大菩薩峠
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著者名:中里介山 

         一

 秋風ぞ吹く白河の関の一夜、駒井甚三郎に宛てて手紙を書いた田山白雲は、その翌日、更に北へ向っての旅に出で立ちました。
 僅かに勿来(なこそ)の関で、遠くも来つるものかなと、感傷を逞(たくま)しうした白雲が、もうこの辺へ来ると、卒業して、漂浪性がすっかり根を張ったものですから、□徊顧望なんぞという、娑婆(しゃば)ッ気も消えてしまって、むしろ勇ましく、北地へ向けてのひとり旅が成り立ちました。
 得てして、人間の旅路というものはこんなものでして、ある程度のところで、ちょっと堪(こら)えられぬようにホームシックにつかまるが、これが過ぎると、またおのずからいい気というものが湧いて出て、かなりの臆病者でさえが、唐天竺(からてんじく)の果てまでもという気分になりたがるものです。
 白河城下を立ち出でたその夜は、須賀川へ泊りました。
 白河から八里足らずの道。
 この地に投弓(とうきゅう)という風流人があるからたずねてみよと、人に教えられたままにたずねると、快く入れて、もてなし泊めてくれました。
 その翌日、例の牡丹(ぼたん)の大木だの、亜欧堂のあとだの、芭蕉翁(ばしょうおう)の旧蹟だのといったようなものを、親切に紹介されて、それから投弓のために白い袋戸へ、山桜と雉(きじ)を描いて、さて出立という時、主人が若干の草鞋銭(わらじせん)と「奥の細道」の版本を一冊くれました。
 若干の草鞋銭は先方の好意でしたが、「奥の細道」は先方の好意というよりも、こっちの強要と言った方がよかったかも知れません。
「奥の細道! これが欲しい、この旅にこれは越裳氏(えっしょうし)が指南車に於けると同じだ――ぜひこれを拙者にお貸し下さい」
 こう言って、白雲が強奪にかかったのを、根が風流人の投弓が、いやと言えようはずもなく、彼の拉(らっ)し去るに任せたものです。
 白雲は、それから「奥の細道」の一巻を、道ながら、手より措(お)かずに、ある時は高らかに読み、ある時は道しるべの案内記として、足を進めて行きました。
 白雲が「奥の細道」に愛着を感じていることは、一日の故ではありません。およそ、旅を好むものにして「奥の細道」を愛読せざるものがあろうとは思われません。
 白雲もまた、芭蕉の人格を偉なりとすることを知っている。その発句の神韻(しんいん)は、到底、後人に第二第三があり得ていないことを信じている。その発句のみではない、その文章がまた古今独歩である。黄金はどこへ傷をつけても、やっぱり黄金である。人格となり、旅行となり、発句となり、文章となるとはいえ、いずこを叩いても神韻の宿ることは、あたりまえ過ぎるほどあたりまえのことだが、その文章のうちでも、この「奥の細道」は古今第一等の紀行文である。単に文章家として見たところで、馬琴よりも、近松よりも、西鶴よりも上で、徳川期では、これに匹敵される文章は無い。少なくとも鎌倉以来の文章である――白雲は、かく芭蕉の紀行文を愛して、その貧弱な文庫にも蔵し、その多忙なる行李(こうり)の中にも隠さないということはなかったのですが、今度は忘れて来た。そうしてその忘れた時に最も痛切なる必要を感じてきた。今その一冊を持ち合わせないことが、秋風の吹きそめた時、袷(あわせ)を一枚剥がれたように、うすら寒い。
 ところが、それが、目の前に、投弓の家にころがっていたものですから、若干の草鞋銭なんぞは辞退しても、これをかっさらって行こうという賊心に駆(か)られたのも、また無理のないところがありましょう。それがすんなりと、草鞋銭も、「奥の細道」も二つながら、かすめ得たものですから、心中の欣(よろこ)び、たとうる物なく、明治二十年代の子供が「小国民」を買ってもらった時のように、嬉しがって、声高に読み且つ吟じて行くという有様です。
 白河の関にかかりて旅心定まりぬ――なるほど、旅心定まりぬがいい――この一句が、今日のおれの旅心を道破している。
「『いかで都へ』と便りを求めしもことわりなり。なかにもこの関は三関の一にして、風騒の人、心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉(もみぢ)を俤(おもかげ)にして、青葉の梢なほあはれ也。卯(う)の花の白妙(しらたへ)に、茨(いばら)の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠(かんむり)を正し衣装を改めしことなど、清輔(きよすけ)の筆にもとどめおかれしとぞ」
 古人の名文は、今人の心を貫くが故に名文なのだ。名文というものは人の言い得ざることを言うが故に名文なのではない、万人言わんとして言い得ざることを、すらすらと言い得るから名文なのだ。
 こうして、郡山、二本松、あさかの山――黒塚の岩屋をそれぞれに一見して、福島についたのは、その翌々日のことでした。
 福島の家老に杉妻栄翁という知人があって、これをたずねてみると、この人は藩の政治になかなか勢力ある一人ではあったが、またよく一芸一能を愛することを知るの人でしたから、白雲のために、その家がよい足がかりとなったのみならず、かなりの仕事を与えられたのみならず、狩野永徳を見んがために松島に行くという白雲の意気の盛んなるに感心し、
「なるほど――観瀾亭(かんらんてい)の襖絵(ふすまえ)のことは、わしも聞いている、それが山楽、永徳であるか、そこまではわしは知らん、しかしながら、たしかに桃山の昔をしのぶ豪華のもので、他に比すべきものはない。苟(いやしく)もその道に精進しようとするものは、一枚の絵のために、千里の道を遠しとせざるほどの意気が無ければならん。それに就いて思い起すことは、永徳ももとより結構に相違ないが――伊達家(だてけ)には、まだ一つ、天下に掛替えのない筆蹟があるはずじゃ、それを御承知か」
「伊達家のことでござるから、それは天下に掛替えのない宝が一つや二つではござるまいが――刀剣であろう、茶器であろう、これらは拙者に於てあまり渇望もいたさぬし、また渇望いたしたからとて、拙者のような乞食画かきに、わざわざ宝蔵を開いて見せる物好きな三太夫もござるまいとあきらめています」
「それもそうだ、観瀾亭の襖絵は、相当の紹介があれば誰にも見せてくれるだろうが――もう一つのは――これは到底及びもつかないことだろう、その点はあきらめるのが賢明ではあるが、学問のために、伊達家には、しかじかのものがあるということを覚えて置くのは無益でもござるまい」
「左様――□□(そうとう)として他の宝を数えるのは知恵のない骨頂ですが、いったい、あなたがこの際、ぜひ覚えて置けとおっしゃる伊達家の至宝とは何物ですか」
「それはなあ、もちろん伊達家のことだから、天下無二の宝が数知れず宝蔵の中に唸(うな)っているには相違ないが――貴殿御執心の永徳よりも、それこそ真に天下一品として、王羲之(おうぎし)の孝経がござるはずじゃ」
「王羲之の孝経――」
 これを聞いて白雲が一時(いっとき)、眼をまるくして栄翁の面(かお)を見つめましたが、押返して、
「それは、いささか割引がかんじんじゃ、大諸侯の物とて、一から十まで盲信するわけにはゆかん。いったい、羲之の真蹟はすべて唐の太宗(たいそう)が棺の中まで持ちこんで行ってしまったはずで、支那にも、もはや断簡零墨(だんかんれいぼく)もござらぬそうな」
「ところが、伊達家の羲之には、れっきとした由緒因縁がある、しかも、それには唐の太宗の御筆の序文までがついているそうじゃ」
「ははあ――眉唾物(まゆつばもの)ではござるまいなあ。まさか、奥州仙台陸奥守のことでござるから、嘘にしても何かよるところがあるでござろうがな」
「あるある、大いにある、そのよるところを話してお聞かせ申そう」
 ここまで主客の間に話が進んだ時、来客で話の腰を折られて、それぎりになりました。
 主人としては、なおくわしく、伊達家所蔵の王羲之の孝経――しかも唐太宗親筆入りという絶代ものの出所来歴を話して聞かせたかったらしいが、話がそこで折れた上に、その後は忙がしく、白雲もまた、いかに伊達家のことなりとも、羲之の真筆は少々割引物として、問いをほごすことをしてみませんでした。
 そこで、伊達家の王羲之は立消えになったままで、白雲がこの邸を暇乞いをする最後まで復活しなかったのです。
 けれども、この家の主人として、白雲が打立つ時に、仙台へ向っての有力なる紹介者となって、白雲の落着きを安くしてくれるの親切は残りました。その紹介者のうちに、
「仙台へ着いたら、ともかくも、玉蕉女史(ぎょくしょうじょし)をたずねてごらんなさい」
というのがありました。
 玉蕉女史――とは何者?
 それは才色兼備の婦人で、ことに漢詩をよくし、書をよくし、画を見ることを知り、客を愛し、旅を好む。ことに漢詩を作ることに於て最も優れている。
 ははあ、これは珍しい。婦人で、才気ある婦人は必ずしも珍しいとはしない、三十一文字(みそひともじ)を妙(たえ)なる調べもて編み出し、水茎のあとうるわしく草紙物語を綴る婦人も珍しいとはしないが、婦人にして漢詩をよくするという婦人は極めて珍しい。
 それにしても、ただ単なる奥様芸で、覚束なくも平仄(ひょうそく)を合わせてみるだけの芸当だろうとタカをくくって見ると、なかなかどうして、頼山陽を悩ませた細香(さいこう)女史や星巌(せいがん)夫人、紅蘭(こうらん)女史あたりに比べて、優るとも劣るところはない、その上に稀れなる美人で、客を愛し、風流の旅を好む、以前は江戸に出て、塾を開いて帷(い)を下ろして子弟を教えていたが、今は仙台に帰っているはず、ともかくも、あれをたずねてみてごらん――全く才貌兼備、才の方は別としても、思いがけないほど美しい婦人だから、その用心をして――
 ははあ、ほかならぬこの拙者に向って、左様、然(しか)るべき才貌兼備の婦人をたずねよとは少々キマリが悪いと、白雲はがらにもない羞恥心(しゅうちしん)を少しく起しながら、とにかく、名前だけも覚えて置くことだと、更に念を押すと、栄翁が答えて、姓は高橋――名は玉蕉――家は仙台の大町というのへ行って、それと尋ねれば当らずといえども遠からず。
 かくて、福島に逗留二日。
しのぶ文字摺(もじずり)、しのぶの里
月の輪のわたし
瀬の上
佐藤荘司(しょうじ)が旧跡
飯坂(いいざか)の湯
桑折(こおり)の駅
伊達の大木戸
鐙摺(あぶみずり)、白石(しろいし)の城
 笠島の郡(こおり)に入ると、実方(さねかた)中将の遺跡、道祖神の祠をたずねなければ、奥州路の手形が不渡りになる。
 かくて、田山白雲は、仙台に入る前に笠島の道祖神の祠へ参詣の道を枉(ま)げてみると、そこで呆(あき)れ返ったものを見せつけられないわけにはゆきませんでした。

