大菩薩峠
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著者名:中里介山 

         一

 近江の国、草津の宿の矢倉の辻の前に、一ツの「晒(さら)し者(もの)」がある。
 そこに一個の弾丸黒子(だんがんこくし)が置かれている。往来の人は、その晒し者の奇怪なグロテスクを一目見ると共に、その直ぐ上に立てられた捨札を一読しないわけにはゆかぬ。その捨札には次の如く認(したた)められてあります。
この者、農奴の分際を以て恣にてうさんを企てたる段不埒(ふらち)につき三日の間晒し置く者也。
 この捨札を前にして、高手小手にいましめられて、晒されている当の主は、知る人は知る、宇治山田の米友でありました。
 彼が、この数日前、長浜の夜を歩いた時に、思いもかけぬ捕手と、だんまりの一場を演じたことは、前冊(恐山の巻)の終りのところに見えている。その米友が、今は脆(もろ)くもこの運命に立至って、不憫(ふびん)や、この東海道の要衝の晒し者として見参せしめられている。
 彼は今や、彼相当の観念と度胸とを以て、一語をも語らないで、我をなぶり見る人の面(かお)を見返しているから、その後の委細の事情はわからないながら、右の簡単な立札だけを以て、一応要領を得て往(ゆ)く人も、帰る人もある。ところが、この捨札の意味が簡にして要を得ているようで、実は漠として掴(つか)まえどころがないのです。
 そもそも、「この者、農奴の分際」とある農奴の二字が、わかったようで、よくわからないのであります。事実、日本には農民はあるが、農奴というものはない。内容に於て、史実なり現実なりをただしてみれば、それは有り過ぎるほどあるかも知れないが、族籍の上に農奴として計上されたものは、西洋にはいざ知らず、日本には無いはずであります。だが、往来の人は、別段この農奴の文字には咎(とが)め立てをしないで、
「ははあ、ちょうさん者だな」
「なるほど、ちょうさんでげすな」
「ちょうさんおますさかい」
「ふ、ふ、ふ、ちょうさん者めが……」
などと言い捨てて通るものが多い。それによって見ても、農奴の文字よりは、ちょうさんの文字が四民の認識になじみが深いらしい。
 ちょうさんといえば、すでに、ははあ、と何人も即座に納得が行くようになっている。その一面には、農奴は農奴でそれでもよろしい、ちょうさんに至っては、赦(ゆる)すべからざるもの、赦さるべからざるもの、ちょうさんの罪なることは、まさにこの刑罰を受くるに価すべくして、免るべからざる適法の運命でもあるかの如く、先入的に通行人の頭を不承せしめて、是非なし、是非なしと、あきらめしむるに充分なる理由があるものと解せられているらしい。
 然(しか)らばちょうさんとは何ぞ。

         二

 ちょうさんは即ち「逃散」であります。現代的に読めば「とうさん」と読むことが普通である。「逃」をちょうと読むことと、とう」と読むことだけの相違なのです。これを訓読すれば、「逃げ散る」というのほかはない。
 そこで、農奴なる分際のこの晒(さら)し者(もの)は、「逃散」の罪によって、ここにこの刑に処せられているという観念は明瞭になりましたが、それはただ、捨札に表われている文字だけの意味のことであって、これを本人の方より言えば、宇治山田の米友が、ここで、どうして「農奴」という身分証明の下(もと)に、更に「逃散」という罪名を以て、今日この憂目(うきめ)を見なければならない事態に立至ったのか、その観念に至っては、明瞭なるが如くして、未(いま)だ甚(はなは)だ明瞭を欠くのであります。
 米友が、賤民階級に生れ出でたということは、本人自身も隠すことはしない。しかしながら農奴という身分を自称したこともなければ、未だ嘗(かつ)て他称せられたこともありません。やはり米友とても、農業のことを働かせれば働きます。伊勢の拝田村では、宇治橋の河原へ稼(かせ)ぎに出る間は、自宅で相当の百姓仕事をやっていたのです。現に胆吹山の王国では、お銀様の支配の下に、ついこの間まで、極めて僅少の時間ではありましたけれども、鍬(くわ)をとって、あらく切りなどを試みていたくらいですから、やってやれないことはないのですけれども、特に農奴という戸籍に数えられていたわけではない。
 それからまた、「逃散」の罪は、盗みの罪ではない。殺しの罪でもない。大抵の場合に於ては、逃げるとか、走るとかいうことは、本罪ではなくて、いわば副罪ということになっている。すなわち、殺しをし、盗みをしたことなどのために、現地に安住が為(な)し難くなって、それから他領他国へ――或いは天涯地角へ逃げ走る――ということが順序になっている。他領他国へ逃げ走らんがために、殺しをし、盗みをするということはないのです。はたまた、殺しでもなく、盗みでもなく、人の大切の妻女と合意の上で逃げるという事態に於てすらが、その目的は逃げることが本意ではなく、現住地では越ゆるに越えられぬ人為のいばらがあればこそ、彼等は手に手を取って逃げるのである。
 もし罰するとすれば、やはり殺しに於ける、盗みに於けると同じように、私通であり、姦通であり、そのことに罰せらるべくして、逃散そのことに罪があるべきはずがないのです。
 然(しか)るに、この場の晒し者は、これらのいずれもの罪科に適合せずして、ひとり「逃散」が罪になっている。「逃げ走る」こと、或いは逃げ走ったことだけが罪となっている。観念が甚(はなは)だ明瞭なるが如くして、不明瞭なるものではないか。
 にも拘らず、通るほどの人は、いずれもそれに黙会を与えて過ぎ去る。
「ちょうさんか――」
「ちょうさんではやむを得ない」
「ちょうさんでは、どないにもならんさかい」
 畢竟(ひっきょう)ずるに農奴なるが故に「逃散」が罪になるということは、当時の常識に於て、ほぼ納得せられているらしい。
 然らば、農奴なる者に限っては、殺しもせず、盗みもせず、私通も姦通も行わずして、いわば、なんらの罪というべきものがなくして、ただ単に「逃げ走る」ということだけが罪になるのか。
 事実は、まさにその通りなのである。罪があってもなくても、逃げるということがいけない、逃げるということが罪になる。

