大菩薩峠
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著者名:中里介山 

         一

 その晩のこと、宇治山田の米友が夢を見ました。
 米友が夢を見るということは、極めて珍らしいことであります。米友は聖人とは言いにくいけれども、未(いま)だ曾(かつ)て夢らしい夢を見たことのない男です。彼は何かに激して憤(おこ)ることは憤るけれども、それを夢にまで持ち越す執念(しゅうねん)のない男でした。また物に感ずることもないとは言わないけれども、それを夢にまで持ち込んであこがれるほどの優しみのある男ではありません。しかるにその米友が、珍らしくも夢を見ました。
「あ、夢だ、夢だ、夢を見ちまった」
 米友は身体(からだ)へ火がついたほどに驚いて、蒲団(ふとん)からはね起きました。実際われわれは、夢を見つけているからそんなに驚かないけれども、物心を覚えて、はじめて夢を見た人にとっては、夢というものがどのくらい不思議なものだか想像も及ばないことです。
 米友とても、この歳になって、初めて夢を見たわけでもあるまいが、この時の狼狽(あわ)て方は、まさに初めて夢というものを見た人のようでありました。
 そうしてはね起きて、手さぐりで燧(ひうち)を取って行燈(あんどん)をつけ、例の枕屏風(まくらびょうぶ)の中をのぞいて見ると、そこに人がおりません。
「ちぇッ、よくよくだなあ、まさかと思った今夜もまた出し抜かれちまった」
 米友はワッと泣き出しました。米友が夢を見ることも極めて珍らしいが、泣き出すことはなおさら珍らしいことであります。米友は憤(おこ)るけれども、泣かない男です。けれどもこの時は、手放しで声を立てて泣きました。
 昼のうちに、あれほど打解けて話しておったその人が、まさか今晩は無事に寝ているだろうと思ったのに、もう出かけてしまった。昨夜の疲れと、その安心とで、ぐっすりと寝込んでしまったおれは、なんという不覚だろう。それに、今まで滅多には見たこともない夢なんぞを、なんだって、こんな時に夢なんぞが出て来たんだろう。あんな夢を見ている間に出し抜かれてしまったのだ。
 あまりのことに米友も、一時は声を揚げて泣いたけれども、いつまでも泣いている男ではない、雄々しく帯を締め直して、枕許に置いた例の手槍を手に取ってみたが、どうしたものか、急にまた気が折れて、手槍を畳の上へ叩きつけると、自分は、どっかと行燈の下へ坐り込んでしまいました。
「いやだなあ」
 米友は苦(にが)りきって、行燈の火影(ほかげ)に薄ぼんやりした室内を見廻した揚句に、ギックリと眼を留めたそれは、床の間の掛軸です。
「こいつだ、こいつだ、こいつが夢に出て来やがったんだ」
 米友がこいつだと言ったのは、勿体(もったい)なくも大聖不動尊(だいしょうふどうそん)の掛軸でありました。かなり大きな軸であるが、ずいぶん煤(すす)け方がひどいものであります。しかしながら、右手に鋭剣をとり、左手に羂索(けんさく)を執り、宝盤山の上に安坐して、叱咤暗鳴(しったあんめい)を現じて、怖三界(ふさんがい)の相を作(な)すという威相は、その煤けた古色の間から燦然(さんぜん)と現われているところを見れば、またかなりの名画と見なければなりません。
 日頃、ここに掛けられてあったのを、竜之助はもとより見ず、米友だけが毎日見ていたけれども、この男は別段に不動尊の信者ではありません。
「いやに怖(おっ)かない面(つら)をしている奴だな」
 米友は、時々、こんなことを考えて画像を見るくらいのものでありましたが、今は室内を見廻した眼がギックリとそこに留まると米友が戦慄しました。米友をグッと睨みつけている現青黒影大定徳不動明王(げんしょうこくぎょうだいじょうとくふどうみょうおう)の姿はまさしくたった今、夢に現われたその者の姿に紛(まぎ)れもないことです。米友は不動尊の画像を睨めて、我と慄(ふる)え上りました。
 米友が不動尊の像を睨んでいる時に、裏の雨戸をホトホト叩く音がしました。
「モシ」
 微かながらも人の声がしました。
「はてな」
 米友が思案に暮れたのは、もしや竜之助が帰ったのではあるまいかと思ったそれが、まさしく女の声であったからであります。
「もし」
 そこで立ち上って、雨戸の傍へ行って、
「誰だエ」
「もし、少々、ここをおあけ下さいまし」
「お門違(かどちが)いじゃございませんか」
 米友も小声で言いました。しかし門違いにも門違いでないにしても、弥勒寺(みろくじ)の門を入って人を尋ねるとすれば、ここはその一軒だけです。この深夜に、わざわざここまでとまどいをして入り込む人のあろうとも思われません。
「いいえ」
 外の女はこう言いました。それでよけいに、米友の疑問を増したものと言わなければなりません。盲目(めくら)の剣客と二人して隠れているこの弥勒寺長屋、長屋とは言うけれども近所隣りが無い、まして女の近寄るべきはずのところではありません。しかしながら、おとなう声はまさしく女でありますから、
「誰だい、何の用があって、誰を訪ねて来たんだ」
「はい、友造さんという方がおいでになりますか」
「友造は……」
 おいらだが、と言おうとしたが米友は思案しました。おれを訪ねてこの夜更けに来る女というのは、全く心当りがないことはない。かの間(あい)の山(やま)のお君も、老女の家のお松も、ここに近いところにいるはずだ。昨日、不意にムク犬がここへ姿を見せたことを思うと、或いはそれらの女性のうちの一人が忍んで来たものと思えば思われないことはない。それで、米友はさいぜんから、戸の桟(さん)へ手をかけながらも、外なる女の声を、じっと耳に留めていたのだが、それは、お君の声でもなければ、お松の声でもありません。さりとて鐘撞堂新道にいるお蝶の声とも思われないし、無論、両国にいる女軽業の親方のお角の声とは聞き取れないから、米友は迷っているのです。
「あの、お君のところから聞いて参りました、そうしてムクにそこまで案内してもらいました」
「エ、お君のところで聞いたって!」
 お君と言い、ムク犬と言うことは、米友の信用を高めるのに充分でありましたけれど、しかもお君と呼棄てにするこの女の正体は、更にわからないものであります。しかし、ここまで来た以上は、あけてやらないのも卑怯(ひきょう)であると米友は思いました。どうかするとその筋の目付(めつけ)が女を使用して、人の罪跡を探らせることがある。もしそうだとすれば、自分は本来、さまで暗いところはないのだが、一緒にいる先生は、決して明るい世界の人とは言えない。だから、戸を開く途端に「御用」という声が剣呑(けんのん)ではある。あけてよいものか、悪いものか、それでもまだ米友は、暫し途方に暮れていると、
「あなたがその友造さんじゃありませんか、本当の名は米友さんとおっしゃるのでしょう、内密(ないしょ)のお話があるのですからあけて下さい」
 外では存外、落着いた声でこう言いました。よし、ここまで来れば仕方がない、まかり間違ったら二三人は叩き倒して逃げてやろうと米友は、足場と逃げ路を見つくろっておいて、例の手槍を拾い上げ、片手でガラリと雨戸を押し開きました。
