大菩薩峠
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:中里介山 

 今日から「Ocean(オーション) の巻」と改めることに致しました。Ocean は申すまでもなく「大洋」のことであります。わざと英語を用いたのは気取ったのではありません。「大洋」とするよりも「海原」とするよりも「わだつみ」と言ってみるよりも、いっそこの方がこの巻にふさわしいような気持がするからであります。従来も「みちりや」と名附けてみたり「ピグミー」を出してみたりするのも、やはり同様で、ことさらに奇を弄(ろう)するという次第ではありません。規模が大きいだけに、今後も思いがけない言葉が少しは飛び出すかも知れません。もし、不分明でしたら、不分明のままに飲み下しておいていただきましょう。「誦すべくして解すべからず」とすましておいた方がよろしいと思います。

         一

 駒井甚三郎と、田山白雲とが、九十九里の浜辺の波打際を、轡(くつわ)を並べて、馬を打たせておりました。
 駒井は軽快な洋装に、韮山風(にらやまふう)の陣笠をかぶって、洋鞍に乗り、田山は和装、例の大刀を横たえた姿が、例によって奇妙な取合せであります。
 それで二人は、九十九里の浜辺を、或いは轡を並べたり、或いは多少前後したりして、今でいえば午後三時頃の至極穏かな秋晴れの一日を、悠々(ゆうゆう)として、馬を打たせ行くのであります。
 天高く馬肥(こ)ゆといった注文通りに、一方には海闊(うみひろ)くという偉大な景物を添えているのだから、二人の気象も、おのずから昂然として揚らざるを得ないような有様です。
「どうです、田山君、この辺の海は」
と、駒井甚三郎が海をながめて、少し後(おく)れた田山を顧みて言いました。
「海岸の風物が一変したら、海そのものまでも別のような感じがします」
と、田山白雲が答えました。
「そうですね、九十九里は全く別世界のような気がしますね、大東(だいとう)の岬(みさき)以来、奇巌怪石というはおろか、ほとんど岩らしいものは見えないではありませんか、平沙渺漠(へいさびょうばく)として人煙を絶す、といった趣ですね」
「左様、小湊(こみなと)、片海(かたうみ)あたりのように、あらゆる水の跳躍を見るというわけでもなし、お仙ころがしや、竜燈の松があるというわけでもなし――至極平凡を極めたものですね、海の水色までが南房のように蒼々(そうそう)として生きていません――沼の水のようです」
「しかし、この九十九里が飯岡(いいおか)の崎で尽きて、銚子の岬に至ると、また奇巌怪石の凡ならざるものがあります。それから先に、風濤(ふうとう)の険悪を以て聞えたる鹿島灘(かしまなだ)があります。ただ九十九里だけが平々凡々たる海岸の風景。長汀曲浦(ちょうていきょくほ)と言いたいが、曲浦の趣はなくて、ただ長汀長汀ですから、単調を極めたものです」
「でも、不思議に飽きません。強烈にわれわれを魅するということはないが、倦厭(けんえん)して、唾棄(だき)し去るという風景でもありません。あるところで海を見ると、恐怖を感ずることもあれば、爽快に打たれることもある、広大に自失して悲哀を感ずることもないではないですが、この平凡なる九十九里の浜で、こうしてなんらの奇抜な前景もなく、沼の拡大したような海を見ていると、海というものが他人ではない気持がします」
 田山はこう言って、曾(かつ)て南房州の海の生きているのを見て、感激を以て語った時の表情とは全く別人のように、茫然としていると、駒井甚三郎もうなずいて、
「風景としてはとにかく、単に海を広く見るという点からいえば、日本中、この辺の海岸に及ぶところはないでしょう。この海を Pacific Ocean と言います、太平洋とか大海原(おおうなばら)とか訳しますかな、米利堅(メリケン)の国までは遮(さえぎ)るものが一つもありません。われわれは今、世界でいちばん広くながめ得る地点から見ているのです」
 田山白雲が、それについて言いました、
「事ほど左様に、われわれは世界で最も大きなもの、最も広いものに接していながら、その刺戟というものを少しも感じないのは、不思議といっていいです」
 駒井甚三郎が、それを肯定して、
「そうです、何かわれわれに刺戟を感ずるもの、威圧を感ずるもの、窮屈を感ぜしめるものは、偉大なものじゃありません、少なくも広大なものではありません」
「そういえば、そうかも知れないが、そうだとしてみれば、われわれに感激を与うるものは、すべて、そのものの迫小ということを意味するゆえんとなりますね」
「一概に断言もできないが――刺戟の強いものには、あまり偉大なものはないようです」
「といったところで、それでは刺戟のない、感激のないものが、ことごとく偉大だというわけにはゆきますまい、私は感激の無いところに、偉大性は無いように思われてなりません」
「感激というものは、その偉大なるものが、ある隙間(すきま)から迸(ほとばし)った時に、はじめてわれわれに伝わるので、偉大そのものの方からいえば、むしろ破綻(はたん)に過ぎないと思います。たとえばです、この平々凡々たる大海のある部分に波が立つとか、岩に砕けるとかした時に、人は壮快を感じたり、恐怖を感じたりして、はじめて威力に感激するのですが、こうして無事に相接している時は、いま君の言ったように、海が全く他人ではないのです。外房の波の変化に、君が衷心(ちゅうしん)から動かされたような感動を、ここへ来て受け得られないところに、受け得られないで平々淡々たる親しみを感ずるところに、海の本色と、その偉大さがあるといってもいい。そういう意味において、人間にも、人間のうちの選ばれた偉人英雄といったような種類の人にしてからが、逢うて強烈な感激を受ける人もあれば、逢うて失望こそしないが、案外の平穏に、茫然自失するといったような種類の偉人もありましょう」
「それは、あるかも知れません」
「たとえば――私は、いつぞや君から、日蓮上人のことを鼓吹せられて、全く新しい世界を見せられたように感じました、そして、私の癖として、一応君から教えられたところを追従して、遅蒔(おそま)きながら日蓮上人の研究をはじめたことは、君も御存じの通りです」
「いやはや」
「あれから、僕の研究癖というようなものが嵩(こう)じて、日蓮について、まず現在のところで能(あと)うだけの研究をしてみたつもりだが、日蓮を研究して得たところのものは、やはり君に教えられたところ以上には出でることができなかったが、案外にも、日蓮を研究して、他の大きなものに突き当ったことは、まだ君に話さなかった」
「聞きません――お弟子がお弟子だから、さだめてすばらしい出藍(しゅつらん)ぶりと存じます、どうか、この鈍骨の先達(せんだつ)に、その研究の結果をここで教えて下さい」
「なあに、それほどの創見でもなんでもないのだが、日蓮を知る者は、どうしても法然(ほうねん)を知らなければならない、というの一事を見出しました」
「法然――浄土宗の法然上人ですか」
「そうです、法然と、日蓮とは、他人ではありません」
