で、九人兄弟の次女に生れた里子は、直吉と世帯を持つて以来、一銭も郷里へ送る事が出来なかつただけに、舞田からの相当の手当ては、里子にとつては有難い金だつた。もともと里子の郷里では酒匂(さかは)直吉と里子の結婚は大反対で、直吉が出征するまぎはに、やつと籍をくれたやうな始末であつた。直吉は三十歳で出征した。――直吉は母を早く亡くして、父と弟との三人暮しであつたが、直吉が中学を出る頃、父は継母ともつかず、女中ともつかぬ若い女を家に入れてしまつたので、直吉は青年の潔癖から、中学を出るとすぐ家を飛び出して、友人の下宿に転げこんだ。そこから、苦学同様に早稲田の学院へ通つてゐた。丁度、日華事変が始まつた頃であつた。早くから転々と職を求めて、ほとんど父の厄介になる事もなかつたが、直吉は、牛込の若松町に住んでゐる頃、近所の喫茶店の女給だつた女を知つた。学生相手の小さい喫茶店で、この店では、二人ばかりの女給を置いてゐたが、或日、四五人の友人と茶を飲みにはひつた直吉は、こゝで里子の姉である冨子を知つた。――冨子はその頃十八で、色の浅黒い大柄な女だつた。もう一人は二十三四だとかで、これはあまりぱつとした女でもなく、陰気だつたので、冨子の方がかへつて目立つてゐた。鏝焼けのした、まつかな髪を振り乱して、垢染みたポプリンのワンピースを何時も着てゐたが、大柄で肥つてゐたので、洋服なぞは皮膚の一部のやうに見えた。直吉はかうしたかまはない冨子が好きで、時々冨子の喫茶店へ無理をして通つて行つたが、或日、冨子が二階へ上れと云ふので、直吉が二階へ上つて行くと、針箱を拡げた狭い部屋の中で、冨子は、もう一人の波江と云ふ女とあみだを引いたのだと、新聞紙にたいこ焼きなぞを拡げて食べてゐるところであつた。波江は窓のそばで横坐りになつて、雑誌をめくつてゐたが、二人が二階へ上つて来ると、口をもぐもぐさせながらあわてて縫物を片寄せてくれた。押入れが明けつぱなしで、下の押入れの行李の上に、黄いろいしごき帯をした女の胴体が見えた。驚いてその方を眺め、押入れに誰か這入つてゐるのかと直吉が尋づねると、冨子が、くすくす笑ひ出した。「あンた、妹がね、突然家出してね、私を尋づねて来たのよ、困つちやふわア。東京で奉公をしたいつて云ふンですけどねえ」押入れの中では、泣いてゐるとみえて、急に、くすんくすんと鼻をすゝる声がした。
 冨子が押入れに声をかけて、里子、出ておいでよと云つても、押入れの中の冨子の妹は仲々出ては来なかつた。――冨子に聞くところに寄ると、小学校を出た妹の里子は、兄弟が多いので、上の学校へも行かせて貰ふわけにはゆかなくて、子守ばかりさせられるのが厭で、東京で喫茶店勤めをしてゐる姉の冨子を頼つて、何処かへ奉公するつもりで出て来たのだと云ふ事だつた。実家は荷車曳きで、冨子は早くから家を出てゐたし、その次の十六になる長男は、高等小学を出ると、野田の醤油会社に勤めに出てゐた。したがつて三番目の里子が、沢山の弟や妹の世話をしなければならない。毎日が子守に明け暮れする里子にとつては、姉の冨子の東京での生活が羨しくてたまらなかつた。「里子、何時までも押入れにはひつてゐないで、出ておいでよ。たいこ焼き食べなさいよ」
 冨子はさう云つて、ぺろりと押入れの方へ舌を出して笑つた。妹の里子は、上京して来るなり、姉に叱られて、今日にも千葉へ追ひ返へされはしないのかと、それが心配で、押入れへはひつて泣いてゐるのだと云ふ事だつた。直吉は、少女の心理が判るやうな気がして、押入れへもぐり込んで、人目のないところで、思ひ切り泣きたくなつてゐる冨子の妹が哀れであつた。暫くして、ぎしぎしと押入れの行李を膝で押しつけながら、里子が尻の方から出て来た。菜種色のメリンスのしごき帯が、細い腰の上でゆれながら、後しざりに里子は出て来たが、顔は押入れの方へ向けたまゝ坐つた。赤茶けた、たつぷりした頭髪を三つ組に編んで、長くたらしてゐる。
「困つちやつたわ。急に出て来るンですものね。十五にもなつて、夢みたいな事を考えてゐるンですもの‥‥酒匂さん、何処かいゝところないかしら。私、今日、これから連れて帰へらうかと思つてるのよ。私だつて、仲々田舎へ仕送りつて出来やアしないのに、此のひとつたら、東京へ出てくれば、明日からでも、田舎へお金が送れるみたいな安直な気持ちでゐるンですものね」さう云つて、後向きに坐つてゐる里子の膝へ、冨子はたいこ焼きを二つばかり乗せてやつた。
