大菩薩峠
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著者名:中里介山 

         一

 これらの連中がみんな東を指して去ってから後、十日ほどして、一人の虚無僧(こむそう)が大湊(おおみなと)を朝の早立ちにして、やがて東を指して歩いて行きます。これは机竜之助でありました。
 竜之助の父弾正(だんじょう)は尺八を好んで、病にかからぬ前は、自らもよく吹いたものです。子供の時分から、それを見習い聞き習った竜之助は、自分も尺八が吹けるのでありました。
 眼の悪い旅には陸よりも船の方がよかろうと言ったのを聞かずに、やはりこれで東海道を下ると言い切って竜之助はこの旅に就きましたのです。
 旅の仕度や路用――それは与兵衛の骨折りもあるが、お豊の実家亀山は相当の家であったから、事情を聞いてそれとなく万事の世話をしてくれたものであります。
 尺八は持ったけれども別に門附(かどづ)けをして歩くのでもありませんでした。天蓋(てんがい)の中から足許(あしもと)にはよく気をつけて歩いて行くと、それでも三日目に桑名の宿(しゅく)へ着きました。ここから宮まで七里の渡し。
 竜之助は、渡しにかかる前に食事をしておこうと思って、とある焼蛤(やきはまぐり)の店先に立寄りました。
 名物の焼蛤で飯を食おうとして腰をかけたが、つい気がつかなかった、店の前に犬が一ぴき寝ていました。
 大きなムク犬、痩せて眼が光る、蓆(むしろ)を敷いた上に行儀よく両足を揃えて、眼を据えて海の方を見ています。
「これは家の犬か」
「いいえ、まぐれ犬でござんす」
 女中がいう。
「それを、お前のところで飼っておくのか」
「そういうわけでもございませんが、ここに居ついて動きませんので」
「そうか、これはなかなかよい犬じゃ、大事にしてやるがよい」
「ほんとによい犬でございます、見たところはずいぶん強そうでございますが、温和(おとな)しい犬で、それで怜悧(りこう)なこと、一度しかられたことは決して二度とは致しません、まるで人間の言葉を聞き分け人間の心持までわかるようでございます」
「そうか」
「それですから、近所でもみんな可愛がりまして、御膳(ごぜん)の残りやお肴(さかな)の余りなどをこの犬にやっておりますし、犬もここを宿として居ついてますから、こうしておきますので、もし飼主でも出ましたら返してやりたいと思いますのでございますが」
「これこれ、お前の名はクロか、ムクか、こっちへ来い」
 竜之助は天蓋越(てんがいご)しに犬の姿をよく見ていると、犬もまた竜之助の方をじっと見ています。

 竜之助がこの店を立つと、犬がそれについて来ます。
 渡場(わたしば)まで来ても犬は去りません。竜之助もまた追おうともしません。竜之助が船に乗ると、犬もそれについて船に乗ろうとして船頭どもの怒りに触れました。
「こん畜生、あっちへ行け」
 棹(さお)を振り上げて追い払おうとしたが逃げません。
「乗せてやってくれ、船頭殿」
 竜之助はなぜかこの犬のためにとりなしてやりました。
「これはお前さんの犬でございますかい」
「そうだ」
 船頭が不承不承(ふしょうぶしょう)に棹を下ろすと、犬はヒラリと舟の中へ飛んで乗りました。
 桑名から宮まで七里の渡し。犬は竜之助の傍へつききりで、竜之助が舟から上ると犬もつづいて陸(おか)へ上る。
「これ犬」
 高櫓(たかやぐら)の神燈(みあかし)の下で竜之助は、犬を呼んで物を言う。
「おれと一緒にどこまでも行くか」
 犬が尾を振る。
「よし、おれの眼の見える間は跟(つ)いて来い、眼が悪くなった時は、先に立っておれの導きをしろ」
 犬は竜之助の面(かお)を天蓋の下から覗(のぞ)き込んでいます。
「江戸へ八十六里二十丁、京へ三十六里半と書いてあるな」
 太く書かれた道標(みちしるべ)の文字を読んで、
「鳴海(なるみ)へ二里半」
 竜之助が歩き出すと、犬もやっぱり尾を振って跟(つ)いて来ます。
 犬が竜之助を慕うのか、竜之助が犬を愛するのか、桑名の城下、他生(たしょう)の縁で犬と人とに好(よし)みが出来ました。この二つがどこまで行って、どこで別れることであるやら。
「桔梗屋(ききょうや)でございます、桔梗屋喜七は手前共でございます」
 宿引(やどひき)の声。それには用がない。竜之助は神宮の方へは行かないで、浜の鳥居から右に寝覚(ねざめ)の里。
花もうつろふ仇人(あだびと)の
浮気(うはき)も恋といはしろの
結(むす)び帛紗(ふくさ)の解きほどき
ハリサ、コリャサ、
よいよいよい、よいとなア
ツテチン、ツテチン
 心なき門附(かどづ)けの女の歌。それに興を催してか竜之助も、与兵衛が心づくしで贈られた別笛(べつぶえ)の袋を抜く、氏秀切(うじひでぎり)。伽羅(きゃら)の歌口(うたぐち)を湿(しめ)して吹く「虚鈴(きょれい)」の本手。明頭来(みょうとうらい)も暗頭打(あんとうだ)も知ったことではないけれど、父から無心に習い覚えた伝来の三曲。
 呼続浜(よびつぎはま)から裁断橋(さいだんばし)にかかる。
 こうして見れば、机竜之助もまた一箇の風流人であります。

