思想と風俗
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著者名:戸坂潤 

思想と風俗戸坂潤 序 思想というものは、その持ち主の身につけば、その持主の好み[#「好み」に傍点]のようなものにまでもなるものだ。意識とも良心ともモラルとも云っていいものになる。そして同じ時代の同じ社会に活きている沢山の人間達の間に、共通する好みの類が、風俗をなすのである。 ファッションやモードと云っても、それはただの伊達ごとではなくて、それとなく、時代やジェネレーションや又社会階級の、世界観を象徴しているものなのだ。だから吾々は又、世の中の風俗の褶や歪みや蠢きから、時代の夫々の思想の呼吸と動きとを、敏感に抽出することも出来るわけである。 思想は風俗の形を取ることによって、社会に於ける肉体的なリアリティーを有つことが出来る。だが風俗はあくまで、社会というものの皮膚と云うべきものに相当するのが特色である。風俗はつまり社会の現象[#「現象」に傍点]であって、その内部的な機構ではない。そこで社会現象[#「現象」に傍点]の批評は、時には風俗批評とも云われるのである。けれども風俗の裏には、常に思想があるのだ。 私はまず初めに、思想と風俗とのこうした交流の経緯を、独自な題材として考察して見た。それが第一部「風俗」である。そしてこの考察に沿うて、特に、現下の日本に於ける教育関係の現象と、宗教関係の現象とを、考察して見た。第二部「教育風俗」と第三部「宗教風俗」とがそれである。他に、科学・文芸・政治外交・経済・其の他について風俗現象を取り扱った文章もあったのだが、之は割愛せざるを得なかった。 この評論集は、一年足らず前に出版した評論集『思想としての文学』と、直接な関係がある。「思想としての風俗」とでも云いたい処だ。その姉妹篇と云っていい。  一九三六・一一東京       戸坂潤  [#改頁]第一部 風俗1 風俗の考察     ――実在の反映一般[#「反映一般」に傍点]に於ける風俗の役割   一 カーライルは『サーター・リザータス』に於て、なぜこれまでに衣服に就いての哲学が書かれていないか、を怪んでいる。衣裳ほど日常吾々の眼に触れるものはないのに、之に就いて哲学が語られたことがないというのは、何としたことだろう、というのだ。イギリス人などが衣裳哲学に考え及ぶことなどは想像も及ばないだろう、ドイツ人なら或いは衣裳の哲学に向いているかも知れない、というわけである。そこで無耶郷のトイフェルスドレック教授なる人物の書物が出て来て、衣服の考察が始まるという仕組みである。 トイフェルスドレック=カーライルはこの際、要するに衣裳という人間の装飾物[#「装飾物」に傍点]の否定者であり、アダム主義者(アダミスト)的裸体主義者であって、ドイツ観念論式に抽象的で純粋な「純粋理性」を信じる先験主義者であるのだが、併し衣服というものが有っている社会的で歴史的な特有なリアリティーに就いての関心を強調していたことが、今日の吾々にとっても興味のある個処だ。なる程衣服に就いて書かれたものなら山ほどあろう、各時代の又様々な地方の。だが衣服が有っている社会的政治的な意義、歴史に於けるその積極的な役割、それから思想・哲学・文学・芸術・等々に於ける不可欠の一ファクターとしてのその特異なリアリティー、こういうものはカーライル以後もあまり真剣に注目されなかったのではないかと思う。そういう意味に於ける「衣服の哲学」は、流石哲学好きのドイツでも発達しなかったようだ。 カントはイギリスの新聞に床屋の哲学というのが載っていたと報告しているし、ヘーゲルは靴屋の哲学の批判をやっている。併し哲学に就いては今はどうでもよい。問題は、衣服というものが寝ても起きても実在しているもので、そういう生々しいリアリティーを持っているにも拘らず、このリアリティー[#「リアリティー」に傍点]の特色そのものに就いての理論的考察は、甚だ影が薄いのだが、それはどうしたものか、という点にあるのである。カーライル=トイフェルスドレックは自分が或いはサンキュロットであるかも知れぬ、と弁疏している。サンキュロットとは云うまでもなく、フランス大革命時に於ける一つのプロレタリヤ的な勢力とも見ることの出来る分子で、短袴をつけぬ無礼者の一団のことだ。実際衣裳の思い切った変革は、それがただの流行の誇張や新しがりでない場合(いや新しがりでもそうだが)、多くは思想[#「思想」に傍点]的な意味を有つものなのだ。衣服は着ている人間の経済的生活を象徴すると共に、その人間の階級と階級的思想とを象徴する。サンキュロットなどはそういう意味で注目すべき名称である。でとにかくそれ程衣裳というものはリアリティーを持っているのだ。衣裳の革命など、よく考えて見ると事実相当に革命的な象徴なのだ。それ程衣服は社会的リアリティーを持っている。 併しどうせカーライルはただの衣服に就いて語っているのではない。衣服とは彼にとっては人類のもつ象徴のようなものなのだ。処でこの衣服という象徴は一体人間について何を象徴しているのだろうか。夫が風俗[#「風俗」に傍点]だと私は思う。実はカーライルなどというドイツ式観念論者はどうでもよい。問題はまず風俗なるものの理論的な観念を得ることにあったのだ。 風俗生活をしていない人間は勿論世間には一人もいない。裸で外を歩く文明人がいないと同じである。だから風俗そのものは初手から或る大衆的[#「大衆的」に傍点]現象だ。そして風俗に就いての関心そのものも亦極めて大衆的であって、大衆的にお互いの間で容易に了解されるものなのだ。風俗画であるとか、風俗美人画であるとかいう、やや難解らしい言葉も、世間では苦もなく大衆的に通用している。――だがそれはそうでも、一体社会科学的[#「社会科学的」に傍点]に云って風俗とはどういうカテゴリーなのか、こうなるとあまりハッキリした既成の結論はないのである。処が、社会生活百般の事象に就いての考察が、或る本当の意味での大衆性をもたねばならぬならば、風俗の考察こそは、最も大事な理論上の設題の一つでなければなるまいと私は思う。之は大衆性[#「大衆性」に傍点]というものの理解にとっても、必要欠くべからざる一つの社会理論上のファクターだ。   二 風俗習慣などと続くように、風俗は勿論社会的習慣と密接な関係を有っている。処で云うまでもないことだが、社会に於ける習慣、或いは又習俗は、社会の生産機構に基く処の人間の労働生活の様々な様式関係によって、終局的に決定されているが、二次的にはこの生産関係を云い表わす社会的秩序としての政治・法制が維持発展させる処のものであり、そして三次的には社会意識や道徳律が観念的に保証する処のものだ。