就職
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著者名:林芙美子 

 何をそんなに腹をたててゐるのかわからなかつた。埼子は松の根方に腰をかけて、そこいらにある小石をひろつては、海の方へ、男の子のやうな手つきで、「えゝいツ」と云つては投げつけてゐた。石は二三間位しか飛ばないで、その邊の砂地の上へ濕つた音をたてておちてゐる。
 冬の濱邊は、時々遠くの方から、ごおつごおつと風を卷きたててゐた。空には雲の影もないのに薄陽が針をこぼしたやうに砂地にやはらかい光をおとしてゐる。埼子は急に砂地の上へ轉び、犬のあがきのやうに、乾いた砂地をごろごろ轉げてみた。砂は襟の中や、袖や、裾から埼子の熱い躯に觸れてくる。埼子は汗ばんだ肌へ少しづつ砂がはいつてくるのが氣持がよかつた。しまひには、胸をひろげて、乾いた砂を胸へすくひこんでゐる。砂は汐臭い海の匂ひがしてゐた。兩手に砂をすくつてシャワーだと云つて裸の膝小僧にもふりかけてみた。時々、小人島の風のやうなあるかなきかの龍卷が、埼子の頬へ砂風を吹きつけてくる。膝小僧の上の砂もさらさらと風に吹き散らされて、柔らかい、まるい膝小僧が薄あかく陽に光つてゐる。
 埼子は急に砂の上に立ちあがつた。背中にも胸にも砂がざりざりしてゐる。埼子は髮の毛をゆすぶり、頭髮の砂をはらひおとすと躯ぢゆうの砂だけは一粒でもおとさないやうにと、息をつめて家へ走つて行つた。
 埼子が變な恰好で濱邊から走つて來るのを、二階のサン・ルームから眺めてゐた謙一は、急いで梯子段を降りて行つてみた。
「埼ちやん、どうしたんだい、頬つぺたなんかふくらましたりして‥‥」
 縁側へ謙一が出てゆくと、埼子はいまにも、嘔吐のきさうな變な樣子をして、謙一に「早く、早く‥‥」と云つた。謙一はどうしていゝかわからないので、座敷へ走りこんでゐる埼子の後から急いでついていつてみた。埼子は座敷へ這入ると、謙一をふりかへつて、しばらくぢつとみつめてゐたけれど、急に羽織をぬぎ、足袋をぬいで、ぱつぱと躯を激しくゆすぶつてゐる。衿や、袖や、胸にたまつてゐた砂が、ざらざらと新しい疊の上に落ちこぼれた。
「どうしたンです?」
「あのねえ、あなたにお土産を持つて來たのよ‥‥」
 埼子は自分で躯をゆすぶりながら青くなつてゐた。謙一は呆れて埼子をみつめてゐる。埼子は帶をといた。そして、帶をそこへときすてたまゝ自分の部屋へ走つて行つた。謙一は疊の上の砂を眺めてゐたが、急に、熱いものが胸に沁みてきた。埼子の淋しさが、昨日からの自分を責めてゐるやうにもとれる。謙一はさつき濱邊まで埼子を探しに行つたのだけれど、埼子を探すことが出來ずに戻つてきたのであつた。謙一はしばらく座敷へつゝ立つてゐたが、心のうちでは、埼子へ對する激しい愛慕の氣持がつきあげてきてゐた。
 謙一は埼子の部屋へ行つてみた。埼子はもう洋服に着替へて濡れ手拭で顏を拭いてゐる處だつた。
「ねえ、ごめんなさいね‥‥」
「‥‥‥‥」
「怒つた?」
「何を怒ることがあるンです? 怒ることなんかありやアしませんよ。――さつき、僕も濱に行つてみたンだけど‥‥」
「さうお、私ずつと遠い處へ散歩に行つてゐたの‥‥」
 埼子は鏡の中の謙一にふふふと笑つてみせた。謙一は急に蹲踞んで、埼子の肩を抱き埼子の額に接吻をした。埼子は濡れ手拭を持つたまゝ、しばらく謙一の胸に凭れてゐたが、急に身を起して、
「厭よ! 厭だア、あつちへ行つてよ、謙兄さん大嫌ひだ、大嫌ひ!」
