大菩薩峠
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著者名:中里介山 

         一

 武州沢井の机竜之助の道場に、おばけが出るという噂(うわさ)は、かなり遠いところまで響いておりました。
 ここは塩山(えんざん)を去ること三里、大菩薩峠のふもとなる裂石(さけいし)の雲峰寺(うんぽうじ)でもその噂であります。
 その言うところによると、この間、一人の武者修行の者があって、武州から大菩薩を越え、この裂石の雲峰寺へ一泊を求めた時に、雲衲(うんのう)が集まっての炉辺(ろへん)の物語――
 音に聞えた音無(おとなし)の名残(なご)りを見んとて、沢井の道場を尋ねてみたが、竹刀(しない)の音はなくして、藁(わら)を打つ男の槌(つち)の音があった。
 昔なつかしさに、その道場に一夜を明かしてみたところが、鼠のおばけが出たということ。木刀を取り直して打とうとした途端、その鼠の顔が、不意に、馬面(うまづら)のように大きくなったということ。
 そこで、イヤな思いをして、翌日は早々、御岳山に登り、御岳の裏山から氷川(ひかわ)へ出で、小河内(おごうち)で一泊。小河内から小菅まで三里、小菅からまた三里余の大菩薩峠を越えて、あの美しい萱戸(かやと)の長尾を通って、姫の井というところにかかると、そこでまた、右の武者修行が、ゾッとするものを一つ見たということであります。
 古土佐(ことさ)の大和絵にでもあるような、あの美しいスロープの道を半ばまで来た時分。俗にその辺は姫の井といって、路傍には美しい清水が滾々(こんこん)と湧いている。
 朝は小河内を早立ちだったものですから、足の達者な上に、気を負う武者修行のことで、ここを通りかかった時分が日盛りで、ことにその日は天気晴朗、高山の上にありがちな水蒸気の邪魔物というのがふきとったように、白根、赤石の連山までが手に取るように輝き渡って見えたということです。それで、その、青天白日の六千尺の大屏風(おおびょうぶ)の上を件(くだん)の武者修行の先生が、意気揚々として、大手を振って通ると、例の姫の井のところで、ふいにでっくわしたのは、蛇(じゃ)の目の傘をさした、透きとおるほどの美人であったということですから、聞いていた雲衲(うんのう)も固唾(かたず)をのみました。
 武者修行も、実は、そこで度胆(どぎも)を抜かれたということであります。
 第一、前にもいった通りの青天白日の下に、蛇の目の傘をさして来るということが意表でありますのに、どこを見ても連れらしい者は一人もなく、悠々閑々(ゆうゆうかんかん)として、六千尺の高原の萱戸(かやと)の中を、女が一人歩きして来るのですから、これは、山賊、猛獣、毒蛇の出現よりは、武者修行にとっては、意表外だったというのも聞えないではありません。
 また、どうしても、細い萱戸の路で、摺(す)れちがわなければ通れません。
 ところが右の蛇の目の美人は、あえて武者修行のために道を譲ろうともせずに、にっこりと笑って、自分を流し目に見たものですから、武者修行が再びゾッとしました。
 こいつ、妖怪変化(ようかいへんげ)! と心得たものの、やにわに斬って捨てるのも、うろたえたようで大人げない。一番、正体を見届けて、その上で、という余裕から来る好奇(ものずき)も手伝ったと見えて、その武者修行が、
「どちらからおいでになりましたな」
と女に向ってものやわらかに尋ねてみたものです。そうすると女は、臆する色もなく、
「東山梨の八幡村から参りました」
 ハキハキと答えたそうです。
「ははあ……そうして、どちらへおいでになりますか」
 再び押返して尋ねると、女は、
「武州の沢井まで参ります」
「沢井へおいでなのですか」
 武者修行は、わが刃(やいば)を以て、わが胸を刺されるような気持がしたそうです。
「はい」
 女は非常に淋しい笑い方をして、じっと自分の懐ろを見入ったので、武者修行は、
「拙者もその沢井から出て参りましたが、あなたはその沢井の、どちらへお越しです」
 三たび、その行方(ゆくえ)を尋ねました。
「沢井の、机竜之助の道場へ参ります」
「え?」
 どうも一句毎に機先を制せられるようになって、武者修行は、しどろもどろの体(てい)となりましたが、
「あなたも、沢井の机の道場においでになりますのですか……実は拙者も、昨日あの道場から出て参りました」
「おや、あなたも沢井からおいでになったのですか。いかがでございました、あの道場には、べつだん変ったこともございませんでしたか」
「イヤ、べつだん変ったことも……」
「わたしも久しく御無沙汰をしましたから、これから出かけてみるつもりでございます、皆様によろしく……」
といって、女は蛇の目の傘をさすというよりはかぶって、また悠々閑々として、萱戸(かやと)の路を行きかかりますから、暫くは件(くだん)の武者修行も、呆然(ぼうぜん)としてその行くあとを見送っていたということです。しかし、やがて気がついて、後ろから呼び留めて言いました、
「もし……」
 けれども、蛇の目に姿を隠した女は、再び振返ってその面(かお)を見せようとはしないで、
「はい……」
 返事だけが、やはり透きとおるような声であります。
「あなたは、お一人で、その八幡村から、これへおいでになったのですか」
「はい……」
「して、またお一人で、これから武州沢井までお越しになるのですか」
「はい……」
 武者修行は、そこでもう追いすがる勇気も、正体を見届けくれんの物好きも、すっかり忘れてしまっていたそうです。
 その時、青天白日、どこを見ても妖雲らしいもののない、空中がクラクラと鉛のようなものに捲かれて、何か知らんが圧迫を感じたのが、自分ながら歯痒(はがゆ)いと言いました。
 そのうちに、右の女は榛(はん)の木の蔭に隠れて見えなくなってしまい、自分は早くも長兵衛小屋の下にたたずんでいたと言います。
 雲峰寺の炉辺(ろへん)で、雲衲(うんのう)たちに、武者修行がこの物語をすると、雲衲たちも興に乗って、なお、その女の年頃や、着物や、髪かたちなどを、念を押してみたけれども、本来、衣裳物の目ききなどにはざっぱくな武者修行のことであり、いちいち分解的に説明してみろといわれて、甚(はなは)だ困惑の体(てい)であります。ただ一言、透きとおるような美人、という形容のほかには持ち合せないのが、かえって一同の想像の範囲を大きくし、それは年増(としま)の奥様風の美人であったろうというようにも見たり、また妙齢の処女だろうと見立てるものもあったり、その衣裳もまた、曙色(あけぼのいろ)の、朧染(おぼろぞめ)の、黒い帯の、繻子(しゅす)の、しゅちんのと、人さまざまの頭の中で、絵を描いてみるよりほかはないのでありました。
 ほどなく、この炉辺の会話には、真と、偽と、事実と、想像との、差別がつかなくなりました。仏を信ずるものは往々、魔を信じ易(やす)く、真を語るには仮を捨て難く、事実の裏から想像をひきはなすことは、人生においてなし得るところではないと見えます。