         三

 胆吹(いぶき)の上平館(かみひらやかた)の新館の庭の木立で、二人の浪人者が、木蔭に立迷いながら、語音は極めて平常に会話を交わしている――
「ありゃ、身内のものなのです、土地っ子ではありません、ですからこの土地へ来て農奴呼ばわりをされる籍もなければ、ちょうさんの罪を着せられる因縁が全くないのです」
と言っているのは、ほかならぬ元の不破(ふわ)の関の関守氏、今やお銀様の胆吹王国の総理です。それを相手に受けこたえて言う一人の浪人者、
「そうでしょう、数日前、拙者の寓居を訪れてから間もない出来事なのです、あの者がこの土地の者でないことは、拙者もよく存じておりました、然(しか)るにこの土地の農者として、あの男一人がちょうさんの罪をきたという所以(ゆえん)に至っては……」
と言ったのは、過ぐる日、琵琶の湖畔で、釣を試みていた青嵐居士(せいらんこじ)その人であります。この二人の浪人者は至って穏かな問答ぶりでありましたけれども、その問題は、やはり農奴とちょうさんとの上にかかっている。すなわち草津の宿の晒(さら)し者(もの)のことに就いて、一問一答を試みているのであります。
「ちょっと想像がつきません、洗ってみれば直ちにわかる身の上を、ことさらに誣(し)いて、彼をこの土地の農民扱いにして、そうして、ちょうさんの罪を着せて晒し者にしたということの処分が、どうも呑込めないのです」
と不破の関守氏が、青嵐居士への受け答えと共に新たなる疑問の主題を提供する。
「それは、ある程度まで想像すればできる、またそれを真正面から見ないで、反間苦肉として見れば、政策的に、時にとっての魂胆がわからない限りでもございませんがね……」
と青嵐居士、透(す)かさず相受ける。すなわち不破の関守氏は、宇治山田の米友が、突然ああしてちょうさんの罪を着せられて晒されたことの由に相当面食って、その理由内状のほどがさっぱりわからないと言うと、青嵐居士は、その点は多少想像を逞(たくま)しうして、魂胆のほどをも見抜いているところがあるに似ている。
「左様でござるかな」
「左様――あの男とは、先日偶然の縁で、長浜の湖畔で対面しましてな、それから拙者の寓居まで立寄らしめたという因縁がござるが、その節、彼は夜分にもかかわらず、振切って町へ出て、それからついにあの始末です、その間の事情を、人伝(ひとづて)に聞いてみますと、なるほどと思われない事情を含んでいないという限りもございませぬな、あれは一種の人身御供(ひとみごくう)なのですな、当人から言えば、ばかばかしい人違いの罪科で、代官の方から言えば怪我の功名(こうみょう)、ではない、功名の怪我を、そのまま囮(おとり)に使ったという次第であろうと想像するのです」
「なるほど」
 青嵐居士が粘液的に話しぶりを引出すと、不破の関守氏は、他意なく傾聴ぶりを示すのであります。
「後で土地の人に聞きますと、あの晩、思いもかけぬ物凄い一場の場面が、深夜の長浜の街上で行われたそうです。伝うるところによりますと、あの小男はあれで、勇敢無比なる手利きであるそうですな、捕方に向った一方も、その方では名うての腕利きであったが、すでに危なかったそうです。すなわち、さしも腕利きの捕方も、すでにあの小男の一撃の下(もと)に危ない運命にまで立至らせられたものらしいが、半ば以下、形勢が急転して、難なく縛(ばく)についたものらしい。つまりあの小男は、最初のうちは、自分に疚(やま)しいところがないから、理不尽の取押え方に極力反抗したけれども、相手が、わかっても、わからなくても、とにかく正当の職権を以て来ているのを認めたから、ぜひなく縛についたという落着(らくちゃく)らしいのです。ところで縛りは縛ってみたが、連れて来て糺問(きゅうもん)してみると、なんらの罪がない――」

         四

「ははあ、わかりました」
 不破の関守氏は、青嵐居士からの一くさりを聞いて、相当の頓悟があったらしく、二度ばかり頷(うなず)く。
「罪のないものに刑は行えない、刑を行わんとすれば、相当な罪をきせてかからなければならん、そこであの先生、その政策にひっかかったのだな」
「そうです、時節がら、農民おどしの案山子(かかし)に決められたという魂胆なのでしょう、案山子として使用するには、不幸にしてあの男は恰好(かっこう)の条件を備えていたものと認められる」
「ありそうなことです」
 二人はここで、合点して多少の思案にうつりました。
 二人の結論では、宇治山田の米友が、草津の辻で、ああいった運命に落されているのは、要するに時節柄、農民おどしのための案山子として使用せられているのだということの推想と断案とに、あえて異議がないもののようです。
 かりにそうだとしてみても、こういうことをして、あの一人の若者を案山子に使用せねばならない時節柄の、農民の問題の急務ということについては、相当の予備知識がなければならない。
 すなわち、こういうような時節柄であって、もしあやまって土地っ子の一人二人をでも捕えて刑に当て行う段になると、反動を増すばかりである。それをきっかけに暴動を誘発するようなものである。そういう場合に於ては、氏(うじ)も素姓(すじょう)もわからない風来者を捕えて、人身御供にして置けば、人気をそらして、群集を煙に捲くこともできるというものである。その意味の案山子としての使用物件には、米友公あたりは恰好の代物(しろもの)と目をつけられたものらしい。そうなると、案山子に使用せられた彼が運命こそ、不幸にも気の毒至極のものと言わなければならぬ。
 青嵐居士は、かねて長浜にいてお銀様一党の行動を噂(うわさ)に聞いていた。ぜひ一度会ってみたいと、米友にまで、それを言葉にあらわしたことがある。その機縁がもう熟して、ここで二人が対面している。この二人の智者が対面して、談、米友の身の上のことに及んで、その立場がほぼ明瞭になってみると、あれをあのままで見過ごして置くわけにはいくまい。すでに、あれをあのままで見過ごさないとすれば、二人の話題は進行して、いかにしてあの男を救済せんかにある。
 あの男を救済せんとするには、代官を相手にしてかからなければならぬことが、当然わかり過ぎるほどわからなければならぬ。そのお代官も、公儀お代官なのである。徳川幕府直轄の天領お代官ということになる。
 してみれば、二人が打揃って、おとなしく「貰い下げ」運動でも試みようとするようなそんな甘い手では行くまい――だが、多数を率いて示威運動などはこの際、なお悪い――と観念してみたり、或いはまた他に別の手段方法を試むることにでもなるか、いずれにしても、この二人の知恵者が底を割った以上は、あの冤罪(えんざい)の晒(さら)し者(もの)を、あのままで置くわけにはゆくまい。

         五

 徳川時代の法によると、「晒し」というものは、おおよそ三日間を定例とする。三日間を生きたままで晒して置いて、それから生命(いのち)を取るという段取りになっている。その生命を取る方法には、首斬りもあれば鋸挽(のこぎりび)きもある。そのうち、坊主だけは、ただ単に「晒し」だけで生命は取らない。苟(いやしく)も出家の身として「晒し」にかかることは、生命を取る以上の刑罰に価すると認められたのかも知れない。いつのどの頃の大臣の如く、七年も八年も晒し同様の憂目を見せられた上に、更に二年も三年も実刑を課せられるというような深刻な例は、徳川時代にはなかったらしい。
 してみると、あだしごとはさて置き、宇治山田の米友も、出家でない限り、俗人である限り、三日間こうして晒された上で、生命を取られることに運命がきまっている。とすればかわいそうではないか。当人は、この運命を自覚しているや否や、ものすごく沈黙したなりで、決して口をきかない。役人番卒が何と言っても口を利(き)かない。見物が何と言って罵(ののし)っても口を利かない。
 こうして、いよいよ二日間完全に晒されてしまった。明日は三日目の「晒し」である。明日が終れば、「晒し」の方はこれでおゆるしになるが、その代り生命の方を召されてしまう。
 さて、こうして二日間、誰ひとり助けに来ようという者はない。貰い下げを歎願に来ようという者もない。また、多数の威力でデモを以て奪還を試みようとする勇気もない。
 それもまたそのはずです。この晒し者に限って、所番地というものが更にわからない。単に「農奴」としてあるだけで、何の郡の、何村の農奴に属するのだか、その人別が書いてない。書いてないだけではない、事実、いずれの村の農奴だか、この騒ぎの中で誰ひとり見知ったものがないのだから、徒(いたず)らに面食うのみで、同情を表したくも表するきっかけがない。
 そこがまた、役向の見つけどころかも知れません。
 さて、その日の夕方になると、縛られている米友の前へ、二人のひにんがやって来て、無遠慮に穴を掘り出しました。三尺立方の真四角な穴を掘りにかかりました。
「おい、兄い、よく見て置きな、明日になると、お前のその笠の台と、胴体とが、上と下への生き別れだよ――首が落っこっても痛くねえように、土をやわらかに掘りふくらめといてやるぜ」
と、ひにんが小声で戯れに晒し者に言いかけました。
 それを聞いていい心持がするはずはない。新聞紙上には、議会が自らの墓穴を掘る、というようなことがよく出ているけれど、文字として無雑作(むぞうさ)に扱う分には何でもないが、墓穴というものを目の前で掘られる心持は決していい心持のするものではあるまい。
 米友は、それを黙って聞き流しました。あえて一言のタンカを切るでもなく、むじつを訴えるでもない。明日は、この穴の中へ、自分の素首(そっくび)が斬り落されて、文字通り身首ところを異にする運命をまざまざと見せつけられながら、米友は何も言わない。
 非人が二人で、三尺立方の穴を、ほとんど掘り上げてしまった時分に、通りに林立している見物の群集の中に、
「あっ!」
と思わず口へ手を当てて、面(かお)の色を変えてこの「晒し」を見直したものがありました。

