支那歴史的思想の起源
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著者名:内藤湖南 

 近頃は私は田舍にばかり引つ込んで居りまして皆さんにお目に掛る機會が少いのでありますが、今度何か支那學會の大會でお話をしろといふことでございますので、段々老衰を致しまして、新しく何物かを調べてお話をするといふやうな大儀なことは叶ひませんから、何ぞ何も新しく調べんでもよいものが思ひ出せたらお引受けしませうと言つて居りました。その後、何かそんなものは無いかと思つて家(うち)の中を搜しました所が、今から十數年前、支那史學史を大學で講義して居つたことがありますので、その時に多分講義をしなかつた分だらうと思ひます、後(あと)からその筆記を訂正します時に、ちよつと紙二、三枚にそれだけ補ふ心算で書いて居つたものが見付かりました。もう大抵大學に居られる方もお若い方ばかりで年代が變つて居りますから、たとへ私がその時分にこの講義をして居りましても、それをもう御承知の方は無いことと思ひます。そんな古いものでありますから、一向新研究でも何でもありません。それで若しそれが講義せずにあつた分でありますれば、尚この際にちよつと其のお話をして置く方が私にとつても都合がよいと思ひますので、其の部分だけはつまり私の手許に講義の筆記も何もなく、只ちよつと要綱のやうな一つ書きが殘つて居るだけでありますから、横着なやうでありますが、ここで筆記して下さるといふ話でありますから尚都合がよいので、講義のし殘しをここで補充をする譯であります。若しひよつとして、さういふ風に要綱だけでも書いてありますから、何處かでお話をしてあるかも知れません、そのお話を聽いて居られる方がありましたらどうぞ勘辨願ひます。尤もお聽きになつても多分お忘れになつて居る頃と思ひます。
 それで「支那歴史的思想の起源」といふ、何だか如何にも近頃の演題としては、ひどく氣の利かない題目であります。近頃はかういふ風な幼稚な題目は流行りませんで、皆凝りに凝つた題目ばかり流行つて居つて、題目を見ると、何の内容があるのか分らんやうなのが流行りますけれども、至つて分り易い題目であります。
 實は私の支那史學史といふものは、抑□それを始めましたのは大正三年頃でありますから、今から十九年廿年前であります。それを訂正して二度繰返しました。それで二度目の時でありましても十數年前で、多分大正八・九年頃から二年か三年續けてやつて居ります。その後訂正は一通りはしてあります。大正十二年、私大病をした後に有馬に暫く居りました。その時に筆記の訂正だけは致しましたけれども、之を出版する程の訂正をするのは、もう少し暇がかかりますので、其の儘に打つちやらかして今日迄發表をしないのであります。
 さういふ譯で隨分研究とすれば、もう黴の生えて居る研究であります。その時に大體この支那の歴史の起源といふやうなものに就いて色々研究をして見ました。或はその中の研究で、私が先にやつたことを後に王國維氏がやつたのが、今日では王國維氏の創説のやうになつて居る部分なんぞありますが、ともかく一通り歴史の起源といふやうなことに就て、その時考へて見たのであります。その時講義しました歴史の起源は、多くは史料の起源、記録の起源といふやうなものに就てやりましたので、餘り歴史的思想の方の起源はやつて居らなかつたやうに思ひまして、それでその部分が缺けて居ると思ひまして、後(あと)でその要領だけを補つてその筆記の中へ挾んで居つたと思ひます。大分老衰の加減で記憶が惡くなつておりますから、間違つて居るかも知れません。
 實は起源と申しましても、起源といふ方がよいのか、或はその歴史的思想が段々發達して居る徑路に及んで居るのでありますから、歴史的思想の發達と云ふ方がよいかも知れません。ともかくさういふ方のことに就て、色々の材料に就て考へました。
 第一は比較的正確な記録の中に見えてゐる歴史的思想であります。支那の古記録、例へば經書といふやうなものでも、絶對に正確といふことを申しますのは餘程困難であります。先づ比較的正確と言ふより外致し方ありません。それでつまり尚書などが最も比較的正確な記録であると思ひますが、その尚書の中に、又最も比較的正確な部分があると思ひます。それはどういふことかと申しますと、周の初め、周公を中心として書いたものが最も比較的正確であらうと思ふのであります。今日の尚書の中の、確かだと言はれる今文尚書の中で、殊に周公に關することが比較的正確であると思ひます。その理由まで申すとなか/\長くなりますから、今日はお預りして置きます。