大菩薩峠
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著者名:中里介山 

         一

 お君は、やがて駒井能登守の居間へ通されました。
 能登守の居間というのは、そこへ案内されたお君が異様に感じたばかりでなく、誰でもこの居間へ来たものは、異様の念に打たれないわけにはゆかないものであります。それは畳ならば六十畳ほどの広さを持った居間に、畳を敷いてあるのでなく、板張りにして絨氈(じゅうたん)のようなものが敷き詰められてありました。
 その広い室の中央と片隅とに卓子(テーブル)が置かれて、その周囲には椅子が置かれて、四方には明るく窓が切ってあります。
 長押(なげし)の上や壁の間には、いくつもの額が掲げられてありますが、どの額も、軍艦や大砲やまた見慣れない風景や建築の図案であります。それから書棚には多くの書物があります。その書物には洋式の書物が特にめだっているのみならず、書棚の隅や、本箱の上、また別に棚を作って、見慣れないさまざまの武器の実物と模型とが、無数に陳列されてあります。
 さまざまの武器といううちにも、ことに鉄砲が多く、ことに小銃にはいくつかの実物があり、大砲は模型として順序よく並べられてありました。
 旧来の屋敷を、こんなに能登守が好みで建築をし直したものだと、お君はそのくらいのことはわかりますけれども、そのほかのことは、めまぐるしいほどで、なんと言ってよいかわかりません。
 その卓子(テーブル)の近くの椅子の上へ腰をかけてよいのだか、また絨氈の上へ坐らねば失礼であるのだか、それさえお君にはわかりませんで、案内のあとに隠れてただポーッとして立ち竦(すく)んでしまったようです。能登守はその時、片隅の椅子に腰かけて卓子に向っていました。
 黒羅紗(くろらしゃ)の筒袖の陣羽織を着て野袴を穿(は)いていました。門番の足軽が言った通り、今まで調練の指図(さしず)をしていたのが、それが済んでからここへ来て、書物を開いて何か書いているのでありましょう。その書物は、やはり見慣れない文字の書物であります。それを見慣れた文字に書き直していたようであります。今まで広場で調練の指図をしていたという能登守は、それがために血色が活々(いきいき)として、汗ばんだところへ黒い髪の毛が乱れかかっていました。
「よくおいでなされた、暫らくそれでお待ち下さい」
と言って、筆を持ちながら、お君の方へ向いて莞爾(かんじ)とした面(おもて)には、懐しいものがあります。
「はい」
 お君は、やっぱり立ち場に困って、椅子へ腰をかけるのは失礼であろうし、そうかと言って、絨氈の上へ坐って笑われはすまいかとの懸念(けねん)で、真赤になって立ち竦んでいるのみであります。
 駒井能登守は和蘭(オランダ)から渡った砲術の書物を、いま自分の手で翻訳しているところであります。ちょうどそれを程よいところでクギリをつけてから筆をさしおいて、その椅子から立ち上って、
「お君どの、よく見えましたな、一人で……」
と言って能登守は、真中にある方の大きな卓子(テーブル)の方へ進んで、
「さあ、それへお掛けなさるがよい」
「はい」
 能登守は、お君に椅子をすすめながら、自分も椅子に凭(よ)りました。お君はようやく、その椅子へ腰を卸して、能登守と卓子を隔てて座にはつきましたけれど、恥かしいやら恐れ多いやらの感じで、胸がいっぱいです。
「先日は結構な下され物を、まことに有難う存じました」
 やっとの思いで、お君はこれだけのお礼を、能登守の前へ申し述べたのであります。
「ナゼお前は、わたしのところへ来てくれない」
と能登守は砕けてこう言いました。その言葉の温かみは感じたけれども、その意味がお君には、よく呑込めませんでした。
「お礼に上ろうと存じましても、あまり恐れ多いものですから……」
 お君は、おどおどとして申しわけをしました。
「お前がわしのところへ来てくれると、わしは嬉しいけれども、伊太夫の家で、お前を放すことはできぬというからぜひもない」
と能登守は、お君の横顔を見ながらこう言いました。この一語は、少なからずお君の胸を騒がせました。今までは身分の違う人の前と、見慣れぬ結構の居間へ通されたことから、気がわくわくしていたのですけれども、能登守の今の一言(ひとこと)は、それとは全く異(ちが)った心でお君の胸を騒がせました。
「わたくしは左様なことを、いっこう承りませぬ、主人からも、そのようなお沙汰のあったことをお聞き申しませぬ故に……」
「ナニ、それを聞かぬ? では、わしがお前の身の上について、伊太夫へ頼んでやったことが、お前の方へは取次がれんのじゃな」
「はい、どのような御沙汰でございましたか……」
「それは不審」
 能登守は美しい面(おもて)を少しく曇らせました。お君はハラハラとした気持が休まりませんでした。やがて能登守はこう言いました。
「ほかではない、わしのところはこの通り女手のない家、それ故に伊太夫の方でさしつかえのない限り、お前にわしの家へ来て働いてもらいたいがどうじゃと、家来をして申し入れたはず、それを伊太夫が断わって来た」
「まあ、そんな有難い御沙汰を……どうして旦那様が」
 お君は当惑に堪えないのであります。御支配様からの御沙汰をお請(う)けをするとしないとに拘(かかわ)らず、左様な御沙汰があったならば、一応は自分のところへお話がなければならないはずだと思いました。いくら主人だといっても、自分の身の上の御沙汰を、途中で支えてしまうというのは道理のないことだと思いました。さりとて、あの大家の旦那様が左様なことをなさるはずもなし……その時、はたと思い当ったのはお銀様のことであります。あ、それではお銀様の仕業(しわざ)と、すぐにこう感づいてしまいました。
 殿様から御沙汰があると、旦那様は必ずお銀様へその御沙汰のお伝えがあったに違いない、それをお銀様が、あの気性で、わたしに話なしに御一存でお断わりなすってしまったに違いないと、お君はすぐにそう感づいてみると、お銀様に言われた言葉がいちいち思い当るのであります。お前が行けば殿様は喜んでお会い下さると、お銀様が断言したこと、そこに何かの確信があるような言いぶりがお君によく思い合わされると共に、殿様はお前を好いている……と言ったお銀様の言葉、薔薇(ばら)のような甘い香と鋭い棘(とげ)とが、ふたつながら含まれていたのも漸くわかってくると、お君は我知らずポーッと上気してまたも面(かお)が真赤になりました。そうして、お銀様の仕打ちが憎らしくなってたまりませんでした。
「わたくしは初めて承りました、殿様からそのようなお沙汰のありましたことを、わたしは今まで存じませんでございました」
 お君は自分の冤罪(えんざい)を申し開きするような態度でこう言いました。
 お君が、自分の冤罪を主張するように熱心になったのを、能登守は意外に思いました。
「お前がそれを聞かない――では伊太夫がお前に伝えることを忘れたのであろう」
と言いました。
「左様でございましょうか知ら」
とお君が本意(ほい)ないように言いました。
「伊太夫が承知をすれば、お前はここへ来てくれるか」