「姉ちやんだつて、田舎へ送りたいのは山々なンだよ。だから、かうして苦労してンのに、小さいお前がどうして働くンだよ。お金なンて、一銭だつて送れるもンぢやないわよ。それよか、もう一二年、田舎にゐて、お母さんの手伝ひしてやつた方が、どんなに助かるかしれない。――いまに、姉ちやんだつて、いよいよとなれば身売りして、その金を全部送つてやるつもりでゐるンだよ。私はもうこんな商売になつたンだから、体を売る位は何とも思つちやゐないわ。こゝにゐる分には、食べる丈は何とかやつてゆけるンだけど、とても、お金にはならないンだからね。お前もね、世間を知らないから、夢みたいな事を考へて、出て来たンだらうけど、明日の朝早く田舎へ帰へるといゝわ。家の犠牲になるのは、姉ちやん一人だけで沢山だよ。ね、きつと近いうちに、お姉ちやん、沢山金を送つてやるから、里子は、一二年がまんして、お母さんの手伝ひしてやりなよ‥‥」
 後向きに坐つてゐる里子は、返事もしないで、ぢいつとうなだれてゐる。花模様の真岡の袷に、はげちよろけのしごき帯を締めた後姿が、直吉には痛々しく見えた。何時までたつても、身じろきもしない里子の頑固さにじれて、冨子は乱暴に里子の肩をゆすぶつた。
「食べたらどうなのツ、切角波江さんが買つて来たンぢやないかツ、お上りつてば‥‥」
 里子は返事もしない。膝のたいこ焼きは、ごろりと畳へ転んだ。冨子は矢庭にたいこ焼きを掴んでがらりと硝子窓を開けると、そのたいこ焼きを物干の向ふへ、力いつぱい放り投げた。里子は吃驚して、また両手を顔にあててひいつと泣き出した。冨子はそのまゝ荒々しく階段を降りて行つた。波江は里子をなだめて、「素直に食べないから姉さん怒つたのよ。里子ちやんも頑固だねえ」と、針箱を片寄せて、里子の顔を覗き込んだ。軈て泣きやめた里子は、気まり悪さうに、素直に直吉の方へ向きなほつたが、冨子と違つて、案外色の白い少女だつた。切れ長の眼は、少しばかり藪睨みで、額が狭く、眉が濃かつた。鼻筋もとほつて、夜店の人形のやうな顔をしてゐる。
 直吉は壁に凭れて、たいこ焼の御馳走にあづかりながら、波江の読んでゐた雑誌の頁をめくつてゐた。冨子は何処かへ出掛けたとみえて、階下で、誰かが呼んでゐるので、波江が大儀さうに降りて行つたが、客とみえて、カウンターでコツプを洗ふ音がした。
「君、たいこ焼食べろよ」
「ほしくないの」
「東京で何をするつもりで出て来たの?」
「芸者になるつもりで来たンです」
「ほう。‥‥芸者にね、君なら芸者になれるだらうが、そりやア、仲々だね。大変な事だぜ‥‥。下手をするとだまされつちまふよ。そんな世界は、色々な圧力があつて、身動きも出来なくなるンだ」
 里子は、一人の男が、大人あつかひに話をしてくれるのが嬉しかつた。――その翌朝、直吉は里子と約束したとほりに、上野まで里子を送つて行つてやつた。冨子も、かへつてそれを喜んでくれてゐたので、直吉は里子も連れて、上野へ行き、秋の広小路の賑やかなところや、松坂屋などをぶらぶら歩いて、汽車に乗せてやつた。それ以来数年を、直吉は里子に逢ふ事もなく過ぎたのだ。――冨子は間もなく、新宿の遊廓に身を沈めて、冨勇と名乗つて女郎に出てしまつた。直吉はその頃、大学をやめて、牛込の榎本印刷の営業部の事務の方へ勤めを持つてゐたが、或日、波江に逢つて、冨子の落ちつき先きを知ると、直吉は友人を誘つて、初めて新宿遊廓に遊びに行つた。波江に聞いた浮舟楼を探して、入口の写真のなかから冨勇の姿を見つけ出した時は、沈むところへ沈んだものだと直吉は思つた。