その際習俗は、云わば歴史的な自然性(意図的でも人工的でもないというわけで)を持った一つの与えられた社会的制度[#「制度」に傍点]であると共に、同時にその制度が概略の大衆の意識にとって安易快適(アット・ホーム)であるという場合のことだ。処でこの云わば制度[#「制度」に傍点]と制度習得感[#「制度習得感」に傍点]としての習俗が、一見片々たる細々した手回り品や言葉身振りにまで細分されて捉えられた場合が、恐らく風俗というものだろう。 風俗は社会の基本的機構の一つの所産[#「所産」に傍点]である。決してその逆の源泉[#「源泉」に傍点]などではない。風俗そのものが独自な積極性を持っていて、夫が社会機構の過程を左右するファクターになる、とは云われない。だが又風俗は社会の基本的機構に基く一つの結論[#「結論」に傍点]でもあるのだ。という意味は、社会機構の本質が、風俗というものに至ってその豊麗な又は醜い処の肉づけと皮膚とを得るのであり、その最後の衣裳づけを終るのである。風俗は社会の本質の云わば社会的[#「社会的」に傍点](経済的・政治的・等々と区別された意味での社会的)な結論[#「な結論」に傍点]であり、社会の最も端的な表面現象[#「現象」に傍点]である。社会の人相が風俗であり、社会生活の臨床的徴候が風俗である。風俗は社会の本質を診断する時の症状である(デカダンス其の他はこの診断の用語だ)。 勿論風俗などというものは、右に云ったような次第で、社会の本質から抽出された一つの抽象物に過ぎない。だがそれ故に又他の意味で、右に云ったと同じ次第によって、最も具体的であり具象的なものなのである。愛情に於ける恋人の肉体のようなもので、抽象的と云えば抽象的、具体的と云えば具体的なものが之だ。ここに風俗という社会的リアリティーの、理論カテゴリーとしての強みと弱点とが横たわるわけである。 社会の構造分析から見て、具体的とも見えるし抽象的とも見える処の、この風俗という特有な社会現象は、どうも社会の物質的基底とその上部という普通の社会科学的段階づけの内には、いきなり適当な位置を発見出来ないように思われる。風俗乃至習俗は前にも云ったように一方一つの制度として現われる。生産労働の様式そのものについてさえ形をとって現われる処の、一種の制度としてなのだ。その意味から云うと之はいつも社会の物質的基礎のどこにでも随伴して発見されるものだ。処がそれと共に、風俗乃至習俗は他方、その制度の内に生まれ又教育された人間の意識の側に於ける制度習得感にいつも随伴する。するとこの場合の風俗は明らかに上部構造としてのイデオロギーの一部にぞくすると云わねばならぬ。 だからつまり、風俗乃至習俗というものは、本当は社会の本質の一所産であり一結論に過ぎぬにも拘らず、それが社会の本質的な構造の夫々の段階や部分に、いつも衣服のように纏わって随伴している現象のことなのである。従って社会の構造全般に跨って現象している或るものだという風にも之を考え得るので、夫が何か独自の独立した社会的本質の一つででもあるように考えられ易いわけだ。風俗は経済現象でもなければ政治現象でもなく又文化現象でもない。而もそうした諸現象を一括すべく用いられる処の社会現象[#「社会現象」に傍点]という言葉は、風俗にとっては打ってつけではないだろうか。つまり経済現象・政治現象・文化現象・等々という社会の物質構造上の段階と関係なく、そういうものを無視しても、そうした諸段階全般を貫く或る共通な一般的な一つの「社会現象」が風俗だ、というような風に考えられ易いのだ。 社会学(ブルジョア社会科学の代表者)には大体に於て、社会が実際にこうした共通な一般的なファクターから云わば出来上っているものだという風に、仮定する癖がある。社会機構に於ける物的構造上の秩序を第一義的な分析の規準とはしないで、いきなり社会の之あれの一般共通な徴候・現象をとり出して、之が何か社会の本質的な諸要素ででもあるように考える。風俗はこういう社会学的方法によれば一等通俗的に簡単につかみ易いように見えるだろう(その極端なものは「モデルノロジオ」の類だ)。之に反して史的唯物論の方法から行くと、風俗という現象は方法上一種の副次的操作を要する処の却って高度な複雑な現象なのだ。――だがそう云うことは決して、風俗を社会学的(現象主義的)に安易に取り上げる仕方が正しいということにもならず、まして史的唯物論の方法によって風俗という題材の解決がつきにくくなるだろうということをも意味しない。元来、現象なるものは直接なもので直覚的には簡単なものだ。だが、夫は分析の上からは最後になって出て来なければならない程複雑なものなのだ。 処で実際問題として見ると、ブルジョア社会学に於ても(日本では空疎な方法論がまだ盛んなようなわけで)、風俗というものはあまり「科学的」なテーマにされていない、恐らく之はあまり理論的[#「理論的」に傍点]な価値のないもののように思われているせいだろう。この事情は実は併し、世間が風俗に就いて有っている知的な興味が如何に薄いかという事実を反映しているに過ぎぬのであって、新聞紙面から判断しても風俗は甚だ不真面目にしか取り上げられていない。風俗は俗なもので卑しいものだというようなわけで、大した社会問題[#「社会問題」に傍点]の資格は有てないらしい。 そのくせ世間は流行などについて極めて敏感であるし、又恐ろしくおせっかいでもあるのだ。例えばモダーン風俗などに対しては一般の世間は何かワザワザ調子を下げてやに下って対手になる。モダーニズム風俗は云わば揶揄(からか)われる対象としてしか世間の眼に写らない、それが世間普通の常識だ。風俗の本質の一つは性的なものにあるが、性的能力を自分の社会的生存の大きな支柱としている従来の社会の女達は、この社会では特別に風俗的な特徴を持たされている。そこで女も亦婦人問題というような社会問題[#「社会問題」に傍点]の内容として世間の眼には写らずに、云わば揶揄(やゆ)や娯楽の対象である美人としてばかり、世間の眼に写るというような次第だ。こうしたものが今日の、通俗な風俗[#「風俗」に傍点]の観念の現状なのだ。 風俗問題にぞくする一つの観念を、少なくとも社会科学的な意図から取り上げたものとして注目されるのは、思うにW・ゾンバルトのLuxus und Kapitalismus(1912)である。資本主義社会の発生発展過程に於ける、愛欲・婦人・又奢侈、等の役割に就いて、一応テーマの纏った考察をしているのがこの本の価値だが、併し力点は、奢侈が資本主義を産み出したという関係に集中されているのである。「奢侈の需要の発生が近代資本主義の発生にとって如何に極めて重大な役割を有っているか」が力点である(一四〇頁)。