「これは斬新なお説を承ります、古来、法華と門徒とは、仲の悪い標本の大関ものと見立てられていますぜ。末流が、そういうふうに角(つの)突き合うのみならず、当の日蓮上人が、法然上人と、その仏念に対する義憤と、憎悪とは、あなたも十分に御存じのことと思います。それを根本から覆(くつがえ)す新説を、あなたはどこから発見なさいました、研究家は違ったものです……」
 田山白雲は逆襲気味になりましたが、駒井甚三郎は頓着せず、
「ところが法然と、日蓮とは、切っても切れない親子です、法然は慈愛溢(あふ)るる親であって、日蓮はその血を受けた無類の我儘(わがまま)息子です」
 田山白雲はようやく不服の色で、
「さすがに研究家だけに、眼の着けどころが違ったものですね、法然と、日蓮が、他人でないということにも恐れ入りましたが、そのまた法然と、日蓮が、血肉を分けた親子だとは驚き入りました。拙者の方は恐れ入ったり、驚き入ったりするだけで文句はないが、それでは浄土宗と、浄土真宗というものから尻が来ましょうぜ。浄土には浄土の法脈があり、ことに真宗の親鸞上人(しんらんしょうにん)なんて、われこそ法然上人の嫡子(ちゃくし)なり、と名乗りを立てている人をそっちのけにして、にくまれっ児の日蓮上人を養子にしてしまったんでは、名主総代から、親類組合までが納まりますまいぜ」
 駒井は、それに就いて言いました、
「だが、何といっても法然あっての日蓮ですよ、法然が、日蓮を産んだということは、途方もない独断に見えるかも知れないが、これは結論を先にして、前提を省いたから君を驚かしたものだろう。ひとつ、順序を追うてみようか。まず……」
 田山白雲は、馬上から砂地の滑らかなところを、これに何か描いてやりたいような気持でながめながら、駒井の論法を聞こうとしていると、駒井甚三郎は、前方の海をしきりに見向いて、
「まず、法然と、日蓮とは、地位が違い、性格が違いますね」
「性格の違うのはわかっているが、地位の違うというのは、どう違うのですか」
「生活していた時の、社会的地位とでも言いますかな」
「なるほど」
「法然は、その生ける時代において、最大級の人格を誰にも認められておりましたが、日蓮の社会的地位は比較になりません」
「そうでもないでしょう、あの通り強烈に、時の権威に抗し、一代に活躍した大人物の行為を、誰が認めなかったと言います」
「それは、ある方面を騒がせたり、てこずらせたり、もてあまさしめた強烈なる行動は、その当時の相当の注意を惹(ひ)いたに相違ありませんが、その認められ方、注意の惹き方というのが、到底、法然上人のそれと、比較になるものではありません」
「どうして」
「法然上人という人は、その生ける時に、知恵第一ということを公認されておりました。この知恵第一というのが正銘の意味で、当時の学界を総べての第一人者であったのです。単にその宗門においての第一の学者というだけではありません、あの時代のあらゆる方面において、法然(ほうねん)は第一等の学者でありました。ほとんど生涯を専門の学問に没頭したその道の権威が、その道のことを、法然に教えられねばならなかったということは、事実に違いありますまい。単に学者としてだけでも、法然は当時の最高地位にあって、誰もその地位を争い得るものが無かったのです」
「そうして」
「それから、学者としてでなく、単に社会的地位において、尊敬せられたことも比類がありません。親しく帝王の師となり、法筵(ほうえん)の時は、後白河法皇よりさえ上席を譲られていました。学者だから、社会的地位が高いから、それで偉大なる宗教家だという理由は少しもないが、少なくとも、この二つのものは、日蓮に無いでしょう」
「それは無論です」
と、田山白雲が昂然(こうぜん)として肯定しながら、言葉をつづけました。
「それは無論です、日蓮が朝廷貴紳の寵児(ちょうじ)でなく、東国の野人であることを、いまさら洗い立てをする必要がどこにあります、そんなことは比較になりません、比較したって、なにも、少しも両者の優劣、尊卑、大小に関係したことじゃありません」
「まだ結論に行っているわけではありません、単に、逐一(ちくいち)比較してみようとしているだけのものですから、そのつもりでお聞き下さい」

         二

 二人は談論に我を忘れて、九十九里の浜辺に馬を歩ませて行きました。
 談論に我を忘れているのは、単にこの二人の上ではない。いったい、この二人が九十九里の浜辺に相並んで馬を歩ませているとはいうが、九十九里も長いのに、どの地点を歩ませているのだか、どちらに向って歩ませているのだか、何を目的にここへ出かけて来たのだか、その辺のことが忘れられている。
 二人の歩ませている地点は、蓮沼から富浦の間あたりのことで、行手は飯岡の岬、こし方(かた)は大東の岬、かれこれ九十九里の中央あたりのところを東北に向って、つまり飯岡であり、銚子である方面へ向って、静かに進んでいるのであります。
 もう少し大ざっぱな数字でいえば、九十九里を四十七里半あたりのところまで、日本里数の十五里と見れば、七里半あたりのところまで進みつつありながらの、以上の会話であります。
 二人の歩ませつつある地点はそうだとしても、二人はまた何用あって、この辺まで遠出をしてしまったものか。
 それは一口に房総半島とはいうけれど、駒井の根拠地である洲崎(すのさき)の鼻から見れば、ここは数十里を距(へだ)てている地点であります。
 さればこそ、二人のいでたちも、あの辺の海岸を、仕事の上や、興に乗じての散歩で往来するのと違い、立派な旅の用意になっているのが証拠ですけれども、その用向のほどは、甚(はなは)だ不可解なものがあります。
 第一、二人がこうして、出立してしまった後のことを考えてみるとよくわかる。
 造船所の方は、もはや相当に任せきっても、多少の時日は明けられることに心配ないにしても、その遠見の番所の留守宅というものが気にかかるではないか。
 こうして、肝腎の二人が出て来てしまったあとの留守のことを想像すれば、二人とても、そう暢気(のんき)に、古今を談じているわけにもゆくまいではないか。
 清澄の茂太郎は何をしている、岡本兵部の娘も精神状態が心もとないのに、金椎(キンツイ)は耳が聞えないのに、マドロス氏は言葉が通じない。ことにマドロス氏はややもすればウスノロ氏に逆戻りをするような憂いはないか。
 ともかくも、駒井と、田山と、二人のうちが一人だけ残っていればまだ安心なものを、二人が轡(くつわ)を並べて出てしまっては、実際あとのことが思われる。せっかく、泊りを重ねて外出の必要があるならば、駒井は、むしろ田山に後を託して置いて、多少の世話は焼けようとも、マドロス氏あたりを引具(ひきぐ)して来るのが賢明ではないか。
 マドロス氏がいけなければ、むしろ金椎でも供につれて来る方がよかった――
 だが、そんなことまで心配する必要はあるまい。二人ともにこうして悠々(ゆうゆう)と出馬のできるにはできるように、相当の後顧(こうこ)の憂いを解決しておいたればのことで――子供ではないから、その辺に抜かりのあるべきはずもなかろうではないか。
