大菩薩峠
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著者名:中里介山 

         一

 机竜之助は昨夜、お絹の口から島田虎之助の最期(さいご)を聞いた時に、
「ああ、惜しいことをした」
という一語を、思わず口の端から洩らしました。
 そうしてその晩、お絹は夜具を被(かぶ)って寝てしまったのに、竜之助は柱に凭(もた)れて夜を明かしたのであります。
 その翌朝、山駕籠(やまかご)に身を揺られて行く机竜之助。庵原(いおはら)から出て少し左へ廻りかげんに山をわけて行く。駕籠わきにはがんりきが附添うて、少し後(おく)れてお絹の駕籠。
 山の秋は既に老いたけれども、谷の紅葉(もみじ)はまだ見られる。右へいっぱいに富士の山、頭のところに雲を被っているだけで、夜来の雨はよく霽(は)れたから天気にはまず懸念(けねん)がありません。
 お絹は駕籠の中から景色を見る。竜之助は腕を組んで俯向(うつむ)いている。
「百蔵さん」
 お絹はがんりきのことを百蔵さんと呼ぶ。
「何でございます」
「まだその徳間峠(とくまとうげ)とやらまでは遠いの」
「もう直ぐでございます、この辺から登りになっていますから、もう少しすると知らず知らず峠の方へ出て参ります」
「なんだか道が後戻(あともど)りをするような気がしますねえ」
「峠へ出るまでは少し廻りになりますから、富士の山に押されるようなあんばいになります、その代り峠へ出てしまえば、それからは富士の根へ頭を突込(つっこ)んで行くと同じことで、爪先下(つまさきさが)りに富士川まで出てしまうんでございますから楽なもので」
と言いながら、竜之助の駕籠(かご)わきにいたがんりきが、お絹の駕籠近くへやって来て、
「それでもまあ、天気がこの通り霽(は)れましたからよろしゅうございます」
「天気はよいけれども、お前さんのために飛んでもないところへつれ込まれてしまいました」
「へへ御冗談でしょう、あなた様の御酔興(ごすいきょう)で、こんな深山の奥へおいでなさるのですから」
「でも、お前さんが、山道は景色が好いの、身延(みのぶ)へ御参詣をなさいのと、口前(くちまえ)をよく勧(すす)めるものだから」
「はは、その口前の好いのはどちらでございますか、この道は険(けわ)しいから、あなた様だけは本道をお帰りなさいと先生もあれほどおっしゃるのに、山道は大好きだとか、身延山へぜひ御参詣をしたいとかおっしゃって、わざわざこんなところへおいでなさる。いや、これでなけりゃあ、竹の柱に茅(かや)の屋根という意気にはなれませんな」
「そんなつもりでもないけれど、わたしも実は本道が怖(こわ)いからね。七兵衛のような気味の悪い男に跟(つ)けられたり、人を見ては敵呼(かたきよば)わりをするような若い人に捉まったりしては災難だから、それでわざわざ廻り道をする気になりました」
「いや、どっちへ廻っても怖いものはおりますぜ、この道を通って身延へ出るまでには、きっと何か別に怖い物が出て参りますよ」
「おどかしちゃあいけませんね、何が怖いものだろう」
「ははは、別に怖いものもおりませんが、山猿が少しはいるようでございます、それから、どうかすると熊が出て参ります」
「怖いねえ」
「先生が附いているから大丈夫でございますよ」
 竜之助は前の駕籠で、二人の話を耳に入れている。がんりきもなれなれしいが、お絹もなれなれしい。二人ともになれなれしい口の利(き)き様(よう)であります。
 お絹という女、誰にでもなれなれしい口の利き方をする。旗本のお部屋様として納まっていられない女。気象(きしょう)によっては、こんな男と言葉を交すのでさえも見識(けんしき)にさわるように思うのであるに、この女は、それと冗談口(じょうだんぐち)をさえ利き合って平気でいます。
 がんりきが昨夜の言い分、お絹はそれを知らないから、平気で話をしているが、たとえ冗談にもせよ、そういうことを聞いている竜之助にとっては、二人のなれなれしい話し声を不愉快の心なしに聞いているわけにはゆくまいと思われます。

「ここが峠の頂上でございます」
 ようように山駕籠が徳間峠の上へ着きました。
「さあ若い衆さん、休んでくれ」
 徳間峠の上で二つの駕籠が休む。がんりきは腰に下げていた一瓢(ぴょう)を取り出して、
「先生、お一つ、いかがでございます」
 駕籠の中の竜之助に持って行って、次に、
「若い衆さん、お前も一つどうだね」
「へえ有難うございます」
 この駕籠舁(かごかき)は海道筋(かいどうすじ)の雲助と違って、質朴(しつぼく)なこの辺の百姓。
「御新造様(ごしんさま)、一ついかがでございます」
「駕籠を出ていただきましょう」
 がんりきが、また猪口(ちょく)を出す手先をお絹は見咎(みとが)めて、
「百蔵さん、お前の手はそりゃ……」
「ええ?」
 がんりきは驚いて手を引込ませ、
「ナニ、いたずらでございます」
と言って、左右の駕籠舁の方に気を兼ねるらしい心持。けれども質朴な駕籠舁は、この時に眼を見合せました。
「こりゃ甲州無宿の入墨者(いれずみもの)だ、この入墨者を峠から一足でも甲州分へ入れた日にゃあ、こっちの首が危ねえ」
 こう言って駕籠舁どもが、一度に立ち上って噪(さわ)ぎ出しました。
「抜いた抜いた!」
 噪ぎ出した駕籠舁が急に仰天して逃げ出します。見れば駕籠から出た机竜之助が刀を抜いて立っていました。
「先生、何をなさいます」
 竜之助は物を言わず、逃げて行く駕籠屋は追おうともせずに、がんりきの声のする方へ向って来ますから、
「あ、危のうございます」
 がんりきも驚く、お絹も驚く。驚いて逃げるがんりきの方へ寄って行く竜之助、ふらふらとして足許(あしもと)が定まりません。
 がんりきは、竜之助の刀を避けて、楢(なら)の木の蔭へ隠れる。白刃(しらは)を閃(ひら)めかした竜之助は、蹌踉(そうろう)として、がんりきの隠れた楢の木の方へと歩み寄る。
「先生、御冗談じゃありません、わっしをどうしようと言うんでございます」
 がんりきは木の蔭から叫ぶ。その声をたよりに刀を振りかぶった竜之助。
「先生、眼が見えるんでございますか、わっしをお斬りなさるんですか」
 がんりきは、刀を振りかぶった竜之助の形相(ぎょうそう)を見てまた驚く。静かに歩み寄る足取りが盲目の人とは思われない。閉じた眼が、がんりきの面(かお)に向いて輝くような心持がしますから、
「あ、危ねえ」
 がんりきは、楢の木の蔭に居堪(いたたま)らないで、身軽に飛んで、高さ一丈余りある国境(くにざかい)の道標の後ろへ避ける。
 「是(これ)より甲斐国(かいのくに)巨摩郡(こまごおり)……
 是より駿河国(するがのくに)庵原郡(いおはらごおり)……」
 がんりきの飛んだ方へ竜之助が向き直る、そうして徐々(そろそろ)と歩み寄る。
「あ、冗談じゃねえ、先生、眼が見えるんだね」