「奢侈からの資本主義の誕生」であって、その逆ではないのだ。奢侈という資本主義の一所産一結論たる目前の絢爛たる風俗現象が、唯物論的な弁証法の道をよく理解しないこの社会学者の眼を、全く眩まして了っているのである。このやり方は本質に於てブルジョア社会学的なやり口であり、例の通俗的な風俗観の、単に専門家風な学術的な仕上げにしか過ぎないのである。   三 私は今風俗に就いて、内容的に社会科学的分析をするだけの準備がないし、又その場合でもない。今必要なのは、こうした卑俗に通俗的にしか把握されていない風俗という観念[#「観念」に傍点]を、さし当り必要なように訂正して、理論上意義のある一つのカテゴリーに仕立てておくことだ。そこでまず第一に、風俗が道徳[#「道徳」に傍点]に属するものである所以を注目しよう。 前に風俗が習俗・習慣・風習に直接するものだと云った。そして習俗が一方に於て制度を指すと共に、他方に於てその制度の習得感情をも指すことを述べた。例えば家族制度という習俗が、一方家族という制度を指すと共に、他方家族的感情や家族的倫理意識を指すことは、今更云わなくても判っていることだ。習俗とは歴史的伝統を負った処の社会的規範であり、その意味での人倫や道徳というものに他ならない。この判り切ったことが即ち又、風俗がまず第一に道徳的なものだということになるのである。 風俗は、社会のただの習慣や便宜や約束ではない、又単なる流行其の他の類でもない。単に世間が皆そうしているという事実だけではなくて、この事実が社会的強制力を持っており、そして道徳的倫理的権威と、更にそれを承認することによる安易快適感とを惹き起こしつつあるものが、風俗である。風俗にぞくする規定の代表的なものは、前にも云ったように社会に於ける性関係だが、事実はこの性風俗が最も端的な通常道徳の内容をなしていることを、注目しなければならぬ。風俗壊乱という一種の反社会的現象は、主に性風俗の破壊を指すことは云うまでもないので、これが社会風教上の大問題だと政治的道学者や風紀警察当局は考える。風俗は全く道徳的なものだ。 性風俗が可なりに衣服服飾と密接な関係のあるのは興味ある点だ。性別を社会的に表現するものは無論何よりも服装なのであるが、この服装風俗が極めて性的意義と共に道徳的意義に富んでいることを反省して見るがよい。奢侈・化粧・お洒落から始めて、お行儀や作法やゼントルマンシップや淑女振り等々から、家庭的儀式や支配権力の威儀や宗教的支配の荘厳にまで及ぶ、一貫した或るものがあるだろう。このように服装は性関係を道徳にまで連絡づける。アンデルセンの『裸の王様』を、こういう点から見て見ると、又特別の面白さがあるだろう。――でこうした一見末梢的な風俗たる衣裳さえが、一つ一つ道徳的重大さを持っていることは、今更事新しく説くまでもあるまい。 併しそれはそれでよいとして、一体風俗がぞくすると考えられたこの道徳なるものは何であるか。最も通俗的な規定としては、善し悪しを判定する標準のことか、又は善し悪しを決める場面のことだろう。これが通俗常識による道徳の観念であって、そこではつまり、出来るだけ早く簡単に善いか悪いかを決めることが目的になっている。処が或る事柄の善い悪いを決めることと、その事柄に就いての有効な(然り人生にとって有効な)批判的・科学的検討とは、殆んど全く別のことなのである。事柄の理論的研究と、その事柄の善悪の宣告とはまるで別だ。と云っても私は何も、理論や科学が超利害的であるとか又公平無私(?)で超党派的・超階級的なものだ、などというようなブルジョア科学論の一節を暗誦する心算で云っているのではない。例えば日本に特有な形態の人身売買制度(娘の身売りなど)をどんなに悪いことで不道徳だと宣告しても、それで少しもこの現実の風俗は善くはならないのだ。問題は善いか悪いかではなくして、如何にしてこの欠陥を救済するかというための理論的な研究なのだ。処が道徳は往々にして、正にこうした科学的検討そのものを省略するための唯一の手段として出馬するものだ。道徳的ということは反科学的・反理論的・没批判的ということだ。日本ではこの頃、こうした意味での道徳的社会観や政治観や文化観や、経済観さえが、盛んである。 こんな道徳の観念はそれ自身、打倒される必要のあるもの以外の何物でもない。一定のあれこれの道徳律や道徳感情の打倒というより、寧ろ道徳のかかる観念自身[#「かかる観念自身」に傍点]が打倒されねばならぬのだ。マルクス主義的社会科学乃至文化理論は、之を徹底的に打倒した。マルクス主義にとっては、あれこれのブルジョア道徳律やブルジョア道徳観ばかりでなく、この種の道徳なるものそのものが元来無用有害となり無意味となる。――で、もし風俗の観念も、単にこうした意味での道徳の観念に接着するだけなら、夫は理論的に無用でナンセンスな困ったカテゴリーに終るだろう。 だが、道徳に就いての文学的観念[#「文学的観念」に傍点]ともいうべきものこそ、道徳現象に就いての論理的に(又広義に於て認識論的と云ってもよいが)有効な唯一のカテゴリーだろうと私は思う。普通の所謂「道徳」という観念はこれの前には解消して了う筈であるし、又「道徳」という観念によって指し示された所謂道徳なるもの自身は、この文学的な道徳観念に照らされることによって初めてうまく把握され得るだろう。――最近文芸評論家が口にするモラルという言葉はこの「文学的」な道徳観念にやや近い。だが根本的な相違は、所謂「モラル」が往々にして単に道徳意識や生活感情という観念物以外の何物でもなくて、現実の客観的社会の本質的機構や現実的な思想内容や、又風俗[#「風俗」に傍点]とさえ、関係なしに口にされているという点だ。つまり所謂モラルは文芸創作方法に結びつけて考えられているらしいにも拘らず、夫が一向、創作方法上の論理学(乃至認識論)的根本概念の資格を、発見出来ずにいるのである。之ではモラルも十分に理論的なカテゴリーにはなれぬ。 道徳の文学的観念を私は、云うまでもなくあれこれの道徳律とも道徳感情とも考えない、又あれこれの習慣とも風俗とも考えない、却ってそうした所謂「道徳的」な諸現象をそういうものとして把握させるような一つの認識の立場[#「立場」に傍点]の名が夫だと考える。現実のそうした反映をやる場所や媒質の名が、道徳=モラルだ。処で文学[#「文学」に傍点]というものは、恰もこの実在反映の仕方の如何によって、科学から区別されているのである。文学と科学とでは方法は勿論のこと世界観の形象も実は全く同じとは考えられない。なぜなら世界観とはすでに一つの実在反映の結果のことだから。すると文学の認識=反映の場所や媒質が即ち道徳=モラルだ、ということになるのである。