 と、鏡の中の謙一へ濡れ手拭を投げつけた。さうして立ちあがると、壁へ凭れて、
「新京でも、何處でもいらつしやい。どうして、勝手に一人でそんな處をきめてしまつたのよ。――新京なんて、そんな遠い處へ何故行かなくちやならないの? 新京なんかへ行くために、謙兄さんは大學へ行つてたのツ?」
 埼子は一氣にまくしたててゐる。謙一は默つてゐた。小柄で顏の小さい埼子が、まるで謙一には女學生のやうに見えた。二十一の女とはどうしても思へない。
「莫迦だなア、埼ちやんだつて、新京へ遊びに來てくれればいゝぢやないか、何も一生逢へないつて云ふンぢやないでせう?」
「だつてどうしてそんな遠い處へ職業を選んだりするのよ。――お姉さんが遠くへ行つちまつたからでせう? 私なんかのことなんか謙兄さんが考へてゐるなんて思はないわ。私は、とてもそれが癪にさはつてるのよ。‥‥」
 急にけたゝましく、机の上の時計の鈴が鳴りはじめた。埼子は、腹立たしさうに時計をつかんだ。謙一は埼子の狂人じみた樣子に吃驚して、ぢつと埼子を眺めてゐる。埼子は窓を開けると、鈴の鳴つてゐる時計を庭へ投げつけた。開けた窓から寒い風が吹きこんで、遠雷のやうな海鳴の音がきこえてくる。
 謙一は廊下へ出て行つて、庭に投げ捨てられた時計をひろひに行つた。全く、埼子が云ふまでもなく、新京なんかに就職をしようとは、一週間前までも自分は考へてはゐなかつたのだ。學校を出たら、東京に勤めるものとばかり考へてゐたし、現に、自分も學校の就職係には、東京電燈とか、三井、三菱なんかに履歴書を出しておいたのであるけれども、謙一は、急に、それらの就職口をとりやめて、自分だけ新京の××製鋼會社へ就職することになつたのである。
 青年の氣まぐれとは云ひきれない、何かしら、鬱勃とした思ひが謙一の若い心をかりたててゐたのだ。狹い日本の内地で、小さい椅子にしがみついてゐるよりも、遠い處へ行つて、思ふぞんぶん働いてみたい、と思つてゐた。新京は純粹な新興都市であり、この戰時下にもりもり發展しつゝある製鋼事業は、若い謙一に働く魅力を感じさせた。
 急に、新京へ職がきまつたことを、埼子の兩親に打ちあけた時、流石に埼子の兩親は驚きもし、そんな遠い土地へ行かうとする謙一の氣持を不思議がつてもゐた。

        ○

 謙一が、時計を埼子の部屋へ持つて行つてやると、埼子は、人がかはつたやうに、謙一から時計を靜かに受取つて、ゆつくりゆつくり時計のネヂを卷いた。
「僕が新京へ行く氣持になつたのは、カツ子さんなんかのことぢやないンですよ。そりやア、僕はあのひとは好きだつたし、結婚出來れば結婚もしたかつたけれども、もうあのひとも結婚して行つちまつたし‥‥僕は、いつまでもカツ子さんのことを考へてゐる譯にもゆかないぢやありませんか? 遠い處へ職を求めたと云ふのは僕は本當は東京がきらひになつてゐるんですよ‥‥生れ故郷の東京を去るなんて云ふのは、埼ちやんには理窟がわからないだらうけれど、兎に角、僕は一度、東京を離れてみたいンだ。そして、新しい發展性のある土地で働いてみたいと思つただけ‥‥僕は東京は本當は厭なんだ!」
「ぢやア、私もきらひなのね?」
「うん、そりやア‥‥困つたなア、僕は埼子ちやんは好きだよ、とても好きなんだけれど、東京が厭になつた氣持の中には、埼ちやんなんか何の關係もないし、これは、埼ちやんにはうまく説明出來ないと思ふけど‥‥男がね、一生の仕事をきめると云ふ時には、そんな、女の問題や色々な人情とは、また違つたものがあると思ふンだけど‥‥新京つて、現在では少しも遠い處とは思はないし、埼ちやんなんか、いつでも來て貰ひたい位だ。――僕は、のびのびした處で働きたいんだよ。だから氣持よくやつてくれるといゝな‥‥」
