大菩薩峠
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著者名:中里介山 

         一

 同じその宵(よい)のこと、大津の浜から八十石の丸船をよそおいして、こっそりと湖中へ向って船出をした甲板の上に、毛氈(もうせん)を敷いて酒肴を置き、上座に構えているその人は、有野村の藤原の伊太夫で、その傍に寄り添うようにして、
「御前様(ごぜんさま)、光悦屋敷とやらのことは、もう一ぺんよくお考えあそばしませ、大谷風呂の方は、どちらへ転びましても結構でございますがねえ」
 それは女軽業の親方のお角でした。
 女軽業の親方お角さんは、今では伊太夫第一のお気に入りになっている。お角が伊太夫を御前様と称えてみたところで、あえてへつらうわけではない。伊太夫は伊太夫としての貫禄から言っても、その系統から言っても、大名以上の実力はあるのだから、おかしいことにはならないのだし、お角もまた、この人を御前様以上の御前様として心からの尊敬を以て言うのだから、それもおかしいことにはならない。伊太夫は軽く頷(うなず)いて、
「それは、どちらでもいい」
と答えました。そうすると、同じ取巻の町人体(てい)なのが引きついで、
「いや、山科(やましな)の光悦屋敷の方も、ぜひお引取りなさいませ、今の御時世でございませんと、寝かして置きましても、持主がちょと手放す気にはなれません、あれだけの由緒あるお屋敷は、さがし求めた日には、なかなか出物があるわけのものではございませぬ、万一、売主がございましても、買切れる主がございません、買いたいと申しましても、二度と売主は出ますまいかと存じまする、お大尽のお耳に入りましたのが、全く以て千載一遇――売主のためにも、お買取りの方にも、また古(いにし)えの光悦様のためにも、三方への功徳(くどく)になるかと心得ておりまする」
 おたいこを叩いている言葉尻から察すると、この辺に地所の買入れの周旋が相当進んでいるらしい。しかし、今晩は、そういうことの取引を熟談するために、この船をよそおうて湖へ出たのではないらしい。そうかといって、今晩に限って、湖上の月を眺めようとの風流のための一座でないこともわかっている。地所家屋のことが口に上ったのは、当座の口合いだけのもので、この船は別に何か目的あって沖に向って進むものらしい。
 宿へは、月も見がてら、夜をこめて竹生島まで行きつき、泊りの参詣をして帰ると言って出たのですが、その竹生島参詣にしてからが、なにも今晩、この船路を選ばなければならない必要も、理由もないようなものですが、それを伊太夫の発意によって、急にこの船よそおいをさせたというものは、一つは湖中へ向って、陸上から避難の意味でありました。
 避難といえば、今の伊太夫の身辺に、何か急に迫る危険が予想されたのかというに、急にそうあるべき事情もないことはわかっている。そもそも伊太夫、今日の旅路というものが、極めて微行(しのび)の形式で、関西の名所めぐりということになっているが、その実は、やっぱりあの胆吹山(いぶきやま)の麓に根を張っている、やんちゃ娘の女王様の動静が、さすがに親心で気にかかる、それを見届けんがための旅立ちということが、内心の主力を占めているのですから、まだ当分は、胆吹と相望むところのこちらの湖岸を離れることにはなるまいと思われる。お角親方にしたところが、このお大尽に附添うていることの限りに於ては、あえて、そう京阪地方に一日を争わなければならぬ兼合いはないものと見なければならぬ。
 悠揚として迫ることの必要のない伊太夫が、今晩避難の意味を兼ねて湖中に出でたということは、どうも表面見ただけでは、その内情を察するに難い。さては、あのがんりきの百とやらの小盗人(こぬすっと)めに覘(ねら)われて、つき纏(まと)われる煩わしさからのがれようためか。まさか、藤原の伊太夫ともあるものが、タカの知れたゴマの蠅一匹のために、陸上に身の置きどころがないという解釈も、あまりに浅ましい。実のところ、伊太夫の怖れを成したのは、この前から度々隠見する、湖上湖岸の物騒なる空気の動揺が然(しか)あらしめたもので、これが伊太夫の心持をも少なからず動揺させてしまいました。湖南湖北を通じて、すさまじい百姓一揆勃発の気運が、今やハチ切れんばかりに胎動している、いや胎動ではない、もはや、宿々領々によっては爆発の暴動をあげてしまっている。それが伊太夫の心を常ならず不安にしました。
 持てる人としての伊太夫は、他の何事にも驚かぬことの代りに、持たぬ者共の動静に神経が過敏となる。伊太夫はしかるべき家に生れてしかるべきように今日まで来ているから、あえて力を以て、暴圧と搾取とを、持たぬ者共に加えた覚えはないのだから、モッブの恨みを買うべき事情は少しも備えていないとは言いながら、持たぬ者共が動揺をはじめた時は、その波動が、いつどこにいようとも、誰人にも増して身にこたえるのは、持てる人の身にならなければわからない。
 湖岸暴動の風聞を聞くにつけて、伊太夫はいやな気になって、それで急に、船よそおいをさせて、竹生島詣でを口実の水上避難という次第でありました。