「誰だい」
「わたくしでございます」
「お前さん一人か」
「エエ、一人でございます、御免下さいまし」
 その女は、男のような風をして、お高祖頭巾(こそずきん)をすっぽりと被(かぶ)っておりました。
 いったい、なんにしても人の家へ上るのに、頭巾を取らないで上るというはずはありません。
 女は、このまま失礼と断わったものの、座敷へ通っても、やはり頭巾を取ろうとはしないで、
「お前さんが、米友さん?」
 こう言って、かなり鷹揚(おうよう)な態度でありました。
「そうだよ」
 米友は、極めて無愛想に返事をしました。
「お前さんの噂は、お君から聞いておりました」
 お君、お君、と自分の家来でも呼び棄てるように言うのが心外でした。それよりもお君の友達だから、やはり自分も家来筋か何かのように話しかけるのが、米友には心外でした。
「ふん、それがどうしたんだ」
「お前さんは怒りっぽい人だということを聞きました、それでも大へん正直な人だということを聞きました」
「大きなお世話だ」
 米友はムッとして口を尖(とが)らしたけれど、女はそれを取合わずに、
「ですから、わたしは、お前さんに尋ねたらわかるだろうと思って来ました、お前さんが知らないはずはないと思って、わざわざこうして尋ねて来ました、ぜひ、わたしに教えて下さい、わたしに隠してはいけません、お前さんがここにいることを突き留めるまでずいぶん骨を折りました、本当のことを言って下さいな」
 こう言って、ジリジリと米友に迫るもののようであります。米友は呆(あき)れて、じっとその女の面(かお)を見ようとしました。けれども、いま言う通り面は頭巾で隠してあるのに、わざとその顔を行燈の火影から反(そむ)けようとするのが、どうも面(おもて)を見知られたくないという人のようであります。そうして突然とは言いながら、こうして夜更けに一人でここへ押しかけて来たことは、よほどの突き詰めたものがなければならないような権幕も見られます。落着いてはいるけれども呼吸がせわしくて、その用向は、たしかに物好きや冗談ではなく、真剣の有様が眼に見えるのであります。それですから米友も一概に、それを憤(おこ)り散らすわけにはゆかないで、
「いったい、お前は何しに来たんだ、おいらに何を尋ねようと思って来たんだ」
「さあ、お前さんに尋ねたいのは、あの目の見えない人のこと。あの人を、お前さんはどこへ連れて行きました、それを教えて下さい、お前さんは、きっとそれを知っているに違いない」
「ナニ、目の見えない人?」
 米友は眼を円くしました。
「そう、吉原からお医者さんの駕籠(かご)に乗せて、お前さんがその駕籠に附添ってどこへか行ってしまったということを、わたしはちゃんとつきとめました」
「ふーん」
 米友は、そう言って、女の面(かお)を見ようとしたが、女はやっぱり面を見せません。
「さあ、言って下さい、お前さんが、もしお金が欲しいなら、わたしの実家(うち)へ行って、いくらでもお金を上げるから、あの人の居所を教えて下さい」
 女は、始終ジリジリと米友に詰め寄るかのような勢いでありました。
「うむ――おいらの知っていることで、教えて上げてもいいことなら、銭(ぜに)を貰わなくったって教えて上げらあな。もし、教えて悪いことだったら、銭を山ほど積んだって教えちゃやれねえな。知らなくっても手伝いをして探してやりてえこともあるし、知っていても知らねえと言って隠さなけりゃならねえこともあるだろう……だから、お前はいったい誰だ、どういう因縁(いんねん)で、おいらにそんなことを尋ねるのだか、一通りそれを話してくんな。それもそうだが、さっきから、おいらの癪(しゃく)にさわるのは、お前さんが頭巾を被りながら挨拶をしていることだ、家の中で人と話をするには、頭巾だけは取ったらよかりそうなものだ」
 こう言って米友は、手近な行燈(あんどん)を引き寄せて、意地悪くその女の面へパッと差しつけて、あっと自分が驚きました。
 今夜は怖(こわ)い晩である。夢に現われた不動尊は、いまだに米友にはその心が読めない。今ここに現われた現実の人は、言葉こそ優しい女人(にょにん)であれ、その面貌(かおかたち)は言わん方なき奇怪なものである。行燈を引き寄せた米友は再びワナワナと慄(ふる)えました。寧(むし)ろ米友自身の形相(ぎょうそう)が凄じいものになりました。
「おいらはいやだ、お前という人は、やっぱり夢じゃねえのか、女のくせに、たった一人でこの夜中に、どういう由(よし)があって、あの人を尋ねて来たんだ、昼間は訪ねて来られねえのか、そうして話をするに、どうしてその頭巾が取れねえのだ」
 こう言って怒鳴りました。
「米友さん」
 女は存外、優しい声でありますけれども、米友の耳には、頭巾の外(はず)れから、チラと見た夜叉(やしゃ)のような面(おもて)が眼について、その優しい声が優しく響きません。
「米友さん……お前はお君のことを知っているだろう、わたしの身の上が知りたければ後で、あの子によく聞いてごらん、わたしがこうして頭巾を被っているわけも、あの子がよく知っていますから聞いてごらん、お君は美しい子だけれども、わたしは美しい人ではありませんから……」
「そんなことは、おいらの知ったことじゃねえ、美しかろうと美しくあるめえと、頭巾を被って人に挨拶するのは礼儀じゃねえ」
「ああ、わたしはここへ礼儀を習いに来たのじゃありません、米友さん、わたしは、お前さんに礼儀作法を教えていただくためにここへ来たのじゃありません、ぜひ聞かしてもらわねばならぬことはほかにあります、お前でなければ知った人がないから、それで、わざわざ忍んでこの夜更けに訪ねて来ました、きっとお礼はしますから、御恩に着ますから、後生(ごしょう)ですから教えて下さい。お前の知っているお君は美しい子だから、誰にでも可愛がられます、わたしは、そうはゆきません、わたしを可愛がってくれたのは、あの幸内と、それから目の見えない人が、わたしは好きなのです、目の見える人は、わたしは嫌いです、目の見えない人がわたしは好きで好きでたまりません、米友さん、後生だからその人のところを教えて下さい」
 女は物狂わしいようになって、泣き出してしまいました。本(もと)もうらも知ることのできない米友は呆気(あっけ)に取られて、得意の啖呵(たんか)を切って突き放すこともできません。それのみならず、この突然な、無躾(ぶしつけ)な来客の、人に迫るような言いぶりのうちに、なんだか、哀れな、いじらしいものがあるような心持に打たれて、米友は憤(おこ)っていいのだか、同情していいのだか、自分ながらわからない心持で、眼を円くしているほかはないのであります。
「おいらには、わからねえ」
 米友は無意味にこう言って、首を左右に振りながら眼をつぶりました。