 右の武者修行の現に見た物語を緒(いとぐち)として、それから炉辺で語り出されるおのおのの物語は、主として甲州裏街道に連なる、奇怪にして、荒唐にして、空疎にして、妄誕(もうたん)なる伝説と、事実との数々でありましたが、この人たちは皆それを実在として、極めてまじめな態度を以て取扱っているのであります。
 これはあながち笑うべきことでも、侮(あなど)るべきことでもありません。つい近代までの学者は、精苦して八十幾つの元素を万有の中から抽(ぬ)き出してみたが、電子というものが出てみると、その八十幾つの元素がことごとくおばけとなってしまいました。
 しかもその電子の、過去と、未来とは、白昼の夢のわからない如く、わからないのであります。

         二

 次にその夜の物語。大菩薩峠伝説のうちの一つ――
 富士の山と、八ヶ岳とが、大昔、競争をはじめたことがある。
 富士は、八ヶ岳よりも高いと言い、八ヶ岳は、富士に負けないと言う。
 きょう、富士が一尺伸びると、あすは八ヶ岳が一尺伸びている。
 この両個(ふたつ)は毎日、頭から湯気(ゆげ)を出して――これは形容ではない、文字通り、その時は湯気を出していたのでしょう――高さにおいての競争で際限がない。
 そうして、下界の人に向って、両者は同じように言う、
「どうだ、おれの方が高かろう」
 けれども、当時の下界の人には、どちらがどのくらい高いのかわからない。わからせようとしても、その日その日に伸びてゆく背丈(せいたけ)の問題だから、手のつけようがない。
 そこで、下界の人は、両者の、無制限の競争を見て笑い出した。
「毎日毎日、あんなに伸びていって、しまいにはどうするつもりだろう」
 富士も、八ヶ岳も、その競争に力瘤(ちからこぶ)を入れながら、同時に、無制限が無意味を意味することを悟りかけている。さりとて、競争の中止は、まず中止した者に劣敗の名が来(きた)る怖れから、かれらは無意味と悟り、愚劣と知りながら、その無制限の競争をつづけている。
 ある時のこと、毎日晨朝諸々(じんちょうもろもろ)の定(じょう)に入(い)り、六道に遊化(ゆうげ)するという大菩薩(だいぼさつ)が、この峰――今でいう大菩薩の峰――の上に一休みしたことがある。
 その姿を見かけると、富士と、八ヶ岳とが、諸声(もろごえ)で大菩薩に呼びかけて言うことには、
「のう大菩薩、下界の人にはわからないが、あなたにはおわかりでしょう、見て下さい、わたしたちの身の丈を……どちらが高いと思召(おぼしめ)す」
 かれらは、その日の力で、有らん限りの背のびをして、大菩薩の方へ向いた。
「おお、お前たち、何をむくむくと動いているのだ。何、背くらべをしている!」
 大菩薩は半空に腰をかがめて、まだ半ば混沌(こんとん)たる地上の雲を掻(か)き分けると、二ツの山は躍起となって、
「見て下さい、わたしたちの身の丈を……どちらが高いと思召す」
「左様――」
 大菩薩は、稚気(ちき)溢(あふ)れたる両山の競争を見て、莞爾(かんじ)として笑った。
「わたしの方が高いでしょう、少なくとも首から上は……」
 八ヶ岳が言う。
「御冗談(ごじょうだん)でしょう――わたしの姿は東海の海にうつるが、八ヶ岳なんて、どこにも影がないじゃないか」
 富士が言う。
「よしよし」
 大菩薩は、事実の証明によってのほか、かれらの稚気満々たる競争を、思い止まらせる手段はないと考えた。
 そこで、□杖(しゅじょう)を取って、両者の頭の上にかけ渡して言う、
「さあ、お前たち、じっとしておれ」
 そこで東海の水を取って、□杖の上に注ぐと、水はするすると□杖を走って、富士の頭に落ちた。
「富士、お前の頭はつめたいだろう」
「ええ、それがどうしたのです」
「日は冷やかなるべく、月は熱かるべくとも、水は上へ向っては流れない」
「それでは、わたしが負けたのですか、八ヶ岳よりも、わたしの背が低いのですか」
「その通り」
 大菩薩はそのまま雲に乗って、天上の世界へ向けてお立ちになる。
 その後ろ姿を見送って、富士は歯がみをしたが及ばない。八ヶ岳が勝ち誇って乱舞しているのを見ると、カッとしてのぼせ上り、
「コン畜生!」
といって、足をあげて八ヶ岳の頭を蹴飛ばすと、不意を喰った八ヶ岳の、首から上がケシ飛んでしまった。
「占(し)めた! これでおれが日本一!」
 その時から、富士と覇を争う山がなくなったという話。
 しかし、この炉辺閑話の仲間のうちに一人、机竜之助の幼少時代を知っているものがあるということで、また榾火(ほたび)があかく燃え出しました。
 それは雲衲(うんのう)の一人。年頃も机竜之助と同じほどのおだやかな人品。竜之助とは郷を同じうして、おさななじみであったとのこと。
 武者修行が、そのいとぐちを聞いて勇みをなし、膝を進ませて、それを引き出しにかかると、雲衲は諄々(じゅんじゅん)と語り出でました、
「あの人のお父さんがエラかったのですね、弾正様と言いました。どうして、なかなかの人物で、まあ、あのくらいの人物は、ちょっと出まいといわれたものですが、惜しいことに、病気で身体(からだ)が利(き)きませんで、寝(やす)んでばかりおいでになりました。そのうちに竜之助さんが悪剣になってしまったと、こう言われていますよ。お父さんさえ丈夫ならば、どうして、どうして、竜之助さんは、あんなにはならなかったろうと、誰もそう言わないものはありません」
「ははあ、お父さんという人が、そんなエラ物(ぶつ)だったんですか」
「まあ、身体さえおたっしゃなら、日本でも幾人という人になって、後の世に名を残す人だったに相違ないとの評判でございました」
「なるほど」
「そのお父さんに仕込まれたんだから、竜之助さんも子供のうちはようござんした」
「なるほど」
「頭も違っていましたし、剣術はたしかに天性でしたね」
「うむ、うむ」
「もっとも剣術はお父さんという人も、そのお祖父(じい)さんも、なかなか出来たので、代々道場を持って、弟子もあり、武者修行の方も、三人や五人遊んでいないことはありませんでした。そのうちには江戸で指折りの先生も、ずいぶんお見えになっていたのですから、本当の修行ができたに違いありません。お父さんは剣術も出来たが、槍がよかったと言います、宝蔵院の槍が……」
「なるほど」
「ですから、竜之助さんも、竹刀(しない)の中で育ったもので、十二三の時に、大抵の武者修行が、竜之助さんにかないませんでした。そうしてもし、自分より上手(うわて)の者が来ると、幾日も、幾日も、その人を泊めておいて、その人を相手になってもらい、その人より上にならなければ帰さないというやり方ですから、ぐんぐん上達するばかりでした」
「なるほど」
「竜之助さんの修行半ば頃から、お父さんが病気にかかって、起(お)き臥(ふ)しが自由にならなかったもので、あの人の剣法が音無しの構えと言われるようになったのは、それから後のことだと聞きました」
「なるほど、なるほど」
「その時分には、もう、名ある剣客で、竜之助さんの前に立つ者は一人もなかったといわれます」
「うむ、うむ」