 埼子は默つてゐた。
 こんな立派なひとが遠い處へ行つてしまふ‥‥厭々、どうしても厭だ。埼子は默つたまゝ謙一を睨むやうに見上げてゐた。肩ががつしりしてゐて、大きなロイド眼鏡の奧の眼は、人なつこく、いつも空間をみつめてゐたし、顎の張つたところは、謙一の強い意思を現はしてゐて埼子はとても好きだつた。――このまゝ別れるにしても、額に接吻をされただけで別れるのは埼子には心殘りだつたし、もう、二人きりでゐると云ふのも今日かぎりだと思ふと、埼子は、さつきのやうに焦々して砂に轉げてみたくなるのであつた。――夕方の汽車で母たちがやつて來ることになつてゐる。朝の汽車で謙一と二人だけで先發してこの千葉の別莊へ來たのが、無意味のやうに思はれてくる。風呂場の裏では別莊管理の百姓爺さんが鷄を締めて焚火で毛燒きをしてゐた。
「もう、明日、お別れね?」
「うん‥‥」
「ごめんなさいね?」
「何も、あやまることはないぢやないの。僕だつて、埼ちやんには色々お世話になつたんだから‥‥感謝してゐますよ」

 六時頃、埼子の母たちが來た。中堀や櫻内も一汽車遲れてやつて來た。母は埼子の小さい弟たちを二人も連れて來たので、淋しい別莊にはちきれるやうに賑やかになつた。躯の弱い埼子が、秋からずつとこの別莊に養生に來てゐて、珍しく一週間ほど東京へ戻つてゐたのである。今朝も、謙一と連れだつて兩國から汽車に乘つたのだけれど、埼子は、あわたゞしく東京で謙一と別れたくはなかつたのだ。千葉の家で、謙一の送別會をしようと云つて、忙しい謙一を無理矢理に埼子がさそつたのであつた。
「おや、犬でも上つたのかしら? お座敷に砂がいつぱいよ‥‥」
 埼子の母は、座敷に散らかつた砂を見て、臺所へ箒を取りに行きながら、
「埼子さん、お座敷の砂はどうしたのよ?」
 とたづねてゐる。埼子は謙一と顏を見合はせてくすりと笑つた。中堀も、櫻内も、海を見るのは久しぶりだと、寒いのに庭の垣根に凭れて海を眺めてゐた。謙一だけが背廣姿で、中堀も櫻内も學生服だつた。
「さア、皆さん、寒いからお座敷へ這入つて下さい。お火鉢が出てゐますよ‥‥」
 座敷はきれいに掃かれて、近所から寄せあつめてきた座蒲團が並び、母は火鉢に大きな鍋をかけてゐる。
「おい、おい。こつちへお這入りよ、風邪ひいちまふぜ‥‥」
 謙一が埼子の弟の喬を抱いて、縁側から垣根のところにゐる二人を呼んだ。埼子は黒いリボンで頭髮を結んで、洋服の上から派手な錦紗の羽織を引つかけてゐた。京都人形のやうに沈んだ顏だちで、皮膚の薄いのが、妙に痛々しくみえる。
 中堀や櫻内が部屋へはいつて來ると、埼子はわざと、この二人の大學生の間に坐つた。謙一は、自分のそばには坐らないで、向ふ側に、にこにこして坐つてゐる埼子を見ると、かへつて吻つとしたやうな氣持になつてゐる。
「櫻内さんは何處へおきまりになつたの?」
「何です? 勤めさきですか?」
「えゝ」
 櫻内は鹿兒島の生まれで、鹿兒島の言葉の訛がなかなか拔けないらしく、妙にどもりながらしやべつてゐた。
「八幡の製鐵所へ勤めることになりましたけどねえ、誰つちや知つたひとがをらんので、淋しかです‥‥」
「まア、八幡へいらつしやるの? 中堀さんは何處?」
「僕は滿鐵の方で吉林へ行きます。隨分遠いンですが、清水が新京へ行くンで、時々は逢へると愉しみにしてゐますよ‥‥」