 がんりきは、この時、本当にまだ竜之助の眼が見えると思ったくらいですから、この道標の蔭からいずれへ逃げてよいかわからない。甲斐国巨摩郡と書いた方へ出れば右を斬られる、駿河国庵原郡と書いた方へ出れば左を斬られる、こうしていれば道標もろとも前から梨子割(なしわ)り。後ろを見せれば背を割られる。進退窮(きわ)まって道標の蔭から竜之助の隙(すき)をうかがう。
 そこへ歩み寄って来た竜之助。がんりきはたまらなくなって、
「おい、御新造様(ごしんさま)、先生は気が違ったぜ、なんの咎(とが)もねえわっしをお斬りなさろうと言うんだ、あ……危ねえ」
 この時、水を割るようにスーッと打ち下ろした竜之助の刀。絶体絶命で脇差へ手をかけながら左へ飛び抜けたがんりきの右の手を、二の腕の半ばからスポリ、血が道標へ颯(さっ)と紅葉(もみじ)。
「あ痛えッ」
 がんりきは、斬り落された切口を左の手で着物の上から押えて横っ飛び。
「狂人(きちがい)に刃物とはこれだ、手が利いているだけに危なくって寄りつけねえ、御新造様、早く逃げましょう、ぐずぐずしているとお前様も殺(や)られちまいますぜ」
 尋常ならば眼を廻すべきところ、腕一本落して命を拾い出そうとするがんりきは、
「早くお逃げなさいと言うに」
「どうしたんでしょう、まあ」
 お絹は、さすがに狼狽(ろうばい)して途方に暮れているのを、
「どうもこうもありゃしねえ、早くわっしの逃げる方へお逃げなさい」
 がんりきは峠道を飛び下りる。お絹はそれと同じ方へ飛び下りる。駕籠屋は、ただ白刃の光を見ただけで疾(と)うに逃げてしまいました。駕籠屋の逃げたのは駿河の国、がんりきお絹の逃げたのは甲斐の領分、双方ともに後をも見ずして逃げ去ったあとに、ひとり残る竜之助。
 刀の血振(ちぶる)いをして道標の柱へ手をかけてほっと一息。
 やがて持っていた刀をそこへ投げ出すと斉(ひと)しく、道標の下へ崩折(くずお)れるように倒れて、横になって落葉の上へ寝てしまいました。

 昨夜の雨がまだ降り足りないで、富士の頭へ残して行った一片の雨雲がようやく拡がって来ると、白根山脈の方からも、それと呼びかわすように雨雲が出て来る。それで、天気が曇ってくると富士颪(ふじおろし)が音を立てて、梢(こずえ)の枯葉を一時に鳴らすのでありました。
 竜之助は道標の下に倒れて、昏々(こんこん)として眠っている間に、サーッと雨が降って来ました。時雨(しぐれ)の空ですから、雲が廻ると雨の落ちるのも早い。
 ちょうど雑木(ぞうき)の蔭になったところで、いくらか雨は避けられるようになっているが、葉末から落ちる時雨の雫(しずく)がポタリポタリと面(かお)を打つので竜之助が、うつらうつらと気がついたのは、あれから、やや暫らくの後のことでした。
「雨が降っているようだな」
 まだ本当に正気には返らないで、昏倒(こんとう)から醒(さ)めかかった瞬間の心持は、連々(れんれん)として蜜のように甘い。時雨の雫がポタリポタリと面を打つことが、かえって夢うつつの間を心持よくして、いったん醒めかかってまた昏々として眠くなるうちに、
「ああ、水が飲みたい」
 で、また我に返りました。
 せっかく、よい心持で、いつまでも眠りに落ちようとするのに咽喉(のど)はしきりに水を飲みたがって、
「水、水、水」
 譫言(うわごと)のように言いつづけたが、誰も水を持って来てくれそうな者はなく、水を欲しがる竜之助の面へは雨の雫がポタリポタリと落ちて来るばかりです。
 こういう時の夢には、滾々(こんこん)としてふき出している泉や、釣瓶(つるべ)から釣られたばかりの玉のような水、草叢(くさむら)の間を潺々(せんせん)と流れる清水などが断えず眼の前に出て来るもので、
「あ、有難い、水」
と言って竜之助は、それを手に掬(むす)んで口へ持って来ようとすると、煙のようになくなってしまいます。
 竜之助は、これもかなり長い時の間、夢うつつの境に水を求めて昏倒していましたが、村方の方からは駕籠だけも取り戻しに来そうなものだが、それも来る様子はなし、腕を斬られて逃げたがんりきと、それと一緒に逃げたお絹の方からも何の音沙汰(おとさた)もなし。
「まだ雨が降っているようじゃ」
 もうかれこれ日は暮れる。その時分ようやく正気がつきかけると、さて自分はいま峠の上に寝ているな、うむ、あのがんりきという奴を斬った、駕籠屋が逃げた、そもそもここは甲斐と駿河の境だと彼等の話に聞いていた、その前にかの古寺、その前は……それにしても水が飲みたい――
「水、水」
 咽喉は乾いてゆくけれど、昏睡(こんすい)の慾が強くて、ややもすれば深き眠りに落ちようとする。
 ここは甲州入りの抜道(ぬけみち)、滅多(めった)に人の通るところでないことが、寝ている竜之助のためには幸か不幸か。このまま深い眠りに落ちてしまっては……よし眼が覚めたところでこの人には、どちらへどう行ってよいか方向がわかるまいけれど……

         二

 甲斐の白根山脈と富士川との間の山間一帯に「山の娘」という、名を成さない一団体の女子連(おなごれん)があります。
 仕事の暇な時分に、山の娘は他国へ行商に出かける。
 山の娘は、揃いの盲縞(めくらじま)の着物、飛白(かすり)の前掛(まえかけ)、紺(こん)の脚絆手甲(きゃはんてっこう)、菅(すげ)の笠(かさ)という一様な扮装(いでたち)で、ただ前掛の紐とか、襦袢(じゅばん)の襟(えり)というところに、めいめいの好み、いささかの女性らしい色どりを見せているばかりであります。娘といっても、なかにはかなりのお婆さんもあるけれど、概して鬼も十八という年頃に他国へ出入りして、曾(かつ)て山の娘の間から一人の悪い風聞(ふうぶん)を伝えたものがないということが、山の娘の一つの誇りでありました。
 なんとなれば、これらの娘たちが、もし旅先で、やくざ男の甘言(かんげん)に迷わされて、身を過(あやま)つようなことがあれば、生涯浮ぶ瀬のない厳(きび)しい制裁を受けることになってもいるし、娘たち自身も、その制裁を怖るるよりは、そんな淫(みだら)なことに身を過つのを慙(は)ずる心の方が強かったからであります。
 それと共に、一隊の間には、たとえ離れていても糸を引いておくような連絡が取れていて、一人が危難に遭うべき場合には、たちどころに十人二十人の一隊が集まり得るようにしてあるから、たとえいかなる悪漢でも、その中の一人を犯すことはできないのでした。故に山の娘は、知らぬ他国へも平気で出入りして怖るることがないのであります。それとまた、山の娘の一徳は秘密を厳守する力の優れたことで、彼等の間において約束された秘密は、それは大丈夫が金石の一言と同じほどの信用が置けるのであります。女は秘密の保てないものという定説が、山の娘だけには適用しない、彼等はその仲間うちの秘密を他に洩らすことのないように、得意先の秘密と人の秘密をも洩らすようなことは決してないのです。大塩平八郎の余党の中には甲州へ落ちたものが少なからずある、その中の幾人かは、この山の娘たちによって隠され保護されて一身を全うしたという説は、あながち嘘ではないようです。