 戦争は少しづつ喘息病みのやうなしつこさと変り、街を歩いてみても、カーキ色が多くなり軍人や兵隊が多く歩くやうになつてゐた。その日も、浮舟楼の前の、クロフネ第三楼の息子が出征だとかで、ぎらぎらした絹地の祝出征ののぼりが軍艦型に装飾した家の前へ林立してゐたし、花輪型の円い藁を芯に、沢山の日の丸の小旗が、強い十二月の風に激しくはためいてゐた。――浮舟楼でも、妓達の肉親から、出征者を出すものがあると、得意になつて、妓達は、登楼の客にふいちやうした。直吉は、冨勇を買つた。その日は宵から雨になつた。直吉は、冨勇の部屋で、しみじみと雨の音を聞きながら、初めて女を知つたあとのヒロイツクな感情にとらはれてゐた。神が雄弁に人類の秘密を教へてくれたやうな気もした。――無理な金の工面をして、直吉はその日以来、度々浮舟楼へ冨勇を買ひに通よつたが、遊廓の景気のいゝ絶頂とみえて、冨勇は仲々の売れツ妓になつてゐた。写真の飾られる場所も、段々お職に近いところへせり上つてゆき、冨勇は浮舟楼でも羽ぶりがよかつた。直吉は、時々、冨子に頼まれて、千葉の里子や両親に、為替を送る手紙の代筆を頼まれたりした。
 榎本印刷へ這入つて半年ばかりしてゐるうちに、直吉は召集を受けて、宇都宮の、戸祭分院の衛生兵になつて、二年ばかりの兵隊生活を送つた。直吉は冨子や、千葉の、里子に感傷的な手紙を送つてゐたが、里子の筆で、冨子の死を知らせて来た。急性肺炎で亡くなつたさうである。
 昭和十五年の春、直吉は除隊になり、その頃淀橋区役所のそばで、代書屋をしてゐた父のもとへ直吉は戻つて行つた。弟の隆吉は、少年航空兵に志願して霞ヶ浦に行つてゐて、父と継母だけが残つてゐた。代書の仕事は仲々繁昌してゐて、二階は、登記を頼みに来る客の待合所になり、継母は、この客達に、茶や菓子や丼物の世話をして、幾分かのさや取りをして、馬鹿にならぬ収入をあげてゐた。
 戦争は直吉に色々な影響を与へた。二年ばかりの兵隊生活で、反駁の余地のない下積みのところで要領よくなまける術も直吉は覚えされられた。直吉は、父の仕事を手伝ふのは厭だつたので、知人の世話で、三鷹の飛行機工場の庶務課へ勤めを持つた。新宿の浮舟楼にも、冨勇の思ひ出をしのんでは時々登楼した。里子との文通も久しく途絶え、忘れるともなく忘れてしまひ、軈て日米戦争が始まり、直吉も三鷹の寮に這入つたりして、二年ばかり、あわたゞしい生活を送つたが、或日、久しぶりに淀橋の父のもとへ帰へつてみると、思ひがけなく、冨子の妹の里子から手紙が来てゐた。正月に上京して、浅草で雀と云ふ名前で芸者に出てゐるから、ひまがあつたら寄つてみてくれと云ふ音信だつた。
 里子が芸者になつてゐると知らされて、幾年か前の、牛込若松町の喫茶店の二階での事を、直吉はふつと思ひ出してゐた。黄いろいしごきの帯をして、芸者になりたいと云つた、あの頃の里子の思ひ詰めた言葉を、はつきりと、直吉は記憶にとゞめてゐたのだ。芸者になる事をそんなに思ひ詰めてゐたのかと、直吉は、仲々、たいこ焼きを食べなかつた里子の頑固さを思ひ出して、その一念の強さに驚いてゐた。――直吉はすぐその日のうちに里子を尋づねて浅草へ行つた。まだ昼前であつた。田原町で市電を降り、番地を頼りに探して行つた。旅館とも料理屋とも判らぬ、しもたや風な軒並みの路地の中に、その家はあつた。直吉はカーキ色の仕事服に戦闘帽をかぶり、飛行将校のはくやうな、赤革の短い長靴をはいて、意気な家の格子を開けた。狭い玄関の三畳で、後向きに、一升瓶の中へ米を入れて、鉄の棒ですこんすこんと米つきをしてゐる日本髪の娘がゐた。部屋のなかにはぼおつと薄陽が射してゐる。格子の開く音で、娘は振り返へつたが「あらツ」と云つて、娘は立ちあがつた。案外脊の高い娘だつた。冨子に何となく似てゐたので、
「里子さんですか?」
 と、直吉は赤くなつて率直に聞いた[#「聞いた」は底本では「開いた」]。
「えゝさうです。お手紙着きまして?」
 と、無邪気に、自分の手紙におの字をつけて娘は訊いた。すぐ、出て行くから、外で待つてゐてくれと云ふので、直吉は帽子を被りなおして路地を出て行つた。路地の外の小さい花屋に、芍薬や牡丹の花が硝子越しに溢れるほど見えた。直吉は久しぶりに美しい花を見る気がして、暫くそこへつゝ立つてゐると、十分ばかりもして、里子が黒地に赤い矢絣のモンペ姿で出て来た。並んでみると、脊の高い直吉の肩まであつた。直吉は赤くなつて帽子を取つた。里子は藪睨みの涼しい眼でにつこりして、「私ね、何時か酒匂さんに逢へると思つてゐました」と大人びた事を云つた。