         二

「おやおや、何か変なものが流れて来ますねえ」
 ややあって、お角さんが湖上をながめてこう言いました。
「あれごらんなさい、あれはまだ新しい盃とはんだい――まあ、こちらの方から、女の帯が流れて来ますよう」
 盃とはんだいと言っていた間はまだいいが、女の帯と言われて、一座がゾッとしました。
 杯盤の流れたということは、いささか風流の響きもあるが、女の帯が流れたということに、何か一座の身の毛をよだてるような暗示があったらしい。そうして湖面を見て、その言う通りの酒器が浮び来(きた)ることは誰もそれを見たが、女の帯が流れているということを、舟の上の誰もがまだ気がつかない。酒器は水に浮ぶものだが、女の帯は必ずしも水に浮いて流れるとは限らない。帯によっては水に沈み勝ちでなければならないのをめざとくその一端を見つけて、帯、しかも女の帯と認定してしまったそれは、お角さんの勘と言わなければならない。
 そこで、一座は、お角さんの勘を基調として一同に身の毛をよだてたのですが、帯を帯として認め得た者は、お角さんのほかには一人もありませんでした。
 だが、そう言われて見ると、一筋の女の帯が暢揚(ちょうよう)として丈(たけ)を延ばして、眼前に腹ばって、のして行く。さきに流れた、誰にも認められるべきところの酒器台盤がそれに先行して行く。見ようによると、一匹の大蛇が、その酒器台盤を追うて、これを呑まんとして呑み得ざるままに、追走してのして行く形に見えて、いっそう物すごくなったのです。
 一座は無言で、ゾッとしたままで、その酒器を追う平面毒竜の形を見入ったまま、水を打ったように静寂に返りました。
 そうすると、暫くあって、その毒竜の尾について、間隔は二三間を隔てて濫觴(らんしょう)のような形のものが二つ、あとになり、先になり、前なるは振向いて後ろなるを誘うが如く、後ろなるが先んじて前なるものに戯るるが如く、流れ流れて行くものを認めないわけにはゆきません。
「あれはポックリです――女物の、二十歳(はたち)前の女の子でなければ穿(は)きません」
 噛(か)んで吐き出すようにお角さんが言う。それが一層のまた凄味を物言わぬ一座の上に漂わせたと見えて、ちょっと目をそらす者さえあったが、憑(つ)かれたように、その行手を見据えているものも多かったのです。
 湖上はと見れば、その時、立てこめた一面の霧です。
 行手も霧、返るさも霧、ただその霧が明るいことだけは、霧の上に月がある余徳なのであって、この霧の中を迷わずに進み得るのは、船頭そのものの手練である。ところが、その多年の船頭そのものの手腕が怪しくなったと見えて、
「な、な、なんてだらしのねえ船扱いだ、おいおい、何とかしなければ正面衝突だよ、舟と舟とが、まともにぶっつかるよ、おい、その舟にゃ舟夫(せんどう)がいねえのか」
 こちらの船頭が舟の舳先(へさき)で、あわただしくこう叫んだのが、また一座の沈黙の空気を脅(おびやか)しました。
 今までは静かに漂うものの無気味さに打たれていたのですが、今度は、さし当りこちらにのしかかって来るものがあるらしい。その警戒のためにとて、こちらの船の舟夫が、あわただしいこの警告です。見ればなるほど、一隻の舟がこちらに向って、正面衝突の形で、前面より突き進んで来つつある。こちらの船頭が叫ぶのも無理はない、あのままで来ればまさしく正面衝突です。しかし、正面衝突とすれば、その危険性は我になくして寧(むし)ろ彼にあるのです。何となれば、かの舟はこの船に比べてはるかに小さいから、正面衝突の場合の損傷を論ずるという日になると、まるで比較にならない。そこで、こちらの船頭の警告というものは、むしろ我の危険のためにあらずして、彼の危険のための忠告の好意ある叫喚に過ぎないのだが、その好意を好意と受取らないのが、先方の舟の行き方であって、そういう危険状態が目睫(もくしょう)に迫っているにかかわらず、あえて警告に応じて、舟の針路を転向しようとも、変換させようとも試みないで、霧の中を出て、霧の中を平気で漂うがままに、あえて正面衝突も、木端微塵(こっぱみじん)も辞することなき、無謀千万の行き方でやって来るものですから、こちらの船頭が、火のついたように地団太を踏んで、
「あ、あ、いけねえ、何とか楫(かじ)を取れねえのか――」
 先方は小舟だけに操縦が容易である、こちらは大船だけに運用が自由にならぬ、避けようとすれば先方は、ほんの一挙手の労で済むのだが、それをそうしないために、こちらの船頭は倍級の狼狽をしなければならない。それでも多年の熟練でようやく方向転換ができて、正面衝突だけは避けられたが、その途端に、棹(さお)をやって邪慳(じゃけん)に相手方の小舟を突き放してみると、そこにも手ごたえがなく、すんなりとはなれる。
「なあんだ、空っ舟だ――」
 相手がありさえすればこの場合、舟の衝突は免れても、舟夫同士に相当の口論、腕立てが起るべきところを、相手が人なし舟では喧嘩にならぬ。乗る人がなくて霧の中からさまよい出て来て、突き放さるればまた文句なしに突き放されて行く小舟を、船頭は腕のやり場もなく、しばらく見ていたが、それを見のがしにしなかったのがお角さんです。
「舟夫(せんどう)さん、ちょいと、その舟を留めてみて頂戴、こっちへ引き寄せて見せてもらうわけにはゆかないかねえ」
 お角さんだけが、この人なし舟を、人なし舟として突放しにする気にならなかったのは、何かこの女の勘にさわるものがあったればでしょう。勘というのは、弁信法師に限ったわけではない、脳味噌の働きの利鈍によって、何人にも勘の能力の大小がある。弁信法師の如きは超人的で、それは何者にも比較にならないが、お角さんの如きは、女性として最も勘のすぐれた方の女性なのです。目から鼻へ抜ける勘持ちで、いわゆる、こらえぬ気象なのです。ただ、「勘」という字が、お角さんの場合に於ては、「疳」とか「癇」とかいう字を使った方が適切な場合が多かろうというものです。
 癇走るお角さんの命令によって、船頭は二言ともなく、いったん突き放した小舟を、また自分たちの大船の船べり近く引き寄せて、生かそうと殺そうと御意のまま、という体で、お角さんの眼の前へ突きつけたものです。

         三

 いくつもの提灯(ちょうちん)をさげつつ、この引き寄せられた舟の中へ入り込んで見たのは、お角さんをはじめ、伊太夫周囲の取巻連でありました。お角さんが見ると、この小舟の中が狼藉(ろうぜき)を極めておりました。
 ほかの者が見たのでは、何が何やら気ぜわしいばかりです。
 そこで、お角さんが、
「ちぇッ」
と舌打ちをして、眉根に八の字を寄せながら、舟底をちょっと蹴立ててみたというのは、その狼藉ぶりが例の癇にさわったからでありましょう。
 他の者が見ては特に目立たない場合に、ナゼお角さんだけが、その狼藉ぶりに癇を鳴らしたかと見れば、小舟の中が、あまりに見苦しい取散らかしぶりであったからです。
「なんて、たしなみのないザマなんでしょう」
 お角さんは、小舟の中を見て眼をそむけてしまったが、改めて大船の上を見上げる。燈籠(とうろう)の下の座に席をくずさずに坐っている伊太夫も、なんとなく、こちらが気がかりのように見おろしている様子にぶっつかると、そのままにして置いて、
「さあ、上りましょう、これだけのものなんです、でも、船頭さん、この舟を曳(ひ)いて行ってあげてくださいよ――しかるべきところまでねえ」
 狼藉は狼藉としてのままで、一応、引くところまで引いて行って調べてやろう、というお角さんのはらです。
 その声に応じて、提灯片手の取巻連が、一応もとの席に戻りますと、右の小舟は無雑作に曳舟として扱われて、無意味従順にこの親船のあとに引かれて行く。
「何でした、別にあぶないこともなかったですかね」
 伊太夫からたずねられて、お角さんが少し息をはずませ、
「ちょきが一ぱい流れついただけのことなんですがね、御前様、どうも、その中が穏かでないんでございますよ」
「どう、穏かでないのですか」
「なんぼなんでも、ああまで取乱さなくってもよかりそうなもの」
「ははあ、そんなに見苦しくなっていましたかな」
「見苦しいにもなんにも、いったい、心中でもしようという人間には、もう少したしなみというものがなくてはいけませんね」
「心中? 相対死(あいたいじに)ですか」
「そうでございますよ、さっきのあの盃と、帯と、駒下駄の判じ物でもわかりますよね、あの舟で思いきり楽しんで、それから死出の旅という寸法なんでしょう、行き方は洒落(しゃれ)ていないではありませんけれど、ああ取乱したんじゃお話になりません」
「どうして、そういうことがわかります、ほんとうに心中者があったとすれば、このままでは済まされますまい、迷惑千万なことだが、一応、手を尽してやらなきゃあなるまいが」
と伊太夫が、そこに思いやりをはじめました。小舟の中が取乱してあるか、取乱してないかはこの際、論外なことで、お角さんの見込みの通り、程遠からぬ時間の間に、そういう変事をやり出した人間がありとすれば、その分別と、無分別の如何(いかん)は問うところでない、通り合わせたものの人情として、船同士の普通道徳として、一応も二応も、捜索に取りかかることが当面の急でなければならぬ。
 そこで、船には緊急命令が下されて、さし当りこの小舟のもたらした予感通りに、掃海の作業を試むることになる。
 といっても、事は近くで発見されたにしろ、湖(うみ)は広い。霧というものがその広さを、無限大のものにぼかしている。よし広さに限度が出来たとしても、底は深い。ましてこの竹生島の周囲は、深いことに於て、竹生島そのものが金輪際(こんりんざい)から浮き出でているというのだから、始末の悪いこと夥(おびただ)しい。全く手の下しようもないのだが、手の下しようがないからといって、船舶道徳は守らなければならない。
 伊太夫の大船は、停(とどま)り且つ進みつつ、遠近深浅に届くだけの眼と、尽せるだけの力を尽しつつ掃海作業を続けて進みました。
 その間、伊太夫は動ぜぬ座を占めている。お角さんは居たり立ったり、舟夫(せんどう)に指図をしたり、伊太夫に講釈をしたりして、年増女の落着きを失わずに、その周到ぶりを発揮していたが、事が周囲七十余里の湖水を相手だから、そうヤキモキしただけではいけないと、やがて伊太夫の傍に寄添って、次のような観察を物語りはじめました。