と能登守は頼むように優しい言い方であります。
「それは御主人の方さえ、お暇が出ますれば……」
とお君は、我ながら出過ぎたように思い直しました。
「それでは、もう一度、伊太夫に頼んでみよう」
 お君は、やはりその言葉を有難いことに思いました。けれども、まだそこに一つの故障があることを同時に考えさせられないわけにはゆきません。その故障というのはお銀様のことであります。旦那様は御承知があっても、お銀様が何というかとそれが心配であります。しかしそれとても、どうにか言いこしらえることができるものと安んじておりました。
 お君は、今この優しい言葉を聞き、これから始終、この殿様の傍に仕(つか)えることができるという嬉しさに、胸がいっぱいであります。それがために胸がいっぱいで、己(おの)れの身分を考える余裕(よゆう)もありませんでした。また何のために自分がここに来たかという使命の程も忘れてしまっていました。やがてそれを考えついた時に、お君は悲しい心持がしました。悲しい心持が慌(あわ)てる心持でせきたてられました。それで、幸内の行方不明になったことを逐一(ちくいち)申し上げて、お頼みをしなければならないと思いました。
 お君はようやく、そのことの一切を能登守に物語りました。幸内が伯耆の安綱といわれる刀を持って出て家へ帰らないこと、それがためにお嬢様がいちばん心配していらっしゃること、幸内はこの城内のどなた様かへお目にかけるつもりでその刀を持って出たらしいこと、どうかお嬢様のために殿様のお力添えをお願い申したいということを、お君は嘆願したのであります。
 能登守は黙ってそれを聞いて、何か考えているだけで返事をしません。しかし、それだけのお願いを申し上げておけば、お君のここへ来た使命は尽きたわけであります。
 お君がお暇乞いをして帰ろうとする時に、能登守は立って一方の机の上から、一つの小さな箱を取って、
「まだ帰らんでもよかろう、お前に見せたいものがある」
 その蓋(ふた)を取って、お君の前に置きました。
「まあ、これは、殿様のお姿……」
と言って立ちかけたお君は、この箱の中にあった絵姿に見入ってしまいました。これは絵姿ではありません。けれども、お君は、絵姿だと思って、
「ほんとに、お生写(いきうつ)し……どうしてこんなに上手にかけるものでございましょう」
と我を忘れて驚嘆したのであります。
「それはかいたのではない」
と能登守は微笑しました。けれども、お君にはその意味がわかりませんでした。
「恐れながらこちらのは、殿様、こちらのお方は……」
 お君の見ている絵姿には、二人の人の姿が写し出されてあるのであります。その一人はこの能登守、もう一人は気高(けだか)い婦人の像(すがた)でありました。
「それは、お前によく似た人」
 この時のお君が写真というものを知ろうはずがありません。眼に見たことはおろか、話にさえ聞いたことはありません。
「それは、お前によく似た人」と言われて、お君の胸は何ということなしに騒ぎました。念を推してお尋ねするまでもなく、これは殿様の奥方でいらっしゃるとお君は覚(さと)りました。
 お君は奥方のお像をじっと見入って、「お前によく似た」とおっしゃった殿様のお言葉が、おからかいなさるつもりのお言葉ではないと、お君は自分ながら、そう思いました。己(おの)れの容貌を買い被るのも女であるし、己れの容貌をよく知るのも女であります。
「それは写真というもので、筆や絵具でかいたのではない、機械でとって薬で焼きつけた生(しょう)のままの像(すがた)じゃ、日本ではまだ珍らしい」
 絵姿だとばかり思って、お君があまり熱心に見恍(みと)れているものですから、能登守が少しばかり説明を加えますと、
「これはかいたものではございませんか。まあ、機械で、どうしてこんなによくお像を写すことができるのでございましょう、切支丹(きりしたん)とやらの魔法のようでございます」
「そうそう、最初はそれを切支丹の魔術と思うていた、今でもその写真をとると生命(いのち)が縮まるなんぞと言うものが多い、けれどもそれは取るに足らぬ愚(おろ)かな者の言い分じゃ」
「ほんとにお珍らしいものでございます」
 お君はその写真を飽かず見ておりました。自分は今お暇乞いをして立とうとしていることも忘れて、写真から眼をはなすことができません。
「それをお前が欲しいならば、お前に上げてもよい」
 能登守からこう言われた時に、面(かお)を上げたお君の眼は狂喜にかがやいて見えました。

 こうしてお君は能登守から、箱に入れたまま紙取りの写真をいただいて帛紗(ふくさ)に包み、後生大事(ごしょうだいじ)に袖に抱えてこのお邸を立ち出でました。
 それから御門まで来る間も、お君は嬉しさで宙を歩んでいるような心持です。その嬉しさのうちには、やはり胸を騒がせるような戦(おのの)きが幾度か往来(ゆきき)をします。その戦きはお君にとって怖ろしいものでなく、心魂(しんこん)を恍(とろ)かすほどに甘いものでありました。
「わたしは、あの殿様に好かれている、あの殿様は、わたしを憎いようには思召していない、たしかに――」
 お君は身を揺(ゆす)って、そこから己(おの)れの心の乱れて行くことを、更に気がつきません。
 ましてや、お君は、お銀様に頼まれて来たことも、そのお銀様がお濠(ほり)の外で待ち焦(こが)れておいでなさるだろうということも、この時は思い出す余裕がありませんでした。さいぜん親切に案内された門番へさえも、一言(ひとこと)も挨拶をしないで門を通り抜けようとして、門番から言葉をかけられてようやく気がついて、あわててお礼を言ったくらいでありました。
 橋を渡って、お銀様を待たせた柳の樹のところへ来て見たが、そこにお銀様の姿が見えませんでした。
「お嬢様は……」
と言って、お君はそのあたりを見廻しましたけれども、そのあたりのいずれにもお銀様らしい人の影は見えません。
 その時に、お君は自分が能登守の前に、あまり長くの時を費(ついや)したことを考えました。待たせる自分は嬉しさに包まれて時の移るのを知らなかったけれど、待たせられたお嬢様にとっては、ずいぶん長い時間であったろうと気がつきました。

         二

 これより先、お濠の岸に立ってお君の帰るのを待っていたお銀様は、そのあまりに長いことに気をいらだちました。
 役割の市五郎が傍へ寄って来た時に、お銀様は振返ってそれを睨(にら)みました。市五郎はなにげなくそれを反(そ)らして行ってしまったが、お銀様がそれを忘れてやや久しいのに、お君はまだ御門から出て来る模様がありません。
 お銀様はお城の方を睨んで、荒々しく足踏みをしました。それからお濠の岸を、あっちへ行ったりこっちへ帰ったりしていました。
 そうすると、問屋場の方から五六人かたまって私語(ささや)きながらこっちへ来る者があります。それは例の折助連(おりすけれん)であります。
 自分で無理にすすめて廓(くるわ)の中へやっておきながら、お銀様は焦(じ)れて焦れてたまらなくなっていました。自分を平気でこんなに待たせておくお君を呪(のろ)うような心持になって、城の方ばかり睨んでいましたから、この五六人の折助連が私語(ささや)きながらこっちへ近づいて来ることも気がつきません。
