大菩薩峠
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著者名:中里介山 

年魚市(あいち)は今の「愛知」の古名なり、本篇は頼朝、信長、秀吉を起せし尾張国より筆を起せしを以てこの名あり。

         一

 今日の黄昏(たそがれ)、宇治山田の米友が、一本の木柱(ぼくちゅう)をかついで田疇(でんちゅう)の間をうろついているのを見た人がある。
 その木柱は長さ約二メートル、幅は僅かに五インチに過ぎまいと思われます。
 これを甲州有野村の藤原家の供養追善のために、慢心和尚がかつぎ出した木柱に比べると、大きさに於て比較にならないし、重量に於ても問題にならないものであります。
 本来、米友の気性(きしょう)からいえば、道理と実力が許す限り、他人が七十二貫のものをかつげば、自分もそれをやれないとは言わない男ですが、単に、たれそれが材木をかついだから、お前も材木をかつがねばならぬという、無意味な競争心と、愚劣な模倣のために、焦躁(しょうそう)する男ではありません。
 第一、慢心和尚が、いつなんらの目的で、どれほどの木柱をかつぎだしたか、そんなことを旅中の米友が知っているはずがなし、それに地形そのものが、また大いに趣(おもむき)を異にして、あちらは、四方山に囲まれた甲府盆地の一角であるのに、これは、田野(でんや)遠く開けて、水勢甚(はなは)だ豊かに、どちらを向いても、さっぱり山というものは見えないようです。
 それは黄昏のことで、多少のもやがかかっているとはいえ、どの方面からも、山気(さんき)というものの迫り来る憂いは更にないから、どう考えても、ここ十里四方には、山らしい山というものは無いと思わねばなりません。
 その代り、水の潤沢(じゅんたく)であることは疑いがないらしい。そうかといって、常陸(ひたち)の霞ヶ浦附近や、出雲の宍道湖畔(しんじこはん)のように、水郷といった趣ではないが、大河が四境を圧して、海と持合いに、この平野がのびているという感じは豊かである。
 見渡す限りは、その大河の余流を受けた水田で、水田の間に村があり、森があり、林があり、道路があって、とりとめのない幅の広い感じを与えないでもない。
 米友が件(くだん)の田疇(でんちゅう)の間を、木柱をかつぎながら、うろついて行くと、楊柳の多いところへ来て、道がハッタと途切れて水になる。
 大抵の場合は、それを苦もなく飛び越えて、向う岸に移るが、これは足場が悪い。距離に於ては、躍(おど)って越えるに難無きところでも、辷(すべ)りがけんのんだと思う時は、彼は気を練らして充分な後もどりをする。
 葭(よし)と、蘆(あし)とが行手を遮(さえぎ)る。ちっと方角に迷うた時は、蘆荻(ろてき)の透間(すきま)をさがして、爪立って、そこから前路を見る。出発点は知らないが、到着点の目じるしは、田疇の中の一むらの森の、その森の中でも、群を抜いて高い銀杏(ぎんなん)の樹であるらしい。
 こんなふうに、慣れない田圃道(たんぼみち)を、忍耐と、目測と、迂廻(うかい)とを以て進むものですから、見たところでは、眼と鼻の距離しかないあの森の、銀杏の目じるしまで至りつくには、予想外の時間を費しているものらしい。
 そこでいくら気を練らしても、持って生れた短気の生れつきは、如何(いかん)ともし難いものと見える。
 いったい、正直者はたいてい短気です。短気の者がすべて正直といえるかどうかは知らないが、宇治山田の米友に限って、正直であるが故(ゆえ)に短気だという論理は、彼を知れる限りの者が認めるに相違ない。正直者は、この世に於て、距離と歩数とは常に比例するものだと考えている。距離と歩数とが最も人を欺(あざむ)き易(やす)いのは、山岳と平野とがことに烈しいことを知らない。山岳の遭難者が、ホンの目に見えるところで失敗するように、見通しの利(き)く平野の道に、大きな陥没と曲折があることを、熟練な旅行者は知っている。
 そこで、この世の苦労に徹骨した大人は教えていう、九十里に半ばすと。
 わが宇治山田の米友も、このごろでは、かなり人情の紆余曲折(うよきょくせつ)にも慣れているから、距離と、歩数と、時間との翻弄(ほんろう)にも、かなりの忍耐を以て、ようやくめざすところの森蔭に来た時分には、黄昏(たそがれ)の色が予想よりは一層濃くなっていたことも是非がありません。
 その森は、かなりの面積を持った、だだっ広い森で、中に真黒いのは黒松である。
 柳もあり、梅もあり、銀杏の樹も多い。柿の木なんども少なくないから、森といえば森だが、屋敷といえば屋敷とも見られる。庭園と見れば庭園である。かくてようやく目的地に至りついた米友は、森の闇の中へ二メートルの木柱をかついだなりで、無二無三に進み入りました。

         二

 この森は、物すごい森ではない。とりとめもなく広い水田の間へ、幾刷毛(はけ)かの毛を生やしたような森ですから、中に山神(さんじん)の祠(ほこら)があって、そこに人身御供(ひとみごくう)の女がうめき苦しんで、岩見重太郎の出動を待っているというような意味の森ではありません。
 面積に於て広いには広いが、やっぱり屋敷跡、あるいは庭園、もしくは公園の一部といったような気分の中の森を、米友は二メートルの木柱をかついで無二無三に進んで行くと、やがてかなりの明るさがパッと行手の森の中に現われて、そこでガヤガヤと人の笑い声、話し声が手に取るように聞え出しました。
 その笑い声、話し声も、うつろの前で、今昔物語の老人が聞いたようなフェアリスチックな笑い声、話し声ではなく、充分の人間味を含んだ笑い声、話し声ですから、すべての光景が行くに従って、森の荒唐味と、幻怪味とを消してしまいます。
「ワハ、ハ、ハ、ハ、ハ、そう来られちゃ、どうもたまらねえ」
 充分人間味を帯びた笑い声、話し声の中で、ひときわ人間味を帯び過ぎた、まやかし声が起ったことによって、幻怪味と、荒唐味は、根柢から覆(くつがえ)されてしまいました。
 今の、その声を聞いてごらんなさい。知っている人は知っている、知らない人は知らない、これぞ十八文の名声天下に轟(とどろ)く(?)道庵先生の謦咳(けいがい)の破裂であることは間違いがありません。
「ナアーンだ、道庵先生、先生、こんなところに来ていやがらあ」
 長者町の子供が、くしゃみをして呆(あき)れ返っているに相違ない。
 見れば、その、だだっ広い森の中、森というよりは屋敷跡とか、庭園とかいう感じを与える森の中の、とある広場を選定して、そこに数十枚の蓆(むしろ)が敷きつめられてあり、その周囲(まわり)に、煌々(こうこう)として幾多の篝火(かがりび)が焚き立てられている。
 その蓆の上へ、嬉々として、お客様気取りに坐り込んでいるのは、この界隈(かいわい)のお河童や、がっそうや、総角(あげまき)や、かぶろや、涎(よだれ)くりであって、少々遠慮をして、蓆の周囲に立ちながら相好(そうごう)をくずしているのは皆、それらの秀才と淑女の父兄保護者連なのであります。
 さて席の正面を見ると、そこに臨時の祭壇が設けられてある。その祭壇に使用された祭具を見ると、八脚の新しい斎机(さいき)もあり、経机の塗りの剥(は)げたのもあり、御幣立(ごへいたて)が備えられてあるかと見れば、香炉がくすぶっている。田物(たなつもの)、畑物(はたつもの)を供えた器(うつわ)も、神仏混淆(しんぶつこんこう)のチグハグなもので、あたり近所から、借り集めて人寄せに間に合わせるという気分が、豊かに漂うのであります。
 それよりも大切なことは、祭壇があれば、祭主がなければならないことですが、御安心なさい、烏帽子(えぼし)直垂(ひたたれ)でいちいの笏(しゃく)を手に取り持った祭主殿が、最初から、あちら向きにひとり坐って神妙に控えてござる――さてまた祭主と祭壇の周囲には当然、それに介添(かいぞえ)、その世話人といったようなものもなければならぬ。それも心配するがものはない。
 村方の古老、新老が都合五名、いずれも平和なほほえみを漂わして、祭主の周囲に、くすぐったそうに坐ってござる。のみならず、形ばかりの袈裟衣(けさごろも)をつけた坊さんが一枚、特志を以てその介添に加わって、何かと世話をやいてござる。
 さて、烏帽子直垂の祭主のみは、恭(うやうや)しく笏を構えて、祭壇に向って黙祷を凝(こ)らしているが、祭壇の彼方(かなた)には、神も、仏も、その祠(ほこら)も、社もおわしまさない。ただ一むら、真竹(まだけ)の竹藪(たけやぶ)があるばかりだ。
 何のことはない、祭主はこの竹藪に向って、供物(くもつ)を捧げ、黙祷を捧げているようなものです。
 列席の秀才や、淑女は、鼻汁をすすりながら、神妙に席をくずさず構えているのは、多分、この祭礼と供養が済みさえすれば、あの捧げものの田(たな)つ物と、畑(はた)つ物と、かぐの木の実とは、公平に分配してもらえるか、或いは自由競争で取るに任せるか、その未来の希望を胸に描いて、それを楽しみにおとなしくしているものらしい。
 ところで、道庵先生は、どうした。さいぜんあれほど人間味を発揮した序破急(じょはきゅう)、あれが道庵先生の声でなくて何である。
 ところがこの一座のどこにも、その先生の姿が見えない――