「けれども、あのお父さんばかりは許さなかったそうですよ――お父さんという人は、甲源一刀流の出ではありますが、柳生(やぎゅう)、心蔭といったような各流儀にわたっており、それぞれの名人たちの道場をも踏んで来た人ですけれども、竜之助さんの剣術というものは、ちょっとも自分の道場の外で鍛えた剣術ではないと言います。それだのに、腕はお父さんよりもすぐれているということですから、眼中に人のないのも慢心とばかりはいえますまい、人も許し、われも許していたのですが、お父さんばかりは、最後まで許さなかったと申します」
「なるほど」
「そのうちに、あの人が実地に人を斬ることを覚えるようになりました……今になれば、それが思い当ることばかりですが、その時分、そんなことを知った者は一人だってありゃしません」
 雲衲(うんのう)は伏目になって、燼(もえさし)の火を見ながら語りつづける。
「そこで、わたしは、今でも思い出してゾッとするのですが、竜之助さんが九ツの時でした、その時分はよく子供らが集まって、多摩川の河原で軍(いくさ)ごっこをしたものですが、ある時、あだ名をトビ市といった十三になる悪たれ小僧が、それがどうしたことか、竜之助さんの言うことを聞かなかったものですから、竜之助さんが手に持っていた木刀で、物をもいわず、トビ市の眉間(みけん)を打つと、トビ市がそれっきりになってしまいました……子供らはみんな青くなって、河原に倒れたトビ市をどうしようという気もなくているところへ、漁師が来てお医者のところへかつぎ込みましたが、とうとう生き返りませんでした……それでも後は無事に済むには済みました、が、その時から、子供たちも、竜之助さんの傍へは近寄らないようになりました。その後、御岳山の試合で、宇津木文之丞という人を打ち殺したのもあの手だと思うと、やはり子供の時分から争われないものです。あの時だって、あなた、トビ市を打ち殺しておいて、あとで人相がちっとも変りませんでしたもの……御岳山の時は、わたしどもは、あっちにはおりませんでした。こちらへ修行に来てしまいましたから……その後の噂(うわさ)は、大菩薩峠を越える人毎に、何かとわたしたちの耳に伝えてくれます。いい話じゃありませんが、おさななじみのわたしどもにとってみると、どうもひとごととは思われない気がします」
 雲衲の一人は、しめやかに昔を追懐して、道を誤った幼き友のために、代ってその罪を謝するかのような調子です。
「なるほど、なるほど」
 武者修行の武士は、洒然(しゃぜん)としてそれを聞き流し、
「宇津木なにがしを殺したことから以後は、ほぼわれわれも聞いている、それ以前が知りたかったのだ。つまり、机竜之助というものがああなったのは、宇津木を殺した時から始まるのか、或いはそれ以前に原因があったのか、その来(きた)るところを、もう少し立入って知りたかったのが、貴僧の話で、どうやら要領を得たような感じがする……」
 その時に、以前の雲衲の一人は、長い火箸で燼(もえさし)の火をあやしながら、
「左様でございますよ、天性あの人はああいう人でありました。宇津木文之丞さんとの試合以前、つまり、トビ市を殺してから後の壮年時代にも、いま考えてみれば、山遊びに行くといって、幾日も帰らないことがありました。その前後、よく街道筋に辻斬の噂なぞがありましたが、いま思い合わせてみると、あの山遊びは、つまり辻斬をしに行ったのではなかったでしょうか……ですから、あの人の一番最初の不幸は、お父さんの病気でありまして、次にガラリと変ったのは御岳山の試合の前後……あれは文之丞さんが相手ではありません、あれをああさせた裏には、悪い女がありました」
「うむ……」
「お聞きになりましたでしょうな。あれだけは今以て、わたしたちにも不思議でなりません。本来、竜之助さんという人は、女に溺(おぼ)れる人ではなかったのです、剣術より以外には振向いて見るものもなかったのに、あの女が来て、それからあんなことになりました。どっちが先に、どう落ちたのか、その辺がいっこう合点(がてん)が参りませんが……いい女でした。それはたしかに、知っていますよ。和田へ行く時も、このお寺の門前を馬で、大菩薩峠越えをしたものです、そのときふりかえった面影(おもかげ)が、いまだに眼に残っておりますよ、妙にあだっぽい、そうしてキリリとしたところのある、あれでは男が迷います」
「なるほど」
と一句、壮士が深く沈黙した時分、雲峰寺の夜もいとど深きを覚えました。

         三

 一方、沢井の机の道場を、右の武者修行が立去って数日の後、雨が降りましたものですから、お松は蛇(じゃ)の目の傘をさして、川沿いの道を、対岸の和田へ行きました。
 お松が和田へ行くのは、今に始まったことではないが、このごろは、ほぼ一日おきのように和田へ行かなければなりません。
 というのは、和田の宇津木の道場が、机の道場と同じように廃物になっているのを、お松が新しく開いて、机の道場と同じように、学校をはじめたからであります。
 そこへ、多くの娘たちがあつまって、お松をお師匠さんとして、裁縫を学ぶべきものは学び、作法を習うべきものは習うように、一種の講習会を開いたのが縁で、その娘たちのうちの有志の者が力を合わせて、別にまた子供相手の寺子屋をはじめました。
 で、お松は、このごろは沢井の方と一日おきに往来するものですから、雨の降る日は傘をさし、足駄がけで、一里余の道を歩くことは珍しくはありません。
 おそらく、過日の武者修行が、裂石(さけいし)の雲峰寺で、炉辺(ろへん)の物語の種としたのは、途中、このお松の蛇の目姿にであって、それに潤色と、誇張とを加えたのかも知れません。
 しかし、お松のは、そういったような夢幻的の蛇の目の傘ではなく、また、お松自身も不美人ではないが、透きとおるような美人というよりは、もっと現実的な娘で、雨の日、途中で足駄の緒をきった時などは、足駄を片手にさげて、はだしでさっさと歩いて帰ることもあるくらいですから、白昼、蛇の目の傘を開いて、秋草の乱るる高原を、悠々閑々と歩むような気取り方をしないにきまっています。
 ただ、お松の行くところには、いつもムク犬がついて行くこと、その昔の間(あい)の山(やま)の歌をうたう娘の主従と変ることがありません。
 それにお松は、子供の時分から、旅の苦労を嘗(な)めて足が慣らされていますから、この多摩川沿いの山間(やまあい)や、沢伝いのかくし道を平気で歩いて、思いがけないところで出逢(でっくわ)す人を驚かすこともあり、この辺は古来、狼の名所とされているところで、今はそんなことはないにしても、人のかなりおそれる山道も、ムクがついている限り安心ですから、お松はかなり無理をしてまで、山々の炭焼小屋までおとずれ、そこに住む子供たちに、お手本を書いて与えて来ることなどもあるのです。
 それですから、いよいよ過ぐる日の武者修行も、思わざる所で、ひょっこりとお松の出現に驚き、それを大菩薩峠の上に移して、話に花を咲かせたと見れば見られないこともありません。
 そういった場合、お松自身には、そんなきどり方はないとしても、こういった山里で、ひとたびは京の水にもしみ、ひとたびは御殿づとめもした覚えのある妙齢の娘が、不意に、木の間、谷間から現われ出でた時は、少なからぬ驚異を誘うのも無理のないことであります。