 ちょうど降りかかった時雨(しぐれ)を合羽(かっぱ)で受けて、背に負うたそれぞれの荷物を保護しながら、十余人のこの山の娘が、駿河路(するがじ)から徳間峠(とくまとうげ)へかかって来たのは同じ日の夕方でありました。
「さあ、峠の上へ着きましたぞい」
「福士(ふくし)まで行って泊らずかい」
 組の頭(かしら)は、さきに竜之助、お絹の一行が乗り捨てた山駕籠のところまで来て、
「まあ、ここに駕籠が二つも乗り捨ててあるが、どうしたものであろうなあ」
「物扱いの悪い人たちじゃ」
 その駕籠の周囲へ山の娘の一隊が集まる。
「身延様参(みのぶさままい)りは、折々この道を通る人がありますから、それが……はて、煙草入が落ちていたり、駕籠の中には蒲団(ふとん)や包みがそのままであってみたり……」
 彼等はようやく異様な眼で、そこらあたりを見廻し、
「おお、怖い、落葉の中に光る物が……」
 最も早く見つけたのは、組の中でもいちばん若い人。
「あれあれ、血の塊(かたまり)が……」
 山の娘の一人が絶叫する。
「血の塊と言わんすか」
 駈けて行って見ると、
「おう、気味の悪い、人の片腕、こりゃ人間の片腕ではございませぬかいなあ」
 落葉の上の片腕、血は雨に打たれてドロドロにとけて流れている。
「ああ、ここには人が一人殺されて倒れていますわいなあ」
「ナニ、人が殺されて?」
 山の娘は、今度は走り出さないで、十余人が一度にかたまってしまう。針鼠(はりねずみ)は危険に遭うた時は、敵へ向っては反抗しないで、かえってわが身を縮める。山の娘たちもまた、危難の暗示ある時は、遠のいていたものが必ず密集する、そうして組の頭(かしら)の取締りの者がまず口を開くまでは、なんとも言わないのが例となっているのでした。
「皆さん」
 真中に立った頭の女は三十ぐらいの年頃で、血色がよくて分別のありそうな人。
「はい」
 一同は神妙に返事をする。
「身延参りをなさんす旅の人が、今これで追剥(おいはぎ)にあいなさったようじゃ。これから先の道が危ない。皆さんたち甲州入りをなさる気か、それとも駿河の方へ帰りますか」
「それは姉さん次第」
「それなら皆さん、駿河へ帰るも甲州へ入るも人家までは同じぐらいの道程(みちのり)、いっそ甲州へ入ることに致しましょう」
「承知しました」
「わたしが先へ立って参ります、お浪さん後からおいでなさい、いちばん若い人を真中にして」
「心得ました」
「わたしが音頭(おんど)を取りますから、人家へ出るまで皆さん、歌をうたって下さいまし」
「よろしゅうございます」
「それで、人家へ着いたなら、お役人の方へ御沙汰(ごさた)をしなくてはならぬから、一通り、あの人の殺されているところを調べて参りましょう。さあ一緒になって」
 一団になった山の娘は粛々(しゅくしゅく)として道標の傍(かたわら)へやって来る。
「長い刀……」
 頭のお徳は竜之助が捨てた刀を落葉の中から拾い取る。
「この片腕……」
 血が雨で洗われている片腕――さすがに気味を悪がって面(かお)を反(そむ)ける。
「この人は、こりゃお武家じゃわいな」
 恐る恐る竜之助の傍へ寄る。
「水、水が飲みたい」
「え、えッ!」
 山の娘たちは一足立ち退く。
「生きていますぞいな、このお人は」
「なんぞ物を言いましたぞいな」
 年嵩(としかさ)のお徳とお浪とは、竜之助の傍へ再び寄って来て、
「もし」
「うーむ」
「もし」
 背を叩(たた)いて呼んでみて、
「このお人は生きてござんす、その片腕を切られたのは、このお人ではござんせぬ、薬を飲まして呼び生(い)けて上げましょう」
 薬はお手の物。
「水があるとな」
「どこぞ捜(さが)して来ましょうか」
 若いのが一人出ようとするから、
「いいえ、離れてはなりませぬ、一足なりと一人でここを出てはいけませぬ。皆さん、笑いなさんな、このお人に、わたしが口うつしでこの薬を飲まして上げるから」
 山の娘の頭(かしら)のお徳は、気付けの薬を自分の口へ入れて噛(か)む。
 竜之助を抱いてお徳は、口うつしに薬を飲ませる。
 男に許すことを知らない山の娘も、人を助ける時には大胆な挙動をする。よし、これが竜之助でなくして、道に倒れた悪病の乞食であったにしても、その一命を取り返す必要があれば、山の娘は必ずこういうことをするのです。
 無論、一行の中には、それを怪しむものもなければ笑うもののありようはずがない。
「はーっ」
と気が開(ひら)けた竜之助。
「お気がつきましたかいなあ」
「有難い」
「お気を確かにお持ちなさいませ」
「もう大丈夫」
 竜之助は身を起して、道標の傍に立とうとしたけれど足がふらふら。
「お危のうござんす」
 山の娘たちが押える。
「このお刀はあなた様の……」
「ああ、そう。いや、どうも有難い」
「拭いて上げましょう」
 山の娘は手拭(てぬぐい)で刀を拭いて竜之助に渡す。
「ここに人の片腕が斬り落されてござんすが、こりゃどうしたわけでござんすかいな」
「ああ、それは……」
 竜之助は刀を鞘(さや)に納めながら、
「悪い奴が出たから斬ったのじゃ」
「悪い奴、その悪い奴は、片腕だけを残してどっちへ参りましたかいな」
「いずれへ逃げたか知らぬ、斬ると逃げた、そのままわしは眠くなってここへ倒れて寝た故に、前後のことは更にわからぬ」
「悪い奴でござんすなあ。皆さん、その手をここへ持って来て、お武家様にお目にかけるがよいぞや、お見覚えがありなさんすかも知れぬ」
「それもそうでござんすな」
 お浪が拾って来た、がんりきの片腕。
「どうぞこの悪い奴の片腕を、篤(とく)とごらん下されましな」
「はは、わしは眼が見えぬのじゃ、この通り不自由者じゃ」
「お目がお不自由……まあ、そうでござんしたか、それは失礼なことを」
 山の娘たちは、今更のように竜之助の面を見る。
「ああ、皆さん、この片腕はなあ」
 腕を持って来たお浪が、何か気がついたように叫ぶ。
「その片腕が、どうなさんした」
「この片腕には入墨がしてありますぞいな。この入墨は甲州入墨といって、甲州者で悪いことをしたのが、甲府の牢屋(ろうや)へつながれて追い出される時に、この入墨をされるのじゃわいな」
「まあ、どこにそんな入墨が」
「これ、この通り、手首から五寸ほどのところに二筋の入墨」
 なるほど、斬り落された腕にはその通りの入墨がある。
「案(あん)の定(じょう)、悪い奴。悪い奴なればこそ、こうして腕を切られても逃げ了(おお)せたと見えますなあ」
「それはそうとあなた様、お不自由なお身で、おつれもござんせぬにここへおいでなさいましたかいな」
「つれはあったけれど、やはりその騒ぎで逃げてしまった」
「そうして、ここはお関所のない山路、どうしてこんなところへ」
「これから行けば身延へ出られるとやら。身延へ参詣して甲州街道へ案内すると言うてつれて来られたが」
「左様でござんすかいな、なんにしてもこの雨の降るところでは……皆さん、どうして上げましょうぞいな、このお方様」
「幸い、乗り捨てなさんしたあのお駕籠、あれへお乗りなすったら、わたしたちが交(かわ)る交る舁(かつ)いでお上げ申して、ともかくも人家のあるところまで……」