         三

 さいぜん、米友がこの森の、臨時祭壇に近いところまで来た時分に、この陽気な笑い声、話し声の中から、ひときわ人間味を帯びたわれがねで、「ワ、ハ、ハ、ハ、そう来られちゃ、どうもたまらねえ」とわめかれた声は、聞きあやまるべくもなき道庵先生の声であるのに、その声が、たしかにこの席から突破されて来たものであるのにかかわらず、現場を見れば、その人の影も、形も見えないから、全く狐につままれたようなものです。
 だが、この一席の紳士も淑女も、秀才も頑童(がんどう)も、そんなことを少しも気にかけてはいない。いずれも平和なほほえみをもって、恭しく祭壇に向って黙祷を捧げているところの、烏帽子(えぼし)直垂(ひたたれ)の祭主の方のみを気にしていると、この祭主殿が、やがて思いがけなくも、すっくと立ち上りました。立ち上るといきなり、なりにもふりにもかまわずに、大きなあくびをしてみたが、そのあくびを半分で切り上げて、言葉せわしく、
「まだ、来ねえかよ、あの野郎は、友様は、鎌倉の右大将はまだ来ねえかね」
と言いました。そこで、はじめて正体が、すっかり曝露(ばくろ)してしまいました。
 この烏帽子(えぼし)直垂(ひたたれ)の祭主殿がすなわち、さいぜんから声のみを聞かせて姿を見せず、心ある人に気をもませたこれが道庵先生でありました。
 烏帽子直垂の道庵先生は、こうして立ち上り、向き直って笏(しゃく)を以て群集をさしまねきながら、
「友様は、まだ来ねえかね」
と宣(のたま)わせられました。しかし善良なるこの村の紳士淑女と、秀才と、令嬢とを以て満たされたこの一席は、祭主の調子のざっかけなのと、風采(ふうさい)、挙動の悪ふざけに過ぎたようなのに、嘲笑をこめた喝采を送るような無礼な振舞はあえてしませんでした。
「迎えに行って来て上げましょうか」
 かえって、極めて質朴(しつぼく)にして、好意に満ちた親切を表わしてくれました。
「それには及びませんよ、ありゃ、正直な人間ですからね」
と道庵先生が言いました。
 その時に袈裟衣(けさごろも)の老僧が、やおら立ち上って――その袈裟衣を見ると、これはたしかに日蓮宗に属する寺の坊さんだ。
 祭主の黙祷(もくとう)についで恭(うやうや)しく声明読経(しょうみょうどきょう)に及ぶかと見ると、そうではなく、恥かしそうにバラ緒の下駄を突っかけて、竹藪(たけやぶ)の裏の方へ消えてしまいました。
 さては、この竹藪の裏に仕掛があるのだな。
 最初から、この竹藪が疑問です。竹藪の前に何物もなく、竹藪の中には何物がおわしますとも見えないのに、祭壇ばかりが恭しく飾られて、祭壇そのものにも、なんらの御本尊の象徴は見えていない。いくら道庵先生が、いたずら者だからといって、ことに自分が筍(たけのこ)の部類に属するからといって、縁もゆかりもない土地へ来て、竹藪祭りをするということも、悪ふざけが過ぎます。そうかといってここで見たところでは、竹藪の中には、種も、仕掛も、本尊様らしいものもないようです。
 さて、この辺で道庵先生は、例によって来会の民衆に対し、一場の演説を試むるだろうと期待していると、今日は案外におとなしく、また恭しく坐り直して、祭壇の直前に向い、黙祷をはじめてしまいました。
 そうこうしているところへ、以前の日蓮宗の坊さまが、また問題の竹藪の背後から、ゆらりゆらりと姿を現わしましたが、こんどは両の手に、すりこ木を入れた擂鉢(すりばち)を恭しく捧げて来たものです。
 さても洒落者揃(しゃれものぞろ)い――道庵が藪に向って供養をすれば、この坊さんも負けない気になって、これから味噌をすります――だが、この坊さんは、味噌をするにしては少し年をとり過ぎています。この年になって、味噌をすらねばならぬという悲惨の運命からは、多少とも超越してはいたようです。