でその周公に關係したことと申しますといふと、例へば大誥・康誥・酒誥・召誥・洛誥、之を五誥と申しますが、その五誥であるとか、或はそれに續いてあります所の無逸・君□・多士・多方・立政、さういふ諸篇は皆周公に關係したものであります。それが先づ大體に於て尚書の中でも比較的正確なものだと思ひます。しかし之に就て更に細かに考へて見ますと、その中でも純粹な記録で保存されたものといふものはなかなか無いのでありまして、一部分は記録、一部分は傳誦で傳はつて居つたやうな形であります。その中でも、記録として遺つた部分の多からうと思ひますのは今の五誥の種類でありまして、それに比べますと無逸とか君□とかいふやうなものは多少物語として遺つたかのやうに考へられる部分が多いのであります。尤もそれにしても、即ちそれが多少物語になつて遺つて居つたとしても、その物語は、或る新らしい時代に簡册に書かれたものでなくして、相當古い時代に書かれたものでないかと考へられます。それらの周公に關係しましたものの中で、最後に出て居りますのは立政篇でありますが、その中に使つてある文字、――妙なことから私考へ付いて居りますのですが、その中に助字の「矣」の字を使つて居ります。助字の「矣」の字を使つて居る篇は、周公に關係した諸篇の中で立政一つである。さうしてそれが詩經などの例に依りますと、「矣」の字が段々多く使はれて來て居りますのは、大體西周の末頃から東周の初め頃に出來ました詩に多いやうに考へられますので(1)、この立政などは少くとも周公に關する説話が、東周の初め迄の間に書かれたものではないかと思ひます。さうしてそれが周公に關係した諸篇の最後に出て居りますから、それ以外のものは大體それ以前に書かれたかと、まあ想像するのでありますが、まだそれを極めてはつきりと申上げる程研究はして居りませんです。
 ともかくさういふ次第でありまして、先づその中で五誥といふやうなものは、傳來して居る支那の記録としては最も確かなものではないかと考へられます。もう一つこの中で召誥・洛誥が餘程古からうといふ證據としては、洛誥篇の組立てが餘程妙に出來て居りまして、一篇の最後に年月を書いて居ります。洛誥篇の最後に「惟周公誕保文武受命惟七年」と書いてありますが、その前に「在十有二月」と書いてあります。で、この召誥・洛誥といふ二篇は、これはその内容の意味は連續してゐる記事でありまして、これは殆ど同時に出來たといふことは内容からして疑ひのないものでありますが、その洛誥の末尾にかういふ紀年の書き方がしてあります。この紀年の書き方は、之を銅器の銘と比較して見ますと、銅器の銘の中でやはり最も古い書き方の所にこれがあるのであります。大盂鼎・小盂鼎といふ銅器がありまして、これは今日に遺つて居る銅器の中で、最も製作も立派なもので、さうしてその銘の内容も餘程淳古なものとなつて居るのでありますが、その銅器の紀年のし方は、大盂鼎の方にはやはり最後に年を書いて居りまして、さうして「隹(惟)王廿又三祀」とあります。それから小盂鼎の方は「隹王廿又五祀」とあります、これが最後にあります。その外私は當時之を調べました頃に※[#「てへん+(鹿/禾)」、読みは「くん」、454-15]古録金文などに當つて見たのでありますが、※[#「てへん+(鹿/禾)」、読みは「くん」、454-15]古録金文に出て居ります銅器では□尊、これがやはり最後に歳月が出て居ります。これが餘程變な書き方をして居りまして、「隹王十祀有五※[#「三/二」、454-17]日」、かういふ紀年の書き方をして居ります。それからもう一つは庚申父丁角としてありますが、これは多分今住友家に來て居るのでないかと考へます。或は宰□角とも申します。これには「在六月隹王廿祀」とあります。それからやはり※[#「てへん+(鹿/禾)」、読みは「くん」、455-1]古録金文に戊辰彝といふものがありまして、これには「在十月隹王廿祀」とあります。それからもう一つは最近の郭沫若氏の金文辭大系に出て居りますので※[#「そうにょう+異」、読みは「ちょく」、455-2]尊、これがやはり「隹王二祀」と出て居ります。以上は皆銘文の終りに年の出て居ります例であります。
 それでかういふ風に篇末に紀年のあるのは、大體所謂西周の銅器にだけあるのでありまして、東周以後の銅器には殆どありません。これは餘程古い紀年の書き方と言つてよろしからうと思ふのでありますが、それとこの洛誥の紀年の書き方と一致しております。ただ洛誥には七年としてあつて、七祀としてありませんが、かういふのは、記録が段々傳はつて居る間に、後出の分り易い文字に書き直すことはあり得るのでありまして、例へば司馬遷の史記の中に尚書を引用した處を見ますと、色々原文の文字を易へて居ります。訓詁の字を以て易へたと云はれて居りますが、やはり古い記録を新しく傳へる時は、分り易くして置く必要がある所から、かういふ風に文字を書き直すことはあり得ることであります。