 ただ一つ、思われるのは例の茂太郎という小倅(こせがれ)が、天馬往空の悪い癖で、今度は河岸(かし)をかえて東北地方へでも飛び出し、兵部の娘がそれを追っかけて、例の夜道昼がけを厭(いと)わぬ出奔(しゅっぽん)ぶりを発揮したために、二人が取押え役としてここまで出向いて来たのかと、ちょっと想像も働くが、それにしても二人の落ちつき加減は、駆落者を追ったり、追われたりする空気ではない。
 そうして、おのおの談論を交わしながら馬を進めて行くうち、駒井が、ちょっと手綱(たづな)を控えて、海岸の一点を見つめました。
 さては、また例の平沙(ひらさ)の浦のいたずらな波がするすさびのように、女軽業(おんなかるわざ)の親方の身体(からだ)をでも、そっと持って来て、その辺の砂場へ捨てたのか、そうでなければ、またジャガタラ芋(いも)の一俵もころがっているのか。
 駒井は、早くも馬からヒラリと飛び下りて、波打際に小走りに走って行ったものですから、田山が眼を円くしていると、駒井の拾い取ったのは女軽業の親方でもなければ、ジャガタラ芋の根塊(こんかい)でもありません――それは通常のビール罎(びん)一本です。ビール罎の上に赤く十の字が書いてある。通常のビール罎とは言いながら、その時代においては、ビール罎は、決してありふれたものではありません。
 けだし、日本に於ては、英国人コブランという者が、明治の初年、横浜にビールの醸造所を設けたくらいですから、その以前に入って来ているには相違ない。その道の人は、相当に味を知っているに相違ないから、自然ビール罎なるものも、一部の方面においては、そう珍奇な物ではなかろうが、田山白雲には目新しいものでありました。
 本来ならば白雲もずいぶん飲む方ですから、境遇によっては、すでに、もはや馴染(なじみ)になりきっているかも知れないが、不幸にして彼は貧乏でしたから、外国の酒にまで手をつける余裕がなかったかも知れません。
 よし、その余裕があったからとて、彼の気性では、夷狄(いてき)の酒なんぞに、この腸を腐らせることを潔(いさぎよ)しとしなかったかも知れない。
 そこで彼は駒井の挙動をも不審なりとし、そのビール罎なるものをも珍しとして、馬上から問いかけました、
「何です、それは」
「西洋酒の罎です」
「イヤに黒い、下品なギヤマンですな」
と、一応は夷狄のものをケナしてみるのも、一つの癖かも知れません。
「西洋酒といっても、そう上等な酒ではありません、といって下等というわけでもないです、上下おしなべて飲みます、ビールというやつで、麦の酒です、麦酒(むぎざけ)です」
「ははあ、麦の酒ですか、麦の酒じゃ、熱燗(あつかん)にして飲むわけにゃあいきますまい」
と田山が言いました。
 それは、ビールというものが、燗をして飲む酒でないということを知って、そう言ったのではありません。
 酒というものは本来、米の精であればこそ、これに燗をして、キューッと咽喉(のんど)に下すことに趣味があるのだが、ばくばくたる麦ではうつりが悪い、ばくばくたる麦酒を、燗をして飲むなんぞは、あんまり気が利(き)かないと思ったものですから、偶然そんなことが口走ったのです。
「燗をして飲む酒じゃない、このまま飲むのだが、これは無論空罎です。これについて面白い話は、嘉永六年にペルリが浦賀へ来た時分、アメリカの水兵どもがこの中身を飲んで、空罎をポンポン海の中へ捨てたものです、それが、こんなあんばいに海岸に流れつくと、浦賀あたりの役人がそれを見て、あれこそ毛唐(けとう)が毒を仕込んで、日本人を殺そうとの企(たくら)みで投げ込んだものだから、拾ってはならない、無断であの空罎を拾った者は、召捕りの上、重き罪に行うべしとあって、人を雇うて毎日流れついて来る無数の空罎を怖々(こわごわ)と拾わせ、これを空屋の中へ積込んで、厳重に戸締りをして置いたものだ」
と言いながら、駒井は丁寧にこれを拾い、懐紙を抜き出して周囲(まわり)の海水を拭い、大切にこちらへ持ち帰りますから、
「毛唐の飲みからしの空罎(あきびん)なんぞを拾って、何になさる」
「見給え――この通り、厳重に封がしてあって、口に符号がつけてある」
「それじゃ、まだ中身があるのですか」
「中身といっても酒じゃない、酒は飲んでしまって、その空罎を利用して、中へ合図をつめて海に流したものです」
「ははあ」
「海流の方向を知るために、或いは何か通信の目的で、そうでない時は、単なる好奇心で罎の中へ、何事かの合図、或いは通信文を認(したた)めて、固く封じ込んで、海の中へ投げ込むと、これが漂い渡って、思わぬ人の手に拾い取られる、その拾い取った人は、投げ込んだ主(ぬし)に返事をしてやる――という仕組みになっている」
「あ、そうですか、つまり、平康頼(たいらのやすより)の鬼界(きかい)ヶ島(しま)でやった卒塔婆流(そとばなが)しを、新式に行ったものですね。そうだとすると、相当に面白い浦島になるかも知れません、封を解いて見せていただきたいものです」
 田山も、好奇心に駆(か)られて、馬から飛んで降りました。
 駒井甚三郎はナイフを取り出して、流れ罎の口をあけようと試みながら、
「海に関係のある職業の人が、海流を調査するためにこれをやったのか、航海中、船客が戯れに投げ込んだものか、或いは漂流者か、誘拐者(ゆうかいしゃ)なんぞが、危急を訴えんがために、万一を頼んでやった仕事か、いずれにしても、この罎の中には、何かの合図があるに相違ない」
と言いました。
 田山白雲は額(ひたい)を突き出して、駒井のなすところを見ていたが、駒井は巧(たく)みに罎の口をあけると、それをさかさまにして、程なく一通の紙片を引き出しました。
「ありましたね」
「ホラ、何か書いてあります」
 空罎は下へ投げ捨て、駒井はその紙片をとりのべて見ると、そこに横文字の走り書がある。
 最初から駒井は、これは、航海用の事務としてやったものではないと思っていました。
 海流調査かなにかのためにやるんならば、もう少し仕事が器用で、事務的に出来ていそうなもの。どうも素人(しろうと)の手づくりで、臨時に投げ込んだもののようだから、たしかにこれは、漂流の人の手に成ったものか、そうでなければ誘拐の憂目(うきめ)に逢うた人が、訴えるにところないために、やむを得ずこの手段に出でたものだろうと想像していました。
 しかるに、その現われた紙片の文字が横文字であったものだから、少しばかり案外には思ったが、横文字だからとて、その想像が外(はず)れたということはない、横文字で危難を訴えたり、危急を叫んだりすることはいけないという規則もない――問題はその意味を読んでみることです。
 駒井は、仔細にその横文字を読んでみると、英語で次の如く認めてあることを発見しました。
It is the great end of government to support power in reverence with the people and to secure the people from the abuse of power; for liberty without obedience is confusion; and obedience without liberty is slavery.