         四

 擂粉木(すりこぎ)と擂鉢(すりばち)とを、件(くだん)の日蓮宗派に属するお寺の坊さんが恭しく捧げて、祭壇の前へ安置した時、端坐していた道庵先生が、おもむろにそれに一瞥(いちべつ)をくれて、
「すれましたかな」
「すれました」
 道庵先生は、ちょっと中指を、擂鉢の中へ差し入れてみました。
 汚ないことをする、味噌がすれたか、すれないか、それをここへ持ち出す坊さんも坊さんだが、それへ指先を突込んで、嘗(な)めてみようとする先生も先生です。
「ははあ」
 指先へつけたのを、篝火(かがりび)の火にかざして道庵が、ためつすがめつ眺めていますが、べつだん嘗めてみようとするのではないらしい。
「けっこうすれましたよ」
「よろしうござんすかね、塩梅(あんばい)は」
「まず、このくらいのところならよろしうござんしょう」
 道庵ほどになれば、嘗めてみないでも、眼で見ただけでも、味がわかるのかも知れません。
「にじむようなことは、ごわんすまいか」
「なあに大丈夫ですよ」
「分量は、このくらいあったら足りましょうでがんすかなあ」
「足りますとも、藤原の大足(おおた)りのたりたりで、余るくらいですよ」
「余りますか? そんならひとつ、先生、恐縮でがんすが、その余りでもって、唐紙(とうし)を一枚けえていただきてえもんでごわす」
「お安い御用だね、何なりとお望みなさい、こっちは、謙遜するほどの柄で無(ね)えんでげすからね」
と、道庵先生が答えました。
 どうも問答を聞いていると、さっぱり予想と要領が外(はず)れるのに困る。まず、すれましたかな、すれましたの挨拶は無事でしたが、次に、にじむようなことはごわすまいかが、少々オカしくなってくる。にじむ味噌と、にじまない味噌とあるのかしら。
 この辺は、味噌の名所だということだから、ところ変れば品変る方言も無いとはいえまいが、余ったら、それで唐紙を一枚けえてもらいてえという言い分はどうしてもわからない。
 味噌と唐紙とは、ついてもつかない取合せです。それを易々(やすやす)と請合った道庵先生の返答もいよいよわからないが、なあに、それは最初から、問題のすりばちの中をよく見ておきさえすれば、何のことはなかったのです。
 坊さんは味噌をするべきもの、擂鉢(すりばち)の中には味噌があるべきものと、前提をきめておいてかかったから、こんな行違いが生じたので、坊さんといえども、必ず味噌をするべきものではない。それは多数の坊さんの中には、味噌をする坊さんもあるにはあるが、全体の坊さんが、必ず味噌をするべきわけのものではないという物の道理と、それから擂鉢の中には、味噌を入れる擂鉢もあることはむろんであるが、擂鉢の全体が必ず味噌を入れなければならぬと規定すべきものではない。
 そこの融通が、淡泊にわかっていさえすれば何でもなかったのです――この場合、擂鉢に入れられたのは、味噌ではなくて墨汁でありました。味噌をするべき擂鉢で、臨時に墨をすっただけのことであります。
 それで一部分の事件が判明してきました。この坊さんが自分ですったか、また人にすらせたか、それはわからないが、これだけの墨汁を、ここに提供したのは、祭主たる道庵先生に、この墨でもって何かを書かせようとする予備行為でありました。
 そうでなければ、あらかじめ祭主側からお寺へ頼んでおいて、この墨汁を作らせた予備行為であります。
 それはどちらでもかまいません。墨汁そのものが、誂向(あつらえむ)きに、この場へ出来て来さえすれば滞りはないことでありますが、次の問題は、しからばこの墨汁を、何に向って、何物を書こうの目的に供するかであります。
 余りでもって住職のために、唐紙へけえてやることは先生の御承諾になっているところだが、余沢(よたく)でない、本目的に向っての擂鉢(すりばち)の墨汁は、果して何に使用するものか――
 時なる哉(かな)、宇治山田の米友が、二メートルの木の香新しい削り立ての木柱を軽々とかついで、この祭の座に姿を現わしたのは――

         五

 米友が距離に誤まられて、意外に時間をつぶしたことの申しわけをしているのを、道庵は空(くう)に聞き流し、それより道庵の揮毫(きごう)がはじまります。
 さいぜん、すり置かれた墨に、新たに筆を浸して、それをただいま、米友が運び来(きた)った二メートルの削り立ての木の香新しい木柱に向って、道庵先生が思案を凝(こ)らしました。
 事態が少しずつ、追々と分明になって参ります。竹藪(たけやぶ)の外にも、中にも、本尊が無いと心配した最初の杞憂(きゆう)もどこへやら、新たにこの木柱に向って、信仰の象徴が掲げられるわけですから、その現わす文字の如何(いかん)によって、今宵の祭典の理由縁起も分明になるわけですから、まあ暫く見ていて下さい。
 件(くだん)の木柱を、祭壇の前の程よきところへ寝かして、道庵はしきりに、文句の吟味と、字配りの寸法に、思案を凝らしているようでありましたが、並(な)みいる連中は、この老先生のお手のうちを拝見しようと息をこらして、固唾(かたず)を呑んでいるばかり。やがて道庵は墨痕あざやかに、すらすらと次の如く認(したた)めました。
「豊臣太閤誕生之処」
 この八文字が墨痕あざやかに認められたのを見ても、並みいる連中、うんともすんとも言いません。存外やるな! と、その書風に感心の色を現わしたものもなく、また、待ってましたとばかり、ひやかしを打込むものもありません。
 さてはこの先生のことだから、何を書き出して人の度胆を抜くか、いやがらせをやるか、とビクビクしていた者もなく、極めて常識的に出来上ったのが物足らないくらいのものです。
 そうしてこんどは側面を返して、それに年月日を書きました。
 これもまた極めて無事であります。
 それから念入りに裏面を返して、そこにまず「施主」の二字を認めて暫(しばら)く休み、次にやや小形の字画で、
「江戸下谷長者町十八文道庵居士」
と書き飛ばしたが、誰も驚きませんでした。
 それと押並べて、
「鎌倉右大将宇治山田守護職米友公」
と書きましたけれども、一人として度胆を抜かれたものもなければ、ドッと悪落ちも湧いて起りません。
 天下に、切っても切れない不死身(ふじみ)、洒落(しゃれ)てもこすってもわからない朴念仁(ぼくねんじん)、くすぐっても笑わない唐変木(とうへんぼく)、これらのやからの始末に困るのは、西郷隆盛ばかりではないらしい。
 さすが道庵の悪辣(あくらつ)も、この善良なる、平和の里の紳士淑女に向っては、施す術(すべ)がないようです。ただただ悪辣も、奇巧も、無智と親切という偉大なる力に、ぐんぐん包容されてしまって、件(くだん)の木柱は、敬虔(けいけん)なる態度で、お世話人衆の手によって運ばれ、そうして最初からの問題であった竹藪(たけやぶ)の中に持ち込まれると、そこにもう、あらかじめ、ちゃんとその木柱の根が納まるだけの穴が待っておりました。
 それへ恭(うやうや)しく木柱が立てられると、そこで祭りの庭のすべての体(てい)が整うてきたと共に、今宵の祭典の意義も充分に明瞭になりました。
 すなわち道庵と米友とが、仮りに施主となって、日本第一の英雄、豊臣太閤の誕生地を記念せんがためのお祭でありました。お祭でなければ供養でありましょう。供養でなければ施餓鬼(せがき)かも知れない。
 してみればこの地点こそは、日本一の英雄を産んだところに相違ない。そうだとすれば、他所であるべきはずはない、日本国東海道はいつのおわばりの、尾張の国愛知の郡、中村――の里。
 木曾でお目にかかった道庵主従、いつか知らず、海道方面へ出て来て、今宵は、ここでこういう催しをすることに相成っている。
 道庵先生が、いかなる動機で、こういう催しをするようになったか、それをよく聞いてみれば、必ずや、なるほどと頷(うなず)かれるに足るべき先生一流の常識的の説明が有り余るに相違ないが、それを聞いていた日には、夜が明けるに相違ない――
 とにかく現実の場合、祭典の体(てい)も整い、意義も分明してきて、さて改めて本格の儀式に及ぼうとする時、疾風暴雨が礫(つぶて)を打つ如く、この厳粛の場面に殺到して来たのは、天なる哉(かな)、命なる哉です。