「まア遠い處へいらつしやるのねえ、謙一さんが新京へいらつしやつて、隨分遠い處だとおもつてゐたのに、中堀さんはまだ遠いのね‥‥」
 鍋のなかの鷄や野菜が煮えはじめた。謙一は喬に少しづつ鍋の中のものをよそつてやりながら、喬を抱いた膝をびくびくと動かしてゐる。櫻内は五分刈りで精悍な躯つきであつたが、瞼がはれぼつたく、笑ふと大きな八重齒が出て子供らしい表情になつた。中堀はまるで市役所の官吏にでもなつた方がいゝやうな物靜かな恰好で、頭髮もきれいになでつけて、制服のカラーも清潔にしてゐた。色があさぐろく、大きな鼻がいかにも好人物を示してゐる。中堀は風邪をひいてゐるのか、時々咳をしてゐた。
「もう、來年は、みんな遠くへ行つちまふのね‥‥」
 埼子が不器用な手つきでみんなにビールをつぎながら云つた。櫻内だけはビールよりは酒がいゝと云ふので、別莊管理の爺さんに頼んで地酒を買つて來て貰つておいたのだ。八時過ぎには木更津の驛に勤めてゐると云ふ謙一の友人の延岡もやつて來た。謙一とは木更津の中學時代の同窓生だとかで、延岡はがらがら聲で無遠慮にしやべる男だつた。平凡な驛員型の人物であつたが、話が率直で面白いのでみんな好意を持つた。延岡は羽織の下に地味な袴をはいてゐる。
「清水は、新京へ行くんだつて? 羨ましくて仕方がないなア‥‥僕ももう何處か遠い處へ行きたくなつた。清水のやうに大學卒業ででもあれば、どつか素晴らしい處へ、就職の方法もあるんだが、何しろ中學卒業ではどうにもならん」
 延岡は段々醉つて來ると、保線に勤めて、土方のやうなことをしてゐる俺だけれど、そのうち素晴らしい仕事を探すのだと云つて、一人で痩せたこぶしを膝の上で握りかためてゐた。自分だけがいまにも大きな出世をしてみせるぞと云つてゐるやうな、田舍者の無遠慮をまるだしにしてゐる延岡に、櫻内は段々不快なものを感じてきて、急に默りこんで酒をあふつてゐた。
「まア大學を出た處で、君たちはこれからが大變だぜ、いままでは學校の思想の枠の中で、メリーゴーラウンドしてゐればよかつたのだが、我々若いものは、我々若い者だけの思想をつかまなければいけないねえ。自力で思想をつかむことが大切だ‥‥」
「へえ。自力の思想を持つてゐると云ふのは君一人とでも云ふのかね? 君の思想とはどんなものだい?」
 櫻内は青くなつて、腫れぼつたい眼を細めて、じつと延岡を睨みつけた。その表情の中には、何かしら勃々とした怒りが走つてゐる。
 埼子の母は二階に學生たちの寢床を敷いておくと、眠さうな喬を引きとつて、さつさと埼子の部屋へ引きさがつてしまつた。謙一は、いまでは、延岡の訪問を後悔してゐるやうであつたけれど、二人の話の途中にはいるのも自分が弱いやうで、しばらく默つてゐた。
 おとなしい中堀がふと、何氣ない風で、
「君はそんなに學問と云ふものに憧憬してゐるのかね? 學校の思想の枠の中でメリーゴーラウンドしてゐるとはどう云ふ意味かわからんけれど、今夜はまア清水君や僕たちの送別の宴なのだから、むづかしい話はよし給へ!」
「あつはッはッ‥‥むづかしい話かねえ? これが‥‥」
 延岡はいかにも愉快さうに大笑しながら、箸を煮えつまりかけてゐる鍋の中へつゝこんだ。すると、櫻内は急に大きな聲を出して、
「莫迦野郎! いつたい誰を侮辱してゐるんだツ!」