「わからないことはありません、お前は、きっと知っているはずなのに、これほどに言っても、お前はわたしに教えてくれない、どうしても教えてくれなければ、わたしも了見があるから……わたしは世間から嫌われています、世間の人からいい笑い物にされています、それは、わたしが生れつきから、そんなであったんじゃありません、継母(おっか)さんが悪いんです、継母さんが、わたしをにくんでこんなにしてしまったのです、その前のわたしは、綺麗(きれい)な子でした、誰も、わたしを賞(ほ)めない人はありませんでした、それだのに、継母さんのためにこんなにされてしまいました、わたしを見る人は、みんなわたしを嫌います、いい笑い物にします、それは無理はありません、ですから、わたしは人に見られるのは嫌いです、ですから、わたしがほんとうに好きな人は眼の見えない人だけなのです。ね、米友さん、わたしの心持がわかったでしょう、わかったら、教えて下さいな、後生だから、あの人のいるところを教えて下さいな、頼みます」
 女は平伏(ひれふ)して、米友の前へ手を合わせぬばかりです。しかしながらこれは、いよいよ米友を煙(けむ)に巻くようなものとなりました。
「おいらには、何が何だかよくわからねえが、お前の尋ねるその盲目(めくら)の先生はな……本当のことを言えばこの家にいるんだ」
「エ、この家に?」
「そうさ、この家においらと二人で隠れているんだが、今はいねえ」
「どこへ行きました」
「どこへ行ったか、おいらにもわからねえんだが、夜になると、おいらに黙って、そっと出し抜いて出かけてしまうのだ」
「まあ、どこへ行くのでしょう、そうして、いつごろ出かけて、いつごろ帰ります」
「いつごろ帰るんだろうなあ、朝になって見ると、ちゃんと帰ってるからなあ」
「あ、それではわかった、きっと吉原へ行くのでしょう」
「吉原へ?」
「お前に知れないように、吉原へ行って、またお前に知れないように、ここへ戻っているんでしょう」
「そうじゃねえ」
「それでは、どこへ何しに行きます」
「うむ、そいつは、ちっと言いにくいなあ」
 米友は頭を抱えて、畳の上を見つめますと、女はいっそう強く、
「言ってごらん、何を言っても、わたしは怒らないから」
「うむ、お前はいったい、あの盲目(めくら)の先生を、いい人と思っているのか、それとも悪人だと思っているのか」
「わたしは何だかわからない、善い人だか、悪い人だかわからないけれど、わたしは離れられない」
「あいつは、悪人だぜ」
 米友は抱えていた頭を擡(もた)げて、こう言いましたけれども、女はさのみ驚きません。
「どうして、あの人が悪いの」
「ありゃ、女が好きだよ」
「エ?」
「そうして、腕が利(き)いてるよ」
「それは知っていますよ」
「女が好きで、好きな女をみんな殺しちまうんだ――腕が利いてるから堪(たま)らねえ」
「米友さん、お前はそのことを本気で言っているの、それを知って、そうだといっているの、エ、それを、わたしが知らないと思ってるの」
「うむ――」
 米友は何か知らず、力を入れて唸(うな)りました。女は、米友の近くへ摺寄(すりよ)って、
「さあ、言って下さい、わたしは少しも驚きません、あの人が、女を殺したということを、お前が知っているなら言って下さい、わたしも知っていることを言ってみせます」
「うーむ」
 米友が再び唸って、額に皺(しわ)を寄せて、深い沈黙に落ちようとする時に、女は躍起(やっき)となって、真向(まとも)に燈火(あかり)へ面(おもて)を向けて、さも心地よさそうに、
「だから、わたしは、あの人が好きなのです、あの人は、平気で人を殺すから、それで、わたしは、あの人が好きです、あの人は、若い女の血を飲みたがっているのでしょう、わたしが傍にいれば、人は殺さないのです、女は殺さないはずです、わたしが傍にいないから、それでほかの女を殺してしまいます、わたしと離れているから、それで咽喉(のど)が乾いて我慢がしきれないで、女を殺すんです、無理もありません、そうでしょう、毎晩、出かけるのは、吉原へ行くんじゃありません、ここから吉原へ行くんじゃありません、ここから吉原まで、あの人に往来(ゆきき)ができるわけがありません、そんなことをしたがる人じゃありません、あれは辻斬に出るのです、人を斬りに出るのです、それは今に始まったことじゃありません、甲府にいる時もそうでした、あの人は平気で何人でも殺してしまいます。ええ、わたしだけはよく知っています、どこで、どんな人を幾人斬ったということまで、ちゃんと帳面に記してあるんですから。それで今晩も出かけたのでしょう、どっちへ行きました、どの方角へ行きました、米友さん、これから、わたしをその方角へ連れて行って下さい」

         二

 ちょうど、その晩のことでありました。柳橋の、とある船宿の二階で、手紙を読んでいるのは駒井甚三郎であります。
「殿様、あの、お客様が参りました」
 取次いだのは、宿のおかみさんらしくあります。
「あ、待ち兼ねていた、ここへ通してもらいたい」
 駒井は読んでいた手紙を巻きながら、待っていると、
「御免下さりませ」
 おかみさんに案内されてそこへ面(おもて)を現わしたのは、年の頃五十恰好で、しかるべき大工の棟梁(とうりょう)といったような人柄の男でありましたが、甚三郎を見ると急に改まって、
「これはこれは駒井の殿様でござりましたか、これはお珍らしいところで、思いがけなくお目にかかりまする」
 恭(うやうや)しくそこへ両手を突いたが、驚きのうちにも、相当の親しみがあるらしい。
「寅吉、ほんとに暫くであったな」
「いや、もう、ずいぶん思いがけないことでございました、お手紙が届いてから、どなた様かとしきりに思案を致しては参りましたが、駒井の殿様とは、夢にも存じませんことでございました」
「まあ、ともかく、こちらへ入るがよい」
「それでは、御免を蒙りまして」
 寅吉と呼ばれた棟梁らしい男は、駒井の傍近く膝行(にじ)り寄って、頭を下げました。
「相変らず壮健(たっしゃ)で結構だな」
「はい、おかげさまで風邪一つ引きも致しませんが、いったい殿様は、その後、どちらにおいであそばしました。江川様にお目にかかった時お聞き申してみましたが、江川様も御存じがないそうでございました、多分、西洋の方へおいでになったんじゃなかろうかと、おっしゃってでございましたが、ここで殿様にお目にかかろうとは、ほんとに夢のようでございます」
「まあ、それを話すと長いことになるがな、拙者は今、房州に行っている」
「へえ、房州においででございますか、房州はどちらでいらっしゃいます」
「房州は洲崎(すのさき)じゃ、もと砲台のあった遠見の番所に隠れていたのが、仔細(しさい)あってこのごろ江戸へやって来た、噂(うわさ)を聞くと、近頃そちは芝の江川のところに来ているそうだから、ぜひとも会ってみたい心持になって、あの手紙を遣(つか)わしたのじゃ、早速、出向いて来てくれて忝(かたじけ)ない」
「どう致しまして、そうおっしゃって下されば、伊豆が長崎におりましょうとも、いつでも出向いて参ります。私はまた小野様か、肥田様か、そうでなければ春山様……といろいろにお案じ申し上げて参りました」
「就いては寅吉、呼び立てたのは、ただ久しぶりでそちに会ってみたくなったのみならず、相談したいこともあってのことじゃ。それより以前に一つ、そちに対して申しわけのないことがある、と言うのは、あの清吉じゃ、あれは房州まで拙者と一緒に行ってくれたが、ここへ来る前の時に、行方知れずになってしまったわい」