「大きくなつたね」
「さうかしら、別に大きくなつたつて思はないけど、姉さんよりは、これで、ずつと小さいのよ」
 二人は賑やかな方へ歩き出した。狭い町通りだつたが、両側の店からラジオで縄飛び体操の軽やかなメロデイーが流れてゐる。
「私、正月に今の処へ来たンです。どうしても芸者になりたくて‥‥」
「もう、稼いでゐるの?」
「えゝ十日もしないうちにお座敷へ出ちやつたわ。私、三味線も踊りも、何も知りやアしないの‥‥」
 里子はくすくす笑ひながら、洋品屋の前や、呉服屋の前に立ちどまつた。冨子のやうに骨太でなく、すらつとした肉づきだつた。たつぷりした髪の毛をひつゝめた桃割に結つて、セルロイドでつくつた飛行機の簪を前髪に差してゐた。
 上野駅で別れて以来、一度も逢はなかつたので、里子の成長ぶりが直吉には感慨無量だつた。二人は瓢箪池へ出て、大衆的な広い喫茶店に這入つた。隅の方に席をみつけて、差し向ひに腰をかけたが、四囲のものがじろじろ見てゐるやうで、直吉は何となくそれが嬉しかつた。がつちりした胸元のまるみや、なだらかな肩の線が、如何にも初々しい。白い襟をきつちり引き締めて、胸に婦人会の裂地のマークを縫ひつけてゐた。赤つぽい髪だつたが、油で艶々してゐた。
「私ね、色んな事があつたわ。酒匂さんに云つたら軽蔑されさうなのよ」
「何? 何があつたの? かまわないから云つて御覧よ。軽蔑しやしないよ」
「でも、云へないわ。これだけは‥‥。酒匂さん立派におなりになつたわねえ。兵隊さんらしくなつてよ?――姉さんも死んぢやつて、私、随分淋しいの。‥‥だから、酒匂さんがなつかしかつたンですわ。時々、逢ひに来て戴くと嬉しいけど‥‥」
 真紅なソーダ水を、ストローでぶくぶく泡立てながら、里子は色つぽく品をつくつて云つた。化粧のない蒼い顔だつた。襟首だけに昨夜の白粉の汚れが残つてゐたが、それがかへつて清潔に見えた。喫茶店を出て、二人は観音様へお参りして、団十郎の銅像の前の陽溜りに躑踞んで、暫く話をした。公園の立木はみな薄く芽をふき、澄み透つた青い空だつた。
「君に逢ひに行くには、相当金がいるのかね?」
「さうでもないわ。でも、酒匂さんは、そんな所に来なくてもいいのよ」
「でも、夜、そんなところで一ぺん、君に逢つてみたいね‥‥」
「私ね、もう、処女ぢやアないのよ‥‥」
 突然、里子は直吉の耳に顔を寄せるやうにして、小さい声で云つた。直吉は赤くなつた。
「だつてね、いまの家のかあさんが、その客の云ふ事を聞いたら、ルビーの指輪を買つてくれるつて云ふのよ。田舎にも五百円送つてくれるつて云ふし、映画も毎日観に行つていゝつて云ふでせう‥‥だから、私、そのひとの云ふ事聞いちやつたンだけど、その晩は、私は、はゞかりへ行つて随分長い事、ナムアミダブツ、ナムアミダブツつて拝んぢやつた。私、震へちやつたわ。とつてもおつかないと思つたンですもの‥‥」
 里子は散らばつてゐる線香の屑をひらつて、それを嚊ぎながら、真面目な顔をしてゐた。あるがままの出発点から、里子はかざり気なく酒匂に話したい様子だ。直吉は辛かつた。亡くなつた冨子との交渉の様々が、ぐるぐると頭に明滅した。
「ねえ芸者つてつまらないのね。これで、私、毎晩いやらしい事してるの‥‥。厭になつちやつたわ。面白くもをかしくもないのね。悪い事ばかりしてお金持つてるのね。そんなひと、ちつとも罰があたらないンだから不思議だわ。私、酒匂さんにとても逢ひたかつたのよ」
 昼過ぎになつてから、公園は大変な人出だつた。広い廻廊を、お参りの人達がぞろぞろ歩いてゐる。豆売りの店もなくなつてゐるのに、鳩の群が土に降りては、何かを探してついばんでゐる。赤い出征の□をかけた背広の男が、子供を抱いて、直吉達のそばに来た。若い細君は棒縞のセルを着て、大きな風呂敷包を抱くやうにしてかゝへてゐる。子供に鳩を見せると見えて、父親は何か子供と無心に喋つてゐた[#「ゐた」は底本では「いゐた」]が、子供を降すと、子供のパンツの横から、小指程のものを不器用に引つぱり出して、「しいつ、しいつ」と唸るやうに云つた。子供は鳩を眼で追ひながら、きらきら光る噴水を、銅像の石の台に放出してゐる。

