大菩薩峠
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著者名:中里介山 

         一

 この際、両国橋の橋向うに、穏かならぬ一道の雲行きが湧き上った――といえば、スワヤと市中警衛の酒井左衛門の手も、新徴組のくずれも、新たに募られた歩兵隊も、筒先を揃(そろ)えて、その火元を洗いに来るにきまっているが、事実は、半鐘も鳴らず、抜身の槍も走らず、ただ橋手前にあった広小路の人気が、暫く橋向うまで移動をしたのにとどまるのは、時節柄、お膝元の市民にとっての幸いです。というのはこのほど、両国の回向院(えこういん)に信州善光寺如来(にょらい)のお開帳があるということ。そのお開帳と前後して、回向院の広場をかりて広大な小屋がけがはじまったこと。その小屋がけの宣伝ビラが、早くも市中の辻々、湯屋、床屋の類(たぐい)に配られて、行く人の足を留めているということ。
 その宣伝ビラもまた、小屋がけの規模の大なると同じく、ズバ抜けて大きなものへ、亜欧堂風(あおうどうふう)の西洋彩色絵で、縦横無尽に異様の人間と動物とを描き、中央へ大きく、
「切支丹(きりしたん)大奇術一座」
 この宣伝ビラは、宣伝ビラそのものがたしかに人気を集めるの価値がありました。
 幕府の威力衰えたりといえども、西洋の風潮、多少人に熟したりといえども、「切支丹」の文字は字面(じづら)そのものだけで、まだたしかに有司を嫌悪(けんお)せしめるの価値がある。
 果せる哉(かな)。この宣伝ビラの「切支丹」の文字だけに、翌日から張紙がされて、その上に改めて、「西洋」の二字が記されました。
 この興行の勧進元が役所へ呼び出された時に、どんな食えない奴かと思えば、意外にもそれは女で、お上のお叱りに対して、一も二もなく恐れ入り、早速、人を雇うて満都の宣伝ビラを訂正にかからせたのは素直なもので、決してことさらに反抗的に宣伝して、人気を煽(あお)ろうというほどな陋劣(ろうれつ)な根性に出でたのではなく、誰かにそそのかされて、何の気なしにやったことが諒解が届いたから、役人たちも、単に張紙をさせるだけで、後は問いませんでした。
 この勧進元の女こそ、女軽業(おんなかるわざ)の親方のお角(かく)であります。ともかく、今度の興行には、有力なる金主か黒幕が附いたに違いない。従来の広小路の軽業小屋では狭きを感じて、新たに回向院境内へすばらしい小屋を立てたのでもわかります。
「御冗談でしょう、看板でオドかそうなんて、そんなケチな真似をするお角さんとは、憚(はばか)りながらお角さんのカクが違いますよ、蓋をあけたら正味を見ていただきましょう、正銘手の切れる西洋もどりのいるまんですよ。大道具大仕掛の手間だけでも、お目留められてごらん下さい、小手先のあしらいとは、ちっと仕組みが違うんですからね」
 こういってお角が気焔を吐いているところを見れば、おのずからその自信のほどもうかがわれようというものです。
 事実、このたびの興行は、以前のようなケレン気を脱したところがある。宇治山田の米友を黒く塗って、印度人に仕立てて当りを取ったペテンとは違って、何か、しっかりした拠(よ)りどころがなければ、こうは大げさになれないものです。
 ここに慶応のはじめ、大小日本の手品を表芸(おもてげい)にして、イギリスからオーストリーを打って廻り、明治二年に日本へ帰って来た芸人の一行がある。白い紙を蝶に作って、生命を吹き込んだ柳川一蝶斎を座長として、これに加うるに、大神楽(だいかぐら)の増鏡磯吉、綱渡りの勝代、曲芸の玉本梅玉あたりを一座として、日本の朝野(ちょうや)がまだ眠っている時分に、世界の大舞台へ押出した遊芸人の一行があります。その一行の中から、何か目論(もくろ)むところがあって、英国の興行中に、急に便船によって日本へ帰って来たものがある。それが、御家人崩れの福村あたりから、この社会へ何か渡りをつけたようです。
 遊芸――なるが故に国境が無かった。吉田松陰は、これがために生命を投げ出し、福沢諭吉も、新島襄(にいじまじょう)も、奴隷同様の苦しみを嘗(な)め、沢や、榎本(えのもと)は、間諜同様に潜入して、辛(から)くもかの地の文明の一端をかじって帰った時分に、柳川一蝶斎の一行は、悠々として倫敦(ロンドン)三界(さんがい)から欧羅巴(ヨーロッパ)の目抜きを横行して、維納(ウィンナ)の月をながめて帰ることができました。しかし、粗漏(そろう)なる文明史の記者は、こんなことを少しも年表に加えていないようです。
 いわんや、この一行が大倫敦の真中で、日本大小手品を真向(まっこう)に振りかざしたこと、その鮮やかな小手先の芸当に、驚異の目を□(みは)ったロンドンの市民のうちに、十九世紀の偉人ジョン・ラスキンがあったことを誰が知っている。
 更にまた、この十九世紀の予言者であり、文明史上の偉人であり、絶世の批評家であるラスキンが、この小技曲芸をとらえて、日本の文明を評論した無邪気なる誤謬(ごびゅう)と浅見とに、憤りを発する者が幾人(いくたり)ある。
 青丹(あおに)よし、奈良の都に遊んだこともなく、聖徳太子を知らず、法然(ほうねん)と親鸞(しんらん)とを知らず、はたまた雪舟も、周文も、兆殿司(ちょうでんす)をも知らなかった十九世紀の英吉利(イギリス)生れの偉人は、僅かに柳川一蝶斎の手品と、増鏡磯吉の大神楽と、同じく勝代の綱渡りと、玉本梅玉の曲芸とを取って、以て日本の文明に評論を試みている。
 けれども、これは偉人の罪ではない、時代の罪である。世には陋劣(ろうれつ)なる小人と、商売根性というものがあって、盛名あるものの出づるごとに、ことさらにそれを卑(いや)しきものに引当てて貶黜(へんちつ)を試みようとする。ヴィクトル・ユーゴーが初めてエルナニを上演した時に、一派のものは、わざとおででこ芝居を狩り催して、それにエルナニをカリカチアさせて欣(よろこ)んだ。
 ラスキンのあやまちは無邪気なるあやまちである。後者のあやまちはそれではない。小人の食物は嫉妬であって、その仕事はケチをつけることである。ここに巨人でもなければ、英雄でもない女軽業の親方お角さんがあります。その周囲には従来の興行師と、それに属する寄生虫の一種、それをこわもてに飲んだりねだったりして歩く無頼漢の群れがある。この連中にとっては、回向院境内の仮小屋の棟の高さがことのほかに目ざわりであります――そういう者の存在を知って知り抜いている女軽業の親方お角さんは、その真白な年増盛(としまざか)りの諸肌(もろはだ)をぬいで、