「エエ、清の野郎が行方知れずになりましたか、あいつは人間が少し愚図ですからな」
「人間は朴直(ぼくちょく)であって、腕は、お前の秘蔵弟子だけに見所(みどころ)のある男であったが、不意に行方知れずになった、手を尽して捜索したが、どうもわからぬ、あの辺の海は危険な海であるから、ことによると、波に捲き込まれたのかも知れぬ、いずれ帰った上で、また篤(とく)と捜索をせにゃならぬが、それについて、そちに頼みたいのは、そちの弟子のうちで、もう一人、あれに似たようなものを世話してくれまいか。いや一人より二人がよろしい、そちの見立てでしかるべきものを二人ほど連れて房州へ帰りたいものじゃ」
「よろしうございます、たしかにおひきうけ申しました」
 寅吉は、甚三郎の頼みを快く承知する。
「では、きまり次第に、その者をこの家まで向けてもらいたい、この家の主人(あるじ)は、もと拙者の家来筋の者じゃ、不在でもわかるようにしておく」
「畏(かしこ)まりました、二三日中には必ず連れて参りまする。それはそうと、殿様には房州で何か、おはじめなさるんでございますか」
「あの海岸でひとつ、スクーネルをこしらえてみたいのじゃ」
「なるほど、それは結構でございます、殿様の御設計ならば、私共がなにも申し上げることはございませんが、材料と手間がいかがでございます、いっそ、石川島でおやりになったらいかがでございますな」
「万事はあちらで相当に間に合わすつもりじゃ、土地の若い者を集めて、相当に教え込んでも使えるだろうから。で、二三の友人に相談もして、その助力も受けることになっているから、秘密というわけにも参るまいが、なるべく表立たぬように、自分共の手一つで仕上げて、そして自分たちの自由に乗り廻せるようにしてみたいと思うている、それには石川島では都合が悪い、戸田へ行こうかとも思ったが、少々遠くもあり、差支えもあって、ついに房州洲崎の地を選んだわけじゃ」
「それはそれは。そういうわけでございましたら、とりあえず間に合いそうな人を差上げておきまして、おっつけ私共も隙(すき)を見てお邪魔に上り、殿様のお差図で働かせていただくと、私共も、どのくらい修業になるか知れません」
「お前が来て見てくれれば何よりだ、遊びに来てもらいたい」
「必ずお邪魔に上ります。それから、なんでございますか、そのお船は、どのくらいの大きさになさる御設計でございます」
「拙者は、今、二つの設計を持っているのじゃ、安政二年に、お前たちがこしらえたシコナと同じものにしようか、それとも、千代田型に法(のっと)って、それに自分の意匠を加えてみようかとも思っている、どのみち、法式は西洋型のものじゃ」
「なるほど。そうしますと無論、軍艦でございますな」
「いいや、軍艦ではない、用心のために大砲を一門だけはのせてみたいが、軍艦にしたくないのじゃ。人も、さほど多く乗せる必要はないが、さりとて大海(たいかい)を乗り切って外国に行くに堪えるだけの、人と荷物とを容れ得るものでなければならん。長さは十七間余、幅は二間半、馬力は六十、小さくとも、その辺でなければなるまいと思うている」
「なるほど」
「まあ、これを一つ見てくれ」
 甚三郎は座右の書類の中から、一枚の折り畳んだ絵図面を取り出しました。
「ははあ、お見事なものでございますな」
 その絵図面は、駒井甚三郎が自ら引いた西洋型の船の絵図面であります。いま言った通り、スクーネル型の三本柱の船と、それから千代田型の細長い船とが、上下に二つ描かれてあるのであります。
 船大工の寅吉、これは豆州(ずしゅう)戸田の人で、姓を上田と言い、その頃、日本でただ一人と言ってもよろしい、西洋型船大工の名棟梁(めいとうりょう)でありました。
 寅吉は机の上に展(ひろ)げた船の絵図面を熱心にながめているし、甚三郎もまた、額(ひたい)を突き合わせるようにしてその絵図面をながめて、あれよこれよと、説明し質問し、質問がまた説明に代ったりしているうちに――もうかなりの夜更けであります。遽(にわ)かに人の叫ぶ声があって、たしか第六天の前、それとも柳橋の袂(たもと)あたりの空気が、ヒヤリと振動したのが、ここまで打って響きます。
 それで寅吉は、我知らず後ろを振向きました。甚三郎は、なお絵図面の上を見ているが、それでも、耳をすまして何事かを聞かんとしているもののようです。
 ワッと崩れた人の声がこの時、また、ひっそりと静まり返ってしまいました。あまりに静まり返ったために、何となく、あたりいっぱいに漂う一道の凄気(せいき)が、ここの一間の行燈(あんどん)の火影(ほかげ)にまで迫って来るようでありました。ほどなく、
「ヤア!」
という気合の声と共に、チャリンと合わせたのは、たしかに霜に冴(さ)ゆる刀の響きでした。駒井甚三郎は、絵図を手に取って首(こうべ)を起して、その物音の方をながめます。ながめたところでそこは壁です。甚三郎はその壁の一方を見つめていると、寅吉は、やはり同じ方面を見つめて、押黙ってしまいました。
「ヤア!」
 二度目に気合の声があったのは、それからやや暫く後のことでした。
「斬合い!」
 寅吉が身の毛をよだてると、甚三郎は幾分か興味あるものの如く、その物音に耳を澄ましていましたが、やがて、
「面白い、ドチラも辻斬じゃ、辻斬同士が柳橋を中にして斬り合っているのじゃ、命知らずと命知らずが、ぶつかって、あそこで火花を散らしている」
と言いながら微笑しました。
 この時代においては、辻斬ということは、そんなに驚くべきほどのことではありません。深夜に一旦外へ踏み出せば、自分が斬られるか、或いは斬られて倒れているものを発見することは、さして難(かた)いことではありません。
 けれども、船宿の二階に離れていて、霜に冴(さ)ゆる白刃の音を、遠音(とおね)に聞いているというような風流は、ちょっとないことです。本来、船宿の二階というものは、真剣勝負の白刃の響きを聞いているべきところではありません。江戸時代の船宿の二階というものは、もう少し違った風流の壇場(だんじょう)でありました。
潮来出島(いたこでじま)の十二の橋を
  行きつ戻りつ思案橋
 昔の船宿の船頭には、潮来節を上手にうたうものがありました。辰巳(たつみ)に遊ぶ通客は、潮来節の上手な船頭を択(えら)んで贔屓(ひいき)にし、引付けの船宿を持たなければ通(つう)を誇ることができませんでした。
 偶然とは言いながら、駒井甚三郎は、ここで軍艦製造の相談をしなければならないのは、駒井その人が無風流なる故ではありません。文化文政の岡場所が衰えても、この時代の柳橋は、それほど江戸っ児の風流を無茶にするものではありませんでした。川開きの晩に根岸鶯春亭(おうしゅんてい)あたりへ逃げて行くほどの風流は、持っていたはずであります。不幸にして、今宵は元の駒井能登守が、見慣れない絵図面を拡げて、スクーネルの、君沢型の、千代田型のと言っている時に聞えたのが生憎(あいにく)、常磐津(ときわず)でもなく、清元(きよもと)でもなく、況(いわ)んや二上(にあが)り新内(しんない)といったようなものでもなく、霜に冴(さ)ゆる白刃の響きであったことが、風流の間違いでした。