 それから浜松へ来るまでは別条がありませんでした。
 浜松へ入って、ふと気がつくと、いつのまにかムク犬がいないのです。竜之助は名を呼んでみましたが、姿を見せません。立って暫らく待っていたが、どこから来る様子も見えません。
 さすがに物淋しくてなりませんでしたが、尋ぬる術(すべ)もありませんから、一人で浜松の城下へ入りました。浜松は井上河内守六万石の城下。
「おい、虚無僧(こむそう)」
 横柄(おうへい)な声で呼びかけた武士。振返ったところは五社明神の社前。
「おい、虚無僧、こっちへ入れ」
 社前の広場に多くの武士が群っている。その中から、いま通りかかる机竜之助を呼び止めたものです。
「何か御用でござるかな」
 竜之助は立ち止まって返事。
「ここへ来て一つ吹いてくれ」
「せっかくながらお気に召すようなものが吹け申すまい」
 竜之助は五社明神の鳥居の中へ入って行きました。
 見るとここで武術の催しがあったもの。それが済んで、庭の広場で武士たちが大勢、莚(むしろ)を敷いて茶を飲んでいたところでした。
「さあ、そこでまずその方の得意なものを吹いて聞かせろ」
「別に得意というてもござらぬが、覚えた伝来の一曲を」
 竜之助は、吹口をしめして「鶴の巣籠(すごもり)」を吹きました。誰も吹く一曲、竜之助のが大してうまいというのでもありません。
「それは鶴の巣籠、何かほかに」
「ほかには何も知らぬ」
「ナニー」
「ほかに虚鈴(きょれい)というのがあるが、これは、おのおの方にはわかるまい」
「何を!」
「いや、駆出(かけだ)しの虚無僧で、そのほかには何も吹け申さぬ故、これで御免」
「ハハハ、鶴の巣籠を吹いて虚無僧で候(そうろう)も虫がよい、そのくらいならば我々でも吹く、何か面白いものをやれ、俗曲を一つやれ」
「…………」
「追分(おいわけ)か、越後獅子が聞きたい」
 なんと言われても事実、竜之助には本手の三四曲しか吹けないのだから仕方がない。
「なるほど、これは駆出しの虚無僧じゃ、まんざら遠慮をしているとも見えぬわい」
 一座は興が冷めてしまいました。せっかく呼び込んだ男は一座の手前に多少の面目を失したらしく、
「よしよし、それでは代って拙者が吹いてお聞きに入れよう。虚無僧、その尺八を貸せ、こう吹くものじゃ」
 竜之助の手から尺八を借りて、節(ふし)面白(おもしろ)く越後獅子を吹き出した。なるほど自慢だけに、竜之助よりは器用で巧(うま)いから、一座の連中はやんやと喝采(かっさい)します。
「今度は追分を一つ、それから春雨」
 調子に乗って、竜之助の尺八を借りっぱなしで盛んに吹き立てると、それで興の冷めた一座が陽気になってしまいました。
 さんざん吹きまくった上で、抛(ほう)り出すようにしてその尺八を竜之助に突返して、
「さあ、これがそのお礼だ、その方へのお礼ではない、尺八の借賃じゃ、取っておけ」
 いくらかのお捻(ひね)りを拵(こしら)えて竜之助の前に突き出しながら、わざと竜之助の天蓋へ手をかけて面(かお)を覗き込もうとする、その手を竜之助は払いました。
 竜之助のは正式に允可(いんか)を受けた虚無僧ではないのです。虚無僧となって歩くことが便利であったからそうしたので、これはその前から流行(はや)ったことで、その真似をしていたのに過ぎないのだから、気の向いた時は吹き鳴らし、気の向かぬ時は吹かず、今までも町道場や田舎(いなか)の豪家で剣術の好きな人の家に一晩二晩の厄介になったことはあるが、まだ路用に事は欠かないし、尺八の流しによって人の報謝を受けたことはなかったのです。それに今こういう取扱いを受けた竜之助は、
「いや、お礼には及び申さぬよ、尺八をお貸し申した代りに、こっちにもちっとお借り申したいものがある、お聞入れ下さるまいか」
「煙草の火でも欲しいのか」
「あの竹刀(しない)を一本お借り申したい」
「竹刀を? それは異(い)な望み、虚無僧が竹刀を持って何をする」
「お前の頭を打ってみたい」
 ああいけない、こんなことを言い出さねばよかった。ここで堪忍(かんにん)したところが竜之助の器量が下るわけでもあるまい、またこの人々相手に腕立てをしてみたところで、その器量が上るわけでもあるまいに。さりとて竜之助のは、なにも彼等の挙動が癪(しゃく)にさわったから、それで恨みを含んでいる体(てい)にも見えません。
 思うに武術の庭に入ったために、竹刀を見るにつけ、道具を見るにつけ、その天成の性癖が勃発(ぼっぱつ)して、ツイこんなことになったのでしょう。
「ナニ、頭を打ってみたい? あの竹刀でこの拙者の頭を? おのおの方、面白いではござらぬか」
「それは面白い、望み通り竹刀を貸して遣(つか)わしたがよかろう」
「それ、望み通り竹刀を一本」
「かたじけない」
 竜之助は貸してくれた竹刀を受取って少し退いて、
「これは軽い」
 洗水盤(みたらし)の石を発止(はっし)と打つと、竹刀の中革(なかがわ)と先革(さきがわ)の物打(ものうち)のあたりがポッキと折れる。
「やあ!」
「これは役に立たぬ、もう一本貸してもらいたい」
 折れた竹刀をポンと投げ出す。
「無礼な仕方」
 尺八を吹いた武士は怒る。
「おのれ!」
 木剣を拾って、机竜之助の天蓋の上から、脳骨微塵(のうこつみじん)と打ち蒐(かか)る。
 鳥居の台石へ腰をかけた竜之助、体(たい)を横にして、やや折敷(おりし)きの形にすると、鳥居側(わき)を流れて石畳の上へのめって起き上れなかった男。
「憎(にっく)き振舞(ふるまい)」
 一座の連中のなかには老巧の人もいたけれど、こっちにも落度(おちど)があるとはいうものの竜之助の仕打(しうち)があまりに面憎(つらにく)く思えるから、血気の連中の立ちかかるのを敢(あえ)て止めなかったから、勢込んでバラバラと竜之助に飛び蒐(かか)る。
 鳥居の台石からツト立った竜之助は、いま後ろへ流れた男の投げ飛ばした木剣を拾い取ると、それを久しぶりで音無しの構え。
 社の玉垣(たまがき)を後ろに取って、天蓋は取らず。
 五社明神の境内はにわかに大きな騒ぎになってしまって、参詣の人、往来の人、罵(ののし)り噪(さわ)いで立ち迷う。
 そこへ仲人(ちゅうにん)に割って出でたものがあります。何者かと見ればそれは女。
「まあまあ皆様、お待ち下さいませ」
 思いがけないこと、それは妻恋坂の花の師匠のお絹でありました。
 お絹の仕えた神尾の先殿様(せんとのさま)の墓はこの浜松の西来院(さいらいいん)にあって、そうしてこの浜松の城下はお絹の故郷でありました。
 伊勢参りから帰り、お絹はそのお墓参りをしてここに逗留(とうりゅう)することも久しくなりました。
「危ない、女の身で、引込んでいさっしゃれ」
「そんなことをおっしゃらないで、お待ち下さいまし」
 お絹は竜之助と浜松藩の武士の間へ身を以て入り込んでしまいました。
「さきほどから拝見致しておりますれば、ほんに詰(つま)らない行きがかり、殿方が命のやりとりをなさるほどのことでもござんすまい、女の身で出過ぎたことでござんすが、ただ通りがかりの御縁、どうぞこの場はお任せ下さいまし。それとも喧嘩をなさるなら、このわたくしをお斬りあそばして、それから後になさいまし。女をお斬りあそばしたところでお手柄にもなりますまい、どうかお任せ下さいまし」
 そこへ一座のうちの老巧連が飛んで来て、
「いや、おのおの方も大人げない、旅の者一人を相手にして、勝っても負けても手柄にはなるまい、あとは拙者共に任せるがよい」
 そこでこの喧嘩は、無事に引分けとなってしまいました。
 竜之助はそのうちに、消えてなくなるようにさっさと明神の社内を出てしまいました。
 続いて社前を出たお絹、しばらく竜之助の後ろ姿を見送っていましたが、伴(とも)の女中を呼んで、
「お前、あの虚無僧さんを追いかけて、わたしの家へ来るように言っておいで、丁寧(ていねい)にそう言って、一緒にお連れ申しておいで、もし聞かなかったら、どちらへおいでなさるのですかといって、その行先を尋ねてごらん、それも言わなかったら、どこへ泊るかそれを見届けておいで」