         六

 疾風暴雨というのは、いよいよ、これから祭典も本格に入ろうとする時に、この場へお手入れがあったことです。
 ここは、尾州名古屋藩の直轄地ですから、お手入れも、たぶんその直轄地からの出張と思われます。今日今宵、この異体の知れぬ風来者によって、一種不可思議なる祭典が、この地に催さるるということを密告する者あってか、或いは最初から、嫌疑をかけてここまで尾行して来たか、そのことは知らないが、かねて林間にあって状態をうかがっていたことは確かです。だが、お手先もまた、この祭典が何のための、何を主体としての祭典だか、一向わからなかったことは、前に述べたと同じことの理由です。
 しかしながら、今や、鮮かに木柱が押立てられてみると、証拠歴然です。
 だいそれたこの風来者は、人もあろうに豊太閤の供養をしようというのだ。
 親類でも、縁者でもあろうはずのない奴が、官憲の諒解(りょうかい)もなく、英雄の供養をしようというのは生意気だ、油断がならぬ、危険思想にきわまったり、者共捕(と)ったという一言の下に、この場に疾風暴雨が殺到してしまった次第です。
 善良なる村の紳士淑女も、秀才も、涎(よだれ)くりも、木端微塵(こっぱみじん)でありました。周章狼狽(しゅうしょうろうばい)、右往左往に逃げ散ります、蜘蛛(くも)の子を散らすが如く。
 世話人たちは腰を抜かして、弁解の余裕がありません。日蓮宗のお寺に属する坊さんは、驚いて立ち上る途端に、せっかく丹念に擂鉢(すりばち)にすり貯めて、その余汁をもって、道庵先生の揮毫(きごう)を乞わんものをと用意していた墨汁のすりばちを踏み砕いてしまいました。そこで余汁をすっかり身に浴びてしまったのは、見るも無残のことであります。
 しかしながら、それらの災難も、道庵先生の受けた災難に比ぶれば、物の数ではありません。
 主催者であるが故(ゆえ)に、主謀者であり、危険思想家の巨魁(きょかい)と見做(みな)された道庵が、一たまりもなく捕手の手に引っとらえられ、調子を食って横面(よこっつら)を三ツ四ツ張り飛ばされ、両腕をだらりと後ろへ廻されて、身動きのできなくなったのは、ホンの瞬間の出来事でありました。
 祭壇に飾られた、田(たな)つ物、畑(はた)つ物、かぐの木の実は、机、八脚と共に、天地に向って跳躍をはじめました。
 ただ、問題の竹藪(たけやぶ)の中へ押立てられた木柱のみは、後生大事に――これは後日の最も有力な証拠物件となるのですから、汚損のないようにと抜き取られて、有合せの菰(こも)に包まれました。
 ところで、すべての人は逃げちりました。逃げ散ったものはお構いなし、すでにこの呑舟(どんしゅう)の魚であるところの道庵先生を得ているのだから――
「こいつは驚いた、こいつはたまらねえ」
 道庵は、やみくもに驚いてしまって、
「こいつはたまらねえ、これには驚いた」
と繰返して、ひとりで足をバタバタさせているほかには為さん術(すべ)を知りません。
 ようやくにして、次の言葉だけを歎願することができました。
「どうぞおてやわらかに願(ねげ)えてえものでがんす、借物ですからね、こう見えても、この烏帽子(えぼし)直垂(ひたたれ)は、土地の神主様からの借物でげすから――自分のものなら質の値が下ってもかまわねえけれど、借物だから、おてやわらかに願えてえもんでがんす」
 さすがに道庵先生は、江戸ッ子です。この場に及んでも、自己の一身上のための弁疏(べんそ)哀願は後廻しにして、まず借物にいたみのないようにと宥免(ゆうめん)を乞うのを耳にも入れず、
「たわごとを申すな」
と情け容赦もなく捕方は、ポカリと食わせます。
「こいつは驚いた、こいつはたまらねえ」
 道庵も混乱迷倒してしまいました。
 かかる折柄、米友が居合せなかったことの幸不幸は別として、米友は、さいぜん、木材を持ち来(きた)って一応の使命をおえた後に、程離れた世話人のところまで、風呂をもらいに行き、兼ねて夕飯の御馳走になっている時でした。

         七

 その晩のうちに、極めて無事に、名古屋の城下へ護送されて行く道庵と米友を見ます。
 名古屋の城下といっても、ここからは、僅かに一里余りの道のりですから、別段、トウマルカゴの用意も要らず、有合せの四ツ手駕籠(かご)の中で、祭典の前祝いの追加が、この時分になって利(き)き出したものか、道庵は護送の身を忘れていい気持になってしまいました。
 いい気持になって、ここではじめて道庵は、護送の役人を相手に、自分たちがこのたびの旅行の目的と、併せて、決して自分たちが危険人物でないということの弁明を試みました。
 その言い分を聞いてみるとこうです――
 上方(かみがた)へ行くについて、東海道筋は先年伊勢詣りの時に歩いたから、今度は中仙道筋を取ってみたこと、中仙道筋を通りながら、どうして、この東海のパリパリ、尾張名古屋の方面へ乗込んで来たかというに、そこにはそこで立派な名分があること。
 それは、東海道でも尾張の国は、中枢の国であって、この国を除(の)けて東海道は意味をなさないのに――東海道、東海道と、いっぱし海道をまたにかけたつもりの旅行者が、大部分は、この尾張の国の中心たる名古屋の地を通過していないこと。
 ことに道庵の日頃尊敬しておかざる(?)ところの先輩、弥次郎兵衛氏、喜多八氏の如きすら、図に乗って日本国の道中はわがもの顔に振舞いながら、金の鯱(しゃちほこ)がある尾張名古屋の土を踏んでいないなんぞは膝栗毛(ひざくりげ)もすさまじいや、という一種の義憤から、木曾道中を、わざわざ道を枉(ま)げてこの尾張名古屋の城下に乗込んで来たのは、単に道庵一個の私事じゃない、江戸ッ子の面目を代表して、かつは先輩、弥次郎兵衛、喜多八が、到るところで恥を曝(さら)しているその雪冤(せつえん)の意味もあるということ。
 単にそれだけではない、この尾張の国という国は、日本国の英雄の一手専売所であるということ。頼朝がここに生れ、信長が生れ、秀吉が生れた――日本の歴史からこの三人を除いてごらんなさい、あとはロクでもねえカスばかりとは言わねえが、日本の英雄の相場はここが天井だね。
 苟(いやしく)も日本国民として、また江戸ッ子の一人として、そういうエライ国の真中へ、一応の御挨拶に行かねえけりゃ、義理人情が欠けるという愛国心で、名古屋へ一旦は入ったけれども、その足で城下は素通りして、真先に、この英雄の中の英雄、豊太閤の生れ故郷というところへ御挨拶に来てみたのだ。
 来て見るとあの通りの有様で、村はあるにはあるが、銀杏(ぎんなん)もあることはあるが、英雄の誕生地というのがどこだか、石塔も無けりゃあ、鳥居も一本立っちゃあいねえ。これでは日本一の英雄に対する礼儀じゃあるめえ――あんまり情けなくなったから、我を忘れて道庵が、自腹を切って記念祭を催し、いささか供養の志を表してみようとしたまでだ。
 あれが無事に済んだら、その次は信長、その次は頼朝と溯(さかのぼ)って、いちいち供養をして行くつもりであったということ。
 聞いてみれば、エライ物好きのようだが、一応筋は立っており、当人も案外学者だと思わしめられるところもあり、そうして道庵の淡々として胸襟(きょうきん)を開いた話しぶりと、城廓を設けぬ交際ぶりに、護送の役人も感心してしまい、これは弥次郎兵衛、喜多八より役者がたしかに上だと思いました。少なくとも一種のキ印には相違ないが、そのキ印は、キチガイのキではなく、キケン人物のキでもなく、最も愛すべき意味の畸人(きじん)のキであることを、感ぜずにはおられませんでした。
 ただ役人を顰蹙(ひんしゅく)させるのは、この人物が、名古屋城下へ護送されることを物の数ともせず、ことに家老の平岩がどうの、成瀬がこうの、竹腰がああの、鈴木とは親類づきあいだのと、お歴々を取っつかまえて友達扱いにしていることだが、それも、秀吉や、信長を親類扱いにするほどのイカモノだから、こんな奴は早く城下へ連れて行って、体(てい)よく他国へ追放するに限ると思いました。
 かくてこの一行は、まだ宵のうち、無事に再び名古屋の城下へ送り込まれました。