「今度の仕事は、わたしも一世一代というわけなんですからね、その思い出にひとつ、しっかりやって下さいな。なあに、今までだってこれが嫌いというわけじゃなかったんですが、河童(かっぱ)のお角さんてのがあったでしょう、同じ名前ですから、気がさしてね。恥かしいっていう柄じゃありません、真似をしたように思われるのが業腹(ごうはら)でね。こう見えてもわたしゃ、真似と坊主は大嫌いさ。今までだってごらんなさい、そう申しちゃなんですけれども、人の先に立てばといって、後を追うような真似は決して致しませんからね。よその人気の尻馬(しりうま)に乗って人真似をして、柳の下の鰌(どじょう)を覘(ねら)うような真似は、お角さんには金輪際(こんりんざい)できないのですよ。ですから、今度だって、外(はず)れりゃあ元も子もないし、当ったところで嫉(ねた)みがあるから、身体をどうされるかわかったものじゃなし、どのみち骨になるつもりで乗りかかった仕事ですから、その思い出に素敵に大きな骸骨の骨(あたま)を一つ彫っていただきたいと、こう思いついただけなんですよ……何ですって、骸骨だけじゃ色が入らないから淋(さび)しいでしょうって? なるほど、それもそうですね。それじゃ、骸骨のまわりに燃えたつような大輪の牡丹(ぼたん)でも彫っていただきましょうか。なにぶんよろしく頼みます」
 こういってお角が背中を向けたのは、そのころ名代の刺青師(ほりものし)、浅草の唐草文太(からくさぶんた)といういい男です。お角の刺青(ほりもの)が彫り進むと共に、回向院境内の小屋がけも進んで行くうちに、以前の広小路の女軽業の小屋の一部は、新しい一座の楽屋にあてられました。
 そこには、従来の一座と別廓をつくって、大一座(おおいちざ)の新面(しんがお)が、雑然たる衣裳道具の中に、血眼(ちまなこ)になって初日の準備を急いでいる。
 このいわゆる「切支丹」訂正「西洋」大奇術の一座の頭梁株(とうりょうかぶ)とも総支配人とも覚しいのは、頭のはげた五十恰好(かっこう)の日本人で、白く肥った好々爺(こうこうや)ですが、ドコかに食えないところがあって、誰か見たことのあるような人相です。知っている者は知っているが、知らない者は知らない。この男は、たしか春日長次郎といって、先年、柳川一蝶斎の一行の参謀として西洋へ押渡ったはずの男であります。この男の指図で、準備と稽古に忙殺されている連中のなかには、不思議と紅毛人は見えないで、どれを見ても見慣れた黒髪銅色の人種、多くはこれ生え抜きの日本人でありますが、そのなかに注意して見ると、少し毛色の変ったのが二三枚、働いている。
 無口で働いている――春日長次郎はその二三枚を呼ぶたびに、何か早口で、わからないことをいってしまうと、彼等は直ちに頷(うなず)いて、手早く持場持場の仕事につきます。
 さりとて、これは断じて欧羅巴(ヨーロッパ)種ではない。その皮膚は蒙古種族よりはズット黒いけれども、当時の日本人が夢想しているような裏も表もわからない黒ん坊とは違って、よく見なければ、西洋人でさえもモンゴリアンと見るほどに色彩が不鮮明ですけれども、たしかに蒙古種に属する印度人か、そうでなければ印度とそれに近い他人種との混血児(あいのこ)に相違ない。ただ彼等は、しきりにその混血児であることを隠して、日本人らしく思われようとする素振(そぶり)がある。
 そのほかには、どうしても眼の色を隠すことのできない子供が五六名、赤い土耳古帽(トルコぼう)をかぶって、隅っこにかたまって、ハーモニカを吹いているところへ、例の春日長次郎――広袖の縫取りのある襦袢(じゅばん)とも支那服ともつかないものを着て、大口のようなズボンを穿(は)いている――がやって来て、これも何か早口で指図をすると、子供らは心得て、蜘蛛(くも)の子のように四散し、高い桁梁(けたはり)から吊された幕を引卸(ひきおろ)しにかかります。
 衝立(ついたて)を一つ置いて小道具。
 裏へ廻って見ると大道具。
 ここではまた、例の亜欧堂風の大看板を、泥絵具で塗り立てている幾人かの看板師。
 この看板をつぎからつぎと見て行った長次郎は、横文字の綴りの誤りを二三指摘して一巡した後、また楽屋へ戻ると、もう稽古場へ太夫連(たゆうれん)が集まって、品調べにかかっている。太夫連は、やはりどれも日本人、少なくとも東洋人以外の面(かお)ぶれは見えないのに、別に補助として参加する従来の女軽業の重なる連中が、見物がてら押しかけているものですから、やはり日本人だけの大一座としか見えません。
 と、その一方に、ゆらりと姿を現わした一人の女、これこそ正銘偽(いつわ)りのない欧羅巴(ヨーロッパ)夫人で、これだけは姿を隠そうとも、ごまかそうともしない。十七世紀頃の派手な洋装で、丈の高い、愛嬌のある碧(あお)い眼と紅(べに)をぼかした頬。
 片手にギターを持って、まず長次郎と見合い、にっこりと会釈(えしゃく)をする。長次郎はその傍へ行って、これも早口で話をしていると、一方から日本娘の美しいのが一人、三味線を持って出て来る。以前、張幕の下でハーモニカを吹いていた少年連がゾロゾロとやって来ると、西洋婦人は手にしていたギターを取り上げて、調子を合せにかかろうとする。長次郎は、そこを去って、また裏口の方へ向い、
「太夫元は来ないかな」

         二

 この興行が、いよいよ初日(しょにち)の蓋(ふた)をあけた日、人気は予想の如く、早朝から木戸口へ突っかける人は潮(うしお)の如く、まもなく大入り満員となって、なお押寄せて来る客を謝絶(ことわ)るために、座方が総出で声を嗄(か)らしてあやまっている光景は、物すごいばかりです。これは勧進元のお角として、当然すぎるほどの結果で、寧(むし)ろこうなければならないはずにはなっているが、やはりこの夥(おびただ)しい人気を見ると、商売気とは違った昂奮を感じながら、場の内外のすべてに気を配っている。
 春日長次郎が、あらかじめ一座の成り立ちの口上を述べて、やがて予定の番組にとりかかる。この口上言いの風俗からして、観(み)る人の眼を新しくしたと見えて、その一言一句までが静粛に聞かれていることも、例(ためし)のないほどで、口上があってから、やがて、改めて観客は舞台の装飾から小屋の天井のあたりを、物珍しく見直したものです。
 この小屋がけは従来の方式とは違って、今日普通に見るサーカスの小屋がけ、日本でいえば相撲の場所とほぼ同じように、円心に舞台を置いて桟敷(さじき)が輪開して後方(うしろ)に高くなる。二千人を収容して余りあろうと思われるほどの広さに、高く天幕(テント)の間から青空の一部が洩れているのを仰いでながめると、人をして従来の劇場とは違った自由と快活の気風を起させる。
 さて、また演技の番組に就いては、厳密にいえば、その前芸は、奇術とか、魔法とかいうよりも、一種の西洋式の軽業といった方が当っている。その間へ、ちょいちょい手品が入るという組合せであります。――けれども、その演芸のことは一々ここへ書き立てない方がよかろうと思う。その時分の人を天上界の夢の国へ持って行くほどに、恍然魅了(こうぜんみりょう)した異国情調を細かく描写してみたところで、その時分の人の驚異は、必ずしも今日の人の驚異ではない。ただしかしその時の見物は、さし換(かわ)る番組と、登場者の風俗と、それに伴奏するさまざまの楽器の音と、使用の装飾の道具類とが、見るもの、聞くもの、異常の刺戟でないということはなく、その眩惑(げんわく)のために、半畳(はんじょう)のための半畳を抑え、弥次のための弥次を沈黙させただけの効果と、堪能(たんのう)とは、たしかに存在したものであります。見物は、たしかに今までに見ないものをみせられたことに、沈黙の満足を表現しているといってよろしい。
