谷間からの手紙
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著者名:林芙美子 

 第一信
 まるで、それは登山列車へでも乗つてゐるやうでありました。トンネルを抜けるたび、雲の流れが眼に近くなつて、泣いたあとの淋しさを感じてゐます。
「貴女のいらつしやる町はあれなンでせうね」
 さう言つて、東京から一緒だつた兵隊さんが、谷間に見える小さい部落を指さします。まるで、子供の頃見たパノラマのやうに、森や、寺や、川や、学校がチンマリとして、農家の小さい庭には木槿や百日紅、をどりこ草、黄蜀葵、サルビヤなどが盛りで、あんなに東京を離れることを淋しがつてゐた私も、まづ、こゝろ長閑になりました。
 汽車はがら空きです。貴女が楽しみにして食べるのよつて下すつた、犬のチヨコレートを、ちよいちよい嘗めてゐるうちに前の兵隊さんが、私の足の甲をそつと踏みます。額だけが、まるで白粉を塗つたやうに白くて、肩が板のやうなガンヂヤウなこの兵隊さんは、私をいつたいいくつだと思つてゐるのでせう。
「これ‥‥」
 さう言つて、富士山の模様の風呂敷から、萄葡と固パンを出して私の膝に載つけましたので、私はチヨコレートの犬の尻つぽをお返しにしました。すると、兵隊さんは、その犬の尻つぽをひと口に頬ばつて、私の足をきつと踏みました。
「痛いわ!」
 さう小さい声で言つたんですけど、兵隊さんはまるで赤い地図のやうに首筋から血を上せて、顔をあかくしました。
 谷間へ行く駅へ降りたのは私がたゞひとり、兵隊さんはいつまでも汽車の窓から帽子を振つてくれました。山の駅には、登山帰りの学生が三人、軽いリユツクサツクを背負つて、東京行きの汽車の来るのを待つてゐました。
 私は、バスケツトだの、風呂敷包だの三ツも荷物を持つてゐましたので、その学生の人達に、自動車でもあるでせうかと聞いてみました。
「まだ四時だから、谷間へ行く乗合が出るでせう」
 さう言つて、何だか変に顔を歪めて、私の顔を見るとクスリと笑ひました。するとあとの二人も、私の顔を見てクスクスと笑ふのです。私は悲しくなつて、貴女とお別れしたときの涙が、またポロポロとこぼれ出しました。
「僕が乗合まで荷物持つてあげよう」
 眉の太い学生が、私の涙に驚いたのでありませう、ステツキに風呂敷包を両方から通すと、先に立つて歩いてくれました。
 だらだらとした砂利道を降りて、丁度振り返ると、駅のホームが眉の上に見えるところで、上の学生達が、両手を振つて冷やかしてゐました。
「オーイ、よく似合ふぜツ」
「そのまゝお嬢さんとこへ泊つちや駄目だよツ!」
 私は沈黙つて小さくなつて歩いてゐました。
 坂が切れると、不意に大きい激しい流れがあつて、橋の向うの藁屋根の軒に、赤い旗が出てゐました。
「あゝまだゆつくり間に合ひますよ」
 それから、何かまだその学生は私に言つたのですが、黒い下りの貨物列車が、トンネルを出て来たので、私にはよく聞きとれませんでした。
「えゝツ、間に合ひますか?」
 すると、その学生は汽車の中の兵隊さんのやうに顔をあからめて私に言ひました。
「君、鼻の下に煤がついていますよ」
 私はどんなにか恥かしかつたでせう。バスケツトを降ろして急いでコンパクトを出して顔を写して見たら、まア、煤がまるで口髭のやうについてゐました。きつと貴女とお別れする時、泣いたまゝの濡れた顔をこすつたからでせう。それから、何だか変に呆つとして、私は、足を踏んだあの兵隊さんの皓い歯が、一寸なつかしいものに思へてなりませんでした。
 谷間の家では、不意に私が行つたので、驚いて掃除をしてくれるなぞ、大変いゝ人達ばかりです。又――。
かづ子  百合江さま