 そんなところからお松の生活を見れば、詩にもなり、絵にもなりましょうが、お松自身にとっては、この頃ほど自分の現在というものに、喜びを感じていることはありません。
 人の現在を喜ぶのは、多くの場合、過去の経験を忘れ、未来の希望を捨てた瞬間の陶酔に過ぎない浅薄な喜びになり易(やす)いが、お松のは、たしかにそうでなく、もはや、自分の立つ地盤の上に、この上のゆらぎは来ないだろうと思われるほど、自分ながら堅実を感ずるの喜びでありました。
 人生、喜びを感じない人はあるまいが、またその喜びの裏に、不安を感じないという人もありますまい。
 喜びが大きければ大きいほど、後の不安が予想される喜びに住みたくはないものです。
 お松は、自分の生涯が、もうこれで定まったとも感じません。これより後の前途は、平々淡々なりとも安んじてはいないが、少なくともこの道路に、これより以上の陥没はない、これよりは地を踏みしめて行くだけが、自分の仕事である――というような心強さは、ひしと感じています。

 夜になると、お松は夜ふくるまで針仕事をしていることがあります。
 道場の方で藁(わら)を打つ音。それと共に縷々(るる)として糸を引くような、文句は聞き取れないながら断続した音律。お松は針先を髪の毛でしめしながら、
「また、与八さんがお経をはじめた」
 与八が東妙和尚からお経を教えられて、しきりにそれを誦(ず)しているのは、今に始まったことではありません。
 それは何のお経だか、与八自身も知らないはずです。或る時、東妙和尚に尋ねてみたら、和尚のいうことには、
「お経はわからないで読んでこそ有難味がある、ただ、有難いという有難さをみんな集めたのが、このお経だと思って読みさえすればよい、お経がわかると、有難味がわからなくなる」
 そう言われたから与八は、言われた通りに信じて、わからないなりに誦していることを、お松はよく知っています。
 けれども、お松はこのごろになって、特に、そのわからないなりで誦している与八のお経の声を聞くと、妙に引き入れられて、われを忘れるのを不思議なりとしておりました。
 今も、その与八の、わからない読経(どきょう)の声を聞いているうちに、何ともいえない心持で悲しくなりました。
 悲しいといっても、その悲しいのは、やる瀬ない、たよりのない、息苦しい悲しみ、悶(もだ)えの心ではなく、身心そのままを、限りなき広い世界へうつされて行くような、甘い、楽しい、やわらかな色を包むの悲しみであります。
 ああ、わたしはこの心持が好きだ、この悲しい心持が何ともいわれないと、お松はそれを喜びます。昼のうちは、現実の働きに、お松としては、ほとんど余暇のない今日この頃、その働くことに充分の喜びを以て、たるみのない生活を楽しむことができるのに、夜になると、全く別な世界に置かれたような気持で、この悲しみに浸ることのできる幸いを、感謝せずにはおられません。
 お松はこうして、与八のわからないお経を聞くことの快感にひたされながら、ついぞ与八に向って、これを感謝したこともなく、またそれを、どうぞやめないで続けて下さい、とたのんだこともありません。わからないで読むお経を、わからないで聞いてこそ、それで有難味が一層深い。それを口に出していうのが、なんだか惜しいような気持がしてなりません。
 なんにしても、このごろのお松の心では、犠牲が感謝であり、奉仕がよろこびであり、忍辱が滅罪であることの安立が、それとはなしに積まれているようであります。
 与八としても、ほぼお松と同様で、平淡なるほど自分の立場の堅実を、感ぜずにはおられないと見えます。
 人が自分の立場の堅実を感ずるのは、必ずしも財産が出来たから、名誉が高くなったから、というのではありません。自分を打込んで、他のために尽し得るという自信が立ち、その道が開けた時に、はじめて起るのであります。
 おのれを放捨して、絶対愛他の生活に一歩進み入る時に、人は一歩だけその立場の堅実を感ぜずにはおられますまい。言葉を換えていえば、我慾を増長せしめた瞬間にこそ、人は自己の立場に不安を感じ、報謝の志を起した時に、はじめて自己の立場の堅実を悟るということが、逆に似て、順なる人生の妙味であります。
 お松も、与八も、期せずして、その妙理を会得(えとく)せんとするのは祝すべきことでありますが、一生の事は必ずしも、そう単純には参らない。大悟十八遍、小悟その数を知らずと、東妙和尚もよくいうことでありますが、今のところは、ほとんど逆転の憂いがないと見なければなりません。
 さればこそ与八のわからないお経も、ようやく妙境に入って、聞く人をしておのずから、神心を悦嘉(えつか)せしむるのかも知れません。
 しかしながら、こんな悦楽が、人間世界の夜の全部を占領するのは、悪魔の世界のねたみを受けるには十分であると見え、暫くして、この悦楽の世界が、忽(たちま)ちにしてかきみだされたのは是非もないことでしょう。
「与八さん、エ、与八さん、エラク御精が出るじゃねえか、いいかげんにしなよ、いいかげんにして寝なよ、身体(からだ)も身のうちだ、そうひどく使うもんじゃねえよ、ちっとは、身体にも保養というものをさせてやらなけりゃ毒にならあな、いいかげんにしなよ、え、ヨッパさんたら、ヨッパさん」
 経文を誦(ず)しながら藁(わら)を打っている与八の境涯をかき乱した声が、お松のところまで手に取るように聞えたものですから、お松もハッとして苦(にが)い心持になりました。
「いいかげんにしなよ、いいかげんにして、一ぺえ飲んで寝なよ……」
 しつこく与八のそばへすりよって、とろんとした眼を据(す)えている酔いどれの姿を、ありありと見る気持。
「だが、与八さん、おめえは感心だよ、おめえの真似(まね)はできねえ……まあ、早い話がおめえは聖人だね、支那の丘(きゅう)という人と同格なんだね、聖人……大したもんだよ、だが、聖人にしちゃあおめえ、少し間(ま)が抜けてらあ……」
「なあに」
 与八は相手にならないで、藁をすぐっているらしい。
「だが、おめえ、聖人なんて商売は、聞いて極楽、見て地獄さ」
 与八が相手にならないでいると、一方は、いよいよしつこく、
「こちとら、やくざだから、聖人なんざあ有難くねえ」
といって暫く休み、いやに猫撫声(ねこなでごえ)で、
「ヨッパさん、おめえ済まねえが、いくらか持っていたら貸してくんねえか……」
 お松はそれを聞いて、またはじまったと思いました。
 梅屋敷の谷という船頭が、いつも、こんなことを言って与八をばかにしながら、いくらかせびりに来る。その度毎に与八が、ダニに食いつかれた芋虫(いもむし)のように窘窮(きんきゅう)するのを、ダニがいよいよ面白半分になぶる。
 今も、いい気になって管(くだ)をまき出したのを、にがにがしい思いで聞いていると、ダニはいよいよ乗り気になって、聞かれ果てないことをしゃべり出しました。どことかの後家さんをなぐさんでやって、このごろでは毎晩のように通っているが、はじめは口惜(くや)しがって、おれのつらを引掻(ひっか)きやがったが、今では阿魔(あま)め、おれの行くのを待遠しがっていやがる、そうなってみると、焼杉(やきすぎ)の下駄の一足も買ってやらなきゃあ冥利(みょうり)が悪いから、いくらか貸してくんな、おめえが持っていなけりゃお嬢様におねげえして、いくらか貸してくんなと、声高(こわだか)になる。