         三

 東海道筋から甲州入りの順路は、岩淵(いわぶち)から富士川に沿うて上ることであります。甲州へ入ると、富士川をさしはさんで二つの関があります。向って右の方なのが十島(とおじま)、左が万沢(まんざわ)で、多くは万沢の方の関を通ります。宇津木兵馬もまた同じく万沢の関へ通りかかりました。兵馬は要路の人から証明を貰っているから、いつ、どこの路をも滞(とどこお)りなく通過することができるので、七兵衛は兵馬と一緒に歩く時のみはその従者として通行するが、一人で歩く時は、到るところのお関所を超越してしまいます。
「あいつはたしかに甲州者なんでございます」
 兵馬に向って七兵衛が言う。
「どうしてそれがわかります」
「言葉にも少し甲州訛(なま)りがありますのと、それからあいつの手に入墨があるのでございます、そいつが甲州入墨と、ちゃんと睨(にら)んでおきましたよ」
「甲州入墨というのは?」
「手首と臂(ひじ)の間に二筋、あれこそ甲府の牢を追放(おいはな)しにされる時に、やられたものに違いございません」
「甲府を追放されたものが甲州へ入るとは、ちと受取りがたい」
「なに、あいつらはそんなことに怖(おど)っかする人間ではございません。なんでもこの辺の間道(ぬけみち)を通って、甲州入りをしたものに違いございませんが、あいつが盲目(めくら)と足弱をつれて、どういう道行(みちゆき)をするかが見物(みもの)でございます。これから川岸を西行越(さいぎょうご)え、増野(ますの)、切久保(きりくぼ)、福士(ふくし)と行くうちに、何かひっかかりが出て来るから見ていてごらんなさい、無事に身延まで伸(の)せたら、この七兵衛が兜(かぶと)を脱いでしまいます」
「しかし、間道から身延へ出ないで、信濃路へ紛(まぎ)れ込むようなことはなかろうか」
「どうしてどうして。あれごらんなさい、あの白根山(しらねさん)の山つづき、鳥獣(とりけもの)でさえも通(かよ)えるものではございませぬ。どのみち、水が低いところへ落ちて来るように、あの道を出たものは、いやでもこの富士川岸へ落ちて来るのが順なのでございますよ」
「もしまた、さきにこの川へ出て、船で逆に東海道へ戻ってしまうようなことはなかろうか」
「それは何とも言えません……なにしろこの川は、鰍沢(かじかざわ)から岩淵まで十八里の間、下る時は半日で下りますが、これを上へ引き戻すには四日からかかりますからな。しかし、やっぱり舟にも関所がありましてね、舟改(ふなあらた)めをされますから、舟で逆戻りをするようなことになると、かえって毛を吹いて疵(きず)を求めるというようなことになりましょう、それは大丈夫でございます」
「舟改めはどこでやります」
「やはりこの万沢と十島とでやるのでございます。それにひっかかって御覧(ごろう)じろ、入墨者と女と、それからお尋ね者のような、あの竜之助様、忽ちに動きが取れなくなってしまうのでございますから、大丈夫、舟へかかる気遣(きづか)いはございません」
「七兵衛どの、そなたの言うように、あの三人が果して一緒におるものやら、それとも離れ離れになっているものやら、それもようわからぬではないか」
「三人は三(み)つ巴(どもえ)のようになって、ちょっとは離れられない組合せになっているのがおかしゅうございます。それとも離れる時には、どれか一つ命が危ない時で、まかり間違えば三つ共倒れになるのが落ちでございますから、そーっと置くのがかえって面白いんでございますがね」
 こんな話をしながら兵馬と七兵衛は、富士川岸の険路を、前に言ったように西行越(さいぎょうご)え、増野(ますの)、切久保(きりくぼ)と過ぎて、福士川(ふくしがわ)のほとりへ来た時分には日が暮れかかっています。
「昨日の雨で、少し水が出たようでございますが、ナーニ、このくらいなら大したことはございません、川留めになるようなことはございません」
 水のひたひたと浸(つ)いた板橋を渡りながら、
「この川は富士川の支流(わかれ)か知らん」
「富士川の支流ではござんすまい、駿河境の方から出て富士川へ流れ込むのでございましょう。これだけの流れでございますが、雨上りにはかえってこんなのが厄介で……」
と言いさして、板橋を半ばまで渡り来(きた)った七兵衛、そこで立ち止って、流れの少し上手(かみて)の方をじっと見る。
「宇津木様、少しお待ちなすって下さいまし」
 七兵衛は、先へ行く兵馬を呼び止めて、自分はやっぱり川の少し上手の方を見ています。
「どうしました」
「どうも何だか、あすこに変なものが、あの石と石との間に挟まっておりますな」
「おお、何か白いものが……」
 夕暮れのことであり、少し離れているところでしたから確(しか)とは見定め難いけれど、
「どうやら、人間の腕のように見えますが、あなた様のお眼では……」
「左様、わしが眼にもどうやら……」
「向うへ廻ってよく調べてみましょう」
 一旦、板橋を渡りきって七兵衛は、岩の間を飛び越えてそこへ行って見る。
「宇津木様、この辺でございましたな」
「そこへ真直ぐに手を伸ばせば……」
「それではこの棒で突き出してみますから、そちらで受けて下さいまし」
 岩の間に淀(よど)みもせず流れもせず、ふわりとしていたものを七兵衛が上から棒で突き流すと、兵馬の足許へ流れて寄ったのは、
「おお、たしかに人の片腕」
「なるほど、人の片腕に違いございませんな」
 七兵衛はその片腕を棒の先で砂洲(さす)の上へ掻(か)き上げて、腕を一見すると、意味ありげな笑い方。
「こんなことだろうと思った」
 兵馬にはその意味がよく呑込めないでいると、
「宇津木様、図星(ずぼし)でございますよ」
「図星とは?」
「この通り、御覧下さい、この腕に二筋の入墨がございます、これがさいぜんお話し申し上げた、甲州入墨でございます」
「なるほど」
「どうか、スパリとこの腕をやった切口をよく御覧なすって下さいまし、斬手がどのぐらいの奴だか、それをよく御覧なすって下さいまし」
「ははあ」
 兵馬は篤(とく)とその切口を見る、手は右の二の腕から一刀に。
「よく切ってある」
「さあ、斬った奴は生きてるか、斬られた奴は死んでしまったか、これからがその詮議(せんぎ)でございますよ。どのみち、この川上の仕事に相違ございません」
「尤(もっと)もだ」
「今晩はこの福士へ泊って、土地の人によく地の理を聞いてみましょう。地の理を聞いてから、この川上へ行って見ると、思いにつけぬ獲物(えもの)があるかも知れませんよ。なんでもこの川沿いに、駿河へ出る路が別にあるに相違ありませんですね。そうなれば、もうこっちのものでございますよ」
 七兵衛はなお川上を見る。兵馬はその腕をよく見ている。
「この腕がここへ流れつくまでには、かなりの時がたったであろう……斬って逃げたか、斬られて逃げたか」