 と、延岡のつき出してゐる手の箸を引つたくつて硝子戸へぴしやツと投げつけた。箸をとられた延岡は、むくつと立ちあがつた。立ちあがるなり目の前にあるビール瓶をつかんで、櫻内の顏面をめがけて力いつぱい投げつけた。躯をかはした櫻内が、疊にうつぶすのと、瓶が床の間の壁へづしりと響いたのと同時だつた。顏をあげた櫻内は、ビール瓶で鼻でも打つたのか、唇や顎の邊へ鼻血が吹きこぼれてゐる。一瞬の出來事だつたので、謙一も中堀も埼子も呆氣にとられて息を詰めてゐた。
 櫻内は右手で鼻血をこすると、すぐ延岡の胸倉をつかんで、縁側の硝子戸を引きあげて、砂地の庭へ飛び降りて行つた。二三度、烈しい頬打ちの音や、烈しくつかみかかる躯の音がした。海の音ががうがうと響いてゐる。
「おい! もういゝよ、やめろよ‥‥」
 中堀が縁側へ出て行つたが、二人は固く組みあつて砂の上をごろごろ轉げまはつてゐた。謙一も縁側に出て行つたが、默つてつゝ立つて二人の喧嘩を、ぢつと眺めてゐた。――就職したよろこびの底には、學生生活を離れて遠くにちりぢりになつてゆく一抹の淋しさが、誰かに甘えたいやうなやるせなさで、この一ヶ月あまり、自分たちの氣持を焦々さしてゐたのだ。櫻内が力いつぱい戰つてゐる姿は、謙一には色々ななごりの反射を浴びてゐるやうで見てゐて爽快だつた。喧嘩になると、鹿兒島生れの櫻内は唐手の選手なので、延岡は敵ではなかつた。二三度揉みあふうちに、延岡はすぐ櫻内の下敷になつてうんうん胸を締めつけられてゐる。
「おい櫻内! もういゝよ、やめ給へツ」
 中堀が下駄をつゝかけて庭へ降りて行つた。延岡は洟やよだれをづるづる出して、齒ぎしりをして唸つてゐる。
「へつぽこ大學生に負けてたまるものか!」
 延岡は締めつけられながらも、まだ毒づいてゐた。謙一はそれを聞くと、急に沓下のまゝ庭へ飛びおりて行つて、二人の間を引きはなすと、
「延岡! 貴樣歸れ!」
 と、大きい聲で呶鳴つた。立ち上つた延岡は胸をはだけて、唇尻には少し血がにじんでゐた。酒臭い息を吐いてしばらく櫻内を睨んでゐたが、そのまゝ延岡は庭の外へすたすたと跣足で出て行つてしまつた。
「あら、あの方、帽子があるわ‥‥」
 埼子が帽子を持つて來たが、誰も帽子を持つて行つてやるものはなかつた。
「生意氣な奴だ。どうしてあんなのを呼んだンだ?」
 櫻内が謙一に詰問してゐる。埼子の母が驚いてわくわくしてゐたが、すぐに雜巾を持つて來て謙一にわたした。謙一は雜巾を櫻内に取つてやつて、自分は沓下をぬいで座敷へ上つた。やがて、遠くの濱邊を歸つてゆくらしい延岡の歌聲が、風に吹き消されるやうに小さくかすかにきこえて來た。
「いゝ人物なんだがねえ、田舍にゐると、意識過剩になつて、あんなに妙な人物に風化されてしまふんだよ‥‥」
「何か知らんが妙な奴だねえ、いやに年寄くさくて、自分はいつぱしの苦勞人だと云つたやうな、あんな態度は男らしくないよ。いくつなんだい?」
「二十五だつたかな、ひがみの強い奴だなア、あんなだとは思はなかつた‥‥社會へ出たのは俺が先輩だぞとよく云つてゐたが、あんなに單純な奴とは思はなかつた‥‥僕たちだつて、遠い土地へ行つて、いつとき會社勤めをしてゐたら、あんなにうすぎたない氣持になるんぢやないかな‥‥」
「酒癖はよくないねえ‥‥」
「うん、醉はないと、中々面白い。それこそかどのとれた圓滿な男なんだがね‥‥」
「驛へ勤めてゐるのは結構ぢやアないか、自分で卑下して、人にからんでくる奴は厭だねえ‥‥」

       ○