 何だいべらぼうめ、女をこしらえちゃ悪いのかい、女をこしらえねえような奴は、人間の屑(くず)だい……というような悪口も聞え出す。
 浄土の連想も、経文の柔軟も、あったものではない、ダニといわれた船頭の悪口で、すっかりかきまわされる。
 お松は、どうしても自分が出なければならないと思いました。こういう際の取扱いは、いつもお松が当ることになっていて、与八ではどうしても納まりのつかないのが例であります。
 縫物を押片づけたお松は、そのまま道場の方へと歩んで行きました。
「谷蔵さん、今晩は……」
「これはこれは、お嬢様」
 お松のことを、誰いうとなくお嬢様で通っている。お松が現われると、すっかり谷蔵の機鋒(きほう)が鈍(にぶ)ってしまうのが不思議であります。
「与八さん、そんな悪い奴は、かまわないから、つかみ出しておしまいなさい」
 お松がそう言っておどすと、ダニが顔の色をかえて、あわてふためいて逃げ出しました。力のあり余る与八を恐れないで、力のないお松を恐れることも不思議であります。
 こんなひょうきん者もあるにはあるけれど、お松の仕事は、次から次と根を張り、枝をのばしてゆくことは、自分たちさえも目ざましいほどでありました。
 つまり、一つの村から一つの村へと、お松のはじめた教育ぶりが伝染して行くのであります。それは大抵、お松を中心として、仕事を習う娘たちの同意から始まって、甲の村でも、乙の部落でも、然(しか)るべき家を借受けて、第二、第三の講習会が起り、つづいて、子供たちのために寺子屋が起り、遊びどころが見つかってゆくというわけであります。
 これがために、お松の事業は、またたくまに発展して、村々を廻りきれないほどになりました。その苦労は、少しもお松の厭(いと)うところではありません。
 毎日、朝早く沢井を出でては、夜おそく帰ることもあります。
 多摩川を中にさしはさんでの上下へ、水の浸透するように、お松の事業が進んで行くのであります。今は秩父境までも、お松を中心とするの講習会が入り込んで行きました。
 そこでお松は、もうこれ以上、自分の足では覚束(おぼつか)ないという時になって、与八がお松のために馬を提供しました。
 お松は毎日、馬に乗って村里めぐりをやり出しましたが、最初のうちは、与八が馬の口を取ったのですけれど、それでは労力の不経済だから、後にはお松自身で手綱(たづな)を取って、与八は家に残って働くようになりました。
 ただ、例のムク犬が始終、お松の行くところへ行を共にして、その護衛の任に当ることだけは、いつも変りません。
 そのうちに、誰が発起(ほっき)したともなく、月の二十三日を地蔵講として、この日には、お地蔵様を祭って、楽しく遊ぼうではないか、という議が持上りました。
 つまり、お松の教え子たちが発起で、月の二十三日を、挙(こぞ)っての祭日にきめようという計画が、忽(たちま)ちの間に成立って、まず最初の記念祭を、この二十三日に、お松の発祥地で開き、それから至るところに及ぼし、二十三日には、それぞれお祝いをしようではないか、ということが、娘たちの間に、少なからぬ熱心を以て提唱されるようになったのです。
 地蔵中心の二十三日のお祭、お松も、与八も、それはよい思いつきの、よいくわだてだと思いました。与八は、それまでに間に合わせるといって、木をえらんで、一丈余りの地蔵尊をきざむことにとりかかる。
 その地蔵尊が出来上ると、従来のお堂をとりひろげて勧請(かんじょう)し、多摩川の岸までズッと燈籠(とうろう)を立てました。
 娘たちは乗り気になって、それぞれのものを寄附する。燈籠の絵も、讃(さん)も、大抵はその娘たちや、教え子たちの筆に成るものが多いのですから、期せずしてこれは、地蔵を中心としての共進会であり、展覧会であるようなことになります。
 お祭の前には、その娘たちが、それぞれひまを見ては、やって来て、お祭の準備の手伝いをする。
 そこで、また一方、お松は若衆(わかいしゅ)たちに向って後援を依頼したものですから、若衆もいい気持になって、よしよし、一肌(ひとはだ)ぬごうという気になりました。
 そうすると、何か世話を焼きたがる老人たちも出て来て、何かと口伝(くでん)を教えるものですから、お祭の景気は予想外に大きなものになりそうです。
 赤飯(せきはん)をこしらえて配ろうというものもあるし、おまんじゅうを供養して、子供たちに分けようというものも出て来る。
 老人たちが肝煎(きもいり)で若衆たちの一団が、古風な獅子舞を催して、その一日は、踊って踊りぬいてみようとの意気組みを、お松も喜んで頂戴しました。
 お祭の日が進むにつれて、お松は毎晩、徹夜のようにつとめております。それは、娘たちの出品や、教え子たちの製作物の調べ、自分もまた、いくつかの燈籠を受持って、それに歌を書かねばならないし、すべて持込まれる相談は、大小となく、お松一人がそれを引受けて、あずかり聞くという役目であります。
 しかし、何といっても、こういう事の骨折りは、人間を疲労させるよりは、かえって元気を与えるものであります。
 どこから、どう伝え聞いて来たものか、その当日の景気は盛んなもので、多摩川の河原から、地蔵堂附近へかけての人出は夥(おびただ)しいものである。
 向う岸の人は渡し場を渡ると、そこから、かけはじめられた燈籠(とうろう)が、おのずから地蔵堂の前へ人を導き、沿道には早くも縁日商人連が近在から出て来て、店を張ろうという景気です。
 地蔵堂に参拝すると、また燈籠に導かれて、机の家の屋敷へ上るように仕組まれてあります。道場から母屋(おもや)は、娘たちと教え子たちの成績品でいっぱいで、それを、昨晩から夜どおしで、お松と、娘たちとが、漸(ようや)く陳列を終りました。
 最初は、ほんのうちわのお祭のつもりでかかったのに、その規模と、景気が、予想外の人気になったのを、陳列を終ってホッと息をついたお松が、地蔵堂まで下りて行って見て、はじめて驚いたほどでありました。
 しかし、この人気は悪くない。平和と、勤労とを愛する人たちが、ここに浩然(こうぜん)たる元気のやり場を求めて、思いきり楽しもうとする人気そのものに、少しも害悪のないのを認め、働く人たちの嬉々として晴れ渡った顔を見ると、お松はこのお祭の前途を祝福して、よい心持にならずにはおられません。
 その日、東妙和尚が伴僧(ばんそう)を連れて来て、地蔵様の前で地蔵経を読んでくれました。特にその日は、和訓を読んでくれたものですから、お経はわからないものだと思っているお松の耳に、意外にもありありと字句の要領がわかりました。
 供養(くよう)が終ると広庭で、若衆(わかいしゅ)たちの獅子舞がはじまりました。