「眼があんなでなけりゃあ、腕だけで逃す斬手ではございませんがね。またこっちの奴にしたところで、片一方斬られて、それなりで往生する奴でもございません。ところであのお絹という女、あの女がどっちへついて逃げたか、それは考え物ですね。この腕はこうして置くもかわいそうだから、砂の中へ埋めておいてやりましょう。まあ、あの野郎も、この腕一本のおかげで命拾いをしたと思えば間違いはござんすまい、この腕はあの野郎にとっては命の親でございますから、そのつもりでお葬(とむら)いをしてやりましょう」
 七兵衛は棒の先で砂場へ穴を掘って、足の先で腕を蹴込(けこ)んで、砂をかぶせて、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)をいう。

         四

 福士の宿屋へ泊った七兵衛と兵馬。
 七兵衛は行燈(あんどん)の下で麻を扱(しご)いて、それを足の指の間へ挿(はさ)んで小器用に細引(ほそびき)を拵(こしら)えながら、
「ねえ、宇津木様、知らぬ山道を歩くには、この細引というやつがいちばん重宝(ちょうほう)なものですよ、こいつを持って歩いてると、まさかの時にこれが命の綱となるのでございます」
 兵馬は旅日記を書いていましたが、
「なかなか、器用に撚(よ)れますな」
「へえ、子供の時から慣れておりますからな。子供の時分に、こうして凧糸(たこいと)を拵えたものでございますよ」
 七兵衛は見ているまに二間三間と綯(な)ってゆく。
「長い道中をする者は、これと火打道具だけは忘れてはなりません。あなた様なんぞは煙草をお喫(の)みなさりはしますまいが、それでも火打道具だけはお忘れなすってはいけませんでございます」
「それは忘れはしない」
「私共のように煙草を喫みますと、火打道具は忘れろと言っても忘れることじゃござんせん。おやおや、そんなことを言ってる間に、煙草が喫みたくなって参りました」
 七兵衛は細引をやめて煙草入れを取り、日記を書いている兵馬の方をちょいと覗(のぞ)き込みながら、
「大分、御精が出ますね」
「日記は、忙(せわ)しくともその日に書いておかねば、あとを怠る故」
「感心なことでございます。私共なんぞも若い時に、もう少し勉強をしておけば、もう少しよい人になったものでございましょうが、貧乏や何やかで、つい学問の方に精を出すことができませんで、今となっては後悔(こうかい)先に立たずでございます、若いうちに御勉強をなさらなくてはなりません」
 七兵衛は述懐(じゅっかい)めいたことを言う。
「おやおや、絵図をお書きになりましたね。なるほど、甲州入りの絵図でございますね。よくこんなに細かにお書きなすったものでございますね。私なんぞはこの甲州を通ることが幾度あるか知れませんが、まだ絵図面を取ってみようというような考えを起したこともございませんのに、さすがにあなた様は」
 七兵衛は兵馬が書いた甲州図を見て、
「なるほど、こちらの方が西川内領(にしかわうちりょう)、ここが万沢(まんざわ)でございますな。こちらが東川内領で十島(とおじま)。なるほど、この富士川を上ってここが福士、それから身延鰍沢(みのぶかじかざわ)、信州境から郡内(ぐんない)、萩原入(はぎわらいり)から秩父(ちちぶ)の方まで、よく出ておりますな。中へ入れば、これでずいぶん広いところもありますけれど、こうして見れば本当に甲州は山ばかりでございますな」
「いや、これはほんの見取図で、まだこれへ書き入れないほかの山や川や村がいくらもあるでしょう」
「そう言われるとそうでございますね。信州佐久(さく)の方へ出るところに、まだこのほかに一筋の路がございますよ。相州口にも、まだちょっとした間道(ぬけみち)がございますがな、それは処の案内者でないとわかりませんでございますよ。なるほど、この福士から富士川を上って徳間へかかって、駿河国(するがのくに)庵原郡(いおはらごおり)へ出る道は記してございますな。明日はこの道をひとつ、行ってみようというんでございますな」
「七兵衛どの」
 兵馬はようやく筆を休めて、
「さてどうも長の旅路を、いろいろとお世話にあずかってかたじけない、なんともお礼の申し様(よう)もござらぬが、そなたの仕事の障(さわ)りにはなりませぬか。こうしてお世話になることは、拙者にとってはこの上もない有難いことなれど、農事やその他の妨げになるようなことはないか、それがいつも心配で……」
「またしてもその御心配、それはお止めになされませ、そういうことにかけては私共は、これで気楽な身分でございます」
 兵馬は七兵衛の素姓(すじょう)をよく知らないのです。ただ自分の娘にしているお松のために尽す行きがかりで、自分に尽してくれるのだと、こう思っています。
 一緒に旅をしていても、不意に姿を見せなくなることがある。そうかと思うと不意にどこからともなく飛んで帰る。
「うちの方は屋敷も田畑も都合よく人に任せて来ましたから、これから当分、伊勢廻り上方見物(かみがたけんぶつ)をするつもりで、あなた様のお伴(とも)をして相当のお力になるつもりでございます」
と言って、上方からついたり離れたりしているのであった。気が利いていて足が迅(はや)い、兵馬にとってはこの上もない力であります。
「宇津木様、私共はあなた様のお力になるというよりは、こうして旅を巡(めぐ)って歩くのが何より楽しみなのでございますから、どうか打捨(うっちゃ)ってお置きなすって下さいまし。それからもう一つは、あのお松の爺父(おじい)さんというのを切った奴、それを探してやりたいんで。こうなってみると、おたがいに意地でございますから、首尾よくあなた様が御本望(ごほんもう)をお遂げなさるまではお伴(とも)していたいのでございます」
「いつもながらそれは有難いお心、本望遂げた上で、また改めてお礼のできる折もありましょう」
「いや、その時分には、私共はまたどこへ旅立ちしているかわかったものではございませんから、御本望をお遂げあそばしたとて、お礼なぞは決して望んではおりません。その代りに宇津木様、あなた様のお口から七兵衛という言葉を、一口もお出し下さらぬようにお願い申しておきたいんでございます」
「そりゃ妙なお頼みだが」
「ちと変っておりますけれど、あなた様が御本望をお遂げあそばします間の七兵衛と、あなた様が御本望をお遂げあそばしました後の七兵衛と、七兵衛に変りはございませんけれど、七兵衛の名前に大した変りがございますから、どうか七兵衛、七兵衛とおっしゃらないように」
「ははは、いよいよおかしいことを言われる」
 兵馬は何の合点(がてん)もなく、ただ笑うばかり。
「ははは、おかしいようなことでございますが、なかなかおかしいことではないんで、うっかり七兵衛とおっしゃると罰(ばち)が当りますよ」
「罰が当る?」
「そうでございます、御承知の通り私共は韋駄天(いだてん)の生れかわりでございまして、下手(へた)に信心をするとかえって罰が当ります」
 こんな話をしてその晩はここに泊り、兵馬と七兵衛はその翌朝、暗いうちに福士川の岸を上ります。
 岸がようやく高くなって川が細くなる。細くなって深くなる。峰が一つ開けると忽然(こつねん)として砦(とりで)のような山が行手を断ち切るように眼の前に現われる。七兵衛は平らな岩の上に立って谷底を見ていたが、