         四

「男も男ですが、女も女です、水にでもハマろうとするくらいなら、ハマるだけのたしなみというものがなけりゃなりませんよ。女の締めくくりは帯なんです、その帯を初手(しょて)に流してしまうなんぞは、お話になりません」
 お角さんが、噛んで捨てるように言ってのけたのは、それは伊太夫の知ったことではないが、お角さん自身に、これと異った趣に於て、充分に体験を持っているわけです。この女は上総房州の海に身を投じて、橘姫命(たちばなひめのみこと)の二の舞を演じたことがある。
 その時は、無論、意気の、心中のというような浮いた沙汰(さた)ではなく、いわば凡俗の迷信と多数の横暴に反抗して、身を以て意地を守った気概のために海中に没入したのですが、それが、ゆくりなく洲崎(すのさき)で、駒井能登守の手に救(たす)けられたことがある。あの時、駒井に発見されなければ、無論、今日のお角さんは有り得ないのです。その時の体験からお角さんが語り出でました。その啖呵(たんか)の要領によると――
 女というものは、水に溺れようとする瞬間に、何事よりも締めくくるべきは帯です、帯をしっかり結ぶことです。帯というものは無論、表の胴体を締めているこの無双や、鯨というだけには止まらない、下帯から、下締から、丸帯の一切、女の身体(からだ)を横に防衛し、同時に装飾を兼ねているそれらのものをいうのであって、これが締っていなければ、女が女にならない。
 水に没入して、息が有っても無くても、いったん人間の住む水際へ浮き出した瞬間に、それを見つけて騒ぎ立てる野郎共の大多数は、女を人間として見ないで、女として見るんですからね、したがって、女は死んだ後までもが、女としての体面を保護して置かなければならない、もし男性として品性の高い、教養の深い人が、それを発見した場合は、真先にその辺を保護して置いてから、改めて人に報告するようにしてやるのが紳士の礼儀である。
 それに、どうでしょう、あの舟の女は、最も保護すべきものを真先に投げ出している、帯を取ってしまったお土左(どざ)などは、おそらく人間艶消しの頂上でしょう。
 子供なんですよ、からっきし子供なんだから、その辺のたしなみを知らない、そこらへポカリ浮き上ってでも来ようものなら、見てごらんなさい、見られたザマじゃない――とお角さんが、あざけり足らない。
 そうでないとしたら、察するところ、意地で見せつけという寸法なんでしょうよ、思いきってだらしのないところを、誰かに見せつけてやろう――たとえばねえ、生きていては仕返しができないから、せめて、死んだ死骸に、思いきり自分で自分に恥を掻(か)かせて、相手の恥に面負けをさせる、つまり、面あてをする、当てつけをして自ら慰めるというやつなんです。いやで添わされた亭主持ち、金で辱(はずか)しめられた女の仕返し、そんな事も有り得ることなんですが、あの舟のは、そんなんでもないようです。娘ですね、無茶な小娘で、死ぬのを伊達(だて)にしているというような行き方です、つまり浮気娘が出来心で、思いきり死んでみてやれ……といった気分に過ぎませんねえ。
 そんな、ませた小娘は、よく大物をくわえたがるものです、石部(いしべ)の宿(やど)のお半さんがいい見せしめです、長右衛門さんという人は、何をどうといったエラ物でも大物でもなかったようですが、年上なんでしょう。いったいどちらにしても、年上と恋をするというのがこの上もなくマセた人種なんですよ、年上にダマされて担(かつ)がれたというんじゃないですね、年上の奴でないと食い足りない助平が、つまり、女にも男にも強いから起ることなんで、だいたい、女は男よりも幾つか年下という世間のお約束を破らないとたんのうができない、まあいわば色気ちがいに近い方なんですから、年増の女に捲かれる男はかえって図々しいんです、年上の男を相手にする小娘こそ、こまっちゃくれて憎らしいもんです。見ていてごらんなさい、この娘っ子のくわえて来たのは相当大物ですからね。大物でなければ、キッと年上の男なんですよ。ことによると、白髪(しらが)まじりの重役なんぞをくわえて来ているかも知れません、そんなのが好きな娘なんですよ、相当大物をつかまえて来て、むりやりに水の中へ引張りこんだんですね。
 ええ、女が働きかけたんですとも。分別盛りの男が、自分から、小娘を相手に心中なんかする気になるものですか、みんな女が知恵をつけるんです、女が誘惑してそうさせるのです。長右衛門だって、長右衛門がお半を口説(くど)いたと思うは大間違い、お半の方で、長右衛門さんに持ちかけてああなったんです、お半の方が、長右衛門に惚(ほ)れきっていたんですよ。
 好者(すきもの)となってみると、お雛様(ひなさま)の飯事(ままごと)のようなことばっかりしていたんでは納まらない、そういう図々しいことをしてみたがるんです。それでお半はお半としてわかっているが、相手の長右衛門という奴の面(かお)が見てやりたい、やいの、やいのと、小娘から首っ玉へかじりつかれて、いい気になって水の中へ引っぱり込まれたおめでたい野郎の面が見てやりたいもんですね――
 お角は、伊太夫に向って、この心中から身投げの一伍一什(いちぶしじゅう)を見て来たように話がはずんで、ひとり昂奮の程度にまで上るのは不思議なくらいでしたが、それにつり込まれでもしたように、座持の一人の取巻――伊太夫に光悦屋敷を買え買えとたいこを叩いていた取巻の一人が、膝を乗出して、おあと交代と差出ました。