 駒井は、これを一通り読んで後に、最後の署名で頭をひねりました。
 その署名は William(ウイリアム) Penn(ペン) と読むよりほかはありません。それはそれに違いないが、このウイリアム・ペンという名は、この文句を唱え出した人の名だか、或いはこの流れ罎を投じた人の名だか、その辺がよくわかりません。
 だが、いずれにしても、この短い文句は、ウイリアム・ペンなる人の頭脳か、筆蹟かの産物であるに相違ない。或いは、ウイリアム・ペンという人の著作かなにかの中の文章を抜き書したのかも知れないと思いました。
 しかし、その当時の駒井は、どうもウイリアム・ペンという著名なる学者著作者の名前を知りませんでした。
 そこで、ウイリアムはよく西洋人には見える名だから、ペンというのは筆のことで、つまり、これは「ウイリアム手記」というような記号ではないかとさえ思いました。そんなように考えながら、一通り読み了(おわ)った駒井は、それを最初から好奇心を以て覗(のぞ)いていた田山の手に渡しますと、
「ははあ、全部横文字ですね、癪(しゃく)にさわるなあ。いったい、何を書いてあるんです」
と言いながら、半ば好奇、半ばイマイマしさに、それでもまだ負けない気を眼の中に湛(たた)えて、たとえ横文字とは言いながら、一字や、一句は、どうにかならないものでもあるまいと見つめていると、駒井の説明には、
「予想と違って、海流の調査でもなければ、漂流人の合図でもなし、そうかといって、ジャガタラへかどわかされた婦人が、危急を訴えたという種類のものでもなし――西洋人の船の中で、誰か消閑(しょうかん)のいたずらでしょう。しかし、いたずらにしても無意義なものではありません、かなり、厳粛な格言になっているようです」
「ははあ、何と書いてあるんです。残念だなあ、こればっかりは泥縄では役に立たない、附焼刃では歯が立たない……」
 白雲が、一方(ひとかた)ならず悶(もだ)え出したようです。
 駒井甚三郎は、田山の手から再びその紙片を受取って、英語の発音で、一度スラスラと読んでから、改めて、
「つまり、この短文の意味は、政府の目的というものは、人民と相尊敬し合って権力を行使せねばならぬものだ、権力を濫用(らんよう)してはならん、服従の無き自由は混乱であって、自由の無き服従は奴隷である――とこういう意味であります」
「なるほど」
「これはウイリアム・ペンという人の言った言葉のようですが、そのペンという人が何者か、いま思い当らない」
「毛唐でしょう」
「西洋人には違いないが、イギリス人か、フランス人か、或いはアメリカの人か、どの程度の人か、どうもわからないが、この短文の意味はこれだけで明瞭です」 
「そうですね――もう一ぺん、その翻訳をお聞かせ下さい」
「とにかく、馬に乗りましょう」
 駒井は右の紙片をかくしにハサんで馬に乗ると、田山もつづいて馬上の人となり、かくて二人は、また以前のように九十九里の浜の波打際を並んで歩み出し、そこで駒井は言いました。
「権力を用うる政府の最大主眼は、人民と相敬重(あいけいちょう)することにあって、権力の濫用(らんよう)から、人民を確保しなければならぬ、服従無き自由は混乱であって、自由なきの服従は奴隷である――まあ、こんな意味です」
「ははあ、つまり、政府と人民とを対等に見、服従と自由とを、唇歯の関係と見立てたのですな」
「まあ、そんなものです、イギリスか、アメリカあたりの政治家の言いそうなことで、立派な意見です」
「しかし、駒井さん、西洋では、そんな理窟が通るかも知れませんが、日本では駄目ですね」
と白雲が、キッパリと言いました。
「なぜです」
「なぜといったって、政府と人民とが相敬重し合うなんて、そんなことは口で言ったり、筆で書いたりすれば立派かも知れないが、事実、行われるものじゃありません」
「どうしてです」
「人民なんていうものは、隙(すき)があればわがままをして、我利我利(がりがり)を働きたがるものですから、うっかり敬重なんぞをしてごらんなさい、たちまち甘く見られて、何をしでかすか知れたものじゃありませんよ、政府は政府として、威厳を以て人民に臨まなけりゃ駄目ですよ」
「依(よ)らしむべし、知らしむべからずですか」
「そうですとも。そりゃ一般の程度が進むか、人間がズッとわかっていれば、どこまで尊敬信用してもかまわないが、まだ大多数の人民なんていうやつが、さほどたいしたものじゃありませんからな、やっぱり政府は、力でグングン押していかなけりゃ駄目ですよ。御覧なさい、なんのかんのというけれども、水野越前や、井伊掃部頭(いいかもんのかみ)が押えていた時分は、徳川幕府も力がありましたけれど、昨今のように、アメリカも尊敬しなけりゃならん、ロシアも一目置いた方がいい、諸国の浪人者に対しても、そう強圧ばかり加えてもいかん、大藩の御機嫌を損ずることはなおさら……こう政府が八方四方尊敬ばかりしていた日には、国が立ち行きませんよ。服従なき自由とか、自由なき服従とか、服従と、自由を訓練なき国民に使い分けをさせようなんぞとは、氷水を煎(せん)じて飲ませようというようなものです。国民の服従だけでいいじゃありませんか、政府は治むべし、人民は服従すべし、それだけでたくさんですよ――もう少し一般が自覚というのをもって、他から治められずとも、自ら治むることを知ってきた時節は格別、今のところは薄っぺらな人気の煽動でどうでもなるんだから、尊敬だの自由だの言わん方がいい、権力の濫用より、民力の濫用の方が厄介千万です」

         三

 二人は議論を交わしながら、富浦も過ぎ、矢差(やさし)の浦(うら)も過ぎ、飯岡の町に来たから、多分この辺で下りるだろうと思うと、いつしかその町も通り過ぎてしまったから、行先の目的が全くわからなくなってしまいました。
 しかし、これを裏へ出れば屏風(びょうぶ)ヶ浦(うら)となり、遠からずして犬吠(いぬぼう)ヶ岬(さき)があり、銚子の港がある。銚子の港の前面には、利根の長江が遮(さえぎ)っているから、まさかそれをよこぎるほどのことはあるまい。
 犬吠に出でると、海岸の風物が、また全く九十九里とは別の趣(おもむき)になる――多分、ここを初めて見る田山白雲にとっては、その犬吠から、銚子に至る海岸の風物が、また一つの問題となるだろう。彼は外房の風景と比較して、犬吠の岩と、銚子の海とに向って相当の見識があり、議論もあるだろうと思われる。
 それとは別に、これより先、その銚子の海の一部分、外に向ったところの、俗に黒灰浦(くろばいうら)というところに、極めて滑稽な事件が一つ出没しておりました。
 滑稽な事件が出没するというのは、滑稽な事件がまさに起っているのでもなく、現に起りつつあるのでもなく、これから起ろうとするのでもなく、今や盛んに起りつつ、消えつつしているのだから、出没しているというよりほかは、言いようがないと思われます。
 それは一個の怪物――頭の毛の赤い、素敵に大きな眼鏡(めがね)をかけた男性の怪物が、黒灰浦の真中の海へ深く潜(もぐ)り込んだかと思うと、暫くあって浮き上り、浮き上ると共に、あっぷあっぷと息をついて、浮袋にだきついて、きょろきょろと見廻し、巌が笑うような笑いを一つしてから、また浮袋を離れて、海の深いところへ没入したかと思うと、暫くして浮き上り、仰山(ぎょうさん)な顔をして、自分がいま沈み入ったところの海の中を見入りながら、あわただしく息をきって、後生大事に浮袋にしがみつき、そうして暫くしてまた勃然(ぼつぜん)として、海の中に没入して姿を見せないでいるかと思うと、せり出しのように浮き上って来て、仰山な眼をして、もぐり込んだ海の中を見込み、息と水を切り、後生大事に浮袋にしがみついている。
 その有様が、おのずから珍無類の滑稽になっているのであります。
 いったい、滑稽というものは、企(たくら)んでそういう仕草(しぐさ)をして、人を笑わせんがために存在することもあれば、当人は大まじめ――むしろ命がけの真剣さを以てやっていることでも、はたで見ると、どうしても滑稽とよりほかは見られない悲惨なる現象もある。
 また当人も滑稽と思わず、それを滑稽として見るべき看衆(かんしゅう)の何者もない時にも、挙動そのものが、滑稽になりきっていることもある。
 お気の毒なことには、天地間にその滑稽を見て笑い手が無い、まさに滑稽の持腐れ。ここに出没している御当人と、その為しつつあることが、まさにその滑稽の持腐れに似ている。
 滑稽の持腐れも、かなり楽な仕事ではないらしい。
 化け物なら知らぬこと、人間である以上は、二分間より以上の潜水は至難のことでなければならない。ところがこの滑稽なる出没は、どうかすると二分間以上沈んでは、また浮き上ることもあるから、その都度都度(つどつど)の呼吸はかなり切迫しているらしく、浮袋にしがみついた瞬間は、全く命からがらと見なければならないのですが、それがどうも、滑稽としか見えないのは、この人物の持味(もちあじ)の、幸と不幸との分れ目でしょう。
 見る人が無い、笑う人が無いから、この滑稽の持腐れは思いきって発揮される!