 そうしていると、折助の一人が、ふらふらと歩いて来て、お銀様に突き当るようにしてすれ違って、
「危ねえ、危ねえ」
と言いましたから、お銀様も気がつくとその折助は酔っていて、足許も定まらないようであります。お銀様は驚いてそれを避(よ)けました。それを避けるとその次に、また一人の折助が通りかかって、同じようにお銀様に突き当ろうとしました。お銀様は、また驚いてそれを避けると、第三番目の折助が、とうとうお銀様にぶっつかってしまいました。お銀様は危なく足を踏み締めますと、
「やい、気をつけやがれ」
とその折助が言いました。わざとする乱暴さに、お銀様は口惜しがって折助どもを睨(にら)めて立っていました。お銀様の眼つきは、ことさらに睨(にら)めないでも、いつも怒気を含んでいるように見えるのであります。
「へへへへへ、これはこれは」
と言って折助は急に、ふざけた声色(こわいろ)を使って、頭巾で隠してあるお銀様の顔をワザと覗(のぞ)き込むようにして、
「お女中のお方でいらっしゃる、それとは知らず飛んだ御無礼」
 なんぞと言って、またまたワザとらしい声色と身ぶりでお辞儀をしました。
 お銀様は、それを見ないでぷいと向き直って歩き出すと、
「兄弟(きょうでえ)、どうしたんだい」
と言ってほかの折助が寄って来ました。
「いや、このお女中に飛んだ失礼をしてしまったんだ、ツイ足がよろめいたために、このお女中に突き当ってしまったから、今、謝罪(あやま)っているところなんだ、兄弟、なんとかとりなしてくんねえ」
と、前の折助がこんなことを言いました。
「そいつは悪いことをした。まあ、どちらのお女中さんか知らねえが、この野郎は、平常(ふだん)から軽佻(かるはずみ)な野郎でございますから、ナニ、別に悪い心があってするわけじゃございません、どうぞ御勘弁してやっておくんなさいまし」
 ほかの折助が、これもまたワザとらしい身ぶりと声色で、揉手(もみで)をしながら、お銀様の方へとかたまって来るのであります。
 お銀様は腹を立てました。無礼にも無作法にも限りのないやつらだと、口惜しくてたまりませんでした。それだから黙って彼等を振り払って行こうとすると、その前へ廻り、
「どうか、御勘弁をなすっておくんなさいまし」
 それを振り払って、また進んで行くと、
「野郎が、あんなに謝罪(あやま)るんだから、どうか御勘弁をして上げておくんなさいまし」
 お銀様は心の弱い女ではありません。どちらかと言えば気丈な女であります。それだからこれらの無作法な折助に一言も口を利くことをいやがりました。それを振り払って避けようとしました。
 折助どもはそれを前後から取捲くようにして追いかけるのは、どうも何か計画あってすることとしか思われません。
「これほど謝罪(あやま)っても、何ともお許しが出ねえのは、よくよく見倒された野郎だ」
と折助の一人が言いました。
「ナーニ、お女中さんが縹緻(きりょう)がよくっていらっしゃるから、それで気取っておいでなさるのよ、下郎どもとは口を利くも汚(けが)れと思っておいでなさるんだ」
と、また一人の折助が言いました。
「違えねえ、折助なんぞはお歯に合わねえという思召しなんだから、それでお言葉も下し置かれねえのだろう。ああ、情けなくなっちまわあ、孫子(まごこ)の代まで折助なんぞをさせるもんじゃねえ」
と言って、また摺(す)り寄ってお銀様の面(かお)を覗き込むようにしました。お銀様がついと横を向くと、乗り出してわざとまた覗き込んで、
「はははは」
 一度に笑いました。お銀様は歯咬(はがみ)をして彼等を押し退けて避けようとすると、折助たちは、ゾロゾロと後をついて来るのであります。お銀様は、ついに立ち竦(すく)んでしまうよりほかはなくなりました。
 そうすると、折助もまたその周囲に立ちはだかりました。
「お前たちは女と侮(あなど)って、このわたしに無礼なことをする気か」
 お銀様はこらえきれなくなったから、声を慄(ふる)わして折助どもを詰責(きっせき)しました。お銀様でなかったら、ぜひはさて措(お)いて、一応この折助どもに謝罪(あやま)ってみるべき儀でありましたけれど、お銀様は口惜しさに堪えられないで、わが家の雇人を叱るような態度で嵩(かさ)にかかりました。
「どう致しまして、無礼をするなんぞと、そんなことがございますものですか、お女中がお一人では途中が案じられますから、こうしてお送り申し上げようと言うんでございます」
 折助はこう言いました。
「わたしは、ほかに連れの者がある、それを待っているの故、お前方のお世話は要(い)らぬ」
 お銀様は、やはり叱るような言いぶりであります。折助どもは、お銀様が何か言い出すのを待っていたと言わぬばかりでしたから、
「そんなことをおっしゃらなくたっていいじゃあございませんか」
「無礼なことをすると許しませぬ」
 お銀様は懐中へ手を入れました。その時に一人の折助が、横の方からお銀様の被っていた頭巾を引張りました。眼ばかり見えていたお銀様の面(かお)の口もとから額へかけて、斜めにその呪われた怖ろしい面が見えました。
「はははは」
と折助どもは声高く笑いました。歯をキリキリと噛み鳴らしたお銀様は、キラリ光るものを手に持っていました。
「やあ、危ねえ、刃物を持っている」
 前後から五六人の折助が寄ってたかって、お銀様の持っていた懐剣を奪い取ろうとして、怪我をしたものもありました。
「面倒くさいから引担(ひっかつ)いでしまえ」
 彼等は寄ってたかって無礼な振舞に及ぼうとする時に、妙詮寺(みょうせんじ)の角から突然(いきなり)飛び出して来た強そうな男。
「この野郎ども、飛んでもねえことをしやがる」
 折助どもをポカポカと殴り飛ばして、その一人を濠の中へ蹴込みました。
「やあ、役割!」
と言って、折助はたあいもなく逃げてしまいました。この場へ来合せた強そうな男は、役割の市五郎であります。

「お嬢様、もう御安心なさいまし、ほんとにあいつらあ、悪い奴だ、お嬢様とも知らずに碌(ろく)でもねえことをしやがる」
 市五郎がこんなことを言って慰めているところは市五郎の宅であります。
「市五郎どのとやら、お前が来てくれなければ、わたしはドノような目に会ったことやら。よいところへお前が来てくれたから、それで悪者がみんな逃げてしまいました」
 お銀様は泣いていました。
「ナニ、たかの知れた折助どもでございますが、打捨(うっちゃ)っておくと癖になりますから、少々大人げねえと思いましたけれど、二つ三つ食(くら)わしてやりました。御心配なさいますな、これからお屋敷まで送らせて差上げますから」
「市五郎どのとやら、わたしには連れの者があってそれを待っていたところ、その連れの者に沙汰をして貰いたい」
「左様でございますか、そのお連れの方とおっしゃるのはどちらへおいでになりました」
「御城内まで参りました、もう帰って来て、あのお濠(ほり)の傍で、わたしを探していることと思います、早う、そこへ人をやって、わたしがここにいることを知らせて下さい」