         五

「いや、御尤(ごもっと)もでございますよ、太夫元さま、そのお見立ては、さすがに勘所(かんどころ)でございます、実は、わたくしも先年、まざまざと心中者の最期を見届けた覚えがございますんで、いま思い出しても変な気分になりますが、それは、いま太夫元さんのお話とは違いまして、年頃寝頃という頃合いの女夫仲(めおとなか)でござんしてな、ところはやはり大津の浜辺、御存じの吾嬬川(あづまがわ)の石場の浜へ打上げられたのが、しっかりと抱き合った美しい年頃の心中者」
 こう語り出でたのが、幾分か今までの凄味を消して、なんとなく艶(つや)っぽいような、物の哀れを添えることになりました。
「へえ、お前さんも、その心中者を実見したんだね」
「へへ、たしかにこの眼で、まざまざと見せつけられてしまいましたが、ただいま太夫元さんのおっしゃる通り、最初に見つけたのが、たしなみのある人でよかったんです、もう少し事が遅かろうものなら、仲仕の人足たちに見られてしまうところでした。そいつらがドヤドヤと来て、見せろ見せろと言って、死体へ押迫って、いきなり天秤棒で女の裾(すそ)をまくり出しましたから、わたしたちが驚いて差留めたのです。蔵屋敷の衆がまず見つけたからいいようなものの、あの稼(かせ)ぎ屋連に最初見つかった日にゃ、今おっしゃる女の体面のみじめさが思いやられますでな、つくづく太夫元のお言葉が思い当りました。男も勿論そうですが、女子(おなご)というものは、心中の一つもしてみようという女子は、その何をさし置いても帯を大切にすることですね。あとで聞きますと、あの時の女子さんも、その辺には充分のたしなみがありまして、もし、そんなふうに死骸に加えられる狼藉がありましても、立派に保護の用意が出来ていたと聞きましたから、ひとごとでないように安心を致して見ました。いや、思い出しますよ、あの時の男女は惜しい花ざかりでした。聞いてみると、思い詰った事情も、色恋ばかりではないのだそうで、男は京都の者、女は伊勢の亀山――いいなずけ同士の親類仲とかいうことでございました」
 取巻が、別に心中物語をはじめたので、お角さんが楔(くさび)を入れて、
「死にたいものを死ぬなとは言わないが、死ぬんなら死恥をさらさないようにして死なせたい、およそ、心中の死にぞこないぐらい、みじめなものはありませんからね」
「ところが、その時の心中が、あとで聞きますと、その死にぞこないなんだそうでございましてね、変なことになりました」
 取巻がつけ加えて物語ることには、
「二人ともに、そうして、まあ立派に心中を遂げたには遂げたのですが、あとで聞きますと、男の方はそれっきり、女だけが助かりましたのやそうでございます」
「おやおや、運が悪いねえ、心中の生残りは浮ばれない」
「それから後、男の方の菩提(ぼだい)は、この上の長安寺の方で葬って上げていてあるはずなんでございますが、女の方は、早速引取りの親類が大和の岡寺から参りまして、死にたい死にたいというのを、不寝(ねず)の看(み)とりで引取ってしまいましたが、今ではどうなっておりますか。ところだけは大津屋で聞いておきました、大和の岡寺の薬屋源太郎というのが、その女の方の伯父(おじ)さんに当るとやらで、当分そこへ引取られたはずなんですが、わたくしも、もしあちらへ出向く機会がありました節は、ひとつ外からのぞいて見てやりたいと思っているのでございます。いい娘でした、少し淋(さび)しみのある面立(おもだ)ちをしておりましてな。もう五年も前のことですから、今頃はすっかり手創(てきず)が癒(なお)って、しかるべきところへ縁づいて、子供の二人も出来ている時分なのでしょうが、大和の岡寺の薬屋源太郎という名前が妙に気になりましてな、今でも、あの娘さんが、宿の離れに隠れて、世を忍んででもいるような気がしてたまりませんから、一度大和へ行ったら見てやりたいと、よけいな心づかいをしているばっかりで、まだ、あちらへ参る折もございません」
 見たって仕方がないじゃないか、とお角さんが言うと、伊太夫が、何か野心があるのだろうとからかう。取巻も、それでいったんは口をつぐんでしまったが、これによって見ると、大和の国、岡寺の薬屋源太郎と言ったのはこの取巻の聞誤りで、実は同じ国、三輪の里、大明神の門前のことではなかろうか。
 そうして、その心中者の男の方の名を真三郎と言い、女をお豊とは呼ばなかったか。
 しばらくして、また取巻の口が開いて、右の心中話に決着を与える――
 あの時の若い男女は、心中の方式については全く無知識であったこと、入水(じゅすい)をするにしても、どういう方法を取るのが最も安全で、且つ見事であったか、それを知らなかった。かつまた、入水の空間にしてからが、ドノ辺が沈みよくて浮き難く、ドノ辺が遠浅で、浮き易(やす)くして沈み難いかをさえ、てんで地理の理解がなかったことを思いやられる。ただ水に入りさえすれば死ねるものと心得て入ってみたが、さてここが死にどころというのが見当らなかった。浜辺に近いところ、遠浅のあたりを、より広く遠く、二人は抱き合いながら水に浸ってさまよい歩いた形跡があること、そうして、やっと深いところへ、この辺ならば沈むに堪えたところ、死ねるに違いないと思われるところにたどりついてはじめて身を横にして、やっと水の来(きた)り沈めるに任せていたという形跡もあったから、とてもそれは、二人相抱いて、高いところから落ち、一気に生涯を片づけてしまったというあざやかな手際にはいかなかったこと、全く無経験無知識な身の投げ方をしている――心中にそうたびたび経験や知識があってはたまらないけれども、それにしても幼稚極まる身の投げ方をしていたことが、見る人をいじらしがらせた。そうして、心中の仕方に於ては、さほど無経験無知識であったにかかわらず、そのたしなみに至っては、打って変って行届き過ぎるほどに行届いていたというのは、つまり、お角さんが、たったいま癇(かん)にさわったとは全く反対の行き方で、二人の身体こそ、がっちりと水も洩らさず帯で結んでいたけれども、女も男も、いついかようになって人目にさらされようとも、強(し)いて剥奪するのでない限り、ちっとも醜態を現わさないように、裏から表までよそおいを凝らしていたということが、今でも賞(ほ)めものになっている。
 これを取巻が、この際、新発見でもしたもののように、そやし立てて、つまりあの心中は、遺書(かきおき)にも書き残してあった通り、女の一方が一つか二つか年上で、弟をいたわるように、心ならずも引かされて死んでやったと見るべきだから、万端の注意があの女の心一つで行届いていたということになって、女のたしなみの鑑(かがみ)でもあるかのように取巻が並べたので、
「いやに女の方にばかり肩を持ちたがるじゃないか」
と、またしても伊太夫から冷かされたが、それでも取巻は一向にめげず、
「全く、あの女子(おなご)はよい女子でしたねえ、こう、少し淋し味はありますが、それがかえって魅力でございまして……いまだに眼についてはなれません。実際、あれが生き返ったのですから、ただは置けない道理じゃございませんか、その当座はひとごとならず気が揉(も)めました」
 その当座だけではない、今もなお気が揉めているから、こんなことも口へ出るのだろう。そこでお角さんが、
「心中の片割者なんか、女ひでりの世じゃあるまいし」
 お角さんにけし飛ばされても取巻はひるまない。
「ところが、かえって一段と気が揉めましてな、どんなまずい女房も、後家になると色っぽく見えると言いますからなあ、片割となってみますと一層惜しいものでした、あの女子だけはただは置けないと、その当座は正直のところそう思いましたよ。もう、二三人の子供が出来てるんでしょうがねえ、今の御亭主の面が見てやりたいです」
「よけいな心配をしたものです」
 お角さんは深く取合わないが、何か一道の魅力がありそうで妙に気が引かれる。
 男を殺して、自分だけが生き残った女の尽きせぬ業(ごう)というものが、ほんの行きずりのこの取巻屋をさえ、いまだに引きつけている魅力というものを以てして見ると、その女も、必ずそれからまた罪を作り出しているには相違ない。
 さればこそ、三輪の里には業風が吹きそめて、藍玉屋(あいだまや)の金蔵はそれがために生命(いのち)をかけた。そこまでは、この一座の誰でもが知らない。とにかく無事に永らえているとすれば、あの女にも、はや二人三人の子供があってよいはずと、その辺にだけ気を揉んでいる間は無事でしたが、その時に船首の方に当って、急にけたたましい声――
「ござった、ござった、正体が届きましたよ、御推察の通り抱合い心中、それそこに流れついた土左衛門とお土左がそれじゃ」
 湖面を見つづけていた船頭の叫びで、水手(かこ)共が、よってたかって眼を皿のようにする。
 二間ばかり近く、波の間に、ふわりふわりと浮いては沈み、沈みては浮び来(きた)る物体がある。予備知識がもう十二分に出来ているから、誰もそれを見誤るものはない。しかも、浮きつ沈みつして、上になり下になり流れ漂う物塊は、人間の死骸が二つ、からみ合ってたがいに放さない形になったまま、見た眼では、まだたしかに息が通っている、生温かな肉塊とさえ見えるのが重なり合って、船をめがけて、からまって来るのです。
 船頭(せんどう)水夫(かこ)も昂奮したが、船上の一座もすくんだように重くなって、立ち上る元気よりは、怖(こわ)いものを見る心持が鉛のようになる。