         二

 それは別物ではない、露骨に言ってしまえば、人間の男性の生殖器が一つ、石でこしらえた、しかも、これが図抜けて太く逞(たくま)しいのが、おごそかに一基、笠島道祖神の一隅に鎮座してましますということです。従来とても、路傍や辻々に、怪しげな小さな存在物を見ないではなかったが、これはまた優れて巨大なるものであって、高さ一丈もあろうと覚しいのがおごそかに鎮座しているのですから、一時(いっとき)、初対面の誰人をも圧迫せずにはおかないものです。
「呆れ返ったものだ」
 白雲といえども、思わず苦笑をとどめることができませんでした。
 いったい、これは何のおまじないに原因しているのだ――道祖神というと、こんなものを押立てたがる故事因縁がよくわからない。道祖神そのものは、猿田彦命(さるたひこのみこと)だということだが、猿田彦命ならば、それは神代史に儼存の人であるに相違ない。それがこの露骨な男根と何の関係があるのか、これは柳田国男氏にでも聞かなければよくわからないものだと、白雲が途方にくれました。
 呆れ返った末に、とどめ難い苦笑いをもって、白雲は、図抜けた道祖神の表象のまわりをながめているうちに、その太く逞しいかり首のあたりに結びつけられた、一つの絵馬を認めないわけにはいきませんでした。本来ならば、このブラさがった絵馬そのものが、まず人の目につき易(やす)いのですが、石体そのものが、あんまり奇抜過ぎるものですから、絵馬は第二第三の印象になってしまいましたが、よく見ると、つい、たったいまかけて行ったかと見えるほど新しいもので、しかもその絵がまた奇抜であることを認めずにはおられません。
 普通、絵馬に描く図柄はきまったようなものですが、この絵馬には、全く異様な般若(はんにゃ)の面(めん)が、ごく拙いものではあるが一つ大きく描いてありました。
「迷信はところがらで致し方がないとしても、社へ納める絵馬に般若を描くやつもなかろうではないか」
 そう思って、白雲が見直すと、その署名に、
「清澄村、茂太郎納」
と筆太く記して、その頭へ小さく「仙台大手御門前」と割註(わりちゅう)がしてある。
「はてな――」
 田山白雲は、全く別様な頭の働きを、この異様な額面の絵と文字との上に向けて、一思案なからざるを得ませんでした。
「はてな――全く、これは、はてなだ――清澄村茂太郎なる者がこの額を納めたとな。広い日本の村々のうちには、清澄というのも一つ以上あっていけないというはずはない、また茂太郎という名乗りも公儀へ御遠慮を致すべき差合いのある名前とも覚えていない。房州の清澄の、あのでたらめの歌うたいの茂公のほかに、天下に、もう一人も二人も清澄村の茂太郎なるものが存在してはならない筋合いもないのだが、それにしても、これは少し度外(どはず)れだ、名前そのものは度外れでないにしても、図柄そのものが、度外れだ」
 白雲は、でたらめの歌うたいの茂太郎と、般若の面とが、くっついて離れないことをよく知っている。あいつは、母の腹の中から般若の面を持って生れて来たのではないかとさえ思っている。
 その般若の面の、描くべからざる場面に描かれているのは、どうして、清澄村の茂太郎が尋常一様の清澄村茂太郎としては通過しないことを証明しているではないか。
 それに――もう一つ合点(がてん)のゆかないのは、清澄村と名乗るからには村である。村である以上は、城下であるべきはずはないのに、その肩書を見給え、「仙台大手御門前」と明らかに註してある。
 どちらから見ても、ちぐはぐだらけ、矛盾だらけだ――こいつを納めた奴の常識のほどが疑われる。いやいや、その常識のほどを疑うこっちの判断が、こんがらかる。
 ちょっとこのままでは立去れないよ。そこで白雲は、手をさしのべて、そのまだ新しい、謎(なぞ)の絵馬をひっくり返して見ると、裏面に、
「百姓、七兵衛納」
とある。
「はてな――これはまた、はてな以上のはてなだわい」
 白雲はついに、道祖神の御神体石の首から、その絵馬をもぎ取って、自分の鼻づらへ持って来てしまいました。