「へえ、よろしうございますとも。そうしてそのお連れの方のお名前は何とおっしゃいますな」
「それは君といって、年もわたしと同じ位、わたしと同じこのような衣裳を着ておりますわいな」
「なるほど、お君さんとおっしゃるのでございますな、へえ、よろしうございます、今、人をやってお迎え申して差上げますから、御安心なさいまし」
「この甲府にも、わたしの親戚はあるけれど、誰にも言わないように頼みます、わたしが悪い者に出会って、あんな狼藉(ろうぜき)をしかけられたと、それを世間に知られては外聞になるから、内密(ないしょ)に頼みます」
「へえ、もうその辺は心得たものでござりまする、人様の外聞になるようなことを、頼まれたって触れて歩くような、そんな吝(けち)な野郎でもございませんから御心配なさいますな。まあ、なんにしてもお怪我がなくてようございました」
「あの、早く連れの者に沙汰をして」
「へえ、よろしうございます、いま使に出した野郎が、もう帰って来ますから、帰って来たらすぐに飛ばせてやりますでございます、お乗物なんぞは、ここで一声怒鳴(どな)れば御用が足りるんです。嬶(かかあ)でもいるとお髪(ぐし)やお召物のお世話をして上げるんでございますけれども、まあそのうちに嬶も帰って参りますから」
「髪や着物などはかまいませぬ、あのお君が帰って来さえすれば、直ぐにお暇(いとま)をして屋敷へ帰りたい、早くあの子へ沙汰をして」
「へえへえ。どうも困ったな、いつも二人や三人はゴロゴロしているくせに、今日に限って嬶までが出払ってしまうなんて。と言って俺が出向いて行けば家は空(から)になるし……野郎どもも大概(てえげえ)察しがありそうなものだ、ぐずぐずしていると日が暮れちまうじゃねえか、日が暮れちまった日にゃあ、お嬢様をここへお泊め申さなけりゃならなくなるんだ。そんなことにでもなってみろ、お屋敷でどんなに心配なさるか知れたもんじゃねえ」
 市五郎は焦(じ)れ気味で独言(ひとりごと)を言っているに拘(かか)わらず、自分は長火鉢の前へ御輿(みこし)を据えて、悠々と脂下(やにさが)っていました。

         三

 宇治山田の米友は、この時分に八幡宮の境内を出て来ました。米友は油を買うべく、町へ向って出かけたのであります。
 町へ出る時にも、やっぱり米友は烏帽子(えぼし)を冠(かぶ)って白丁(はくちょう)を着ておりました。それから例の杖に油壺をくくりつけて肩に担(かつ)いでおりました。今夜もまたでえだらぼっちの来襲に備うべく、燈籠(とうろう)の番をする必要があればこそ、油を買いに行くのであります。
 でえだらぼっちというのはそもそも何者であろうかというに、これは伝説の怪物であります。素敵(すてき)もない大きな男で、常に山を背負って歩いて、足を田の中へ踏み込んで沼をこしらえたり、富士山を崩して相模灘(さがみなだ)を埋めようとしたり、そんなことばかりしているのであります。
 でえだらぼっちという字には何を当箝(あては)めたらよいか、時によっては大多法師と書きます。ところによってはレイラボッチとも言います。そんなばかばかしい巨人があるわけのものではないけれど、諸国を旅行したものは、どこへ行ってもその伝説を聞くことができます。今でも土地によってはその実在をさえ信じているところもあるのであります。でえだらぼっちが八幡様へ喧嘩を売りに来るという伝説の迷信が取払われないから、米友は今夜も燈籠へ火を入れなければなりませんでした。
「でえだらぼっちもでえだらぼっちだが、八幡様も八幡様だ」
 米友はブツブツ言いました。実際、米友の粗雑な頭でさえも、でえだらぼっちの実在を信じきれないのであります。わざわざ眠い眼を擦(こす)って、実際有るか無いかわからないものの来襲に備えているということは、かなりばかばかしいものだと思わないではありませんでした。
 しかし、米友はいま宮仕(みやづか)えの身であります。ばかばかしいからと言ってそれを主張した日には、また追い出されてしばらくは路頭に迷わねばならないと思って、これまでずいぶん追い出されつけていただけに、多少身にこたえがあるから、ばかばかしいはばかばかしいなりに辛抱して、その油買いにも行き、油差しもしようというものであります。
「油買いに茶買いに、油屋の縁で辷(すべ)って転(ころ)んで、油一升こぼした」
と町の子供が、米友が油を買いに出たところを見て囃(はや)しました。
 米友は、それに取合わないで澄まして歩きました。子供らにとっても大人にとっても、米友が油買いに行く形はおかしいものでありましたろう。
 八幡の社を出て米友は三の堀を、廓(くるわ)の中へと行きました。廓を抜けて町の方へ行こうとして、竪町(たてまち)の正念寺の角を曲って二の堀の際(きわ)を歩いて行くうちに、米友は、
「あっ」
と言って立ち止まりました。
 そうして猿のような眼を円くして、しきりに御門の橋のあたりを見つめていました。
「あっ、ありゃ」
と言って吃(ども)りました。吃った時分には、いま米友が見かけた人影は、御米蔵(おこめぐら)の蔭へ隠れてしまいました。その人影の隠れた御米蔵をめざして、米友は一目散(いちもくさん)に駆けて行きました。
 その挙動は、かなり粗忽(そそ)っかしいものであります。ついには油壺が邪魔になるので、その油壺を振り落して堀際を駆けました。米友の身にとっては油壺も大切ですけれどもその油壺を抛り出してさえ、なお追い求めようとするものがあったと見なければならぬ。ほかでもない、米友は今ここで計(はか)らずもお君の姿を認めたからであります。
 米友がその不自由な足を引きずってわざわざ甲州まで来たのは、一(いつ)にお君を求めんがためでありました。米友にとってお君は唯一(ゆいつ)の幼(おさ)な馴染(なじみ)であり、お君にとっても米友は唯一の幼な馴染でありました。米友は、今しばらく旅費に窮したから八幡宮に雇われましたけれど、いくらか給金が貯(たま)ればそれを持って、お君を探しに行くつもりなのであります。
 それだから、いま認めたそれがお君であったとすれば、もう油壺などは問題にならないはずであります。
 息を切って米友が馳せつけたのは、例の役割市五郎の宅の裏手。
「こんにちは」
 米友は、せいせい言って、そこに庭を掃いていた折助に挨拶しました。
「何だ」
 折助は米友を見て怪訝(けげん)な面(かお)をしました。
「少しお聞き申してえことがあるんだ」
 米友は唾(つば)を飲んで咽喉を湿(うる)おしました。
「何だ何だ」
 折助は米友が、あんまり一生懸命に見えるから笑止(しょうし)がって箒を持った手を休めました。
「今、ここへ娘が一人、入ったろう、仲間(ちゅうげん)につれられて娘が一人入ったろう」
「ふん、それがどうしたい」
「それを聞きてえんだ、あの娘はありゃ、この家に奉公している娘かい、それともまたよそからお客に来た娘なのかい」
「それをお前が聞いてどうするんだ」
 折助は突き放すように答えました。
「それを聞かなくちゃならねえことがあるんだ、後生(ごしょう)だから教えてくれ」