 ともかくこの召誥・洛誥が尚書の中で、記録された時代が最も古いもの、確かなものと云つてよからうと思ふのでありますが、處でこの召誥の中に、この歴史的思想といふやうなものが餘程はつきりと現はれて居ります。大體支那の歴代は、最も古い時代に夏が代つて殷となり、殷が代つて周になつたと申しますが、夏が代つて殷になつた時の確かな記録といふものは、今日では分りませんので、尚書の中に殷の湯が夏を征伐した時の湯誓・湯誥といふ誓誥の類はありますけれども、これらは大體物語で傳はつて居つたのが、或る時代に記録に書き入れられたらしく思はれますもので、全く初めから記録で保存されて居つたとは考へられませんのです。それのみならず、その夏以前に一體支那はどれだけの歴代があつたか知りませんけれども、ともかく夏が殷になり、殷が周になるといふことは、支那では餘程古代史上の大事件であつたのでありませうが、夏が殷に代つたといふやうな、ああいふ一つの朝廷が一つの朝廷に代つただけでは、まだ歴史といふものの考へがさう著しく現はれて來ないと思ふ。ところがもう二つも代つて來ますといふと、そこに王朝の變化といふものが餘程痛切に一般の人に考へられることになるものと見えまして、支那でこの夏殷周といふ三代に就ては、色々の點から考へられて居ります。後になつては、それに三統説といふやうなものをつけまして、さうして各□その時代の特色を言ひ現はしたりなんかします。ともかく三代といふものが出たので、それでその間の變り目に就て人類の知識に大變な衝動を與へたものと考へられます。それでこの召誥の中にはこの夏殷周三代の革命に對することが現はれて居りますです。夏が天命を失つたので殷になり、殷が失つたので周になつて來たといふので、
我不可不監于有夏。亦不可不監于有殷。
といふ言葉が出て來て居ります(2)。前代のことに就て、それを手本とし、或は戒めとして考へる上に就て、この三代がだん/\に代つたといふことが、古代の思想上重大なことであつたらしく思はれます。召誥の外に、同じやうな考へは多士篇にも現はれて居ります(3)。それから全體の革命の上の考へではありませんけれども、無逸とか君□とかの諸篇の中にも皆歴史的思想といふべきものは多少現はれて來て居りまして、それから多方、前に申しました立政の諸篇にまで、ますますそれが現はれて居ります。一つはこれは、今日尚書を読んで見ますといふと、勝利者である所の周が、失敗者であると言つてもまだ非常な實力を有つて居つた殷人に對して、お前の國の殷も、前代の夏の政が衰へたが爲に取つて代つたのでないか、お前の國が天命を失ふと吾が國が天命を得てそれに代るといふことは當り前のことだ、といふ風に因果を含めて聞かす爲の當時の政策とも見えますけれども、ともかくさういふ風に、三代變化があつたといふことは、それは歴史的思想としては當時餘程重要なことであつたらうと思ひます。それが先づ一つ比較的正確な古い記録の上に現はれる所の歴史的思想であります。
 それから第二に於きましては、古代に於てこの支那の國土を開いた人から、段々その時代迄の世の中の變化、王朝の變化といふことを考へる思想が現はれて來て居ると思ひます。古代に於て國土の開闢者として詩經若しくは書經の中に先づ出て來るのは夏の禹であります。夏の禹に關することは經書の中にも隨分澤山出て居りますが、詩經の大雅の蕩の篇に、これは有名な誰でも知つて居ることで
殷鑒不遠。在夏后之世。
といふ言葉が出て居ります。これは僅かに二句にして三代の移り變りを言ひ現はして居るのであります。それから大雅の文王有聲の篇に
豐水東注。維禹之績。
といふ言葉が出て居る。つまり禹が水土を平げたといふことの考へは、この頃現はれて居るのであります。又大雅の韓奕の篇に
奕奕梁山。維禹甸之。