         三

 そこを立ち出でてから路傍の人をたずねて、事のいわれを問うてみるが、一向に要領を得ない。要領を得ないのではない、得させないのは、言語の不通がさせるのだ。
「おらあ、おくにやあ、くちいたてばっても、あんな折助言葉、うざにはくわなあ」
 さても鴃舌(げきぜつ)の音、一時ムカとしてもみましたけれど、いやいや、ところかわれば品もかわるのだ、かえって、先方は、こっちの江戸弁――をさげすんで、嘲っているようでもある。今も子供が言った一語、「折助言葉――」だけが、耳ざわりに残っている。身不肖にして小藩に人となり、田舎まわりの乞食絵かきのようなザマはしているが、未(いま)だ曾(かつ)て折助風俗に落ちた覚えはないのに、陸奥(みちのく)の涯(はて)へ来て、しかも子供の口から、こういったあざけりをあてつけられようとは、あさましい。
 白雲が舌を捲いて、名取川の岸まで来ると、そこで、一ぜん飯屋に身を投じました。前の川で取った川魚を炙(あぶ)って、そのまま食膳に供えて客を待つ。
 白雲は、ここで亭主と女房とを相手に、わざと悠々と構えて、四方山(よもやま)の話をもちかけたのは、一つは、これから仙台郷へ入って、なるべく郷(ごう)に従わんとする用意としての、奥州語の会話の練習を兼ねんがためでありました。
 ここで、気を練らして白雲が、夫婦を相手の会話の中から判断して、幾つかの仙台語のうちの単語を修得し、これを画帖の端へ、ちょいちょいと書きつけたものです。その一例を言えば、
△いぎやる――これは、普通、おっしゃるということらしい
△はるなたをこく――これは偽(うそ)を言うということらしい
△にし――おぬしということだ
△ほいちょう――ほうちょうのことだ
△じいごばあご――じじ、ばばのこと
△われ様――おぬし様ということ
△よだっぽれ――馬鹿とか阿呆(あほう)とかいうこと
△ねいきをこく――腹を立てること
△なまだらくさい――じだらくなこと
△なじょたがな――何としたということ
△むぞい――可愛ゆいということ
△うちゃせた――忘れたということ
△やくと――わざとということ
△まくらう――食うこと
 川の肴(さかな)で一ぜん飯を食いながら、大体に於て、こういう奥州語を、聞くに従って判断しつつ、白雲は画帖のわきへ幾つも書き並べて、なおわからないところは、二三問いただしているうちに、さいぜんのあの一つの不快な、さげすまれの語源を知ることができました。
 仙台及びその附近では、江戸弁を称して、すべて折助言葉というのである。仙台では、品格ある家庭に於ては、江戸弁を用うることを決してしない。鈍重にして威儀ある、純然たる仙台弁を用うることを貴しとしているが、もちろん、軽快なる江戸弁は、用いようとしても用いられないにきまっているが、その模倣の軽薄を避けることが土人の品格となっている。若い者などが、たまたま江戸弁などを使ってみせると、家中では、何だ折助みたような言葉づかいをする――といって卑(いやし)める。それは江戸へ出て折助奉公をしたり、商家の小僧なんぞに住込んだものが帰って来ると、往々江戸弁をつかうものだから、仙台の城下では、江戸弁そのものを軽薄なもの、下等なものとしてひんせきする――そこで、今も、白雲はなまじい関東弁をもって子供たちに問いかけて、かえって、折助言葉のさげすみを買った所以(ゆえん)がよくわかりました。
 白雲は、そんなことに恐縮しながら、なお相当に問いただしているうちに、この店へ、岡っ引が二人、川から上って来ました。
 白雲も、それがたしかに岡っ引の類(たぐい)でなければならないと見て取ったし、先方でも、ジロリと白雲の方に眼をくれながら、亭主夫婦の方へよって、心安立てに問いつ語りつ始めたのは、やはり純粋の奥州語を、双方とも達者にしゃべりまくるのですから、白雲の俄(にわか)ごしらえの語学では、とうてい追っつきそうなことになく、結局、何をどう受渡しているのだか、音声の上では全く要領を得ることができませんでした。それでも身ぶりや表情によって判断すると――何か事件が起って、職務の上から、非常線を張りに来たもののようでもあり、特にこの亭主夫婦に向って、川筋の警戒を申し渡し、頼み込んでいるらしい素振りであることは、判断がつきます。
 で、二人の岡っ引は、こうして純粋の奥州語を亭主夫婦と達者に取りかわしていながらも、ジロリジロリと白雲に眼をくれることは以前と少しも変らないが、こっちが存外泰然自若なのに、相当面負(かおま)けがしているようでもあります。
 しかし、お茶を飲んでしまうと、どうしても、この風来の逞(たくま)しい旅絵師のえたいにさわってみないことには、役目の手前、立去れない羽目になったのは無理もないことです。
 そこで、二人の岡っ引は、田山白雲の方へまむきに向って来て、今度は純粋の奥州語に多少の標準弁を交ぜて、つまり、
「貴君は、どなたですか」
 こう詰問されたものですから、白雲が、
「拙者は、旅の絵師です」
と答えると、
「剣師――左様でござらば、剣道のお流儀は?」
と先方が反問して来たものです。うむ、では絵師といったのを、剣師或いは剣士と聞きそこねたのだな――いや、これは今にはじまったことではない、剣客と言えば通るが、絵師と言ったんでは通らないことになっているのが、生れついての人相だからいまさら致し方もない。しかし、まあ、どっちでもいいわ、道に剣客に逢う時はすなわち剣客になりすまし、道に絵かきに逢う時は絵かきになりすましている。ここでも、こちらは絵師だというのに、先方は剣士と受取ったのだからそれでもよろしいと、白雲が即座に答えました、
「左様、南北流を少々修行仕(つかまつ)り、狩野、土佐、雲谷(うんこく)、円山(まるやま)、四条の諸派へも多少とも出入り致しました」
「ほほう」
 これは八流兼学の大剣客とでも思ったのか、岡っ引二人は、少なからず度胆(どぎも)を抜かれたように、
「して、いずれからおいでになりました」
「江戸を立ち出でて、奥州街道を白河より福島を経て、これより仙台城下へまかり通ろうとする途中でござる」
「ほほう、して、仙台はどちらの先生の道場へお越しでござるかな」
「道場――それそれ、とりあえず仙台城下、高橋玉蕉先生の道場で一本お手合せを願い、それより松島へ罷(まか)り越して、観爛道場に推参して、狩野永徳(かのうえいとく)大先生に見参仕る目的でござる」
「ははあ、左様でござるか――昨今、仙台御城下には、少々物騒な儀がござるによって、随分御用心の上――」
 二人は、多少とも、白雲の応対ぶりに呑まれたようにも見られるが、一つはその堂々たる体格と、わるびれない応答ぶりが、信用を買ったものと言わなければならぬ。事の進行によっては、一応剣客の面(めん)を脱いで、改めて絵師としての自分を証明しなければならない運命のほどを覚悟もしていたのですが、存外すらすらとパスして、岡っ引は立去ってしまったものですから、白雲も店へ払いと茶代とを置いて、ここを出ようとして、ちょっとひっかかりになったのは、道祖神からここまで持って来たあの絵馬です。
 わざわざ持って来るほどのものではないが、捨てるのもなんだか心残りのようだから、ここまで持っては来たが、茂太郎ではあるまいし、これから先、どこまでも般若(はんにゃ)の絵馬と道行も変なもの。
 そこで白雲は、このまま店へ置去りにしてここを出ました。
 店を出ると名取川です。