 米友は突き放されじと焦(せ)き込みました。焦き込めば焦き込むほど、米友の調子が変になりますから、折助などが嘲弄するには、よい材料であります。
「ははは、ずいぶん教えてやらねえもんでもねえがの、いったいお前はどこの何者で、あの娘っ子とは、どんな筋合いがあるんだ、それから聞かしてもらった上でなけりゃあ骨が折れめえじゃねえか」
「うむ、俺(おい)らはいま八幡様に奉公しているんだ。名前か、名前は米と言ってもよし、友と言ってもかまわねえんだ。今たしかにこの家の中へ入った娘は、ありゃ、国にいた俺らの幼な馴染とよく似ているんだ、よく似ているじゃねえ、あの子に違えねえのだから会いてえのよ、向うでもまた、そう言えばキット俺らに会いたがる」
「おやおや、こりゃあお安くねえわけだ」
と言って折助は、またおかしな面(かお)をして、米友の面をジロジロと見ました。
 この問答が事ありげなので、そこへ屋敷の中から二三人の折助がまた面を出しました。
「どうしたのだ」
「ははは、この大将が、はるばる国許(くにもと)から女を追っかけて来たんだ、そうして後生だから一目会わせてくれという頼みよ。会わせてやらねえのも罪のようだし、そうかと言って、会わせて間違えでも出来た日には、取返しがつかねえし、どうしたものかと、挨拶に困っているところだ」
「なるほど」
 彼等は充分の侮辱を以て、米友の面をしげしげとのぞいて、
「は、は、は」
と嘲笑(あざわら)いしました。米友は勃然(むっ)として、
「何だ、何がおかしいんだ」
 手に持っていた杖を取り直しました。
「まあ、兄さんや、そんなことを言わねえで帰りな。そりゃ、お前の眼で見ると、どの女もこの女も、みんなその国許にいた馴染の女とやらに見えるんだろうけれど、今ここを通った女はありゃ、ちっとお前には縁が遠いんだ。悪いことを言わねえから、ほかへ行って、もう少しウツリのいいのを探してみな」
 お君のことを言い出すと、米友は必ず侮辱されてしまいます。前に両国の軽業(かるわざ)の小舎(こや)へ訪ねて行った時も、美人連のために手ヒドク嘲弄されました。
 短気の米友が、ここで折助連と衝突を起さなかったのは不思議であります。しかし、米友もこのごろでは、短気がいつでも自分に好い結果を来さないことを少しは悟(さと)ったのか、争っても到底、折助が自分の言うことを相手にしないのを見て取ったのか、口が吃(ども)って利けないほどに憤慨しながら、悄々(しおしお)としてそこを引上げたのであります。
 引上げるには引上げたけれども、確かに米友はお君を見たのです。お君が堀端をあちらこちら歩いている時に、一人の男が来てお君に何か言って、お君を連れて行くのを見かけたから、それで油壺を抛り出して追いかけて、この家へ連れ込まれたのを、確かに見たのでありますから、その場は立ち去ったけれども、到底この屋敷から眼と心とを離すわけにはゆきますまい。
 しばらくその屋敷の周囲を彷徨(さまよ)うていた米友は、物蔭へ入って烏帽子(えぼし)と白丁とを脱いでクルクルと丸めて懐中(ふところ)へ入れました。それからこの屋敷の前にあった縄のれんの一ぜん飯屋の前を二三度往来(ゆきき)しましたが、思いきってその中へ入って空樽へ腰をかけてしまいました。米友はここで一ぜん飯を食いはじめました。一ぜん飯を食いながらも、役割の屋敷からちっとも眼をはなすことではありません。けれどもいったん入ったお君の姿は、この家のどちらからも外へ出た模様はありません。一ぜん飯を食い終った米友は、なお暫らく腰をかけて、縄のれん越しに市五郎の宅ばかりを見ていました。そのうちに日が暮れかかって、四方(あたり)が薄暗くなりました。飯屋の親方は掛行燈に火を入れました。
 米友はようやく気がついたように、四方を見廻して、
「ああ、俺らも燈籠へ火を入れるんだった」
と急に考えて飛び上りました。
 けれども、燈籠に火を入れることはもはや米友の責任ではありません。ただ偶然、その責任に驚かされてこの一ぜん飯屋を飛び出した米友は、役割の家の塀の辺(あたり)をグルグルと廻っていました。
 ちょうど、黄昏時(たそがれどき)であることが、米友にとっては仕合せでありました。塀のまわりや壁の下に身を摺(す)りつけて、中の様子を伺っていると、数多(あまた)の折助が、遠慮のない馬鹿話をしたり高笑いをしたりするのがよく聞えましたけれど、女の声としては更に聞えることがありません。
 米友はついに怺(こら)え兼ねて、その杖を塀のところに立てかけて、それに足をかけて飛び上りました。天性の敏捷な米友は易々(やすやす)と塀を乗り越えてしまいました。塀を乗り越えるとその杖を上から引き上げて、屋敷の中の井戸端からソット忍びました。
 ここは、折助どもの集まっている、いわゆる大部屋であります。昼のうちはそんなでもなかったのが、いつ集まったか、盛んな人集(ひとだか)りで、一方の隅にかたまって博奕(ばくち)に夢中なのもありました。真中どころにごろごろして竹の皮包みの餡(あん)ころかなにかを頬張りながら、下卑(げび)た話をしてゲラゲラ笑っているのもあります。
 博奕の方ではスポンスポンと烈しい音がしていました。今まで着ていた唐桟(とうざん)の着物を脱いで抛り出すのもあり、縮緬(ちりめん)の帯を解いて投げ出すのもありました。
 こちらで寝転んで、餡ころを頬張りながらゲラゲラ笑って下卑た話をしているのが、米友の耳によく入ります。米友は戸の節穴(ふしあな)からそっと覗(のぞ)いていると、蜜柑箱(みかんばこ)を枕にした折助が、
「はくしょッ」
と咳をしました。
「風邪(かぜ)を引いちまった、飛んでもねえところで泳ぎをさせられちまったから、風邪を引いちゃった」
と言いました。
「は、は、は」
と一人の折助が高笑いをすると、
「あっぷ、あっぷ」
と、もう一人の折助が水に溺れるような形をしました。
「笑いごとじゃあねえ、全く命がけの狂言よ、二朱じゃやすい」
と風邪を引いた折助は、さのみ浮き立ちません。
「全く笑いごとじゃあねえ、親方にいいところを買って出られて、こっちはまるっきり儲(もう)からねえ役廻りだが、そのなかでも、兄いが儲からねえ方の座頭(ざがしら)だ」
「そりゃそうよ、手前たちは、痛くねえように二つばかり殴(なぐ)られたんで事が済んだけれど、俺らときた日にゃあ御丁寧に、お濠の中で涼ませられたんだ」
「仕方がねえ、頼まれりゃ水火の中へも飛び込むということがある」
「そこが男だ」
「ふざけるない。そうして骨を折っておけば、骨を折っただけのものはあるだろうと思っていたら、何のことだ、手前たちと同じように二朱の頭だ。結局、看板をだいなしにしたのと、寒い思いをしたのとが儲けもんで、風邪を引いたのが利息だ、ばかばかしいっちゃあねえ」
「ははははは」
 折助どもは、愚痴を言っている折助を笑いました。
「いったい親方は、あんな狂言をして、あんな化物娘を引張り込んでどうする気だろう、姉御の縹緻(きりょう)だってマンザラではねえし、どうも役割の気が知れねえ」
「そりゃお前、なんだな、あれはおトリというものさ。あれをああしておトリにしておけば、それ案(あん)の定(じょう)、あとから音色(ねいろ)のいいのがひっかかって来ようというものじゃねえか。けれどもこりゃ、役割が色に転んだ狂言じゃあねえ、慾にかかった仕事だよ」