         八

 尾張名古屋の城下へ足を入れたものは、誰もおおよそこの辺に留まって、お城の金の鯱(しゃちほこ)を眺めて行くのが例になっているから、その翌日の早朝に、旅の三人連れの者――うち二人は当世流行の浪士風のもの、他の一人は道中師といったような旅の者が、幅下新馬場(はばしたしんばば)の辻に立っていることも不思議ではありません。
 ただ朝とは言いながら、時刻が少々早過ぎるのと、そのうちの背の高い方の浪士が、あまり近く濠端(ほりばた)に進み過ぎていることと、それともう一つは、道中師風の若い奴が、従者にしてはイヤにやにさがっているのが気になります。濠端に進み過ぎた背の高い浪士が、
「おい、がんりき、尾張名古屋の金の鯱を今日は思い入れ眺めて行けよ」
 後ろを顧みて、道中師風の若いのにこう言いました。
 その面(かお)を見ると、これはこの土地では初めて見る南条力の面であります。南条があれば、その傍にあるのは、当然五十嵐甲子男でなければならぬ。そうして従者ともつかず、道づれともつかぬ、いやにやにさがった道中師風の若いのは、いま南条の口から呼ばれた通りがんりきといって、名代のやくざ者。
 ここで、南条、五十嵐と、がんりきというやくざ者を見ることは、小田原城下以来であります。
 濠端に進み過ぎている傍まで、五十嵐が進み寄って、二人は金の鯱を横目に睨(にら)んで立っている。
 わっしゃあ、お前さん方の従者じゃあありませんよ、といったような面をして、こちらに控えてやにさがっているがんりきのやくざ野郎は論外として、南条、五十嵐の二人を、こうして城濠のほとりに立たせて見ると、どうしても尋常一様の旅人ではなく、一種不穏の空気が、二人の身辺から浮き上るのを如何(いかん)ともすることができません。
 曾(かつ)て、甲府の城をうかがって、囚(とら)われの身となったのもこの二人でした。
 相州荻野山中(そうしゅうおぎのやまなか)の大久保の陣屋を焼いたのも、この連中だとはいわないが、この二人が、主謀者の中の有力なものとして、濃厚なる嫌疑をかけられても逃れる道はないでしょう。
 単にそれは、ここやかしこに限らず、この二人は、全国的に要害の城という城には特に興味を持っており、城を見ると、何かしら謀叛気(むほんぎ)を湧かさずにはおられないかの如く見える。そうして、現われたところの前二例によって見ても、この二人が睨(にら)んだ城のあとには、多少共に、風雲か、火水かが捲き起らないことのないのを以て例とします。
 だが、このところと荻野山中あたりと同日に見られてはたまらない。七百万石の力を以て築き成された六十万石の金鱗亀尾蓬左柳の尾張名古屋の城が、たかが二人の浪士づれに睨まれたとて、どうなるものか。その辺は深く心配するには足りないが、おりから早暁、あたりに人の通行の無きに乗じ、城を横目に睨み上げて、南条、五十嵐の両名が、高声私語する節々(ふしぶし)を聞いていると、金城湯池(きんじょうとうち)をくつがえすような気焔だけはすさまじい。
「家康が、特にこの名古屋の城に力を入れたのは、何か特別に家康流の深謀遠慮があってのことに相違ない」
「僕は、さほど深謀遠慮あっての取立てとは思わない、単に、清洲(きよす)の城の延長に過ぎないではなかろうかと思う」
「それだけじゃあるまい」
「附会すればいくらでも理窟はつくが、清洲なら清洲で済むのを、あそこは水利が悪い、大水の時には、木曾川が逆流して五条川が溢(あふ)れる、といったような不便から、最寄(もよ)りの地を物色して、ここへ鍬入(くわい)れをしただけの理由だろうと思う、ここでなければならんという要害の地とも思われないね」
「織田信長が生れたところが、この城の本丸か、西丸あたりにあたるというじゃないか。そうしてみると、やっぱり天然に、大将のおるべき地相か何かが存在していたものかも知れない」
「いずれ、名将や、名城が出現するくらいの土地だから、何ぞ佳気葱々(かきそうそう)といったようなものが、鬱勃(うつぼつ)していたのだろう」
「しかし、家康のことだから、ここを卜(ぼく)して新藩を置くからには、やっぱり相当の深謀遠慮というやつがあり、この城地の存在に、特別の使命が課せられていると見るのが至当だ。太閤の大坂城から奪って来た名宝という名宝は、たいてい江戸までは持って行かないで、この尾張名古屋の城に置き残してあるということだ。その辺から見ても、家康の心中には、何か期するところがあったに相違ない。一朝天下が乱れた時に、どんなふうにこの城が物を言うか、それはこうして、金の鯱を眺めていただけではわからない」
「もとより、家康の心事もわからないが、あの時に進んで主力となって、この城を築き上げた加藤肥後守の態度もわからないものだ。そこへ行くと福島正則の方が、率直で、透明で……短気ではあるが可愛ゆいところがあって、おれは好きだ」
「うむ、あれは清正が、毒饅頭(どくまんじゅう)を食いながらやった仕事だから、一概に論じてはいけない」
 南条は感慨無量の態(てい)。
 そこで暫く途切れた二人の会話の後ろには、名城取立て当時の歴史と、人物とが、無言のうちに往来する。
 慶長十五年六月二日より事始め。家康の命によって、その第九子義直のために、加賀の前田、筑前の黒田、豊前(ぶぜん)の細川、筑後の田中、肥前の鍋島及び唐津の寺沢、土佐の山内、長門(ながと)の毛利、阿波(あわ)の蜂須賀、伊予の加藤左馬之助、播磨の池田、安芸(あき)の福島、紀伊の浅野等をはじめとして、肥後の加藤清正に止(とど)めをさし、西国、北国の大名総計六百三十八万七千四百五十八石三斗の力が傾注されているこの尾張名古屋の城。
 なかにも加藤肥後守清正は、父とも、主とも頼みきった同郷の先輩豊太閤歿後の大破局の到来を眼前に見ながら、その遺孤を擁(よう)して、日の出の勢いの徳川の息子のために、自ら進んでその天守閣を一手に引受けて、おのずから諸侯監督の地位に立ちつつ、一世一代の花々しい工事に奉仕したその心事。
 豊臣勢力をして、その犠牲を尽さしめた徳川の城。
 ここに慶応某の月、今や歴史は繰返して、落日の徳川の親藩としてのこの名城の重味やいかに。
 存在の価値の評価は如何(いかん)。
 このほどの、長州征伐の総督の重任を蒙(こうむ)ったのは、この城の城主、尾張大納言徳川慶勝ではないか。
「どうだ、この城を築く時の加藤肥後守の立場と、最近の長州征伐を仰せつけられた尾張殿の立場と、ドコか共通したところはないか」
「そうさ、今の尾張公は、加藤清正ほどの英雄でない代り、まだ、あれほど突きつめた悲壮な境遇にも立っていない。そもそも、長州征伐は、江戸幕府というものから見れば大醜態だが、尾張藩というものから見れば、成功の部だとされている」
「そうさ、第一次の長州征伐に、一兵を損せずして平和の局を結ばしめたのを成功と見れば、それは尾張藩の成功に違いないが、あれが手ぬるいから、第二の長州征伐が持上って、徳川方があの惨憺(さんたん)たる醜態を曝露(ばくろ)したと見れば、最初の成功はマイナスだ」
「だが、ともかくも、最初の長州征伐の成功を、成功として見れば、これは尾張藩の成功に違いない。まして昔の加藤清正のように、敵対勢力のために、悲壮な心で、火中に栗を拾わねばならぬ羽目(はめ)とは違い、宗家のために、兵を用いて功を奏したという面目になるのだ。そうして、第二次の長州征伐の失敗というのも、失敗の原因は、徳川宗家というものの知恵が足りなかった、威力が足りなかったという結果だから、尾州だけを責める者はない。第一次の長州征伐の成功を、尾州の成功として……」