「この水は、あの山を右と左から廻(めぐ)ってここで落合(おちあい)になるようだが、徳間はあの山の後ろあたりになるだろう、ここらあたりから向うへ飛び越えて行けば妙だが」
 山の裾(すそ)から谷底、向うの岸をしばらく眺めているうちに、
「はて、この谷の中に何かいるようだ」
 七兵衛は蔽(おお)いかぶさった木の中から谷底を覗(のぞ)く。なるほど、ガサガサと物の動くような音がします。
「宇津木様、この下に何かいますぜ、熊か猪か、それとも鹿か人間か、ひとつ探りを入れてみましょう」
 手頃の石を拾って谷底へ投げ落すと、
「危ない、誰だい石を投げるのは」
 谷底から子供の声。
「おや、子供の声のようだ」
 七兵衛は深く覗き込んで、
「誰かいたのかい」
「人間が一人いるんだよ」
「人間が……そんなところで何をしているんだい」
「何をしたっていいじゃないか、お前こそ上で何をしているんだい」
「俺は旅人だが、下で音がするようだから石を抛(ほう)ってみた。そこにいるのはお前一人か」
「私一人だよ、もう石を抛ってはいけないよ」
「もう抛りはしない、その代り道を教えてくれないか」
「お待ち、今そこへ登って行くから」
「いいよ、お前が登って来なくても、こっちから下りて行く」
「危ないよ、上手に下りないと岩の上へ落ちて身体が粉になるよ」
「大丈夫――宇津木様、こんな谷底で子供が一人で何をしているのだか、ひとつ下りて行ってみましょう」
 七兵衛は兵馬を残して、木の根と岩角(いわかど)を分ける。
「小僧さん、どこだい」
「ここだよ」
 屏風(びょうぶ)のようになった岩の蔭。水を飛び越えて七兵衛は声のする方へ行って見ると、笠をかぶって首から肩へ袋をかけて、尻切半纏(しりきりばんてん)を着た十五六の少年が一人、水の中を歩いています。
「山魚(やまめ)でも捕るのかい」
「そうじゃないよ、もっと大きな物を捕るんだ」
「山魚より大きなもの――それでは鰻(うなぎ)か鱒(ます)でもいるのかい」
「そんな物じゃあない、もっと大きな物よ」
「鰻や鱒より大きなもの――はてな、こんなところにそんな大きな魚がいるのかね」
「いるから捕りに来るんじゃないか」
「なるほど、鰻や鱒よりも大きい……まさか鮪(まぐろ)や鯨(くじら)がいるわけでもあるまいな」
「ははあだ、鮪や鯨よりもっと大きな物がいるんですからね、お気の毒さま」
 人を食った言い分で七兵衛もいささか毒気(どっき)を抜かれます。
「鮪や鯨より、もっと大きなもの――それをお前はそのお椀(わん)で掬(すく)って、その袋へ入れようと言うんだね」
「そうだよ、その通り」
 ああ言えばこう言う、少しも怯(ひる)まぬ少年。
 なるほど、少年は手に一箇の吸物椀(すいものわん)を持っていて、それで水の中を掻き廻していたのです。右のお椀で水の中を掻き廻して掬い上げると、鮪も鯨も入ってはいない、ただ川の中の砂がいっぱい。
「どうだ、おじさん、わかったかい、これは鮪や鯨より大きいものだろう」
「何だい」
「このピカピカ光る物をごらん」
「はてな」
「このお椀を左右へこんなに動かすと、それ、だらだらと砂が溢(こぼ)れる。砂が溢れると、あとに残るのがこのピカピカする物。おじさん、これを何だと思う」
「なるほど」
「知らなけりゃ教えてやろう、こりゃ黄金(きん)というものだよ。黄金というものは、この世でいちばん大したものなんだ、鮪や鯨より、もっと大きなものなんだ」
「なあーるほど」
「国主大名のような豪(えら)い人でもこの黄金の前には眼が眩(くら)むんだよ、花のような美しい別嬪(べっぴん)さんでも黄金を見れば降参するんだよ。どんな者でも、この黄金の前へ出れば顔色が変るんだから、なんと大したものじゃねえか」
「なるほど、こいつは恐れ入った」
「この甲州という国は、昔から金が出る国なんだよ」
「そりゃわかった、黄金の話はまた後から聞かしてもらおう。小僧さんや、あの山はありゃ何という山だい」
「あれか、あれは土地では燧台(のろしば)と言っているが、昔はお城があったところ、今はお化(ば)けと狼が住んでいるんだ」
「お化けと狼が?」
「あの裏山へ廻ればお化けと狼がいるという話だけれど、こっちの方を通ればそんなものは出て来やしない」
「けれども、あっちを通れば徳間の方へは近いのだろう」
「近いには近いけれど、なにも、わざわざお化けや狼に食われに行かなくてもよかろう」
「そうお前のように、いちいち理窟攻めにされてはたまらない、ただ聞いてみただけのことだよ」
「だから親切に教えて上げるんだよ、燧台(のろしば)の後ろへは土地の人だって行きゃしない」
「そうして小僧さん、お前はお化けや狼の出るという山の傍で、鮪(まぐろ)や鯨より大きな金目(かねめ)のものを持っていて、それで怖(こわ)くはないのかい」
「ナニ、怖いことがあるものか、悪いことをしていなけりゃ怖いことはねえ」
「それでもお前、その袋にいっぱい入っている黄金(きん)の塊(かたまり)を盗まれたらどうする」
「ははは」
「泥棒が、お前の後ろから不意に出て来て、その黄金の塊をよこせと言ったらどうする」
「ははは、よこせと言ったら遣(や)っちまうよ、この袋の中にある黄金なんぞは、いくらのものでもありゃしない」
「でもお前、大金だろう」
「ナーニ、これっぽっち。気の利いた泥棒はこんなものに目をくれやしない、俺(おい)らはまだ、ウンと山の中へ隠しておくんだ」
「どこの山へ」
「そりゃ教えるわけにはいかねえ」
「ちっとわけてくれないかい」
「おじさん、黄金が欲しけりゃ、私の弟子におなりよ、一山当てれば何百万両になるんだから、泥棒よりよっぽど割がいいよ」
 七兵衛はこの子供にまくし立てられてしまいそうで、思わず苦笑(にがわら)いをしたが、
「ときに小僧さんや、お前は金をたずねてこうして山奥を歩いているらしいが、私共はちと人を尋ねてこの山の中へ来たもんだ。お前はこの二三日に、この入(いり)で人を見かけなかったかい」
「見かけたよ」
「どんな人を見かけたい」
 七兵衛も少し乗気になる。
「山の娘たちを見かけたよ」
「山の娘たちというのは?」
「山の娘たちというのは、この国から出て、他国へ商売に行って、この国へ戻る娘たちのことだよ」
「そうか、そのほかには?」
「そのほかにはお前さんを見かけたばかりだ」
「刀をさした人とか、脇差(わきざし)を持った人、そんな人は見かけなかったかい」
「そんな人は……そんな人は見かけなかったよ」
「では、その山の娘たちというのは、どっちから来てどっちへ行ったえ」
「それは駿河の方から来て、この少し先の入(いり)から篠井山(しののいざん)の方へ廻ったようだ」
「そうか」
 七兵衛はついにそれより以上の要領を得なかったから、
「有難う、小僧さん」
「さようなら、おじさん」
 七兵衛が岩を飛び越えて、また上へ登ってしまうと、暫くして金掘(かねほ)りの少年は、