「ははあ、殺(や)られたな、相手は一人じゃないわい、どのみち、辻斬をして歩くほどの乱暴者だから、おたがいに倒れるまで未練な助けを呼ぶようなことがない、ましてやこの際、仲裁に出るものがあろうとも思われない、夜番や巡邏(じゅんら)が通りかかっても、見て見ぬふりして通り過ぎるだろう。こりゃ幾人いるか知れんが、この斬合いは長そうじゃ、出て見たらかなりの見物(みもの)であろうわい」
 駒井甚三郎は、何か自分ももどかしそうに、寧(むし)ろその斬合いの音に興味を持って耳を傾けているが、寅吉は、さすがに面(かお)を真蒼(まっさお)にして拳を固めています……かくて暫くする時、この船宿の表の戸に突き当る音、続いてバッタリと人の倒れるような音がしました。

         三

 ちょうど、この晩のこの時刻に、長者町の道庵先生が茅町(かやちょう)の方面から、フラフラとして第六天の方へ向いて歩いて来ました。
 いったい、この先生は、こんなところへ出て来なくってもいい先生であります。なるべくは、真剣の場所へは出したくないのですが、こういう先生に限って、出るなと言えば出てみたがり、出てもらいたい時には沈没したりして、世話を焼かせる先生であります。
 いかに先生だとはいえ、身に金鉄の装(よそお)いがあるわけではなく、腕に武術の覚えがあるわけではなく、時は、この物騒な江戸の町の深夜を我物顔(わがものがお)に、たった一人で歩くということの、非常な冒険であることを知らないわけはありますまい。知ってそうしてその危険を冒(おか)すのは、つまり酒がさせる業(わざ)であって、先生自身の罪ではありますまい。ただしかし、一杯機嫌で、この真夜中にフラフラと歩き出して前後の危険をも忘れてしまい、ただ無性(むしょう)にいい心持になっているほどに、先生の飲みッぷりは初心(うぶ)なものではないはずだから、何か特別に嬉しいことがあっての上でなければなりません。
 先生が唯一の好敵手であった鰡八大尽(ぼらはちだいじん)は、あの勢いで洋行してしまったし、それがために、隣の鰡八御殿は急にひっそりして、道庵の貧乏屋敷に一陽来復の春が来たのはおめでたいが、単にそれだけの嬉しまぎれに、ほうつき歩くものとも思われません。
 さりとて、また今時分になって柳橋あたりへ、飲み直しに行こうとするものとも思われない。第六天の神主の鏑木甲斐(かぶらぎかい)という人が、かなり飲(い)ける方で、道庵とも話が合うのだから、これから興に乗じて、その人を嗾(そそのか)そうという企らみのように解釈するのも、余りに穿(うが)ち過ぎているようです。
 これは先生のために、極めて真面目に解釈して、先生が深夜、急病人からの迎えを受けて、切棒の駕籠(かご)にも乗らず、お供の国公をも召連れず、薬箱も取り敢(あ)えずに駈けつけて、下地(したじ)のあるところへ病家先の好意で注足(つぎた)しをし、その勢いに乗じて、長者町へ帰るべきものを、どう間違ったか柳橋方面へうろつき出したと見るのが親切で、そうして至当な観方でありましょう。
 いつぞやも言う通り、平常はぐでんぐでんの骨無しみたような先生だが、ひとたび職務のことになると、打って変った忠実精励無類の先生のことだから、天下が乱れようとも、行手に危険が蟠(わだかま)ろうとも、深夜であろうとも、辻斬が流行(はや)ろうとも、ひとたび病家の迎えを受けた以上は、事を左右に托してそれを謝絶(ことわ)るような先生ではありません――武士が戦場へ臨む心で、こうしてほうつき歩くのであります。
 好い心持で、独言(ひとりごと)を言いながら、第六天の前まで先生が来た時に、
「えーッ、危ないよ」
 路次のところから、警告を与える声がありました。
「誰だい、危ねえと言ったのは誰だい、拙者は長者町の道庵だよ、十八文だよ」
「先生、危ねえ、いま柳橋で斬合いが始まってるんだ、そっちへおいでなすっちゃいけません」
「ナナ、ナンダ」
 道庵は酔眼をみはって、路次口の暗いところを見込むと、縁台の下に隠れて、そこから先生に警告を与えたのは、やはり、先生の名前を知っている地廻りの若い者と思われます。
 それを聞くとどうしたものか、先生の気が忽(たちま)ち大きくなりました。
「ナ、ナニ、斬合いだ、斬合いがどうしたんだ、ばかにしてやがら、斬合いなんぞにおどっかする道庵とは道庵が違うんだ」
「先生、いけませんよ、そんなことを言ったって駄目ですよ、さむれえが三人で斬り合ってるんだ、早く、こっちへ来て、路次へ隠れておいでなさい。駄目だよ、駄目だよ、そっちへおいでなすっちゃ駄目だというのに」
「憚(はばか)りながら、どこへ出たって押しも押されもしねえ道庵だ、腕くらべなら持って来てみな、そう申しちゃなんだが、人を殺すことにかけては、当時、道庵の右に出でる者は無え……道庵が長者町へ巣を食って以来(このかた)、道庵の匙(さじ)にかかって命を落した者が二千人からある」
「困っちまうな先生、そんなことを言っている場合じゃありませんぜ」
 せっかくの親切を無にして道庵先生は、フラリフラリと第六天の前へさしかかりました。
 そうすると第六天の鳥居の蔭に、一団(ひとかたまり)になって息を殺している人影が、通りかかる道庵を認めて声を立てないで、手を上げてしきりに招くのが道庵の眼に留ったから、道庵もひょいとそちらを向きました。その時に一団の中から、いきなり飛び出して来た一人の男が、いきなり道庵の手首を取って、だまって鳥居の方へ引きずって行こうとします。道庵はその手を振り切ろうとしたが、なにぶん腰が据わらないので、思うようにならないところを、男はまた一生懸命で、道庵を引張り込もうとします。そうなると道庵は面白半分に、駄々を捏(こ)ねる気になって、足をバタバタさせながら、行かじとします。けれども、道庵を引張りに来た男は、たしかに一生懸命で、これもやはり地廻りの一人でありましょう、道庵をそれと知ったもんだから、自分も怖い中から飛び出して来て、何も知らない道庵のために、行手の危険を防いでやろうとする親切であります。
 それも口を利くとあぶないから、黙って遮二無二(しゃにむに)、道庵を引張り込もうとするが、道庵はいま言う通り、ワザと足をバタバタさせて、駄々を捏ねるのだから始末におえません。親切に引張り込もうとした男は、いよいよ焦(あせ)って力の限り引張ると、道庵はまた、いよいよ面白がって、
「なにがしは平家の侍、悪七兵衛景清(あくしちびょうえかげきよ)と、名のりかけ、名のりかけ、手取りにせんと追うて行く……三保谷(みほのや)が着たりける、兜(かぶと)の錣(しころ)を取りはずし、取りはずし、二三度逃げのびたれども、思う敵なれば遁(のが)さじと、飛びかかり兜をおっとり、えいやと引くほどに……」
 面白がって道庵は「景清」の謡(うたい)をおっぱじめました。
「先生、謡どころじゃありません、やってますぜ、やってますぜ、斬合いが始まってるんだから、早くこっちへ逃げておいでなさいまし」
 ようやく小さな声で、これだけのことを言って、最後の力で引張り込もうとしたが、この場合において三保谷の方が、役者が一枚上であったから始末にゆきません。腕から辷(すべ)って羽織の裾に取りつき、錣引(しころび)きが草摺引(くさずりび)きになったけれども、このたびの朝比奈もまた、あまりに意気地のない朝比奈で、五郎時致(ときむね)は、またあんまりふざけ過ぎた五郎時致でありました。