「まあ待ち給え、君は、第一次の長州征伐の成功成功と言いたがるが、あれは尾張藩の功ではないよ、薩摩の西郷が、中に立って斡旋尽力した賜物(たまもの)である。毛利父子を恭順(きょうじゅん)せしめ、三家老の首を挙げて、和平の局を結ばしめたのは、実は薩摩の西郷吉之助があって、その間(かん)に奔走周旋したればこそだ、尾張藩の功というよりも、西郷の功だ」
「うむ、一方には、そう言いたがる奴もあるだろうが、尾張藩のある者から言わせると、西郷などは眼中にない、もとより、和戦の交渉一から十まで尾張藩一箇の働きで、長州の吉川監物(きっかわけんもつ)に三カ条を提示して所決を促したのも、西郷でも何でもない、実は犬山成瀬の家老八木雕(やぎちょう)であったのだ。近頃は薩摩の風向きがいいものだから、その薩摩を背負って立つ西郷という男が、めきめきと流行児になっているから、なんでもかでも西郷に担(かつ)ぎ込んで、彼をいい子にしてしまいたがるといって、憤慨している者もある」
「つまり、それも一方から見れば、この城に、意気と、人物がないという証拠になる。もしこの城に、会津ほどの気概があり、西郷ほどの人物がいたら、金の鯱(しゃちほこ)がまぶしくって、誰も近寄れない、それこそ天下の脅威だ」
「ところが、この城の金の鯱があんまりまぶしくない。瘠(や)せても、枯れても、徳川親藩第一の尾州家――それが、この城を築くために甘んじて犠牲の奉公をつとめた落日の豊臣家時代の加藤清正ほどの潜勢力を持合せていないことは、尾州藩のためにも、天下のためにも、幸福かも知れないのだ」
「そうさ、頼みになりそうでならない、その点は、表に屈服して、内心怖れられていた、当時の加藤清正あたりの勢力とは、比較になるものではない」
「思えば、頼みになりそうでならぬのは親類共――水戸はあのザマで、最初から徳川にとっては獅子身中(しししんちゅう)の虫といったようなものだし……紀州は、もう初期時代からしばしば宗家に対して謀叛(むほん)が伝えられているし、尾張は骨抜きになっている」
「かりに誰かが、徳川に代って天下を取った日には、ぜひとも、加藤肥後守清正の子孫をたずね出して、この名古屋城をそっくり持たせてやりたい」
 こうして南条と、五十嵐とは、城を睨(にら)みながら談論がはずんで行き、果ては自分たちの手で、天下の諸侯を配置するような口吻(こうふん)を弄(ろう)している時、少しばかり離れて石に腰をおろし、お先煙草で休んでいたがんりきの百蔵が、思いきった大きなあくびを一つしました。
 そのあくびで、二人の経綸(けいりん)が興をさまし、南条が苦々しい面(かお)に軽蔑を浮べて、こちらを向き直るところを、がんりきがまた思いきって両手を差し上げて伸びを打ち、
「先生、そんな英雄豪傑のちんぷんかんぷんは、わっしどもにゃあわからねえ。下町の方へおともがしてえもんでございますね、そうして百花(もか)でもなんでもかまわねえから、名古屋女てえやつをひとつ、拝ませてやっていただきたいもんでございます」
 それを聞いて南条が、
「は、は、は、英雄豪傑は貴様にはお歯に合うまい、熱田のおかめか、堀川のモカといったところが分相応だろう」
「え、え、その通りでございます。何でもようござんすから、早くその名古屋女のお尻の太いところをひとつ、たっぷりと見せてやっていただきたいもんでございます」
「まあ、待っていろ、女はあとでイヤというほど見せてやるから、もう少し念入りに、あの金の鯱(しゃちほこ)を見て置け、百」
「金の鯱なんざあ、さっきから、さんざっぱら眺めているんでございます、いやによく光るなあ、と思って眺めているんでございます、つぶしにしてもたいしたもんだろう、と考えながらながめているんでございますが、いくらになったところで、こちとらの懐ろにへえるんじゃねえとも考えているんでございます、いくら金であろうと、銀であろうと、眺めるだけじゃ、げんなりするだけで、身にも、皮にも、なりっこはありませんからなあ」
「は、は、は、弱音を吹いたな、がんりき、実はお前をここまで引張って来たのは、我々が英雄豪傑の講釈をして聞かせるためではないのだ、お前に、あの金の鯱を拝ませてやりたいばっかりに連れて来たのだ」
「そりゃ、有難いようなもんでございますが、もう金の鯱も、このくらい拝ませられりゃあ満腹なんでござんすから、そのモカの方をひとつ、見せてやっていただきてえと、こう申し上げるんでございます」
「まだまだ、貴様、そのくらいでは、あの金の鯱が睨(にら)み足りない」
「このうえ睨んだ日には目が眩(くら)んじまいますぜ、あれあの通り、朝日がキラキラとキラつきはじめました、綺麗(きれい)には綺麗だけれど、あんなのは眼のためにはよくありません、毒です」
「なあに、そんなことがあるものか、貴様の眼のためにはいっちよくきく薬だろう、さあ、もう一番、うんと眼を据(す)えて、あの金の鯱を拝め」
「もうたくさんでございますってことよ、眼を据えて見たって、すがめて見たって、あれだけのものじゃございませんか」
「ちぇッ、日頃の口ほどにない、たあいのない奴だ、いったい、がんりきともあるべき者が、尾張名古屋の金の鯱を見るのに、そんな眼つきで見るという法はあるまい」
「だって、旦那、こうして見るよりほかには、見ようは無(ね)えじゃありませんか」
「もっと眼をあいて見ろ」
「眼をあけろったって、これよりあけやしませんよ」
「そんなことで見えるものか」
「見えますよ……」
「なあに、そんなことで見えるものか、さあ、こうして頭を真直ぐに、性根(しょうね)を臍(へそ)の上に置いて、もう一ぺん眼を据えて、金の鯱を拝め」
「そんなことをなさらないでも、がんりきは盲目(めくら)じゃございませんぜ、これでも人並すぐれた眼力(がんりき)を持った百でござんすぜ」
「そのがんりきを見直せ、あの天守は、下から上まで何層あると思う――」
「そりゃ、下の石畳から数えてみりゃ五重ありますよ、その五重目の屋根のてっぺんに、金の鯱が向き合って並んでいやすよ、南が雌で、北が雄だということでござんす、ああ見えても、雄が少し小(ちい)せえんだと聞きました、そんなことよりほかには、くわしいことはあんまり存じませんね」
「よしよし、それはその辺でいい。それから一つ、引続いてがんりき、貴様に少したずねたいことがあるのだ」
「改まって、何でございますか」
「貴様は、それ、柿の木金助のことを詳しく知ってるだろう」
「え、なんですって?」
 がんりきの百蔵は、空(そら)とぼけたような声をして聞き耳を立てながら、草鞋(わらじ)の爪先で、ポンと煙管(きせる)の雁首(がんくび)をたたく。
「柿の木金助の一代記を、お前は詳しく知っているだろうな、がんりき」
「柿の木金助ですって、そりゃ何でございます、ついお見それ申しましたが」
「知らんのか」
「え、存じません、一向……」
「商売柄に似合わねえ奴だ、貴様は」
 南条にさげすまれて、がんりきは一層とぼけ、
「そうおっしゃられちまっては一言もございません、何しろがんりきは、御覧の通りの三下奴(さんしたやっこ)でございまして、先生方のように、字学の方がいけませんから、せっかくのお尋ねにも、お生憎(あいにく)のようなわけでございまして……」