         六

 この男はキリリとした旅慣れたいでたちで、三度笠をいただいていたが、人混みにまぎれて物好き半分、この「晒し者」を一見すると卒倒するばかりに気色ばんだが、やや落着いて、
「どうしたというんです、ありゃあ」
 そっと、ささやくように、傍らの人に問いかけたものです。
「ちょうさん者ですよ」
「ちょうさんてのは……」
「つまり、百姓一揆(いっき)でござんすな」
「あれがですか、あの男が百姓一揆なんですかね」
「へえ、あれ一人が百姓一揆というわけじゃあございませんな――やっぱり一味ととうの一人なんでしてな」
「あれが……」
「左様でござんす、一味ととうのうちでも、ちょうさんを企てた最も罪の重い奴ですから、それであの通り、『晒し』にかかりました、明日あたりは打首という段取りでござんしょう」
「冗談じゃあない――あれが、あの男が、この土地の百姓なんですか」
「そうですなア、さればこそ、ああして『晒し』にかけられるんでげさあ」
「嘘をお言いなさんな」
 あわただしい旅の男が、問答者を相手に気色(けしき)ばんで、
「嘘をおっしゃるな、ありゃあ、この土地の者じゃありませんぜ、あの男は、この国の百姓じゃござんせんぜ」
「でも農奴(のうやっこ)と書いてござんすぜ、捨札をごろうじろ」
「何を書いてあるか知らねえが、あの男はこの土地の百姓じゃあねえ、大違(おおちげ)えだ」
「お前さんの御親類かね」
「ばかにしちゃあいけねえ、お前さんこそ、あの男が百姓だと頑張りなさるんなら、人別(にんべつ)を言ってごらんなさい、どこの何というお百姓さんだか、それを言ってごらんなさい」
「そりゃ知りませんなア、わしゃ、やっぱり通りがかりの者でござんして、人別改め役じゃござんせんから」
「じゃ、何と書いてあるか、読んでごらんなさい、所番地が何と書いてあるか、読んで聞かせておくんなさい」
「それが、ただ農奴だけで、所も、番地も、名前も、記しちゃあござんせん」
「そうらごらんなせえ、あんな百姓があるものか」
「あれが百姓でないとおっしゃるお前さん、ではありゃ何者なんです、御承知なら聞かして下さい」
 今度は、たずねられた方から逆に反問と出かけられると、たずねた方が、やっぱり相当に昂奮して、
「あの男は、ありゃあ、やっぱり旅の者なんだ、ついこの間まで江戸にいた男なんだ、それがお前さん、どうしてこの土地へ来て百姓一揆に加わる暇(ひま)があるもんか、人違いだあね、人違いだよ」
「へえ――」
「人違いで『晒(さら)し』にかかっちゃあたまらねえ、あいつもまた、そんならそのように何とか言えばいいじゃねえか」
「江戸の方なんですか」
「そうだとも、生れはどこか、よく知らねえが、ついこのじゅうまで永らく江戸に住んでいて、こちとらとも附合いがあるんだ、あいつが、どう間違って、江州(ごうしゅう)くんだりまで来て、百姓一揆に加担するなんて、物好きにも、人違いにも、方図があらあ。人違いだよ、間違いだよ――晒される奴も晒される奴だが、晒す奴も晒す奴じゃあねえか」
 ここまで来ると、右の江戸者らしい旅の男はいよいよ昂奮して、舌なめずりをしてみたが、急に、自分の昂奮ぶりと、物の言いぶりが、つい知らず度外(どはず)れになっていたと気がつくと、あわてて自分で自分の口を押えながら、忙がわしく左と右を見廻しました。

         七

 なるほど、そう気がついたのも道理で、この旅の者の物言いぶりがあまり際立ったので、誰も彼もが、晒しを見る眼をうつして、この、ひとり昂奮した旅の者の方へ集中させられるのですから、はっと気がついたのですが、それにしてもこの旅の者が、一方(ひとかた)ならずテレたり、怖れたりする様子が変です。
 あんまり自分の物言いぶりが過ぎたと感じ、彼はテレて、こっそりと口を押えたまま人混みに紛れようと試むるらしい時に、その後ろにいた千草(ちぐさ)の股引(ももひき)をはいて、菅笠(すげがさ)をかぶり、腹掛をかけたのが、ちょっと後ろからすがるようにして、
「モシ」
と問いただしたものです。
「エ」
 呼びかけられてみると、挨拶をしないわけにはゆかなかったが――挨拶というより寧(むし)ろ捨ぜりふで逃げ足と見えたのを、千草股引が、また食留めにでもかかるもののように押迫って、
「あんたはん、あの晒しの男は、この土地の百姓じゃあないとおっしゃいましたか」
「え、その、何ですよ――そうです、そうです、たしかに人違いなんですよ」
と言って、やっぱり振り切るように急ぎ足になるのを千草股引は、透かさず追いかけるようなこなしで、
「お手間は取らせませんが、そこでひとつ、お聞き申したいんですが、あんた様ぁ、あの者の身性(みじょう)をよく御存じなんですか」
「そりゃ、知ってるといえば知ってるがね、そう言ってわっしにおたずねなさる、お前様はどなただね」
「わしは――あの男の身性を知りたいんでして」
「あの男の身性を知りたければ、係り役人にお聞きなせえな、そうでなければ、直接、御当人に聞いてみなせえ」
「お役人は恐(こわ)いでしてね。あの御当人は、根っから口を割らねえんだそうでござんしてな。ところで、あんたはんは、どうやらあの『晒し』の身性を御存じらしい、ぜひ、教えていただきてえ」
 全く、その千草股引は、この旅の男を逃がすまいと畳みかけて問いかけるのを、こちらは非常に迷惑がり、
「お上役人も当人も知らねえものを、こっちが知るかなあ。ただ、ちょっと、見たようなことがあるような気がしただけなんだ、何も知りゃあしねえよ、先を急ぐから、まあ、このくらいで御免なせえ」
 旅の男は、もう全く逃げ足で走り出そうとする。つまり、一時の昂奮から、心にもないことを口走ったことを悔い、こんなことから、変なかかわり合いになってはつまらない――と、素早くこの場を外してしまおうとするものごしでした。それと見て取った千草股引が、急に権高くなって、やにわに飛びかかって参りました。
「待ちろ――逃げちゃあいけねえぞ」
「何を……」
 むんずと飛びついて来た千草の股引は、これは只(ただ)の股引ではありませんでした。充分に腕に覚えのある捕手の一人でした。腕に覚えのあるべきのみならず、前のいきさつを知っている者は、たしかに面(かお)にも見覚えがあるべきはずです。これぞ長浜の夜中の捕物に、現にここに見る宇治山田の米友ほどのものを取って押えて、ここへみごと晒(さら)しにかけるまでの手柄を現わした、あの夜の名捕方――轟(とどろき)の源松という勘定奉行差廻しの手利(てき)きでありました。
 それに飛びかかられた旅の男――もう四の五もない、ぱっちにかかった雀のように、おっかぶされたかと思うと、
「何を、田舎岡っ引め、しゃらくせえ真似をしやがんな」
 武者ぶりつかれてかえって、度胸が据ったらしい旅の男――窮鼠(きゅうそ)猫を噛(か)むというよりも、最初に猫をかぶっていた狐が、ここで本性を現わしたというような逆姿勢となって、
「まだこんなところで手前たちに年貢を納めるにゃ早えやい」
 そこで、またしても大格闘がはじまったかと思う間もなく、旅の男の風合羽がスルリと解けて千草股引の頭の上からかぶさり、その間に股の間をスリ抜けて、一散に逃げました。
「失策(しま)った!」
 さすがの名捕方に空を掴(つか)ませて、身を翻したそのすばしっこさ。同時に摺(す)り抜けて走るその足の迅(はや)いこと――ここに至って、只のむじなでないことの面目が、群集をあっ! と言わせる。