         二

 その晩、机竜之助とお絹とは、西来院の傍(かたわら)なる侘住居(わびずまい)で話をするのが縁となりました。
「どちらかでお見かけ申したように思いますよ」
 二人の間には火鉢があって、引馬野(ひくまの)を渡って来る夜風が肌寒いから、竜之助は藍木綿(あいもめん)の着衣の上に大柄(おおがら)な丹前(たんぜん)を引っかけていました。
「江戸へ帰ろうと思う」
 まぶしそうな眼をして、独言(ひとりごと)のように言う。
「お急ぎではござんすまい」
「別段に急ぎもせぬが」
「それでは、こちらに御逗留なさいませ、わたしも江戸へ帰ろうか、それともこちらで暮そうかと考えているところでございます」
「急ぐ旅でもないが……」
「そうなさいまし……江戸から来てみると、どうも淋しいこと、御覧の通り。ここは浜松も城下を西北に外(はず)れておりまして、わけてこの近所はお寺が多いものですから、夜などは墓場の中にいるようなもので、自分ながら、たとえ三日でも、よくこんなところに辛抱ができるようになったかと感心しているのでございます、もう女も、こうして淋しいところが住みよくなるようでは廃(すた)りでございますね」
 吉田通れば二階から招く、しかも鹿(か)の子(こ)の振袖で……というのは小唄にあるが、これは鹿の子の振袖ではない、切髪の被布(ひふ)の、まだ残んの色あでやかな女に招かれたこと。
 竜之助は、不思議な女だとも思い、旅の一興とも思う。
 その夜はこの女と共にさまざまの物語をして後、十畳の一間へ床を展(の)べてもらって竜之助は寝る。
 その夜、どうしたものか竜之助の頭がクラクラとする。ガバと褥(しとね)を蹴(け)って起き上る。
 秋草を描いた襖(ふすま)が廻り舞台のように動き出す、襖の引手が口をあく、柱の釘隠(くぎかく)しが眼をむく。
 蒲団(ふとん)の上に坐り直した竜之助は、声を立てようとして舌が縺(もつ)れる。
「まあ、どうかなさいましたの」
 その声で竜之助は眼を見開いてホーッという息。
「大へんな魘(うな)され方ではありませんか」
 再び眼を見開いたつもりであったが眼に力がありません。蒲団の上から差覗(さしのぞ)いていたのはお絹でありました。
「夢でもごらんになったのですか、お冷水(ひや)でもあがって、気をお鎮めなさいまし」
 枕許(まくらもと)にあった水指(みずさし)から、湯呑に水をさしてお絹が竜之助の手に渡しました。顫(ふる)えた手で竜之助はその湯呑を受取ろうとして取落す。
「おやおや、水をこぼして」
 お絹は困って、片手で何か拭(ふ)くものを探そうとしました。竜之助は、またその湯呑を取り直そうとしました。その二人の手が重なり合った時に、ハッとしてそれを引込ませました。
「気が落着いたら、ゆっくりお休みなさい、まだおかげんが悪ければ女中を起しましょう」
「いや、もう大丈夫、お世話になって相済まぬ」
 お絹は竜之助が落着いたのを見て、自分の寝床へ帰ってしまいました。
 竜之助の感はいよいよ冴(さ)えて眠れません。
 眠れないでいると、一間隔てた次の間で、すやすやとお絹の寝息が聞えます。軽い寝息、吐いて吸う軟(やわ)らかな女の寝息、すういすういと竜之助の魂に糸をつけて引いて行くようです。ややあって寝返りの音。
 髪の毛が枕紙(まくらがみ)に触(さわ)る。中指(なかざし)が落ちたような、畳に物の音、上になり下になり軟らかい寝息。
「眠れぬ、眠れぬ、由(よし)ないところへ泊った」
 竜之助は反側する。にわかに寝息が低くなって、そして聞えなくなる。枕許の水を、手さぐりにしてまた一口飲んでみる。
 途絶(とだ)えた寝息がまたすやすやと聞える。
「ああ」
 懊悩(おうのう)した竜之助は、太い息を吐いて仰向けに寝返ると、お絹の寝間で軽い咳(せき)がする。
「眼が覚めたのかな」
 枕許へ何か掻き寄せるような畳ざわりの音。お絹も、どうやら眼が覚めたらしい。
 夜具を掻きのけたかと思われる様子で、やがてキューキューと帯を手繰(たぐ)るような音。竜之助の頭は氷のように透きとおる。
 襖が開く、衣(きぬ)ずれの音。
「眠れますか。眠れますまいねえ」
 襖の蔭から半身が見える、白羽二重(しろはぶたえ)に紗綾形(しゃあやがた)、下には色めいた着流し。お絹は莞爾(にっこ)としてこっちを見ながら、
「わたしも眠れないから、お邪魔に来ましたよ、こんな永い秋の夜を一人で寝飽きるのもつまりませんからねえ。わたしの方へおいでなさいまし、面白いお話を致しましょうよ」
 竜之助は悽然(せいぜん)として、この女の大胆なのに驚いたが、驚いて見れば何のこと、それはやっぱりあらぬ妄想、感が納まって夢に入りかけた瞬時の幻覚に過ぎないで、一間へだてた次の間では、お絹の寝息がいよいよ軟らかく波を打つ。
 その夜は明けて、翌朝になると、竜之助の眼が見えなくなりました。

         三

 机竜之助が東海道を下る時、裏宿七兵衛(うらじゅくしちべえ)はまた上方(かみがた)へ行くと見えて、駿河(するが)の国薩□峠(さったとうげ)の麓の倉沢という立場(たてば)の茶屋で休んでいました。ここの名物は栄螺(さざえ)の壺焼(つぼやき)。
「お婆さん、栄螺の壺焼を一つくんな」
 蜑(あま)が捕りたての壺焼[#ママ]を焼かせて、それをうまそうに食べていると、
「御免よ、婆さん、壺焼を一つくんな」
 七兵衛と向い合いに腰をかけた人。銀ごしらえの脇差(わきざし)を打込(ぶっこ)んだ具合、笠の紐の結び様から着物の端折(はしょ)りあんばい、これもなかなか旅慣れた人らしいが、入って来ると笠の中から七兵衛をジロリと見ました。
「婆さん、いくらだね」
 七兵衛は壺焼の代を払おうとします。
「六十文いただきます」
「ここへ置くよ」
 七兵衛は百文ばかりの銭(ぜに)を抛(ほう)り出して出ると、
「婆さん、いくらだえ」
 銀ごしらえの脇差も同じように壺焼の価(あたい)を聞く。
「四十文でよろしゅうございます」
「ここへ置くよ」
 同じく百文ばかりの金を投げ出してこの男が出たのは、七兵衛がもう薩□峠の上りにかかろうとする時分でありました。
 幸いに晴れていて、富士も見えれば愛鷹(あしたか)も見える。伊豆の岬、三保の松原、手に取るようでありますが、七兵衛は海道第一の景色にも頓着なく、例の早足で、すっすと風を切って上って行く。
 七兵衛をやり過ごして、同じ栄螺(さざえ)の壺焼屋から出た旅の男は、これもすっすと風を切って上って行く。七兵衛も足が早いがこの男も足が早い。みるみる七兵衛に追いついてしまいました。
「どうも結構なお天気でよろしゅうございますな」
 お愛想(あいそう)を言って、つと七兵衛を通り抜いてしまう。
「へえ、よいお天気で……」
と七兵衛は返事をしたものの、さっさと自分を抜いて行く銀ごしらえの男の歩きぶりを見ると癪(しゃく)に触(さわ)りました。この俺を抜いて歩く奴、小面(こづら)の憎い振舞をしたものかな、よしそれならばこっちにも了簡(りょうけん)があると、七兵衛は足に速力を加えて歩くと、見るまにまた銀ごしらえの脇差を追い抜いてしまいます。
「どうもお天気がようがすな」
 七兵衛は、銀ごしらえの脇差を尻目(しりめ)にかけて通ると、
「へい、よいお天気で……」
 その男もまた、負けない気で足に馬力をかけました。
 二人は、ついに雁行(がんこう)して歩き出してしまいました。
 七兵衛は、妙な奴だと思うから別に言葉もかけず、そうかと言ってこうなると抜かれるのも癪だから、ずんずん歩いて行くと、その男もまた口を結んで七兵衛と押並ぶようにして歩いて行く。
 はて、今まで旅をしたが、こんな奴に会ったことがない、別に怖(こわ)いことも気味の悪いこともないが、足の早いのが癪だ、そうして、自分に足で戦いを挑(いど)むような仕打ちがいよいよ癪だ。
 しかし、いよいよ峠を下り切るまでこの男は、七兵衛より後にもならず先にもならず、ほとんど相並んで歩いて来たが、ほら村へ出ると身延道(みのぶみち)。
「旦那、私はここで失礼を致しますよ、はい、身延へ参詣に参りますもので」
 七兵衛に挨拶して法華題目堂(ほっけだいもくどう)から右、身延道へ切れてしまいました。