 ことに、その準備と訓練がよく行届いていたせいか、番組の進行、道具方や介添(かいぞえ)までが、キビキビした働きぶり、スカリスカリと歯切れがよく進んで行く興行ぶりは、従来、演芸の吉例(?)としての、初日の不揃いとか、幕間(まくあい)の長いとかいうような見物心理の圧制から解放されて、気の短い、頭の正直な見物を嬉しがらせたことは非常なものです。
 演技で酔わされた人が、ホッと我に返ると、
「時間と、幕間は、西洋式に限りますな」
 その西洋式の讃美者は、この興行主のお角が諸肌(もろはだ)を脱いで、江戸前の刺青師(ほりものし)に、骸骨の刺青を彫らせていることを知るものがない。
 前芸の棒飛び、縄飛び、輪投げ、輪廻しといったのは、鍛練した技術で、眩惑の手品ではない。第一番目から手品が一枚加わって――それから四番、五番と立てつづけに、大道具、大仕掛で、華麗と、眩惑と、濃厚と、変幻の異国芸の花々しさを、息をもつかせず展開しておいて、六番目に、
「ジプシー・ダンス」
 この幕間に、ちょっと手間がかかりました。
「何しろ驚いたものですな、今度はジプシー・ダンス。ええと、つまり西洋の手踊りといったようなものだそうで」
 お茶を飲み、煙草を吸って休養を試みているところへ、春日長次郎がまた改めて口上言いに出ました。
 これより先、開場の前までは、場内を隈(くま)なくめぐって気を配っていたお角、開場と共に、楽屋と表方の間に隠れて、始終の気の入れ方を見ている。
「梅ちゃん、この次は西洋の踊りですから、向うへ行って、よく見てごらん」
 附いていたお梅に、参考としてのジプシー・ダンスを見学さすべく、お附の役目を解いて暫時のお暇を与えると、娘分のお梅は有難く、喜んでお受けをして、
「それでは行って参ります」
 外行のような挨拶をして、そっと見物席の後ろへ廻ろうとすると、お角が、またそれを呼び留めて、
「かまわないから御簾(みす)の桟敷のね、あいているようなところへ入って、ゆっくりごらん」
「有難うございます」
 お梅は再びお辞儀をして行ってしまいます。
 まもなく、見物席の背後から隠れるようにして、正面東側、そこに御簾をかけた一列の桟敷の後ろへ来て、お梅は怖々(こわごわ)とその一端を覗(のぞ)いて見ました。
 ここに、御簾の桟敷というのは、小屋がけとしては異例の設備であります。けばけばしくはないが、ともかく、この一列は御簾を下げてあって、ある一組の連中もここから忍んで見られるし、個人個人もまたここから多数の目を避けて、演芸だけを見得ることのような組織になっていました。
 こういうことは、誰かしかるべき黒幕があって、相当の身分あるものの、市井(しせい)を憚(はばか)る見物のために、特に用意をしたものと見なければなりません。木戸口からは、どうもここへ案内されたものを見たことがないから、多分この表の水茶屋から案内された特別の客だけが、前約あって、ここへ送られて来るはずになっているものと見えます。すべての観覧席は、爪も立たぬほどの大入りとなって、入場謝絶に苦しんでいる際に、ここだけは充分の余裕を残して、いついかなる人をも迎え得るようにしてあります。すでに、御簾(みす)の蔭からうかがうこの席の見物の中には、頭巾(ずきん)を取らない武士(さむらい)もあれば、御殿女中かと見られる女の一団もあります。
 お梅は親方から許されて、怖々(こわごわ)この桟敷の一端を覗いて見ると、幸いに、そこは八人詰ほどの仕切られた席が残らずあいていましたから、そっと入って、片隅に身を寄せ、手すりに軽く肱(ひじ)を置いて、改めて落付いた見物気分を起しました。
 この時は、もう楽屋も総出で、広小路の女軽業から手隙に来た連中も、争って、次に行われるジプシー・ダンスを見学しようとして最寄(もより)最寄(もより)へ出て行ったあと、お角は秘蔵の娘分のお梅まで出してやったものですから、この盛んな、この広い、この気忙しい中で、しばらく気を抜いたようなひとりぼっちになると、思わずホッと吐息をついて、のぼせた頬を、ちょっと両手でおさえてみて、それから楽屋の窓の所へ、思わず凭(よ)りかかりました。
 窓といっても、本来が仮小屋ですから、特にそれがために切ったのではなく、幕を下ろせば壁となり、幕を絞れば窓となるだけの組織ですが、ちょうど、その幕が絞ってありましたから、お角は、その傍へ寄って柱に凭りかかって、外の空気に触れると、ここは高いところですから、眼の下に新しい世界が、新たに展開した心持がしました。
 新しい世界といっても、場内の変幻出没のような夢の国の世界が現われたのではなく、尋常一様の両国回向院境内の世界ですけれども、人気と、眩惑と、根(こん)づかれの空気にのぼせたお角にとっては、その尋常一様がまた新世界のように感ぜらるべき道理でもあるが、ことにその眼の下に現われたのは、回向院の墓地でありました。乱離たる石塔と、卒塔婆(そとば)と、香と、花との寂滅世界(じゃくめつせかい)が、急に眼の下に現われたものですから、お角は目をすましました。
 お角が人いきれの中から面(おもて)を窓の下に曝(さら)すと、そこは回向院の墓地であります。卵塔(らんとう)と、卒塔婆の乱離たる光景が、お角の眼と頭とを暫しながら、思いもかけない別の世界に持って行きました。
 お角は、その荒涼たる人生の最後の安息所を、我を忘れて見下ろしていた間は何事もありませんでした。
 そのうちに、墓地の一方の木戸をあけて、静かに内部へ足を運んで来る二人づれのお墓参りのあったことを気づいたまでも無事でありました。
 一方、魔術の世界の華麗と、眩惑に浸っている群衆と、また一方、こうしてしめやかに人生の最後の安息所へのお参りに足を運ぶ人とが、背中合わせになっている。それをお角は、やはり無心にながめて、頬のほてりを冷している。お墓参りの二人の者もそれを知らず、まだ新しい木標(もくひょう)の前に近づくと、二人のうち、案内に立ったお屋敷風の小娘が、
「ここでございます」
で、手にかかえていた阿枷桶(あかおけ)をさしおくと、それに導かれて来た、塗笠に面(おもて)を隠した人柄のある一人のさむらい。
 手に携えていた香華(こうげ)を、木標の前の竹筒にさして、無言に立っていると、娘は阿枷の水を汲んで、墓木(ぼぼく)と花とに注(そそ)いでいる。
 塗笠のさむらいは、木標の前に立って、軽く頭(こうべ)を下げて、感慨深く立っている。
「殿様、どうぞ、お水をお上げくださいまし」
 娘は杓柄(ひしゃく)を武士の手に渡すと、それを受取った武士は、墓に水を注いで、
「この文字は誰が書きました」
「御老女様からのお頼みで、大僧正様が書いて下さいました。御老女様は、そのうちお石塔を立てて、そのお石塔の後ろへ、朝夕(あしたゆうべ)の鐘の声、という歌を刻んで上げたいとおっしゃいました」
 高いところで、見るともなしに見ているお角の耳へは、無論この二人の問答は入りませんが、満地の墓碣(ぼけつ)の間にただ二人だけが、低徊(ていかい)して去りやらぬ姿は、手に取るように見えるのであります。そこで、お角は早くも、これはしかるべき大身のさむらいが、微行(しのび)で、ここへ参詣に来たものだなと感づきました。表には憚るところがあって、この娘だけが一切の事情を知っていて、お殿様の案内をして、こっそりと参詣に来たものだなという感じは、お角のような打てば響くところのある女性には、見て取ることが早いと見えます。