「なるほど」
 米友は、折助どもの話を聞いてギクリとしました。
 米友は大部屋から奥の方へソロソロと歩み出します。今の話によっても、ぜひぜひこの家に突き留めねばならぬものがあることは、充分に合点してしまいました。
 米友はそこやここをウロウロと歩いて、戸の節穴や壁の隙間を覘(ねら)っていました。誰かに見つかればまさしく泥棒の仕業であります。しかしもう心のいっぱいに張りきっている米友は、更に疑惧(ぎぐ)するところがありません。戸でもあいていたなら、そこから家の中へ入ってしまったでしょう。けれど、戸はよく締めてあり、節穴もないことはないし、壁の隙間もあるにはあったけれど、中は障子が立てきってあったり、真暗であったりして、どうも思うように家の中を窺(うかが)うことができません。
 もしも、それらしい女の声でもしたらと、耳を戸袋へ密着(くっつ)けたりなどしましたけれども、それらしい声も聞えません。米友はこうして家の周囲を一通り廻ってしまいました。
 今度は縁の下へ潜(もぐ)ってみようと思いました。短躯(たんく)にして俊敏な米友は、縁の下を潜るのにことに適当しております。
 米友が縁の下へ潜ろうとした時に、表の方で人の声がしました。
「へえ、お迎えのお駕籠(かご)でございます」
 縁の下へ潜りかけた米友は、その声を聞き咎(とが)めて耳を引立てたが、急に縁の下へ潜ることを見合せて、その声のした方へ出かけました。米友は立木の蔭から、今この家の表へ来た駕籠と駕籠舁(かごかき)とをじっと見ていました。駕籠が二挺釣らせてありました。人足は提灯を持ったり、息杖(いきづえ)をかかえたり、煙草を喫んだりして、居たり立ったりしていました。これらの連中がそこへ暫く待っていると、家の中から、
「御苦労、御苦労」
と言って出て来たのは役割の市五郎であります。米友はこの男を知らないけれども、多分、これがここの親方だろうと思いました。
「親方、今晩は」
と言って、駕籠舁どもは頭を下げました。
「さあ、お嬢様、これにお召しなさいまし、お女中さんはこちらのにお召しなさいまし」
 市五郎が、あとを顧みてこう言ったから、米友は、
「ちぇッ、提灯の火が暗えなあ」
 米友は腹の中で業(ごう)をにやしました。米友が身体を固くして、固唾(かたず)を呑んで、その上に業をにやして待っているのは、今、市五郎がお嬢様と呼び、お女中さんと呼んだその人の影(すがた)をよく見たいからであります。まもなくそこへ現われたのは――一層口惜しいことに頭巾(ずきん)を被(かぶ)っています。頭巾を被って面(かお)の全部はほとんど見えないから、米友が身悶(みもだ)えしているうちに、その頭巾を被った若い娘は前の方の駕籠へ、市五郎が手を取って乗せて垂(たれ)を下ろしてしまいました。
「ちぇッ」
 米友は口惜しがって地団太(じだんだ)を踏みましたが、続いて同じような形(なり)をして、同じ年頃の娘が、これも同じように頭巾で面を包んで出て来たのを見ると、
「おや」
 米友は実にカッとしてしまいました。
「おっと待ってくれ」
 こう言って暗(やみ)の中から飛び出してしまったのは、米友としてはぜひもないことであります。
「何、何だと」
 はしなく米友がその場へ飛び出したことによって、その場は大混乱を惹(ひ)き起しました。
 その混乱を聞きつけて折助どもが飛び出して来ました。折助どもが米友を支えている間に、市五郎は、差図してズンズン駕籠を進ませてしまいました。
 ほどなく米友の姿は市五郎の家の屋根の上に現われました。彼は杖を持って、いつのまにかその俊敏な身を屋根の上へと刎上(はねあ)げてしまったものと見えます。
 米友の姿が屋根の上に現われた時に、下では折助どもが喧々囂々(けんけんごうごう)として噪(さわ)ぎ罵りました。梯子(はしご)を持って来いと怒鳴りました。俺は頭を三ツ四ツ続けざまに、あの棒で殴られたと言って歯咬(はが)みをしているものもありました。眼と鼻の間を一撃の下に打ち倒されて、鼻血を出して頭の上げられない者もありました。博奕(ばくち)をしていたのも、無駄話をしていたのも、みんな馳せ集まって来ました。
 下では、こうして折助が芋を揉(も)むようにして噪いでいるのを、米友は見下ろしてハッハッと息を吐きました。
「ちぇッ、口惜しいなア、こいつらに邪魔をされて、あの駕籠を追蒐(おっか)けることができねえのが口惜しいなア」
 屋根の上で足を踏み鳴らしつつ口惜しがりました。
 四辺(あたり)を見廻しても、夜は真暗であります。真暗い中に甲府の城が聳(そび)えています。二の廓(くるわ)は右手の方に続いています。前も左もいずれも武家屋敷であります。
 屋根へ上った米友は、いつぞや古市の町で宇津木兵馬に追い詰められた時のように、屋根から屋根を泳ぐつもりでありました。
 米友は小躍(こおど)りして屋根の瓦の上を走りました。
「ソレ、そっちへ行った」
 折助が噪(さわ)ぎました。
「ヤレ、こっちへ来た」
 梯子(はしご)が飛び廻りました。ヒューと石が飛んで来ました。
「危ねえ!」
 お手の物で米友は、その石を発止(はっし)と受け止めました。
「竹竿で足を打払(ぶっぱら)え」
 折助は物干竿(ものほしざお)を幾本も担ぎ出しました。跛足(びっこ)になった米友は、その危ない屋根の上をなんの苦もなく走ります。市五郎の宅から大部屋の屋根の上を鼬(いたち)の走るように走って、武家屋敷の屋根へ飛び移りました。
 折助は、いよいよ噪(さわ)ぎました。梯子と竹竿とが盛んに担ぎ出されます。今や噪ぐのは折助ばかりでなく、武家屋敷の者共が、みんな家々から飛び出して噪ぎました。担ぎ出されたのは梯子と竹竿ばかりでなく、水弾(みずはじ)きや、槍、長刀(なぎなた)まで担ぎ出されるという有様です。米友はよく屋根の上を走りました。或る時はこれ見よがしに直立して走りました。或る時はそっと身を沈めて走りました。
「ばかにしてやがら、手前たちをこっちは相手にしねえんだぞ、相手にするほどのやつらでねえからそれで相手にしねえんだぞ、俺らが逃げりゃあいい気になって追蒐(おっか)けて来る手前たちの馬鹿さ加減の底が知れねえや」
 こう言って米友が立ち止まって息を切った。屋根の上から下を見ると、家並(やなみ)はそこで尽きて足許は二の廓の堀の水。屋根から垣へ足をかけた米友の姿は、これもどこかの闇へ消えてしまいました。

         四

 何事か起るべく思われて何事も起らなかったのが、その夜の市五郎と、お銀様と、お君との一行でありました。
 市五郎の挙動から推せば、この二人をどこへつれて行って、どんな目に遭わせることかと思われたのに、案外にも、極めて素直(すなお)に駕籠に付添うて有野村へ入ってしまいました。
 有野村へ入って、お銀様の屋敷へ送り込んでしまいました。これでは尋常の上の平凡であります。
 お銀様とお君とがその屋敷へ送り届けられた前後には、もちろん伊太夫の家は鼎(かなえ)の沸くような騒ぎであります。前に幸内の行方(ゆくえ)が今以て知れないところへ、今またお銀様とお君との行方が知れなくなったということは、伊太夫はじめ、この大尽(だいじん)の家の一家と出入りの者を驚かせずにはおきません。