この道徳観念を文学的[#「文学的」に傍点]道徳観念と呼ぶ所以は之であり、世間の文学がモラルを語る所以も亦之だ。 今この道徳の立場、即ち文学の立場が、科学乃至理論の立場とどこで異るかを説いている暇がない。夫は恐らく形象[#「形象」に傍点]の問題と自己[#「自己」に傍点](自我・自意識・等々)の問題との関係の内に横たわると思う(コム・アカデミー編『文芸の本質』――ヌシノフ――の稿及び岡・戸坂著『道徳論』中の拙稿「道徳の観念」に問題を譲ろう)。だがとに角必要なことは、右のように考えて行けば道徳という概念が理論的に確立出来るだろうという点だ。で、もしそれが出来れば、それにぞくするものとしての風俗の概念も、理論的に確立出来る見込みが立つわけだ。――つまり風俗という観念、カテゴリーは、その本質を以上述べたような意味での道徳[#「道徳」に傍点]の内に持っているということである。風俗とは、道徳的な本質のものとして用いられるべき理論的用語だ、という当然至極のことに過ぎないのだが、今それが理論的に説明され得る、ということの説明みたいなものをやって見たわけである。 こういう回りくどい間接な接近の仕方を選んだというのも、結局、風俗という観念にもう少し重大な理論的意義を認めよということが専ら云いたかったからであって、さっき第一に風俗が道徳にぞくする所以を強調したが今度は第二に、風俗が思想[#「思想」に傍点]的な本質を持ったものだということを強調したい。之も亦、判り切った現象に就いての観察に基くわけで、服装や態度一つにもその人間の思想が現われているし、国民の風俗習慣は俗に国民性[#「国民性」に傍点]と呼ばれて、何かその国民の国民思想であるように云われているのである。――だが、例えば風俗は思想が表現となって現われたものだとか、風俗は思想の一つの実現だとか、というような安易な理解の仕方はやや危険である。なる程思想は風俗に於て表現される、風俗は思想の表現である、之は大事な認識であり又事実に就いてのよい理解である。けれども表現という言葉は解釈上の又は解釈学上の用語であって、決して無条件に説明上の科学的用語でない。だから風俗が思想の表現だと云っても、思想が本当に風俗という形をとって現われて来たことではないのだ。吾々は言葉の綾にだまされてはならず、言葉の洒落にひっかかってはならぬ。思想は一つの[#底本では「思想一つの」となっている]観念物だ、併し風俗は目に見える風物だ。思想という観念物が風俗という風景となって現われるというような神仙譚ではなくて、単に風俗が思想を云い表わしている、一種の思想を意味[#「意味」に傍点]している、という事実だけが本当なのだ。 思想乃至意識に就いても説明しなければならぬ要点があるのだが夫は省かねばならぬ(前出『道徳論』参照)。併し少なくとも思想という言葉も亦、一方今云った観念物を指示すると共に、他方、この観念物を云い表わしている一切の物的風物――風俗などがその一つだった――のもつ「意味」をも指示している。その点だけは注目すべきだ。だから本当の「思想」という観念はもはや単なる観念物をいうのではなくて、そういう観念物をも又更にこの観念物を云い表わすような物的風物が有つ「意味」をも把握させる処の、反映・認識の機構上の一つの個処を指すと云わねばならぬ。先に道徳=モラルが恰もそういうものであり、夫は文学的認識・反映の場処や媒質であったが、思想もつまりそういうものと大して異ったものではないことが判る。道徳=モラルが問題になる処では、事実同時に、いつも思想が問題になっている。現に文学の場合などがその証拠だ。――で、そうだとすると、道徳的本質を持つ筈だった風俗が、思想[#「思想」に傍点]という意味を有つことは、尤も至極なことだったわけだ(思想が風俗となって初めて熟する所以を「現下に於ける進歩と反動との意義」――『日本イデオロギー論』の内――に於て私は少し説いた)。   四 さて、風俗というカテゴリーが論理的に有つべき性質の、大体の輪郭を私は描いて見た。つまり風俗とは道徳的本質のもので思想物としての意味をもつものだという、一見平凡至極な結論なのである。だがこの結論は、風俗が有っている社会的リアリティーの特質――大衆性の一ファクターに注意を喚起するのに役立つだろうばかりでなく、この特有な社会的リアリティーに就いての観念や表象や概念やカテゴリーが有っている処の、理論的・文学的な論理上・認識上の重大さとを、注目させるにも充分ではないかと考える。――この考察は、社会理論の一見末梢的な課題を、社会理論の中心問題へ真直に連絡するばかりでなく、それと同様に重大なことには、文芸乃至芸術に於ける実在の反映・認識・表現の機構に於て、風俗なるカテゴリーが占める理論的意義を暗示するに役立つかも知れない。ここに再び、芸術乃至文学に於ける大衆性[#「大衆性」に傍点]の問題が取り上げ得られる。そういう実際的な効用をねらっているのだ。 一体文学作品の凡てに含まれている風俗という要素は、その意義をもう少し一般に注目されてもいいのではないだろうか。と同時に又その反対に、特に風俗的な特色[#「風俗的な特色」に傍点]を有っている一種の作品様式に就いては、そこに口を利いている風俗なるものの観念を、もっと厳正に重厚に評価し高揚させねばならぬのではないか。私はひそかにそれを思っているのである。風俗描写を欠くことが作品にどういう本質的欠陥を齎すか。例えば長篇小説(ロマン)の「面白さ」というものが一方に於てストーリーのもつ文学的リアリティーに基くらしいことはほぼ明らかだと思うのだが、それと共に、之は風俗描写のもつ文学的真実さと何かの重大関係があるのではないか。面白さと大衆性との関係だ。之に反して短篇小説は、主として身辺エッセイか又は極端な場合にはモラール・レフレクションやモラール・ディスカッションをさえその本質としているが、そこでは如何に風俗が虐待されがちであるか、そして同時に夫が如何に「純」文学的で「面白くない」か。等々。 風俗が映画などに於て占める特別な意義に就いては、後に述べる(「映画の写実的特性と風俗性及び大衆性」)。視覚に訴えることをその本領とする処の映画は、文学などに較べて、風俗のもつ社会的リアリティーの再現に努めることを著しい根本性質とするだろう、と考えたからである。そしてそこにこそ映画のスクリーン自身のもつ特有の大衆性[#「大衆性」に傍点]があるだろうと考えた。この点、映画以外の芸術形式(例えば舞踊其の他)にもあてはまるのではないかと思われる。   五 なお特に、風俗の文学的役割に就いて述べておこう―― 私はすでに岡邦雄氏と一緒に、『道徳論』という本を書いた。共著というよりも二人の論文を合わせたものである。