かういふことが現はれて居ります。それからその外にも、魯頌の□宮編には「奄有下土。□禹之緒。」とあり、商頌の長發篇には「洪水芒芒。禹敷下土方外。」とあり、同じく商頌の殷武篇には、「天命多辟。設都于禹之績。」とありまして、皆この禹に關したことが現はれて居ります。かういふ詩が一體何時の頃に作られたか、それが分るのも分らないのもありますけれども、殊に商頌などの作られた時代は餘程はつきり致しませんのでありますけれども、今この中で一番作られた時代の分るのは魯頌でありませう。これは主に魯の僖公のことを言つてありますから、それで僖公以後に作られたことは確かでありまして(4)、その作者の名まで傳へられて居る位であります。さうしますと、これらの禹の説話は魯頌以後に作られたのではないと言つてよからうと思ひます、少くとも魯頌の出來る頃以前のものでありませう。その他の大雅の二篇もやはり少くとも西周の末頃から東周の初めの間に出來た詩篇であります。又尚書の中で禹のことを申して居りますのは、虞夏書である所の堯・舜・禹のことを特別に書いた部分、それから又洪範などの如くやはり禹から傳へられたといふことだけ特別に書いたものは別としまして、周人の言葉で禹に關係したものと申しますと、やはり先程申しました立政篇にかういふ文句があります。
陟禹之迹
この文句は大體詩經の中にある文句と餘程よく似て居ります。この「迹」の字が詩經の方では「績」の字になつて居りますけれども、ひよつとすると、かういふのは昔同じ音の字であつたので、同じ意味であつたのではないかと思ひます。同じやうな例は又魯頌の中に
□禹之緒
といふ文句がありますが、これが金文の有名な齊侯□と申します鐘の銘の中には
咸有九州。處禹之堵。
かう出て居ります。これらは「堵」の字と「緒」の字は本來は同じ字であつたらうかと思ふのであります。さうしますと、つまりこの禹が水土を開いたといふ傳説の盛んに世の中に現はれて來たのは、西周の末から東周の初め頃であらうと考へられます。さうすれば商頌にしても、その作られた時代をこの頃と見る説の方が確からしくなるのであります。
 それからして今申しました齊侯□の中に、金文として禹のことが現はれて居ります。この齊侯□といふ鐘は、古く宋の時の博古圖にも出て居ります。それから南宋の薛尚功の鐘鼎款識にも出て居りまして、これに關する研究は、近代になりましてから孫詒讓が古籀拾遺でやつたのが最も精確とされております。この中に殷の湯が伊尹の輔けによつて夏の桀を討つて、さうして九州をことごとく有して禹の居つた土地に居つたといふことが出て居ります。前に引きましたのはその中の二句であります。これが金文で夏殷間の革命を敍述したものであります。この齊侯□鐘といふものは、大體に於て魯の成公時代のものといふことになつて居りまして、これはその中に書いてあります齊侯といふのは、齊の靈公であるので、その時代が分るのであります。即ち春秋の中頃であつて、大體東周の初めの方の時代に當るのでありますから、魯頌などと大した相違のない時代に出來た金文だといふことになります。これは今日その銅器の實物は傳はつて居りませんけれども、それと同時に作られたらしいやはり齊侯□の一種が今日でも支那に傳はつて、蘇州の潘氏、潘祖蔭の家にあると謂はれて居りますので、大體これは確かなものに違ひないのでありますが、その中にこの禹の説話を書いて居りまして、それから以後の殷周の革命に及んで居りますから、これらは禹を開闢者とした歴史思想の餘程確かに現はれたものであると言つて宜しからうと思ひます。尤もこの禹の傳説は、商の玄鳥墮卵の話、周の姜□が巨人の足跡を履む話などの如き原始的トーテミズム的の説話とは異なつて、本來は一種のトーテムであつたとしても、全體の國土開闢者として考へられるまで發達した點は、已に歴史的思想によつて構成されつつあることを示すものであります。
 第三は、私は之を縁起譚と申して居りますが、縁起譚に現はれる所の歴史思想であります。この縁起譚といふものは、何處の國でも古い歴史、物語、記録には皆あるのでありまして、日本などでも、日本紀や何かの古い歴史には縁起譚が非常に多いのです。殊に風土記といふやうなものは、全部縁起譚で出來てゐると言つて宜しいのでありますが、この日本紀などの縁起譚には、よく其の事實を書きまして、これは世の人がかういふ風に傳えてゐる「縁(ことのもと)なり」といふことをよく言つて居ります。例へば日本紀の神代の所に天稚彦のことを書きました所に
此れ世の人の所謂反矢(かへしや)畏(い)むべしと云ふ縁(ことのもと)なり
と書いてあります。それから伊弉諾・伊弉册尊の所でありましたか
世の人生(いける)を以て死(まかれるひと)に誤つことを惡む、此れ其の縁(ことのもと)なり