         六

 事態は重くるしかったけれども、手数は極めて簡単でした。船をめがけて漂い来った二つの抱合い死体は完全にこの船の内部に助け上げられました。その報告を綜合してみると……案のごとく男女の抱合い死体であったこと。
 ことにお角さんの予言的中して神(しん)の如く、男が年上で、女がズッと年下であったこと。
 さりとてお半と長右衛門ほどの相違ではないが、女はお半だとしても、相手がとうてい長右衛門では有り得ない、黒い衣紋(えもん)のうらぶれの三十いくつの浪人風情であったということ。
 帯のない女の衣裳形が、水手(かこ)たちの口の端(は)に上らないところを以てして見ると、これは早くもお角さんのたしなみが与(あずか)って救われたものです。お角さんは従容(しょうよう)として言いました、
「これは心中じゃありませんよ」
 心中でないとすれば、脅迫か。脅迫とすれば力の問題だから、この小娘がどう間違っても、このおさむらいを脅迫する道理はないから、女の子がこのさむらいに無体な脅迫を受けて、水に逃れようとしたのを、男が追いすがって、我がものにした。
 そう解釈してみると、解釈しきれないのは、では、ナゼ男も死んだ、これだけの男ならば、水練がないはずはなし、どう間違っても、この小娘一人を水上に扱い兼ねる代物(しろもの)ではないはずなのに、おぞくも生死を共にして抱合いの形に落ちてしまった。それがわからない。
 がやがや騒ぐ水手(かこ)楫取(かじとり)どもをおさえた船頭が、またも何か驚異の叫びを立てて、
「おかしい……二人とも、ちっとも水を呑んでいねえぞ」
と言いました。
 水を呑まない溺死人ということは、この際、考うべきことでした。
 抱き合って身を投げたものが、浮きつ沈みつ、ここまで漂い来(きた)ることの間に、水を一滴も飲まないということは有り得べきことでない。もし飲んでいないとすれば、それは飲まないのではなく、飲ましめなかったのだ。満々たる水の世界に身を投じて、ともかく、相当の深さまで究(きわ)めたはずのものが、水を飲んでいないということは、あらかじめ水を飲ましめないようにしてあったのか、そうでなければ、舟を出る時に、のみたくも飲めないような生理状態になっていたのか、ということが疑問になるのです。
 この疑問は、物に慣れた船頭が直ちに解釈してくれました。
「それは、この娘に水を飲ませまいとして、このおさむらいが当てたんですよ、一当て当身(あてみ)をくれて息の根をとめて、それから水に入ったんですから、それで女の子が水を呑んでいない――おさむらいの方は、何か別に仕方があったんでござんしょう、そうでなければ疲れてうっとりと来てしまったんでござんしょう、とにかく、どっちも、まだ脈はあるんですぜ」
 二人の生命(いのち)にまだ見込みのあるということを、物に慣れた船頭が保証しつつお角さんに報告しました。とにかく、そこで二つの生命は引上げられたわけです。まだ生命としては、どっちのものかわからないながら、水中から船の上へ取上げられて、そこで、心得ある人々に介抱されて、専門家こそ乗合わせていなかったが――道庵先生の如き専門家が居合わせなくてかえって幸い――物に慣れた人から完全に生き返ることを保証されて、何はともあれ安静のところに置くことが養生第一として、船の一室に、無事に納められました。伊太夫は、この二人の遭難者を、わざわざ席を立って見に行こうとはしなかったが、かりそめにも自分の主となった船の中で、二個の生命を収得し得たことを満足としないわけではない。お角さんとしては、実際に立会って、つぶさに二人の者を観察したようですが、その報告はまだ纏(まと)まって伊太夫の前に齎(もたら)されず、また齎される遑(いとま)もなく、取巻子は幾度か同じような場所で、同じような情景を見せられることに奇異の感情を加えただけで、何が何やら煙に巻かれているような事体のうちに夜が明けなんとしました。
 夜が明けかかると、今までの霧にこめられた湖面の白さとは性質を異にした、光明を含んだ白さが湖上に流れ出したと見ると、それにつれて、ようよう霧も亡び去って行く。霧の晴れ間を湖水がひたひたと侵略して行って、夜が全く明けた時分に、船がピタリと停った前面を見ると、もう竹生島の全面が行く手にうっすらと、墨絵がにじんだように浮んでおりました。

