支那目録学
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:内藤湖南 

 目録學は支那には古くからあるが、日本には今もつて無い。これは目録といつても、單に書物の帳面づけをするといふやうな簡單なことではない。支那の目録學にはもつと深い意味がある。これを知らないと、書物の分類も解題もできない。のみならず、今日實際に當つて、色々のものを見るのに困る場合が多い。日本の目録には、意味のないことが多い。かの佐村氏の「國書解題」などでも、箇々の書の特質を標出し得ずして、何れの書にも同樣の解題をしてあるやうな處があつて、解題の意味をなさぬものがあるが如きである。

       目録學の始

 ともかく、現存の支那の目録では、漢書の藝文志が最も古いものである。漢書は班固の生前には出來上らないで、その妹の曹大家が完成したものといふが、藝文志は班固自身の手に成つたものであらう。後漢の中葉、西洋紀元一世紀の終り頃に出來たものである。
 大體、漢書藝文志は、班固が自分で書いた處は、最初の敍文ぐらゐの僅かばかりで、その全體の大部分は、劉□の七略によつて書いたのである。七略の中の六略を採つて載せたので、七略の一つである輯略は藝文志には載せられてゐない。ところで、劉□が七略を作つたのは、□が創始したのではなく、その父の劉向が着手したのである。向が前漢の成帝の時より着手して、それを□が仕上げたのであるが、それは前漢の哀帝の時である。哀帝の末年は西洋紀元前一年に當るから、大體西洋紀元の少し前頃に出來たものと思はれる。
 この頃の學問は、多くは家の相續の學問で、劉氏も二代學者であるが、元來劉向の家は漢の宗室で、しかも不思議に宗室中で學問をした家である。先祖は楚の元王といつて、漢の高祖の弟である。馬上で天下を取つた高祖の兄弟ながら、學問好きであつたが、それ以來この家は學問が續いた。向の時になつて、成帝が天下の祕府に集まつた書籍の整理・校正を向に掌らしめたので、ここに目録學が始めて興ることになつた。

       二劉の學の本旨

 勿論この目録學は、前述の如く、單なる帳面づけ、支那で謂ふところの簿録の學ではない。その本旨は著述の流別に在りとされてゐる。これは或る意味から云へば、學問が最後の點まで發達したものと見ることができる。といふのは、少くとも支那では春秋戰國以來、學問が次第に興つて色々の著述が出來たが、劉向・劉□に至つて、それらの著述を總論する學が出來た。單にこの點だけでも、學問の最後の結末をつける意味があるが、なほ詳しくその内容を考へると、戰國時代、學問の始めて盛になつた頃には、學問は大體哲學的で、各人の主張する理論を專らとした。從つて學問の上に色々の區別を考へるのにも、その主張・理論を主とした。然るに劉向・劉□に至つて、すべての學問、すべての著述を、單にその學派、その著述の有つ主義・理論の上から考へるに止めずに、その學問の由來を考へるやうになつた。學問を歴史的に考へるやうになつたのである。支那の學問といふものが、大體に於て、あらゆる學問を歴史的に考へる傾きを多く持つてゐるのは、ともかく、漢の時代にかかる傾きを生じたところから、一度出來上つた傾きを、いつまでも持つてゐた爲めと考へられる。それが支那の國の學問としての特殊の性質、支那文化の特殊の性質となつたのである。

       著述流別の源

 勿論劉向・劉□が、著述の流別を考へたといふことも、その源は更に古くからある。これは恐らく戰國の頃からしてすでに、諸子百家の間に論爭の行はれた結果、自他の學派を區別する必要から、次第に出來たものと考へられる。春秋戰國以來の諸派の學問の中では、勿論儒家が最も早く發達した。從來から、殊に近來の支那の學者は、道家の方が儒家より先に發達したと考へるが、さうではない。儒家の方が早く發達したのであるが、その代り、同じ儒家の中で學派の分れたことも最も早かつた。儒家の諸流派については、すでに論語に見えてゐる。論語の成立が最も古いといふ譯ではないが、ともかく論語の中に、すでに流派の區別のあることが見える。即ち子張篇に、子游・子夏・子張などの人達が、各□孔子から聞いたことにつき、異つた意見を傳へたことが現はれてゐる。禮記の檀弓などにもやはり同樣のことが見えてゐる。又孟子の中にも、公孫丑篇に、子夏と曾子との考へ方の相違を論じ、その他の孔門の諸子たちを評論したことが見える。荀子などになると、儒家の中で子思・孟子を排斥し、仲弓などを尊ぶ傾きが見え、すでに儒家の中で、互に相容れない學派を生じたことを示してゐる。それが荀子の教を聞いたといふ韓非子になると、その顯學篇に、明かに各派の儒家を擧げてある。即ち子張之儒・子思之儒・顏氏之儒・孟氏之儒・漆雕氏之儒・仲良氏之儒・孫氏(荀子)之儒・樂正氏之儒のあることを記してゐる。
 儒家の次に盛になつたのは墨家である。墨子の學問も、韓非子の顯學篇によると、やはり幾つかに分れたやうである。即ち相里氏之墨・相夫氏之墨・□陵氏之墨があり、儒家分れて八となり、墨家は三となり、取捨相反して同じからず、各□自ら稱して眞の孔墨といふが、どれが本當だか分らぬと云つてゐる。墨家の分れたことは、この外、莊子の天下篇にも見え、それにやはり相里勤、□陵氏などに分れたことを書いてあるから、かかることは確かなことであらうと推察せられる。
 その他のあらゆる諸子について論じたものでは、孟子の中には、墨子とともに楊子を排斥することを論じ、孟子が告子と主義の上で議論したことを書き、又農學家ともいふべき陳相と論じたことを記し、かくて既に學派の異同につき論辯したことを書いてゐる。荀子には非十二子といふ篇があり、當時行はれた諸子の主義につき批評し、殊に荀子は、その中の同じ學派なる子思・孟子については特別に攻撃を加へた。荀子にはその外、天論篇に諸子の長短を論じた箇處がある。又莊子の天下篇には、各派の長短を盛に論じてある。
 かくの如く、ともかく戰國時代の諸子からして、既に他の各派との論爭上より、學派の區別を明かにすることが行はれた。もつとも、これらの書が悉く戰國に書かれたのではないが、ともかく色々の變つた諸子が出る以上、各□特別の主義があつたことは爭ふべからざることである。されば漢代になつて、色々の書籍を總括して見られる位置にゐた人は、勿論諸子の各□の流派に就てその長所短所を考へるのは自然のことである。二劉以前に、すでに司馬談・司馬遷父子は、太史の官にあつて、朝廷に集まるあらゆる書籍を總覽することができた。故に史記の太史公自序によると、司馬談がすでに六家の要指を論じたことが記されてゐる。六家といふのは、陰陽家・儒家・墨家・法家・名家・道家のことであるが、談は元來、道家を學んだ人で、六家を論ずる上に於て、道家を最も偉いものとした――これによつて、司馬遷も亦同じく道家を尊んだやうに云ふのは誤りである。――この六家要指になると、大分二劉の學問に類似してゐるが、その違ふところは、司馬談の考へ方でも、單に六家の長短を論ずるのが主で、その善い所はどうしても捨てられず、その弊害は考へねばならぬといふ風の考へ方であつて、まだこれには、六家を歴史的に考へるといふ考へ方はない。然るに二劉の學問は、この各派の流別を論ずる上に於て、一一歴史的の意味を附した點が異るのである。