 この獅子舞がまた目ざましく盛んなもので、多数の牡獅子(おじし)と、牝獅子(めじし)と、小獅子(こじし)とが、おのおの羯鼓(かっこ)を打ちながら、繚乱(りょうらん)として狂い踊ると、笛と、ささらと、歌とが、それを盛んに歌いつ、はやしつつ、力一ぱいに踊るが、それは粗野ではない。花やかにはやすが、それは古雅の調べを失わない。人をして壮快に感ぜしめながら、野卑の態なくして、妙に酔わしむるリズムがある。
 お松はこの古風な獅子舞を、また得易(えやす)からぬものだと思いましたが、年寄に聞いてみても、ただ古くから伝えられているとばかりで、いつの頃、誰によって、この地方へ持ち来たされたものだか、それはわかりませんでした。
 その古風な舞いぶりを、今の若衆(わかいしゅ)たちが老人の後見で、伝えられた通りを大事に保存しながら、威勢よく舞っているらしいのが、お松をして、いっそう珍重(ちんちょう)の念を起させたようであります。
 お松は上方(かみがた)にある時、ある舞と踊りの老師匠の口から、次のように聞かされたことがあります。
 今の世は、踊りの振りというものも、舞の手というものも、みんなきまるだけはきまってしまった。新作とはいうけれど、そのきまった形を、前後にくりかえしたり、左右に焼き直したりするだけのものだから、いくつ見ても、要するに同じようなもので、多く見れば見るほど、倦厭(けんえん)と、疲労とを催すに過ぎない。これは形が爛熟(らんじゅく)して、精神が消えてしまったのだ。舞踊の起った最初の歓喜の心を忘れて、末の形に走るようになったから、今、都の踊りに、見られた踊りは一つもない。そこへゆくと、古来伝わった郷土郷土の踊りを、生気の溢(あふ)れたそぼくな若い人たちが器量一ぱいに踊ると、はじめて、人間の歓喜、勇躍の精髄が、かくもあろうかとおもわれて、手に汗をにぎることがある。都の舞踊を改革するならば、郷土の舞踊の精気を取入れなければならぬ。そうでなければ踊りは死んでしまう。いや、今の都の踊りはすべて死んでいるのだ――こう言ってその老師匠は、ひまさえあればいなか廻りをして、古来伝えられた民謡と舞踊とを、調べて歩くのを楽しみにしていた。それをお松は、この場に思い合わせて、人間には教えることのほかに、楽しむことの大なる意味を見出し、趣味の方面に、また一つの窓が開かれたように覚えました。
 獅子舞が済んだ時分に、与八が、ブラリとしてこの地蔵の庭へやって来ました。
 それを早くも見つけた子供たちが、
「与八さんが来たよ」
「お人よしの与八さんが来たよ」
 腰から下に、子供たちが群がったところを見ると、与八の巨躯(きょく)が、雲際(うんさい)はるかに聳(そび)えているもののようです。
「お人よしなんて言うのをよせやい、ねえ、与八さん」
 あるものは、与八の帯に飛びつく。
「与八さん、今日は一人なの?」
 女の子は、やさしく言う。
 与八が一人で、ブラリと出て来ることは珍しいことであります。大抵の場合には、その背中に子供を負うて、左右には何かを携えている。それが今日に限って、背中にも子供がいないし、左右も手ブラですから、それが子供の目にもついたらしい。
「与八さん、いい着物を着て来たね、袂(たもと)があるのね」
 これもまた珍しいことです。与八がよそゆきの着物を着出すことも滅多にないことであるし、しかもその着物に袂までついた仕立おろしと来ているから、子供たちの驚異の的となるのも無理はありますまい。
 藍縞(あいじま)の、仕立おろしの、袂のついた着物を着た与八は、恥かしそうに、その巨大なる身体をゆるがせつつ動き出すと、無数の子供が身動きのできないほど、その前後左右に取りついてしまいました。
「与八さん、何かして遊ぼうよ」
 これは、単に子供たちの注意をひくのみならず、人並外(ひとなみはず)れた巨大な男が、子供の海の中を、のそりのそりとほほえみながら歩いている有様は、誰が見ても一種の奇観であると見えて、歩みをとどめて、手を額(ひたい)にして、その奇観を仰ぎ見ない大人もありません。
「与八さん、『河原の石』をして遊ぼうね、いいかい、みんな、ここで『河原の石』をして遊ぶんだぞ」
 与八は、早くも子供たちのために、杉の木の下の芝生の上へ押し据(す)えられてしまいました。
 与八を、杉の木の下の芝生の上へ押し据えてしまった子供たちは、あたりの小石を拾いはじめ、それで足りないのは、わざわざ河原まで下りて行って小石を拾い集め、それを与八の坐った膝のところから積みはじめ、肩の上に及びました。
「動いちゃいけないよ、これから頭だよ」
 膝と、肩の上へ、積めるだけ積み上げた子供らは、踏台をこしらえて、与八の頭の上まで石を積みにかかりました。
「頭の上はよせやい、与八さんだって、頭が痛いだろう」
「いいねえ、与八さん、いいだろう、お前の頭の上へ石を積んだって、かまやしないね、一重(いちじゅう)組んでは父のため、二重組んでは母のため……なんだから」
 与八は、だまってすわったまま、相変らずほほえんでいるばかりであります。
「三重組んでは……あ、いけねえ」
 頭の上は、膝の上よりも、肩の上よりも、いっそう、石の安定がむずかしいと見えて、せっかく積んだ石が崩(くず)れる。
 崩れた石が、下に積み上げた膝の上をまた崩す。子供たちはそれをまた下から積み直す。
 見ているところ、入りかわり立ちかわり、石を高く積んだものほど手柄に見える。
 人の積んだ石の上へ、自分の石を積みそこねたものは、自分のあやまちのみならず、人の積んだ石を崩すの罰まで、二重に受けねばならぬことになっているらしい。
 そこで子供らは、いよいよ高く石を積んで、いよいよその手柄を現わそうとするが、積み得て喜ぶ後ろに、崩れて悲しむの時が待っている。
 積んでは崩し、崩しては積んで興がる子供たちは、与八の存在ということを忘れてしまっている。然(しか)れども、この男にあっては、遊ぶことと、遊ばせることとが同一で、子供らがわれを道具にして遊ぶ間は、その楽しみを妨げないことが、また自分の遊びであるらしく思われるのであります。
 ことに、与八はこの「河原の石」という遊びを妨げないために、子供らに向って、自分の義務というものの存することを悟っているらしい。
 それは、以前、子供らが「穴一」という遊びを盛んに流行(はや)らせている時分に、与八がそれをやめさせて、身を以て彼等の遊び道具に提供し、この「河原の石」を始めさせたという履歴を持っているものですから、ここへ子供を導いて、かりそめにも一重組んでは父のため、二重組んでは母のため……という言葉が、子供たちの口から唄われるということを悪くは思えないのです。
 そのうちに、与八が一つクシャミをしました。クシャミをしたことによって、頭の石が落ちると、はじめて与八が生きていたということを、子供たちが悟ったもののようです。
「あ、与八さん、動いちゃいけないよ」
と言ったけれども、生きているものを、いつまでも動かせないでおくということは無理である、圧制である、ということが、さすがに子供らにも気兼ねをさせたと見えて、
「与八さん、窮屈だろう、もう少し辛抱しておいで、ね……」
 しおらしくも、慰めの言葉を以て、その労をねぎらおうとする者もある。
 見物人は――見物のうちの大人です――皆、その事の体(てい)を見て失笑しないものはないが、なかには見兼ねて、