         八

 とりにがした、名捕方の轟の源松は歯噛みをしました。事実、こんなはずではなかった。有無(うむ)を言わさず引括(ひっくく)り上げるつもりであったが、相手を甘く見すぎたのか。そうではない、相手が全く意表に出でたからである。意表に出でたといっても、およそ悪いことをするような奴は、いつでも人の意表に出でなければ立行かない商売なのだから、人の思うような壺にばかりはまっていた日には、悪党商売は成り立たないのだから、そういうやからを相手に一枚上を行かなければならない捕方連が、不用意とは言いながら、そう甘い手を用いたはずはないのに、ことに先頃は、ここに見る宇治山田の米友をすら、あのめざましい活劇の下に、最後の鉤縄(かぎなわ)を相手の裾に打込んで首尾よくからめ取ったほどの腕利きが、ここでこんなに無雑作にカスを食わされるとは、気が利かな過ぎるというものであるが――それにはそれでまた理由もあって、実は最初、「待ちろ――逃げちゃあいけねえぞ」と居直った時に、この捕方は早速に相手の利腕をむんずと掴んだつもりでした。ところが掴んだつもりの相手の利腕を掴みそこねてしまったのが意外です。自分ながら腕の狂い方の激しいのに一時、あっとしたが、その掴んだ手ごたえがさっぱりなかったので、はっと狼狽したのも実は無理がない、合羽の下に当然ひそんでいなければならない右の腕が、その相手の旅の男の肩の下に有合わさなかったのです。
 それは、あえて懐ろ手をしていたわけでもなければ、その激しい掴みかかりを引っぱずしたという次第でもない、本来、この旅の男には右の腕がなかったのです。いかな名探偵といえどもないものは掴めない。
 有るべく予期して無かったというのは見込違いではない。誰でも、普通の人間である限り、この合羽の下に二本の腕がある、一方が右腕であれば、一方は当然左腕であることは常識になっている――ところが、この旅の男には、取らるべき利腕の右が存在していなかった。そこでまず殺してかかるべき利腕を殺すことができないのみならず、その掴みそこねたこっちの破綻(はたん)を透かさず泳がせて置いて、間一髪(かんいっぱつ)に摺り抜けてしまったという早業になるのです――摺り抜けた途端が、すでに走り出したことになる。摺り抜けるのも鮮やかなものだったが、その逃げっぷりがまた一層あざやかなもので――敵も、味方も、あっ! と言って、思わず胸を透かさせたと言いつべき切れっぷりでありました。
 ここまで言ってしまえば、当然このすばしっこい摺抜け者が、がんりきの百蔵という名代(なだい)のやくざ野郎にほかならないことは、定連(じょうれん)はみな感づいていないはずはないのであります。
 果して、がんりきの百の野郎は、かくの如くしてこの場を走り出しました。
 一方、名探偵の轟は、ひとまずは不意を食って泳がせられたものの、これをこのまま口をあいて見送っている男ではない。
 かくて、白昼、意外な捕物沙汰が街道を驚かして、この事のセンセーションのために、「晒し」そのものの場は閑却されたのみならず、「晒し」見張りの役人非人までが、轟親分の捕方の方へ気を取られて、バラバラと走り出したという乱脈になりました。

         九

 悠々と八景めぐりをして、大津の旅籠(はたご)へ戻って来た女軽業の親方お角は、戻って見ると、思いがけなくも甲州有野村の伊太夫からたよりのあったのを発見して驚きました。
 伊太夫はすなわちお銀様の父である。自分はこの人からお銀様の附添ならび監督を仰せつかって来たものである。
 その大旦那様が、どうしてまた急に、こっちへお出むきになったのか知ら、なんにしてもこれは、取るものも取り敢(あ)えずに本陣へお伺いをしなければならないと、ともの者共に、そのまま折返して外出を言いつけてから、鏡に向って身なりを直し、髪を掻(か)き上げたのも女の身だしなみです。
 そもそもお角が、かくもゆるゆると八景めぐりをして道草を食っているのは、一つには胆吹へ道を枉(ま)げた道庵先生を待合せのためであったのですが、その先生は、どうやらまた脱線したらしく、まだなんらのたよりもないところへ、有野村の大尽のお越しという便りを聞いたのは、たしかに意外でした。さても自分は、大尽からあれほどに信任されてお銀様の身を托されながら、お銀様の胆吹へ留まることになったのを留める由もなく、実は、自分の力ではとうてい思いとどまらせることができないと観念して、しばらくお銀様の御意(ぎょい)のままに任せて置き、またせん様もあるべしと腹をきめていたのを、今ここへこうして突然に、その頼まれ主の大旦那様に見えられてみると、お角として、いささか面目ない次第のものがある。つまり、頭のおさえてのないやんちゃ娘、へたに逆に出るよりは、するようにさせて置いて、飽きの来た時分を待つに越したことはないと考えたればこそ、お角も、米友と道庵とを振替えて、しばし京大阪で気を抜いてから、またここへ出直してのこと――とだいたいそんなふうに考えて、一時お銀様の監督を敬遠することが最上の緩和と考えた次第なのですが、そのなかばへ大旦那に来られてみると、さて、どう復命をしたらよいか、さすがのお角さんも、その辺に大へん気苦労を生ぜざるを得ないで、大旦那様に会ったらば、この点、どう申しわけをしたらよかろうかと、それをとつおいつ考えてみる。
「お角さん、お前という人も、存外頼み甲斐のないお人だね、お前さんに限って、娘を引廻せると信じてお任せしたのに、娘を胆吹山なんぞへおっぽり出して置いて、自分ひとり八景めぐりなんぞは、あんまり暢気(のんき)過ぎるじゃないか」――もしかして、こんな皮肉を大旦那様から聞かされでもした日には、わたしはやりきれない、困ったねえ……
 まさか伊太夫が、こんなに急に上方(かみがた)のぼりをして来ようとは夢にも思っていなかったお角、差当っての当惑はかまわないとしても、いささか自分の責任感に及ぶとすると、お角さんの気象としてやりきれないのも無理はない。
 しかしまあ、悪いことをしたわけじゃなし、やむにやまれぬ事情はお話し申せばわかって下さること――観念もして、そこはかと身なりをキリリとしたが、さて出かける前に、お手水場(ちょうずば)へ入って落着いてという気分になりました。
 お角さんがお手水場を志して、なにげなく縁側をめぐって、秋蘭の植えてあるお手水場のところへやって来て、開き戸を手軽くあけて、厠草履(かわやぞうり)をつっかけて、内扉へ手をかけて、それを何気なく引いて開く途端――
「おや――」
 お角さんほどの女が、ここでまた一種異様な叫びを立てて立ちすくんだのが、不思議千万でした。