       劉向校書の由來とその方法

 劉向・劉□が目録を編纂するに至つた由來は、漢書藝文志に大體記されてゐる。藝文志の云ふところによると、――向・□からして既に儒家中心の考へ方で、藝文志もその意を受けてゐるが――孔子が沒くなつて時がたつと、孔子の學問の中に、又幾多の派が出來た。これは單に韓非子の顯學篇などに云ふところの派のみならず、孔子の殘した經書について、幾通りかそれを傳へる家が分れたことを云つてゐる。かかることのある間に、秦が天下を併せて、書籍を燒くといふことが起り、そこで漢になつて大いに書籍を集めたが、武帝の時代までに色々集まつた書籍には、缺本が多かつた。その爲めに、書籍を集めるための官を設けたことが書いてあるが、これは劉□の説によると、その集める場所は、宮廷の内と外とに分れ、外の方には太常・太史・博士、内の方には廷閣・廣内・祕室に藏書の場所を設けた。そして諸方より書籍を獻納する路を開き、獻じたものには賞を與へることになつてゐた。又書籍を寫す官を置いて本を集めたので、色々の本が多數に集まつたが、成帝の時までに、それらの本が又散亡する傾きがあつたので、更に集めることになり、陳農に命じて天下に書を求めしめた。この時、劉向が書籍の校正係りを命ぜられた。向は經傳・諸子・詩賦に關するものを校正したが、その他の專門學に屬するものは、歩兵校尉任宏が兵書を校正し、太史令尹咸が數術を、侍醫李柱國が方技を校正することになり、さうして一書の校正の終る毎に、劉向がそれに篇目を分ち附け、その本の趣意の大要を撮り、そのことを別に書き、それを天子に上つた。それが劉向の別録である。
 この別録が今日殘つて居れば、大いに有益であらうが、不幸にして早く散佚した。今日では、この別録の一部分ともいふべきものは、戰國策・晏子春秋・列子などの書に附いてゐる。その校正の仕方は、必ずしも劉向一人の力によつたのではないやうである。諸所にある本を集めて校正した。第一は内府にある本、即ち中祕の本、これに劉向自身の本、他人所有の本などの多數の本を集めて一一校正した。戰國策に附いてゐる別録の文を見ると、どういふ風に校正したかが分る。即ち文字の異同を校正したことが見える。又晏子春秋の別録を見ると、向が當時校正をするに際し、從來の書で編輯の工合の亂雜になつてゐるものは、彼の考で一一新たに正して分類したことを書き、その分類の仕方を擧げてゐる。さうしてその校正が終ると、皆「殺青す、書繕寫すべし」と書いてある。殺青すといふのは、即ち竹簡に書くことである。昔の説では、殺青とは竹を書物になるやうに簡にして書くことであるが、新しい竹には油があり蟲がつき易いので、火の上で炙つて乾かして油を去り、それを削つて書くことであるといはれる。繕寫すべしといふのは、當時新たに行はれて來た素に上せること、即ち白い絹に書くことであると云はれる。
 ともかく、藝文志を見ると、當時五百九十六家の書があり、一萬三千二百六十九卷といふ卷數であるが、之を劉向が總裁して、これに一一精密なる校正録と解題とを作つて上つたのである。ただこの劉向の時に、之を總論するものが既に出來たかどうかは分らない。一一の本については、その著述の由來、その趣意、その長所短所を詳しく論じてあるが、それらの總論として全體に渉つて論じたものが出來たかどうか分らない。その中に向は死に、子の□が天子より命ぜられ、相續して行ふこととなつた。

       劉向の別録の佚文とその體裁

 劉向の別録の中で、今日まで幾らか滿足に殘つてゐるのは、戰國策・管子・晏子・荀子・韓非子・列子・□析子のものであるが、この中で確かなのは初めの四つである。これらの四つのものは、皆體裁が同じで、初めに先づ、如何なる本を集めて校正し、定本を作つたかといふことを書き、定本を作つた以上は幾らでも寫本が作れるといふことを書き、それからその人の傳記の如きものを明かにし、その學問の系統を記し、その得失長短を論じてゐる。初の四つは皆同じやうに出來てゐる故、別録の體裁として間違ひないものである。韓非子のは、その體裁が揃はず、本を校正した記事が缺け、最後の學問の系統を論じた處も缺けて、傳記のみであるので、確かに劉向の作つたものかどうか疑はしい。列子といふ書には色々疑問があつて、今日傳はるものは六朝頃の僞作でないかと云はれてゐる。もしさうだとすると、その書の最初にある劉向の別録ともいふべきものも確かとは云はれないが、大體別録の體を具へてゐる。□析子のも體裁は具へてゐるが、劉向のものとも劉□のものとも云はれ、確かでない。その他、全く僞作と思はれるものは、關尹子と子華子との二つで、これは全く後世の人の僞作と決められてゐるから、先づ採らぬ方が安全であらう。
 劉向は、かく他人の作つた本に解題を書いたばかりでなく、自分の作なる説苑の初めに、その著作の大要を述べてゐる。その他、別録の文が斷片的に殘つてゐるのは澤山あつて、嚴可均の全上古三代秦漢六朝文の中の全漢文の處に、劉向のすべての文を集め、斷片的の文句も皆載せてある。