         四

 田山白雲は、名取川の仮橋を渡りながら、今の岡っ引のことを思い返しました。
 岡っ引の言うことには、仙台城下が今日は物騒がしいから用心しておいでなさいと。
 それよりさき、純粋の奥州語をもって、飯屋の亭主夫婦と会話を試みていたところを拾い聞きにしての判断から言うと、その仙台城下の物騒というのは、やっぱり盗賊沙汰であるらしい。それも、市中商家を荒した盗賊ではなく、どうやら城内の然(しか)るべき部分をおかしたる某重罪犯人の捜索ででもあるらしい、ということを白雲が思い返しました。が、そんなことは深く心配せんでもいい。
 いつしか名取川の沿岸の風物に頭(こうべ)をめぐらして、眼を放ちながら、幾瀬の板橋を渡りきろうとした時分、ついそこの柳の木の下で、蛇籠(じゃかご)を編んでいる男があるなという印象が、なんとなく眼にうつりました。
 と同時に、こちらの瀬には、魚を捕るためのやながかけてあるのを認めました。単にそれだけのことで、川岸で、筏(いかだ)を組んだり蛇籠を編んだりすることはあたりまえの光景なのであり、川の中にやなをかけて魚を捕ろうとしていることも、名取川特有の風景でもなんでもないけれども、それがなんだか、白雲の眼に、どうも特有な風物のようにうつったものですから、歩みをとどめて、このやなのところまで歩いて行って見ました。
 そうして、その附近をのぞいて見ると、鮎(あゆ)がかなりにいることを発見しました。ははあ、鮎がいるな――今の飯屋で食わせたのも、焼いて乾かした鮎であった。瀬の清い、流れの早い川に鮎がいることは不思議でもなんでもない――この名取川には、特有の鮭(さけ)の子もいるということを聞いた。それよりも、名取川の名そのものと切っても切れない埋れ木というものがこの川から出るのだ――はて、鮎のほかに鮭の子はいないか。もし、その辺に埋れ木のひねったやつが頭を出してはいないか。
 そんなことで、無心にその辺の淵をのぞき込んでいると、背後(うしろ)から、
「もし、あなた様は、田山白雲先生ではいらっしゃいませんか」
「えッ」
 白雲が、ぎょっとして後ろを向くと、いつのまにか背後に歩いて来ているのは、それは、確かに、いま、ついそこの柳の下で蛇籠を編んでいた老人に相違ないと直覚しました。だが、かぶっている笠をとりもしないで、鉈(なた)を腰にさしながら、小腰をかがめている人体(にんてい)は、思ったほど老人ではありません。
「お前は誰だ」
「田山先生でいらっしゃいますか」
「わしは田山だが、お前さんは?」
「ああ、それで安心を致しました、私は近頃、駒井の殿様の御家来分になった田舎老爺(いなかおやじ)めにございまして」
「駒井殿の……」
 改めて、白雲が、その老爺の面(かお)を見直しました。面を見直すまでもなく、それはもう言葉でわかっている。この辺では聞き慣れない関東弁ですから、耳を疑う余地はありませんが、そんならばこの老爺が、駒井甚三郎の家来分だというこの老爺が、なんのために、こうして、こんな奥州の名取川の岸で、悠々閑々と蛇籠なぞを編んでいるのだ。
 白雲は、油断のならない眼をもって、この老爺の面を見ていると、老爺は存外、落着いたもので、
「田山先生、何はともあれ、申し上げなければならないことは、駒井の殿様は、あなた様の御出立中に、洲崎(すのさき)をお出ましになってしまいました。手ずからお作りになりました、あのお船で……」
「ナニ、駒井殿が、あの蒸気船で洲崎を立たれたと、どうして、そう早急(さっきゅう)に……」
「はい、土地の人気が悪くなりましたものでございますから、大急ぎで人数を取りまとめて、船おろしと船出を一緒になさいました、あなた様をお待受け申している間もございませんでした」
「うむ――」
「それで、わたくしが、あなた様のおあとを慕って、このことをお知らせ申し上げようと請合(うけあ)ったようなわけでございましたが、運よくここでお目にかかれて、こんな嬉しいことはございません」
「なんだか、遽(にわ)かに拙者のまわりで、廻り燈籠(どうろう)を廻して見せられているようで、とんと面食った気持だが、そう言われると、そうありそうなことじゃ。それで、駒井氏は洲崎を船出して、どちらへ行かれたか」
「はい、それが、その、このつい御近所の石巻の港を目あてに乗出しておいでになりました」
「ナニ、石巻――なるほど、駿河の清水港へ行こうか、仙台の石巻へ行こうかと駒井氏は常々言われていたが、して、なにかな、もはや石巻に到着しておられるのか」
「いや、それが、たしか今明日中には御無事にお船入りのはずなのでございます」
「それはそれは――で、なにかな、あの番所に居候の連中は、みんな同じ船に乗込んで来たのか」
「はい、一人残らず、茂太郎も、金椎(キンツイ)さんも、マドロス君も、もゆるさんも――それから、お松に、登様――土地の船頭さんたち」
「おお、それはそれは――それを知らないで、このまま房州へ舞い戻ろうものなら、飛んだあとの祭りを見せられるところであった、よくお前さん、知らせておくんなすった」
「お話し申し上げると長うございますが……」
 この時、遥かにみとおしのきく河原の両岸を見ると、こしかたの方からは、さいぜん飯屋へ出張したらしい岡っ引が先に立って、村役人らしいのを数名引具(ひきぐ)して、こちらへ取って返して来る様子。それからまた一方には、槍を押立てた同勢が、長町の方から物々しげにやって来る。
 それを見ると、右の蛇籠(じゃかご)作りが、多少そわそわし出して、
「のちほど、ゆっくりお話し申し上げましょう。今晩、先生は、どちらへお泊りでいらっしゃいますか」
「わしかい――まだどこといって、宿はきまらないが、とりあえず、大町の高橋玉蕉という女の学者のところをたずねて参るつもりだ」
「大町の高橋先生とおっしゃいますか」
「そうだ、女で有名な学者――それに家はなかなか金持の商家ということだから、そこをたずねて来ればわかるだろう。もしまた、別に宿を取った時は、その家へ申し置くから、わかるようにして置く」
「よろしうございます、私は、只今のところ、仕事が少々忙(せわ)しうございますから、今晩――夜分も遅くなるかも知れませんが、必ずお伺い致しますから、おかまいなく、お休みになってお待ちくださいませ」
「うむ――では」
と言っているうちに、右の蛇籠作りは、大忙しがりで、ついそこの柳の木の下へ引込んでしまい、そこで、以前の通り一心に蛇籠を編み出したものですから、白雲も、ちょっと手のつけようがなく、そのまま川原道を急いで行くと、やがて、前から来た槍の同勢と、後から来た岡っ引の連中との間にはさまれたような形になりました。
 だが、別段、問題は起りません。白雲は川原道で、この前後の勢を無事にやり過して、自分は悠々閑々と歩いて行きながら、ふと、柳の木の下を見ると、蛇籠作りが一心不乱に蛇籠を編んでいるのがかすかに見られて、別段の異常を認めません。
 槍の一隊はと見ると、もう向うの岸についてしまって、自分が語学の稽古をした一ぜん飯屋の庇(ひさし)に槍を立てかけて、それぞれ休んでいる姿までが、豆のように見えているだけのものです。