私の書いたのは道徳の観念が何かということについてであった。私はその論文で、道徳の観念を四つに分けた、第一は世間の通俗常識による道徳観念で、大体修身によって理解されるものであり、第二に倫理学的観念で、ブルジョア倫理学や実践哲学などで考える道徳である。この二つがどれも科学的な道徳観念でないということは、道徳を社会科学的に考察して見ればよく判ると思うので、従って唯一の科学的な道徳観念は社会科学的道徳観念だと考えた。之が第三の観念である。 この第三の観念によると道徳は生産機構に基いて発生し、そのことによって独自のイデオロギーとして道徳価値感を生む処のものだが、夫はつまり道徳の発生と本質と意識とが階級的な実質のものであるということを意味するに他ならない。理論的・論理的・科学的な認識が階級的に一種の歪曲を必要とする時、夫が道徳という形を取るのであって、真実か否かの問題が、善いか悪いかの問題に引き直されて片づけられるのが、道徳の社会的役割だと考えられる。この意味から云う限り、道徳とは認識の不足そのものをしか意味しない。階級的分裂が消滅する社会に於ては、かかる不合理な本質を持つ道徳も亦消滅するだろう、と云わざるを得ない。 だが之で凡ての道徳観念が悉されるのではない。道徳が問題になるのはいつも自分というものの日常行動思想が課題になるからだ。他人の行動ばかりを問題にしたがる日本人的お節介道徳は道徳ではなくて寧ろ反道徳だろうが、併しそういう出来損い現象も、つまりわが身に引きくらべて他人の身の上をとや角云うのである。一つの自己弁解である。――そうすると道徳の観念も単に社会科学だけでは片づかないものがあるということになって来る。なぜなら社会科学では個人というものや個人の個性やを論じることはカテゴリー上常に可能だが、併しそのままでは、銘々の自分の我性に基く活動を論じるのに足りない点がある。この我性という銘々の自分の一身上の課題を解き得るような立場[#「立場」に傍点]に立つことによって初めて、道徳の最後の科学的・哲学的・観念が得られると思うが、処がこうした立場は恰も文学する立場なのだから、私は之を文学的な道徳観念と呼ぶことにした。之が第四の観念である。所謂モラル[#「モラル」に傍点]とは之でなければならぬのだ。 併し私の主張したいもう一つの要点は、この文学的な道徳観念と社会科学的道徳観念との結合[#「結合」に傍点]の問題なのである。所謂モラルを云々する文学者には、この結合に何等の関心を払っていないように見える人が甚だ多い。モラルは何かただの身辺的な私事としての心理のようなものだと考える類がその例だ。処がそんなモラルは実は、お天気加減一つで吹き飛んで了うだろうような空疎で薄っぺらなものだ。吾々はその深刻そうなポーズに惑わされてはならぬ。本当に文学的な真実である処のモラルは、何よりも卓越した、かつ行き届いた、純粋な客観的認識[#「客観的認識」に傍点]によらなくてはならぬ。社会機構の、又自然のヴァラェティーの。モラルは科学的認識を自分という立場にまで高めたもので、現実の反映としての「認識」の特殊な最高段階以外のものを意味するものではない。その意味では科学の対象が真理であるように、文学の対象はモラルなのである。 で考えるのに、文学作品(創作・評論)及び文芸現象を評論するにも、いつもこのモラルなるものが観察の焦点でなければならぬ。モラルは倫理とも云われているし、又思想と呼ばれてもいいし、又之を世界観と呼び直してもいいのだが、併し文学の内に部分的に含まれている処のそんな倫理や思想や世界観だけを取り出して見ることが、文芸批評だと云うのではない。創作の技法だけを取り出して問題にするのはバカげたことで又事実不可能なことだが、それと全く同じに、これはバカげたことで不可能なことだ。尤もバカげた不可能なことも、実際に出現するというのが事実ではあるが。 最近モラルの問題の一つとして恋愛論が相当盛んである。モラルの興味の中心が恋愛乃至性道徳にあるということは重大な意味のあることで、この意味だけを強調すれば、場合によってはローレンス的な世界観へ行く理由もあるのだが(ローレンスの『恋愛論』――伊藤整訳による――は可なり莫迦げた観察も含まれているが一読に値いするものと思う)、併し一方問題をもう少し方法論的に整備する必要がまだ残されていると私は思う。文学とモラルとの認識論(?)的な連関を探ねて来た私にとっては、なお手前に残された問題がある。それが風俗[#「風俗」に傍点]という問題だ。 風俗に就いても亦、すでに社会科学的な観念は多分に存する。否寧ろ風俗はあまり手近かなもので科学的な考察が忘れられ勝ちだから、却ってその科学的研究は意識的に盛んであると云ってよい。社会学的な実証的研究は乏しくないし、社会科学的な史的研究も少なくない。すでに述べたゾンバルトの『奢侈と資本主義』など、とに角注目すべきものだ。――併し風俗は他人の風俗であるよりもまず自分自身の風俗でなければなるまい。そうなると之は趣味[#「趣味」に傍点]とか好み[#「好み」に傍点]とか云った安価なようなものになるが、併し趣味や好みは良心の端的な断面で、認識や見識や政治的意見さえのインデッキスになる。吾々は理論や主張に濁った不審なものを持っている人間を警戒しなければならないが、之は証明の限りではなくて実は一種特別な趣味判断によるらしい。風俗はモラルの徴表だ。 でこうした意味にまで深められた立場から見た風俗は、文学的な意味に於ける風俗だ。その意味での趣味も亦、文学の本質だとさえ考えられる(シュッキングなどは問題ではあるがとに角そういう主張の見本の一つにはなる)。無論風俗は吾々が旅をして世界の人情風俗を見聞して見たいと思うように、客観的なそして末梢的でさえある肉づけを持った具象物だ。而も夫がモラルの徴表なのである。モラルの感覚的・物的・分泌物が風俗だ。――私は文芸評論の一つの観点として、風俗描写というものを強調したいと考える。今云ったような意味での掘り下げられた立場からする風俗が描かれているかいないかは、そこに把握されたモラルが生きているか死んでいるか、性格個性を有つか有たないか、に関係するし、それだけではなく、その作品がリアリティーを有つか有たないか、又更に、その作品が大衆性を持つか持たないか、或いは「面白い」か面白くないか、ということにさえ、直接関係があるだろうと思う。 さて風俗の最も著しい内容は性風俗だが、そこから恋愛論というモラル問題に行く道も開けると思う。恋愛論のための文学上の方法論が必要ならば、この辺の見当ではないかと考えている。[#改頁]2 映画の写実的特性と風俗性及び大衆性 私は映画について特別な知識は少しも持っていない。