         十

 便所の内扉を開いたままで、お角さんが、「おや」と言って、異様な叫びを立てて立ちすくんだも道理、その便所の中には、先客があって、悠々としゃがみ込んで用を足している最中であったからです。
「無作法千万な!」
 誰でもこう思わなければなりません。このお手水場は、お角さんの座敷に専用のお手水場になっている。そこへ、余人が入っていようとは思いもしなかった。且つまた、誰か臨時に借用したにしたところが、用を足しているならばいるように、内鍵というものもあるし、それが利(き)かないとすれば、咳払いぐらいはしてもよかろうもの、それが作法じゃないか。わたしがここへ来た廊下の足音でもわかりそうなものじゃないか。開き戸をあけた音でも気取(けど)れそうなもの。それを内扉をあけるまで、すまし込んでいて、人に恥をかかせるのはともかく、自分もこんなところを見られていい図じゃあるまい、間抜けめ! とお角が腹が立って、出て来たら横っ面を食(くら)わしてやりたい気持で、扉を外から手強く締め返してやろうとしたその途端に、向うにぬけぬけしゃがんでる奴――しかも女ではない男なんです。そいつが、しゃあしゃあとして、
「こんちは」
と言いました。
「畜生!」
とお角さんは、思わずこういって罵(ののし)ろうとしたが、そのしゃがんでいる奴の面を見ると、
「ナンダ、ナンダ、手前(てめえ)は百の野郎じゃないか、このやくざ野郎」
 お角さんの悪態は悪態にならず、全く面負けの、呆(あき)れ返りの捨ゼリフでした。
 こうして、お手水場の中にわだかまっていた奴は、昔は腐れ合いのがんりきの百蔵というやくざ野郎そのものに紛れもないのですから、忌々(いまいま)しくってたまらないながら、喧嘩にもならない。
「馬鹿野郎、なんだい、そのザマは」
 お角さんは、続けざまに怒鳴りつけてみたまでですが、中の野郎はいよいよイケ図々しく、お尻を持上げない。
「たまに来たものを、そんなにガミガミ言わずとものこっちゃあねえか――」
「相変らず図々しい野郎だねえ。だが表玄関からは敷居が高くて来られもすまいねえ、臭い奴は臭いところが相応だよ」
「おっしゃる通り表向きには、やって来られねえ身分だからかんべんしておくんなさい」
「どうして、わたしがこの宿にいることがわかったんだい」
「どうしてったって、そこは蛇(じゃ)の道は蛇(へび)だあな、お前がこの街道を、どこからどこへつん抜けて、どこへ泊って、どこそこから立戻って、どこそこへ出かけようというのか、こっちじゃもうちゃんと心得たものなのだ。だが、そんなムダを言いてえがためにわざわざこうして臭エところに待っていたんじゃねえ――こういう辛抱もして、一言お前に知らせをしてやりてえと思うことがあればこそなんだ。と言ったところでなにもお前という女に未練未釈があって、こんな臭エ思いをしているわけじゃねえんだから安心しな。手取早く言ってしまえば、それ、お前のところにいた、あの米(よね)とか友(とも)とかいう変てこな兄いが、どうした間違えか役人にとっつかまって、ちょうさんてえ罪で、草津の辻で三日間の晒(さら)し、それが済むとやがて鋸挽(のこぎりびき)になろうてんだ。どうも、むじつにしてもあんまり桁(けた)が違い過ぎるようだから、何とかしてやりてえが、おれは世間の暗い身柄で、どうにもならねえ。だが、あの滅法無類の正直者が、何かの間違えでああいうことになって、今日明日のうちに首がコロリという仕儀であってみると、いかにやくざ野郎でも、あのまま見過ごしにゃできねえよ、あの男とはお角親方、お前の方がずっと縁が深いと思うから、どうにかしてやんな――三日の晒しの後は、鋸挽か、打首、ここに間近え坂本の城ではねえが、今日明日のうちに首がコロリってえんだ――何とかしてやるがいいと思ったら、何とかしてやりねえな」
 がんりきのやくざ野郎からこう言われたお角が、また面(かお)の色を変えました。
「何だって、あの友が、米友の野郎がなにかい、草津の辻で晒しにかけられてるって、そうして今日明日のうちに首がコロリだって、そりゃ本当かい」
「嘘を言ってお前をたぶらかすために、こんな臭い思いはしねえよ」
「ばかにしてやがら」
 お角さんが、ここで捲舌(まきじた)を使ったのは、それはがんりきを罵(ののし)ったのではない。あの一本調子の、気短かの、グロテスクめが、また何か役人を相手にポンポンやり出して、とっつかまったのだろう、だが、相変らず手数のかかる野郎だ。それにしても、三日間晒しの、今日明日のうちに首がコロリはひど過ぎる。友という野郎は、本来ああいうキップだが、悪いことは頼んだってする野郎ではない。それをどう間違えたか、三日間晒しの、今日明日のうちに首がコロリとは、役目を預かる奴等にも、あんまり目がなさすぎるというものだ。
 そこで、お角が歯噛(はが)みをして、お手水場の床を踏み鳴らしました。