 七兵衛は、興津(おきつ)の題目堂で変な男と別れてから、東海道を少し南へ廻って、清水港(しみずみなと)へ立寄り、そこで小半時(こはんとき)も暇をつぶしたが、今度は久能山道(くのうざんみち)を駿府(すんぷ)へ出て、駿府から一里半、鞠子(まりこ)の宿(しゅく)もさっさと素通(すどお)りをして上へ上へとのぼって行くのでしたが、ちょうど、鞠子の宿の池田屋源八という休み茶屋の前を通りかかると、
「もしもし、それへおいでなさる旅の旦那へ」
 茶屋の中から言葉をかけたものがあります。
「エエ、お呼びなさいましたのは?」
 七兵衛ふりかえると、店先でとろろ汁を食べているのは、薩□峠(さったとうげ)で競争をしかけた、銀ごしらえの変な男。
「これはこれは」
 さすがの七兵衛も、少し面喰(めんくら)って立ち止まると、
「まあ、おかけなさい、ここは名物のとろろ汁、一つ召し上っておいでなさいまし」
「お前さんは身延へ行くとお言いなすったが……」
「ええ、身延へお参詣をすましてその帰り路なんでございます」
「冗談(じょうだん)じゃねえ」
「へへ、それは冗談でございます、身延へ行くつもりでしたけれども、途中でまた気が変ったものでございますから」
「そうだろう、それでは俺(わし)もひとつ、とろろ汁をいただきましょう」
 身延へ切れたのは嘘(うそ)、やっぱりこの変な男も上(かみ)へのぼって行くものでありました。それにしても早い、自分がちょっと清水港で用を足している間に、本街道を早くもかけ抜いて、ここでとろろ汁を食っているのだから、七兵衛もなんだか一杯食わされたような気持がするのでありました。
「これから名代(なだい)の宇都谷峠(うつのやとうげ)へかかるのでございますから、草鞋(わらじ)でも穿(は)き換えようじゃあございませんか」
「そうしましょうかな」
 二人はとろろ汁を食べて、草鞋を穿き換えて、いざ、とこの茶店を出立しました。
「ずいぶんお達者な足でございますな」
「お前さんもかなり達者なことですね」
「どちらからおいでなさいました」
「俺(わし)は甲州からやって参りました」
「今晩はどちらへお泊りで」
「いえ、その、まだ……」
「浜松あたりはいかがで」
「なるほど、浜松までエエと」
「浜松まで、これからざっと二十里でございますな」
「二十里、なるほど」
「大井川と天竜川の渡し、こいつが、ちっと手間が取れましょう」
「なるほど」
「なあに、手間が取れたら、徒(かち)でやっつけるんですな、雲助が追っかけたら逃げる分のことで」
 旅には慣れきったような男であります。七兵衛は、こいつ人を呑んでかかっていると思ったから、
「時に、お前さんは何御商売ですね」
「ハハハハ」
 銀ごしらえの男は、ワザとらしい高笑いをして、
「まず、お前さんと同商売かね」
「なに、俺と同商売?」
「ハハハハハ、まあ急ぎましょう」
 ハハハと笑って口をあいて見せた歯並(はなみ)が、ばかに細かくて白い。歳(とし)は、そうさ、七兵衛よりも十歳(とお)も若いか、笠を取って見たら、もっとずっと若いかも知れない。
 いよいよ変な奴と七兵衛は思いました。
 こうして二人は、鞠子(まりこ)の本宿(ほんじゅく)から二軒家(にけんや)、立場(たてば)へは休まずに宇都谷峠(うつのやとうげ)の上りにかかりました。

「旦那、ここらで一ぷくやって参りましょうかね」
 銀ごしらえの脇差が腰をかけたのは名代の猫石、木ぶりの面白い松があたりに七八本。
「どうも大変なところへ連れ込まれた」
 七兵衛もまた大きな石へ腰をかける。
「これが古(いにし)えの蔦(つた)の細道(ほそみち)、この石が猫石で、それ猫の形をしていましょう、あれが神社平(じんじゃだいら)」
「なるほど、本街道はたびたび通るが、蔦の細道というのはこれが初めてだ」
「時に親方」
 銀ごしらえは改まった言葉つき、旦那と呼んでいたのが親方になりました。
「何だ」
「仕事が一つあるんだが、付合ってもらいてえ」
「仕事? 品によりゃ付合わねえもんでもねえ、言ってみねえ」
 銀ごしらえの眼と七兵衛の眼がピッタリ合う。
「こういうわけなんだ」
 銀ごしらえは、吸いかけた煙草を掌(てのひら)ではたいて、それを筒(つつ)に納めながら、
「小天竜(こてんりゅう)を渡るとそれ、中の町というのがある」
「うむ」
「京と江戸とのちょうどあそこが真中で、ドチラへも六十里というところよ」
「そんなことも聞いている」
「その小天竜と中の町の間に大きな寺があらあ」
「なるほど」
「天竜寺という名前だけは知っていらあ、宗旨(しゅうし)は何だか知らねえ」
「それがどうしたんだ」
「その寺へ今夜仕事に入りてえと、こういうわけなんだ」
「ケチな仕事じゃあねえか、寺を荒すくれえなら……」
「まあ待てよ、そこにはまた種(たね)と仕掛(しかけ)があるんだ。その天竜寺という寺へよ、この三日ばかり前から遊行上人(ゆぎょうしょうにん)が来ているんだ」
「ゆぎょう上人ていのは何だい」
「藤沢の遊行上人よ」
「なるほど」
「そいつをひとつおどかしてみてえと、こういうわけなんだ」
「遊行上人をかい。お前、遊行上人というのは大したものじゃねえか、小栗判官(おぐりはんがん)のカラクリで俺もうすうす知っている。しかし、どっちにしたところで坊さんは坊さんだ、逆さに振ってみたところで知れたものじゃねえか」
「それはそうよ、なにもこちとらが遊行上人を逆さに振ってみようとは言わねえ、その上人をめあてに集まる近国の有象無象(うぞうむぞう)ども、そこに一つの仕組みがあるんだ、上人は上人でお十念(じゅうねん)を授けている間に、こちとらはこちとらで自分の宗旨を弘める分のことよ」
「なるほど」
「まあ、来てみねえ、仕事がいやならいやでいい、おたがいに足並みはわかったから、これからお手並み拝見というところだ。俺(おい)らのお手並みが見てもれえてえから、それでわざわざお前さんに毒を吹っかけたのだ。さあ、日のあるうちに浜松泊り、それからゆっくり天竜へ逆戻りをして一仕事」