         五

 川を渡りきって、白雲、途(みち)すがら思うよう、さては、駒井も洲崎にいたたまれなくなったのだな、どちらにしても、あそこが永住の地でないことはわかっているが、しかし、あわただしく出船を余儀なくされたというのは、駒井にとっては不祥だ。
 人間、馬鹿では楽ができないけれども、また、あんまり頭が進み過ぎていても、楽はできないものだ。駒井ほどの英才が、当世と相容れないのは、これも一つの人間界の約束ごとかも知れないが、由来、独創の気というものは不遇の茨(いばら)の中から開けるものだから、駒井のこれからも前途の方が、なまじい衰えかけた幕府のお役人をつとめて当世に時めいているより、どのくらい意義もあり、興味もある生涯か知れないのだ。
 思いきって、この石巻へ来たとか来るとかいうのは、この際、よいことを聞いた、またよいことを知らせてくれたものだが、あの知らせてくれた蛇籠作りの老爺(おやじ)こそ、全く解(げ)せないへんな奴だよ。なんにしても近々思いがけないところで駒井に逢えるのだ、そうして、もはや、自分に於ても、房州へ取って返す必要はなくなってしまったのか――それはいいとして、房州にはかなり自分としての財産を残して来たはずだが、あれはどうなったろう、まさか暴民どもに焼討ち、掠奪の憂目を蒙(こうむ)ったとも思われないが、いや、蒙ったにしたところで金目にしては知れたものだが、丹念にして置いた写生帖だけは、自分としてかけ替えがないからな、そこで多少の心残りが房州にないことはない。うむ、よしよし、それもあの蛇籠作りの老爺が知っているだろう、今晩、たずねて来ると言ったが、急にそわそわした様子がおかしいけれど――まあ、今晩来たらつかまえて、委細を聞いてやる。
 こんなことを考えながら、田山白雲は、中田、大の田より長町――ここはもう仙台の城下外れです――大町というのを苦もなくたずね当てて、そこで、とりあえずまずおとのうてみようと心がけた高橋玉蕉女史をたずねると、これも難なく――これは大きな商家で、女史は宮城野の別宅にいるとのことですから、改めてそこをたずねると、ちょうど在宅でもあり、また極めて歓迎もしてくれました。
 女史の住宅は数寄(すき)をこらした家です。それよりも、白雲を驚かしたことは、玉蕉女史が本当の美人であることを見たからです。
 美人に、ウソの美人と本当の美人があるかどうかは知らないが、世にいわゆる才色兼備の婦人などといっても、才の方はとにかく、色の方は大割増がしてあるのを通例とするのに、玉蕉女史に限って割引なしの美人でしたから、白雲がおもはゆく思いました。
 女史が学者であるということを知らないで見れば、それ者と見たかも知れないほど粋(いき)な美人でした。もはや四十の坂を越していようと思われるのに、姿、かたち、どう見ても二十台で通るのです――それに、永く江戸で修業して、婦人の身で塾を開いて、生徒を教えていたというほどですから、その応接もことごとく江戸前で通り、白雲をして、俄仕込(にわかじこ)みの奥州語を応用せしめる必要は少しもありませんでした。
 女史は、この遠来の客を欣(よろこ)んで、相語るほどに、両々の興味が加わって、話はいつ果つるとも覚えません。
 その夜も――夜もすがら、語っても語っても尽きないものがありました。
「そういうわけで、拙者の奥の細道は、狩野永徳というそぞろ神にそそのかされたのですが――明日はとりあえず、観瀾亭へ行って永徳に見参したいと思うのです、簡単に許されましょうかな」
 こういって女史にたずねると、女史は、
「それは容易(たやす)いことです、月見御殿の拝見ならば、よい伝手(つて)がございますから、わたくしが御案内を致しましょう、山楽の襖絵といわれますものは、わたくしもかねて拝見は致しておりましたが、あなた様と御一緒に拝見すれば、またよい学問を致します」
「いや、それは恐縮です、拙者こそ、あなたのような学者に、御自身案内をしていただくということが、はからざる光栄でした。明日は、扶桑(ふそう)第一といわれる松島も見られるし、あこがれの狩野永徳にも見参ができるし、それに東道の主人が稀代の学者であり、絶世の美――」
と言って、田山白雲が、少しあわてて口を抑えたけれども、その尻尾が少し残ったものですから、玉蕉女史を追究させました。
「絶世の――何でございますか、扶桑第一の松島や、狩野家の大名人の次へ持って来て、絶世の……だけでは罪でございますね」
 玉蕉女史からからかわれて、田山白雲が、今度は額を抑えて、
「あ、は、は、は」
と声高く笑いました。玉蕉女史も、またつり込まれて無邪気に笑いました。田山白雲はそこで申しわけのように、
「全くあなたは、絶世の美人と申し上げてもお世辞ではありませんよ。実は、あなたが怖るべき才色兼備の御婦人ということは、紹介された者の口から、よく承って来たのですが、案外なのに驚かされました」
「どうせ案外でございましょう、いったい仙台は、昔の殿様が高尾を殺した祟(たた)りで、美人は生れないのだそうでございます」
「いや、違います、全く案外の、掛価なしの才色兼備なのですから――いったい世間では、身投げの婦人があれば必ず美人にしてしまい、甚(はなはだ)しいのは首無し美人なんぞというのもありましたが、婦人で、学問がある、歌がよめるというと、おきまりに才色兼備にしてしまうのが慣例になっていまして、才の方はとにかく、色の方は大割引しなければ受取れないのが通例なのに、あなた様だけは、割引なしの美人でしたから驚かされました」
 白雲だから、これは全くお世辞ではありませんでした。
 そんな調子で、話がそれからそれとはずんで行くうちに、白雲が、ついに望蜀(ぼうしょく)の念を起してしまって、
「ああ、それそれ、もう一つ仙台家に――特に天下に全くかけ替えのない王羲之(おうぎし)があるそうですが、御存じですか、王羲之の孝経――」
「有ります、有ります」
 玉蕉女史が言下に答えたので、白雲がまた乗気になり、
「それは拝見できないものでしょうかなあ」
「それはできません」
 女史はキッパリ答えて、
「あればっかりは、わたくしどもも、話に承っておりまするだけで、どう伝手(つて)を求めても拝見は叶いません、いや、わたくしどもばかりではございません、諸侯方の御所望でも、おそらくは江戸の将軍家からの御達しでも、門外へ出すことは覚束なかろうと存じます」
「ははあ、果して王羲之の真筆ならば、さもありそうなことですが、王羲之の真筆はおろか、拓本でさえ、初版のものは支那にも無いと聞いています――そういう貴重の品が、どうして伊達家の手に落ちたか、その来歴だけでも知りたい」
という白雲の希望に対しては、玉蕉女史が、次の如く明瞭に語って聞かせてくれました。