「先生、怪我があっても知りませんぜ、しっかりしなくっちゃいけません」
 せっかく、飛び出した男が持て余している時に、柳橋の角から、星明りの闇夜(やみよ)に現われた人影が一つ、蹌々踉々(そうそうろうろう)として此方(こなた)に向いて歩いて来ます。その手にしている秋の尾花のような白刃が、星明りの闇にもきらめいて、足許のあぶないのは、たしかに重い手傷を負うているものと見られます。それと見た男は道庵を突き飛ばして、あわてて第六天の社内へ逃げ込みました。突き飛ばされた道庵は、あやうくそれを残して踏み直り、これも千鳥足。向うから歩いて来る千鳥足と、こちらから歩いて行く千鳥足とは、同じ足許があぶないながら、たしかに性質が違います。その辺にいっこう御夢中な道庵先生の危ないこと。
 暗いところで、よくわからないが、右の手に刀をぶらさげたままで、左の手を以て、右の肩の上をしっかりと押えて、真蒼(まっさお)な面(かお)をしてフラリフラリと歩いて来るのは、年の頃はまだ若い、袴を着けたさむらいであります。
 出合頭(であいがしら)に、それとぶっつかった道庵は、
「やア、危ねえ!」
 この時ひとたまりもなく、後ろへひっくり返ってしまいました。けれども、それは、一刀の下にきりふせられたのではありません。鉢合せをして打倒(ぶったお)れたまでのことで、道庵が痛い腰を擦(さす)って起き直ろうとした時に、先方のさむらいも同じく後ろに打倒れていることを認めました。しかも、酔っぱらっている道庵は、ともかくも起き直る余裕があるのに、向うへ打倒れたさむらいは、起き上る気力がありません。
「気をつけてもらいたいね」
 道庵はこう言って起き上り、倒れた先方の人のところへ行って見ると、その人は虫の息です。道庵は、よくそんなところへ出会(でっくわ)せる男で、いつぞやも伊勢参りをした時に、やはり、こんなような鉢合せから始まって、宇治山田の米友という珍物を掘り出したのは、この先生の手柄であります。
「そーら見ろ、悪いいたずらをすると罰が当るぞよ、世界の立て直しだぞよ」
と言いながら、虫の息で倒れている人の傍へ寄って見て、
「やア、やられたな、右の肩先をバラリズンとやられたな、手傷を押えて、フラリフラリとここまで、やって来たところを、拙者と鉢合せをしたために手傷が裂けて、こうなったのはまことにお気の毒だ、まあ待ち給え、拙者がお手のもので、ひとつ手当をして進ぜるから」
 道庵は手負(ておい)を抱(いだ)き起して、一方には自分の羽織を脱いで、その肩先の創口(きずぐち)をしっかりと捲き、血留めをしておいて、さて応急の手当を試みようとしたけれど、遺憾ながら、それはもう手後れでありました。打倒れた途端に、斬られた右の肩先から、ほとんど全身の血を土に飲ませてしまい、道庵先生の羽織一枚は、グチャグチャになってしまい、みるみる、そのさむらいの面(かお)は蝋のように変じて、道庵に抱えられながら、虫の息が、ついに断末魔の息となり、やがて眠るが如く縡切(ことき)れてしまいました。
 ここで道庵が人を呼ぶか、どうかすればよかったのだが、この時分は、酔眼いよいよ朦朧(もうろう)として、意地にも我慢にも眠くなって堪らないようでした。斬られたさむらいの屍骸を抱え込んで、どう始末しようという当てがあるでもなく、朦朧たる酔眼を、幾度も幾度もみはって、
「扁鵲(へんじゃく)の言いけらく、よく死すべきものを活かすにあらず、よく活くべきものを活かしむるなり」
 こんなことを言いながらも、多少は正気があると見えて、有らん限りの力を入れて、その死骸をせめて往来の片端へでも運んでやろうと、努力を試みているもののようです。しかしながら、それは蟻が一生懸命で生殺(なまごろ)しの虻(あぶ)に取りついているように、ズルズルと引張っては、またはなしてしまい、また引張っては離れ、離れては引張り、引張っているうちに自分の腰が砕け、砕けた腰がまた箝(はま)ると、揉手(もみで)をして取りつき、右が入って抱き込んだかと思うと、勝手が悪いと見えて捲き直してみたり、諸差(もろざ)しになったから、もうこっちのものと思っている途端に、また自分の腰がグタグタと砕けて、力負けをしてしまったり、本人は一生懸命のつもりだろうが外目(よそめ)で見れば、屍骸を玩具(おもちゃ)にして四十八手のうらおもてを稽古しているようで、見られたものではありません。
 けれども、この独(ひと)り角力(ずもう)も、もうヘトヘトに疲れきって道庵は、屍骸の腋(わき)の下へ頭を突込んだかと思うと、やがてグウグウ鼾(いびき)を立てて寝込んでしまいました。

         四

 一方、駒井甚三郎は、船宿の表の戸に突き当った物音を聞くと、沈着な人に似合わず、立ち上って、それを諫止(かんし)しようとする寅吉に提灯をつけさせ、二階の梯子を下りて、表口の戸をあけて外へ出ました。戸をあけて一歩外へ出ると、紛(ぷん)として血の香いが鼻を撲(う)ちます。
 甚三郎が提灯を突きつけて見ると、つい土台石の下にのめっている一つの血腥(ちなまぐさ)い死骸があります。長い刀は一間ばかり前へ投げ出しているのに、左の手では手拭を当て、額をしっかりと押えて、その押えた手拭の下から血が滲(にじ)み出して面(おもて)を染めているから、その人相をさえしかと認めることはできないが、まさしく相当のさむらいであります。
 駒井甚三郎は、傍へ差寄って検(しら)べて見ると、すーっと額(ひたい)から眉間(みけん)まで一太刀に引かれて、あっと言いながら、それを片手で押えて夢中になって、ここまで、よろめいて来たものと見えます。よろめいて来て、人の家の戸口と知って、刀を抛(ほう)り出して、その手で戸を二つ三つ叩いたのが最後で、ここに打倒れて、そのままになったものに相違ないと思われます。
 もはや、どうしようにも手当の余地はないと見た駒井甚三郎は、関(かかわ)り合(あ)いを怖れてそのまま戸を閉じて引込むかと思うと、そうでなく、提灯を持って、スタスタと柳橋の方へ進んで行きました。寅吉も、駒井が出て行くのに自分も隠れていられないから、甚三郎のあとを追おうとすると、
「寅吉、お前は危ないから出て来るな」
「殿様こそ、お危のうございますよ」
「出て来てはいかん、閾(しきい)より出てはならぬと言うに」
 甚三郎は寅吉を抑えて、表へ出さないようにして、自分だけは提灯をさげて橋の方へ出直しました。
 閾の中にいて、戸の間から面(かお)だけを出した寅吉は、安からぬ色をして駒井甚三郎の後ろ姿を見送っているが、その心配のうちにも、また安んずるところがあるのは、それはこの殿様が、もとより武芸にかけて何一つおろそかはないが、ことに鉄砲にかけては、海内無双(かいだいむそう)であるということを知っているからであります。そうして、懐中には、いつもその時代最新式の、外国から渡った短銃を離したことのないのも知っているからであります。