       劉向の目録學

 劉向の學問の仕方、殊に目録學のそれについては、孫徳謙の「劉向校讐學纂微」に大體論じてゐる。今、この孫氏の書の項目により、自分の意見をも加へて説明することとする。孫氏は第一の箇條として、
(一)備衆本 といふことを擧げてゐる。本を校正するには、色々の本を集めなければならぬ。劉向が多くの本を集めたことは、別録に皆書かれてゐる。その「中書」とか「中祕書」といふのは天子の手許の本である。その他には、自分の持つてゐる本をも擧げてゐる。即ち「臣向が書」とあるもので、その他の本は誰某の書と名前を書いてその本を擧げてゐる。時として「太史書」とあるのは、太史公司馬遷などが見た本であるらしいので、太史の官に備へてあつた本である。漢の時、朝廷へ奉る本は、必ず副本を太史の所に入れたのである。これらを總稱して「中外書」と云つてゐる。これらの本を校正した工合を見ると、劉向の見る以前までは、管子なら管子にしても、篇數の多いのもあり、少いのもあり、色々であつたが、向は之を寄せ集めて、重複したものを除き、重複しないものを殘して、一つの定本を作つたことが分る。
(二)訂脱誤 これは今日の漢書藝文志などにも明かに見えてゐるところで、藝文志には、劉向が尚書を校正したとき、本によつては脱文があり、又文字の異つたものが多かつたが、それを校正するのに、最も主もなる善い本として、中古文(天子の手許の本で、當時行はれた隸書でなく、篆書以前の文字を以て書いた本)に據つたことが書いてある。この脱誤を訂したことに就ては、劉向自身の書いた文、即ち戰國策を校正した時の序録にも、本字が多くは誤脱して、往々字が半分になつてゐることがある、趙が肖になり、齊が立になつてゐるといふことを書いてゐる。しかしこれは今日より見れば、必ずしも脱誤とは云へぬこともある。何故なれば、戰國頃には、文字を簡單に書くことが行はれ、趙を肖と書くことなどはよく行はれた。今日殘つてゐる古※[#「金+木」、377-2](印)を見ると、趙は皆肖となつて居り、つまり通用の俗字であつたのであらう。しかし劉向の頃より、俗字を正しい古文の文字に復さうとする學問的傾向があつたらしく、彼は一一これを直したのである。ともかく戰國策にかういふことが斷わつてある爲めに、古※[#「金+木」、377-4]の中にある肖の字が趙と同じ字であることを知り得る。
 この校正といふことは、非常に古くより起り、劉向以前から既にかういふことは起つてゐたと思はれる。孔子家語――劉向以後の僞作と云はれ、確かな本とは云はれないが――の中に、孔子の弟子の子夏が、歴史を讀んでゐるものが「晉師伐秦三豕渡河」といふ文句を讀んでゐるのを聞き、三豕は己亥の誤りであると注意したといふことが書いてあるが、その眞僞はともかくとして、支那人は古くから校正に意を用ひたらしい。公羊傳の中にも、やはり文字の誤りがあるのを、孔子が直接に見た事により今の本の誤りを正したといふことがある。劉向に至つて、校正を大仕掛にやり、色々の本の誤りを正した。校正のことを校讐といふことも、別録に見え、向が始めて云つたのであると云はれる。一人が本を讀み、一人がそれに對し別の本を持ち、引合せてゐる形が、怨のあるものが對立せる如くである故であるとせられてゐる。
(三)刪復重 これは別録に「復重若干篇を除く」とあるのを指す。最初に手當り次第に本を集めたので、これを引合せて見ると、同じ本の異つた種類で重複した部分が出る。それを刪除して一つに定める。但だ向は之について注意を拂ひ、重複したものも、たとへ大意は同じでも、文辭の異つたものは、殘して一篇としたことを、晏子春秋の序録に記してゐる。
(四)條篇目 これは、元來集まつてゐた本は、必ずしも内容の篇目があつたのではなく、篇目のない本も多かつた。これにともかく劉向が篇目を附けた。今日殘つてゐる本で殊に甚だしいのは禮記で、これなどは、非常に多くの篇が混雜してゐたのを、篇目を立て、禮記の外に出したものも、内に入れたものもあるのは、向が定めたのである。つまり從來の本は順序も混雜し、部類も混雜してゐたのを、順序を立て、篇目を附けたのである。勿論前から篇目のあるものもあり、管子の如きは、劉向以前よりあつたと見えて、史記の中にその篇目が擧げられてゐる。本の一定してゐなかつたのを一定し、整理したのが向の仕事である。
(五)定書名 書名も、もと一定しなかつたのを一定した。中でも甚だしいのは戰國策で、向の序録によれば、この書はもと或は國策といひ、或は國事といひ、短長といひ、事語といひ、長書といひ、修書といつたが、向は、これは戰國の時、游説者が自己の用ひられる國の爲めに策謀を立てたのであるから、戰國策とするがよいとして、ともかく名前を一定した。しかしその爲めに、本の名前の意味が變ることがある。戰國策の如きはそれで、これは前から國策といつたが、それは戰國の策謀の意味ではない。策は簡策の意で、國々のことを木簡か竹簡に書いたものといふ意味である。大體、國語があり、之に對して國策ができたと思はれる。國語は國々の物語で、我が語部式に、口傳で傳へられたのであらう。之に對して、國策は初めから文字に書かれて傳へられたので、かく名づけられたのであらう。それを劉向は策謀の意味に變へたのである。國策の策を簡策と解する説は、劉知幾の史通に見えるが、孫徳謙などは史通の説を誤りとしてゐるけれども、恐らくは誤りではあるまい。戰國策の名の中、長書・修書・短長とあるのは、書かれた物語が長いのを長書・修書といひ、又短いのもあるので短長といつたので、やはり本の體裁から云つたのであらうと思はれるから、史通の説が正しいやうである。かくの如く、ともかく定本を作る際に、名前をも變へたことがあるのである。
(六)謹編次 劉向が編次を謹んだことは、戰國策を編次した時のことを書いてゐるのでも分る。元來この書は國別けになつてゐて、時代の順序はなかつたのであらう。それを向が時代順に編成し變へたのである。又晏子の編成の仕方を見ると、その中、道理の正しいもので、晏子の書全體を通じて筋道の立つたものを集めて、これを内篇とし、その外、晏子の言ではなく、後人の傅會と思はれるが、ともかく晏子の中にあつたものを別の部類として一括してある。かく色々に部類分けをしたのも向の一つの仕事である。この部類分けは、又目録學に關係することで、向などは管子を道家に入れ、晏子を儒家に入れたが、――或は管子はもと法家に入れたといふ説がある――かく何家何家といふ風に分けることは、つまり目録を分類する人の見識であり、目録の學としては、之を最も重しとする。今日ある本でも、どうかすると編次の誤まつてゐるらしいものがある。例へば韓非子であるが、韓非子は韓の國の公子で、韓を立てる考のあつたことは明かであり、韓非子の中に存韓篇があるが、今日の韓非子の最初にある初見秦篇には、秦に勸めて韓を滅ぼさせる意を書いてある。かかることは有り得べからざることである。第一、初見秦篇には、彼の死後のことまであつて怪しいところがある。戰國策では、秦に韓を滅ぼさせようとしたのは張儀の語とされてゐる。これが誤つて韓非子に入つたのであるが、これは果して劉向が知つてしたのか、それとも後人がしたのかは分らないが、ともかく今日殘つてゐる本には、なほ編次の誤まつてゐるものもある。
(七)析内外 内外とは、莊子に内篇外篇あり、晏子に内外篇あるが如きである。或人はこの内外を劉向の謂ふ所の中外書と同じく、天子の手許の本と、それ以外の本とのことであらうと云つてゐるが、これは必ずしもさうとは云はれぬ。やはり本の中の意味によつて内篇外篇に分つたものらしい。晏子の内外篇の如きは明かにこの意である。
(八)待刊改 向の序録を見ると、前述のやうに、多くは「定以殺青、書可繕寫」の語がある。初めに定本を竹で作り、それが出來た上で、これを素(白い絹)に書くのが繕寫である。竹であれば誤つても削つて書き直しが出來るが、絹ではそれができぬからであると云はれる。向は色々の本を校正した經驗から、異本の出るごとに誤りを直さねばならぬといふので、初めは竹簡に書き、刊改を待つことにしたのである。
(九)分部類 これは前述の編次を謹むことと關係があり、主に部類分けのことについて云つてゐる。但だ今日の漢書藝文志には、明かに部類を分けてあり、即ち全體を六略に分ち、六藝略・諸子略・詩賦略・兵書略・數術略・方技略としてあるが、孫徳謙は、これは向が分けたか□が分けたか分らぬけれども、□は向の業を繼いだのであるから、向以來の分け方であらうと云つてゐるが、これは漢書藝文志によれば、初めから分れたことが明かである。即ち成帝の時、書籍を集め、校正を命ぜられると、向は經傳(六藝)・諸子・詩賦を受け持ち、任宏は兵書、尹咸は數術、李柱國は方技を受け持つたとあつて、大體の方針は、向の着手の時に定められたのであるから、この部類分けは向に始まることは明かである。今日の漢書藝文志を見ると、六略の中にも色々の部類を設け、之によつて書籍の部類分けをしてゐる。この項は目録學に於て重要な部分である。
(十)辨異同 これは前の「訂脱誤」と關係があり、單に字句の脱誤のみならず、著述の趣意の異同にまで推し擴げたもので、「訂脱誤」はこの中に含めてもよい。これは前述のやうに、戰國時分から、諸子の間に於て、自分の學術と他の學術とを區別するために行はれたのを、向が全體として纏め、書籍の部類分けを定めるまでに作り上げたのである。
(十一)通學術 これは「辨異同」と關係があり、著述をした人の學問の、如何なる筋道、如何なる系統を引いてゐるかの研究をするのである。同じく儒家の中で、孟子と荀子とは相違があつても、儒家たる點では共通する。道家にもさまざまの人があるが、道家たる點で共通する。これを學術を通ずと云つたのである。從つて異同を辨じ、部類を分つことと關係する。
(十二)敍源流 今日の漢書藝文志を見ると、源流を敍することは最も大切なことになつて居り、何々の學は何々から出たといふことを一一論じてあるが、ただ今日の藝文志は、果して劉向の手から出たままであるかどうか、はつきり分らない。今日僅かに殘つてゐる別録によれば、源流をはつきり區別したかどうか分らぬが、しかしこれは、向・□の前からもこの傾向はあり、莊子の天下篇などには、源流をいくらか書いてゐる。向の時にもすでにかかる考はあり得るので、今日の藝文志にある源流も、向より出たことと想像するのである。
(十三)究得失 荀子の非十二子、太史公の六家要指の如く、學術の得失を擧げて論ずるもので、別録の中にも見えてゐるから、向自身が之を行つたことは確かである。
(十四)撮指意 大意の摘要を作ることである。これも今日殘存せる別録の殘篇に屡□見えてゐる。
(十五)撰序録 向の別録は即ちこれである。別録の録とは、その本の解題にも批評にもなるもので、即ち序録のことである。これは一つの本に一つづつ附けたのであるが、それを纏めて一つの本にしたのが別録である。他人の作つた本に解題批評を書くことは向に始まる。自らの本に序録を書くことは、これ以前にもある。莊子の天下篇、呂氏春秋の序意、淮南子の要略、史記の太史公自序などがさうである。これらは自己の本又は自己の學派の本を纏めた時に作つたものであるが、向は他人の書を整理する時に作つたのである。これは他人の本に序文を書く起源になつた。
(十六)辨疑似 今日の漢書藝文志に、何の書は誰某の作る所に似たり、といふのがある。この「似たり」といふことは、皆向が書いたのかどうか分らぬが、他の本、例へば禮記の中の雜記の正義に、別録を引いて、「王度記似齊宣王時淳于□等所説也」とあり、又漢書藝文志の神農二十篇の處の顏師古の注に、別録を引いて「疑李□及商君所説」とあり、これはまだ向の別録の亡びない當時に見た人の云ふところであるが、之より推せば、今日の藝文志の「似たり」といふのも、向の説をそのまま取つたのであらう。これは藝文志の中に色々あり、本の名が古くても、書いた時代は新らしいことを考へたのである。神農といふ古い名があつても、戰國の時の説を書いたものと考へ、黄帝何々といふ書を六國の時のものと斷じたのもこれである。これらは批評判斷で、向の目録學に評論の意を含んでゐることが明かである。
(十七)準經義 向の序録を見ると、例へば戰國策の評論などに、戰國の時の人が、色々その國の爲め策略をするに、道に外れたといふことを云つてゐる。その道は、孔子の經書の義理をもととして論じてゐるのである。
(十八)徴史傳 現在殘つてゐる管子・晏子・荀子の序録を見ると、各□その人の傳をあげ、著述になるまでの由來を述べてゐる。これが徴史傳の意である。
(十九)闢舊説 傳記などに就て、昔の説の謬れるを訂正したのである。□析子の序録に、その傳説の謬れることを辯駁してゐる。
(二十)増佚文 今日の晏子春秋などに、從來その書に無かつた筈のことが入つてゐるのは、向が色々の本を比較校正した時に増したのであらうといふ。
(二十一)攷師承 道統傳授の次第を考へたものである。荀子の序録の中に、荀子から學問を受けた人々のことを書き、如何にしてその學問が傳はつたかを書いてゐる。その他の本でも、その人の學問の筋道の如何樣に後世に傳はつたかを書いた。これは向の學問が源流を敍づる學であるため、自然ここに注意し、これが別録にあらはれたのである。
(二十二)紀圖卷 從來、宋の鄭樵などは、目録を作るに圖譜の大切なることを論じ、向が目録を作るとき、圖を取り入れなかつたのは缺點であると云つたが、これは必ずしもさうでなく、圖のあるものは圖をも合せて録したに相違ない。殊に向の自著なる列女傳は、圖を書き、その讚の如くにして本を作つたのであるから、他の書を調べる際にも、圖を除く筈はない、と孫徳謙は云つてゐる。
(二十三)存別義 これは本の名前が色々あつたりした時、その別の名前をも併せて擧げる。又同じ事柄につき、異つた話が傳はつて居れば、之をも併せて擧げることである。
 孫徳謙は以上の項目を擧げてゐるが、これは勿論もつと簡單に總括することもできる。この中には、劉向以前に始まつたこともあり、向以後に始まつたこともあり、これが悉く向の目録學にあるとは云へぬが、大體かやうに見ても大した違ひはない。この中で、どれが最も大事なことかと云へば、(九)分部類より(十六)辨疑似までが、最も目録學上の特殊なもので、殊に前からあつても、少くとも向に至つて始めて完成したものである。かくの如く、當時あつた學問を總括的に考へ、經書を中心には考へたが、その他の學問も皆古來系統があり、色々の學派が分れて著述のできたことを、即ち學問著述の成生を歴史的に考へたのが向の特色である。