 七兵衛は承知をしたともしないとも言わずに、直ぐまた変な男に連立って、蔦(つた)の細道を下って湯谷口から本街道へ出て西を指して急ぐ。変な男に名を聞くと、「がんりき」と呼んでもらいたいと言う。二人はあまり口を利(き)かずに急いだが、金谷坂(かなやざか)あたりでがんりきが、
「鼠小僧という奴は面白い奴よ、姫路の殿様の近所にやっぱり大きな殿様のお邸があって、そこでお能舞台が始まっている時のことだ、殿様がこっちから見ていると、舞台の真中に、年のころ十八九ばかりで月代(さかやき)の長く生えた男が伊達模様(だてもよう)の単衣物(ひとえもの)を着て、脇差を一本差して立っているのを殿様が見咎(みとが)めて、あれは何者だ、ついに見かけない奴、不届きな奴、追い出せとお沙汰がある、家来たちが見ると、お能役者のほかに人はいない、殿様はなお頻(しき)りに逐(お)い出せ逐い出せとおっしゃる、仕方がないから舞台へ上って追う真似をしてみたがなんにもいやしない、そのうちに舞台の上を見ると紙片(かみきれ)が落ちている、拾って見るとそれに『鼠小僧御能拝見』と書いてあった、殿様の眼にだけはその姿がちらついたんだが、ほかの者には誰も見えなかった。悪戯(いたずら)をしたものよ」
 こんなことを話し出しているうちに、金谷(かなや)から新坂(しんざか)へ二里、新坂から掛川(かけがわ)へ一里二十九町、掛川から袋井(ふくろい)へ二里十六町。
 そこでまたがんりきが、
「松平周防守(まつだいらすおうのかみ)というのは大阪のお奉行様であったかな、その周防守のお邸が江戸にあって残っているのは女ばかり、そこへ附け込んだ鼠小僧、女ばかりのところを二度荒したってね。一ぺんは、長局(ながつぼね)の部屋という部屋の障子へ一寸ぐらいずつの穴があけてあった、そこからいちいち覗いて見たもんだね。一人の女中の部屋では鼈甲(べっこう)の笄(こうがい)や簪(かんざし)をみんな取り出して綺麗に並べて置いて、銀簪なんぞは折り曲げて並べて行ったとね。周防守のお妾さんの部屋では箪笥(たんす)から紫縮緬(むらさきちりめん)の小袖を取り出して、それを局境(つぼねざかい)の塀の返しへ持って行って押拡(おっぴろ)げて張っておいたそうだが、それで金銀は一つも盗られなかったとやら。いや、何を取られたか知れたものじゃない、ハハハハ」
 白い細かい歯並を見せて笑う。七兵衛をして、こいつがその鼠小僧ではあるまいかと思わせるくらいに、ちょっと凄味(すごみ)の利く代物(しろもの)。
 袋井から見附(みつけ)へ四里四町、見附から池田の宿、大天竜、小天竜の舟渡(ふなわたし)も予定通り日の中に渡って中の町。
「あれが天竜寺」
 横目に睨んで浜松の町へ入る。
「いよいよ浜松だ、日本左衛門(にっぽんざえもん)で売れたところよ。日本左衛門という奴は、また鼠小僧とは貫禄(かんろく)が違う、あの大将は手下に働かせて自分は働かず、床几(しょうぎ)に腰をかけて指図(さしず)をしていたもんだ。平常(ふだん)、黒羽二重の紋付を着て、雑色(ぞうしき)は身に着けなかったという気象だ。鼠小僧はこちとらに毛の生えた質(たち)の奴で、子分を持たずに一人で鼠のように駈け廻った男だが、日本左衛門は虎になりそこなった大物(おおもの)だ、乱世ならば一国一城の大名になり兼ねねえ奴だ」
 こんなことを言いながら浜松の町を真直ぐに通って、
「広いようで狭いというのがこの土地だが、それでも町の長さは二十八丁あって、家数(やかず)は三千からある。さあ、ここらで泊るとやらかそう」
 てんま町へ来て大米屋(おおごめや)一郎右衛門とある宿屋へ着く。
 牛に曳(ひ)かれて浜松まで来た七兵衛。さて数えてみれば、薩□峠の前を別にして、あれからでも約三十里の道。

 湯から上った七兵衛、
「がんりきさん、天竜寺の一件はどうしたい」
 腰を落着けて飲んでいたがんりき、
「今夜は駄目駄目、明日のことだ」
 七兵衛も坐り込んで二人飲みながらの話。どこの部屋に、どんなのがいて、あれは景気は好さそうだがその実懐中(ふところ)に金はあるまいとか、こちらの方に燻(くす)ぶっている商人体(てい)の一人者は、あれでなかなか持っていそうだとか、あの夫婦者は実は駈落者(かけおちもの)だろうとか、この宿屋の客の値踏(ねぶ)みをがんりきと七兵衛がする、どちらも商売柄、その見るところがたんとは違わない。最後にがんりきが、
「そのなかで、俺の眼の届かねえのがたった一つあるが、お前はどう思う」
「うむ、二階の二番のあれだろう」
 七兵衛の返事、おたがいの合点(がってん)。
「どうもあいつはわからねえ」
「俺にもわからねえ」
「よし、もう一ぺん確めて来る」
 がんりきは便所へ行くようなふりをして、いま噂(うわさ)に上った二階の二番の前をなにげなく通って前後を見廻してから、そーっと障子の傍へ立寄ると、持っていた太い針のようなものを嘗(な)めて些(ささ)やかな穴を障子の隅へあけて、部屋の中を覗(のぞ)きます。
 十畳の間、真中に紙張(しちょう)が吊ってあって、紙張の傍に朱漆(しゅうるし)、井桁(いげた)の紋をつけた葛籠(つづら)が一つ、その向うに行燈(あんどん)が置いてある。
 やがてまたもとの部屋へ立戻ったがんりき。七兵衛が待っている。
「どうだ、当りがついたか」
「駄目だ、やっぱりわからねえ、紙張の中に人がいるのかいねえのか、その見当もむずかしい」
「そりゃいる、人はいるにはいるがな」
「さあ、その人が男か女か、若い奴かまた老人か、それがわかるか」
「そりゃ男だ」
「男なら幾歳(いくつ)ぐらいで、侍か町人か、または百姓か職人か」
「そりゃ侍よ」
「はてな、それではあの葛籠(つづら)を何と了簡(りょうけん)した、井桁の朱漆の葛籠よ」
「あの中か、ありゃあ女物よ、あの中には女物が入っている」
「えらい! よく届いた。葛籠の中には女物で金目(かねめ)の物が入ってる、そうしてみると、いよいよわからなくなる」
「それを今、俺も考えているところだ、紙張の中に武士がいて、紙張の外には女物の葛籠ということになると、この判じ物がむずかしい」
「第一、わざわざ紙張を吊らせて寝るということからがおかしいけれど、あの寝様(ねざま)を見るがいい、ああして壁へも障子へも寄らず真中へ寝たところが心得のある証拠だ、ただものでは無(ね)え」
「どうだ一番、あの紙張の中と、葛籠の中、鬼が出るか蛇(じゃ)が出るか、俺とお前の初(はつ)のお目見得(めみえ)にはいい腕比べだ、天竜寺の前芸(まえげい)にひとつこなしてみようじゃねえか」
「そいつもよかろう」
「それでは籤(くじ)だ」
 がんりきは早速、紙で籤をこしらえる。七兵衛が短いのを引いて、がんりきが長いのを引く。それでがんりきがニッと笑って、
「兄貴、それじゃお先へ御免を蒙(こうむ)るよ」
「しっかりやってくれ」
「まだ早いな」
 また一口飲んで、蒲団(ふとん)を敷いてもらって、二人は寝込んで夜の更(ふ)けるのを待っています。