 その大身のさむらいと思われる人品のあるのは、最初から笠に面を隠していますから、その何者であるやは確かにはわかりませんが、羅紗(らしゃ)の筒袖羽織に野袴を穿(は)いて、蝋鞘(ろうざや)の大小を差し、年は三十前後と思われるほどの若さを持っているのが、爽やかな声で言います、
「それから、あの奇怪な風采(ふうさい)をした少年、少年といおうか、或いは若者といおうか、正直にして怒り易い、槍に妙を得た、あれの幼馴染(おさななじみ)といった男は、どうしていますか。あの男を、そなたは御存じか……君(きみ)は絶えずあの男に逢いたがっていたのだが……」
「ああ、米友さんのことでございますか……」
と娘が答えた時に、大魔術の小屋で大太鼓と金鼓(きんこ)の音がけたたましく、鳴り出しましたから、墓地の中の二人も、これに驚かされ、問答の半ばでふたりいい合わせたように、この高い天幕の小屋を見上げますと、そこで計らずも、窓から見下ろしていたお角と面(かお)を見合わせました。
「おや?」
と驚いたのはお角です。こっちは窓に人がいると気づいただけですけれども、お角はこの墓地の中から、笠の面(おもて)を振上げたその中の人を見て、驚いてしまいました。その人は、もとの甲府勤番支配、駒井能登守に相違ないと思ったからです。
 それとは知らない二人づれの墓参りは、やがて墓の前を辞して徐(おもむ)ろに以前入って来た木戸口を出て、魔術の小屋へ吸い寄せられる人足(ひとあし)に交り、相撲茶屋を横に見るところへ来ると、
「モシ、それへおいでになりますのは?」
と呼びとめたもののあるのは、どうも自分たちを指したものらしい。二人は、ちょっと二の足を踏みますと、早くも、そこへ駈け寄って来た女の人、
「駒井甚三郎様」
 立ちどまった以前のさむらいはハッとしました。追いついて来たのは大魔術の勧進元のお角。
「おお、そなたは……」
 駒井は、その女を見ると、あわただしいそぶりであります。
「まあ、駒井の殿様……いつこっちへお越しになりましたんですか、あんまりじゃございませんか、わたくしどものところへなんぞ、お沙汰(さた)も下さらないで、ほんとうにお恨みに存じますよ」
 お角はこの人を見ると、まず怨(うら)みの言葉を浴びせかけるほどに、熱しているものと思われます。
「今、ここへ着いたばかりじゃ」
「お宿は柳橋でございますか」
「ついこの先……」
 申しわけのようにする駒井の返事を、お角は焦(じ)れったそうに、
「なんに致しましても、ここを素通りはなりませぬ、おいやでもござりましょうが、ぜひお立寄りを願わなければ」
といって、お角は、連れのお屋敷風のキリリとした娘の姿を、心ありげな眼つきでながめますと、その娘もはっとしましたが、何にもいわず軽い会釈をして、やや手持無沙汰でいると、駒井は迷惑がって、
「どのみち、宿をきめてから」
 こういいますと、お角は、もとより逃(のが)さないつもりですから、
「まあ、左様におっしゃらず、わたくしどもの一世一代を御見物下さいませ、ずいぶん、骨も折れましたが、まんざらごらんになって腹の立つようなものばかりでもございません」
「ははあ、この興行は、お前がやっていたのか」
「左様でございます、御案内を致します。お嬢様、どうぞあなた様も、御迷惑でも殿様のおつきあいをなさいませ」
「お松どの、せっかくのことだから見せてもらおうか」
「はい……」
 御屋敷風の娘は、老女の家のお松であること申すまでもありません。お松はこの返事に躊躇(ちゅうちょ)しましたのは、墓参(ぼさん)の帰りに……という気がトガめたのかも知れません。
 しかしながら、駒井甚三郎は、どのみち退引(のっぴき)ならぬ相手につかまったものと観念をしたのでしょう、お角の案内に随って、遠慮をするお松を引具(ひきぐ)して、ついにこの小屋へ足を向け、
「相変らずエライことをやり出したな。なに、切支丹の魔術……それは面白い。この看板は誰がかいたのじゃ、日本人に描かしたのか、彼地(あっち)から持って来たのか。向うの下絵によって写したと。なるほど、横文字入りで変った図柄じゃ、とにかく、これだけのことをやり出したお前もエライが、向うへ渡ってこれを持って来た奴もエライな。ナニ、春日長次郎……柳川一蝶斎の一座で先立ちして来た男だと。知らん、すべて拙者はまだ日本のものも、西洋のものも、手品というは評判だけに聞いて、本物を見るのは今日がはじめてじゃ。日本のものを向うへ持って行けば相当に面白かろう、むこうのをそのままこっちに見せることは一層珍しい。誰が周旋してくれたのじゃ。ほかの興行と違って、見る人に新知識を与え得るものでなくてはならぬ」
 駒井甚三郎はこういいながら、相撲茶屋から御簾(みす)の桟敷(さじき)へ案内されました。

         三

 駒井甚三郎とお松が案内された席は、ついたった今、お梅がそっと入り込んだ御簾の桟敷の一間であります。
 それと見てお梅は、遠慮して席を避けようとするのを、お角が、
「いいから御免を蒙(こうむ)って、そうしておいで」
 そこで、この一間には主客都合四人が納まった時分に、ようやく春日長次郎のジプシー・ダンスの口上が始まりましたから、駒井甚三郎は、ちょうどこれを見るために、わざわざこの席へ来たような具合になりました。
 春日長次郎は、五十恰好の禿(は)げた素頭(すあたま)の血色のよい面(かお)をして、例の和服とも、支那服ともつかない縫取りのある広袖の半纏(はんてん)に、大口のようなズボンを穿(は)いて、舞台に現われ、
「さて、東西のお客様方、初日早々かくばかり盛んな御贔屓(ごひいき)をいただきまして、一同の者、何とお礼を申し上げよう術(すべ)もなく、有難涙に咽(むせ)びおりまする次第でございます。ただいままで、だんだんとごらんにそなえました技芸、ことごとくお気に叶いまして、楽屋一同の感謝にございまするが、ことにこのたびごらんに入れまするは、ジプシー・ダンス……これはお聞き及びでもございましょうが、太古より今日に至るまで、亜細亜(アジア)洲と欧羅巴(ヨーロッパ)の間を旅から旅へとうつり歩く一種族でございまして、曾(かつ)て一定の国というものを持ちませぬ、また一定の家というものを持ちませぬ、青空の存するところが彼等の故郷にございまして、水草の生えるところはすなわち我が家、と申す有様でございます……何故に、このジプシー族に限って、国と家とを持たず、太古より今日まで、漂浪を続けているかと申しまするに……彼等はその昔切支丹宗(きりしたんしゅう)の救い主を殺した罪の報いによって、その国を失い、ついに生涯枕をする土地を与えられなかったのだそうでございます……」
 説明半ばで、駒井甚三郎が、これは少し変だと思いました。この説明人は、ジプシー族とユダヤ族との伝説を混同しているなと思いました。しかし、多数の見物は一向そんなことを念頭には置かず、極めておとなしく説明を聞いていると、咳払い一つした春日長次郎は、続けて、