         六

 豊太閤朝鮮征伐の時、仙台の伊達政宗も後(おく)れ馳(ば)せながら出征した。
 朝鮮国王の城が開かれた時、城内の金銀財宝には目をつける人はあったけれども、書画骨董(こっとう)に目のとどく士卒というのは極めて稀れであった。
 そのうちに、肥後の熊本の細川の藩士で甲というのがしきりに、王城内で一つの書き物を見ている――兵馬倥偬(へいばこうそう)の間(かん)に、ともかく墨のついたものに一心に見惚れているくらいだから、この甲士の眼には、多少翰墨(かんぼく)の修養があったものに相違ない。
「これこそ、わが主人三斎公にお目にかけなければならぬ」
 それを、傍(かた)えから、さいぜんよりじっとのぞいていたのが、伊達家の乙士であった。
 この乙士がまた、偶然にも同好の趣味を解し得ていたと見え――細川の甲士が一心をとられているそれを、のぞいて見ると、ああ見事――熟視すると、それがすなわち王羲之筆の孝経である。
 乙士の眼は燃えた。わが主人政宗公へ、この上もない土産――分捕って持ちかえらないまでも、一眼お目にかけたら、そのおよろこびはと、自分の趣味から、主人思いは細川の甲士と同様で、それに功名熱が煽(あお)りかけたが如何(いかん)せん――先取権はもう、その細川の甲士の上にある。
 さりとて、どうも、このままでは引けない、ともかくもぶっつかってみようと、伊達の乙士は細川の甲士に向い、なにげなく、
「さても見事な筆蹟でござるが、拙者もこの道は横好き、なんとこの一巻を、拙者の好事(こうず)にめでてお譲り下さるまいか」
 こう言って持ちかけてみたが、甲士は頭を縦に振らなかった。
「敵将の一番首はお譲り申そうとも、この一巻は御所望に応ずるわけにはいかぬ」
「それは近ごろ残念千万ながら、是非に及ばぬこと」
 礼儀から言っても、名分から言っても、先方が譲らないと言う以上、こちらは、どうしても指をくわえて引込まなければならない。ぜひなく陣へ立戻ったが、残念で堪らないから、改めてその一条を主人政宗に向って物語った。
「それは残念無念――そのほうが我に見せたいと思うより以上、おれはその品を見たい、見ずには置けぬ」
 そこで独眼竜は馬を駆(か)って、直ちに細川三斎の陣を訪れた。
「突然の推参ながら、たって所望の儀は、さいぜん貴公の家士が稀代の名筆を分捕られたそうな、それを一目拝見が致したい」
「容易(たやす)き儀でござる」
 三斎もそれを否(こば)まん由はなく、今し甲士が分捕って齎(もた)らしたばかりの一巻をとって、政宗の手に置いた。
 政宗それを取り上げて見ると、唐太宗親筆の序――王右軍の筆蹟――独眼竜の一つの目が、その全巻の中へ燃え落ちるばかりになっているのを見て、急に驚き出したのは細川三斎であった。
 この勢いでは、この男に持って行かれてしまうかも知れない――所望と打出された以上は、相手が相手だけに、どうしても只では済まされない、ここは先手を打つよりほかはないと、老巧なる細川三斎は、政宗と王羲之(おうぎし)とをすっかり取組まして置いて、穏かに楔(くさび)を打込んだ、
「伊達公の御来駕(ごらいが)を幸い、密談にわたり候えども、かねがねの所存もござること故、折入って御相談を願いたい儀は――」
と、改まって物々しく出た。王羲之に打ちこみながら、政宗は、
「何事かは存ぜねども、御心置なく申し聞けられたい」
「余の儀でもござらぬが、太閤殿下の威勢によりて天下は一統の姿とはなりつるが、これで安定とは、我人共に得心のなり申さぬ時勢、太閤百年の後、天下再び麻の如く乱るるや否や――然(しか)る上は、君は東北にあって本土の頭を抑え、不肖は九州にあってその脚を抑え、かくして、南北相俟(あいま)って国家のために尽しなば、そのしあわせ、我々の上のみならずと存じ申す。よって、今日貴公の来臨を機会とし、伊達公と細川家――末永く親類の名乗りを致したいものでござるが――」
 練達堪能(れんたつたんのう)の細川三斎から、こう言われて、豪気濶達の伊達政宗が、その返答を躊躇するようなことはなかった。
「それは、深慮大計の御一言、不肖ながら我等とても同様の所存、然らば今日より、細川家と伊達家は、末永く親類づき合いをすることに致そう」
「早速の御承諾かたじけなし――然らば、その結納(ゆいのう)の記念として」
 細川三斎は、伊達政宗の手から王羲之の孝経を受取って――その場で二つに裂いた。
「この上半を君に進呈し、下半は忠興(ただおき)頂戴し、これを以て心を一にして、両家親類和睦の記念とつかまつる」
 そこで、この一巻が、伊達家と細川家と、両家にわかれての家宝となった。
 それより物変り星うつり、伊達家は政宗より五代、名君と聞えた吉村の時代になり、細川家もまた当然越中守宗孝の時代となったのである。
「ところが、どちらがどう伏線になっていることでございますか、この二つに分れた王羲之が、それとは全く異なった因縁と出来事とによって、一つになる機会を得ました、それで話が伊勢の国へ飛ぶのでございます」