 がんりきが夜更けて再び忍んで行った時に、かの部屋の燈火(あかり)は消えていました。障子の外で暫らく動静(ようす)を窺(うかが)っていたがんりき。暫らくすると音もなく障子があいて、がんりきは部屋の中へ入ってしまいます。
 身を畳の上に平蜘蛛(ひらぐも)のようにして、耳を澄まして寝息を窺ったが、紙張の中に人ありやなしや。
 がんりきの眼は闇の中でもよく物が見えます。それはがんりきに限ったことはない、盗みをなす人は大抵は皆そうであるはずです。
 畳の上に吸いついて紙張の中を見ていることやや暫く、どうしてもがんりきに判断がつかぬ、合点(がてん)がゆかぬ。
 彼も七兵衛との話の模様では、一ぱしの盗人であろうけれど、紙張の中が何者であるか、起きているか醒めているかさえ、どうしても合点がゆかない。それを知るべく小半時(こはんとき)を費(ついや)してしまったのですがついに解決がつかないで、そのまま蟻(あり)の這うように井桁(いげた)の葛籠(つづら)の方へ寄って、やっと片手をその葛籠へかけました。
 がんりきは腹這(はらば)いながら、左の片手を井桁の葛籠の一端へかけたが、かけたなりで、また暫くじっとして紙張の中の動静を窺(うかが)う。
 紙張の中は、やはり静かであって、ウンともスウとも言わぬ。
 それからまた身体(からだ)をずっと乗り出して、葛籠の紐(ひも)へ手をかける。蟻が芋虫(いもむし)をひきずるように、二寸ばかりこっちへ引き出しました。
「占めた」
 紙張の中には誰もいないのだ、いるにしても死んでいるか眠っている。がんりきは、モウ占めたとばかり、ずいと葛籠を引き寄せること一尺。この時、紙張の裾が、扱(しご)いたようにグッと鳴る。
 がんりきは、ついと飛び退(の)いた。一尺余りの白刃が、紙張の裾から飛び出して、がんりきの眼と鼻の上を筋違(すじか)いに走って、そうしてその切尖(きっさき)はガッシと葛籠の一端に当る。
 ついと飛び退いたがんりき。その時は、もう白刃は紙張の裾に隠れてしまって、紙張の中は前と同じように音もなければ声もない。
 二尺ばかり飛び退いたがんりきはそこで脇差の柄(つか)に手をかけて、いま白刃の飛び出した紙張の裾と、葛籠の間を見ていること半時ばかり。いつまで見ていても紙張のうちは前と少しも変らない。がんりきの方もまた、最初から終(しま)いまで一言(ひとこと)も立てないのであります。
 紙張と葛籠を相手に妙な暗闘、とうとうがんりきの精根(せいこん)が尽きたと見えて、ジリジリと退却、紙張と葛籠を睨めながら、脇差に手をかけたなりで、あとじさりに敷居を越えて、ついに部屋の外へ出てしまいました。それでも感心に障子は元通りに締めておいて、
「降参、降参」
「どうした」
 狸寝入(たぬきねい)りをして待っていた七兵衛の枕許へ来たがんりき、そこで兜(かぶと)を脱ぐ。
「とても俺の手には合わぬ、兄貴いくなら行ってみろ」
「弱い音(ね)を吹くじゃねえか」
 七兵衛は起き上る。七兵衛も寝ながら後詰(ごづめ)の身ごしらえしていたが、がんりきからいま忍び込んだ様子の首尾を逐一(ちくいち)きいて、
「なるほど、そりゃいけねえ、こっちよりたしかに一枚上だ、せっかくだが、俺もやめる」
 七兵衛は身仕度を解(ほぐ)しはじめる。
「チェッ」
 がんりきは舌を鳴らして、
「このままで引込むのも業腹(ごうはら)だ、明日になったらひとつ正体を見届けての上で、物にしなくちゃならねえ」
「天竜寺の方は、どうする」
「そりゃ後廻し」
 二人はこうして寝込んでしまう。今度はほんとうによく眠りつづけて、翌朝、ほかの客よりもおそくまで眼が覚めませんでした。

 その翌朝、大米屋の前へ二挺の駕籠(かご)が止まると、主人や番頭が飛んで出て頭を下げました。
 ほどなく二階の二番の部屋から女中に手を引かれて静かに出て来た人、がんりきと七兵衛が多年の老巧を以てしてついに何者であったか見抜けなかった人。
 女中に手を引かれて歩いて来ても、やっぱり何人であるかはわからない。それは黒の井桁(いげた)の紋付の羽織と着物を重ねていたが、面(かお)と頭は黒縮緬(くろちりめん)の頭巾(ずきん)で隠していたから。
 女中に手を引かれたのは眼が不自由なためらしい。そうして、脇差を差して刀を提げて、悠々と店先まで出て来ると、駕籠の垂(たれ)が上ってその中から姿を見せたのはお絹。
 駕籠につづいて馬が来る、その馬には明荷(あけに)が二つ、いずれも井桁の紋がついている。そうすると、二階から下ろされたのは、ゆうべ問題になった朱漆の井桁の葛籠(つづら)。
 二つの駕籠が勢いよく乗り出すと、つづいて葛籠を載せた馬の鈴の音。
「見たかい」
「見た」
「あやつは盲目(めくら)だぜ」
「盲目だ」
「後ろの駕籠を見たかい、後ろのを、あの女を」
「その女が、俺の知っている女だから不思議だ」
 七兵衛はこう言う。
「兄貴、あの切髪の女をお前が知っているのかい」
 がんりきが不審がる。
「知っている、たしかに知っている、言葉をかけようと思ったが、かけちゃあ悪かろうと思ってかけなかった」
「そりゃ乙(おつ)だ。してみりゃあ、前の駕籠へ乗った奴の当りもついたろうな」
「そりゃ、やっぱりわからねえが」
「なんしろ近ごろ好い鳥がかかった、おおかた今夜は掛川泊りだろう。兄貴、仕度は出来たかい」
 二人は、もうすっかり旅の用意が出来た上に朝食まで済んでいるのでした。