 お銀様もお君も、出る時は誰にも断わらないで出て行きました。ほどなく帰るつもりでしたから黙って行きました。お君は誰にか一言(ひとこと)言い置いて出ようと言ったのを、お銀様が無下(むげ)に斥(しりぞ)けてしまいました。それだから屋敷では誰あって、二人がいつごろ、どこへ行ったかを知るものはありません。召使の女のうちに、お銀様とお君さんとがお対(つい)の着物を着て紫の頭巾を被って、裏の林の中を脱けておいでなすったのを見たというものがあったというぐらいのものであります。
 なかにはお君がお銀様を嗾(そそのか)して、一緒に駈落(かけおち)をしたのではないかと言っているものもありました。君ちゃんはそんな子ではない、お嬢様があの通りの気むずかし屋だから、無理にお君さんを引きつれてお出かけになったのだと弁護するものもありました。
 人が諸方へ飛びました。そうして甲府の市中へ入ったということがわかり、甲府の市中へ入って八幡様へ参詣をしたということもわかり、そこでお御籤(みくじ)を取ったということもわかりました。それまではわかったけれども、それから後が更にわかりません。ところがその八幡様でもまた一つの騒ぎがありました。それは油注(あぶらつ)ぎの男が、油買いに出たまま帰って来ないということであります。
 それやこれやで、尋ねに行った人は途方に暮れ、馬大尽の家の混乱はいや増しに増してきました。
 そこへ役割の市五郎が、悠々として両人の駕籠を送り込んだのでありましたから、市五郎がここでどうしても器量を上げないわけにはゆきません。実際、市五郎はこの時、馬大尽の一家一門の者からも、村中の者からも、神仏のように思われてしまいました。市五郎の身体から後光(ごこう)がさすように見えてしまいました。
 下へも置かないもてなしというのはこのことであります。ことにお銀様が悪い折助にからかわれていらっしゃるところを、この親方が通りかかって助けて下さったという物語りは、市五郎を武勇伝の主人公のように、村の人から崇拝させることになってしまいました。
 市五郎は、自分の手柄を自分からはあんまり語りませんでした。馬大尽(うまだいじん)の一家一門の人が、さまざまに待遇(もてな)すのを強(た)って辞退して帰ることにしました。ぜひに一泊をすすめるのを断わって帰る時分には、市五郎の駕籠が提灯で隠れるほどに見送りがついて参りました。
 その翌日は釣台が幾台も市五郎の宅まで運ばれ、羽織袴で親類や総代が、市(いち)の立ったほどにお礼を述べに来ました。
 市五郎はこうして馬大尽の家から感謝を受け、それから同家へしばしば出入りをすることになりました。そうして主人の伊太夫と親しくなりました。伊太夫は市五郎を信用し、市五郎はよく伊太夫の意を迎えることができるようになりました。
 市五郎がその後、しばしば伊太夫の許へ出入りする間に、伊太夫に向って一つの内談(ないだん)を持ち込みました。内々で伊太夫が何というか、それを聞いてみたいような口吻(くちぶり)であります。
 それは意外にも縁談のことであります。
「お嬢様もお年頃でございますから」
と言い出した時に、さすがに伊太夫は苦(にが)い面(かお)をしました。
 その苦い面を見て、市五郎も話しにくいのを強(し)いて一通り話してしまうと、伊太夫の苦い面が少しく釈(と)けかかってきました。
「お組頭で神尾主膳殿……」
と言って腕組みをしました。伊太夫の顔色が和(やわら)いだのを見て、市五郎はその目をそらさぬように、
「もとはお旗本のお歴々でございます、お使い過ぎでこちらへおいでになったくらいでございますから、苦労人でございます、人間が捌(さば)けておいでなさいます、物の酸(す)いも甘(あま)いもよくわかっておいでなさるお方でございます、もう御当家のこともお嬢様のことも万々(ばんばん)御承知の上で……」
と言って媒人口(なこうどぐち)らしい口を利きました。さてはこの男の縁談というのは神尾主膳へ、この家の娘のお銀様を縁づけようという取持ちであることに疑いもない――人もあろうに神尾主膳へ、そして女もあろうにお銀様を――市五郎の内心は計りがたないものであります。しかしながら市五郎の口前は極めて上手であります。神尾主膳の人柄を、伊太夫の心へ最もよくうつるように言葉を尽して、蔭と日向(ひなた)から説きかけました。そうして苦労人の神尾様は決して御縹緻好(ごきりょうごの)みをなさるようなお方でなく、お嬢様があんな不仕合せでおいでになっても、それがために愛情を落すようなお方でないということ、かえってお嬢様のお身の上を蔭ながら同情をしているというようなことを言葉巧みに説きました。その上に当地の有力者であるこの藤原家と縁を結ぶことが、神尾のためには有力なる後援であり、お嬢様のために生涯の幸福であり、且つまた若い神尾主膳はやがて甲府詰から出世をなさる人に疑いのないことなども話しかけました。市五郎のこのごろの信用の上に、その口前によって伊太夫の心がだんだん動いて来るのが眼に見えるようであります。
 市五郎がこの縁談のことを話して辞して帰った後で、伊太夫は一人でやはり腕を組んで考えていました。もとは何千石のお旗本、今は甲府勤番の組頭、それにあの娘が貰われて行くことは、家にとって釣合わぬことではないと思いました。しかしながら、あの娘――と思い出すと、さすがの伊太夫も自分ながら気落ちがしてなりません。お旗本どころではない、どんな人でもあの娘を貰って、生涯の面倒を見てくれる人があるなら大恩人だと、日頃から思わせられないことではありません。娘もよくそれを呑込んで、つまらぬ男に侍(かしず)くよりは、いっそ独身で通す覚悟をきめているのを見て、親としての伊太夫が、不憫(ふびん)に思わぬということもありません。
 伊太夫は、なお暫く考えた後に女を呼んで、
「お銀にここへ来るように」
と言って、
「あれが何と言うか、あれのことだからウンとは言うまい、たとえ少しは気があっても、はいと返事をするような女ではないけれども、もし承知したら……あれが承知をしたら、わしの方にも異存はないのだが、しかし、それがほんとうに当人のために仕合せかなあ。あれはああしておいた方が仕合せであるかも知れない。まあまあ了見(りょうけん)を聞いてみての上で」
 伊太夫はこんな独言(ひとりごと)を言って考えながら、お銀様の来るのを待っていました。
 父の許へ呼ばれたお銀様は、やがて自分の部屋へ帰って来ました。
 お銀様は、父から言い出されたことをだまって聞いて帰りました。父が言い出したことというのは、神尾主膳への縁談の一件でありました。お銀様はそれを聞いてなんとも返事をしませんでした。
 嘘(うそ)にも縁談のことは若い人の血汐(ちしお)を躍(おど)らせねばならぬものであります。けれどもお銀様にあっては必ずしもそうでありません。お銀様がだまって父の許から己(おの)が部屋へ帰ったのは、そのことの恥かしさから返事ができないで帰ったのではありません。