 その夜、直吉は寮へ戻つてからも、仲々寝つかれなかつた。里子の初々しい姿がしつこく眼の中をうろつきまはつてゐる。夢にも見た。――戦争は段々激しくなり、また再応召が来るやうな話だつたが、直吉は、そんな事はどうでもよかつた。里子のおもかげが、毎日息苦しく脳裡を去らなかつた。これが、ぼんのうと云ふものであらうかと、直吉は里子に毎日のやうに手紙を書いてみた。別に出すつもりはなかつたが、手紙を書いてゐると気が安まつた。私は処女ではないのよと、小さい声で云つた里子の言葉が、直吉の胸に悩ましく押しつけて来る。里子の、その時のしどけない姿が空想された。浅草の花屋の芍薬を思ひ出して、直吉は友人の家の庭から、芍薬の花を貰つて来て、コツプに差して、机の上に飾つてみた。花など、一度も飾つた事がなかつただけに、その花の薄桃色は、直吉の心をなごやかにしてくれた。夜業に追はれて疲れた日なぞは、床に就いてからもしつこく里子の影像を描いて、ひそかにさうした夢を愉しむやうになり、翌る朝はきまつて頭の芯がづきづきした。直吉は工場で配給係りの手伝ひもしてゐたので、上手に配給物品をごまかす事も覚えて、ゴム長を三足ほどくすねて、それを売り飛ばして、六月の或る夜、浅草に出掛け、何時か里子にここへ呼んでほしいと云はれた志茂代と云ふ待合へ行つてみた。[#「。」は底本では「、」]雀を呼んでくれと頼むと、約束の座敷に行つてゐるので、他の妓はどうだと聞かれたが、直吉は里子の雀が来るまではどうしても待つと云つて、女中相手に独りで酒を呑んだ。電灯に黒い覆ひがかゝり、窓の障子にも黒い紙の幕がさがつてゐる。十一時頃里子はやつて来た。涼しさうな水色の着物を着て、洋髪に結つてゐた。
「あら、酒匂さんだつたの。‥‥誰かと思つたわ。よく来てくれたのね‥‥」
 里子は酒に酔つてゐるとみえて、蓮つぱに直吉のそばに坐つて、両手を直吉の腿の上へ置いた。そして下からぢいつと直吉を覗き込むやうにした。直吉は腿が焼けつくやうだつた。直吉は照れて、まともに里子の顔を見る事が出来ない。白い指にルビーの指輪が光つてゐるのを直吉は掠めるやうに眼にとめて妬ましかつた。職業的な本能で、里子は浮はの空で、何とかだから憎らしいわとか、何とかだから泊つていらつしやいねとか云つて、直吉の腿を時々きつくゆすぶるのである。雨もよひのひつそりとした晩であつた。食べものも乏しくなつてゐたが、それでも、色の悪い刺身やコロツケが二人の前へ運ばれて来た。直吉は初めての客だつたので、部屋代や料理や酒の代を、里子に云はれて前金で払はさせられた。
「泊つて行く」
「あゝ」
「ぢやア、私、お約束のお座敷断つて来るわね。病気だつて云つてくればいゝから‥‥」
 さう云つて、里子は階下へ降りて行つたが、暫くして、買物籠のやうなものを持つて二階へ上つて来た。軈て、女中が次の間で蒲団を敷いてゐる様子だつたが、女中が、また泊り料の前金を里子の口を借りて催足[#「催足」はママ]した。泊り料を払つて、直吉が便所へ立つて行くと、里子がすぐついて来る。直吉は、かうした場所へ来るのは初めてだつたが、心中ひそかに仲々金のかゝる処だと思ひ、これでは、どんなに里子に逢ひたくても、めつたに来られる場所ではないと淋しく思つた。寝巻もなかつたので、直吉は襯衣一枚で蒲団にもぐり込んだ。むし暑い夜だつたので、酒に酔つた体には、人絹の蒲団が冷々して気持ちがよかつた。里子は物馴れた手つきで、買物籠から、モンペ一揃ひを出して枕元に並べ、赤い花模様の長襦袢姿になり、電灯を消して直吉の蒲団へ這入つて来た。直吉は、浮舟楼での冨子との交渉を思ひ出してゐた。因縁らしいものを感じるのだ。妙なめぐりあひであり、あの若松町からのつながりが、今日まで、何処かで結ばれてゐたのだと不思議な気持ちだつた。灯火の消えた真暗いなかで、直吉はむせるやうな女の匂ひを嗅いでゐた。どの女も、蒲団の中の匂ひは同じなのだなと、直吉は、遠く杳かに、どよめくやうな、万歳々々の声を耳にしてゐた。また、何処かで出征があるのだらう‥‥。夜まはりの金棒を突く金輪の音がじやらんじやらんと枕に響いて、このごろは、かうした花柳の巷も、早くから雨戸を閉してしまふのであらうかと佗しく思はれる。暗闇の中で話をしてゐると、里子の声が冨子の声音にそつくりだつた。里子は、何を思つてか、