         四

 それと同じ日の夕方のこと。
 どこから来たか西の方から来て、浜松の町を歩んで行く一人の子供がありました。
「かわいそうに、あの子供は跛足(びっこ)だね」
 それは撞木杖(しゅもくづえ)を左の脇の下にあてがって、頭には竹笠(たけがさ)を被(かぶ)って、身には盲目縞(めくらじま)の筒袖(つつそで)の袷(あわせ)一枚ひっかけたきりで、風呂敷包を一つ首ねっこに結(ゆわ)いつけて、それで長の道中をして来た一人旅の子供と見えるから、それで町のおかみさんたちも、おのずから同情の眼を以て見るようになったものと見えます。
 しかし悪太郎どもは悪太郎どもで、
「やい、跛足(びっこ)が来た、あれ見ろ、跛足のチビが来やがった」
 古草鞋(ふるわらじ)を投げたり、石を抛(ほう)ったりして、
「こっちを向いて睨みやがった、おい、あの面(つら)を見ろ、ありゃ子供じゃねえんだぜ」
 なるほど、悪戯(いたずら)をしかけた悪太郎どもの方を睨みつけた旅の子供の面(かお)を見れば、決して子供ではありませんでした。
「かわいそうに、あの子供は跛足だね」とせっかく同情を寄せた町のおかみさんたちまでが、笠の下からその面を見た時には呆(あき)れてしまって、
「おやおや、あれは子供じゃなかったんですね」
と言いました。
 笠を被[#「被」は底本では「破」]ったなりで見れば子供に違いないけれど、笠の下からその面を見れば、子供ではないのです。
「なんだか河童(かっぱ)みたような、気味の悪い」
 これは子供でもなし、また河童でもなし、宇治山田の米友(よねとも)でありました。
 通るところの人々から同情されたり侮蔑(ぶべつ)されたりしながら、米友は伊勢の国から、ともかくもここまで、その一本足で歩いて来たものであります。一本の足が折れて使えなくなったけれども、米友の敏捷(びんしょう)な性質は変ることはなく、かえって他の一本の足の精力が、他の一本へ集まって来たかと思われるほどで、撞木杖(しゅもくづえ)を上手に使ってピョンピョン飛んで歩くと、普通の人の足並には負けないくらいの早さで歩いて行かれるようであります。
「帯屋七郎左衛門、なんだか御大層(ごたいそう)な家だ、俺(おい)らの泊る家じゃねえや」
 米友は今夜泊るべき宿屋を探しているものと見えます。
「鍋屋三郎兵衛、こいつも俺(おい)らの歯には合わねえ」
 大きな宿屋の看板を見てはいちいち排斥して歩いて行く。
「大米屋一郎右衛門」
 これはがんりきや七兵衛が、駕籠と馬のあとを追うて今朝出て行った宿屋。
「これもいけねえ」
 米友は身分相応な木賃宿(きちんやど)かなにかを求めているのだが、それに合格するのがついに見出せないで、浜松の城下をほとんど通りつくしてしまいました。
 広いようで狭い浜松の町はここで尽きて、米友の身は馬込川(まごめがわ)の板橋の上に立っていました。振返ると、浜名の方に落ちた夕陽(ゆうひ)が赤々として、お城の方の森蔭にうつっています。
「ああ、今夜も野宿(のじゅく)かな。これからまもなく天竜川の渡し、そこへ行くまでの間で、社(やしろ)かお寺の庇(ひさし)の下をお借り申さなくちゃあならねえ。それとも夜通し突っ走って、行けるところまで行こうかしら」
 米友は思案しながら松並木を歩き出して、天神町の立場(たてば)から畷道(なわてみち)を、宿になりそうなところもがなと見廻しながら行くと、ほどなくやぐら新田というところあたりへ来てしまいました。
「何だい、あそこで大へんな燈火(あかり)がする、御縁日(ごえんにち)でもあるのかな」
 東へ向って左手の方、五六町も離れて少し小高くなったところに、大きな屋根が見えてあって、その周囲に町が立っています。
「行ってみよう」
 米友はそこへ杖を枉(ま)げて、
「なるほど、大きなお寺だ。御縁日なんだな。よしよし、このお寺の裏の方にどこか寝るところがあるだろう」
 表の方は人が雑沓(ざっとう)しているけれども裏の方は誰もいない。表の方は昼のような明るさであったが、裏の方は真闇(まっくら)。
 米友は裏から廻ってこっそりと本堂の縁の下へもぐり込んでしまいました。蜘蛛(くも)の巣を分けながらちょうど須弥壇(しゅみだん)の下あたりのところへ来て見ると、いいあんばいに囲いになって身を置くようなところが出来ていましたから、そこへ荷物を卸(おろ)して、
「やれ安心、これでようやく今日の旅籠(はたご)がきまった」
 米友はそこに納まったが、頭の上は本堂の広間、いっぱいに人で埋まっているような様子。階段から庭、庭から海道筋の方へかけては、人の足音がしきりなく聞える。
 本堂の中にはいっぱいの人が集まっているようだけれども、そのわりあいに静かであります。そうして時々、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏という声が海嘯(つなみ)のように縁の下まで響いて来ます。