         十一

 がんりきの百の野郎といえども、一から十までロクでなし野郎だという限りでもない。それから後暫くあって、臭いところから這(は)い出したこの野郎は、お角親方の特別借切りの一室を一人占めにして、すっかり納まり込み、長火鉢の前で、長煙管でパクリパクリ、そうして煙を輪に吹きながら、ひとり言――
「ふ、ふ、ふ、そうら見ろ、あの女め、火のように怒り出しやがった。だから、言わねえこっちゃねえ、あいつを、ああ嗾(けしか)けて置きぁ、火の中へも飛び込むよ。あの勢いで押しかけて行った日にゃ、やにっこい役人はタジタジだぜ。何とかするよ。何とかしねえまでも、ただじゃあ首にさせねえよ」
と言うのは、つまり、自分の寸法がすっかり図に当ったことを己惚(うぬぼ)れている。いやしくも自分の子分子方であったものが、今日明日のうちに首がコロリという運命に陥っているのを、知らざあともかく、それと聞いて、ああそうかとすまし込んでいる女では決してない。自分としては、あんなところへ面(つら)も体も出せた身じゃねえが、あの女ならばどこまでも押して行くよ。そこを見込んで、かけ込んだおれの寸法が当った。
 がんりきの野郎は、その寸法を己惚れきっている。その一方にはこうして、お角を火の玉のようにして転がし出して置きながら、そのあとを然るべき要領で、お角親方の連衆(つれしゅう)の一人にこしらえ、留守番をひとり守っている体(てい)にして、避難と、休息とを兼ねて、ゆっくりと落着くことができる、つまり、一石二鳥にも三鳥にもなるという寸法だ。これから、あの掻巻(かいまき)の中へ、すっぽりとくるまって、めまぐるしいこのごろの湖畔(うみべり)のやりくりの骨休めをすることだ。
「有難え、お茶を一ぺえ――甘えお茶菓子も有らあ」
 そこで、お茶を飲み、菓子を食い、さて、ゆっくり掻巻へもぐり込んで一休みと、足腰をのばしにかかってみると、指が痛む。
「ちぇっ、右の腕はブチ落される、今度は残った左の方を小指からなしくずしなんぞは醜いこった――因縁(いんねん)ものだなあ」
と言いながら、繃帯(ほうたい)を外して捲き換えている。長浜の浜屋で落された指一本の創(きず)あとがなかなか痛い。めまぐるしさにまぎれていたが、安心してみると痛み出す――懐中から薬を取り出して、それをつけ直している。また繃帯を捲き換えてみる。

         十二

 果して、がんりきの予想通り、お角さんは火の玉のようになって、この宿を転がり出たのです。
 その勢いで、本陣へ上って伊太夫に面会したが、もうその時は、さきほど心配した自分の責任感のことなどは、いつしかケシ飛んでしまって、晒しの鬱憤で張りきっていました。それでも、つとめて抑制して、伊太夫へは丁寧な挨拶を試みたつもりですけれども、挨拶が済むと早くも暇乞(いとまご)いでした。
「ほんとに、大旦那様、万事ゆっくりとお話し申し上げ、お詫(わ)びも申し上げなければなりませんのですが、急に、急ぎの用事が出来ましたから、これから、ちょっと一走りかけつけて見て参ります、様子を見届けた上で、引返してすぐまたお伺い致します、ほんとに、旅へ出たからって、楽はできません」
 お角さんの余憤満々たるのを、伊太夫は只事でないと見て取ったものですから、
「まあ、落着きなさい、何かお前さん、よっぽど張り切っておいでなさるが、何事が起ったのです」
「いえ、なあに、つまらないことなのですが、うちの若い者が……いいえ、以前うちに使っていた若い奴が、気が早いものですから、旅に出て、失敗(しくじり)をやらかしちまいまして――困った奴ったらありません」
「どうしたのですかな。旅に出ては間違いが起り易(やす)いから、うっかり張りきった気分のままでやると、かえって事こわしになりますよ、何事です」
「いえ、もう埒(らち)もない奴なんでございますが、どう間違えられたか、草津の辻とやらで、晒(さら)しにかかって、今日明日のうちに首がコロリ――と聞いてみると、いい気持は致しません、いい気持どころか、こうして、いても立ってもいられないのが、わたしの性分なんでして」
「まあ、待って下さい、その晒し者のことなら、わしも見ましたよ」
「まあ、大旦那様、あなたもごらんになりましたか、あの米友の奴が」
「名前は何というか知りません、また、あの男がお前さんのかかわり合いの男だということも、はじめて聞くのですが、どうも通りかかって、あれを見て、わしも変だと思いましたわい」
「全く変な奴なんでございます、あの友という野郎は、変った野郎には相違ございませんが、ちょうはんをしたり、晒しにかかったりするような、気の利いたことのできる野郎じゃないのです、あいつは、天性曲ったことのできない野郎なんですが、それが間違って、晒しにかかった上に、今日明日のうちに首がコロリでは、どうあっても、このままでは済まされません、こうしている間も気が急(せ)くんでございます、あの野郎は、どう間違ったって、ちょうはんなんぞをする野郎じゃありません、人違いにも程があったものでございます」
 お角さんの言葉によるとちょうさんがちょうはんになっている。ちょうさんの説明は前に言った通りですが、ちょうはんとなると僅か一字の相違で、内容も形式も全く別なものになる。すなわちちょうはんというのは「ばくち」の一種で、丁よ、半よと、輸贏(ゆえい)を争うことの謂(い)いなのであります。これによると、お角さんという人の頭には、ちょうさんの解釈が成り立っていない、一途(いちず)にちょうはんと受取ってしまっている。すなわち、丁よ半よと血眼(ちまなこ)になって勝負を争ったことのためにお手入れがあって、それがために捕われてお仕置になっている、と受取る方がお角さんの頭には通りがよい。
 ちょうはん、ちょぼいちの罪の罪たるべきことはお角さんの頭にもある。ただ、そのちょうはん、ちょぼいちを弄(ろう)したということのために、今日明日のうちに首がコロリというのは、ところ柄かも知れないが厳し過ぎる。まして、あの正直一方の米友が、ちょうはん、ちょぼいちなどにひっかかる人物でないということは、お角親方が頼まれなくとも保証するところである。それがためにお角さんの激昂が一層、煽(あお)られていると見なければならぬ。