         七

 朝まだき、伊太夫の大船が、竹生島の前に船がかりしてまだ動かない先に、一隻の早手(はやて)がありまして、これは東の方から真一文字に朝霧を破って走りついて来ました。走りついたというけれども、伊太夫の船に向って走りついたわけでないことは、その来(きた)るところの方向が全然違っていることでもわかる。たとえば、伊太夫の船が大津を出でたとすれば、この早手は、その反対側の長浜方面から走って来たものであることは確かです。そうして朝霧を破って、なお急調で走って行くくらいですから、昨宵の霧も、昨晩の霧も、同様の整調で破って来たと見なければなりません。
 そんならば、同じように、この竹生島めざして舟がかりをするかと見ればそうではなく、霧が破れようが、夜が明けようが、急ピッチは変らない。名にし負う竹生島もよそにして、漕ぎ行くことは矢の如く、その行手は、ちょうど、夜明け前に平面毒竜が盃(さかずき)を追うて流れた方向に向って急ぐのですから、めざすところは湖中の何物でもなく、湖岸のどの地点にかあるのでしょう。
 急ピッチで、竹生島の眼前を乗打ちをしながら、さいぜん船がかりをしたばっかりの、伊太夫の大丸船(おおまるぶね)を朝もやの中から横目に睨(にら)んで、この早手の中の一人が言いました、
「あれが百艘(ひゃくそう)のうちの一つなんです、あの船が、木下藤吉郎の制定した百艘船の一つなんです、今はすたりましたが、一時はあの大丸船でなければ、琵琶湖に船はありませんでした、船はあっても、船の貫禄がなかったものです」
 こう言って、相対した一方の人に向って説明をしますと、その相対していた一方の人というのが無言で頷(うなず)いているのにつけ加えて、
「竹生島が朝霧の間に浮いて、あの大丸船が一つ船がかりをしている、湖面がかくの如く模糊として、時間と空間とをぼかしておりまする間は、我々も太古の人となるのです、太古といわないまでも、近江朝時代の空気にまで、我々を誘引するのですが、夜が明けると、近頃の琵琶湖はさっぱりいけません、沿岸には地主と農民の葛藤(かっとう)があり、湖中にはカムルチがいたり、塩酸が流れたり……この湖水を掘り割って北陸と瀬戸内海を結びつけたら、舟運の便によって、いくらいくらの貿易の利が附着する、また湖水を埋め立てて、何千頃(けい)の干潟(ひがた)を作ると何万石の増収がある、そういうことばかり聞かせられた日には、人間の存在は株式会社の社員以上の何ものでもありません。人生はすべからく夢を見ることですな、人生から夢を奪うのは、琵琶湖をすっかり干し上げて、田畠(でんぱた)に仕上げるのと同じことです、少なくとも我々は、今のうちに夢を見て置かなければならないでしょう、まだまだ夜と朝とは、我々を誘(いざの)うて古(いにし)えの夢を見せるに足るの琵琶湖であり得ることを、せめてもの幸いとしなければなりません」
 早手は早くも竹生島の前面をかすめ去って、問題の大船も後ろに見るくらいに、急行をつづけているにかかわらず、舟の中の人は、年代を超越した悠長さで、時代と歴史とに向って感想を発しました。これはたしかに不破の関守氏に相違ありません。
 現に胆吹王国の総理であり、参謀総長を兼ねていたはずの不破の関守氏が、急に水上の人となり、早舟の急がせ方はこうも急調なるにかかわらず、語るところのものは頗(すこぶ)る悠長です。しからば、その相手となっているのは何人か。近ごろ近づきの青嵐居士と、不破の関守氏とは、よく話が合う、今日もその人を同行の、釣の脱線かと見るとそうではないのです。関守氏の相手に控えている人間は、決して青嵐居士のような饒舌家(じょうぜつか)ではない、あくまでも関守氏に喋(しゃべ)らせて、自分は、言語と態度を極度に惜しむかの如く、傲然(ごうぜん)として、それに聞きいるだけの姿勢にいる。しかも、不破の関守氏も御免を蒙(こうむ)って、一種風雅な檜笠をかぶっているが、これは日を避けんがための実用として容赦さるべきにかかわらず、前に対して彼の話を受入れているこの人は、最初から覆面の仕通しです。
 苟(いやし)くも人に対して正坐する時に、己(おの)れの覆面を取らずしてこれに対するということは、非常なる無礼であり、傲慢でなくて何であるか、臣下に対してさえも、対坐には相当の礼があるべきもの、それにこの人は、不破の関守氏ほどの人物を前にして、覆面のままで、傲然としてこれに応対し得る強権の人。誰彼と言おうよりも、当時これだけの権式を持ち得る人は、胆吹王国の女王様以外には、その人のあるべきはずがない。
 平明に言ってしまえば、この早手の中の対坐の客は、お銀様に対する不破の関守氏であって、それに従者が一人、神妙に後ろの方に控えていると、蓑笠(みのがさ)をつけた舟夫(せんどう)が一人、勇敢に櫓(ろ)をあやつっているだけのものです。
 早手は急ピッチを変えず、島も大船も見えずなり、それにまたもや一陣の霧が、一むれ襲うて来たものですから、四辺(あたり)は煙波浩渺(えんぱこうびょう)たり、不破の関守氏の懐古癖が充分に昂上を見たと覚えて、
大船の――
かとりの海に
いかりおろし
いかなる人か
物思(ものも)はざらむ――
 朗々たる名調子で、一種独得の朗詠が湖上の上に漂いました。

         八

 湖面が再び白殺(はくさつ)されて、夜が明けたのか、月が出戻ったのかわからないような気分のうちに、大船も、早手も、みんな隠れてしまっている。その中から、不破の関守氏のいい心持になった懐古の饒舌が続いている、
「いい歌です、ともかく大湖の面(おもて)に船がかりして、ああして安定しているあの大船を見ると、まずこの歌が心頭に上って来ます、単にいい歌とか悪いとかいう批評を超絶した歌です、大きな鳴動であり、大きな姿勢ではありませんか、古今無双です、まさに天地の間(かん)に並び立つものがありませんな」
 関守氏が自己陶酔的に感歎している。その傍らから、お銀様の傲然たる声音(こわね)で、
「それは、かとりの海――この琵琶湖のことじゃありません、琵琶湖は大きいのなんのと言っても、涯(かぎ)りの知れた湖です、かとりは海ですからね」
「なるほど……そうおっしゃられると、拙者もそこに、かねがねの疑問を持っていたのです、お言葉通り、かとりの海と人麿(ひとまろ)は詠みました、かとりといえば、たれしもが当然、下総(しもうさ)常陸(ひたち)の香取(かとり)鹿島(かしま)を聯想いたします、はるばると夷(えびす)に近い香取鹿島の大海原(おおうなばら)に、大船を浮べて碇泊した大らかな気持、誰もそれを想像しないわけにはいかないのですが、拙者はこの歌を酷愛する一人であるにかかわらず、この歌の持つ空間性に、まだ疑いが解けきれないというのは、第一、柿本人麿(かきのもとのひとまろ)という人が、あの時代に、東(あずま)の涯(はて)なる香取鹿島あたりまで旅をしたことが有るかないかということです。その次には、下総香取の海とすれば、香取のどの地位に船を碇泊せしめたかということです。下総の香取に大船津(おおふなづ)というところがあるにはありますが、仮りにあの辺に船を回漕せしめたとしても、その船は、どういう船の持主によって、ドコの浜から回航されたかということ……一説によりますると、ここのいわゆるかとりの海というのは、下総常陸あたりをあげつらうべきものでない、大津の宮に近い湖岸の一角にかとりの浜、或いはかとりの海と呼ばれた地面、或いは水面が、その当時存在していたのだ、ということを言いますが、或いはそれが正しいかも知れません。そういうことは、池田良斎がよく知っています、我々無関門の鑑賞者は、まずその歌の持った無限に大きな音階と、姿勢に打たれるだけでよろしい、和歌といえども、大きなものになると、誦(しょう)すべくして解すべからずでよろしい。たとえば、他に人麿の歌にしてからがです、
ともし火の
明石大門(あかしおほと)に
入らむ日や――
 吟じてごらんなさい、声は千年の深韻を以て響き、調べは千古の心に微妙に沁(し)み渡るです。拙者はこれがまた大好きな歌の一つでしてね、これを吟ずると陶酔するです。ところが、この歌の全体の解釈に至ってみると、人麿が西海から帰る時の歌だか、西国へ向って出て行く時の歌だか、その帰趨(きすう)が甚(はなは)だ不明瞭を極めてくるという次第ですが、そういう解釈の如何(いかん)にかかわらず、その想に驚き、調べに酔わされることは渾心的(こんしんてき)です」
 お銀様を前にして、こういう歌物語をはじめている。広長舌は必ずしも弁信法師の専売ではない、ということはわかるのですが、いったい今時、船をこんなにまで急がせながら、乗り手ときてはこの通りの悠長さ、それに第一、女性の方は女王であり、男性の方はその総参謀長であるべき身が、二人ともに山を出てしまったのでは、留守のことも思われるではないか。
 そもそもこの二人は、何の要あってか、かくも急行船に乗り、いずれの地に向って走り行くものか。沿岸に向って、遠く大津朝廷の故事を偲(しの)び奉り、或いは藤樹先生(とうじゅせんせい)の遺蹟に巡礼するというようなことをするには、他にその人もあり、時もあろうというもの。行きがかり上、風流をこそ談ずるらしいが、少なくともこの二人が舟を急がせて行く以上は、左様に漫然たる遊歴の旅ではないにきまっている。
 そこで、この行程の底を割ってしまえば、実は不破の関守氏のたっての献策で、お銀様を父親伊太夫に会わせにやるのです。
 父といえども、来(きた)り見るなら格別、行いて礼をすべきなんらの心構えを持たないという女王様を、不破の関守氏が説いて、口説(くど)き落して、自分が介添(かいぞえ)となって、いま大津の宿に逗留の日を送っているという父の伊太夫を、これから訪問せしめようとすることに成功して、善は急げと急ピッチを上げさせた、これがこの早手の飛ぶ使命の全部なのです。
 訪ぬべき当の主(ぬし)は、今し問題の大船にあって、竹生の島の前面に船がかりをしているのだから、かくも急ピッチで早手が大津方面へ乗りつけてみたところで、その当座は当然行違いにきまっている。そういうことは知ろう由もない不破の関守氏には、この女王を父に会わせれば会わせるで、そこに相当の秘策がある。この女王様を父と会わせるに就いては、自分が介添となるべきことを最も有利なりと信ずるものがあればこそ、彼は女王を擁して、善は急げで、内外の多事多端なる責任の地位を抛擲(ほうてき)して急行しつつあるものでしたが、その秘策のいかなるものであって、成功すべきや、せざるべきやは未来の疑問としましても、お銀様の黒幕にこの人がいることは、伊太夫の傍らにお角さんが取巻いているよりは、遥かに智嚢(ちのう)が豊かで、舞台が大きいことは申すまでもありますまい。