         七

 玉蕉女史は、事実の非常に奇なる物語を、やさしい物言いで、たくみに語り聞かせるものですから、白雲も膝の進むのを覚えませんでした。
 朝鮮陣の物語から、話題一転して、ここは伊勢の国、藤堂家の城下の舞台となる。玉蕉女史は、□々(びび)として次の如く物語を加えました、
「御承知の通り、伊勢の国は、大神宮参拝の諸国人の群がる土地でございます、それだけに土地に、他国人を相手に悪い風儀も多少ございまして、藤堂家の家中のさむらいにも、折々、通りがかりの旅人に難題を吹きかけ、喧嘩を売り、相手を困らせて置いて一方からなれ合いの仲裁役を出し、そうしてどうやら事を納めたようにして酒手(さかて)をせびる――というような風の悪い武家が無いではなかったそうでございますが、いずれも遠国の旅人ゆえ、相手が怖がって、無理を通したというようなわけでございましたが、藤堂家からはお隣りの、大垣藩の戸田家の方々がそれを聞いて苦々しいことに思いました。これはひとつ遠国旅人の迷惑のために、最寄りのわが藩中に於て目附役を買って出て、藤堂の悪武士の目に物見せて置いてやるべき義務がある、こんなように思いまして、戸田家の剣道指南役のなにがしという方が、わざと入念の田舎武士風によそおって、伊勢詣りを致すと、案の如く、藤堂家の悪ざむらいにひっかかりましたものですから、御参なれとばかり、それを取って抑え、さんざんにこらしめ、固く今後をいましめて許し帰したとのことでございますが、それだけで済めばそれでよろしいのでございますが……」
 右のこらしめの武士は、実は戸田家の指南役が姿を変えて、いたずらに来たのだという噂(うわさ)が、藤堂様の耳に入ったものですから、藤堂様もいい心持はなさらず、それに家中の者が戸田家の仕打ちを憎んで、その儀ならば、仕返しとして、戸田家に向って、うんと恥をかかせてやれ――という一念が昂じて、ついに戸田の殿様を暗殺してやろうという血気にはやるのが、とうとう実行に現われてしまいました。
 それは藤堂家の家中で、板倉修理というさむらいが、江戸の西の丸のお廊下に身を忍ばせて、戸田の殿様のおかえりを待受けていて、不意に飛びかかって斬りつけたのですが――
 間違いのある時は、いよいよ間違いのあるもので――板倉修理が戸田の殿様と思って斬りかけた先方は、思いきや前申し上げた肥後の熊本の細川越中守宗孝侯でございました。
 細川様こそ、何とも申上げようのない御災難で――実は、その時、板倉修理の一刀で御落命になったそうでございますが、そこへ通り合わせたのが、これも前申し上げた通り、名君の聞え高い仙台の吉村侯でございました。
 殿中、上を下への騒動の中に、通り合わせた伊達吉村侯は、細川侯を介抱し、
「細川越中守、ただいま卒中にて倒る、伊達陸奥守お預り申す」
と言って、血の垂れたところへは、全部小判を敷きつめて、御自分のお乗物に、越中守の御死体とお相乗りになって下城なされました。
 桜田御門の検閲は厳しいそうでございますが、その時、吉村侯のお乗物は、東照宮御由緒附きの胴白(どうじろ)のお乗物――それに太閤様以来、伊達家だけにお許しの活火縄(いきひなわ)で、粛々と行列を練ってお通りになったので、どうすることもできず――御面会のために群がる者へは、
「越中守殿は卒中にて倒れたが、只今、粥(かゆ)一椀を召上られたから心配御無用、御療養中、面会は一切おことわり――」
ということで、とりあえず細川家へ急をお告げになりました。
 細川家では、その翌日、「細川越中守宗孝、薬用叶わず、卒中にて卒去」ということの喪を発しましたが、暗殺は公然の秘密に致しましても、伊達家の証明如何(いかん)ともし難く、病気ということで公儀の取りつくろいも一切御無事に済みました。
 これはこれ、有徳院様お代替りの延享四年十月十五日のことでございました。
 御承知の通り、国主大名が殿中に於て非業(ひごう)の死を遂げた場合には、家名断絶は柳営(りゅうえい)の規則でございますから、伊達公のお通りがかりが無ければ、細川家は当然断絶すべき場合でございました。そこで、細川家が再生の恩を以て伊達家を徳とすることは申すまでもございません――その時に、細川家で家老たちが相談をして、文禄朝鮮征伐の時の王羲之の孝経の半分を持ち出し、いささか恩義に酬ゆるの礼として、これを伊達家に御寄贈になりました。これで細川家五十五万石が救われ、王羲之の孝経は完全な一巻となって、伊達家に秘蔵される運命になったのだそうでございます。
 右の来歴を逐一(ちくいち)聞き終ってみると、白雲はあきらめたようなものの、せめて、その□本(もほん)でも、うつしでも、片鱗でも見たいものだと頻(しき)りに嘆声を発しました。
 玉蕉女史も、来歴のことだけはかなりくわしく知っているが、その片鱗をもうかがっていないことは白雲と同じ、そうして、しきりと渇望の思いにかられることも同じであります。
 けれども、結局、いかに執心しても、こればかりは我々の歯が立たないということに一致し、徒(いたず)らに王羲之の書――その他の書道の余談に耽(ふけ)ることによって、夜もいたく更けたようです。
 いつまでたっても話の興はつきないが、この辺で御辞退と白雲も気を利(き)かせると、廊下伝いの立派な客間へ白雲を案内させて、美しい夜具の中に、心置なき塒(ねぐら)を与えくれるもてなしぶりに、白雲もなんだか夢の国へでも来たような気持になって、うっとりと、その美しい夜具の中に身を置いてみると――王羲之を中心としての話に、あんまり身が入り過ぎて、他の多くのかんじんなことを、すっかり忘れ去ってしまっていたことに、我ながら苦笑いをしました。
 そのうちの最初として、今晩たずねて来る口約束になっていた、あの名取川の蛇籠作(じゃかごづく)りの変な老爺(おやじ)――こっちは話に夢中で忘れてしまってはいたが、先方は、自分から念を押して今夜はかならずやって来るとあれほど言っていたのにまだ訪ねて来た様子はなし――責めは先方にあるのだ、と独文句(ひとりもんく)を言ってみたりしました。