「戦争つて厭だわ。どうして、こんなに長い戦争なンか始めたンでせうね。いゝ着物も着られないし、代用食ばつかり食べて、何がよくて戦争なンかするンでせう? 私達も、二三日して、水兵の制服のテープかゞりに勤労奉仕に行くンだけど、くさくさしちやふわ‥‥」
 と、云つた。
「ねえ、私のうちに松葉さんつて姐さんがゐたのンだけど、此間、川治温泉で兵隊さんと心中しちやつたのよ。新聞には出なかつたけれど、松葉さんの死骸引取りに行つたうちのかあさんの話では、とても可哀想だつたつて云つてたわ。遺書も何もなくつて、松葉さんが刀で乳のとこ突かれてるし、軍服ぬいで、襯衣一枚になつてる兵隊さんは、首をくゝつてたンだつて、雑木林で死んでたンですよ‥‥二人とも勇気があつていゝわね。――松葉姐さんは、前からよく死にたいつて云つてたンだけど、本当にやつちやつたのね。兵隊さんは赤羽の工兵隊の人ですつて、お家は商売してるつて云つてたけど、何屋さんなンだか。‥‥雑木林のなかの一重の桜の花が、薄い硝子の破片をくつゝけたみたいにびつちり咲いてたンですとさ。‥‥とても哀れだつたつて。憲兵隊も来たりして、誰も寄せつけない程きびしかつたつて話なのよ‥‥。でも、二人とも、死んぢやつたから本望だわね。二人はいゝ気味だと云つてるでせう‥‥。冥土へ行つて、吻つとしてるわね。きつとそうよ。生きてちや息苦しい世の中ですもの‥‥」
 兵隊の心中と聞いて、直吉は身につまされる気がした。兵隊の身分で芸者と心中をするなぞとは、いまの世間は非国民として眉をひそめる事件に違ひない。直吉は、心中の美しい場面を空想した。むしろ同情的であり、羨しくもあつた。何の為に生きてゐるのか、此頃は規則づくめの責めたてられるやうな生活だつたので、直吉も幾分か生きてゐる事にやぶれかぶれな気持ちだつたのだ。――日々の気持ちが荒み果てて来ると、寮では、精神修業に唐手が流行しだしたが、唐手をやり出してから、便所の壁には拳大の穴が明き、障子の桟は折れ、硝子は破られて、寮内の所々方々が、誰のしわざともなく荒されて行つた。時には畳を一枚々々はすかひに剪られてゐる時もあつた。部屋々々の品物も、ひんぴんと紛失した。喧嘩は絶え間なかつたし、女と見れば追ひかけまはして手込めにするものもあつた。若いものにとつては、生死の問題に就いては、あまりに無雑作であり過ぎたために、新聞に出ない事件が、直吉の工場にも幾つかあつた。盗みや、強姦や、殺人が、直吉の工場にもひんぴんと演じられた。一億玉砕と云ふスローガンは、やぶれかぶれになれと命令されたやうにも錯覚したのだらう。兵隊が芸者を殺して自殺したと云ふ事件は、直吉にとつては、怖しい事件でも何でもなかつたが、その心中の場面が、直吉には、清純な人間の最後の対決を見たやうな気がしたのだつた。美しいのだ。
「ねえ、さうだと思はない?新聞には出ないけど、松葉姐さんも、こんな世の中に反抗しちやつたのね。――私だつて、時々、とても生きてゐるの厭になる時があるわ。でも、死にたいなンで考へた事はないけど‥‥。本当に、こんな戦争つて厭になつちまふのよ。――此間も、弟の手紙を見たら、早く飛行機に乗つて、敵をやつつけて戦争へ行つて、九段の華と散りたいなンて書いてあるの‥‥。私、がつかりしちやつたわ。此頃は、学校で、みんなそンな事を云つてるのね、きつと、さうだわ。私、返事も出してやらないの。こんなに身を粉にして、私、家へお金を送つてゐるのに、甘い事考へて、九段の華と散るなンて考へるの厭だわ。九段の華と散るのはいゝけど、あとにはずるい人間ばかりが残つちやふぢやないの‥‥」
 里子はさう云つて、小さな声で、「つまらない世の中ね」と云つた。二人は枕を一つにして、暗がりで頬を差し寄せてゐた。里子につまらない世の中ねと云はれるまでもなく、直吉も亦、つくづく人の世の佗しさを感じてもゐるのだ。このまゝ歩いてみたところで、何処へ突き抜けて行ける当てもない。