       漢書藝文志に遺る二劉の學の究明

 劉向の仕事を□が相續したが、□の書いた解題は、向のものよりも殘つてゐない。今日殘つてゐるのは、ただ上山海經表だけである。大體に於て向の書き方に似てゐるが、この一篇で見ると、いくらか向よりも學問の仕方が雜駁になつてゐるやうに感ぜられる。ともかく、この二代の仕事は、二十餘年間繼續し、その中、大部分は向がしたので、□一人で關係したのは僅か一二年である。それ故、全體からは向の仕事と云つてよい。いよいよ完成したのは哀帝の建平年間で、今日の山海經にも、建平元年に校正した奧書きやうのものが、第十三篇の末に附けられてある。もしこの二代の仕事が、全部殘つて居れば大したものであるが、今日では、その極めて省略されたものが、漢書藝文志に殘つてゐるだけである。元來向の別録は二十卷あつたと云はれる。それを□が省略して七略としたのであるが、七略が一略一卷づつで七卷である。それが漢書藝文志になる時に、餘程節略せられた。しかし幸ひにこの藝文志があるために、殊に班固が之を漢書に取入れるとき、本の目録を増減したり、部類を移したりしたことについては、皆そのことを斷わつてあるので、ともかく七略としての大體は分る。班固の手を入れなかつた前の大體も分る。
 それ故、後の人は藝文志の研究をするのであるが、この藝文志の研究は、隨分古くから始まつて居り、唐の顏師古が漢書の注を書いたときに、すでに當時まだ存在してゐた別録並びに七略によつて、その簡略に過ぎた處をいくらか補つてあるので、之によつて又別録・七略より藝文志に移つて行つた樣子が分る。南宋時代に及んで、鄭樵は藝文志を基礎として所謂目録學、校讐學の大體の輪廓を立てて見た。從來目録を書く人は、皆暗に別録・七略以來の趣意を繼承してゐても、如何なる點が特に目録學として注意されたかを論じたものは無かつたが、鄭樵に至つて始めてその趣意を調べ出すことになつた。南宋の終りに、王應麟が藝文志の研究を始めたが、ただこれは、全體の趣意について論ずるのではなく、藝文志に載せられてゐて、今日なくなつた本について研究をしたのである。とにかく、この頃より以後、藝文志の研究が盛になり、清朝に入つて、章學誠は校讐通義を作つて、詳しい研究評論をするに至つた。今日の支那に於けるこの方面の學者は、皆章學誠の系統を引いてゐる。孫徳謙は漢書藝文志擧例を作り、藝文志の作り方につき、その例を擧げて、特別に注意された點を明かにしてゐる。