 いつも怒気を含んだようなお銀様の面(かお)が、一層の怒気で曇って見えました。父のものやわらかな話半ばで、ついと立って挨拶もなくて立ちかえったその畳ざわりは荒いものでありました。父の伊太夫は、
「ははあ、また失策(しくじ)った」
というような面をして、立って行く娘の後ろ姿を空(むな)しく見送っているばかりであります。
 お銀様が縁談を嫌うのは今に始まったことではありません。そのことを言い出されるのさえ、毒虫に触れることのようにいやがりました。お銀様は自分の身にかかる縁談のことを聞くのをいやがるばかりでなく、人の縁談のことを聞くのさえいやがりました。その話を聞くと、ジリジリと焦(じ)れてゆくのが目に見えるのであります。それだからお銀様の前で縁談を言うものはありません。お君も近ごろ来て、その呼吸をよく呑込んでおりました。父の伊太夫ももとよりそのことを知っていたけれども、市五郎の口前を信ずるの余りに、つい口に出してしまって、また娘の御機嫌を損ねたことに気がついて、気まずい思いをして空(むな)しく見送るばかりでありました。
 お銀様は縁談を持ち込まれることを、自分が侮辱されたように口惜しがります。それと共に自分に縁談を申し込んで来る男を、あくまで蔑(さげす)むのでありました。自分に縁談を申し込んで来るような男は、男のなかのいちばん意気地なしで恥知らずで、あるものは慾ばかりで人格も趣味もあったものではない、男のなかの屑(くず)だと、口に出してまでそう言うことがありましたくらいであります。
 今、神尾主膳のことを聞いても、まずその蔑みで頭を占領されてしまって、これから父が説き出そうとすることを、受入れる余裕はありませんでした。
 お銀様は凄(すご)い面をして自分の部屋へ帰って来て、
「お君、お君、お君や」
 続けざまに呼んで、自分の部屋を素通りして、お君の部屋へ駈込みました。
 お気に入りのお君には、お銀様と同じような部屋が与えられてありました。このごろのお銀様は、居間から衣裳から、室内の飾り、すべてのものをお君と同じようにしなければ納まらないのであります。お銀様はこうしてお君の部屋へ駈込んだけれど、どこへ行ったかそこにお君の姿が見えません。机の上にお銀様の好きな寒椿(かんつばき)が一輪、留守居顔にさされてあるばかりです。
「どこへ行ったのだえ」
 お銀様は、お君の坐るべき蒲団の上に坐って机に向いました。その一輪挿しの寒椿を取っておもちゃにしようとした時に、机の上に見慣れないものが載せてあるのを見ました。お銀様は一輪挿しの寒椿の方はさしおいて、その見慣れないものを手に取りました。
「まあ、これは珍らしいもの」
と言って、つくづく眼を注(そそ)いだのは一枚の写真でありました。その写真は、先日お君が駒井能登守からいただいて来た、何よりも大切にしている二人立ちの写真なのであります。
 最初はただ物珍らしげに取り上げたお銀様が、それをつくづくと見ているうちに、体がワナワナ震えてきました。眼がキラキラと光ってきました。
「アア、口惜しいッ」
 鬼女(きじょ)が炎をふくように言い捨てました。
 その写真には前に言った通り、二人の人が写されているのであります。
 その一人はお銀様もよく知っている駒井能登守の像(すがた)でありました。それと並んだ一人は女の像でありました。
「いつのまに、こんなことに……ああそうだ、この間、お城の前で、わたしを待たせている間に、わたしは、あんな恥かしい目に遭っている時に、お君は城の中でこんなにしていたのか。それとは知らなかった」
 お銀様は、その女の方の像を見ながら歯を咬鳴(かみな)らしました。
「この若い御支配の殿様と、あの奥方気取りで……憎らしいッ」
 お銀様は頭を自棄(やけ)に振って、銀の簪(かんざし)を机の上へ振り落しました。振り落したその簪をグイと掴んで、呪いの息を写真の面(おもて)に吹きかけました。
 お銀様の呪いの的(まと)となっている写真の中の女の像、それは裲襠姿(うちかけすがた)の気高い奥方でありました。美男の聞えある能登守と並んだこの気高くて美しい奥方。お銀にとってそれは、骨を削ってやりたいほどに呪わしいものでなければなりませぬ。
 ことに、あのお濠(ほり)の外で、折助どもからあんな無礼な仕打をされている時に、城の中で二人にこんなことをされては……それが口惜しくて、嫉(ねた)ましくて、腹立たしくて、呪わしくて、お銀様の銀の簪持った手がワナワナと慄(ふる)えて慄えてたまりません。
 お銀様はその写真を左の手で持ち直して、右の手で銀の簪を取り直して、
「エエ、覚えておいで」
と言ってズブリ――その女の像(すがた)の面をめがけてつきとおそうとしました。
「お嬢様、まあ何をなさいます」
 あわてて入って来たお君は飛びついて、銀の簪を持ったお銀様の手をしかと抑えました。
「お放しなさい」
 お銀様はお君の抑えた手を振り切って、なおもその写真につきとおそうとするのであります。
「このお写真は、大切のお写真でございます、お嬢様、そんなことをあそばしては」
「それはお前には、お前には大切なお写真であろうけれども……」
「このお写真に間違いがあっては、私が殿様に申しわけがありませぬ」
「そりゃ、そうだろう、お前は殿様に申しわけがあるまいけれど、わたしはばかにされたのが口借しい!」
「何をおっしゃいますお嬢様、そのお写真ばかりはどうしても御自由におさせ申すことはできませぬ」
 お君は日頃に似気(にげ)なく争いました。お銀様はほとんど狂気の体(てい)で写真を遣(や)らじとしました。一枚の写真を争う両人(ふたり)は、ほとんど他目(よそめ)からは組打ちをしているほどの烈しさで揉み合いました。
 そうしてお君は、やっとお嬢様の手からその写真を取り上げて、太息(といき)を吐(つ)きながら、
「お嬢様、こんな乱暴をあそばしますなら、もうもう、わたしはお嬢様のお側にいるのはいやでございます、今日限りお暇をいただきまする」
「ああ、それがよい、わたしも、もうお前がいなくてもよい、お前はその可愛い殿様のところへおいで、わたしもお嫁に行くところがあるのだから、ええ、わたしはお嫁に行くようにきめてしまったのだから」
 お銀様がこう言ってその両眼から留度(とめど)もなく涙を落した時に、お君は何と言ってよいか解らない心持になりました。
 いつもならば何でもないことでしたろうけれど、その時はそれで、二人のなかが割(さ)かれてしまいました。お君が、もうお嬢様のお傍にいないと言ったのは一時の激した言い分のようであったが、実は本心からその気で言ったのであります。
 お銀様が、自分もお嫁に行くところがあると言ったのは、どういうつもりだかお君にはわかりませんでした。
 しかし、その場は気まずくなって、今までになかった張合いの心持がおたがいに募(つの)ったけれど、すぐにあとでお君が謝罪(あやま)りました。お銀様もうちとけました。
 謝罪ったあとで、お君は改めてお銀様にお暇乞いを申し出でました。お銀様は冷やかに、それでも快くお君の暇乞いを承知しました。
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