         十三

 お角の激昂するのを聞いていた伊太夫は、
「なるほど、そういう場合では、お前さんの気象として、じっとしていられないのも無理はない。だが、相手は何といってもお上役人だから、たとえ理があっても正面からポンポン行くと、かえって事こわしになる虞(おそ)れがある、相当の筋を辿(たど)って、何か穏かな助命方法はないものかね」
 そう言われると、お角さんも馬鹿でないから、昂奮のうちにも、敵を知り己(おの)れを知るの分別が出て来ないはずはない。お上だろうが何だろうが、理に二重はないという勢いで押しかけてみたところで、相手にされなかったらどうする。それを強く押してみたところでどうなる。よし、それはどうなろうとも、当って砕けろだ、ここで後へ引くようなお角さんとはお角さんが違うと言ってしまえばそれまでだが、お角さんの米友と違う点はそこにある。伊太夫は言葉をつづけて言いました、
「そうじて、お上役人というのにぶっつかるには、更に、も一段上から出るか、側面から当るのが最も効目(ききめ)のあるものだ。役人というものは、上役に対しては頭の上らないものだから、天降(あまくだ)りである以上は否も応もない。そうでなければ搦手(からめて)から運動することだ、そこから穏かに話をつけると存外物わかりのよいことがある。名役人というものは上も下もありはしない、理が聞えれば、誰の言葉も聞いてやるが、なかなかその名役人というものはないものでな――だから、天降りとか、搦手とかいうやつが、いつの世でも相当効目があるものなのだ。どうだい、お角さん、そんな意味で何か上の方からこう、運動するような手筋はないかね。わしも一応は、心当りをこれから思案しようと思っているが、何をいうにも旅の身でねえ」
 伊太夫からそう言われて、お角としても、いよいよなるほどと思わせられないわけにはゆかないで、
「御尤(ごもっと)もでございますね……」
と言ってみたが、そのほかには急になんらの思案も浮ばないから、二の句もつげない。なるほど、この大旦那が、甲州一円の土地であるならば、ずいぶん面も利き、圧(おし)もお利きなさろうけれど、この大旦那でさえ、旅の身ではねえと喞(かこ)ち言(ごと)をおっしゃる――まして、女興行師風情のわたしで、どうなるものか、それを考え出すと、腐ってしまわざるを得ない。
 お角さんが、やきもきしながら返答ができないでいる、その心持を伊太夫は充分察することができるから、お角さんから強(し)いて返答を催促するのでなく、自分のこととして自問自答を試みて、
「いったい、この土地は、どこの藩に属しているのかな、水口藩(みなくちはん)か、膳所藩(ぜぜはん)か――そうだとすればここの権者(きれもの)は何の誰という人か、その人に向っての手蔓(てづる)――ただし、彦根の藩中には相当の重役に知り合いがある、そうだ、あれから渡りをつけてやろうか、彦根ならば他の小藩への通りがよかろう。だがもし、いずれの藩にも属していない天領だとなると、幕府直轄のお代官だとなると、事が少々面倒だぜ、御老中差廻しのお代官に悪く出られた日には、大藩でも扱いきれないことがある――さあ、その辺を一つ考えてみないことには……」
 伊太夫は、自問自答式にこうつぶやいて、ようやく思案が深入りして行く途端に、お角さんが、急に声を上げて言いました、
「ああ、いいことがございました、ほんとに、どうしてこれに気がつかなかったんでしょう、わたしという女も、実に頭の悪い女でござんしたよ」
「何か、いい分別がつきましたか」
「大旦那様、誰彼とおっしゃるよりは、新撰組がようござんしょう、新撰組をお頼り申すのが、手っとり早くて、いちばん利(き)き目(め)がありそうでござんす」
「なに、新撰組――」
「左様でございます、とっくにそこへ気がつかなければならないわたしという女の頭が、こんなにまで悪い頭とは思いませんでした、旅の風に吹かれ通したために、脳味噌が少し参ったんでしょうと思います」

         十四

 お角はひとり呑込んで、しきりに意気込んでいる。
 それから、お角が伊太夫に向って、いま京都からこの地方にまで及ぼすところの、新撰組、すなわち壬生浪人(みぶろうにん)というものの威力の、いかに強大であるかということの、たったいま、仕込み立てのホヤホヤの知識を述べ立てました。
 新撰組の行動に就いては、御領主様といえども、お奉行様といえども、これに加うることはできない。当時、名立たる大藩といえども、会津といえども、彦根といえども、これには一目も二目も置く。新撰組に睨(にら)まれた以上は、公儀役人といえども、到底その私刑を免るることはできない。さしも横議横行を逞(たくま)しうする大藩の勤王浪士といえども、新撰組だけは苦手である。「恐山の巻」の百七十六回前後のところに、その威力のほどが見えている。その新撰組の威力を借りる時は、たとえ相手が大藩領であろうとも、天領であろうとも、断じて押しの利かないことはないということの信用を、お角が今、やきもきと思い起して伊太夫に吹聴しました。
 しかして、その新撰組を意のままに駆使するところの大将が近藤勇で、副将が土方歳三(ひじかたとしぞう)である。その副将軍土方歳三とわたしは心安い。つい今の先も、昔の歳どんで附合って来た。その力を借りて、押しきって行けば、何のちょうはんの一人や二人、事も雑作(ぞうさ)もあるものではない、とお角さんが張りきってこのことを伊太夫に申し出ると、伊太夫もこの際、一応はそれを承認しました。
 というのは、当時、新撰組の及ぼす威力は京洛の天地だけではない。その時代の動静が、かなり敏感に伝えられるところの、甲州第一の富豪の手許まで情報が届いていないということはない。どこまで彼等に全幅の信用を置いていいか悪いかわからないが、この際は、事の思案よりは、急速の実行を可なりとする。時にとっての強力が必要である。そこで、伊太夫も一応お角の提議を承認するまでもなく、お角さんは早くも庄公を次の間まで呼ばせて、
「庄公――お前これから大急ぎ、馬でも駕籠(かご)でも糸目はつけないで、一走り使に行って来ておくれ――ほらあの、新撰組の土方という先生――いいかい、これから山王様までまた駈けつけてもらうんだよ、あそこへ行って歳どんに、わたしがぜひ加勢に頼みたいことがあるって、言伝(ことづて)をしておくれ。わけを言っては長いから、お角親方が大難に出あっている、草津の北の辻で、お角親方が晒しにかけられるという段どりになって、九死一生なんだから歳どんに加勢に来てもらいたい、とこう言って頼んでごらん。もし歳どんがいなかったら、あのやさ男で小天狗と言われた沖田総司という先生でもいいし、永倉新八という先生でもいいから、大急ぎで加勢に来てもらいたいと言ってね――歳どんも、沖田さんも、永倉さんもいなければ誰でもいい、新撰組と名のついたお人ならば誰でもいいから、頼んで来ておくれ。ことによると、どこぞへ引上げておいでなさるかも知れない、今時、新撰組といえば、泣く児もだまるんだそうだから、どこにいたって居所は知れそうなものだ、大急ぎ、九死一生の場合、今日明日のうちに首がコロリてんだから、そのつもりでお前、しっかりやっておくれ」
 こう言いつけて置いて、お角自身も急に伊太夫に向い、
「大旦那様、では、わたしの方もこれから現場へ駈けつけてみますから――時が遅れてはいけません、救いの手が来るまで、どっちみち、現場へ因縁をつけて置いてみることに致します」
 かくてお角さんは、ゆらりと立ち上りました。
 一つは新撰組へ救いの手を求むべく、一つは自身、グロテスクの晒しの現場へ出頭して、水の手の来るまで因縁をつけて置こうとの策戦らしい。