 浮き出す度毎(たびごと)に、その無恰好(ぶかっこう)に大きな頭の赤毛の揺れっぷり、苦しがって潮を吹く口元、きょろきょろと見廻す眼鏡の巨大なのと、その奥の眼の色の異様なのも、物それを少しも怖ろしくしないで、いよいよ滑稽なものにする。
 これぞ前名のウスノロ氏――今や駒井造船所の新食客マドロス君その人であると知った時には、見る人の口が、唖然(あぜん)としてふさがらないことと思います。
 これは、ジャガタラ薯(いも)のマドロス君に間違いはないのであります。
 マドロス君が海の中に出没しているということは、炭焼氏が山の中を徘徊しているのと同じことに、あたりまえのことなのですが、本来、あちらの方の、洲崎の留守役に廻っていることとばかり信じきっていた人が、早くもここに先廻りをしている順序となっているのですから、知らない人は、ちょっと面食(めんくら)うかも知れない。
 だが、それとても、有り得べからざることでもなんでもありません、マドロス君が先発して、こちらに来ている――駒井氏と、田山氏が、後詰(ごづめ)として、そちらへ出張して行く――と見れば不自然でも、意外でもなんでもないことですが、ただマドロス君の海の中に於ける独(ひと)り相撲(ずもう)が、あまりにふんだんに滑稽の持腐れを発揮していただけに、前後の聯絡が、少しばかり意外の感を起さしめるというに過ぎないでしょう。
 しかしながら、天下に有用なものでも、無用なものでも、有るものが発見されないという例はなく、発見せられて、その存在の価値を評価されないという例も、極めて少ないことであります。
 せっかく、ここで多量に発揮されていた滑稽の持腐れも、やがては認めらるるの時が来ました。
 それは駒井、田山の両氏がここに到着した当然の結果ではありません。無論二人が到着すれば、マドロス氏の演ずる滑稽の、決して単なる滑稽にあらざる所以(ゆえん)も、明白に分明することと思いますが、滑稽が、奇怪を以て認められたのは、それより以前、別の人によってなされたことでありました。
 竿と、ビクとを携(たずさ)えた漁師の子供が二人――夫婦(めど)ヶ鼻(はな)の方から、ここへ通りかかって、ふと件(くだん)の滑稽なる持腐れを発見した第一の人となりました。
 この二人にとっては、滑稽がまず非常なる驚異として現わされました。二人は、砂へ足を吸いつけられたように突立って、件の怪物を遠目にながめ、次に来(きた)るものは恐怖であります。
 恐怖とはいえ、それは青天白日のことではあり、呼べば答えるところに、人間の影もあるという安心から、恐怖の次に逃走とはならず、恐怖に加うるに好奇を以てして、海中を見るの余裕があります。
 滑稽といい、真剣といい、驚異といい、好奇といい、また恐怖という、要するに一つのものの異なった見方であります。
 これより先、房州の海辺ではお杉のあまっ子が、前世紀の海竜(うみりゅう)を発見して、海岸一帯に一大センセーションを巻き起したこともありました。
 今や、前にいう通り、青天白日のことであり、勇敢にして、海に慣れた二人の少年は、あの時のお杉のあまっ子ほどには狼狽(ろうばい)と、醜態とを現わしませんでした。少なくとも、恐怖と、好奇とを以て、前面に横たわる怪物の正体を見届けようとして、
「何だい、ありゃ」
「鮪取(まぐろと)りの善さんじゃねえけえ」
「善さんは、あんなに頭の毛が赤かあねえぞ、それに、もっと面(かお)の色が黒(くれ)えぞ」
「今、へっこんだから、もう一ぺん見てえろ、出て来るところを見てえろ、善さんだか、そうでねえか、見てえろ」
 二人は一途(いちず)にその海の面(おもて)を見入ります。
 それはマドロス氏が、また浮袋を離れて海に没入した瞬間に於て、次の浮揚期間を待つものでしたが、それでも彼等は、怪物とも、化け物とも見ないで――それを村の鮪取りの善さんなるものと比較対照していたが、浮び出でた時は、決して鮪取りの善さんなるものではありません。
 それはむしろ、彼等もその通りに期待していたのですが、再び現われた瞬間を見ると、鮪取りの善さんなるものとは、あまりに相違の甚(はなは)だしかったものですから、二人はあっと仰天し、
「善さんじゃねえ、善さんじゃねえ――大江山のスッテンドウジだ」
 かくて二人は、釣竿と、ビクとを宙にして、面(かお)の色を変えて走り出しました。
 この二人の少年は、町の方に向って走りながら、宣伝をはじめました、
「黒灰の浦にスッテンドウジが来ているよ」
 それを聞く少年少女らは、恐怖に打たれて耳をそばだてたが、大人連はいっこう取合いません。
「大江山のスッテンドウジが、黒灰の浦に来ているのを見て来たよ、ほんとうに嘘じゃねえんだよ、こうして泳いでいるところを……」
 二人の少年は、力を極めて、自分たちの目撃して来たことの真実なることを証明せんとしたが、それらは、少年同士の好奇と、恐怖を催すだけで、大人たちにとっては、訴えれば訴えるほど、笑止(しょうし)の種となるだけでした。
「スッテンドウジは、山にいるもので、海へ来るはずのものじゃねえよ」
 けだし、スッテンドウジというのは、大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)のことで、それはとうの昔に、源(みなもと)の頼光(らいこう)と、その郎党によって退治されているはずのものです。しかしながらその面影は絵双紙に残って、彼等少年たちの印象に実在しているのでしょう。
 かくて、少年たちは、好奇より恐怖が多いせいか、行って見ようとはいわず、大人たちはてんで一笑に附して問題にしないから、根限(こんかぎ)りの二人の宣伝が、ここでは全く無効になりました。そこで少年たちは、自分たちの現に見て来た事実が信ぜられないのを、自分たちの信用が剥落(はくらく)したかの如く残念がり、その宣伝を有効ならしめようとあせりつつ、榊新田(さかきしんでん)の陣屋跡までやって来て、陣屋の中をのぞき込みました。
 榊新田の古陣屋は、高崎藩が、この海岸の守護を承って、千人塚に砲台を築いた時分の名残(なご)りで、塀崩れ、屋根破れていたのを、昨今になって修理して、その中に人が働いています。
 二人の少年が、のぞき込むと、車大工の東造爺(とうぞうじい)が、轆轤(ろくろ)をあやつっている。
「爺(じい)、大変なことがあればあるもんだぜ、黒灰へスッテンドウジが来ているよ、爺、お前(めえ)、早く行って見て来な」
 車大工の東造爺は、けげんな面(かお)をして、
「え、スッテンドウジが――スッテンドウジが黒灰の浦へ来たって?」
 東造爺だけが、少なくもこれだけに受入れてくれたのに、二人が力を得て、
「頭の毛の赤い、眼のこんなにでけえ、絵に描いてある通りだよ!」
「へえ……」