 朝、里子は死人のやうに蒼ざめた顔をして眠つてゐた。直吉は煙草を吸ひたくなり、腹這ひになつて、枕もとの煙草を取つて、吸ひつけたが、ぱさぱさと紙臭い匂ひがして、舌に煙草の味が乗らなかつた。時間も判らなかつたが、暗幕を透かしてにぶい光が部屋の中に縞になつて射してゐた。考へる事もなく、乾いた煙草を吸ひながら、呆んやり里子の寝顔を見てゐると、小鼻に白い膏の浮いた汗つぽい肌が、果物のやうにも見えた。心中をした兵隊のやうに、直吉は里子を連れ出して、二三日、気楽な旅に出てみたい気がしてゐた。何故ともなく、大輪の牡丹の咲いてゐる華麗な花畑が瞼のなかに浮いて見える。にぶい爆音がした。音を聞いただけで、直吉は飛行機の種類を聴き分ける事が出来た。ふつと瞼を開けて、里子が直吉の方へ寝返へりをして、「起きていらつしたの」と聞いた。陶器のやうに光つ顔[#「光つ顔」はママ]に、小さく羽音をたてて、蝿がうるさく飛び立つてゐる。――里子を連れ出して、誰もゐないところで、数日でも自由な生活をしてみたかつたが、配給暮しのなかに生きてゐる以上は、さうして食べるだけの自由さも与へられないと思ふと、直吉は苦笑してしまふのである。
「何を笑つてゐるの?」
「何でもない‥‥」
「だつて笑つたわよ」
「色々とをかしな事を考へてゐたンだ」
「どんな事‥‥」
「不忠不義の事を考へてゐたのさ。君を連れて逃げ出したいなンて思つてゐたのさ」
「まア、そンなに、私のこと好き? 逃げてもいゝわ‥‥」
 直吉は、それから二月位は浅草に行く折もなかつた。金もなかつたが、仕事も段々激しくなり、工場は建物を増築して、学徒の勤労奉仕も大勢来るやうになつた。朝の工場の門に立つてゐると、まるで雪崩れのやうに、大群集が吸ひこまれて来る。一人々々が物々しい姿であつた。血液型と名前を書いた白布を胸につけた男女の群が、工場の門の中へコールタールの流れのやうに押しこまれて来る。カーキ色の星のマークのついた自動車が、ガソリンの匂ひを撒き散らして群集の真中を押し切つて、何台も工場へ這入つて来る。直吉は事務所の窓からかうした異状な景色を眺めながら、心の満たされない空虚なものを感じた。人気のない茫漠とした処へ行つてみたくなるのだ。南方への進出も段々勢ひをまして、日に日に戦果が大きく発表された。
――三月あまりたつて、何時か、里子と何気なく約束しておいたとほりに、里子を連れ出して、千駄ヶ谷の友人の二階に里子をかくまつてしまつた。売れツ妓だつたので、別に大した借金もあるわけではなかつたが、それでも、当分は、里子は外出もしなかつた。直吉は寮を出て、千駄ヶ谷の里子の処へ同居するやうになり、里子の配給なしの生活を見てやるのに生甲斐のある苦労もした。あわたゞしい世の中だつたので、浅草からの追手もそのまゝになり半年も[#「なり半年も」は底本では「なり 半年も」]するうちには、里子は平気で外へ出歩くやうになつてゐた。
 直吉が再度の出征をするまで、貧しいながらも直吉の生涯にとつて、平和な月日が流れた。直吉は会社の物品を時々くすねて来ては、配給のない里子の生活を見てやつてゐた。会社の物品をくすねて来るのも、段々大胆になつて行つた。時々はきはどい危険な手段も講じるやうになり、直吉自身もさうした悪事に就いては、毎日冷々して暮さなければならなかつたが、さうした追ひつめられた生活は反逆的に生甲斐もあり面白かつた。間もなく直吉は再度の召集令状が来て、千駄ヶ谷の二階借りから満州へ出征して行つた。
 考へてみると、初めから根底のない生活でもあつたが、直吉は久しぶりに復員して来て、以前の生活よりは単純な澄みとほつた気持ちで、日本の空気を吸つた。何も彼も一変してゐる。自分自身の支へを自分で強く措置する術を直吉は覚えた。敗戦後の日本には、自由の言葉が広告紙のやうに、撒き散らされてゐたが、考へてみる、その自由は、一種の監禁のなかの自由でもあらうか。たゞ、何となく、社会の流れは、昔の或る時代と少しも変りのない不安な状態に似たものが耳底にがうがうと風音のやうに吹き流れて来た。聊かも人間に与へられた神の試練は昔も今も少しも変らない。‥‥家へ戻つてみると、父は老いてゐたし、継母は脳を病んで昔のおもかげもない汚い女に変貌してゐた。