映画製作の原理や実際については云うまでもなく、映画批評についてもあまり知っていない。その意味で私はごく普通の観衆の一人にすぎない。併し私は映画が好きだ。単に娯楽や気晴しとしてばかりでなく、事実色々のことを考えさせ、意識に希望と野心とを起こさせるという意味でも、映画は非常に面白い[#「面白い」に傍点]。映画は文学などと違って、意識を浅薄にし、又その印象はすぐ忘れて了いやすい、というように云われてもいるが、それは必ずしも当っているとは思われない。少なくとも良い映画を見ると自分も出来たら何か映画を一本作って見たいという気持ちになる。之は私一人の癖ではなくて多くの人の気持ちではないだろうか。そういう意味での映画愛好者は、事実非常に多いと思う。映画が意識を浅薄にしたり、忘れられやすかったりするという説が、当っていないことは、この点だけからでも結論出来るように思う。現代人の意識をかき立て、創造へ駆り立てようとする力を持つ映画は、確かに活きた真理を有っているのである。単なる娯楽や享楽や暇つぶしに近いものではない所以だろう。 一人の観衆としての私を以上の意味で面白がらせる映画の、その面白さは一体どこにあるか。消費生活の華かな街頭や、劇場がもつ一種の社交感が、確かに私を映画館へ導く一つの秘密(?)であることは否めない。本を読むにも退屈し、人を訪ねるにも遠慮がある、という時に、私の身体を移動させて市井の(この経済的社会的矛盾にも拘らず)活々した雑閙の内に身を投ずることは、近代人に一種の安心と自信とをさえ齎すものだ。この際比較的安い映画館は何と云っても一等大きな誘惑なのである。 だがこういう市井的な諸原因は別に改めて考察しなければならない。今はスクリーンそのものに現われる内容で、何が私を面白がらせるのかを考えて見る。と夫は何と云っても、スクリーンが視覚の官能に活動性を与えるという、一見判り切った事情につきるのである。なる程トーキーがもはや視覚だけに訴えるものでないことは忘れはしない。それに視覚と云っても今日のトーキーで充される官能は、高々平面的な形と陰影と動きとだけであって、立体もなければ色彩もない。トーキーによって映画が本質的な飛躍をなしたことも、今日のトーキー映画の視覚上の大きな制限も知らないではないが、にも拘らず今日の映画は、すでにそして何より、視覚の官能を満足させる。トーキーになってから映画が俄然面白くなったわけではなく、面白みの基調はすでに無声映画時代からあったのだ。 尤も視覚型の人と聴覚型の人との区別はあるが、併し少なくとも映画に於ては視覚の役割は聴覚の役割に較べて、比較にならぬほど大きいと云わねばならぬ。トーキーは音に写真を与えたものではなくて、写真に音を与えたものだという映画発達の歴史は、無視するわけには行かぬ。盲人の世界像には触覚が大きな役目を果していることを知らぬ人はないが、この触覚は聴覚よりもはるかに視覚に似た性質をもっている。視覚自身も撫でる性質を有っている。之は聴覚の時間的連続とは違った空間的連続の緊張感を有っている。触覚もそうなのだ。通常の意味での実在の認識[#「実在の認識」に傍点]にとっては、だから聴覚よりも視覚の方がはるかに根本的な意義を有っているとも云うことが出来る。処で映画は丁度この視覚に強調をおいているのだ。 臭覚や味覚のことは論外としよう。触覚について云うなら、映画にどんなに完全な実在再生の機能を要求すると云っても、之に触覚を求める心配はないだろう。見又聞きするには対象との間に一定の距離がなければならない。見聞きには一定の媒質が必要で、之が直接の接触の代りをする。眼に物をひっつけたら却って見えなくなる。この距離というものは、実際活動ではなくて観照である場合には無くてならない条件であって、美学や芸術学でいうインテレッセロージッヒカイト(無関心)の性質に相当する生理的事情だと云っていいかも知れない。そしてこの距離をおいての感動は、中でも「見る」という作用によって代表されているのである。この段階を離れて一歩進めば、もはや観照[#「観照」に傍点]ではなくて事物に対する実際的処置となって了う。 尤も観照とか見るとか視覚とかいうことは何も映画に限ったことではない。絵画・彫塑・写真・舞踊・劇に至るまで、之に基いているわけだが、映画は之を単に動く写真[#「動く写真」に傍点]と考えて見ても、すでに最も具象的な視覚の内容を充たすものだという処に、その特色があるのだ。美術も舞台も夫々固有な芸術的リアリティーを有っている。写真的なものであろうと象徴的なものであろうと、芸術的[#「芸術的」に傍点]リアリティーの分量の如きものには関係があるまい。だがそのことと、美術や舞台が、一般に夫々の視覚的芸術が、空間的時間的、社会的歴史的な本来の現実から、夫々の程度乃至方針に従って、抽象された世界のものであり、従ってこの現実の[#「現実の」に傍点]リアリティーからの夫々の距離での抽象化を持っているという関係とは別だ。つまり芸術的[#「芸術的」に傍点]リアリティーの問題とは別に、現実実在の再生という意味でのリアリティーを考えねばならぬのだが、之を映画について考えて見ると、映画はこの意味で視覚の最もリーヤルな内容を充たすものなのだ。スクリーンに現われる内容は最も具象的なのだ。その芸術的[#「芸術的」に傍点]世界が具象的であるなしに関係なしにそうなのだ。 この誰でも知っている事柄は一見何でもないようなことだが、之が映画の内容の特色を最後にまで渡って決定する先決条件になっていることを、まず卒直に見とどけなければならぬと私は考える。つまり映画は何と云ってもまず第一に写真であり、動く写真であるということを、強調しなければならぬ、それの上で一切の映画美学が試みられるべきだというのである。この写真は云うまでもなく最も具体的な現実的リアリティーを有っている。修正や所謂芸術写真というようなものであっても、もしこの現実的リアリティーの再生を土台にしないならば、写真の独特な好さは見失われるだろう。この写真の現実的リアリティーにモーションと音とを加えたものが、スクリーンの物理的イメージなのである。 以上云ったことは全く生理的物理的基礎の外へ出ないのであって、映画の社会的・歴史的又劇的・文学的其の他の条件をまだ問題にしないのだが、それだけでもすでに映画に特有な一つの世界の説明として足りるものがある。実写[#「実写」に傍点]というものが之であって、之は地球の上で起きる現実的リアリティーの任意の部分(その選び方やカメラのアングルには実はすでに社会的・文学的・美術的・其の他の観点があるのだが)の再生に他ならない。何時幾日に何処で何が如何に起きたかを、或いは何かがどこかでいつかどのように起きたかを、再生するのが「実写」や「ニュース」の謂である。 