「爺、早く行って見な。行くんなら、鉄砲を持って行ったがいいかも知れねえぜ」
「は、は、は、は」
 かわいそうに、せっかくここまで来て、東造爺までがまた一笑に附しはじめました。
 少年たちは、見るも無残にしょげ返ったが、それでも、
「は、は、は、は」
と第二笑に附した東造爺は、ほかの者がしたように冷たいものではなく、その中には多分の同情を含んだ会釈(えしゃく)を以て慰め面に、
「お前たちが見たというスッテンドウジは違うよ、性(しょう)がわかってるよ、驚くには当らねえよ」
「爺(じい)、お前(めえ)、知ってるのかい、あのスッテンドウジを……」
「は、は、は、お前たちが黒灰の浦で見たというのは、髪の毛の紅い、眼のでっけえ、海ん中に浮袋を持って、浮いたり沈んだりしていた奴だろう。あれは、スッテンドウジじゃねえのさ、おらが家のお客様だよ」
「え、お前(めえ)んちのお客様?」
「そうさ、もうやがて、ここへ帰って来るから見てえろ」
「鮪取(まぐろと)りの善さんじゃねえだろな」
「違うよ、全く別のお客様だよ」
「そうか、ほんとうにお前んちのお客様かえ。でも、大江山のスッテンドウジにそっくりだったぜ。お前んちにあんなお客様が、どこから来ていたんだ」
 その時、真向うの畑道から、問題のスッテンドウジが抜からぬ面(かお)でやって来る。

         四

 来て見れば、これは極めて結構人(けっこうじん)らしい一個の西洋人で、東造爺に向って何か一言二言いっては、大きな面をゆすぶって、にやにやと笑っているところ、どうしても恐怖ではなく、滑稽の部に属しているものですから、力瘤(ちからこぶ)を入れた子供たちも安心して、傍へ寄って来て、しげしげとながめます。
 浮袋を片手にさげ、多分重しにつけて海へ沈んだものだろうと思われる鉄の玉を下へ置いたマドロス氏は、炉辺に有合せの丼(どんぶり)を取り上げると妙な手つきをして、小屋の後ろの方を指さし、何をか哀願するような表情をしつつ出て行ってしまいました。
 恐怖から解かれて、好奇ばかりになった子供たちは、あとを慕(した)ってついて行って見ると、小屋の後ろの桃の木の下につないであった一頭の牝牛(めうし)のところへ来て、右の異人が、
「ハウ、ハウ」
と、妙な叫びを立てました。
 そこで、何をするかと見てあれば、マドロス君は徐(おもむろ)に牝牛の下に手を入れて、その大きな乳房を撫でてみているうちに、丼を下へあてがって、乳をしぼりはじめたものです……その乳がなみなみと丼の上に溢(あふ)れ出した時分、それを無造作に自分の口もとへ持って来て飲んでしまいました。
 口もとまで来る時分、何をするのかと心配して見ている子供らは、毛唐人がそれを一息にグッと飲んでしまったものだから、驚嘆の叫びを立てないわけにはゆきません。この子供たちのあいた口がふさがらない先に、またも一方の乳房をとらえて、しぼりにかかりました。
 この勢いでは、この牝牛の乳をみんな絞って、みんな飲んでしまうかも知れない、牛の子の飲むべき乳を――人間が横取りして飲んでしまうなんて、なるほど、毛唐というものは随分ひでえことをするなあ――という表情が、子供たちの面(かお)に現われる頓着もなく、再度の丼(どんぶり)はことごとく飲みつくされてしまいました。
 それで多分、渇きが止ったのでしょう、悠々(ゆうゆう)として陣屋の方へ引返して来る。子供は、やっぱりそのあとについて戻る。
 幸いに、ここは町並を少し離れたところでしたから、わいわい連(れん)があまりたからなかったものの、それでも陣屋のあたりが、ようやく物さわがしくなってきました。
 マドロス氏は、そこで無雑作(むぞうさ)に板の間張りの上へあがり込んで、数多(あまた)の職人の中を分けて――車大工の東造爺がいるばかりではなく、ここにはなお幾多の若い職人が働いて、同じように皆、驚異の眼をマドロス君に向けている中を、ニヤニヤと笑いながら通りぬけて、一方の板の衝立(ついたて)の蔭の、誰にも姿を見せないところで、急ごしらえの椅子テーブルに身をもたせ、お手の物のマドロスパイプに火をつけてすまし込みました。
 この時分になって、スッテンドウジの宣伝が利(き)き出したものか、この陣屋敷のあたりへ、むやみに人が集まって来る気配(けはい)でしたから、東造爺は気を利かして冠木門(かぶきもん)の戸を締めきってしまいました。
 門の外で体(てい)よく食い留められた連中は、汐時(しおどき)がよかったせいか、強(た)って見せろと乱入する者もなく、暴動を起して不平を叫ぶこともなく、まあ、明日という日もあるから、見られる時はいつでも見られる、そう急(せ)くなよ、といったような面(かお)ぶればかりですから、穏かです。
 その時分、日もようやく傾きはじめて、海の方へ落ちた余光が、あざやかに、この古陣屋の屋根の上の兵隊草をまで照らして来ました。
 陣屋の中では、車大工とその数人の弟子たちであろうところの者が、静まり返って仕事をしている時分、門の外に佇(たたず)んでいた近隣の人たちが、
「そら、お役人様が来たぞ」
「お役人様じゃ無(ね)え、やっぱり、あの毛唐人の仲間らしいよ」
 二騎轡(くつわ)を並べてこの場へ来合わせたのが、駒井甚三郎と田山白雲です。

 こんな面ぶれが相前後して、こんなところへ事々しく集まって来たという理由は、ふとした聞きかけが最初でありました。
 これより先、駒井甚三郎が、このたびの造船に当って、何物よりも苦心しているのは、蒸気機関の製造であったことは、前に申した通りです。
 他の部分は、ほとんど完全に設計が出来、順調に工事も進行し、大砲の据附(すえつ)けでさえが、駒井の知識と、技能を以て、立派に完成の見込みがついたのにかかわらず、蒸気機関だけは苦心惨憺を重ねて、未(いま)だその曙光を見ないという有様であります。
 これは、その当時の日本としては、全く不可能のことであり、駒井が不可能ならば、無論、日本の国のどこへ持って行っても、可能のはずがないことは、何人よりも、当人自身が熟知しているところです。
 最初の計画は、必ずしも、機関を要せずとも、帆力(はんりょく)を応用することによって成算を立てたけれども、どうしても補助機関が欲しくなるのは道理である。
 そこで無謀に近い熱度を以て、駒井が自身その製作――というよりは、創造よりも困難に近い仕事に当ろうと決心したのは、一日の故ではありません。
 彼は、これがために、この忙しい間を、石川島の造船所へ行ったり、相州の横須賀まで見学に出かけたりしましたが、駒井が時めいている時ならばとにかく、今の地位ではその見学も思うように自由が利(き)かないのか、途中から専(もっぱ)ら書物によることにして、蘭書や、英書のあらゆるもの――それは幸いに、自分が在職中に手をのばし得る限り買い求めておいたから、それによって工夫を立てることに立戻りました。