         十五

 お角が立ったあとで、伊太夫は考えている。お角を助けるために来たのではないが、こうなってみると、彼女のために相当の力添えをしてやらなければならぬ事態になっている。
 但し、自分の力の及ぶ範囲ならば知らず、旅へ出ての身である、まして今度の旅は、人も、我も、思いがけない旅である、人に知られたくない旅の身である、彦根の家中の重役には相当知辺(しるべ)はあるけれども、事改めて、そこへ持ち込みたくない。
 だが、何とかして、側面から、お角が急を訴えている冤罪(えんざい)の者の助命をしてやらなければならぬ。新撰組なるものの威力が、果して間に合うだろうか。いずれにしても焦眉(しょうび)の急である――とりあえず、この宿の亭主からたずねて、きっかけを求めねばなるまい。
「どうもあの女親方が、ああ張り切るのはよくよくのことだろう――何とかしてやらずばなるまい、お前、とりあえず支配地の籍を調べて、役人の筋を辿(たど)って、ひとつ穏かな助命運動ができるものなら、至急その道を講じてもらいたい」
 家来の藤左に向って、伊太夫がこのことを申しつけると、藤左は心得て、宿元からして急速に調べ上げた情報が次の如くです。
 この地に長谷久兵衛(はせきゅうべえ)という鬼代官がいる。名代(なだい)の農民いじめで、年貢不納のものは遠慮なく水牢に入れる。厳寒の節に水の中に立たせる。泣き叫ぶ声が通路まで聞えて、人の身の毛をよだてる。女房娘は遠慮なく身売りをさせたり、自分が没収したりする。たまり兼ねて瀬田の橋から身投げをして果てる男女が続々と相つぐ。
 草津の辻の晒(さら)し者(もの)も、江戸老中差廻しの役人がさせたのか、この地の役人がしたのか、それはよくわからないが、ともかく、この久兵衛が悪い。久兵衛のさしがねでなければ、その献策に相違ない。なんでもかんでもその長谷久兵衛が鬼代官だという情報が、どちら方面からも、期せずして伊太夫の手許(てもと)へ集まって来る。
 してみると、長谷久兵衛なるものは、悪辣(あくらつ)であるだけに権者(きけもの)である。なんにしても、こいつを押えてかかるのが有利だと伊太夫が覚りました。
 押えてかかると言ったところで、力を以て押えてかかるわけにはゆかない。手段方法を以て、この代官から理解してかからぬことには、事は運ぶまい。その代り、この代官の理解さえ届けば、必ずや相当の緩和方法があるに相違ないということに伊太夫が合点して、とりあえず、家来にその運動方法を命じたのです。
 運動方法といったところで、今の場合、さし当り特別の手段方法があるべきはずはない。伊太夫の持てるものとしての力は、その財力です。微行(しのび)で旅に出たとはいえ、甲州一国を押えている力は何かにつけて物を言う。金力が時、所を超越して、権力以上に物を言う場合が大いにある。伊太夫の取り得べき手段方法としては、その有り余る金力を、有効に行使してみる側面運動のほかにはないでしょう。
 しかし、いきなり小判で鼻っぱしを引っこするような真似(まね)はできない。手蔓(てづる)のない、しかも焦眉の急に応ずるための財力の発動としては、その方法に、相当微細にして巧妙なるものがなければ、かえって事を仕損ずる。
 伊太夫は、それを藤左に向って考えさせている。

         十六

 草津の辻のグロテスクな晒し者は、多くの方面にいろいろの衝動を捲き起したが、意外千万なことには、その翌朝になると、「ちょうさん」の罪人として晒された宇治山田の米友の姿は、晒し場から跡を消して、そのあとへ別に一つの「梟首(きょうしゅ)」が行われました。首が晒されているのです。つまり、生きた人間を縛って曝(さら)す代りに、人間の首を切って、そうしてそれを梟(さらし)にかけました。
 さては――と人だかりの中に、血相を変えたものもありました。と、そのうちには、あの無言のグロテスクも、とうとう首になったか、ともかくも生きて晒されている間はまあいいとして、首を斬られて「梟首」に行われるようでは、もういけない。
 あれほど、いきり立ったお角さんはどうした。
 そのところに、まさに右の如く人間の「梟首」が行われていることは事実に相違ないが、よくよく見直した時、いずれも失笑しないものはありません。
「あっ! なあーんだ」
 人間の首がさらされているには相違ないけれども、その首というものが甚(はなは)だ無難なる首でありました。
 木像なのです。木像の首なのです。しかもその木像の首たるや、ほぼ普通人間の三倍ほどある分量を持っていて、木質だけはまだ生々しいのに、昨今急仕立ての仕上げと見えて、その彫刻ぶりが、荒削りで、素人業(しろうとわざ)が、たくまずして七分は滑稽味を漂わせている。
 しかしながら、とにかく、人間の形をした首は首です。その首が、昨日までは米友が全身を以て生きながら晒されておったところに、置き換えられている。しかも、その首を、なおよくよく見るとまた見覚えがある――誰でも相当見覚えがある。束帯(そくたい)こそしていないけれども、冠(かんむり)をかぶっている。その冠も、天神様や荒神様のかぶるような冠ではなく、世に「唐冠(とうかん)」として知られている、中央に直立した一葉があって、両翼が左と右に開いている。古来この冠をかぶった画像、木像に於て、最も有名なのは「豊臣秀吉」である。ことにこの附近は、秀吉の第二の故郷として、その功名(こうみょう)の発祥地と言いつべきですから、この「唐冠」の太閤様は、ほぼ児童走卒までの常識となっている。
「やあ、太閤様が晒し首になっている」
 人も騒げば、我も騒ぐ。
「太閤様の晒し首」
 子供たちは嬉しがって騒ぐが、苦笑せぬ大人とてはない。
 何者がした悪戯か、いたずらが過ぎる。まさに知善院蔵するところの天下一品と称せらるる豊臣太閤の木像の首を模して、斯様(かよう)な素人細工を急造し、そうして、昨日までの生きた現物と引換えてここへ晒(さら)したものに相違ない。農奴とはり出された宇治山田の米友にとってみれば、今度は、かりにも豊太閤の面影と引替えになったということになってみると、いささか光栄とするに足るというべきだが、太閤の影像にとっては迷惑この上もあるまい。
 何の理由があって、何者がこういう摺替(すりか)えを行ったかということはわからない。無論、有司の仕業ではなく、何者かの最も悪趣味なるいたずらであることはよくわかる。この時代に於ては、こういうたちのいたずらが、よく流行したもので、その最も代表的なるものは、京都の等持院の足利家累代の木像を取り出して、四条磧(しじょうがわら)にさらしたことである。
 しかして、この場合に行われたのは、足利家とはなんらゆかりのない豊臣太閤が、同様の私刑に行われたという現象であって、一見して誰もが、相当に度胆を抜かれたが、その傍の捨札までが、いつしか書き替えられてあるということは、文字ある人だけが気のついたことであった。新たなる捨札の文言(もんごん)に曰(いわ)く、
「コノ者、農奴ヨリ出世ノ身ニカカハラズ、農民搾取ノ本尊元凶タル段、不埒(ふらち)ニツキ、梟首申シツクルモノ也(なり)」
 この意味がわかるものもあるし、わからないものもある。いずれも度胆を抜かれた体に於ては同じものです。

         十七

 琵琶湖畔に農民暴動の空気が充ち満ちている――
 ということは、前冊書にしばしば記したところであるが、その要領としては、「新月の巻」第四十九回のところに、不破の関守氏が、お雪ちゃんに向って語ったところに、「まあお聞きなさい、お雪ちゃん、こういうわけなんです、事の起りと、それから、騒動の及ぼす影響は……」と前置をして、
「今度の検地は、江戸の御老中から差廻しの勘定役の出張ということですから、大がかりなものなんです。京都の町奉行からお達しがあって、すべての村に於て、この際、如何(いか)ようなお願いの筋があろうとも聞き届けることは罷(まか)り成らぬ――村々からあらかじめ、そのお請書を出させて置いての勘定役御出張なのです。そこで老中派遣の勘定役が、両代官を従えて出張して参りましてな、郡村に亘(わた)って、検地丈量の尺を入れたのでござるが、もとよりお上のなさることだから、人民共に於てかれこれのあろうはずはないのでござるが、そのお上のなさるというのが、必ずしも一から十まで公平無私とのみは申されませんでな。

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