「字学の方じゃないのだ、蛇(じゃ)の道は蛇(へび)といって、貴様なんぞは先刻御承知だろうと思うから、それで尋ねてみたのだ」
「ところがどうも、全く心当りがねえでございますから、お恥かしい次第でございます」
「ほんとうに知らねえのか、のろまな奴だな」
「これは恐れ入りますな、知らずば知らぬでよろしい、のろまは少し手厳しかあございませんか。いったい何でございます、その柿の木てえ奴は……」
 その時に、南条に代って五十嵐甲子男が、いまいましがって、
「ちぇッ、知らざあ言って聞かせてやろう、柿の木金助というのは、あの金の鯱を盗もうとして、凧(たこ)に乗って宙を飛ばした泥棒なんだ」
 そこでがんりきの百蔵は、
「ははあ……」
と、仔細らしく頤(あご)を二つばかりしゃくり、
「なるほど、なるほど、そんな話も聞きましたねえ、凧に乗って尾張名古屋の金の鯱を盗みに行った奴があるてえ話は、餓鬼(がき)の時分からずいぶん聞いてはいましたが、そいつがその柿の木泥棒という奴でござんしたかい」
「柿の木泥棒と言う奴があるか、柿の木金助だ、貴様にでも聞いたら、少しはわかるかと思ったのだ。あの柿の木金助という奴は、どういう思い立ちで、あの金の鯱(しゃちほこ)を盗もうという気になったのか、またその目的を達するために使用した凧(たこ)というのが、どのくらいの大きさで、どういう仕掛で、どうしてそれに乗り、それを揚げる奴がどうしたとか、こうしたとかいうことを、詳しく知りたいがために、貴様をワザワザここまで連れて来たのだが、こっちに教えられてアワを食うような間抜けじゃあ、話にならん――」
「どうも相済みません、子供の時分から、柿の木から落っこちると中気になる、なんぞとオドかされていたものですから、柿の木の方にあんまりちかよらなかったせいでござんしょう。ですが旦那、その凧に乗ったてえ奴は、作り話じゃございませんかね」
「いいや、まるっきり作り話とは思えないよ、事実、三州からこっちの方へかけては、大きな凧が流行(はや)っているし、岡山の幸吉ゆずりの工夫者もいるという話だからなあ」
「ですけれど、凧に乗って、金の鯱を盗もうなんかと、そいつぁ、ちっと……かけねがあり過ぎやしませんかね」
「がんりき、貴様には、そんな芸当はできないか。凧に乗らないまでも何とかして、あの金の鯱に食いついてみてえというような了簡(りょうけん)は起らないか。今いう通り見ているだけではいかに金の鯱でも腹はくちくならねえ、懐ろも温かくはなるまい」
「は、は、は、は」
 がんりきが遠慮なく、高笑いをしてしまったから、五十嵐甲子男が、
「何がおかしいのだ」
「だって、先生、あれこそ、ほんとうに高根の花でござんすよ」
「貴様には、手が出せないというのか」
「エエ、あればっかりは手が届きませんねえ」
「いよいよ意気地のない奴だ、柿の木金助の爪の垢(あか)でも煎(せん)じて呑むがいい」
「旦那、そりゃ今いう通り、柿の木泥棒のことは作り話ですよ、そりゃあ、柿の木泥棒とかなんとかいう奴があるにはあったんでしょうがね、そいつへ持って行って、誰かが弓張月をくっつけたんですね。そんな作り話を引合いに、がんりきのねぶみを比較していただいちゃあ、迷惑千万でございますね」
「三田の薩摩屋敷には、慶長元和、太閤伝来の大分銅(だいふんどう)を目にかけて、そいつを手に入れようと江戸城の本丸へ忍びこんだ奴がいる、できてもできなくても、盗人冥利(ぬすっとみょうり)に、そこまで野心を起すところがエライ。貴様なんぞは、金の鯱を拝ませると、見ただけで眼がつぶれただけならいいが、腰まで抜けてしまいやがった」
「けしかけちゃいけません、旦那」
「けしかけたって、抜けた腰が立つ奴でもあるまい、まあ腰抜けついでに、見るだけでももう少し丹念に金の鯱を見ておけ。どうだ、朝日にかがやいて、いよいよ光り出してきたぞ、まぶしいなあ。初雪やこれが塩なら大儲(おおもう)け――という発句(ほっく)を作った奴があるが、あの鯱なんぞは、全部が本物だから大したものじゃないか、がんりき」
「ほんとうにムクでござんすかねえ。ムクは評判だけで、実はメッキだってえじゃありませんか」
「ばかを言え、南の方の奴は高さが八尺一寸、まわりが六尺五寸、鱗(うろこ)が一枚七寸五分から六寸五分……耳が一尺七寸五分といった調子で、それに準じて、一枚としてムクを使ってないのはない」
「本当にムクなら大したものでござんすが、割ってみなけりゃ何とも言えますまい、金ムクと思って、中からあんこが出たりなんぞしちゃあ、あーんのことだ」
「つまらない洒落(しゃれ)を言うな、あれはみんな本物だ」
「どうですかね、あなただって、見本を一枚取寄せて、削って御覧なすったわけでもござんすまい。それにあの通り、金網が張ってあるじゃござりませんか」
「あれは、例の柿の木金助が取りに行くようになってから、あの金網を張ることにしたのだ」
「へん、そうじゃござんすまい、鳩が巣を食ったり、野火の燃えさしをくわえて来たりなんぞするものですから、火事をでかすとあぶないから、そこであの金網を張ったんだと、こちとらは聞いておりましたよ。まあ、何と先生たちがおっしゃいましても、がんりきはやりませんよ、はい、腰ぬけとおさげすみになっても、苦しうございません」
「意気地なしめ!」
「へ、へ、へ、その辺は意気地なしで納まっていた方が無事でございますが、納まっていられねえところにがんりきの持って生れた病というやつがございますから、その方でたんのうを致したいと、こう考えています。金の鯱はもう満腹でございますが、実のところ、がんりきは、そのかたかたのほうにはかつえきっておりますよ。先生方は先生方で、何ぞというとがんりきを煽(おだ)ててはダシに使おうとなさるが、がんちゃんの方はまたがんちゃんの方で、旦那方の御用の裏を行って、いいことをしてみてえという野心があればこそでござんすな。再三申し上げる通り、金の鯱は、こうして目で見ていてさえげんなりしてしまっていますから、どうぞおしまい下さってお慈悲にひとつ、そのかたかたのほうで、がんりきのお歯に合うところを一つ呼んでいただきたいもんで……実はお恥かしい話ながら、こう見えてもがんりきは、江戸方面は別と致しまして、京大阪のこってりしたのにいささか食い飽きの形ですが、まだその、名古屋大根の水ッぽいところを、一口も賞翫(しょうがん)したことがねえんでございます、宮重大根(みやしげだいこん)の太った白いところの風味は、また格別だってえ話じゃありませんか。ああ涎(よだれ)が……」
「たわけ者!」
 五十嵐から小突きまわされて、がんりきが、
「へ、へ、へ、旦那方は女の事と言いますてえと、よく、がんりきを小突き廻したりなんぞなさるが、失礼ながら、旦那方だって聖人様ではござんすまい、昨晩も熱田の宿で聞いていりゃあ、ずいぶん、隅には置けねえお話を手放しでなさりやす……曲亭の文にも、人ノ家婦ニ姦淫(かんいん)スルコト他邦ニモアリトイエドモ、コノ地最モ甚(はなは)ダシ、とあるとか、名古屋ノ女、顔色ハ美ナルモ腰ハ大イニ太シ、とかなんとか、名古屋の女のこってりした風味をそれとなく、がんりきの前でにおわして下さるなんぞはいけませんよ、お城の金の鯱を見せてけしかけなさるよりも、まだよっぽど罪が深いんでござんすぜ」
 こんなふてくされを言いながら、二度目の目つぶしを用心して、がんりきが、素早く身をかわしてしまう。