       二劉(漢書藝文志)の分類法、著述の史的分類

 大體、今日の藝文志、即ち別録・七略を經て來たこの本は、目録そのものが、單なる簿録ではなしに、それ自身が一つの著述の體をなしてゐる。前述の如く、大體はあらゆる書籍を六部に分類し、その六部の各□に更に細目即ち子目を作つた。
一、六藝略  易・書・詩・禮・樂・春秋・論語・孝經・小學・六藝總論二、諸子略  儒家・道家・陰陽家・法家・名家・墨家・縱横家・雜家・農家・小説家・諸子總論三、詩賦略  賦三・雜賦・歌詩・詩賦總論四、兵書略  兵權謀・兵形勢・陰陽・兵技巧・兵書總論五、數術略  天文・暦譜・五行・蓍龜・雜占・形法・數術總論六、方技略  醫經・經方・房中・神仙・方技總論この中、詩賦略の子目には總論がないが、その他の子目には各□總論が附せられてゐる。まづこの子目につき書名を擧げ、その一種類毎にそれを總括した文章があり、一略が終れば更に一略全體の總論がある。この時代としては、よほど本の分類の仕方もよく出來、却て後世、本を四部に分けたのより學問的でよい處がある。そしてその一つ一つの書目を擧げるについても、皆相當の意味がある。藝文志は七略を簡單にしたに相違ないが、その必要な目録の書法は、もとのままを守つたらしい。
 その中で注意すべきことは、全體の總論的なこととしては、書籍の歴史的な排列法、分類法の取られてゐることである。それは本の出來た時代の順に書くといふことではない。歴史的なりといふ意味は、大體、本の出來て來る由來から分類の仕方を考へたことである。經書を六藝その他に分けるのは勿論、最も骨を折つたのは、諸子略の儒家以下九流について書いたことである。勿論六藝でも、易は如何にして出來たか、書は昔如何なる種類のものがそれらに纏まつたかといふ風に由來を説いてゐるが、殊に九流では、九流が悉く昔の官師から出たことを説いてゐる。例へば、儒家は司徒の官に出づ、道家は史官に出づとあり、その外、陰陽家は羲和の官(天文の官)に出で、法家は理官(裁判官)に出で、名家は禮官(禮儀を司る。名と實とを合致せしむるを職とす)に出づといふやうに、すべて昔の官職に歸することを論じてゐる。かくの如く學問を歴史的に考へるのが二劉の學の特色である。その他の詩賦略以下も皆由來をたづねたが、殊に九流については、由來の外に長短得失を論じてゐる。その見方は、九流が皆官師から出たから、初めは皆社會組織の必要から出た職務であつたが、それが漸く一家の説を作り出した。そして或る時代には、九流百家が各□その長所を盛に鼓吹し、己れ一家の學さへあれば、他の學問はなくとも國家を治め得べしと考へたが、根本は皆六藝略に載せられた六家の支と流裔とであると考へ、その各□の一派のものが、その自己の説を誇張するにつけて、その説の偏つた處をむやみに大きくして行き、そこから弊害ができ、各家の主張するやうな九流の著述が出來たといふのである。もと國家の機關であつた時には衝突はなかつたが、各□極端に自説を張るに至つた爲め、各説相衝突するに至つたのであるとの考へである。これは勿論九流各家より云へば承服すべからざる議論であつて、二劉の説は、儒學、六藝を中心としてあらゆるものを歴史的に見るところからかくなつたのである。二劉の考へでは、儒學を中心にし、六藝を中心にするのは獨斷ではなく、すべての書籍を歴史的に見るところから來てゐる。即ちもろもろの書籍の中で、六藝の書のみは、古のものをそのまま傳へてゐるので、歴史的に考へて誤りなく、手を入れずに傳へられてゐるが、九流の書は、各□の説を主張する爲めに、その材料を誇張變形して傳へてゐる。但し六藝の書に失はれたことも、九流の書に殘つてゐるものがあるから、この點を取れば役に立つといふ意見である。大體諸子略だけは六略中特別なもので、その他はすべて昔のものがそのまま傳へられたものである。

       二劉の學と司馬遷の史學

 これは、ともかく、その當時までに支那に出來てゐた本を總括して考へたものであるが、この漢代までの支那の學問を總括して考へたものに、二通りの種類がある。一は司馬遷の史記で、一は二劉の學である。司馬遷の史記も、當時までのあらゆる本を總括して考へてゐるが、その考へ方は、司馬遷の場合は、例へば九流諸子の書、六藝の書に據つて書いても、その各□の職務、各□の流儀の學で持ち傳へてゐる事柄は史記には書かず、その傳來して來た書籍を調べるについて、歴史・傳記の必要があるので、その部分を書いた。單に本の由來を知るためのみではなく、あらゆる學問の中で、最も總括的な最大の學問は史學であつて、史學は世の中を經綸する學問であり、史學が古來から漢代までの學問の關係を知る學問であるとし、この根本の古今一貫した學問を知れば、當時世に殘つてゐる書籍はそれによつて總括せられ、色々の本はあつても、その全體に關係があり、世の中の經綸に役立つといふ考へで史記を書いたのである。
 二劉はこれと異り、司馬遷が史記に載せないで、そのままにして世間に殘しておいたその方を全體に總括したのである。これは一書毎に解題を作り、その由來・主張・得失を一一の本について書き、之を子目ごとに一纏めにし、更にそれを一纏めにして六略の各部類とし、全體を六略とし、その六略の上に輯略を作つて全體を總論した。即ち各□の本の部分的方面より見て行き、最後に總括されたところで、人間の思想・技術が古來如何に動いたかを見たのである。即ち司馬遷の殘した部分的のものを一つに纏めた。當時の學としては、司馬遷の如く歴史の中心から總括したものと、二劉の如く各部分より總括したものと、この兩方より見て全體の學問が分るのである。
 かくて司馬遷と二劉との考へは大分異る點がある。司馬遷は史記の一家の學を以て全體の本を總括せんとしたから、自ら春秋の意を取り、之に繼いで作ると考へてゐるが、六藝全體は殆ど之を總括して、六藝の正統の書として史記を作つたと考へてゐる。二劉より見れば、史記は春秋に繼いで作つた本で、六藝略に入るべき一書に過ぎぬ。司馬遷から云へば、二劉のしたことは枝葉のこととなり、二劉よりすれば、枝葉の全體を總括するのが學問であり、史記もその一部分といふことになる。司馬遷は史記を作つて學問を總括したと考へ、史學を學問全體の總論と考へたが、それより百年もたつた後の二劉は、史學の獨立を認めず、六略にも史學はない。これは當時史書の數が至つて少かつた爲めもあらうが、根本は見方の相違である。司馬遷が史學を創立したのは、過去の事實を總括したのみではなく、將來の學問を暗示したものであるが、二劉は過去の學問を總括することを以て學問とした。しかしともかく、この二書は、漢代の最大の學術的收穫で、これだけで支那の學術は盡きてゐると云つてもよい。その後、書籍も色々出來、分類法も色々變つたが、全體に於てこの二大學問の流れに過ぎぬ。その後、史學即ち司馬遷の始めたことは大發展をし、書籍の分類の一大部分を占めることになつた。又あらゆる支那の學問に、司馬遷の考へたやうに、春秋の法を以て事實を記録する精神を與へた。一方書籍の分け方は、二劉の後も、彼等の最初考へた六略の趣旨を出ない。ただ史學が厖大に食み出しただけである。又あらゆる著述・分類に對し、支那人が歴史的意味を以て考へることも少しも變らない。ただ二劉ほどの頭の人が出なかつたので、二人よりも拙いものを作つただけである。