 駒井甚三郎は、向うへ歩んで行きながら提灯(ちょうちん)の光で地面を照して、気をつけて見ると血汐(ちしお)のあとが、ぽたりぽたりと筋を引いているのであります。斬合いは、たしかに柳橋の上で起っている。どちらがどうともわからないが、その人数は一人ではなく、たしか三人以上の斬合いになっている。もし三人とすれば、必ずや一方は一人、一方は二人であるに相違ない。自分のいるところの門口へ来て倒れたのは、そのうちのどちらか知らないが、まだ二人はたしかに橋の上に残っているはずである。負傷して橋の上に残っていなければ、どちらへか逃げて行ったものであろう。逃げて行ったとすれば、その二人で、この一人を討って立退いたものであろうが、それにしては卑怯である。喧嘩か、意趣か、辻斬か知らないが、二人で一人を斬って、その最期も見届けずに逃げてしまうのは腰抜けである。それはあるべからざることだから、多分、その二人も傷ついて、そこらに斃(たお)れているだろう。駒井甚三郎は、そう思ったから、現場を見届けるために橋の上まで来て、提灯を差し出すと、果せる哉(かな)、橋の欄干にしがみついている一個の人影を認めることができました。
 駒井甚三郎は、その橋の欄干にしがみついている人影に提灯を差しつけて見ると、それもしかるべき、若いさむらいでありました。
 前のは、ともかくも向う傷であったが、これは斬られて後に欄干にしがみついたのか、逃げ場を失うて欄干にしがみついたところをやられたのか、後(うし)ろ袈裟(げさ)に、ザックリと思う壺に浴びせられて、二言(にごん)ともなく息が絶えている形であります。その死物狂いで欄干へとりついたのが、木の枝にかじりついた蝉(せみ)のぬけ殻と同じような形であります。
 駒井は篤(とく)と提灯の光で、それを見届けた上に、なお徐(おもむ)ろに橋の上を進んで行くのであります。その進んで行く橋板の上はベットリと血だらけですから、ややもすればそれに辷(すべ)って、足を浚(さら)われようとする間を選んで徐(しず)かに歩きました。
 左には両国橋が長蛇の如く蜿蜒(えんえん)としている。右手は平右衛門町と浅草御門までの間の淋しい河岸で、天地は深々(しんしん)として、神田川も、大川も、水音さえ眠るの時でありました。
「駒井の殿様」
 堪り兼ねたと見えて寅吉が、あとを慕うて来ました。
「お危のうございますよ」
 駒井甚三郎は提灯を差し上げて、寅吉の方を照しましたけれど、その時は、もう来るなと言ってとめはしません。
「あッ」
と言って、寅吉は、その橋板に流されている血汐に辷りました。お危のうございますという口の下から、自分が危なく打倒れようとして橋の欄干に取縋(とりすが)った、ついその隣は、例のしがみついた屍骸でしたから、慄(ふる)え上って飛び退きました。
「駒井の殿様、あんまり進み過ぎて、お怪我のないように」
 寅吉は橋を渡りきることができないでいたが、駒井甚三郎は頓着なく、橋の向うの板留まで歩いて行きました。
 そこで、ゆくりなく拾い上げたのは一口(ひとふり)の刀であります。それを駒井が提灯の光で見ている時、今まで眠れるもののように静かであった大川の水音が、遽(にわ)かにざわついてきました。潮が上げて来たものでもなく、雨が降り出したわけでもなく、水の瀬が開ける音がしたのは一隻の端舟(はしけ)が、櫓(ろ)の音も忍びやかに両国橋の下を潜って、神田川へ乗り込み、この辺の河岸(かし)に舟を着けようとしているものらしい。拾い上げた刀を見ていた駒井は、早くもその舟を認めました。刀を照らした提灯の光で、今時分、河岸へつけようとした怪しの舟の何者であって、どこから来たものであるかを確めようとしました。
 それを怪しいと見たのはおたがいのことで、ここまで乗りつけて来た小舟の船夫(せんどう)はまた、櫓を押すことを休めて、橋上を屹(きっ)と見上げました。
 この深夜に、長い抜刀(ぬきみ)を片手にかざしながら、橋上にただ一人で突っ立っている光景は、舟の中から見ても穏かなる振舞とは見えません――それで、手を休めて、橋上の人のなさん様を眼も離さず見ていたが、この小舟の中には、この船夫一人ではありません。他に一人の客があって、その客人もまた、船夫と同じような怪しみと熱心とを以て、橋上の人を見つめているのであります。
 それがために、せっかく、河岸へ着けようとした舟は河岸へ着かず、神田川を出でて大川に合せんとするところの波に揉まれて漂うています。この怪しい舟の船夫(せんどう)というのは小柄な男で、一人の乗客というのは頭巾を被(かぶ)った女のような姿の人。申すまでもなく、船夫はすなわち宇治山田の米友で、お客はとりも直さずお銀様でありました。
 こうして橋の上と下とでは、無言のままに睨み合いをしていました。駒井甚三郎は提灯の光で、その怪しの舟と、乗組の何者であるやを見極めようとしたけれども、提灯の光は充分にそこまで届きません。舟の中なる米友は、同じ提灯の光をたよりに橋上の人を見つめているけれど、提灯の光は朦朧(もうろう)として、思うようにその人の面影(おもかげ)をうつしてくれません。
 その時に駒井甚三郎は、ふと己(おの)れの後ろで人の足音を聞き咎(とが)めたから、橋下をのぞんでいた提灯を振向けました。つい、自分の後ろ十間とは隔たらないところに、またしても一個の人影があります。
 それは船大工の寅吉ではありません。寅吉とは全く違った両国広小路方面から歩いて来たものです。それも駒井のここにいることを認めて、なるべく忍び足で近づいて来たものと見えました。
「誰じゃ」
 この時は駒井甚三郎が、猶予なく言葉をかけました。
「そなたは誰じゃ」
 その返事は、まだ少年の声であるらしい。
「何用あって、この夜更けに」
 駒井は再び咎(とが)め立てすると、
「そなたこそ、何御用あってこの夜更けに」
 少年は甚三郎に反問して来ました。
「橋の上が騒がしい故に、出て見たところであるわい」
「橋の上を騒がしたのは、貴殿ではござらぬか」
 少年はジリジリと、二三歩進み寄ります。
「拙者ではない……見受けるところ、そなたはまだ少年のようじゃ、橋の上が騒がしいと知って、一人でここまで来られたか、それともつれがあって来られたか」
 駒井甚三郎は提灯を高くして、その少年の姿を見ようとしたけれど、やはり充分に光が届かないのが残念です。
「いかにも、私には三人の連れの者がありました、途中においてその者の姿を見失いたるが故に心許(こころもと)なく、これまで追いかけて参りました」
「おおその三人は……ここに斬られている、多分、これらの人たちがそれではないか」
「ええ?」
 離れている少年は、その時に、つつと橋板の方まで馳(は)せ寄って来ました。しかしながら、刀の鯉口は切って、寧(むし)ろ、駒井甚三郎を斬らんとして飛びかかって来るもののようです。駒井は提灯を楯(たて)に、その鋭鋒を避けんとするものであるかの如く見えます。
「その斬られた人々は、いずれにござります」
「これへおいであれ」
 甚三郎は自身、橋の上へ引返して案内しようとする。それと並び寄るかのように少年は、刀の柄(つか)に手をかけて、
「貴殿はそもそも、いずれのお方でござる」
 こう言って詰問の体(てい)であります。返答の出ようによっては、たちどころに斬ってかかろうとする事の体でありました。駒井甚三郎は提灯をかざして、やはり、その少年の鋭鋒を避けるようにしながら、