「しかしながら、切支丹の罪によって国を逐(お)われ、枕するところを奪われたジプシー種族に、二つの恵まれたものがございます、その一つは音楽でございまして、他の一つは美人なのでございます。このジプシー種族には、古来、非常な美人が生れまして、欧羅巴(ヨーロッパ)の貴族をして恍惚(こうこつ)たらしめたこともございます。また、天性、音楽が巧みでございまして、彼地(あちら)の大音楽家も、ジプシーから教えられたものがあるそうでございます……とはいえジプシーは、救世主を殺した罪の種族でございますから、これを見ることは許されても、これに触れることは許されませぬ。たとい、ジプシーの女、花のように美しうございましょうとも、それに触れた者は、手を触れたものも、触れられた女も、共に不祥の運命に終ると申し伝えられてあります。でございますから、ジプシーの美人の美しさは、花のように美しく、また花のように盛りが短いとされておりまするのでございます。皆様方はこのジプシーの女のために、その一生を誤った欧羅巴の貴族と僧侶のお話を御存じでございますか……これよりごらんに入れまするジプシー・ダンスは、日本で申しますると、ふいご祭におどる踊りでございます、花恥かしい乙女(おとめ)が、鈴の輪を持ちまして、足ぶり面白く踊ります。また日本の三味線、琵琶に似たところのギターとマンドリン、それに合わせて歌いまするそのあでやかな人と音色(ねいろ)……長口上は恐れあり、早速ながら演芸にとりかからせまする」
 春日長次郎はかなりの能弁で、一通り由来を述べ終って卓の上なる鈴(りん)を振ると、後ろの幕が二つに裂けて、そこから賑やかな音楽が湧き起りました。
 幕があくと、天幕張(テントば)りの漂浪生活の前に、二三のジプシー族の若者が鍛冶屋(かじや)をしている。盛んに鉄砧(かなしき)を叩いているところへ、同じ種族の一人の子供が糸の切れたギターを持って来て、向槌(むこうづち)を打っている男に直してくれと頼む。男が槌をさしおいて、それを直してやって調子を試むると、それに合わせて他の一人が歌い出す。と、子供が踊る。
 そこへ禿頭(はげ)の老爺(おやじ)が来て、そう怠けてはいけないと叱る。若者は仕事にかかる。子供はギターを鳴らして歌うと、叱った老爺が踊り出す。それを鍛冶屋が調子を合わせて槌を打ちながら歌う。ゾロゾロと子供が出て来てみな踊る。山の神連(ジプシーの女房たち)が出て来て、ガミガミいう。多分、この御苦労無しの親爺(おやじ)めが、今ごろ何を踊りさわいでいるのだと罵(ののし)るものらしい。親爺は恐縮して逃げながら踊る。子供たちはギターを合わせる。ついには山の神連まで、浮かれて踊る。すべて踊って歌って大はしゃぎになっているところへ、遽(にわ)かに注進らしいのが来る。そこで口早に人々に告げると、皆々狼狽(ろうばい)して逃げ隠れようとする。
 そこへ、花やかな騎士が、従者をつれてやって来ると、ジプシー族は異様な眼をしてそれを眺める。花やかな騎士は、人の名を呼んで誰かをたずねるらしい。ジプシー族はみな首を振って知らないという。騎士と従者は失望して行ってしまう。
 ジプシー族は、それを見送って、何かしきりに言い罵っていたが、若い者のうちには、腕を扼(やく)して、そのあとを睨(にら)まえ、追っかけようとする素振(そぶり)を示す者がある。老巧者がそれをささえる。子供は頓着なしにギターを掻き鳴らす。けれども以前のように浮き立たない。
 そこへ賑やかな鳴り物が入って、蝶の飛び立つように入って来た一人の少女があった。
 黒い髪、ぱっちりした瞳、黄金色(きんいろ)の飾りをしたコルセット、肩から胸まで真白な肌が露(あら)われ、恰好のよい腰の下に雑色のスカートがぱっと拡がると、その下から美しい脛(はぎ)が見える――この少女は息せききってこの場へ駈け込んで、
「皆さん、ただいま」
 多分、そういったような、晴々しい呼び声で、一同が甦(よみがえ)ったように、その少女を取囲んで、
「おお、マルガレット、無事か」
といったような歓声が起る。少女は、息をはずませて何か口早に物語をすると、老若男女が皆、背伸びをしてそれを聞こうとする。少女の物語は、何か多少の恐怖から解放されて来たもののような表情であります。その物語を聞いてしまうと、老若男女が、また歓声を揚げる。そのうちにも以前の若者らは強がりの身ぶりをして、騎士らの立去ったあとを睨まえて、腕をさすって見せる。そのうちに子供たちがギターを鳴らしはじめると、一同が浮かれ出す。右の少女が、
「では皆さん、踊りましょう」
といったような声で、タンバリンを振り鳴らして自分が真中で、めざましい踊りをはじめると、老若男女がそれを囲んで、総踊りに踊って踊りぬくと幕。
 駒井甚三郎は、その一幕を見終ると、帰ると言い出しました。
 もう一場、あとの本芸をぜひ――というのを振切って、お松を連れて、この小屋を辞して、お角に後日の面会を約して己(おの)が宿所へと立帰りました。

         四

 ジプシー・ダンスが終って、駒井甚三郎とお松は辞して帰ったあとで、大詰(おおづめ)の奔馬(ほんば)の魔術という大道具の一場があって、その日の打出しとなりましたが、これを最後まで見ていた見物のうち、二人の壮士がありました。
 もう黄昏時(たそがれどき)です。この二人の壮士は、小屋を尻目にかけて悠々と闊歩して、例の相生町の老女の屋敷へ入り込みます。
 といっても、この二人の壮士は南条と五十嵐ではないが、二人ともに疎鬢(まばらびん)で直刀丸鞘を帯びているところ、たしかに薩摩人らしい。この黄昏時、老女の屋敷へ二人とも、大手を振って乗込んだが、玄関に立って大声で怒鳴ると、その声を聞きつけて走り出でた二人の壮士。
 それと暫く問答をかわしていたが、訪ねて来たのは上へあがらず、面(かお)を出した邸内の壮士二人が下り立って、都合四人づれで市中へ出ました。
 付け加えてこの日は、黄昏時になると、ようやく風が強く吹き出し、四人づれが両国橋を渡りきって矢の倉方面に出た時分には、バラバラと砂塵が面に舞いかかるほどの強さとなります。
「強い風じゃ、火をつけたらよく燃えるだろう」
「でも、江戸を焼き払うほどの火にはなるまい」
「それは地の利を計らなければ……先年、大楽(おおらく)源太郎と、地の利ではない、火の利を見て歩いたが、彼奴(きゃつ)、人の聞く前をも憚(はばか)らず、今夜はここから火を放(つ)けてやろうと、大声で噪(さわ)がれたのには弱った」
「あれは、そそっかしい男だが、感心に詩吟が旨(うま)かった」
「どうだ、ひとつ放(つ)けてみようか」
「しかし、つまらん、江戸城の本丸まで届く火でなければ、放(つ)けても放け甲斐がごわせぬ、徒(いたず)らに町人泣かせの火は、放けても放け甲斐がないのみならず、有害無益の火じゃ」
「有害無益の火――世に無害有益の放火(つけび)というのもあるまいが」
「では、通りがかりの道草に、いたずらをしてみようか」
「地の利と、風の方向を考え、且つ、なるべくは貧民の住居に遠く、富豪の軒を並べたところをえらんで……」
「面白かろう」