 翌朝、埼子は二階の狹いサン・ルームで日光浴をしてゐた。背中を陽にあてて籐の寢椅子に半裸體の姿で横になつてゐた。そして靜かに本を讀んでゐる。昨日のさうざうしい青春の波は、窓の向ふの波のやうに非常に靜かにおだやかになつてゐる。――ライン河畔のリューデスハイムの町から、下流に下つてゆく白い遊覽船に、三人の青年と三人の娘の一組が乘つてゐた。この一組は學生劇の連中で、ラインの上流をたつた六人で芝居をうつてまはつたけれどいづれも不入りで、リューデスハイムの町へ泊つた時には、宿賃だけでパンを食べることも出來ない貧しさであつた。その時、宿屋の庭に馬に乘つて來た老紳士が、此の悄然たる若者たちを氣の毒がつて、下流の賑やかなケーニヒス・ヴィンターの町や七ツの山の見えるノンネンベルト島なんかへ案内をしてくれる。金持の老紳士は三人の女のなかの、ゲンマと云ふ娘に愛慕の氣持を持つてゐた。下流の町に着くまで、ゲンマは老紳士を思ひ惱みつゞけるけれども、最後はその老紳士の愛をしりぞけて、不安と缺乏の人生に向つて、そして何よりも尊い青春に向つて、三人の青年のなかのガイヱルと港の町へ上陸してゆく‥‥。――埼子はシュミットボンの「山の彼方」を讀んで了つてから、しばらく渦卷くやうな樣々なおもひで、本の上に顏をのせてゐた。顎の下に本の白い頁があつたけれども、その白い頁の活字の中から、冷くて底深いラインの流れが悠々と流れてゐるやうに空想された。まるで、自分が作中のゲンマのやうな娘になつたやうにも考へられて來る。この小説の中の青年や娘たちは、不安と缺乏の人生に立ちむかつてゆく勇ましい元氣があるのだ。それなのに謙一だの自分達の周圍はいつたいどうしてこんなに昏いのだらう‥‥食べることや、生活にはどうやら困らないでゐられるけれども、四圍のすべては老人臭くてごみごみしてゐて、あんなに、どの學生も職業探しに血まなこになつてゐる‥‥。二度と再びめぐつて來ない青春すらも、押しかくしてみんな毆りあつては生きてゐるのだ。
 埼子は、この海邊の別莊で、何年生きられるのかもわからなかつたけれども、何かしら、この世に生を受けて生まれて來たそのことが、悲しく切なく感傷的になつてきてゐた。
「這入つていゝ?」
「誰なの?」
「僕‥‥」
「這入つていゝわ‥‥」
 謙一は滿ち足りた眠りから覺めた明るい顏色で、のつそりとサン・ルームへ這入つて來た。
「だいぶ狐色に燒けたのね?」
「私の背中、いゝ色でせう‥‥」
 謙一はまぶしいものでも見るやうに、埼子の背中を眺めた。燒きたてのパンのやうにふつくらしてゐる。背筋の溝の線も健康さうだつた。肩の肉づきは子供のやうに薄くて、とがつたやうな左の肩さきに、陽がきらきら射してゐる。窓硝子の向ふには、白く陽に反射した海が見えた。
「謙一さんは、いつまた東京へくるの?」
「さうね、一週間ぐらゐしてかな、向ふへ行くのは二月の末か三月の始めだから、まだ、度々こゝへはやつて來ますよ‥‥」
「やつてこなくてもいゝわ」
「どうして?」
「どうしてでも‥‥あなたは、自分でどんどん何でもおやりになれるし、ちやんと方向がきまつてゐて安心ぢやないの? 私は、もうこゝで死ぬる日を待つてるだけだもの、來てくれなくつてもいゝの‥‥」
「このごろ、埼ちやんは、どうかしてるよ。どうしてそんなにひがみが強くなつたのかな?」
「失禮ね、ひがんでなんかゐないわ‥‥」
 埼子は藤椅子から起きあがつて、乾いたタオルで胸や腕をこすつた。兩の乳房が、小學生の子供のやうに小さい。謙一は卓子の上の、もひとつのタオルで埼子の背中をこすつてやつた。
「カツ子姉樣はとてもふとつてたわね?」
「‥‥‥‥」