 とはいえ、こればかりは、いかに駒井の優秀な頭脳を以てしても、一年や半年の間に捗(はか)を行かせようとしたことが無理で、駒井も、今はほとんど絶望の姿で、どのみち、機関無しの最初の構造に、逆戻りするほかはあるまいとあきらめるばかりです。
 かく諦(あきら)めながらも、それでも彼の不断の研究心が、未練執着を断ち切れなかった時――偶然にも、彼の手許(てもと)へ新客となったマドロス君が、無雑作に、今の駒井の胸をおどらすようなことを言い出しました。
 それは、この銚子の浜のうちの「クロバエ」という浦へ、先年、ある国の密猟船が吹きつけられて来て、そのなかの一隻が破壊して、海の中へ沈んでしまった。乗組は、ほとんど仲間の船に救助されたが、船のみは如何(いかん)ともすることができず、完全にあの海の中に沈んでいる――それは二本マストの帆船(はんせん)ではあるが、サヴァンナ式の補助機関がついていた。それがそのままそっくり、銚子の浦のクロバエの海に沈んでいる――ということを、マドロス君が、駒井に向って、偶然に語り出でたのです。
 その某国(ぼうこく)というのはどこか知らないが、多分オロシャではないかと思われる。
 そうして、このことを語り出でたマドロス君の言い分が、でたらめのホラでないことは、その言語挙動の着実が証明する。
 おそらく、この先生も、当時その密猟船のうちの一つに乗っていて、親しく遭難の一人であったのか、そうでなければ他船にいて、実際、その船の沈むまでを見ていたものとしか思われないくらいの話ぶりでありました。
 さほどの船を沈めっぱなしで、音沙汰(おとさた)もなく行ってしまったのは、彼等密猟船自身の、疵(きず)持つ脛(すね)であろう。
 これを聞くと駒井は、天の与えの如き感興に駆(か)られてしまいました。
 その結果が、ここに、右の密猟船の引揚作業を企(くわだ)てることとなったので――船全体を引揚げることができないとすれば、その機関だけでも――その熱望が、ついにマドロスを先発せしめ、自分はこうして田山と相伴うて、ここまで集まり来(きた)ったという次第であります。
 来て見れば、高崎藩の旧陣屋を利用した引揚事務所と、その準備とは、自分があらかじめ指図をしておいたのにより、遺憾(いかん)なく進行している。
 水練に妙を得たマドロス君は、先発して、黒灰の浦の船の沈んだ海面を日毎に出没して、たしかに当りをつけてしまった。
 設備さえ完全すれば、船全体を引きあげることも、必ずしも不可能ではないようなことを言う。また潜水夫の熟練なのさえあれば、補助機関だけを取外して持って来るのも、難事ではないようなことを言う。
 しかし、事実はそれほど簡単にゆくかどうか、駒井も決して軽々しくは見ず、引揚げに要する、この附近で集め得らるる限りの人員と、器具とを用意して、黒灰の浦に集め、海岸に幕を張って事務所を移したのは、到着のその翌々日のことでありました。
 その日になると、黒灰の浦は町の立ったように賑(にぎ)わう。
 もちろん、これだけの仕事を、人目に立たないようにやるわけにはゆきません。
 すでに人目を避けずにやるということになれば、浦と、港と、界隈(かいわい)の人目を、ここへ集めるの結果になるのは当前です。
 何も知らぬ浦人(うらびと)は、幕府から役人が来て、天下様の御用で、この引揚工事が始まるのだとばかり思うていました。
 そう思うのも無理はありません、かりそめにも、これだけの工事が、一私人の力でできるはずはないのですから。もし、有力な一私人の力でやるならば、官辺の十分なる諒解を得た後でなければ、かかれないはずです。
 この点において、駒井甚三郎の準備に、抜かるところは無いか?
 それがあった日には、工事半ばで、たとえ目的の機関を半分まで引揚げたところで、また陸上まで辛(かろ)うじて持ち上げたところで、官憲の手に没収されてしまうにきまっている。
 獲物(えもの)を没収されるだけならいいが、今時、こんな無謀な工事をやり出す御当人その者の、身の上があぶないではないか――
 駒井ほどの男が、あらかじめ、その辺の如才がないということはあるまい、ここを管轄するところの領主とか、代官とかに、相当の諒解を得た後でなければ、これはやれまい。
 果して、工事に着手すると共に、海岸は町の立ったような人出になり、物売店(ものうりみせ)まで盛んに出張する有様となったけれど、不思議にも、この土地の領主、或いは支配者の手から、なんらの故障も出る様子がありません。
 どうかすると、役人らしいのが、姿を見せることもあるが、それはむしろ引揚工事の方へは近寄らないで、見物に来る民衆に間違いのないように、世話を焼いているくらいのものですから、泰平無事です。
 駒井甚三郎は、例の軽快な洋装で、自ら陣頭に立って、まず引揚機具の取調べから、人員の手わけを指図しました。
 引揚機具といっても、そう完全なものがあるはずはなく、従来の漁具、船具を、うまく利用応用したのと、多少の意匠を以て新調した程度のもので、人員は皆、多くは浜辺の漁師連であります。
 次に潜水に得意なもの数名を抜擢(ばってき)しました。
 必ずしも船全体を引揚げるのが目的ではなく、機関の一部を取外して持ち出しさえすれば、目的は達するのだが、しかし場合によっては、船全体をある程度まで浮かせることの方が、内部へ潜入して、機関の一部を持ち出すよりも容易なこともある。
 まずマドロス君を先陣として、一応、海をくぐって、その勝手を見届けて来るということが、彼等の第一の使命でありました。
 これらの潜水夫は、おのおのこの浜辺において名誉のものであるのみならず、どうも、この浦ではあまり見かけない、房州の南端あたりから連れて来たものであろうと思わるる海女(あま)が二人まで加わっておりました。
 これらの海人(あま)を載せて、船の沈下している海上まで運ぶべき介添船(かいぞえぶね)は、海岸に待っている。
 浜辺では、今、幾カ所も盛んに火を焚(た)いて、炎々たる焚火の前に、仁王の出来そこないのようなのが立ちはだかって、暖を取っている。
 一方には、その炎々と燃える焚火の中へ、しきりに小石を投入して焼き立てている者もある。

         五

 これより先、海鹿島(あじかじま)から伊勢路の浦へ、上陸した御用船の一行がありました。
 これも役人は役人だが、ただの役人ではない。軽装して、測量機械を携え、日の丸の旗を押立てたところを見ると、どうしてもこれは幕府の軍艦奉行の手であるらしい。
 この一行は、しかるべき組頭(くみがしら)に支配されて、都合八人ばかり、測量器械をかついで歩み行く、つまり軍艦奉行の手の者が、海岸検分の職を行うべく、この地点に上陸したものでしょう。