「拙者はこの附近に住居(すまい)致す者でござるが、そういう御身は、いずれよりおいでなされた」
 そこで、提灯の間に、二人の面(かお)が合いました。いずれも覆面はしておりません。微(かす)かながら提灯の光は、二人の面差(おもざし)を映し出すに充分でありました。
「おお、其許様(そこもとさま)は駒井能登守殿ではござりませぬか」
 少年は、驚き呆(あき)れた音声です。
「宇津木君ではないか」
 駒井甚三郎もまた呆れ面(がお)です。この少年は宇津木兵馬でありました。駒井甚三郎と宇津木兵馬との会見は、滝の川の西洋火薬製造所以来のことでありました。
 二人はまた意外のところで、意外の奇遇を喜びました。兵馬の語るところによれば、兵馬は、ついこの川向うの相生町の老女の家にいて、今夜は同宿の三人のさむらいを尋ねて、このところまで来たということであります。
 その三人の同宿というのは、某藩の士分の者であるが、近頃、老女の家に寄寓して、番町の斎藤の道場へ通っておりました。しかるにこの三人が、どうも辻斬がしたくてたまらない様子が見える。近頃しきりに両国橋あたりに辻斬があるとの噂(うわさ)を聞いて、どうも腕が鳴ってたまらないらしい。三人が相談してこの二三日、夜な夜な出歩きをすることが兵馬の眼にもよくわかりました。
 兵馬の眼から見れば、彼等はまだまだ辻斬をして歩く腕ではない――別段に、辻斬をして歩く腕というのがあるべきはずのものではないけれど、どうも剣呑(けんのん)に思われてたまらなかった。しかし、兵馬は自分も夜な夜な出歩くことが多いことによって、彼等の相談に乗る隙もなかったし、それを忠告する余裕もありませんでした。
 今夜、夜更けて染井方面から帰るとて、両国橋の上で、兵馬は、ふと彼等三人とすれ違いになりました。彼等は兵馬を見ると、逃げるようにして通り抜けるから、それを見送って兵馬はやり過しはしたけれど、また好奇心にも駆られ、心配にもなって、わざと引返して彼等のあとをつけてみようと、広小路まで来たけれども、ついにそこで三人の姿を見失ってしまったということでした。
 一旦、郡代屋敷の方面へ行って見た後に、また引返して、柳橋の方へ出て見ると、そこの橋上に立っている人がある。提灯こそ提げているが、手に抜刀(ぬきみ)を携えている事の体(てい)が尋常でない。そこで誰何(すいか)してみたその人は、元の駒井能登守であった。
 という話の筋を聞いて駒井甚三郎が、なるほどと思い、
「橋の上に一人、船宿の前に一人、都合二人だけ斬られている、もしや、そなたの尋ねる人かも知れぬ、検分なさるがよい」
 甚三郎が先に立って、提灯を照らして兵馬を導いたところは、まず橋の欄干に蝉のぬけ殻のようになって、しがみついている一人のさむらいです。
「あ、これだ、これに相違ござりませぬ、これは田村左四郎と申す某藩の士でござりまする。ああ、無惨なことを致しました」
 兵馬は眉をひそめて、後ろ袈裟に斬られた田村の無惨な殺され方をながめていましたが、
「さて、もう一人はこちらに、真甲(まっこう)を割られている」
 駒井は橋を渡り返して、かの船宿の前へ来て見ると、前に言う通り、真甲の傷を手拭で押えたまま、刀を投げ出して仰向けに倒れています。
「あ、これは多賀六郎と申す某藩の者、以前は蜊河岸(あさりがし)の桃井(もものい)の道場で、相当の腕利(うでき)きでござりましたのに」
 兵馬は、やはり無惨極まる思い入れで、その斬られぶりをよく見ておりましたが、
「して、もう一人、余語(よご)と申すやはり某藩の者がおりましたはず、その者の姿は見えませぬか」
と言って四辺(あたり)を見廻しました。
「まだ一人あったとすれば、それは、やはり斬られているのか、逃げたか」
と駒井も不審がって、そこで三人が一緒になって、もう一人の行方を探そうとして、橋の方へ小戻りして来ました。
 それから橋上へ取って返した時分に気がつくと、さいぜん橋の下までやって来た怪しの舟は、もう見ることができません。再び大川へ出てしまったのか、それとも橋をくぐって神田川を溯(さかのぼ)ったのか、いつのまにか見えなくなったけれど、それはこの場合、強(し)いて探究してみなければならないほどのことではありません。
 駒井甚三郎は、その時にこんなことを言いました、
「拙者(わし)が甲府にいる時分、あの城下で、ひとしきり辻斬沙汰が多かった、士分、百姓町人、女まで斬られた、ずいぶん、酷(むご)たらしい殺し方をしたものだが、腕は非常に冴(さ)えていた、百方捜索したが遂にわからなかった。あとで聞くと、その斬り手はかく申す駒井ではないかと疑うた者があるそうじゃ、駒井を除いては、あれほどに手が利いて、そうして斬り捨てて巧みに姿を隠すことのできようものが、甲府の内外にあろうとは思われぬ、新任の駒井能登守が、新刀試(あらみだめ)しのために、ひそかに城を抜け出でて辻斬を試みるのだろう、さもなければ広くもあらぬ甲府城下のことだから、おおよその見当がつかねばならぬはず……というわけで、駒井の身辺をしきりに警戒していた者があったとやら。駒井は虫も殺せぬ男のつもりだが、甲府城下ではそれほどに剣呑(けんのん)がられたことがある。辻斬というものは、一度味を占めるとやめられないものだそうだな、一度が二度、三度となると度胸も据(す)わって、毎晩、人を斬らねば眠られぬようになるそうな」
 こんなことを言いながら、橋板の上の血痕をよくよく辿(たど)って見ると、その一筋が、平右衛門町から第六天の方へ向いています。それを伝って行ってみると、第六天の社(やしろ)の少し手前のところの路傍に、物の影が横たわっているのをたしかめました。さてこそ! 近寄って見るとしかもその屍骸が一箇ではなく、折重なって二つまであるらしいことが、まず三人の胆(きも)を冷しました。それではここまで追蒐(おっか)けて来て刺違えたのか、ともかくも当の敵(かたき)を仕留めたものと見える。そう思っていると、またも三人の度胆を抜いたことは、その死屍の中から鼾(いびき)の声が起ったことであります。これには駒井甚三郎も、宇津木兵馬も、上田寅吉も一方ならず驚かされないわけにはゆきません。いかなる大剛の人でも、斬り伏せられて鼾をかく人は無いはずです。また人を斬っておいて、鼾をかいて寝込んでしまう人もあるまじきものです。
 さすがの三人も、これには驚き入って、ずかずかと近寄り検(しら)べて見ると、下になっている一つはまさしく斬られている人ですが、その斬られている人の腋(わき)の下に首を突込んでいる他の一人が、まさに大鼾をかいているのであります。何のことだか、さっぱりわけがわからないながら、下になっている屍骸を検分するには、ぜひとも、その上になっている鼾の主を取り退(の)けなければなりません。
「これこれ、お起きなさい」
 兵馬は、その背中を叩いて、身体をゆすぶると、ようやくにして起き上ったその人は、一見して兵馬もそれと知る長者町の道庵先生でしたから、あいた口が塞がりません。


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