 さても物騒千万ないたずらごと。この四人の壮士が傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に試みた火つけの相談は、冗談ではなくて本当でありました。それからまもなく、風が強くなるに乗じて、この連中の行手にあたって、日本橋の呉服町のある町家の軒から火の手があがって大騒ぎとなりましたが、それは発見されることが早くて、まもなく揉み消したかと思うと、山下町あたりのある旗本屋敷が、またしても、それ火事よと騒ぎ立てて、これはほとんど大事となり、一軒を丸焼けにしておさまりました。
 次に、やや時間を置いて芝口のある商家、これも大事に至らず消し止めましたが、それから程経て、神明の前の火の見櫓が焼け出したのは皮肉千万であります。
 筋を引いて見れば、ちょうどこの四人の壮士の過ぐるところ、四カ所で火が起ったわけです。これはまた途方もないいたずらで、いやしくも武夫(もののふ)の姿をした者共の為すべからざる、いたずらであるに拘らず、このいたずらは、誰にも発見されず、その残したいたずらの脱け殻だけが人騒がせをして、当の本人たちは悠々として芝の三田の四国町まで来ると、そこに薩摩、大隅、日向三国主、兼ねて琉球国を領する鹿児島の城主、七拾七万八百石の島津家の門内へ乗込もうとする。音に聞く島津の家の門番は、この途方もないいたずら者を、どう処分するかと見れば、案外にも易々(やすやす)と表門を素通りさせて、彼等をこの屋敷の中に吸い込んでしまいました。
 しかし薩摩の士の風俗をしているからとて、必ず薩摩のさむらいだと限ったわけはありますまい。この薩州屋敷では、このごろ、ずいぶん人見知りをしないで人を入れる。
 まず玄関には非常に大きな帳簿が備えてあります。それの巻頭には誰の筆とも知らず、達筆に尊王攘夷(そんのうじょうい)の主意が認(したた)められてあって、その主意に賛成の者は来るを拒まず、ということになっている。諸国の尊王攘夷の志士は、肩を聳(そび)やかし、踵(きびす)をついで、集まり来って、この帳簿へ記名誓約をする。紹介者あって来るものもあれば、自身直接に来るものもある。薩州邸ではそのいずれでも拒むということをしない。
 五百人内外の人は、いつでも転がっているが、これらの食客連の日中の仕事は、武芸をやること、馬に乗ること、感心に読書学問をやっている者。為すことも気儘勝手(きままかって)、出入りも自由。けれどもその自由放任が、ある時は、無制限になって、ここから夜な夜な市中へ向けてきりとり強盗に出かけたものまでが黙認される。
 火放(ひつ)け強盗はおろかなこと、この屋敷から或る時は甲州へ向けて一手の人数が繰出される。或る時は下総、或る時は野州あたりへ繰出して、そこで大仕掛な一揆(いっき)の陰謀が持ち上る。
 その主謀者の方針は、江戸の市中はなんといっても相応に警戒が届いている。ことにこのごろ、募集した歩兵隊――一名茶袋(ちゃぶくろ)は烏合(うごう)の寄せ集めで、市民をいやがらせながらも、ともかくも新式の武器を持って、新式の調練を受けているから、それを相手には仕事がしにくい。近国へ手を廻して騒がせておけば、自然お膝元の歩兵隊が繰出す。その空虚に乗じて江戸の城下へ火をつけ、富豪の金穀を奪うて、大事を挙げる時の準備にしようという方針らしい。
 斯様(かよう)な方針を立てている主謀者は何者か。どうかすると西郷吉之助の名前が出ることもあるが、西郷はここにいないで、益満(ますみつ)休之助と伊牟田(いむだ)なにがしと小島なにがしと、このあたりが主謀者ということである。
 益満は長沼流の撃剣家で、山岡鉄太郎などとも懇意であり、この益満の後ろに西郷がいて糸を引いているという説もあるが、益満それ自身もただ糸を引かれている人形ではあるまい。
 さいぜん、大手を振って門内に通過した四人の壮士、この席へ来ても無遠慮に一座の中へ、むんずと坐り込み、まず見て来たところの西洋の大魔術の披露、普通弁と薩摩弁でしかたばなしまでしての土産話(みやげばなし)は無難であったが、無難でないのはそれに続く自慢話であります。
 この四人の壮士どもは、今しも、大得意になって、本所の相生町から三田の四国町までの間の彼等の道草、その途方もない、いたずら話を憚(はばか)る色なく並べ立てたことです。四カ所に放火して、ある所は大事に至らしめ、ある所は小事で終らしめたが、ともかくも人心を騒がして来たことを手柄顔に説明すると、それを興ありげに聞いていたものと、不足顔に聞いていた者とあって、
「ナーンだ、くだらぬ人騒がせ、つまらぬいたずら、そうして下(した)っ端(ぱ)をおどかしてみたところが何だ。トテモやるなら、あの将軍の本丸まで届くほどの火を出せ。本丸から火を出して、グラついた江戸城の礎(いしずえ)を立て直すほどの火を出してみろ。小盗賊のやるようないたずらはよせ」
と言ったものがあると、四人のなかの一人が抜からず、
「いずれそれをやって見せるが、今はその手習いじゃ」
 そこで、この一座の対話が、江戸城の本丸へ火を放(つ)ける、その実際の手段方法にまで進んで行ったのは怖るべきことです。この怖るべき相談が事実となって現われたのも、それから幾らも経たない後のことであります。それから彼等の巣窟たるこの四国町の薩摩屋敷が焼打ちになって、江戸を追われたことも、いくらもたたない後のことであります。

         五

 それはそれとして、再び前に戻って、ここにまだ疑問として残されているのが、両国の女軽業の親方お角の、このたびの、旗揚げの金主となり、黒幕となった者の誰であるかということで、これはその道の者の専(もっぱ)らの評判となり、またお角の知っている限りの人では、これを問題にせぬ者はなかったが、誰もその根拠を確(しか)と突留めたものがありません。
 神尾主膳や、福村一派の現在は到底、逆(さか)さにふるっても融通がつこうはずはなし、以前、柳橋に逗留(とうりゅう)していた時代の駒井甚三郎のところへは、お角はしげしげ出入りして、あの当座、多少の融通黙会(ゆうずうもっかい)はあったかも知れないが、今の他人行儀を見れば、このたびの興行に駒井の力は加わっていなかったことは、がんりきの百蔵といえども疑う余地はないところであります。
 高利の金を借りた場合には、玄人筋(くろうとすじ)は当人の手にその金が入るより先に、その噂を受取るに違いないが、さっぱりそのことがない。
 だから、玄人(くろうと)は興行の腕よりも、お角の金策の腕に舌を捲いている。
 初日の評判を後にして、その日いっぱいの上り高のしめくくりをしたお角は、払い渡すべきものは即座に払い渡し、大入袋の割振りまできびきびとやっつけて、残った金を両替にすると、それを恭(うやうや)しく紙に包んで男衆を呼びました。
「庄さん、ちょっとそこまで一緒に御苦労しておくれ」
 やはり風の吹いた同じ日の晩。
 一人の男衆を連れたお角は、両国橋の宿を立ち出でました。
 その行先が疑問、それを突き留めさえすれば、金策の問題もおのずから氷釈するに違いありません。通俗に考えれば、これは、てっきり、柳橋の遊船宿に駒井甚三郎を訪ねて出かけたものに相違ない――お角ほどの女が、その時分に息をはずませて柳橋を渡り渡りした時は、がんりきの百蔵をひとかたならず嫉(や)かせたものです。
 ところが、今はこの通俗な予想も、まるっきり違って、お角が訪ねて行く足どりもおちついたもので、足を踏み入れたところは通人の通う柳橋ではなく、諸国のお客様の定宿(じょうやど)の多い馬喰町の通りであります。