と書いてあります。さういふことは日本紀に隨分澤山あります。神武天皇紀でも、機密を人に言ひ渡す爲に倒語(さかことば)を使つたといふことがありまして、倒語を用ゐることは始めて茲に起れりといふやうなことを書いてあります。それからこの日本紀の記事の多くは、色々の家柄のことを書きました時に、その家柄の大抵先祖を書くか、或は墓を書くか、それから又古い人のことを書いて、今日の何といふ家はその苗裔だと書くか、何か皆今日現在して居ることから遡つてその因縁を尋ねる話になつて居ります。それが即ち縁起譚でありますが、この縁起譚は支那の古書でも左傳などの中に隨分澤山あります。左傳ばかりでありません、春秋にはその外の公羊傳などにも出て居りますが、それに就て宋の王應麟は困學紀聞に於てその事を注意して居ります。困學紀聞の最終の雜識と申します篇にそのことを澤山擧げて居りまして、これは主に禮記とそれから左傳とに據つて書いたのでありますけれども、左傳に「始」といふ文字を用ゐてあるのは、必ず何か新しき事柄の始まつた時のことを現はしてあるので、この「始」といふことが大切なんで、「始」といふことが皆必ず書いてある。例へば隱公の五年に、祀りをする時の音樂に六□を用ゐたといふ時に「始用六□也」と書いてある。かういふ風に始めて何々するといふことは澤山左傳に出て居るが、それは皆「始」といふことが第一大切で、物の變化といふことのこれが證據(しるし)になるから、そこでこの「始」といふ文字を書いてあるのだといふことを困學紀聞の卷の二十に書いて居ります。左傳のみならず、禮記の中にそのことが澤山あることを先づ書いて居りまして、「禮記は禮の變化に於て皆始と曰ふ」といふことを書きまして、さうしてその次にずつとその例を擧げて居ります。主に禮記の檀弓・曾子問・玉藻・雜記・郊特牲、さういふ諸篇の中に、總て禮の變化に就て「何々のことは何々より始まつた」といふ風に皆書いてありますので、それを擧げて居りますが、先づ第一に檀弓に
孔氏之不喪出母。自子思始也。
といふことがあるのを擧げ、さういふ例をずつと皆擧げて居ります。これは勿論王應麟が始めて氣が付いたのでなくして、宋の陸佃が氣が付いたのを王應麟がそれを補つたといふことでありますが、ともかく禮の變化といふことに就て「始」といふことを書いてあることが王應麟、その他の人によつて注意されました(5)。王應麟はその外にも困學紀聞の卷の五に「禮記の曾子問篇は變禮に於て講ぜざることなし」といふことを云つて居ります。それから又困學紀聞の卷の六に先程申しましたやはり六□を用ゐたことでありますけれども、茲は公羊傳を主として書いたやうでありますが、ともかくその六羽を獻ずるといふことと、それから「税レ畝」といふことがありますが、この畝に税するといふこととの起源に皆「初」といふ字を書いてあるといふことを言つて居りまして、それでこの「初」といふことがやはりこの世の中の事柄の變化する大事なことであるといふことに注意しましたのです(6)。其の外にもう一つ王應麟の注意しましたことは――前のは「始」でありますが、今度はもう一つ「猶」といふことを注意しました(7)。それはやはり左傳の閔公の元年の條に、「猶秉周禮」即ち魯の國が猶ほ周の禮をとるといふことを書いた所があります。それから僖公の三十三年の條に「齊猶有禮」といふことを書いてあります。之に就て王應麟は、茲に猶といふ一字を使つて居る所を見るといふと、大體に於て禮は久しく廢つて居つたのであるが、僅かに魯なり齊なりに猶その禮が遺つて居つたといふ意味であるといふことを言つて居ります。これらもやはり世の中が變つて居るのに茲に猶遺つて居るといふ意味でありまして、前の「始」といふのはこれから段々始まつて、そのことが段々後になつて盛んに行はれるやうになることであります。これらがつまり縁起譚として、何か其の當時あることの因(もと)、或は古くから傳はつて居ることの變つて來ることを現はしてゐるのであつて、これが縁起譚的歴史的思想であります。かういふことから、前代のことと今代のこととを比較するやうになつて、その變り目を考へて歴史といふものに關する考へが起るのであります。それがやはり歴史思想の一つの重大な起源であると思ひます。殊にこれは日本紀のやうなもので考へて見ますといふと、縁起譚が古傳説の重要な部分を占めてゐることが分りますが、幸ひに公羊傳なり左傳なりの中にやはり縁起譚的のものが遺つて居る所からして、之によつて支那の古代史の體裁、古代史の考へも分るやうになると思ひます。これが一つであります。