 第二信
  大空の秋風高し何処にか失せにし夢のゆくへたづねむ
 障子をいつぱい開けて、寝床の中から空を見てゐると、山の肩の上を白い雲が風のやうにスイスイ流れて、貴女の好きだつたこの歌をつツと思ひ出しました。
 お元気ですか。
 私はいま大変幸福です。平凡な片隅の生活が、どんなに私を驚かせたでせう。私はいま貴女に、どのやうなお礼の言葉を差し上げたらよいかと迷つてゐます。
 埃を吸つて、黄や赤や紫の灯火にくだけた私のはかない踊り子生活は、もう夢のやうに遠くへ去つてしまつた感じです。私はなぜ此様に尊い平凡な生活を忘れてゐたのでせう。
 私の体は、日ましによくなつて行きます。肺は怖ろしい病気だなんて、私はよつぽど幸福な病気だつと思つてゐますわ。
 魚ツけのない谷間の日々、私は新鮮な野菜ばかりを食べて別に退屈を感じませぬ。いまにホウホケキヨなんて鶯みたいに鳴き出すからつて、離れてゐる[#「離れてゐる」はママ]小学校の先生が憎まれ口をきくのですが、魚は鱗を見ただけでもぞつとする私には、まるでお伽話の世界です。
 この谷間では、お百姓よりもお坊さんが大変威張つてゐます。
「先生とお坊さんとどつちが豪いの?」
 村の子供に聞くと、坊さんの方が上だらうつて。それなのに、お坊さんは朝から晩まで村長さんとお酒を呑んでゐます。こゝの村長さんは大酒飲みで、馬の品評会でぶつたふれたといふ酒豪です。
 この家の娘さんは私より一ツ上の十八ですが、もうこの月末には川下の曼陀羅寺へお嫁入りして行くのです。非常に髪の黒い瞳の涼しいひとで、蕎麦の花のやうに可憐な女です。離れの小学校の先生は、西洋占ひをつくつて、
「九月の花嫁は、美人で愛情あり、人に好かるべし、なれど縁薄くして末不幸なり。おい、おくにさん、まづもつて、九月の花嫁となるなかれだね」
 何だか変におくにさんを厭がらせるのですが、おくにさんも、お寺のせゐかあまり気が進まないらしく、妙にぼんやりして可哀さうです。
 こゝのお婆さんは、大勢な貴女のお家の台所をきりまはしてゐたひとだけに気丈夫でかんしやうなところが見えます。
「まあ、百合子嬢さまがもう十七になられて、いやもう十年もたちますかいなう、早いものですよ」
 娘のお嫁入りも、半分はこのお婆さんがお嫁に行くやうな鼻息です。離れの先生は、ここのおくにさんが好きであつたのでせう、時々口笛なンぞを吹いておくにさんを呼んでゐます。
 谷間の村は、鶏と兎を飼ふ家が多い。とても平和です。誰かが嚔をしてもよく聞えさうな静かな部落で、月の美しい夜なぞ山の落葉松林が銀の波のやうです。
 お婆さんも是非貴女をお呼びしたいと言つてゐました。こゝはお婆さんに、お婆さんの息子夫婦、それに嫁入りして行く娘さんと、その弟と、学校の先生と、私と、呑気な家庭です。
 いらつしやいませんか。
 お兄様たちによろしく。又――。
谷間から かづ子  百合江様

 第三信
Merci bien !
 まあ、私胸がとてもドキドキして、一寸の間夢ぢやないかと思ひました。勇兄さんのお描きなつた海の風景と、チヨコレートにボンボン、コテイのオークルジヨン、雑誌が二冊、とても私の嬉しさ楽しさ、空想してみて下さい。
 もういちど、メルシ・ビヤン! やつぱり都会の虫は仕様がありません。ボンボンをひとつ口にはふりこんだら、ボンボンのやうな涙がこぼれました。こゝの人達にもお菓子をわけましたが、先生の外は、みんな苦味いと言つてよろこびませんでした。
 海の風景は、私のお部屋に、小学校の先生は、勇兄さまの絵を見て、もう三十を過ぎた方なのに、これから絵を勉強に東京へ出ようかしらと言つてゐました。
 娘さんはせつせと古風なお嫁入りの着物を縫つてゐます。そのそばで弟の方が、誰かに手紙でも書いてゐたのでせう。
「おまへは勉強させてもらつて幸福だでなア、姉ちやアは、着物ばかし縫つて、手紙ひとつ書けねどもさ」
 弟の方は沈黙つて鉛筆を嘗めてゐました。
 姉娘の方は、水つぽい眼をしてぼんやり何か一人ごと言つては針を動かしてゐます。忘れられたやうなこの谷間の風景の中にも、此様な悲しい汚点があるのです。
 シネマなンぞはなほさらのこと、一年に一度か二度の村芝居もみかねる人達が多いのです。だから、勿論、村のうちは、現金なんてはめつたに持つて歩く人はなくて、卵と石油と交換したり、塩鮭と蕎麦粉とかへたり、淋しい村です。
 そのうち、写真でもとつて送りませう。
 くれ/″\も皆様によろしく、私の体はとても元気、少し太つたと家の人達が言ひます。
 此間も、家の人達と一緒に眼を覚ましたので、朝の御飯が済むと、涼しい落葉松林の中へ散歩して、一人で自分の影を見ながら汗ばむほど踊つてみました。
 やつぱり、東京へ帰つて舞台へ立つてみたい気持です。エマ子さんや、滝子さん、雅子さんなんぞ、みンな上達なすつた事でありませう。私一人で残された者みたいで淋しい気もします。朝の落葉松林は無人境です。一人で自分の影と踊つてゐるかづ子を考へてみて下さい。
 私、早く病気をなほさうと思つてゐます。
 勇兄さまにもお会ひしたい、いつもお手紙が電報のやうに短いので、本当はとても淋しいンです。恨みつぽい事を言つて済みません。チヨコレートは楽しみに長く食べませう。
 よろしく。
かづ子より  百合江さま