 そこで、一二といわれる大城屋良助の前へ来ると、お角は丁寧に宿の者に申し入れました、
「有野村のお大尽様(だいじんさま)に、両国橋から参りましたとお伝え下さいまし」
「はい、畏(かしこ)まりました」
 ほどなく、お角は男衆の手から包みを取って、案内につれて通る。男衆は店頭(みせさき)に腰をかけて待っている。
 お角の通された一間、そこには丸頭巾をかぶったお金持らしい老人が一人、眼鏡をかけてしきりに本を読んでいる。そこへお角が通されて、
「お大尽様、お邪魔に上りました」
「おお、お角どの、まあずっとこれへお入りなさい」
といって老人は本を伏せ、眼鏡を外(はず)して、座をすすめると、お角はしおらしく、
「御免下さいまし」
 座へ通って再び老人に頭を下げ、
「おかげさまで、すっかり当ってしまいました。これで、わたしの胸も、すっかり透いてしまいました。就きましては早速、心ばかりのお初穂(はつほ)を差上げまするつもりで……」
といって風呂敷を解きかけたその中は、確かにお金の包みであります。
 いわゆるお大尽の前へ、お金の包みを積み上げますと、お大尽は、莞爾(にっこり)と笑い、
「いやもう、それはお固いことだ、娘もああしてお世話になっているし、そう急ぐというつもりもないのだが、せっかくだから……」
 ここで初めてお角の金主元が知れた次第です。つまりお角は、このお大尽から金を引き出している。しからばこのお大尽なるものは何者。
 王朝時代からの旧家といわれた甲州有野村の長者藤原家、その当主の伊太夫。それがすなわちこのお大尽で、ただいま、お角の家に厄介になっているお銀様のまことの父がこの人であります。
 さればこそ、測り知られぬ山と、田と、畑と、祖先以来の金銀と、比類のない馬の数を持っているこの富豪をつかまえたことが、興行界の玄人筋(くろうとすじ)の機敏な目先にも見抜き切れなかったことになる。
 大尽は、金の包みを前に置いたままで、
「どうだね、お角さん、あれはどうしても帰るとはいいませんか」
「そればっかりはいけません、いくら申し上げましても……」
「そうだろう、どうも仕方がない。よし帰るといってもらったところで、また難儀じゃ。いっそのこと、どこまでもお前さんに面倒を見てもらいたいと、わしは思っているのだが」
「どう致しまして、わたくしなんぞは御面倒を見ていただけばといって、お力になれるわけのものではございません」
「いや、あの通りの我儘者(わがままもの)だから、お前さんのような、しっかりした者が付いていてくれると、わしも安心じゃ」
「痛み入ったお言葉でございます、そのお言葉だけを勿体(もったい)なく頂戴して、一生の宝に致したいと存じます」
「そういうわけだから、ドコかしかるべき地面家作のようなものがあったら、ひとつお世話をしていただきたい、あれの暮して行けるだけのことはしておいて帰りたいと思いますからね」
「そうしてお上げ申した方がお嬢様のお為めならば、ずいぶん御周旋を致しましょう」
「無論、その方があれのためになる、それでは万事よろしく頼みますぞ」
「畏(かしこ)まりました、早速、そのつもりで明日からでも、恰好(かっこう)なところを探しにかかりましょう。それと、お大尽様、くどいようでございますが、あなた様にもぜひひとつ、今度の興行を見ていただきとうございます」
「いいや、わしがような山家者(やまがもの)、それにこう頭が古くなっては、根っから新しいものを見て楽しもうと思いませぬ」
「それでも、せっかくでございますから」
「まあ、勘弁して下さい、これが、わしの性分なのだから」
「ほんとうに残念でございます」
 肝腎(かんじん)の金主元が、事業の出来栄えを見てくれないのをお角は残念がると、伊太夫は、
「そういうわけだから、悪く取って下さるな。それから、この金は、せっかくのこと故、わしが一旦は受納を致したことにして、改めてお前さんの方へお廻しをしたいのじゃ、この後の分ともに、それを、今お頼みした娘の方のかかりに廻してもらいたいのじゃ。娘へ手渡しをしても受取るまい、受取ったところでうまく処分ができ兼ねるだろうから、そこはお前さんが預かっておいて、都合よくやってもらいたいのじゃ。なお、国許(くにもと)から月々なり、或いは相当の時分に為替(かわせ)を組んでよこすか、または人を遣(つか)わす故、何かについて不足があらば申し越してもらいたい……証文? 左様なものは要らぬ。わしはこれで、いったん人を信用すると、最後までしたい方の人間でね、肌合いは違うけれども、お前さんなら大丈夫だと、まあ見込んでお頼みをしているわけなのだ。それに第一、娘というものが、この上もない生きた証文ではないか」
 お角はこの時、さすが大家の主人だけあると思いました。

         六

 そのお角の留守中、裏両国のしもたやへ、
「今晩は、御免下さいまし」
「どなたでございます」
「親方は、おいででございますか」
「どなたでございます」
「金助でございます……」
「金助さんですか」
 娘分のお梅が駈け出すと同時に、格子戸をカラカラとあけて、
「え、金助でございますが、親方はお宅でございましょうな」
「まあ、お入りなさいまし、母さんは今留守ですけれど」
「エ、お留守ですって?」
「いいえ、留守でもかまいません、もし金助さんが見えたら、待たせておいて下さいといわれていましたから」
「左様でゲスか、左様ならば御免を蒙(こうむ)ると致しまして」
 そこへ腰をかけて、草鞋(わらじ)を解きはじめたのは、金助というおっちょこちょいで、今、旅の戻りと見える気取ったいでたちです。
「草鞋ばきなんですか、ずいぶんお忙がしそうですね」
「どう致しやして、忙がしいのなんの……これも誰ゆえ、みんな忠義のためでございます」
 くだらない軽口をいって草鞋脚絆(きゃはん)を取っていると、お梅は早くも水を汲んで来て、
「金助さん、お洗足(すすぎ)」
「これはこれは、痛(いた)み入谷(いりや)の金盥(かなだらい)でございますな」
「さあ、お上りなさいまし、母さんはじきに帰って来るといいおいて出ましたから」
「左様でゲスか……いやどうも、これでわっしも性分でしてね、頼まれるといやといえないのみならず、身銭(みぜに)を切ってまで突留めるところは突留めないと、寝覚めの悪い性分でゲスから、随分、骨を折りましてな。それでも骨折り甲斐も、まんざらなかったという次第でもございませんから、取る物も取りあえずにこうして伺ったわけなんですよ」
「御苦労さまでしたね」
「早速御注進と出かけて見れば、頼うだお方はお留守……少々業(ごう)が煮えないでもございませんが、お梅ちゃんからこうしてお茶を頂いたり、お菓子をいただいたり、御苦労さまなんていわれてみると、悪い気持もしませんのさ」
「ほんとうに、お気の毒でしたね。でも母さんが、もう帰って来ますから、なんならお風呂にでもおいでなすったら、いかがです」
「そのこと、そのこと、よいところへお気がつかれました、旅の疲れは風呂に限ったものでゲス。では、ひとつ、御免を蒙って……」
「金助さん、お召替えをなさいましな」