「みんな、いいかげんにしな、与八さんだって苦しいよ」
 そこで、この恬然子(てんぜんし)は解放されることになりました。
 その時分、ちょうど、河原で花火が揚り出したものですから、子供らは、与八の周囲に積んだ石を取払い、今まで下積みにしたお礼心でもあるまいが、大勢して、与八を胴上げにして河原まで連れて行って上げようと言い出し、与八の身体(からだ)につかまって、それを持ち上げようとしたけれど、彼等の力では、どうしても与八を担(かつ)ぎ上げることが不可能だとあきらめたものと見え、ワッショワッショと与八のずうたいを後ろから、ひた押しに押して、河原の方へ押し出して行きました。
 子供らのなすがままにまかせて、自分から河原へ押し出して行く与八。渡し場のところへ来て、土俵に腰をかけていると、
「与八さん、これを上げるから、お食べ」
 五十か百もらって来たお小遣(こづかい)のうちから団子を買い、その二串を分けて与八の前に捧げた子供がありました。
 それを見ると、ほかの子供が負けない気になって、物売店へ行って、三角に切って、煮しめて、串にさしたこんにゃくを買って来て、与八の前へ持ち出し、
「与八さん、これをお食べ……」
 自分が一本食いつつ、一本を与八にわかとうというのであります。
 そうすると、ある者は氷砂糖を買って来て、それを蕗(ふき)の葉に並べて与八に供養し、ある者は紙に包んだ赤飯をふところから取り出して、
「与八さん、お食べ……」
 子供たちは与八の膝の上と、あたりの石の上と、土俵の上に、そのおのおのの供養の品を並べ立てました。与八は、実に有難迷惑そうな顔をして、これはこれはと言ったなり、どれに手を下していいかわかりません。そうすると一人の子供が、お団子の一串を目よりも高く差し上げ、
「与八さん、遠慮しないでお食べ、わたしが一番先に上げたんだから、あたしのあげたお団子から先にお食べ……」
とすすめると、一人が、
「どれから先に食べたっていいじゃないか、ねえ、与八さん、与八さんの好きなのから先にお食べ、お団子でも、てんぷらでも、お赤飯(こわ)でも、かまわないから、遠慮しないでたくさんお食べ……」
 与八も、この御馳走には痛み入ったようです。
「どれでもいいから、与八さんの好きなのから先に食べさせることにしようじゃねえか」
と、一人が言います。
「そりゃそうさ、先に出したから、先に食べなくってはならねえときまったわけじゃねえ、与八さん、お前の好きなのから先にお食べ……」
 本人の趣味を無視して、御馳走を食べることの前後にまで干渉するのはよくない、と主張する者もあります。
 よんどころなく、与八は串にさしたお団子を取って食べました。
「そうら見ろ、おいらの出したのから先に食べた。与八さん、うまいだろう」
「うん」
「そうら見ろ、うんと言った。うまけりゃ遠慮なしに、モットお食べ……」
 子供たちは、なけなしの小遣(こづかい)で買った団子のすべてを提供して、悔いないような有様です。
「与八さん、この鯣(するめ)も食べてごらんよ、お団子ばかり食べないでさ……」
「いけねえやい、今度は、おいらのあげたてんぷらを食うんだぞ、てんぷらを――」
「静かにしろよ、与八さんの好きなのから先に食べさせるんだといってるじゃねえか」
「与八さん、モットお団子をお食べ。まだ三串あるよ……」
「与八さん、お団子を食べてしまったら、あたいのお強飯(こわ)を食べて頂戴な……」
 ふところから、破れてハミ出した赤飯の紙包を持ち出したのは、五ツ六ツになるお河童(かっぱ)さんの女の子であります。
「いけねえやい」
 十二三の悪太郎が、無惨(むざん)にも、そのお河童さんを一喝(いっかつ)して、
「いけねえよ……おめえのお強飯(こわ)は食べ残しなんだろう、自分の食べ残しを、人に食べさせるなんてことがあるかい、人にあげるには、ちゃんとお初穂(はつほ)をあげるもんだよ、お初穂を――食べ残しを与八さんに食べさせようなんたって、そうはいかねえ……」
 悪太郎から一喝を食って、無惨にもお河童さんは泣き出しそうになると、同じ年頃の善太郎が、それをかばって言うことには、
「いいんだよ、与八さんは、残り物でもなんでも悪い顔しないで食べるよ」
 そこで与八の顔を見上げて、
「ねえ、与八さん、残り物でもなんでもいいんだね、志だからね、与八さんに志を食べてもらうんだから、残り物でもなんでもかまわないよ、ねえ、与八さん」
 ませたことを言い出すと、悪太郎が引取って、
「こころざしって何だい、こころざしなんて食べられるかい、へへんだ、こころざしより団子の串ざしの方が、よっぽどうめえや、ねえ、与八さん」
 しかし、それからまもなく与八は、お初穂であろうとも、残り物であろうとも、かまわずに取って食べてしまったから、この議論はおのずから消滅して、皆々、一心になって、与八の口許(くちもと)をながめているばかりであります。そのうち誰かが、
「大(でけ)えからなあ!」
とつくづく驚嘆の声を放つと、一同が残らず共鳴してしまいました。
「大えからなあ!」
 実際、与八の身体(からだ)の巨大なる如く、その胃の腑(ふ)も無限大に大きいと見えて、あらゆる御馳走を片っぱしから摂取して捨てざる、その口許の大きさは、心なき児童たちをも驚嘆させずにはおかなかったものと見えます。
 その後、子供たちは遂に与八さんを、小舟に乗せて遊ぼうじゃないかと言い出しました。
「ああ、それがいいや、先に与八さんに石を積んで大勢して遊んだから、今度は与八さん一人を舟に乗せてやろう」
 忽(たちま)ちに気が揃って、与八ひとりが舟に乗せられ、素早く裸になった子供たちは、ざんぶざんぶと川へ飛び込んで、その舟を前から綱で引き、両舷(りょうげん)と後部から、エンヤエンヤと押し出して、多摩川の中流に浮べました。
 従来、与八は、馬鹿の標本として見られておりました。今日とてもその通り。ただ馬鹿は馬鹿だが、始末のいい馬鹿というにとどまるのが与八の身上であります。
 狡猾(こうかつ)なのは、この馬鹿の力を利用して、コキ使い、米の飯を食わせるといって、食わせないで済ますことが、子供の時分から多いのでありますが、与八は欺(あざむ)かれたとても、あんまり腹を立てないことは今日も変ることがありません。
 欺かるるものに罰なし。それをいいことにして、ばかにし、利用し、嘲弄(ちょうろう)している者が、暫くあって、なんだか変だと思いました。
 欺かるる者に平和があり、微笑があるのに、欺いた自分たちに幸いがない。与八を追抜いたつもりで、さて振返って見ると、後ろには与八がいないで、ずんと先に立っているのを見て、ハテナ、と首を傾けた者が一人や二人ではありませんでした。このごろでは、
「与八をだますと、ばちが当る」
 誰いうとなく、そんな評判が立つようになりました。
 というのは、与八をだまして利用した者の、最後のよかったものは一つもないからであります。
 与八が、ばかにされ通しで、ほとんど絶対におこらないのを見て、おこるだけの気力のないものと見込んだのが、おこる者よりも、おこらない者のむくいがかえっておそろしい、というように気を廻したものが現われるようになりました。