実写やニュースは単にそれだけでも、私に映画の価値を尊重させるに充分だ。人はニュースなどに何の芸術的価値があるかと云うかも知れない、映画は一つの芸術たることが建前ではないかと云うかも知れない。映画は確かに芸術が建前だ。だがそう云うなら、ニュースは一体なぜ芸術的ではないのか、と私は云いたくなるのだ。私はかねがね新聞の社会面のニュースが、如何に文学的真理に乏しいかを悪んでいる者の一人だが、それはニュースが文学価値を有ち得るという想定に立つからこそである。ニュースが芸術的でないのは新聞社に雇われている記者達が記者として不充分だからで、少し乱暴な空想を許して貰えるならば、ホメロスでもつれて来ればニュースは立派に文学的になるだろう。と云うのは社会的眼光や心理的把握に於て、この現実的リアリティーたるニュースを、真理にまで高めることだろう。実写と云っても馬鹿にはならぬので、カメラの力によって開拓された自然の嘆美は確かに人類のリアリスティックな眼を肥やしたと云わねばなるまい。故寺田寅彦氏だったかと思うが、自然物は拡大して見れば見る程精緻であるに反して、人工物は拡大して見る程粗雑だというようなことを云っていたそうだが、こういう観察の誠意は今日では正にカメラの賜物なのだ。社会的な事件でも、或る広場に於ける大衆の行動で、大衆がどんな口つきをしどんな眼の色をしたかは、新聞のニュースなどでは伝えられないが、カメラはこうした文学的に大切な社会観察を与えて呉れる。 絵や劇では到底こうした現実的リアリティーから来る人間的感動を与え得ないことは明らかだ。私は別に社会時評も一つの文学の大切な様式だということを主張したいのであるが、それはこの現実的リアリティー(芸術的リアリティーではない)そのもの[#「そのもの」に傍点]が持つ芸術価値を云いたいからだ。 実際吾々が物見高いということは、ただの妄動性や野次馬性をばかり意味するのではない。人間のジャーナリスティックな本能に基くのであって、子(し)の所謂遠くより来る友や、ヘラルド(之は間諜でもある)、話し手、物語作家、其の他はこの本能の要求に対応して発生した。こういうジャーナリズムの文学的本質、つまりジャーナリズムと文学との本質的連関は、多くの文学批評家が教科書的にさえ解説している既知の知識だ。こういう「見聞き」、「見聞」、「見物」の要求を充たす何よりのものが、スクリーンなのだ。写し方さえ、誠実で着眼点が芸術的に真実ならば、ニュースや写実そのものが、そのままで人を考えさせるに充分だろう。吾々はここに世界を見聞きすることの怡びを有つのだ。この怡びは非常に哲学的なものだ。思想もここから養われるのではないか。――映画の実写的な無限な能力を、単に一通りの意味の実用性にばかり限定して考えることは誤りである。 モンタージュや又トリックのことを考えて見ても、映画のこの実写的本質は却って裏打ちされるに他ならない。モンタージュが可能なのは云うまでもなく実写的な(と云うのはセザンヌの絵のようではなくてデューラーの絵のように空間一面に実物がつまっている)フィルムを材料としてなのであるし、トリックが効果を有つのは現実的リアリティーとの対比を観衆が行なうからだ。実写的フィルムのない処にトリックというものは意味があろうとは思われぬ。一体吾々の日常の見聞なるものが多少ともモンタージュ的な手法のもので、旅行したり見物したりすることさえが一種のモンタージュに喩えていいかも知れない。 映画の芸術的価値には無論劇的又文学的なモメントがあることを私は忘れない。併しそういう価値が実現するためにも、まず第一に現実的リアリティーの再生という写実性が大切なのであり、この写実性そのもの[#「そのもの」に傍点]がすでに、映画に特有な芸術的価値を与えるというのである。自然的社会的な出来事に就いての実写や報道はしばらく別にしても、日常の自然現象についての実写的効果だけから云っても他の芸術様式ではただの匍匐的リアリズムやトリビアリズムやミミクリーに終るべきものが、映画では嶄然たる芸術的鋒鋩を現わすのだ。自然現象に関して云えば、スクリーンは世界の物性の好さ[#「物性の好さ」に傍点]を、物質の運動の怡しさを、人間に教える。こんなものは多くは吾々が日常見ているものだが、その好さはスクリーンに現われて初めて気がつく。すでに写真の好ましさはここにあり、グラフの魅力はここにあるのだが、スクリーンはまず第一に動く写真だから、この現実的リアリティーが一層強調される。運動は物質が身を以て語る言葉だ。 処で現実的リアリティー(アクチュアリティーと云ってもいい)は無論自然現象に限らぬ。社会現象も亦これにぞくする。どういうものが社会の現実的リアリティーか。普通の場合、風物や風俗が夫なのである。この風物や風俗を見せる[#「見せる」に傍点]ことが映画の第一条件なのである。見聞や見物とは多くこの風物や風俗を見聞することだった。事実、映画に於けるエキゾティシズム(実写的なる又材料上の)は吾々を著しく満足させるものの一つで、之も亦少なくとも映画に於ては必ずしも芸術の邪道とばかりは云えない。地球の地方々々の風俗(人情風俗と熟すのを注意せよ)を見ることは、まことに嬉しいことであるが、この風俗を形のままに見せるものはスクリーンでしかない。なぜただの風俗を見ることがそんなに価値があるか、芸術的に価値があるか、と云われるかも知れない。風俗とは何かを少し説明する必要があるように思う。 ヘーゲルが法(即ち広義に於ける道徳)を法と道徳と人倫(習俗性)とに段階づけたことは有名だが、習俗性とは習俗、習慣が何等か実体性を受け取ったと考えられるものだ。結婚・家庭生活・親子関係と云うような習俗が家族という実体をなすのであって、この家族などが人倫の第一段階だと考えられている。習俗がこのように道徳の本質の一つをなすことは今更断わるまでもないが、従って人情風俗も亦元来道徳的本質のものだということは、見易い道理だろう。人情は習俗性=人倫が意識に現われたものだし、風俗はそれが被服や建築や動作や顔つきという物的な感覚的な形に現われたものに他ならない。 道徳というものの意味とその段階とには色々あるが、少なくとも夫の最も物的な感覚的な現われが風俗なのであって、風俗は別に倫理学的な善悪や良心や人格の問題に直接関係はないように見えるが、そういうものを一応抜きにしてもそこに道徳の本質は必ずしも見失われるものではない。例えば交通道徳などは全くコンベンショナルなもので良心や人格の問題などからは可なりかけ離れて見えるが、併し夫が或る人間の都会的性質に関係がある時、彼又は彼女の風采や容貌と同じ程度の重大さを持っているので、風俗の相違は、ごく普通の場合には、吾々の道徳的不満や反感や同類感の欠乏をさえ意味することが少なくない。