「お召替え? それには及びませんよ」
「まあ、そうおっしゃらずに」
「どうも恐縮でゲス。おやおや、昔模様謎染(むかしもようなぞぞめ)の新形浴衣(しんがたゆかた)とおいでなすったね。こんなのを肌につけると、金助身に余って身体(からだ)が溶(と)けっちまいます。すべて銭湯に五常の道あり、男湯孤(こ)ならず、女湯必ず隣りにあり、男女風呂を同じうせず、夫婦別ありといってね……」
 このおっちょこちょいが歯の浮くような空口(からぐち)をはたいて、しきりにそわそわしているのは、この家としては近ごろ異例の待遇で、本来ここの住居(すまい)は、お角のためには隠れたる休養所で、懇意な人でも滅多には寄せつけないのに、このおっちょこちょいに限って、少々もてなされ過ぎている。
 浴衣(ゆかた)を着せられて、七ツ道具を持たせられ、有頂天(うちょうてん)で、金助は風呂へ出かけようとすると、
「梅ちゃん、梅ちゃん」
 この時、二階で人の声。
「はい」
 お梅が返事をして二階を見上げると、金助も変な面(かお)をして、出かけた二の足を踏む。
「ちょっと来て下さい」
 二階でお梅を呼ぶのはお銀様の声です。
「金助さん、お嬢様が、ぜひお前さんに会いたいんですとさ、お湯へおいでなさる前に」
「え、お嬢様が、わっしに御用とおっしゃるんですか」
 二階から下りて来たお梅は、風呂へ行こうとして下駄を突っかけている金助の袖をとらえました。
 そこで金助は怖々(こわごわ)と引返して、二階を見上げ、
「よろしうございます、お嬢様だって、なにもあっしを取って食おうとおっしゃるわけでもござんすまい」
 七ツ道具を下へ置いて、浴衣へ羽織を引っかけたままで、恐る恐る二階へのぼりはじめました。
「御免下さいまし、お嬢様」
「金助さん」
「はい、金助でございます」
「どうぞ、ここへお上りください、お前さんにぜひお聞き申したいことがあります」
「御免を蒙(こうむ)りまして」
「御遠慮なく」
 金助は、全く怖る怖る二階の間へ通り、キチンと跪(かしこ)まって、恐れ入った形をしていると、いつもの通りお高祖頭巾(こそずきん)をすっぽりとかぶったお銀様は、行燈(あんどん)の光に面(おもて)をそむけて、
「もう、少しこちらへお寄り下さい」
「ええ、ここで結構でございます」
 勧める蒲団(ふとん)も敷かずに金助は恐れ入っている。
「金助さん、お前は、お角さんから頼まれたことがあるでしょう」
「ええ、あるにはありますがね……」
「あれは、わたしからお角さんに頼んだことなんですから、それを隠さずに、わたしに話して下さい」
「左様でございますか。いや、薄々(うすうす)その儀は承って出かけましたんですが、一応はここの親方の方へ申し上げまして、親方の口から改めてあなた様のお耳へ入れるのが順かと、こう思いましたものですから」
「いいえ、それには及びませぬ、かまいませんから隠さずに話して下さい。お前さんが帰ったら、これを差上げようと思っていました、ほんの少しばかりですけれど」
といってお銀様は手文庫の中から、事実金助の前には少しばかりではない金包を取り出して、奉書の紙に載せて無雑作(むぞうさ)に金助の前に置いたものです。それを見ると、金助が、いたく狼狽(ろうばい)をして、眼の色が忙しく動き出し、
「そんなことをしていただいちゃ申しわけがございません、旅費のところもお角さんの手から、たっぷりといただいてあるんでございますから、その上こんなことをしていただいちゃ恐れ入ります。しかし、お嬢様、金助も頼まれますと、無暗に肌を脱ぎたがる男でございましてね、自慢じゃございませんが、事と次第によっては、目から鼻へ抜ける性質(たち)なんでございますよ。今度のことなんぞも、お角さんから頼まれますと、早速、当りをつけたのが、まあ、聞いていただきやしょう、とても、そりゃその道で多年苦労をした目明(めあか)しの親分跣足(はだし)ですね、全く予想外のところへ目をつけて、そこから手繰(たぐ)りを入れたところなんぞは、我ながら大出来、ここの親方にも充分買っていただくつもりで、寄り道もせずにこうして駈け込んで来たような次第なんでございます……エエ、その頼まれました御本人の行方(ゆくえ)、それをそのまま探していたんでは、なかなか埒(らち)の明かない事情がありますから、まずこういう具合に……エエと、この街道を琵琶を弾(ひ)いて流して歩いたお喋(しゃべ)りの盲法師(めくらほうし)を見かけたお方はございませんか、こういって尋ねて歩いたのが、つまり成功の元なんですね。将を射るには馬を射るという筆法が当ったんで。つまりそれでとうとう甲州街道の上野原というところで、めざす相手を射留めたという次第でございます……」
 金助は、膝を金包に近いところまで乗り出して、得意になってべらべらとやり出しました。
 金助のべらべらやり出した潮時(しおどき)を、お銀様も利用することを忘れませんでした。
「そうして、甲州の上野原のどこで、その盲法師を見つけました」
「それがその……」
 金助は、いよいよ得意になって、顔を一つ撫で廻し、
「府中の六所明神様でひっかかりを得ましたものですから、それからそれと糸をたぐって、とうとう甲州の上野原で突留めました。上野原は報福寺、一名を月見寺と申しましてな、お宗旨(しゅうし)は曹洞、かなりの大きなお寺でございます……そこに、一件のお喋りの盲法師が逗留していることを突留めましたものですから、もうこっちのものだと小躍(こおど)りをして、早速お寺を尋ねましてな、例の盲法師にも会いまして、それとなく探りを入れてみましたところが……」
 ここまで調子に乗って来た金助が、急に遠慮をはじめたものですから、お銀様が、
「知っています、その盲法師は、わたしもよく知っています。なんといいました」
「いやどうも、よく喋る坊さんで、まず自分の身の上の安房(あわ)の国、清澄山からはじめて、一代記を立てつづけに喋り出されたものですから、さすがの金助も面食(めんくら)いの、立てつづけに喋りまくられてしまいました。が、結局、要領のところは得たような得ないような……つまり、尋ねるお方は、つい二三日前に、この寺をお立ちになってしまいました」
「二三日前まで、そのお寺にいたのですか。そのお寺にいた人が、どこへ、誰に連れられて行きましたか」
「それがそれ……」
 金助の言葉が、さいぜんの得意にひきかえて、肝腎(かんじん)のところへ来て渋(しぶ)るので、お銀様も癇(かん)にこたえたと見え、
「金助さん、お前は、その坊さんを尋ねに行ったのではないのでしょう」
「いかさま……そこで結局その要領が申し上げにくいことになってしまったんで……エエと、二三日前まで、そのお寺に御逗留になっていたことは確かで、そこをお立ちになったことも確かなんでございますが、どうも、そのどこへ、誰に連れられて行きましたか、つまりその行方が……」
 いよいよしどろもどろなのは、この男のことだから、ワザと焦(じ)らすつもりかも知れない。お銀様は気色(けしき)ばんで、
「そこまで尋ね当てて、どうして、その先がわからないのです、役に立たない……」

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