         九

 西国旅行をかこつけに、そこは親心の甘さで、胆吹王国のやんちゃ娘の行動視察を眼目とする伊太夫が大津にいない時に、お銀様と不破の関守氏の一行は大津へ着きました。
 当座の行違いになってしまったのですが、その際、当座の在と不在の如きは、さのみ問題ではない。関守氏は、目的地に着いたからといって、驀直(ばくじき)に目的に向ってこせつくような軽策を取らない。悠々としてお銀様を押立てて別に宿を取って長期の形を構え、副目的が主目的を牽制しつつ、その帰るを待つことを遅しとしない策戦を取りました。
 この総参謀長不破の関守氏は、女王様を盛り立てて、これに絶対服従の範を示すと共に、一方には女王様を後見して、これを教育するの心がけを忘れない、ただ、その教育ぶりがあくまで六韜三略的(りくとうさんりゃくてき)であることが、この人の特徴になっている。美濃に縁があるだけに、竹中半兵衛式の芝居がついて廻るように思われる。その点に於ては、この人も、お角さん同様の興行師的素質を多分に持ち合わせていると見なければならない。ただしかし、野心満々たる不破の関守氏が、お銀様を動かして父に会わしめようとする魂胆の裏には、やはり、伊太夫の金力があると見なければならないことは確実だが、お角親方の方は、いかに腕によりをかけてみたところで、タカが仕込みとか仕打ちとかの融通の水の手がつなげればよろしい、あえて伊太夫の身上にビクとも響くものではないが、不破の関守氏などにへたをやられると、一国一城を寝かしたり起したりするくらいのことはやり兼ねないから、伊太夫の富といえども必ずしも気は許せない。しかし、いいことにはみな善人です。不破の関守氏は野心家なりといえども、本来、野心そのものを楽しむ、これも一種の芸術家であって、破壊と復讐とを念とする革命家ではないから、この点は充分の御安心を願っておいてよろしいのです。
 とにかくに、この早手は翌日の夕方、無事に大津の石浜に着くと同時に、早くも宵闇(よいやみ)にまぎれて、町のいずれかに姿を消してしまいました。
 大津の町といえども、伊太夫でさえ騒々しさを避けるくらいの時代でしたから、空気がなんとなく動揺している間へ、こっそりと上陸したこの一行は、別段、出迎えるものもなく、目ざされる憂いもなく、ほんとうに尋常な気分で着いて、尋常な気分で散じてしまったのは、一つは不破の関守氏の用意のほどもあることでしょう。
 かくて不破の関守氏は、お銀様を、本陣へも、脇本陣へも、自分もろともに送り込むことをせずに、いつ、何によって、ドコへついたという形跡もないようにして、その翌日になるとお銀様は、もう長安寺山の牛塚の上、小町の庵(いおり)へ、十年住み慣れたもののように納まっておりました。
 昨夜、お銀様をここに納めて置いてからの不破の関守氏は、胆吹から率いて来た一僕を召しつれて、忽(たちま)ち市中郊外のいずれへか姿を消してしまいました。
 ここにお銀様の当座の庵は、関寺小町(せきでらこまち)の遺跡だということですが、それは確(しか)とした考証があるわけではありません、小町の晩年が、関寺にロマンスを残すのは、小町らしい時とところとを得たものであるが、史実としては、どの辺まで真実か、それはわからないが、小町と関寺とは切っても切れない余生の道場として残されているから、しかるべきところへ、しかるべき土を盛りさえすれば、それが小町塚になり、しかるべきところへ、しかるべき庵を結びさえすれば、小町庵となるべきものです。お銀様がいま納まった庵も、小町をいただくにふさわしい形勝の地でないということはありません。
 形勝というよりも、第一、便利なことです。土地柄が町とは離れているが、街道とはさのみ遠くはない。高観音(たかかんのん)の右に当って、当然、地は長良山(ながらやま)の一角で高層を成しているだけに、市中並びに人馬の喧噪からは相当隔離されているし、そうかといって、煙塵を絶ち、米塩に事を欠くほどに浮世離れはしていないのですから、かりそめの閑者を扱うためには甚だ便利がよいのです。それに加うるに、婆やが一人いて、留守番を兼ねて、身の廻りのことは何でもしてくれる、そういう好都合を、あらかじめ抜かりなく打合わせて、女王様の我儘(わがまま)が妨げられない生活が、来着同時に実現されることになったのは、単に不破の関守氏の働きというのみではなく、およそ湖上湖辺のことに関する限りに於て、ドノ辺の淵(ふち)にカムルチが棲(す)み、どの辺の山路にはムラダチが生えているということをまで心得ている、かの知善院寄留の青嵐居士のよそながらの斡旋(あっせん)が、大きに与(あずか)って力あるのでないかと思われることです。すなわち、青嵐居士の添書(てんしょ)で、居士の知人であるところの、この長安寺の住職へあらかじめ諒解が届いていたものですから、万事が極めて素直に運んでいるのだろうと思われることです。
 青嵐居士といえば、あれから早くも、胆吹王国のオブザアバーとなって、今では自分から興味をもって、あの上平館(かみひらやかた)の留守師団長をつとめているのです。あれだけの人物を留守師団長として留め得たればこそ、女王様も、参謀総長も、かく安心して、悠々乎たる、自適然たる旅――というよりも外出の程度なのですが、それができるというものでしょう。事実、留守師団長というよりは、この人の存在は、胆吹王国の女王代理、臨時総理の役目をまで兼務しているのでありました。