「うまく嚇(おどか)してやった、人を尋ねると言ったのは大方あのことだろう、燧台(のろしば)の後ろへ行くとお化けと狼が出ると言ったら本気にしていやがった」
 椀(わん)を袋へ納めて牛の背のような岩の上へのぼる。
「おーい」
「おーい」
 高いところの七兵衛と兵馬、谷の中の金掘り少年と呼び交(か)わす。
「右へ、右へ」
 少年が右の方を指さすのに、兵馬と七兵衛はそれを知りながら面を見合せて左へ向う。
「右へ、右へ」
 少年はしきりに叫びながら手を振って、
「おやおや、あの二人は左へ廻ったな、すると藤蔓橋(ふじづるばし)のあるところを知ってるのかしら、あれを渡られるとちっと困るぞ」
 上の二人は、燧台に近い細道を川沿いに、
「あの小僧、なかなか人を食った小僧でございます、この山の後ろへ廻ると、お化けと狼がいるなんぞと大人を嚇(おどか)す気になっているが、どのみち近いに越したことはございませんから、この辺をひとつ向うへ突っ切って、この燧台の後ろへ廻ってみましょう」
「なるほど、この山は要害の山、狼火(のろし)を上げて合図をするに都合のよかりそうな山だ」
「左様でございます、土地の人は燧台とも言うし、城山とも言うそうでございますから、昔は城があったものでございましょう」
「あれ、あの小僧が手を振っている」
「右へ、右へと怒鳴(どな)っていますな。おやおや動き出した、木の椀が転がり落ちた、それをまた拾っている。いやあれは椀カケとも言い、揺鉢(ゆりばち)とも言って、あれで川の底や山の間の砂を淘(よな)げてみて金の有無(あるなし)を調べるんで。しかしあれだけの子供で、あれだけの慾があるのはなんにしても感心なことだ。甲州人というやつは、一体になかなか山気(やまき)がある。あの小僧なんぞも、あれでよく抜けたらエラ者になりそうだ。あれ、見えなくなってしまった、また谷底へ下りたかな。おや、あの山道を駆けて行く、どこへ行く気だろう」
 金掘りの少年は山の小径(こみち)をドンドンと駆ける、駆けながら独言(ひとりごと)、
「あのおばさんが、江戸へ連れて行ってくれると言ったから、江戸へ行ってしまうんだ、こんな山の中では出世ができない、いくら黄金(きん)を持っていても、それを上手に使わなければ詰らねえ、黄金を上手に遣(つか)うには都へ出なければ駄目だ、山へ来て黄金を取って都へ出て遣うんだ、黄金は人に掘ってもらって、自分はいつでも都にいて、遣って儲(もう)けていた方がいいだろう。それはそうと、いま向うの岸を廻った二人連れ、あれは、どうやら剣呑(けんのん)だ、早く行っておばさんに知らせてやろう」
 燧台の裏へ先廻りした金掘りの少年は、岩の間へ掛け渡した、半分は洞窟(ほらあな)になった小屋へ駆け込んで、
「おばさん、おばさん」
 笠も袋も投げ出し、
「人が来るよ」
 暗いところから面(かお)を現わして、こっちを見たのは、意外にも徳間峠を逃げたお絹の姿でありました。
「忠作さん、どんな人が来ます」
「五十ぐらいの合羽(かっぱ)を着た人が一人と、それから、まだ前髪のある若いお侍が一人」
「ああ、それでは……」
 お絹は、
「忠作さん」
 金掘りの少年の名は忠作というらしい。
「なに」
「今あの人は寝ているから、あのままにしておいて下さい」
「ようござんす」
「それから忠作さん、お前は江戸へ出たい出たいと言っていましたね」
「ああ、おばさん、お前がつれて行ってやると言ったじゃないか」
「ええ、あの人の創(きず)が癒(なお)ったらつれて行って上げるつもりでいましたよ」
「早く癒ればいいな」
「いつ癒るか知れないからね……」
「早く癒してやりたいな」
「早く癒してやりたいけれども、こんなところではお医者さんもなし、お薬もないから、いつ癒るんだか知れやしない」
「気の毒だな」
「それだから忠作さん、こっちへおいで」
 お絹は、そっと奥の方を気遣(きづか)うこなしで、静かに立って忠作を表の方へ誘い出し、耳に口を当てるようにして、
「気の毒だけれど、あの人をああして置いて、二人で江戸へ行ってしまいましょうよ」
「ええ?」
 忠作は眼を□(みは)ってお絹の面(かお)を見上げ、
「あんなに怪我をした人を置放しにして出かけるのかい」
「でも、いつ癒るんだか知れやしないもの」
「だって、それはおばさん、薄情というものだろう、あの人を置放しにして出かけて行ってしまうなんて」
「そうしてもいい人なんだよ、あの人はお前、本当は泥棒なんだよ」
「泥棒?」
「ああ、泥棒で悪い奴なんだから、助けない方がかえってためになるのですよ」
「だって、おばさん、お前は連れの人で、道で追剥(おいはぎ)に遭ってこんなことになったと話したじゃないか」
「それは、お前を驚かさないようにわざとそう言っておいたのよ、本当はあの人は泥棒で、入墨者といって、あの人をかくまったことが知れれば、お前もわたしも罪になるのだよ」
「どうして、おばさんはそんな人と連れになって来たの」
「それにはわけがあるんだけれど、今お前が知らせてくれた人が来るというのは、きっとお役人か何かだろうと思う、それで早く逃げなければお前もわたしも縛られてしまう」
「そりゃ困ったな」
「さあ、お前案内して、間道(ぬけみち)の方から早く逃げておくれ」
「だっておっ母(かあ)が里へ行ってまだ帰らねえし、それから……」
「そんなことを言ってる時ではありません、甲府まで逃げれば知った人もありますから、後はまたなんとでもなります」
「それじゃおばさん、逃げよう」
「早くそうしておくれ」
「待っておいで、大事なものを持って来るから」
「何を持って来るの」
「黄金(きん)を」
「黄金を?」
「穴蔵(あなぐら)の中に蔵(かく)してあるから、あれを持って来るよ」
「病人に触(さわ)らないようにね」
「ああ、いいよ」
 忠作は、また奥の洞窟の方へ取って返して一包の袋を重そうに提げて来ました。
「これだよ」
「中に何があるの」
「黄金」
「黄金というのは、あの小判(こばん)にするお金のことなの」
「そうだよ」
「どうしてそんな物を持っているの」
「俺(おい)らの死んだ父(ちゃん)と俺らと二人で、山や谷を探して見つけ出しておいたものだよ、これだけあればおばさん、三年や五年は楽に暮して行けると言ったよ」
「それがみんな黄金なら大したもの、三年や五年どころではない、一生、楽に暮して行けるかも知れない」
「それではおばさん、これを持って行こう、きっと江戸へつれてっておくれ、江戸へ行ったらこの黄金を売っておばさんにもお礼をするから」
「そんなませたことを言うものではありません、さあ、それを持ったら早く」
「間道(ぬけみち)から、おばさん、万沢へ出ようよ、その方が順だから」
「どっちでもお前のいいように」
「けれども、あの人を一人で置くのはかわいそうだな」
「大丈夫だよ、今に役人が来て、つれて行ってしまうから。ぐずぐずしているとこっちが危ないのだから」
「それでは……里へ行ってるおっ母(かあ)が帰って来ると心配するだろうから」
「だって当分は帰らないと言ったそうじゃないか」
「二月ほど経ったら帰るかも知れない」