       七略の史的書法

 この七略――今日の藝文志を見ると、歴史的に或る著述を考へることは、極めて部分的な一一の本の目録の上にも考へられてゐて、大體に於て、書名の下に附いてゐる注釋なども歴史的に出來てゐる。著者は誰某の弟子で、誰某の家の學であるかといふことがよく注意されてゐる。又大體に於て時代精神といふやうなことも考へられてゐる。即ち書名は古くとも、六國の時に出來たものは、六國の時の作と斷じ、著者の傳が明かでないものは、誰某と時を同じくすると云ひ、大體、時代により思想に精神のあること、家學の繼續により流派の生ずることを、縱横に注意して、目録の下に皆注をしてゐる。その極めて疑はしいものは疑を存しておき、人の名を借りて出した本は依託といふことを明言し、いよいよ作者も時代も分らぬものは、作者を知らず、時代を知らずと書いてある。又目録の書き方として、一人の著者の本が一つに纏まつてゐても、一方は兵書、一方は諸子に入るべきものあるときは兩方に書いた。これによつても六略は單に書籍の簿録でなく、著述の源流を論ずるものであることが分る。かかることは、單に書名を簿録するやうな簡單な意味ではできることではなく、あらゆる本を皆讀み、學問の組織系統の全體を知つた人でなければできないことである。目録學が著述の總論たるはこの點にある。この點は二劉が目録を作るのに極めて進んだ例を示したので、この後、彼等ほどの知識もなく頭もない人が作つても、この手本があるので、比較的によく出來、精神の貫通した目録が出來てゐる。これは二劉の支那の學問上に於ける大なる功績である。

       七略と漢書藝文志との異同

 漢書藝文志を讀むのに、細かい點で注意すべきことは、七略との關係である。班固はこれについて、出・入・省・加・續といふことを考へた。入とは二劉の時に無かつたものを班固の時に加へたものである。又時には分類法の意見の相違によつて直した例があり、これには一方には出、一方には入として編入替へをするのである。これらによつて七略と藝文志との相違の點がよく分る。又省は七略にあつたものを省いたものであるが、省いても、もとあつた本の名前を殘したので、全然抹殺したのではない。加は或る一書が前に出來上つてゐたのに後人が附加したもの、續は二劉から班固までの間に後人が書きついだものである。かかることについては、孫徳謙などの特殊な研究家が出來て、七略と藝文志との異同を明かにするに至つた。もつとも、これらの研究により、藝文志・七略・別録に關するあらゆる疑問が解けた譯ではない。孫徳謙が漢書藝文志擧例を書いたとき、王國維がその跋文を書き、まだ解決の出來ない問題を數條擧げてゐる。その中には、今日解決の出來るものもあるが、この研究は將來も行ふ必要あるもので、支那古代の學問の總括された状態を見るに最も肝要なものであり、支那の學問の續く限りはいつまでも必要である。

       六朝に於ける四部分類法

 劉□が七略を作り、漢書藝文志が之に據つてから、書籍を七部に分類することは、六朝の中頃、梁の頃まで繼續した。もつとも梁頃までの間に、同じく七部でも、その内容は段々變化して行つた。さうしてその間に支那後世の書籍の分け方即ち四部に分ける方法が現はれて來てゐる。この四部に分けることは、三國の魏の時より始まり、魏より梁までは、四部と七部の分類法は、色々混雜してまだ一定しない時代であつた。隋書經籍志に至つて始めて四部の分け方に一定して、その後は支那の目録はすべて四部の分け方になつた。
 この四部分類法の擡頭したのは魏の時代と推測されるのであるが、隋書經籍志によれば、それは魏の祕書郎鄭默に始まつてゐるらしい。實は鄭默が果して四部に分けたかどうかは判然しないのであるが、彼の作つた書籍目録に中經といふのがあり、晉の荀□が之に對して中經新簿を作り、これは四部に分けたとあるから、中經も四部に分けられてゐたのであらうと推測するだけである。但しこの頃の四部は、隋書經籍志以後のものに比べて差違がある。中經新簿は、甲乙丙丁に分けてはゐるが、その内容は
甲部 六藝及小學等書乙部 古諸子家・近世子家・兵書・兵家・術數丙部 史記・舊事・皇覽簿・雜事丁部 詩賦[#「詩賦」は底本では「詩譜」]・圖讚・汲冢書といふ分け方である。これで見ると、甲部は藝文志の六藝略に當り、乙部では、古諸子は諸子略に當り、近世子家は漢以後晉までに著述されたものであり、兵書と兵家とに分けたのは、兵書は兵家の如く一家言をなしたものでなくして、普通の軍事に關したものを云ひ、術數は藝文志の數術であるが、恐らく方技を含むのであらう。丙部の史記は一般の歴史の書籍、舊事は歴史に類するが主として故事を集めたもの(掌故)、皇覽簿・雜事は後世の類書に當る。この四部では、乙が諸子部、丙が史部であるが、後世の四部では、乙が史部、丙が子部となつた。なほ後世では類書は子部に入つた。丁部では、詩賦は藝文志の詩賦略に當るが、その外色々のものを寄せ集めた。汲冢書は、荀□が目録を作る頃に始めて發見されたもので、荀□は目録を作る時に、汲冢の竹書――汲郡の塚から竹書紀年・穆天子傳などの書が出た。但し今日のものはもとの形ではない――を特別に丁部の末に附載したものの如くである。荀□は當時の物識りであつた張華とともに、この目録の整理をしたが、大體は劉向の別録により、錯亂せるを整理し、汲冢書を加へて作つたといふ。このことは文選の中の王文憲集序の李善注に見えてゐる。
 その後、四部の目録を採用したものに、梁の任□・殷鈞の二人で作つた四部目録があると云はれ、この時、書籍が文徳殿に集められたので、四部目録の外に文徳殿目録を作つたといふが、その四部の分け方は傳はらない。ただその術數の書だけは別に一部としたので、梁の目録は五部になつたと云はれるから、この四部は荀□の四部とは多少異つたものである。

       簿録に墮した四部分類法

 かく書籍を四部に分けることは、魏晉の間に始まつたが、これは恐らくその内容の意味から分類されたのではないであらう。大體荀□が中經を作つた時、「但録題及言」又「至於作者之意、無所論辯」と云はれ、この目録はただ表題と内容の一部とを書いたもので、別録・七略の如く作者の意にまで立ち至つて論辯したのでないことが分る。それ故、この目録は、眞に書籍の出來る由來を考へて分類したのではなくして、單に置き場所の都合によつて四部に分けたものの如くである。このことは又次に述べる如き他の證據からも推測される。今日では、漢書藝文志より隋書經籍志までの間には、書籍の目録として詳細に書名を書きあげたものは殘つてゐないが、その間にあつて、目録學にとつて非常に大切なことを書いたものが一つある。それは梁の時の處士阮孝緒の七録である。その全文は今日散佚して殘つてゐないが、ただその序だけが佛教の文集なる廣弘明集の中に載つてゐる。今日では六朝の間の目録學の書としては、これがよほど大事なものである。これによると、四部の目録がすでに荀□の時より出來てゐるが、それは重要なものとは認められずに、やはり書籍の分類法としては、七部の分け方が採用されてゐるので、この時分の四部目録は、單に所謂簿録の上の分け方であつて、二劉の如く、目録學として成立した分類法でないことが知られる。
 ともかくこの七録の序は、目録學の歴史を知る上には大切なもので、隋書經籍志で不明なことも、これで分ることがある。四部の目録の中、乙と丙とを取り換へ、乙を歴史部、丙を諸子部にしたことが、晉の李充より始まることも七録の序に見える。この李充の目録は、勿論四部に分けることは荀□によつたが、乙丙を取り換へ、又漢書藝文志の如く、その部類に對して名前を附けることもこの時にやめ、單に甲乙丙丁で區分をした。つまりこの時分は、漸く目録の學問が衰へ、單に簿録を主として、内容を評論することはなくなつてゐたらしい。