 其の外に、支那の學者で左傳のことを研究しました汪中なども注意して居つたのでありますが、左傳に記す所は、人事のみでなく、天道・鬼神・災祥・卜筮・夢の五つであるとして、一々その例を擧げて居りますが、その中で歴史的思想に關係することは主に災祥・卜筮・夢の三つであります(8)。これは隨分色々歴史的思想の發生に關係すると思ひます。はつきり分りよいのが卜筮でありますが、左傳・國語の卜筮に關したことは、日本でも卜法の上から注意した人がありまして、谷川龍山といふ人が「左國易一家言」といふ本を作つた位であり、それに左傳・國語の卜筮に關した記事が大方載つて居ります。それを見ても分ります通り、大體この卜筮に關する記事といふものは、大抵皆――勿論あたつた八卦ばかり載つてゐるに違ひないので、あたらない八卦は大抵載つてゐないのです。恐らくこれは卜筮家の記録が根本だらうと思ひます。卜筮家としては、自分の家の職務で卜つたけれども、あたらなかつたといふことを書く必要はない。皆あたつたことを書くと、自分の家の職務として輝きます。さういふことから勿論あたつた八卦を書くに違ひありません。そのことは汪中も注意して、「史之於禍福。擧其已驗者也。」と云つて居ります。四庫全書提要には、「左傳載預斷禍福。無不徴驗。蓋不免從後傅合之。」とまで申して居りますが、それを日本の安井息軒先生のやうに、もつと眞面目に考へるといふと、それが道徳的に勸戒とするに足る正しいことだけ書いてあるやうに考へられますけれども、提要の作者や汪中は、もつと皮肉に見まして、やはりあたつた八卦だけが現はれて居るのだといふことを注意して居ります。その中で最も大きなあたつた八卦で世の中の問題になつて居るものがあります。それが或はこの左傳そのものの本の値打如何、眞僞如何に關係する問題に迄なつて居るものでありますが、支那でも七百年前の朱子などは、なか/\さういふことに對して隅に置けない皮肉屋でありまして、面白い批評をして居るのであります。この重大な關係と申しますのは、一つは齊の國の田氏のことであつて、田氏は齊の國を奪つて取りますが、この田氏の先祖といふものは、陳敬仲といふ人が陳の國から行つて齊の國に仕へたのでありまして、その末孫が大變盛んになつて、さうして到頭齊の國を奪つたのであります。その陳敬仲が始めて齊の國へ行つて仕へたことが左傳の魯の莊公の二十二年の所に出て居つて、そこに占が出て居りますが、それは段々その家が盛んになつて、八代の後になつたならばこれより大きな家がなくなるだらう、といふやうなことを書いて居ります。それに對して、朱子はハヽアこれはつまり八代の後になつてその家が大きくなつた所を見てから書いた、これは後から前の占のことを書いたのだ、――朱子は左傳といふものは、多くは後來の人が書いたのだと云つて居りますが――後に盛んになつた家のことを見てから、その家が始めて興つた時のことを遡つて書くから、それで旨いあたつた八卦が書けたのだといふことを言つて居ります。さうしますと、齊の國が田氏に易つたといふのは、戰國の初めになるのでありますから、その頃のことを知つた人が左傳を書いたのだといふことになるので、左傳の記録された時代の一つの證據といふものになり得るのであります。
 又晉の國は後に韓・魏・趙の三家が奪ひまして、さうして小國になつたのでありますが、その魏の國の最初の人の畢萬といふ人が晉に用ゐられる時のやはり占がある。この畢萬といふのが魏といふ土地に封ぜられた。魏といふのは大きいことをあらはす名である、又萬といふのは、ものの數の極度であるから、この家が繁昌するだらうといふことに占つてゐる。この占は、朱子などの考では、やはりこれは魏の國が盛んになつて、韓・趙と三家で晉國を分けてしまつた時に書かれた、かう考へた。さうしますと魏の國の盛んとなつたと申しますと、魏の文侯・武侯・梁の惠王の頃のことでありますから、その頃になつて左傳が書かれた、かういふ風に朱子は考へたのであります。王應麟も之を朱子の語類によつて困學紀聞の中に書いて居りますが、王應麟は朱子程に極端には考へないで、これらの後からの記事は左傳の舊文ではない、もと左傳になかつたのを、後の人が入れたのだといふ風に考へて居ります(9)。ともかく左傳の成立の上に就いての問題は姑く措きまして、子孫が繁昌して居る所から、その起源に遡つて、さうしてその起源に關する記事から書き起すといふやうな考といふものは、これが隨分重大な歴史的思想だと思ひます。日本の神皇正統記などを見ますと、或はその前のものにもありませうが、藤原家といふものは、昔、その先祖天兒屋根命が天照大神を輔け奉つた關係から、末々までもその家が繁昌して、さうして歴代攝政關白の家になるのだといふやうな思想を皆含んで居ります。さういふことはやはり藤原家繁昌の後に出來た思想であつて、その時代思想から遡つて古代のこと迄書かれるやうになつたものと考へますが、さういふ思想が支那に於ては、主として卜筮に關して見はれて來て居りまして、一種の歴史的思想となつたのであります。