「今日はもう、カツ子姉樣の話をしてもいゝわ。みんなもうよそのひとなんだから‥‥」
 埼子はオレンジ色のブラウスを着て、胸の黒い釦を一つづつはめながら、
「櫻内さんたちどうして?」
 ときいた。
「さつき、中堀と爺やさんの案内で濱へ地引網を見に行つたんだけど‥‥」
「さう‥‥あの櫻内さんて、とても元氣な方ねえ、八幡の製鐵所へいらつしやるつて向いてると思ふわ。――みんな大學を出て、職がきまつて、戀もしないでお嫁さんを貰つて、赤ちやんが出來て、平和に一生を送るのね?」
「それでもう澤山ですよ‥‥埼ちやんは、頭の中だけで色々なことを考へて、一人で人を罰したり、人を讚めたりしてゐる‥‥人間らしい生きかたと云ふのは、結局は平凡な生涯[#「生涯」は底本では「生滅」]にあるんぢやないかな‥‥埼ちやんはあんまり小説類を讀みすぎるね。あんたは病氣なんだから、病氣に勝たなくちやいけない。やつぱり、規則正しく日光浴をして、散歩をしたり、おいしいものをたべたり、いまのところ、呑氣にそんなことをした方がいゝと思ふンだけど、埼ちやんが焦々してゐると、みんなが焦々しなければならないもの。僕は、昨日、埼ちやんが砂を運んで來てくれただらう。あんな無邪氣な埼坊が好きだなア、――就職をして、お嫁さんを貰つて、平和に生涯を終ることが出來たら結構だと思つてゐるンだ‥‥」
「おゝ厭だ。そんなしみつたれた若さだの、しなびた青春なんてきらひだわ‥‥」
「しなびた青春か‥‥さうかなア。青春と云ふものは、一々大芝居をしてみせなきやならないものとも違ふし、環境によつて、貴族の青春もあるだらうし百姓の青春もあるだらうし、僕たちのやうなサラリーマンの青春だつてあるンだ。埼ちやんが讀んでゐる小説の青春は、それはその作家の描いた芝居であつて、現實の世界に、これが僕たちの青春でございと金看板はさげられないぢやないの? 青春の氣持なんかはその人々で生涯持つことも出來るだらうし、僕は平凡に就職して、親爺やおふくろによろこんで貰ふことで滿足だな‥‥」
「‥‥‥‥」
「埼ちやんに云はせると、與へられた職なんかも時には放つたらかして、一人の女を熱愛することが青春なんだらうけど、それだつて結局はたかが知れたものだ‥‥」
 謙一は窓邊に行き、窓を開けて海を眺めてゐた。海の色は段々青く染まつてきてゐる。空には小さい白雲が吹き流れてゐた。
「そりやア謙一さんは、長生きをする方だからそんなことが云へるのよ。私は、‥‥私は、いつ死ぬるかもわからないンですもの‥‥」
「何を云つてるンだ。病氣なんかに負けちやいけないとさつき云つたでせう‥‥少しのんびり保養をしてゐたら、埼ちやんなんか若いのだから、すぐカツ子姉さんみたいにもりもり大きくなるんだよ‥‥」
 謙一は病氣と鬪ひながら、この淋しい海邊で暮してゐる若い埼子が可哀想でならなかつた。

 謙一は埼子の家とは遠縁にあたつてゐて、早稻田にはいつた時から、ずつと埼子の家に下宿をしてゐた。謙一は埼子の姉のカツ子が好きで、大學を卒業して職につくことが出來たら、カツ子を妻に貰ひたいと考へてゐたのだ。
 だけど、カツ子はいつの間にか平凡な見合ひをして地味な商家へとついで行つてしまつた。
 掌中のものを盜まれたやうに、一時は氣拔けがして呆やりしてゐたけれど、謙一はすぐ立ちなほることも出來たし、また、以前のやうな規則正しい學生生活をとり戻すことも出來てゐた。