「そんな暢気(のんき)なことを、聞いてはいられない」
「おっ母は里へ行って、またほかの人にお嫁に行くんだと言っていたから、もうここへは帰らないのだろう」
「それでは誰も心配する者はないはずだから、早く行きましょう」
「江戸はいいところだろうな、人の話に聞いたばかりで、早く行って見たい見たいと思ったが、今日はおばさんに連れて行ってもらえるかと思うと、こんな嬉しいことはないけれど、この小屋も住み慣れてみると何だか惜しいような気がするね」
 この場合に、江戸へ行きたがっていた少年の心をお絹が心あって焚(た)きつけるので、少年はすっかりその気になって、大急ぎで旅立ちの用意をします。このとき奥で、
「御新造(ごしんぞ)、いやお絹さん」
 譫言(うわごと)のような声、これはがんりきの声。
「何か言ってるよ」
 耳を澄ますと、
「御新造、いやどうも」
 二人は面を見合せて、
「あれ、また何か言っている」
 奥では引続いて、
「いよ、お二人様」
 二人は奥を見込んで、
「眼が醒(さ)めたのかしら」
 奥の声、
「もうこっちのものだ」
 お絹忠作はニッコリと笑って、
「魘(うな)されているんだよ」
 奥では、つづいて、
「これからがこっちの世界と出る、へん、甲州ばかりは日が照らねえ、入墨がどうしたと言うんだ、これから御新造をつれて、泊り泊りの宿を重ねて鶏(とり)が鳴く東(あずま)の空と来やがる、嫉(や)くな妬(そね)むな、おや抜きゃがったな、抜いたな、お抜きなすったな、あ痛(いて)ッ、あ痛ッ、斬ったな、汝(うぬ)、斬りゃがったな」
 がんりきの譫言(うわごと)は嵩(こう)じてくる。その間にお絹は忠作を嗾(そその)かして、この小屋を逃げ出してしまいました。

         五

 今宵(こよい)は月がよく冴(さ)えている。主婦(あるじ)のお徳は庭へ出て砧(きぬた)を打っていると、机竜之助は縁に腰をかけてその音を聞いています。
 ここは篠井山(しののいざん)の山ふところ、お徳というのは先日、峠の上で竜之助を助けて来た「山の娘」たちの宰領(さいりょう)であります。
 お徳は美しい女ではないけれども、いかにも血色がよく働きぶりのかいがいしい三十女。ここでも紺の筒袖(つつそで)を着て、手拭を被(かぶ)って砧を打つと、その音が篠井山の上、月夜段(つきよだん)の奥までも響いて、縁に腰かけた竜之助の足許から股(もも)のあたりまでが、軽い地鳴りで揺れるのがよい心持です。
「ほんとにお見せ申したいくらいでござんす、今日のこのお月様を」
 お徳は砧の手を休めて、竜之助の方を向いて絹物の裏を返す。
「せっかくなことで。月も花も入用(いりよう)のない身になったけれど、それでも物の音だけはよくわかります。いや、眼が見えなくなってから、耳の方が一層よくなったようじゃ。そうして御身がいま打つ砧の音を聞いていると、月が高く天に在って、そしてそこらあたり一面には萩の花が咲きこぼれているような心持がします」
「萩の花は咲いておりませぬけれど、ごらんなさいませ、この通り月見草が……」
「月見草が……しかし、やっぱり見ることはできぬ」
「そうでござんした……月見草はよい花でございます」
「あれはさびしい花であるが、風情(ふぜい)のある花で、武蔵野の広々したところを夕方歩くとハラハラと袖にかかる、わしはあの花が好きであった」
「先(せん)の人もこの花が好きだと申して、山から取って来ては、この通り庭いっぱいに植えたのでございます」
「御身の先(せん)の良人(つれあい)という人は、なかなか風流人であったと見える。武術の心がけもあったようであるし、文字の嗜(たしな)みもあったというのに、その上こうして庭に花を植えて楽しむというのは、こんな山家住(やまがずま)いには珍らしい人であったようじゃ」
「もとからこの山家の人ではございませんでした」
「どこから来た人?」
「上方の方から参りました、いいえ、縁もゆかりもない人で、ふとした縁から一緒になってしまったのでございます」
「甲州は四方(しほう)山の国、思いにつけぬ人が隠れているそうじゃ。そんなことはどうでもよいが、甲州といえば、わしが生国(しょうごく)はその隣り。ここへ来ると、わしもどうやら故郷へ来たような心持がして、この山一つ向うには、懐しい親子が待っているように思われてならぬわい」
「御尤(ごもっと)もでございます、なんとかして早くお帰し申すようにして上げたいと……でも当分は、おうちのつもりで御休息をなさいませ」
 家の奥の方でこの時、書物を声高(こわだか)に読む子供の声がします。
「よく勉強していますな。あの子は性質(たち)のよい子じゃ、よく育ててもらいたいもの」
 竜之助は、奥の間で本を読んでいる子供の声に耳を澄ましている様子です。
 子供は三字経(さんじきょう)を読んでいるものらしい。
「養うて教へざるは父のあやまち
教へて厳ならざるは師のおこたり」
というような文句が断続(きれぎれ)に聞えます。
「今はもう、あの子の成人するばかりが楽しみでございます。他国(よそ)へ出る時はお隣りへ預けて参りますが、それでも感心に手習や学問に精を出してくれますから。なに、こんな山家で学問なんぞをと申しますけれど、死んだ良人(つれあい)が、この子はぜひ世間に出してやりたいと申しておりましたものですから」
 母もやっぱり、わが子の読書の声を嬉しがって聞(き)き惚(ほ)れています。やがて読書の声が止んで、しばらくして裏口からハタハタと駆け出して来た子供。
「お母さん」
「蔵太郎(くらたろう)かえ」
「ああ」
 月見草が咲いた中から、面(かお)を出した六歳ばかりの可愛らしい男の児。
「おじさんもいるの?」
「おじさんもここでお月見を……お前も来てあのお月様をごらん」
 お徳はわが子を縁側の方へ麾(さしまね)く。
「月見草がよく咲いてるね」
と言って、子供はその花を一つ□(むし)る。
「あ、これ、その花を取ってはいけません、それはお前のお父さんが大好きな花なのだから大切にしなくては」
「でも、こんなにたくさん咲いているから一つぐらい」
「一つでもいけません、せっかく、月見草がお月見をしているものを、摘み取るのはかわいそうですよ」
「花が月見をする? それはおかしいね、母さん」
「ごらん、この月見草という花は、日が暮れるとこんなに咲いて、日にあたると凋(しぼ)んでしまうのだから。お月様の好きな花、そうしてお月様に好かれる花」
「坊は、こんな花よりも桜の花や、つつじの花が好きさ」
「お前のお父さんはまたこの花が好きであったのだから、お前も好きにおなり」
「それでは好きになろう、この花と一緒にお月見をしよう」
「それがよい。そんならおじさんの傍へ行って、縁側へ腰をかけてお月見をしながら、また戦人(いくさにん)の話を教えておもらいなさい」
「そうしよう。おじさん」
 子供は勇んで竜之助の傍へ来る、竜之助は黙ってその頭を撫(な)でる。

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