 それから夢・災祥といふことでもやはり同じことであります。災祥といふのは、大體尚書の洪範に「休徴」「咎徴」といふものがありまして、休(よ)いことの徴、惡いことの徴といふものが現はれて來て、さうしてその結果が出て來るといふことで、洪範の五行傳などはさういふ意味から全部出來上つたものでありますが、洪範五行傳などの五行思想は、極めて何か荒唐不稽なやうなことでありますけれども、その間に天象時令と人事と關係して何かの原因があると、その結果が現はれて來るといふことの意味が含んで居りますので、これが即ち因果思想即ち古代の歴史思想の大變重大なことであると思ひます。
 これらのことは、どちらかと申しますといふと、儒教の方では、孔子の時代、或はそれ以後、段々さういふ考へが薄らいで居つたやうで、孔子などは隨分さういふ古代思想に對しては明白な謀反氣を出して居られるやうですが、墨子などには餘程この古代思想が純粹に遺つて居りまして、墨子の書には隨分かういふ奇怪な思想、即ち鬼神などが現はれるといふやうな思想をまだ持つて居つた。墨子の明鬼篇の中にはさういふことが出て居りますから、隨分この思想は春秋以後迄も相當皆信ぜられて居つたものと見えます。それが一方から云ふと、一種の歴史思想であります。さうして春秋三傳から申しますと、さういふ思想は最も多く左傳の方に含んで居りますので、公羊傳などには左傳程さういふ思想がありません。それで朱子などが、公羊は經學であつて、左傳は史學だと申して居りますのも、さういふ一種の因果思想を多分に左傳が持つて居る所からさういふ風に考へられるかも知れんと思ふのであります。尤も公羊傳には又もつと別な歴史思想を持つて居ります。それは又後で申しますが、大體卜筮・夢・災祥といふものは、縁起譚と少し似たやうな事柄でありますけれども、又縁起譚とは一種違つた思想でありまして、まあ宗教的縁起譚とも言ふべきものであります。
 其の次になりますと、今度はこれらの原始的歴史思想がもつと洗煉されて、綜合的史學思想と言つてもよいやうなものが出來て來るのであります。それは孟子に於きましては、滕の文公の篇に「孟子好辯」といふ章がありまして、その中に一治一亂といふことが盛に論ぜられて居ります。昔から世の中は一治一亂であつて、堯舜以來段々國が一時治まるといふと、その次に又亂れる時が出て來る。それから又亂れて後治める人が出て來て、又一治が出て來る。又一亂が出て來るといふことで、一治一亂を繰返すといふことを孟子が論じて居ります。この一治一亂は、これは餘程古代からのことを大きく綜合した所の歴史的思想でありまして、ここらになると、後世の立派な史學の歴史思想と大した差がなくなつて來て居ります。大體私は孟子と公羊傳といふものは、餘程關係のあるものと思つて居りますので、この二つは屡□同じやうな主義を述べて居る。例へば孔子が春秋を作つたといふことに就ての考へ、それに對する議論といふものは、孟子と公羊傳と殆どその文句迄相類似したことが載つて居ります(10)。それから前に申しました畝に税することに關する公羊傳の論に、十分の一といふものは理想的租税であつて、十が一より重いものは大桀、小桀、十が一より輕いものは大貉、小貉であると云ふことを言つて居りますが、それは孟子と大體に於て同じことを云つて居ります(11)。さういふ點は、どつちが――孟子が原ですか、公羊傳が原ですか、そこは分りませんが、ともかくそれは大した時代の相違がないものと考へられまして、つまりは同じやうな思想をこの二つは持つて居つたものと考へられます。尤も公羊傳には又もつと獨特の歴史思想があります。それが三世――佛教の三世ではありませんが――公羊傳の三世思想でありまして、「所見異辭、所聞異辭、所傳聞異辭。」といふことがありまして、それによつて春秋の時代を三つに分けて、亂世からして段々升平の世、泰平の世と進んで行くといふ思想があります。これは立派な一種の理想的な歴史思想であります。かういふのは、後になつて出て來た所の綜合的歴史思想でありますが、公羊傳の中には隨分讖即ち豫言に關する考へも載つて居りまして、それで春秋の出來た由來を一つの豫言と見る考へもあるのでありますけれども、一方にはさういふ宗教的な考へがあるかと思ひますといふと、一方には理想的に非常に進んだ歴史思想を有つて居ります。今申す三世思想などがその最も進んだ歴史的思想であります。