         八

 まあしかし、明日という日もあるし、何とか沙汰があるだろう――と白雲は、タカを括(くく)って、その美しい夜具に身をうずめると、まもなく夢路の人となりました。
 旅の疲れと、夜更しとで、かなりの熟睡に落ち込んで行ったはずの白雲が、夜中にふと眼をさましたものです。夜中とはいうけれども、寝に就いた時が、もう暁間近になっていたかも知れません。
 ふと、眼がさめた途端、まず鶏の啼(な)く声が耳に流れこむと一緒に、有明(ありあけ)をつけて置いた朱塗の美しい行燈(あんどん)がぼんやりと――そうして、その行燈の下にうずくまっている怪しいものが一つ――睡眼に触れると、さすがの白雲がハッと身を起して、枕許の刀をとろうとしたのです。
「何者だ!」
 白雲として、自分ながらかなり慌(あわただ)しい挙動であると思ったが、事態、そうしなければならない場合を、先方は全く静かなもので、
「先生、お静かに」
と、たしかにうずくまった奴が、説教でもはじめるように物を言いかけました。
「何だ、何者だ、貴様は」
 白雲は半分起き直って、刀を引寄せていました。そうして、もう睡眼がパッと冴(さ)えた眼で見ると、行燈の下にうずくまっている奴は、旅の合羽(かっぱ)を、肩からすっぽりと着て、頭には手拭を米屋さんかぶりに捲いている。
「先生、お約束によって参上いたしましたが、少々遅くなって相済みません」
 でも、まだ白雲には、はっきりと納得(なっとく)ができない。
「貴様、どろぼうの端くれだな、貴様たちと約束をした覚えはない」
 大抵のどろぼうならば、この豪傑画家の白雲から一喝を食えば、尻尾を捲くであろうのに、こいつに限ってどこまでも、いけ図々しい。
「お忘れあそばしましたか、日中、あの名取川の川原でお目にかかりました、蛇籠作りの老爺(おやじ)でございます」
「うむ、そうか」
 白雲がまたここで、そっくり返らざるを得ません。
 そうか、そんならそうと、なぜ早く言わないのだ。それにしても、いよいよ変な老爺だ、いったい、いつ、どうして、この間(ま)に、誰に案内されて入って来たのだ――というその咎(とが)め立ても、こうなっては気が利(き)かない。そこを先方が、いよいよいけ図々しく喋(しゃべ)りました、
「夜分、あんまり遅くなりましたものでございますから――いえ、その実は、こんなに遅く参ったのではございませんが、先生が、あの御婦人様と、あんまりお話に身が入っておいででございましたから、ついあの時に、御案内を申し上げる隙(すき)がございませんで、で、つい、こんなに遅く上りまして、あいすみませんことでございます」
「なに、では貴様、なにか、拙者がこの家の女主人と対話をしていた時分に来ていたのか」
「はい――あんまりお話が持てておいでなさいますから、お邪魔になってもなにと存じまして、いったん出直して、また上りました」
「ふーむ」
 白雲は、そこにうずくまっている物のかたまりを、うんと睨(にら)みつけていました。遅くなって上りましたはいいとしても、夜更けたゆえ、案内を頼むことに気兼ねをして直接にやって来たのも、まあこの際ゆるすとして、いったいそのザマはそれは何だ、旅ごしらえのままで人の座敷へ侵入して来て、とぐろをまいたようにうずくまり込み、そうして、頭にまいた無作法な、下品な手拭かぶりを取ろうともしない挨拶ぶりは何だ。
 白雲は、いまさらその辺を咎め立てするのもドジを重ねるような気がしていると、
「先生、実は、わたくしも忙しい体だものでございますから、このままで失礼をさせていただきますでございます――で、手っとり早く川原のお話の続きを申し上げますと、駒井の殿様は今明日のうちに石巻の港へお着きになる、それからあの殿様の御家来や、居候といった一味のものもみんな同じお船でおともをして参ります、田山先生だけが御不足でございましたが、それもこうしてお目にかかれる、もはや申し分はございません。そこで、この七兵衛――いや、この蛇籠作りの老爺も、追っつけあとから馳(は)せ参じさせていただくのでございますが、先生のお荷物、それからお書きになった品々などは、私が取りまとめて、船へおのせ申すものはおのせ申し、わたくしが持って参りましたものは一切、行李にしまいまして、石巻の田代屋という宿にあずけてございますから、あれへおいでになってお受取りを願います。残らず始末を致して参りましたはずでございますが、もしや、一品二品、取残しがございましても、あんな際の時でございますから、ごかんべんが願いたいので……ともかくも、石巻の田代屋というのをたずねてお越しになって、駒井の殿様のお着きをお待ち下さいませ」
 態度のいけ図々しいのに反して、その取りしきりぶりと、物言いとは、行届ききったもののようですから、白雲がいよいよ手がつけられない気持がしました。
「うむ、そうか、それは何から何まで厄介千万になったが――お前という男は何者だ」
「いや、それは、あとでお船のうちで、ゆっくりと身の上話を聞いていただく時節がございましょう――とにかく、これだけのことを申し上げて置きまして……」
「そうして、お前はなにか、これから旅立ちをしようというのらしいが、どこへ行くのだ」
「いいえ、旅立ちというほどじゃございません、ちょっと、この辺をかけめぐってみたいような虫が起りましたものでございますから。なあに、病気がなおりますと、直ぐにまたあなた様のおあとを追いかけて、石巻へ参ります」
「そうか」
 白雲は、それよりほかに何とも言いようがない。憮然(ぶぜん)として、なお燈下にうずくまる男を見下ろしていると、右の老爺(おやじ)は平蜘蛛(ひらぐも)のような形をしているのが、気のせいか、見ているうちに平べったくなって、畳にべったりくっついてしまっているように見えて、白雲も少し気味が悪いような気分にさえなりました。
 ぴったりと畳の上へ、一枚になって、吸いついた形になって、顔だけを上げて、蛇籠作りの老爺は、
「時に先生――」
 いやに改まった物の言いぶりです。
「何だ」
「承りますと先生は、あの赤穂義士の書き物がたいそうお好きだそうで……」
「ナニ、赤穂義士の書き物――そんなものは別に嫌いではないが、改まってきかれるほど好きではない」
「でも先生は、仙台様の御宝蔵にあって、たとえ将軍家が御所望になってもお貸出しをなさらない赤穂義士の書き物を、一目見たい見たいとおっしゃったようにお聞き申しましたがな……」
「こいつ……」
 白雲が罵(ののし)ったのは、怒ったからではありません、呆(あき)れ果てたからです。思わず眼をまるくして「こいつ」と前置をして、
「それをどこで聞いた。赤穂義士ではない、支那の王羲之(おうぎし)といって、支那第一等の書家だ。その書が仙台家にあるそうだから、それを見たい見たいと言ったには相違ないが、それを貴様、どこで聞いていた」
「いや――その、ちょっと、失礼ながら立聞きを致しました。先生が、それほどにごらんになりたがるほどのものならば……と、この老爺、またしても持って生れた病がきざして参りましてな」
「ナニ、何がどうしたというのだ、仙台公秘蔵の王羲之は、国主大名将軍といえども借覧のかなわないものだから、是非に及ばない。それがどうしたというのだ」
「へ、へ、へ、実は、この老爺も乗りかかった船でございますから、まあ、止せばいいんでございますがね、持った病でございましてな――人の見られないものを見たい、人の持てないものを持ってみたいなんぞと、ガラにない山っ気がございますものですから、まこと仙台様の御宝蔵のうちに、国主大名将軍様でさえも拝見のできない品とやらがございますならば、ひとつ何とかして、ちょっとの間でも、それを……何とかして……」
「馬鹿――何とかしてと言ったところで、貴様風情(ふぜい)に何となる」
「そこのところを、何とかして、ここ二三日のうちに……駒井の殿様のお船がおつきになるまでの暇つぶしに――と申しては勿体(もったい)のうございますが、できないはずのそのお宝を、それほどの御所望でいらっしゃいますから、それを一目なりと、あなた様のごらんに入れて――それからまた思召(おぼしめ)しによっては、元通り、どなたにもわからないように、もとのお蔵へ返して置いて上げたいと、こんな、いたずら心が出たものでございますから、ちょっと、御念を押しに参りましたようなわけで……では、それは赤穂義士じゃございませんでしたか、支那の王羲之という支那第一等の字を書く方、その方のお筆になった巻物――それだけでよろしうございますね。はい、承知を致しました、やり損ないは御容捨を願いまして……」
「うむ――貴様」
 田山白雲は徒(いたず)らに眼をむいて、大きな唸(うな)りを発するのみであります。
 その時にまた鶏が啼きました。そうすると、平べったくなっていた老爺が、急にのし上り、
「では、これで失礼を致します、御免下さいまし」
 すっくりと立って、障子の隙間から――事実は相当にあけて出て行ったのですが、白雲の眼からは、あのままで、畳の中へ吸いこまれてしまったのか、でなければ、障子の隙間から消えてしまったようにしか受取れないので、やっぱり眼を光らして呆れ返って、さて、ホーッと太い息をついたのみであります。

         九

 駒井甚三郎の無名丸(むめいまる)が、あれからああして、無事に牡鹿郡(おじかごおり)の月ノ浦に着いたのが、洲崎を出てから十四日目の夜のことでありました。
 着船は、わざと夜を選んだのは、駒井の思慮あってしたことでしたが、無論その前後、この辺の漁船商船が、駒井の異形なる船の出現を怪しまないはずはありません。
 だが、朝になって見ると、その船の上に、仙台家の定紋(じょうもん)打った船印が立てられてあることによって、浦の民が安心しました。
 御領主の御用船とあってみれば、文句はないのですが、駒井がそうして無断に仙台家の船印を濫用してよいのか、一時の策略で、それを利用してみても、あとの祟(たた)りというものはないか。
 その辺には、駒井としては充分の遠謀熟慮があってのことだろうから、それは憂うるに足りないことでした。第一、船つきをこの月ノ浦に選んだということにしてからが――故意でも、偶然でもなかったのです。
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