 謙一とカツ子のあひだの、かすかな思慕の流れを、埼子はいつの間にか鋭敏に感じてゐて、ちやんと知つてゐた。その鋭敏さは、むしろ病的な位に「何か」をつけ加へて大きく考へてゐるらしい樣子でもある。
 カツ子のやうにふとらなくてはいけないと云ふと、ふつと埼子が默つてしまつたのを、謙一はまた溜息をつきながら反省しなければならない。
「僕は、そのうち、もう一二度、千葉へ來ますよ、埼ちやんには、まだまだ、いろんな話をしたいと思つてゐるンだ。――カツ子さんのことに就いては埼ちやんが考へてゐるやうな重大なことは何もなかつたんだし、僕にはそんな烈しいことは何も出來ない。カツ子さんも埼ちやんが知つてゐるやうに、中々堅實な地味なひとなンだし、いまはむしろ、僕は埼ちやんをお嫁さんに貰へれば貰ひたい位に考へてゐるけれど、僕には職業を捨ててしまつて埼ちやんのそばにつききりでゐられる自由もないのだし、‥‥結局は、埼ちやんが躯をよくして、滿洲へ來てくれることだな‥‥男は、功利的な意味ではなく、職業の爲には折角の戀愛も捨てなければならない場合もあるンだ。わかるかなア‥‥僕は今どんな素晴らしい戀をしてゐても、どうしても新京へ行つてしまふだらうし、新しく仕事に出發してゆく氣持は、現在の僕にとつては何ものにも替へがたい‥‥」
 埼子は默つてゐた。明るい陽が疊いつぱいに射して、謙一の影が肥えた傴僂のやうに疊にくつきりと寫つてゐる。
「だから、もういゝのつて云つたでせう? 私は新京なんかに行けやしないわ‥‥私だつて、私の生活があるンだし、もう、このまゝお別れでいゝと思ふの。私は病氣なのだもの‥‥」
 謙一は誰かに呼ばれたやうな氣がして、くるりとふりかへつて濱の方を眺めた。延岡が青い顏をして垣根の外に立つてゐた。
「どうしたンだ?」
「昨夜、驛の前の宿屋に泊つたンだ‥‥帽子を忘れて取りに來たンだよ」
「まア、這入つて來いよ‥‥」
 謙一は眼鏡をずり上げてすぐ階下へ降りて行つた。埼子は、籐椅子から降りて窓邊にゆき、小さい聲で歌をうたつてみた。あの波も、あの空も一瞬のながれであり、すべては木ツ葉微塵だ。謙一の新しい出發に對して、狹い女の嫉妬が自分を苦しめてゐる。自分は謙一を奪ふことが出來ない。男の仕事と云ふものは、そんなに男にとつて魅力のあるものだらうかしら‥‥。自分は、これからも、この濱邊で暮さなければならないし、病氣に脅かされて、毎日、不機嫌に暮さなければならないのだ。
 人間の生活とはいつたい何だらう。‥‥人間が生活々々と呼んで生活へ進んでゐるその「生活」とはどんな生活なのだらう。
 埼子は皮膚をかきむしられるやうに耐へがたい氣持だつた。
 濱邊を點のやうになつて、櫻内や中堀たちが戻つて來てゐる。埼子は窓から白いタオルを振つた。櫻内も中堀も馳け足で戻つて來てゐた。(あゝ、あの人たちもこれから新しい生活へ進んでゆくのだわ‥‥)埼子はハンカチを振りながら、明日から自分だけが、またこの海邊にのこつてゐるのだと思ひ、妙に感傷的になつてゐる。
「ぢやア、さよなら、下駄は驛の前で買つたンだよ‥‥」
「あゝさうか。東京へもやつて來いよ‥‥」
「うん、また、君が新京へ行くまでには、一度、たづねてゆくよ‥‥」
 垣根の外へ、延岡の鼠色のソフトが見えた。延岡は一度もふりかへりもしないで、生垣に沿つて、櫻内とは反對側の方を歩いてゐる。
 海が急に昏くかげつて、風が出はじめたのか、まるまつた新聞紙が、垣根のそとを石崖の方へ風に吹かれて行つた。




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