 かういふ風に考へますと、支那の歴史的思想の起源、それからして段々發達して來た迹といふものは、第一實際の事實に於て三代といふ王朝の變り目を感じたこと、それから禹が水土を平げてその上に國をつくつて以來、三代の變化があつたといふことの考へが行はれて居ること、それから社會的なことと致しましては禮俗の變化、宗教的な考へとしては災祥・卜筮・夢の人事との因果關係、さういふ風な色々な思想が根源になりまして、それから最後に綜合的な史學思想即ち孟子の一治一亂、公羊の三世といふやうな思想に發達をして來たといふことになるだらうと思ひます。勿論それらの歴史思想と、それに出て來る所の事實とを綜合して、さうして立派な歴史を作り上げたのは、それは漢の時代の司馬遷でありまして、史記の十二諸侯年表の序の贊に、自分の歴史を作つた所の由來を述べて居りますので、これに古來の歴史の思想なり、材料なりを蒐める方法を言つてあります。それ迄の徑路は、今申したやうな譯ではないかと思ひます。今日幸ひに茲で講演をさせて戴きますので、そのことを申して見ました次第であります。

附注
(1)詩の諸篇中、矣の助字ある篇は左の如し。
(周南)卷耳 漢廣
(召南)何彼※[#「衣+農」、読みは「じょう」、467-6]矣
(□風)緑衣 雄雉 谷風
(□風)桑中 定之方中
(衞風)氓 有狐
(王風)中谷有※[#「くさかんむり+推」、読みは「たい」、467-10]
(魏風)園有桃
(唐風)山有樞
(陳風)墓門
(小雅)常棣 伐木 天保 采薇 出車 魚麗 六月 □水 斯干 無羊 節南山 正月 十月之交 小弁 巧言 蓼莪 小明 楚茨 瞻彼洛矣 裳裳者華 采菽 都人士 隰桑 漸漸之石 □之華
(大雅)緜 皇矣 生民 卷阿 瞻□ 召旻
(2)尚書召誥篇に云く
王其疾敬徳。相古先民有夏。天迪從子保。面稽天若。今時既墜厥命。今相有殷。天迪格保。面稽天若。今時既墜厥命。今冲子嗣。則無遺壽考。曰其稽我古人之徳。矧曰其有能稽謀自天。
王敬作所不可不敬徳。我不可不監于有夏。亦不可不監于有殷。我不敢知。曰有夏服天命。惟有歴年。我不敢知。曰不其延。惟不敬厥徳。乃早墜厥命。我不敢知。曰有殷受天命。惟有歴年。我不敢知。曰不其延。惟不敬厥徳。乃早墜厥命。今王嗣受厥命。我亦惟茲二國命。嗣若功。
上下勤恤。其曰。我受天命。丕若有夏歴年。式勿替有殷歴年。
(3)尚書多士篇に云く
我聞曰。上帝引逸。有夏不適逸。則惟帝降格。嚮于時夏。弗克庸帝。大淫□有辭。惟時天罔念聞。厥惟廢元命。降致罰。乃命爾先祖成湯革夏。俊民甸四方。自成湯至于帝乙。罔不明徳恤祀。亦惟天丕建保乂有殷。殷王亦罔敢失帝。罔不配天其澤。在今後嗣王誕罔顯于天。矧曰其有聽念于先王勤家。誕淫厥□。罔顧于天顯民祗。惟時上帝不保。降若茲大喪。惟天不※[#「田」の下に「兀」のようなもの、読みは「ひ」、468-10]。不明厥徳。凡四方小大邦喪。罔非有辭于罰。
惟爾知惟殷先人。有册有典。殷革夏命。今爾又曰。夏迪簡在王庭。有服在百僚。予一人惟聽用徳肆予敢求爾于天邑商。予惟率肆矜爾。非予罪。時惟天命。
(4)毛詩魯頌に云く
□頌僖公也。僖公能遵伯禽之法。儉以足用。寛以愛民。務農重穀。牧于□野。魯人尊之。於是季孫行父請命于周。而史克作是頌。
(5)困學紀聞卷二十、雜識に云く
禮記於禮之變皆曰始。孔氏之不喪出母。自子思始也。士之有誄。自此始也。□婁復之以矢。蓋自戰於升□始也。魯婦人之※)晉於是始墨。(僖三十三年)始厚葬。(成二年)始用殉。(成二年)魯於是乎始※)魏絳於是乎始有金石之樂。(襄十一年)始用人于亳社(昭十年)魯於是始尚羔。(定八年)亦記禮之始變也。
尚ほ困學紀聞は翁元圻注本によりて看るを便とすべし。
(6)困學紀聞卷六に云く
禮樂自天子出。而獻六羽焉。非天子不制度。而税畝焉。故皆書曰初。
と。之に就ては公羊傳の隱公五年初獻六羽の條及び左傳の宣公十五年初税畝の條を參攷すべし。
(7)同書同卷に云く
猶秉周禮。(閔元年)齊猶有禮。(僖三十三年)觀猶之一字。則禮廢久矣。
と、之に就ては左傳の上に掲げたる年の紀事を參照すべし。
(8)述學内篇卷二、左傳春秋釋疑の文を參照すべし。
(9)朱子語類卷八十三に云く
問。左傳載卜筮。有能先知數世後事。有此理否。曰此恐不然。只當時子孫欲僭竊。故爲此以欺上罔下爾。如漢高帝蛇。也只是脱空。陳勝王凡六月。便只是他做不成。故人以爲非。高帝做得成。故人以爲符瑞。
又云く左傳是後來人做。爲見陳氏有齊。所以言八世之後。莫之與京。見三家分晉。所以言公侯子孫。必復其始。以三傳言之。左氏是史學。公穀是經學。
困學紀聞卷六に云く八世之後。莫之與京。(莊二十二年)其田氏簒齊之後之言乎。公侯子孫。必復其始。(閔元年)其三卿分晉之後之言乎。其處者爲劉氏。(文十三年)其漢儒欲立左氏者所附益乎。皆非左氏之舊也。
(10)孟子離婁章句下、王者迹熄而詩亡の章、及び公羊傳昭公十二年の條を參看すべし。
(11)公羊傳宣公十五年、初税畝の條、孟子告子章句下、白圭曰吾欲二十而取一何如の章を參看すべし。




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