少年飛行兵だつた弟の隆吉は、進駐軍の宿舎にボーイになつて勤めてゐる。おまけに里子は、とつくに千駄ヶ谷をたたんでゐた。直吉が戻つて来て、暫くは里子の消息も判らなかつたが、千葉へ問ひあはせてみて、里子が何となくあいまいな職業に就いてゐる事が判つた。直吉は失望はしなかつたが、里子の不実を許せるかどうかは、逢つてみなければ判らないと思つた。継母は戻つて来た直吉に対して、何の記憶もないやうな白々しさで、はにかんで笑つた。焼け跡に建てた家は、寄せあつめの古材で、建築した小舎同然の家で、風が吹くと、銹びたトタン屋根は凄い音をたてて鳴つた。部屋の隅の一画に、継母は綿のはみ出た蒲団にくるまつて、終日黙つて節穴を睨めてゐた。体を起して、その節穴に指をつゝこんでぶつくさ云つてゐる時もある。寒いも暑いもないのだ。心にも皮膚にも人間の感覚はなくなつてゐた。ロボツトのやうな人間になり、たゞ、下の始末の時だけは、定められた処へ、行儀のいゝ猫のやうなしぐさで這つて行つた。食事は父がつくつてゐた。代書の権利はとつくに人に譲り、父は猫の額ほどの店に、信州から箒を取り寄せて売つてゐた。箒の外にも、素焼の魔法コンロや、束子のやうなものを少しばかり並べてゐた。生活費はほとんど隆吉の収入でまかなはれてゐる様子だつた。直吉は流刑から戻つて来た爽かさで、この狭い家にゆつくり手足をのばしたが、その爽かさは長い忍耐の崩壊したあとのすがすがしさでもあつた。漂流は終つたとは云へなかつたが、一応は、この現実から立ちあがつて行かなければならない。――隆吉が、時々白いパンを貰つて来る事がある。その白いパンを眺めて、直吉は肌の柔かいパンに鼻をつけて、突然うゝつと瞼に熱いものが突きあげた。パンは柔くて美味かつたが、食べながら、その白いパンを頑固に拒否してゐる、意地の悪い気持ちもあつた。――時には、夢で、ノボオシビルクスに引き戻されて怯える夜もあつたが、夢が覚めると、白いパンに向ふ時の厭な気持ちになるのは、心に重たいしこりがあるせゐであらうか。
 直吉は、少しづつ自分を持てあまし気味になつてゐる家族の冷たさに気づいてきた。父も隆吉もいやによそよそしく直吉に向ふやうになつてゐたが、あんなに厭でたまらなかつた継母のたけよは、意識を失つてゐるせゐか、直吉に対しては淡々としてゐる。――直吉は戻つて一ヶ月ほどして、里子から千葉の里子の消息を聞くと[#「里子から千葉の里子の消息を聞くと」はママ]、返事を貰つた。直吉からは、簡単に復員して来た通知を、同時に出しておいたのだ。返事は仲々来なかつた。尋づねて行つては工合の悪いところの様子だつたので、直吉は我慢をして尋づねて行く事はしなかつたが、やつと一ヶ月振りに、妻の手紙とも思へぬ白々しさで、二三日うちに参りますと云ふ音信が来た。――
「お母さん、少しは体はいゝかい?」
「お隣りさんに少々手間をかけさせたので、あやまりに行かなくちやならないね」
「何がお隣りさんだ? お隣りさんなンかありやアしないよ」
「地下室に、水がいつぱい溜つたから、ポンプで吸ひ上げるンだよ‥‥」
「地下室?」
「早く逃げ込まない事にはあぶなくてねえ、壁には[#「壁には」はママ]屋根にも弾があたるンで、四囲が火の海だつたンだよ。歩くのに道が熱くてたまらないしね。お父さんは、私を捨てたンだから。私は何時までも逗留してゐるつもりですよ。私に何も食べさせないし、第一、油断がならないンでね。慇懃な人間には、気を許しちやいけないよ‥‥」
「親爺はそんな人間だ。死んだお母さんにも冷たいひとだつたなア‥‥」
「そりやアさうですよ。女好きなンですからね。鬚を剃つて出なほして来いつて云つて下さい。年中、私は嫌はれてるンで、遠いところから呼んで貰はなくちや‥‥一年前からふらふらして、雑巾がけをするのに辛くてね」
 継母はさう云つて、部屋の隅に坐つて、気持ちよささうに話した。ぼろぼろにほつれた毛糸の上張りの前がはだけて、玉葱のやうに光つた膝小僧が出てゐた。直吉は寝転んでゐたが、頭をその方へ寄せて、膝小僧の間から暗い洞窟を覗いた。
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