 だが、この男に、微塵(みじん)も復讐心(ふくしゅうしん)の存するということを信ずる者はありません。
 表面、愚を装うて、内心睚眦(がいさい)の怨(うら)みまでも記憶していて、時を待って、極めて温柔に、しかして深刻に、その恨みをむくゆるというような執念が、この男に、微塵も存しているということを想像だもするものはないのであります。
 馬鹿は馬鹿なりでまた強味があるものだ、と人が思いました。
 今でも、与八が馬に荷物をつけて通りかかるのを見て、
「与八さん、後生(ごしょう)だから、ちっとべえ手伝っておくんなさい、与八さんの力を借りなけりゃ、トテも動かせねえ」
といって、何か仕事をたのむことがあると、与八は二つ返事で承知をして、そのたのまれた仕事にかかるのですが、その時は、まず馬をつないで、それから馬につけた荷物を、いちいち取下ろして地上へ置いてから、はじめてたのまれた仕事にかかるのであります。そうして、たのまれた仕事を果すと、その荷物をいちいちまた馬に積みのせて、それから前途へ向って出かけるのであります。
 ある人が、そのおっくうな手数を見て、与八さん、ちょっとの間だから、馬に荷物をつけて置いておやりなすったらどうだい、いちいち積んだり、卸したり、大変な事じゃねえか……というと、与八は答えて、馬にも無駄骨を折らせねえように……と言います。そこが馬鹿の有難味だといって、みんなが笑いました。
 しかし、こういうような与八の無駄骨を見て、笑う者ばかりはありません。ある時、御岳道者が、この与八のおっくうな積みおろしを見て感心して、
「ちょうど、丸山教の御開山様のようだ」
と言いました。
 丸山教の御開山様というのは、武州橘樹郡(たちばなごおり)登戸(のぼりと)の農、清宮米吉のことであります。
 この平民宗教の開祖は、馬をひっぱって歩きながら、途中で御祓(おはら)いをたのまれると、これと同じように、いちいち荷物を積み卸しの二重の手間をいとわず、馬をいたわって、しかして後に御祓いにかかったものであります。
 この人は、また言う、
「おれは朝暗いうちから江戸へ馬をひいて通(かよ)ったが、ただの一ぺんでも馬に乗ったことはないよ」
 いやしくも、一教を開く者にはこの誠心(まごころ)がなければならない。与八のは、必ずしもその形だけを学んだものとは思われません。
 それから、また一つ不思議なことは、木を植えても、農作物を作っても、与八がすると、極めてよく育つことであります。
 同じように種をまいて、同じように世話をして、それで与八のが特別によく育って、よく実るのが不思議でありました。
 ある時、老農がこの話を聞いて、与八の仕事ぶりを、わざわざその畑まで見に来て、
「なるほど、まるで岡山の金光様(こんこうさま)みたようだ」
といいました。
 この老農は、どこで金光様の話を聞いて来たか知らないが、与八の仕事ぶりを見て、そこに共通する何物をか認めたと見え、
「作物をよく作る第一の秘伝は、作物を愛することだ」
とつぶやいて帰りました。
 それだけで老農は、与八のまいた種が、他と比較して特別によかったとも言わず、その地味が一段と立越えていたとも言わず、肥料が精選されていたとも言わずに帰りましたから、わざわざ連れて来た人が、あっけなく思いました。

 備前岡山の金光様は……と、それから右の老農が、附近の農夫たちを集めての話であります。
 これも日本に生れた平民宗教の一つ……金光教の開祖は、備州浅口郡三和村の人、川手文次郎であります。
 自分の子供を、先から先からと失って行った文次郎は、その愛を米麦に向って注ぎました。
 子を思う涙が、米や麦にしみて行きました。人を愛する心と、物を愛する心に変りはありません。子を育てるの愛を以て、米麦を育てるのですから、米麦もまた、その育てられる人に向って、親の恵みを以て報いないというわけにはゆきますまい。
 農夫と作物とは、収穫する人と、収穫せらるる物との関係ではなくして、育ての親と、育てられる子との関係でありました。
 ある年のこと、浮塵子(うんか)が多く出て、米がみんな食われてしまうといって、農民たちが騒ぎ出し、石油を田にまいて、その絶滅を企てたけれども、文次郎だけは石油をまかなかったそうです。それだのに収穫の時になって見ると、石油をまいた多くの田より、まかなかった文次郎の田の収穫が遥(はる)かに勝(まさ)っていたということです。
 また、ある年のこと、米を作るのに追われて、麦を乾かさないで納屋(なや)へしまい込んでしまったが、文次郎の麦には虫が入らなかったが、同じように麦をしまい込んだ他の百姓は、みんな虫に食われてしまったということであります。
 これはなんでもないことです。ただ作物を人として扱うのと、物として扱うだけの相違であります。石油を注ぐことの代りに、愛情を注ぐだけの相違であります。日に当てなくとも、温かい心を当てていただけの相違なのに過ぎません。
 そう言って、老農は、植林も農業も、地味、種苗、耕作は第二、第三で、作物をわが子として愛するの心、これよりほかによき林をつくり、よき作物をつくる方法はないものだということを、懇々と説明して帰りました。
 つまり、この老農は、農政学も、経済学も教えない第一義を、与八を例に取って説明をして帰りましたのです。

 徳川の中期以後、日本には多くの平民宗教が起りました。
 法然(ほうねん)、親鸞(しんらん)、日蓮といったように、法燈赫々(ほうとうかくかく)、旗鼓堂々(きこどうどう)たる大流でなく、草莽(そうもう)の間(かん)、田夫野人の中、或いはささやかなるいなかの神社の片隅などから生れて、誤解と、迫害との間に、驚くべき宗教の真生命をつかみ、またたくまに二百万三百万の信徒を作り、なお侮るべからざる勢いで根を張り、上下に浸漸(しんぜん)して行くものがあります。
 眇(びょう)たる田舎(いなか)の神主によってはじめられた、備前岡山の黒住教もその一つであります。
 たれも相手にする者のなかった、おみき婆さんの天理教もその一つであります。
 金光教の金光大陣も、丸山教の御開山も、ほとんど無学文盲の農夫でありました――与八のことは問題外ですが、万一、こんな行いがこうじて、与八宗がかつぎ上げられるようなことにでもなれば、それは与八の不幸であります。

         四

 根岸の、お行(ぎょう)の松(まつ)の、神尾主膳の新ばけもの屋敷も、このごろは景気づいてきました。
 それは、七兵衛が、例の鎧櫃(よろいびつ)に蓄(たくわ)えた古金銀の全部を、惜気もなく提供したところから来る景気で、これがあるゆえに、ばけもの屋敷に、一陽来復の春来れりとぞ思わるる。
 この黄金の光で、ばけもの屋敷がいとど色めいてきたのみならず、この光によって、いずくよりともなく、頼もしい旧友が集まって来たことも不思議ではありません。
 ある夕べ、主膳は、このたのもしい旧友の頭を五つばかり揃えて、悠然(ゆうぜん)としてうそぶきました、
「黄金多からざれば、交り深からず」

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