       七部分類法の復興――王儉の七志

 内容を評論し、内容によつて書籍を分類する目録學の復興する傾きのある時は、常に七部の分類法に歸るのである。阮孝緒以前に、宋に王儉があり、目録を作つて七志と云つた。これは、前の荀□・李充の四部の目録によつたものに、宋初の有名な文人謝靈運の作つた四部目録があつたが、この時これを改正し、又大體に於て別録七略時代の内容的の分類法に復歸せんとしたものである。この七志の分け方は、
一、經典志 六藝・小學・史記・雜傳を紀す二、諸子志 古今諸子を紀す三、文翰志 詩賦を紀す四、軍事志 兵書を紀す五、陰陽志 陰陽圖緯を紀す(隋書經籍志には陰陽圖緯としてゐるが、阮孝緒の七録序の説では數術に當るとしてゐる。)六、術藝志 方技を紀す七、圖譜志 地域及び圖書を紀すとなつてゐるが、この外、七略にも藝文志にも中經簿にもない本、並びに方外の經、即ち大體佛教・道教の本は、七志以外として附録した。これは七志の數に入らぬが、新部類である。故に王儉の七志は實は九部類に分れると隋書經籍志に云つてゐる。この七志の分け方は大體、別録七略の分け方に復舊したので、四部の分け方を慊らずとしたのである。經典志の中に、史記などの歴史部のあるのがその著しい證據である。ただ地理・地圖に關係したものを新たに作つたのは、一體六朝時代には地志の類が多く出來た。別録七略時代には、地志はまだ一つの部類とならず、山海經の如きは、數術中の形法家に入れられ、即ち土地の吉凶を觀る、支那に今日ある風水・相墓・相宅の部に入れられたのである。然るにこの以後、地志の書が多くなつたので圖譜志の一類を創めたのである。漢書藝文志までは、七略といつても實は部としては六略で、あとの一つは總論であるが、王儉の七志では皆部類となつた。大體に於て別録七略への復舊であるが、その間、新しく出來た本のために新たな部類を作ることの已むを得ぬことが、この時に現はれた。又古にはなかつた佛教・道教の本も、七志の外として新たに部類を作らねばならなかつた。この時の目録は大部なものであつたと思はれ、七志の卷數は四十卷あつたといふ。

       阮孝緒の七録

 この分類は、梁の阮孝緒が七録を作る時に至つて又變化した。阮孝緒は、その分類の方法、考へ方を詳しく述べてゐる。七録の分け方は、全體の本を内篇と外篇とに分け、一より五までが内篇、六七が外篇である。これは佛教の方で佛教の本を内典とし、儒教の本を外典とするのと正反對で、支那在來の本を内篇とし、佛教・道教の本を外篇とした。七録の分け方は左の如くである。
經典録内篇第一 易部・尚書部・詩部・禮部・樂部・春秋部・論語部・孝經部・小學部記傳録内篇第二 國史部・注暦部・舊事部・職官部・儀典部・法制部・僞史部・雜傳部・鬼神部・土地部・譜状部・簿録部子兵録内篇[#「子兵録内篇」は底本では「子兵録内典」]第三 儒部・道部・陰陽部・法部・名部・墨部・縱横部・雜部・農家部・小説部・兵家部文集録内篇第四 楚辭部・別集部・總集部・雜文部術技録内篇第五 天文部・讖緯部・暦算部・五行部・卜筮部・雜占部・刑法部・醫經部・經方部・雜藝部佛法録外篇第一 戒律部・禪定部・智慧部・疑似部・論記部仙道録外篇第二 經戒部・服餌部・房中部・符圖部これについて阮孝緒は、
(一)經典録 經典と名づけることは、王儉の七志の從つたと云つてゐる。大體七録は、二劉と王儉とを參照して作つたが、王儉が□の七略の六藝といふ名稱では經目を標榜するに足りぬとして經典としたのは都合がよいから之に從ふと云つてゐる。
(二)記傳録 但し□も儉も史書を春秋に附してゐるが、□の時代は史書が少なかつたから春秋に附したのは良い例であるけれども、今は衆家の記傳は經典に倍するほどあり、しかも猶ほ王儉に從つてこれらを經典に入れては、多過ぎて蕪雜になるとて、經典より史傳に關するものを拔いた。さうして、かかることをしても差支ない例として、七略の詩賦は別に一部類をなして、六藝の詩部に入つてゐないが、これは當時詩賦の數が多かつたので一部類を立てたのであるから、その例によつて、多くの史書を經典部より分つて記傳録とした。
(三)子兵録 諸子部は□も儉も同じく諸子と稱した。然るに□には別に兵書略がある。これを王儉は、兵の字が淺薄で、軍の字の方が意味が深廣であるとして、改めて軍書志とした。然るにこれは王儉の考へが必ずしもよくはなく、古より兵の字の用ひ方廣く、武事の總名となつてゐるから、やはり軍と云はず兵といふ方がよい。しかし兵書は數が少い。一部門を立てることは不都合であるから、これを諸子と合併して子兵録とする。
(四)文集録 王儉は□が詩賦略と云つたのを、詩賦だけでは言葉がせますぎて他の種類を兼ねられぬとて分翰と改めたが、文を作れるものはすべて之を集にする。よつて翰を改めて集とするがよいとて文集録とした。
(五)術技録 王儉は□の數術といふ名稱は繁雜であるとして陰陽と改め、方技の語は昔の本に典據がないからとて改めて術藝とした。しかし阮孝緒は、陰陽は數術の包括的なるに及ばず、術藝は六藝と數術とにまぎらはしいから、やはり方技の方がよいとした。但だ七録では道教を別に立てたので、方技の中より房中・神仙を除いてその方に入れた。そこで方技は書數が少くなるので、方技と數術とを合併して術技録としたのである。
 王儉の圖譜志は□の七略にはない。七略に暦譜があるが、王儉の圖譜とは別物である。大體は圖譜は圖畫に關係するが、圖畫は何れも獨立したものではなく、書籍に附屬したものであるから、元來書籍の中に附した方がよい。又圖譜の中には繪ときのやうな注記のあるものがあるが、これは記傳録の末に附した。以上を内篇とする。
(六)佛法録 佛教が支那に入つてから、孔子の派と殆ど同じだけの本が出來た。王儉はこれを載せても、七志の外に出したが、落着きが惡いので、之を一部として外篇第一とする。
(七)仙道録 これは古くからあるが、□は神仙を方技の末に入れ、王儉は道經を七志の外に置いた。今、仙と道とを合して外篇第二とする。王儉の目録では、道を先にし佛を後にしたが、今之を佛道の順序に換へたのは、教に深淺あるによると云つてゐる。
 七録は梁の普通四年に出來たが、これは王儉の七志と比較してゐるので、之によつて七志の趣旨の大體を窺ふことが出來る。七録には、その末に、文字集略三卷と序録一卷とが附いてゐる。これは阮孝緒自身の著述のやうであるが、果して初めから七録に附けたのかどうか分らない。その外の阮孝緒の著述と共に、廣弘明集では附載してあるが、これは廣弘明集の作者が加へたのかも知れぬ。これによると、七録は大體十一卷の著述である。