 このお寺は、がんりきや七兵衛がめざして来た天竜寺でありました。いま本尊の側(わき)の高いところで説教をしている六十ばかりの、至極痩(や)せた老体がすなわち遊行上人(ゆぎょうしょうにん)なのでありました。
 鼠色の、ずいぶん雨風を浴びた袈裟衣(けさごろも)をかけて、帽子を被り珠数(じゅず)を手首にかけながら、少しく前こごみになって、あまり高い音声ではないが、よく透(とお)る声で、
「さいぜんも申す通り、我等が境界(きょうがい)は跣足乞食(はだしこじき)と同じ身分じゃ。それにまたこんなに紫の幕を張って、御朱印つきで旅をするというのは我等の心ではない、お役人がそうしてくれるから、そうしている分のことよ。決して我々を、上人だの名僧だのといって有難がってはいけぬ。こうして旅をして歩いて、どこでバッタリと倒れて死ぬかわからぬ身じゃ、なんの我等に貴いところがありましょうぞ、ただただ念仏往生の道を守るのみじゃ。さあさあ、お望みとあらばこれから名号(みょうごう)を授けて上げる。それじゃというて、これだけの人数が一度に押しかけられたのではわしがたまらぬ、そこへ木戸を拵(こしら)えておいたから、先に来たものから争わずに、こちらへ一人ずつ入って来なさるがよい」
 遊行上人はこういって、座右(ざう)の箱に入れてあった名号の小札を一掴(ひとつか)み無造作(むぞうさ)に取っておしいただくと、肩衣袴(かたぎぬばかま)を附けた世話人が、
「さあさあ、皆さんや、これから上人様がお手ずからお名号をお授け下さる、結縁(けちえん)のお方はこれより一人ずつお通り下さい、お受けになったお方は、あちらからもとのお席へお直りなさるように」
 静粛なもので、三尺ほどの入口から順々に上人の前へ出て名号をおしいただいて、一廻りしてもとの席へ戻って来るのに、みんな一応お先へお先へと言って辞儀(じぎ)をしました。
「さあさあ、お持ちなさい、お持ちなさい」
 上人の言葉つきからお授けぶりが、いかにも気軽であります。
 名号を受ける人は、老若貧富(ろうにゃくひんぷ)をおしなべて少ない数ではありませんでした。一生に一度こんな貴い上人のお手ずからの名号をいただく冥加(みょうが)の嬉しさ、これが罪障消滅(ざいしょうしょうめつ)、後生安楽(ごしょうあんらく)と随喜の涙にくれているものばかりであります。
「お前は少しお待ち」
 いま上人の前に出た五十ぐらいの頑丈(がんじょう)な男、その男には上人が容易(たやす)く名号を渡すことをしませんでした。
「お前は、もと船乗をしていたろうな」
「はい、左様でございます」
 頑丈な男は額へ手を当ててお辞儀をしました。集まった人は何事かと思いました。
「その船乗をしていた時に、難船に逢って死んだ者がある、その金をお前は取って遣(つか)ったろうな」
「へへへ、へえ」
 五十男はしどろもどろになりました。
「そうしてお前はまだついぞ、その人の菩提(ぼだい)をとむろうたことがない、その罪があるによって、お前にはこの名号を授けたところで往生は覚束(おぼつか)ない」
 一座はこの時に、しーんとしてしまいました。
 五十男は慙(は)じ入って下を向いてしまっているのを上人は、
「さだめて今お前の身には、骨節(ほねぶし)がところどころ痛むであろうな、終いには身体(からだ)が腐ってしまうぞ。それが怖ろしいからここへ来たものであろうが、まだまだ罪が消えてはいないによって、あちらへ行っているがよい」
 この時、当人のほかに一人、この席の一隅へ紛(まぎ)れ込んで様子を見ていた男が、きまり悪そうに肩をすぼめました。それはがんりきでありました。
 がんりきは、席の隅に小さくなっていたが、上人の船乗に言った言葉が、なんだか自分に当るように思われて肩をすぼめ、横を向いてしまいました。
 がんりきが胸を打たれた次に、
「お前さんには二枚上げる」
 上人は、その次に来た若い婦人には名号(みょうごう)の札を二枚やったのであります。
「有難うございます、有難うございます」
 女はおしいただいて次へ通って行く。がんりきの傍で人の話、
「あれは身持ちなんだよ、あの女は身持ちのおかみさんだ、上人様にはどうしておわかりになるか、わたしどもが見たんでは、まだ様子ではわからないうちに、上人様はちゃんとお見分けなされて、身持ちの女には必ず二枚ずつをお授けなさる」
 がんりきはそれと聞いて、いよいよ煙(けむ)そうな面(かお)。
 その次には、おそろしく衣裳(いしょう)を飾ってお化粧をした町家(ちょうか)の年増(としま)。
「おやおや、あれは浜松の酒屋のお妾さんだが、どうして信心ごころが起ったろう、大へんにめかし込んで来たが」
 その女が上人の前へ出ると上人が、
「ああ、お前の身には不浄(ふじょう)がある。それを洗って来なければお札は上げられない」
 女は真赤になって俯向(うつむ)いてしまいましたが、やがて何か気がついたらしく、
「ああ、どうも済みませんでございました」
 気軽に上人の前を辞して、暫くたって庫裡(くり)の方へ引返しながら、
「ほんとうにどうも、上人様の前へはうっかり出ることはできません。わたし今日、何の気なしにいつもの通り白粉(おしろい)を塗る時、鶏卵(たまご)の白味を使ったものですから、それで上人様が不浄があるとおっしゃいました。それ故、お湯に入ってこの通り素面(すがお)になって参りました」
 どこで湯に入って来たか白粉をすっかり洗い落して、再び上人様の前へ出ると、上人はなんとも言わずに札を授けてやりました。
 それから何人もずんずんと進行していきましたが、あとからあとからと詰めかける人で、いくら静かにしても自然、押合いの気味になります。上人は、また一人の男に向って、
「これこれお前は、どうも穀物渡世(こくもつとせい)をしているようだが、桝目(ますめ)を削(けず)って金銭を貪(むさぼ)るような様子が見える。その日その日の暮しを立てる食物の、量を削って己(おの)れを肥(こや)そうとするような者には往生はできぬ、心を改めて出直しなさい、今日はお札は上げられぬ」
 その男は苦(にが)い面をして恐れ入りました。
「そらごらんなさい、あれは中の町で松屋といって、饑饉年(ききんどし)から太らせた米屋だ、心を改めて出直しなさいと言われっちまった、そうなくちゃあならねえ」
「えらいもんですな、上人様がなにもこの土地に居ついておいでなさるわけじゃなし、当人がそれを喋(しゃべ)るわけじゃなし、それでちゃあんと掌(てのひら)を指すように言い当てておしまいなさる、あれが仏眼(ぶつがん)というものでございますな。ああなると神通力(じんずうりき)を得ておいでなさるから、とても外面(うわべ)だけを飾って出たところで仕方がありませんな」
「そうですとも、ああいうところへは馬鹿は馬鹿なりに、悪人は悪人なりに、正(しょう)のまま持って行ってお目にかけるよりほかは仕方がござんせんな」
「どうです、おたがいがまあ、ああ言って人の前でスパスパすっぱぬきをやろうものなら忽(たちま)ち大事が持ち上ってしまいますな、白粉を薄くつけようと厚くつけようと大きなお世話だ、なんて啖呵(たんか)を切られた日には納まりがつきませんな。それをどうです、大勢の前でスパスパとやられて一言(いちごん)もなく恐れ入っちまうなんぞは、人徳(にんとく)というものは大したものですな」
「心の出来た人ほど怖ろしいのはござんせん。あれでお前さん、上人様は御自分では跣足乞食(はだしこじき)と同じ身分だとおっしゃって、ほんとうに乞食同様な暮らしをしておいでなさるんだが、将軍様であろうとも公卿(くげ)さまであろうとも、私共と附合うのと同じようにしておいでなさる、ああなると貴賤貧富がみんな同じことにお見えなさるんだね」
「さあ参りましょう。私共なぞもお札がいただけるかいただけないか、とにかく正(しょう)のままをお目にかけてお願い致してみましょうでございます」
 隠居さんのようなのが一人立ちかけて、ふと懐中へ手を入れてみましたが、
「おや」
「どうかなさいましたか」
「たしかに持って参った懐中物が」
「お懐中物が? それはそれは」
「おやおや、私も大事な紙入が……」
「あなたも?」
「あれ、わたくしの簪(かんざし)がどこぞに落ちておりは致しませんでしょうか」
 がんりきの周囲(まわり)で、あちらにもこちらにも紛失物の声がありましたので、四辺(あたり)がにわかに物騒(ぶっそう)になります。
 坐っていたものまでが総立ちで騒ぐと、事がいよいよ穏(おだや)かでなくなって、おたがいの眼つきになんとなく疑いの色がかかるから、皆々いやな気持がしてしまいました。
「御用心をなさいまし、よくない奴が入り込んでいるようですから」
「何です何です、泥棒ですか、早く掴(つかま)えておしまいなさい」
 それでいよいよ騒ぎが大きくなると遊行上人が、
「ああ、これこれ静かに。何かまたよくないことをするものがこの席へ入り込んだと見える、わしがよく見て上げるから静かになさい」
 この一言(ひとこと)で騒ぎが静まると、上人は一座をずうっと見廻したが、その眼ががんりきの面の上へ来てハタと止りました。
 上人の眼は眼光爛々(らんらん)というような眼ではありません。眉毛(まゆげ)の下から細く見えるくらいの眼でしたが、ずっと席を見廻すと、がんりきのところへ来て上人の眼がハタと留まりましたものですから、がんりきはまたギクッとしました。
 そこで上人はこう言いました、
「人の欲しいと思うものを取ったところで、それは己(おの)れの福分(ふくぶん)にはならぬものじゃぞ。金が欲しいならば、この集まりが済んでから、わしのところへ相談に来てみるがよい、多分のことはできまいが、いくらかの都合(つごう)はして上げる、人の物を盗むというのはよろしくない。さあ、この席のことはこの席限り、昔犯(おか)した罪でも、神妙に懺悔(ざんげ)をすれば仏様が許して下さる。今日はこれおたがいが、後生往生(ごしょうおうじょう)のためというて集まったこの席で、人の物を盗ろうというものは、よくよくお気の毒な性(しょう)に生れついたものじゃ。盗った品はここへ出しておしまいなさい、今も申す通り、この席のことはこの席限り、盗られた人も許して下さるであろうし、盗った方もたちどころに罪が消えるのじゃ」
 こう言って、しーんとした席を見渡す、見渡すのではない、がんりき一人の面だけを、じっと見詰めておられるようにしか思われませんから、さしものがんりきは、なんとなくまぶしくなって、面を上げていられないで俯向(うつむ)いてしまいました。
 上人からこう言われて、誰か名乗って出るだろうと、一座はいよいよ静かになっているが、いっこう名乗って出るものもありません。
 そのうちにがんりきは、そーっと後ずさりをして人混(ひとごみ)に紛(まぎ)れて扉の側(わき)からこの席を抜け出でようとすると、上人が、
「世話人衆」
と世話人を呼びました。
「へえ」
 肩衣袴(かたぎぬばかま)をつけた世話人が上人の前へ出て頭を下げると、
「今あの扉の外へ出ようとする男、あの男をちょっと呼び止めてこれへつれておいでなさい」
「へえ」
 世話人と警衛の者三四名、人を分けてバラバラとがんりきの傍へ寄って来る。それと見て近くにいた人も立ち上ってがんりきの袖(そで)を控えて、
「まあお待ちなさい」
「何をしやがる」
 がんりきはその男を突き飛ばすと四辺(あたり)はまた総立ち。
「盗賊(どろぼう)!」
 がんりきを取押えようとかかるのを、
「ええ、小癪(こしゃく)な真似をしやがる」
 二三人を手玉に取ったがんりき、扉から欄干(らんかん)を一足飛びに縁の敷石の下まで飛び下りた身の軽さ。どこといって逃げ場所がないから、がんりきは縁の下へ逃げ込んでしまいました。

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