         九

 この晩、二の丸御殿の長局(ながつぼね)で、奥女中たちがかしましい。
 誰いうとなく、この名古屋城の城内と城下とを通じて、第一等の美人は、さあ、どなたでしょう――今晩ここで、その極(きわ)めをつけてしまおうではありませんか。
 ようござんしょう、至極賛成でございますね。ごらんなさい、雨が降って参りましたよ、あつらえ向きじゃありませんか、雨夜(あまよ)の品さだめ――
 雨は、この時にはじめて降り出したのではありません、前津小林(まえつこばやし)の方から降り出して来て、宵の口から、もう御深井(みふかい)の大堀をぬらしているのです。
 そうですね、いつぞやも御天守の初重(しょじゅう)で、お宿直(とのい)の方々が、その品さだめで鶏(とり)が啼(な)いてしまったそうです。今晩は夜が明けてもかまいませんから、その極(きわ)めをつけておいて、後日このことでは、誰にも口を開かせないようにしようではありませんか。
「賛成、賛成、大賛成ですね」
 そこで、奥女中たちの選挙がはじまる。
 城内と城下とを通じての美しいほうでの第一人者――という名題(なだい)にはなっているが、ここでは、どうしても城下は眼中に置かれません。
 城下の町人のうちでも、それといえば誰も頷(うなず)くほどの者がいくらもあるに相違ないが、ここでは勢い、どうしても城内の、上は家老格から、下は軽輩の家族のみに限られるようになって、選定の標準が偏してくるのは、是非もないことでしょう。
 つまり、最初は、名古屋城の城内はもとより、城下町外(はず)れに到るまで、家格と、経歴とを論ぜず、美の一点張りで、普通選挙を行うつもりだったのでしょうが、おのずから眼界の限られている人たちの選挙ですから、城内の、それも自分たちのほとんど身の廻りの範囲にだけしか、取材が及ばないのも、やむを得ないことでしょう。
 権田原(ごんだわら)の奥方は、美人でいらっしゃるには相違ないが、権があり過ぎて親しみがない。村松のお姫様は、行末立派なものにおなりなさるに相違ないが、お年が十五ではねえ――鉄砲頭磯谷矢右衛門殿の女房は、廓(くるわ)にもないという噂(うわさ)ですけれど、少し下品じゃありませんか。お船方の綾居殿はキリリとしておいでなさるが、額つきが横から見るといけませんよ。お旗奉行の御内儀は、お色が黒い。お色の黒いのが悪いとは言わないけれど、浅黒いのにも、とてもイキなのがありますけれど、第一等の標準に置くには、やっぱり、色の白いということを条件に置かなければなりませんわね――そういえば、あの平井殿のお娘御も、小麦肌でいらっしゃる――丸ぼちゃと、瓜実(うりざね)と、どちらを取りましょう。つやつやした髪の毛では、あの塩川の奥様が第一等だそうですけれど、生え際に難がありますわね。若宮八幡の宮司(ぐうじ)の娘さん、とてもすっきりしているそうですが、お侠(きゃん)で、人見知りをしないそうです。大林寺の裏方は、もうちょっと背が高くなければいけません……
「皆さん、無駄だから、そんなついえな評定はもうおやめなさい。美人の相場だって、そう一年や二年に変るものじゃありませんよ。聖人というものは千年に一度、天成の英雄と、美人とやらは、百年に一人か二人――しか生れるものじゃありませんから、相場はきまったものでございますよ」
 最初から、若い者たちの、やかましい品定めを冷淡にあしらって、何とも言わなかった中老の醒(さめ)ヶ井(い)が、はてしのない水かけ論に、我慢のなり難い言葉で、こう言い出しました。
「おや、醒ヶ井様、何をおっしゃいましたか」
「天成の英雄と、美人というものは、百年に一人か二人――しか生れるものじゃありませんから、一年や二年に相場が狂うはずはありませんね、ですから、二と三は皆様の御随意にお選びなさい、一は動かすことはなりませんよ」
「一は動かせないとおっしゃるのですか」
「つまり、名古屋第一等の美人の極めは疾(と)うの昔、五年前に済んでいますからね」
 醒ヶ井の権高い言いがかりと、五年前という言葉が、せっかくの一座の意気込みを、くじいてしまいました。
「それは、どなたでございましたか知ら」
「銀杏加藤(ぎんなんかとう)の奥方が、名古屋第一ということに極めがついていますのよ、五年前――ちょうど、こんな夜さりの品定めで、皆さんの評定がそこに定まって、どなたも異存がありませんでした……」
「でも、それは、五年前のお話じゃありませんか……」
と、初霜というのが少しばかり張り合う。醒ヶ井は決して負けてはいない。
「だから、言うじゃありませんか、第一の位は、そう一年や二年に変るものではないと。わたしから言わせると、やっぱり今日でも、銀杏加藤の奥方につづく二と三はありますまいね。でも、それではあんまり興が無いから、仮りに二と三をつづけることにして、お選びなさい」
 そこで、初霜もだまってはいない。
「それはそうかも知れません。ですけれども、それはやっぱり五年前の番附で、あれから新顔が出ないとも限りませんもの。よし出ないにしたところで、銀杏加藤(ぎんなんかとう)の奥方様は、もうこの名古屋にはいらっしゃいません」
「おや――あの奥方は名古屋にいらっしゃらない? でも、御良人も、お屋敷も、変りはないのに、江戸への御出府や、一時の道中は、人別(にんべつ)の数には入りませんよ」
「ええ、名古屋にもいらっしゃいません、お江戸へもおいでになっていらっしゃるのではございません」
「では、お亡くなりになったの?」
「いいえ……」
「どうしたというんでしょうねえ」

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