 ところで、とある小高い岩の上へ来て、組頭の一人が遠眼鏡をかざした時に、黒灰浦の引揚作業の大景気を眼前に見ました。
 それは肉眼でも見えるほどの距離を、かねて地勢をそらんじているところではあるし、その群集と、群集の中での作業、これから何事に取りかかろうとするのだか、職掌柄それを眼下に見て取ってしまったから、組頭の顔の色が変りました。
 不興極まる気色(けしき)を以て、遠眼鏡を外(はず)し、部下の者を顧みて、
「おい、あれは何だ」
と一人に言いました。
「左様でござります」
 部下の一人は、一応その人だかりの方をながめてから恐る恐る、
「高崎藩の手の者が、黒船を引揚げるといって騒いでおりました」
「ナニ、高崎藩で黒船を引揚げる?」
「左様でございます、先年、あの黒灰浦に、多分オロシャのであろうところの密猟船が吹きつけられて、一艘(いっそう)沈んでしまいました、密猟船のこと故(ゆえ)に、船を沈めてそのままで立去りましたのが、今でもよく土地の者の問題になります、それを今度、高崎藩が引揚げに着手するという噂(うわさ)を承りましたが、多分その騒ぎであろうと思います……」
「怪(け)しからん……」
 組頭は最初から機嫌を損じておりましたが、いよいよ面(おもて)を険(けわ)しくして、再び遠眼鏡を取り上げ、
「よく見て来給え、何の目的でああいうことをやり出したのか、屹度(きっと)問いただして来給え、次第によっては、その責任者をこれへ同道してもよろしい」
 この命令の下に、早くも軽快なのが二人、飛び出して行きました。
 組頭が不興な色を見せるのみならず、一隊の者が残らずそれに共鳴して、岩角の上から黒灰の浦を睨(にら)めている。
 けだし、これらの人々の不快は、自分たちが幕府の軍艦奉行の配下として、この近海に出張している際において、自分たちに一応の交渉もなくして、海の事に従事するというのは、たとえ高崎藩であろうとも、佐倉藩であろうとも、生意気千万である。
 ことに自分たちの奉行は、当時海のことにかけては、誰も指をさす者のない勝安房守(かつあわのかみ)であることが、虎の威光となっているのに、それを眼中におかず、ことに外国船引揚げというような難事業を、彼等一旗で遂行(すいこう)しようという振舞が言語道断である。
 そこで軍艦奉行の連中が、自分たちの首領の威光を無視され、自分たちの権限をおかされでもしたように、腹立たしく思い出したものと見える。
 かくて、彼等は測量のことも抛擲(ほうてき)して、岩角に立って、黒灰浦の方面ばかりを激昂する面(かお)で見つめながら、使者の返答いかにと待っているが、その使者が容易には帰って来ないのが、いよいよもどかしい。
 もとより、眼と鼻の間の出来事とはいえ、使者となった以上は、実際も検分し、且つ、先方の言い分をも相当に傾聴して帰らぬことには、役目が立たないものもあろう。しかし、こちらは視察よりは、むしろ問責の使をやったつもりですから、返答ぶりの遅いのに、いよいよ焦(じ)らされる。
「ちぇッ、緩怠至極(かんたいしごく)の奴等だ」
 いらだちきった組頭は、この上は、自身糺問(きゅうもん)に当らねば埒(らち)が明かんと覚悟した時分、黒灰浦の海岸の陣屋の方に当って、一旒(いちりゅう)の旗の揚るのを認めました。
 そこで組頭は、再び気をしずめて遠眼鏡を取り直して、その旗印をながめたが合点(がてん)がゆきません。
 旗の揚ったことは組頭が認めたのみではなく、配下の者がみな認めたけれど、その旗印の何物であるかは、遠眼鏡のみがよく示します。
 上州高崎松平家か、その系統を引くこの地の領主大多喜(おおたき)の松平家ならば島原扇か橘(たちばな)、そうでなければ、俗に高崎扇という三ツ扇の紋所であるべきはずのを、いま、遠眼鏡にうつる旗印を見ると、それとは似ても似つかぬ、丸に――黒立波(くろたてなみ)の紋らしいから、合点がゆかないのです。
 そこで組頭は、またも配下の一人に遠眼鏡を渡しながら、
「あの旗印はありゃ何だ、君ひとつ、よく見当をつけてくれ給え」
「なるほど」
 それを受取った配下の一人が、しきりに考えこんでいると、組頭が、
「高崎の紋ではないじゃないか」
「仰せの通りでございます、丸に立波のように見えますが」
「その通りだ、拙者の見たのも丸に立波としか見えない、が、丸に立波はどこだ」
「左様でございます」
 彼等残らずが一つの旗印を見つめて、不審の色を、いよいよ濃くしてしまいました。
 最初には掲揚されていなかった旗じるし、多分時間から言ってみると、これはさいぜん、詰問にやった配下の者の交渉の結果であろう、その交渉の結果、彼等はこの旗印を掲揚することになったと思われるが、掲げられてみるとこちらからは、それがいっそう不可解の旗印となって現われてしまいました。高崎松平も、大多喜松平も、どう間違っても、丸に立波の紋を掲げるはずはないのだから、ここで徒(いたず)らに当惑するのも無理がないと見える。しかしもう少し落ちついて、この丸に立波の旗印から考えて行ったならば、多少思い当るところがあったかも知れないが、この一隊は、最初から意気込んでおりました。
 つまり、何藩にあれ、何人にあれ、われわれ幕府の軍艦奉行の手の者をさし置いて、その面前で沈没船引揚作業を行うというのが、軍艦奉行というものを無視しているし、ことに当時の軍艦奉行が凡物ならとにかく、日本全国に向って名声の存するところの、勝安房守というものの威光にも関するという腹があったのだから、安からぬことに思い、親しく出張して、一つには彼(か)の出しゃばり者に、たしなみを加え、一つには使者に遣(つか)わした配下の者どもの緩怠を屹度(きっと)叱り置かねば、役目の威信が立たぬようにも考えたのでしょう。
 この一隊は、測量をそっちのけにして、勢いこんで浜辺を進みました。
 この勢いで、高崎藩の陣屋へ馳(は)せつけた日には、ただでは済むまい、火花が散るか散らないかは先方の出よう一つであるが、どのみち、ただでは済むまいと見てあるうち、幸か不幸か、先刻遣わした使者の者が二人、きわどいところで、ばったりと本隊にでっくわしたものです。
「どうした、エ、何をしていたのだ君たちは」
 組頭は、充分の怒気を頭からあびせかけると、二人の使者は、さっぱり張合いがなく、
「いやどうも、少々とまどいを致して、力抜けの体(てい)でございました、それがため復命が遅れて申しわけがござりませぬ、万事はあの旗印を御覧下さるとわかります」
 彼等は旗印を指さしたが、その旗印こそ不審千万なので――そこで追いかけて彼等が説明していうことには、

次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:126 KB

担当:undef