 第四信
 口髭のこと、いまごろ勇兄さんから、何と愛すべき髭のかづ子よつて来ました。だから私お返事をあげたのです。
 口髭のある私に、思ひをかけてくれた兵隊さんの顔が忘れられませんつて。その兵隊さんは、一寸勇兄さんに似てゐましたの、でも勇兄さんのやうにニヒリストぢやなささうです。
 昨夜、娘さんは川下の曼陀羅寺へお嫁入りして行きました。麩のやうなかまぼこや、きんとん、鮭の焼いたの、こんなものがお夕食につきました。お嫁さんは紅い風呂敷包を腰にくくつて、お嫁入り先まで歩いて行くのです。荷物は家の馬に乗せて、お婆さんも時代色のついた古風な紋付を着て、荷物と一緒に馬に乗つて、まるで昔の道中です。提灯が見えなくなるまで、皆で軒下に立つてゐました。
「いやもう、娘といふものは産むでないよ」
 娘のお母さんはさう言つて、涙をホロホロこぼしてゐました。
 先生は離れに大の字に寝転んで、しきりに弟息子の名を呼んでゐました。
「何だね、先生?」
「姉ちやはもう見えねえか?」
「うん、もう行つたでなア」
 私は妙に悲しい気持でした。先生の心が判るやうで‥‥とてもお通夜のやうに淋しい晩でした。
 野風呂にはひつてゐると、酔つぱらひの村長さんが大きい声を張りあげて、
「かんなめさんや、娘さ芽出度かつたなア、うちも末娘が此間のこと、嫁入つたが、親といふものはたいていな骨折りぢや」
 お父つあんは沈黙つて煙管を叩いてゐます。
「まア、はひつて一杯召し上るベア」
 お母さんが酒でも燗徳利に入れてゐるのでせう。ドクドク音がしています[#「しています」は底本では「してします」]。
 いつたい、こんな貧しい村はどうなつて行くのでせうか?
 写真二枚入れておきます。
 すつかり山の中の女になつてゐるでせう。この写真については面白い話があります。村長さんの家の、長男氏が焼いてくれたのですが、これは×大学生で、実に厭な部類の男です。二枚写真を焼いてもらつた為に、毎日夜になると私の部屋の前で口笛を吹きます。この谷間の村では、男が女を呼ぶのに口笛でもつて合図をするのでせうか、あんまりやかましいので、「もう沢山ですよツ!」つて呶鳴つてやるんです。
 だつてその口笛が、守るも攻めるもくろがねの‥‥つて云ふのや、俺とお前はかれ芒きの唄なんです。ね、厭になつてしまひますわ。折角の美しい谷間の風景も、このダブダブな神経を持つた青年がこはしてゆきます。
 お臍までとゞくやうなカレツヂ・ネクタイをして、角帽なんぞ被つた姿で、村の娘を釣るといふのですから、大したものです。
 まるで、美文書簡集を、まる写しにしたやうな手紙をもらひました。
 こンな人を見ると、やつぱり都会は田舎の人にはいゝ土地ではないと思ひます。土をみつめて、朝から晩まで平凡に暮してゐるお百姓を見ると、私は心から頭がさがります。
 秋の展覧会も間近ですが、勇兄さんのお仕事はどうですか。今年はモデルをおつかひになりまして? 此間勇兄さんが、絵の具代が残つたからつて、私にお小遣ひ[#「お小遣ひ」は底本では「お小遺ひ」]を少し送つて下さいました。お礼言つておいて下さい。私は何でも言へる貴女を持つてゐることを、とてもうれしく思ひます。体はやつぱり安静にしてゐた方がいゝやうです。踊つて帰つて来ましたら、少し頭がグラグラしました。
 夕方、桃の葉を入れた野風呂にはひり、早くから床へもぐりこみました。
 離れの先生は夜中詩吟ばかりしてゐます。辛いのかもしれません。そのうち――。
かづ子  百合江さま みもとへ




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