       七録と隋書經籍志との比較

 七録の目録の大きい分け方は前述の如くであるが、その子目を見ると、七録に分れてはゐるが、すでにその内容に於ては、次第に隋書經籍志の四部の分類に近くなつてゐることが分る。さうしてその或る部分は、著録された書の卷數まで殆ど同じい處があるから、今日七録の書籍一一の目録は殘らないが、或種のものは、その書籍も隋書經籍志と同じものを含むのではないかと思はれる。七録と隋書經籍志との子目の異同を比較して見ると、
(七録)經典録 易・尚書・詩・禮・樂・春秋・論語・孝經・小學(隋志)經部  周易・尚書・詩・禮・樂・春秋・孝經・論語・讖緯・小學大體は同じく、ただ隋の時に、讖緯を禁じて、これに關する書を燒いたので、七録では術技録にあつた讖緯を、隋志では經部に列して、僅かに殘つてゐた書籍を擧げた。
(七録)記傳録 國史・注暦・舊事・職官・儀典・法制・僞史・雜傳・鬼神・土地・譜状・簿録(隋志)史部  正史・古史・雜史・覇史・起居注・舊事・職官・儀注・刑法・雜傳・地理・譜系・簿録七録にあつて隋志にないのは鬼神であるが、如何なる種類のものであるかは分らない。隋志に新たに出來たのは古史・雜史の二つであるが、これはもと國史の中に入つてゐたのであらう。僞史が覇史となつてゐるなど、多少名目上の差はあるが、要するに内容は大體同じであつたことが認められる。
(七録)子兵録 儒・道・陰陽・法・名・墨・縱横・雜・小説・兵(同)術技録  天文・讖緯・暦※[#「竹かんむり/下」、398-1]・五行・卜筮・雜占・刑(形)法・醫經・經方・雜藝(隋志)子部  儒・道・法・名・墨・縱横・雜・農・小説・兵・天文・暦數・五行・醫方七録の陰陽家は隋志では五行に入つたのであらう。讖緯は前述の通りである。卜筮・雜占・形法も五行に合せた。醫經と經方とを分けるのは、漢書藝文志の分け方で、基礎醫學と醫術を分つたものであるが、之を合併して醫方としたのは學問の退歩である。陰陽のなくなつたのも、諸子の學の衰へたのを示す。且つ隋志では、かく子目は多いけれども、各部門に載せた本は極めて少い。
(七録)文集録 楚辭・別集・總集・雜文(隋志)集部  楚辭・別集・總集隋志では雜文は總集に合せた。これも七録の方が幾分精密である。
 佛法録は、戒律・禪定・智慧・疑似・論記とあるが、この分け方は、今日現存する佛書のどの目録とも合はない。隋志とも勿論合はない。隋志は大乘・小乘を分ち、經・律・論に分けてゐる。七録は戒・定・慧の三學から分け、内容的分類であつたが、後には便宜的の分類が盛になり、内容からの分類は起らなかつた。阮孝緒の頃は、僧祐が出三藏記を作つた頃であるが、これはもつと便宜的の目録で、殆ど學問上の意味をなさない。大體佛教の方の目録は、その後まですべて索引目録が主で、内容目録になつたことはない。佛教學者には目録の智識は發達しなかつた。この頃から佛教には僞物が多かつたと見え、疑似の部がある。又論記は後に生じたものを別にしたので、この區分法はよく出來てゐる。
 仙道録の子目は、經戒・服餌・房中・符圖であるが、これは隋志も殆ど同じで、ただ符圖が符録となつてゐるだけである。この中、服餌・房中・符圖の三部は隋志と卷數まで同じである。その間、全く道教の本が殖えなかつたのではないが、隋志の時、著録すべき本として取り上げられたものは、七録の時と同じであつたことが分る。

       六略より四部への過渡とその意義

 七録の中には、右の如く佛法・仙道が加はつてゐるのであるが、隋志では之を四部の外に出してゐる。故に七録でも之を除けば、實際は五録に過ぎぬのであつて、この五録は梁の時の官書の五部と一致してゐるのであらう。さうして五録と云つても、子兵と術技とを合すれば子部になるのであるから、その内容は殆ど四部に近い。七録は漢書藝文志の六略より隋志の四部に至る過渡に現はれたもので、これを兩者の間に挾んで見ると、その變遷の有樣がよく分る。七録は單に録の名と子目だけが殘つて、書籍名は一つも無いけれども、之によつて大體を知ることができる。
 この六略が四部となりつつあるのは、やはり支那の學問の變化によるのであつて、專門の學術は次第に衰退しつつあることを示してゐる。史部の書の増加することは、年數のたつとともに當然であるが、歴史としても、初め司馬遷が史記を作つた時のやうに、春秋の後を繼いで一家の言を立て、著述者の批判によつて作り上げる歴史は次第に衰へ、單に記録そのものの種類が増加することが分る。記録が自然に積み重なり、史部が大きくなり、經書から離れて獨立したのであつて、史學の學問の上からは退歩である。殊に著しいのは、術數の部の子目の數の減つて行くことで、これは專門の學術の退歩をよく表はしてゐる。もつともその中には、天文・暦算の如く進歩しつつあるものもあり、又專門の學とても雜占・卜筮の如く進歩しても役に立たないものもある。ともかくだんだん書籍の種類が減じ、文集の如きものが殖え、人が目的なしに書いたものが著述となる傾きがある。史部と文集との増加は、かかる書籍の増加を意味してゐる。

       抱朴子遐覽篇の道經目

 なほ仙道録に關聯して一言して置くことは、これより以前に、晉の葛洪の抱朴子の内篇に遐覽篇があり、それに晉頃までに出來た道經の目録が載せられてゐる。その何の本が七録でいふ四つの種類に當るか明かでないが、その中の諸符といふものが七録の符圖の部に當るものであることが分る。この符の類は、抱朴子にも卷數・種類が書いてあるから、計算すれば分るであらう。大體より見て、抱朴子の符録の種類は、七録・隋志よりも多いことは明かである。ともかく、七録とか隋志とかの仙道部の參考になるものとして知るべきである。

       隋書經籍志

 次は隋書經籍志である。これは正史に載つたものとしては漢書藝文志に次ぐものである。隋書の志類は、單に隋書の志でなく、志だけは五朝の志となつてゐる。その中でも、經籍志は又特別で、――大體は五朝は北朝のことを主に書いたが、――北朝は書籍については餘り注意すべきことがないので、梁の目録に重きを置き、それを隋書經籍志を作る當時の目録と引合せて書いてゐる。これは隋書についた經籍志であるが、書籍の現在は唐の時の現在である。その序を見ると、遠くは史記・漢書、近くは王儉・阮孝緒の七志・七録を見て參考して之を作つたと云つてゐる。隋書經籍志の序と七録の序とを見れば、劉□の七略以來の書籍の増減、その傳來、集散などの大體を知り得る。七録には既に七略から漢書藝文志、晉の中經、その他南朝の書籍増減の總數を書いてゐるが、隋志にも書籍集散の事情をよく書いてゐる。書籍の選擇についても、隋志はよく考へてあつて、舊來の目録に載つてゐるものでも、役に立たぬつまらぬものは之を削り、昔の目録に落ちてゐるものでも、役に立つものは之を入れたと云つてゐる。又各□の書籍の下に、梁の時に於けるその書の有無及び梁の時との卷數の異同を注してゐる。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:103 KB

担当:undef