         十

 お銀様を小町塚の庵(いおり)に安定せしめて置いた不破の関守氏は、その夜は引返し大津の本陣の、つまり伊太夫の宿についたようでしたが、翌早朝には、例の一僕を召しつれて、旅装かいがいしく本陣を立ち出でました。
 出がけに、程遠からぬ小町塚の庵へ立寄った不破の関守氏は、縁に腰をかけて、敷居越しにお銀様に向って話しかける様は、
「あいにくのことで、行違いとなりました、御尊父は船で竹生島詣でにおいでになった、そのあとへ我々は乗込んだという次第です。しかし、ホンの外出の程度ですから、直ぐに戻っておいでになる……といっても、今日明日というわけには参りますまい、単純な竹生島見物だけですと、日帰りにもやってやれないことはないですが、なんにしても避難の意味を兼ねての船出なんですから、存外、日数を要するかも知れません。湖辺湖岸は、御承知の通り物騒で、宿々の旅籠(はたご)がかえって体よく客を追い立てるという際ですから、鄭重な客には湖上への避難をおすすめ申してはおるようなものの、それとても限度がござります、長期ならば長期のように、心構えをしてお待ち申すだけのことですが、長期と申しましても、先は見えているのですから」
 そのことの報告を兼ねて、お銀様に長期応戦の秘策を授け、自分は身軽く立って、その裏山から尾蔵寺(びぞうじ)の歓喜天へ出て、それから長等神社(ながらじんじゃ)の境内(けいだい)を抜けて小関(おぜき)越えにかかりましたのです。
 小関はすなわち逢坂(おうさか)の関の裏道であって、本道は名にし負う東海道の要衝であるにかかわらず、この裏道には、なお平安朝の名残(なご)りをとどめて、どうかすると、深山幽谷に入るのではないかと疑われたり、義朝(よしとも)一行が落武者となって、その辺から現われて来るのではないかと疑われるような気分にもなります。
 不破の関守氏は、笠も軽くこの小関越えをなしながら、きこりやまがつに逢うと、おさだまりのように、
「この道を真直ぐに行くと山科(やましな)へ出ることに間違いはありますまいな。時に、この道中には目洗い地蔵というのはございませんか」
 そういうような発問をして、道を誤らずに山科街道まで出てしまいました。
「奴茶屋(やっこぢゃや)はドコになりますか、柳緑花紅の札の辻はどちらですか」
 この質問はナンセンスでした。不破の関守氏らしくもない愚問で、二つの異なった方向を同時に質問したのですから、いわば碁を打つにあたって一度に二石を下ろしたようなもので、徒(いたず)らに相手方を当惑せしむるに過ぎません。それでも、奴茶屋は右へ進み、追分の札の辻へは左へ小戻りをしなければならないことを教えられて、暫く立ちどまって首を傾けていたが、暫くして、次なる旅の人をつかまえ、
「山科の光悦屋敷というのはまだ遠いですか。では大谷の風呂の方は……この地点から、まずどちらへ行くのが順で、どちらへ行くのが近いですか。ああ、そうですか、左様でございましたか、しからば、その大谷風呂の方から先に……何とおっしゃる、そのあいだに有名な走井(はしりい)の泉があって、走餅を売っておりますから御賞翫(ごしょうがん)くださいですって、よろしい、いただきましょう。では、そういうことに」
 途中での道案内を、そのまま素直に受けて、不破の関守氏は街道を小戻りをして、大谷風呂というのを目ざして進んで行きました。
 その間(かん)、東海道に名の高い走井の水、それを飲み、同時に名物の走餅、それを味わう気になって関守氏は、そのあとをたずねてみると、教えられたところあたりに乙女の花売りが一人いる、それに向ってたずねてみると、
「走井の井戸は、この石垣のうちにあるのでおますが、ごらんの通り、今ではもう人様の御別荘に買われてしもうたから、旅の方も気儘(きまま)に見るというわけには参りまへんのや」
「はは、公有の名物が、私人の所有に帰してしまったのですか」
 関守氏は、強(し)いて走井の泉を見なければならぬ使命というほどのものを感じていない、盛名の妓(ぎ)がいつかは知らずしかるべき旦那に身受けをされて、囲われたような気分がして、
「では、割愛しましょう」
 野山の花が名門の苑(その)に移し植えられたからといって、その花にいささかも関心のない者が、あえてさのみ執着を持つべきではない。不破の関守氏はあっさりと、走井見物を思いあきらめて、大谷風呂に向って進もうとすると、花売りの方でかえって残り惜しげに、
「でも、何なら、御別荘にはお留守がいらっしゃいますによって、たずねてごろうじませ、手軽う見せて下さるのやろうと存じますさかい」
「そうですか、たとえ個人の所有に帰したとはいえ、手軽に見せてもらえるならば、見せてもらった方が、見せてもらわないよりはよろしい、ひとつ門を叩いてみましょうかな」
 不破の関守氏も、つい、その気になって、小戻りをして、走井の別荘の門をおとのうてみる。犬が吠(ほ)える、同時に小門の下から夥(おびただ)しい小犬が走り出して来て、関守氏の足もとにまつわる、同時に、中では吠える親犬をしまい込む家人のあわただしい物音が聞えたが、やがて門が内から開かれて、
「お越しやす」
 極めて尋常な女中が一人、現われました。
「有名な走井の水というのは、あなたのお家にあるのですか、旅の者ですが、一見させていただきたい」
「おやすいことでおます、どうぞ、こちらへお入りやして」
 女中に導かれるまでもなく、門からつい一足の右手は、花崗石の高さ三尺、径四尺ぐらいの井筒(いづつ)があって「走井」と彫ってある、そこから滾々(こんこん)と水を吹き上げている。
「ははあ、これが走井の水ですか、一杯頂戴――」
 関守氏は柄杓(ひしゃく)を取って、うがいをして、呑みたくもない水をグッと一口試みてから、
「で、走餅というのは、もうこの辺にございませんか」
「ええ、もう、代(だい)が変りやはりまして」
「そうですか、どうも有難う、お手数をかけました。犬の子が盛んに蕃殖をいたしつつありますな」
「はい」
「いったい、今はどなたの御所有に帰しているのですか、この御別荘と、それからこの井戸は」
「寒雪先生の御別荘になっていやはります」
「寒雪先生とおっしゃるのは、あの樫本寒雪先生(かしもとかんせつせんせい)のことですか」
「はい、左様でござります」
「そうでしたか、寒雪先生、東海道名代の名物を自分の垣根に取込んでしまうなどは心憎い。そうして先生は、時々これへおいでになりますかな」
「はい、月に一度ぐらいはお見えなさりやす」
「絵を描きにおいでになるのですか、ただ休養にだけいらっしゃるのですか」

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