自分の国の言葉の下手な外国人は何と云っても普通には尊重出来ない(野蛮人=バルバロスとはギリシャ語が上手に喋れない吃音のことだ)。奴隷と自由民とは風俗上厳重な境界を引かれているので、一々奴隷に対して同類感を催さずにすむこともある(制服や階級を現わす服装の秘密はここにある)。人物の風体はその人物の道徳意識を、思想を、現わすとも考えられている。軍人はクリクリ頭で文士は長髪、どういう頭髪の形の女はどういう種類の女と、相場は決っている。被服風俗は支配社会に於ける各社会層別と個人別とによる道徳感と社会意識とを云い表わす。習俗の第一である男女関係にあっては、男女の服装の区別は極めて深刻な意義を有っているだろう。警察は現に女装の男や男装の女を警戒している。 こうして風俗というものが、人情・人倫・道徳・思想の最も感覚的で物的な表現である所以は理解されるだろうと思う。国民思想とか国体とかいうものをハッキリと把めない人間にも、日本人の風俗は最も端的につかむことが出来る。ここにこそ日本の国民思想の具体的な表現があるとさえ云っていいかも知れぬ。ソヴェートの民衆が日本の風俗映画を見て皆一緒に吹き出して了ったということは、だから仲々重大な外交問題を意味するかも知れない。一国の生産機構も、その国の農民(つまり百姓)や小市民などの風俗を描けば、おのずから芸術的に特徴づけられることになるのだ。――大きい文学で風俗を描かぬものは殆んどないとさえ云っていいのではないかと思う。 風俗を見ることは、だから元来感覚主義の範囲にぞくする。そしてこの風俗的感覚そのものが道徳的な意味、モラル、を持っているのである。映画がまず第一に見せるものはこの風俗的感覚であり、そこに映画の感覚的な、そして従って[#「従って」に傍点]又社会的[#「社会的」に傍点]な、面白さがあるのだと私は思う。現実的リアリティーに於ては、社会現象は風俗となって眼に見える[#「見える」に傍点]。 処で風俗とエロティシズムとは切っても切れない関係に立っている。グロテスクよりもエロティシズムの方が遙かに風俗に与える動揺は大きい。食事が風俗を挑発する程度もエロティシズムが風俗を挑発する程度に較れば問題ではない。エロティシズムは風俗壊乱のものと考えられている。――だがエロティシズムを単に煽情主義と考えるから、夫は風俗の破壊・その否定的な動揺・と考えられるというまでであって、こういう目的意識から名づける代りに人間社会のエロス的(生物的文化的)契機を恬淡にエロティシズムと呼ぶならば、エロティシズムこそ風俗の基本的要素の意味を有つと云うことが出来るだろう。そうすれば、この風俗感覚をその宿命とし又その特権とする映画が、不断にエロティシズムを追求する側面を失わないのは、甚だ当然なのであって、この現象そのものは映画の芸術的低級さを意味するものでも何でもない。ただ映画のこの感覚主義が不純である時、と云うのは感覚を何等かの感性的な行動への潜在的な手段と見たり、感性的な連想の手段と見たりする時、その時に限って、映画のエロティシズムは煽情主義に堕するのである。 で映画の感覚主義(映画特有の芸術的地盤はここにある)は、エロティシズムからの脱却でも何でもなく、却って正にエロティシズムの純化にこそなければなるまい。映画は観衆に、観衆の意識(生活意識・社会意識・等々)とスクリーンに現われた風俗との対質を要求する。この風俗は何人も解し得る処の、人類に普遍な性関係につながっているのであるから、云わばここに映画の内容自身がもつ大衆性の一つの根拠があると云っていいだろう(人類の類意識は性的関係から発生する――Menschengeschlecht――Geschlecht)。性道徳への省察を、大衆はスクリーンを通じて行なっているのだ。 誤解を防ぐために断わっておくが、私はエロティシズムや性道徳への省察だけが、映画の主な芸術的内容だなどと云うのではない。要は風俗が映画の芸術価値を成立させる根本条件だというのであり、その一つの必然的な契機としてエロティシズムが本質的なものとなるというのである。そしてこの風俗と雖も映画の芸術的価値を終局的に決定するものだなどと云うのではない。ただ映画の芸術価値はこの風俗という物的で感覚的で、肉体的で社会的な、具象性の地盤の上で初めて完了することが出来るというのであり、且又この風俗感覚そのものにすでに、丁度自然現象やニュースの実写がそうだったように、独自の芸術的価値が約束されているのだというのである。つまり映画では、風俗そのものが、その感覚的な表現にも拘らず、その故にこそ却ってモラルを有つのだ、というのである。 映画による風俗感覚が大衆の道徳意識を芸術的に刺戟するということは、色々の証拠を見出すことが出来るが、吾々青年が日本語で話す日本映画よりも寧ろ言葉のよく判らない外国映画の方を面白がるということは、吾々の生活意識の新しさ清新さが、この日本的現実に満足していないことを示すもので、日本の資本主義が英米仏独の先進資本主義への歩みに他ならず、やがてはソヴェート連邦的経済機構への必然を有っているという客観的事情が、若いジェネレーションへ知らず知らずに反映していることに他ならない。決して外国の監督や俳優の素質が高いばかりではなく、その高さが判るということが一つの道徳的向上の動向を示しているのだ。ただブルジョア映画そのものが現在の風俗の自己批判を敢えてなし得ないという宿命から、吾々はこうした映画から何等道徳批判の積極的な結果を期待出来ないまでだ。風俗を見ることは、之に泥(なず)むことに終る方が多いというのが、風俗感覚の芸術的弱点だ。夫は一般に感覚主義や又狭くエロティシズムの弱点ともなるものである。映画中の大衆映画とも云うべきチャンバラが受けるのは、一種のエロティシズムに帰着する舞踊的(或いは寧ろギムナスティックにぞくする)風俗感覚によると共に、之に基く封建的道徳・封建的風俗感覚へ由来することは今更説明するまでもないだろう。――で映画の大衆性[#「大衆性」に傍点]は、社会人の普遍的な感覚(現実感・風俗感・エロティシズム其の他)に訴えて、之をいつの間にか道徳・道義感・社会思想に移行させるという処に、その本質を横たえる。映画館は安くて誰でも皆と一緒に見られるから、というような処にばかり映画の大衆性があるのではない。又映画は何本でも複製が出来てどこへでも持って行けるという処にだけその大衆性の根拠があるのではない。 私は以上、なぜ映画が面白いか、ということを分析して、それを映画固有のリアリズムに求めたわけである。つまり現実のリアリティーが、そのままで[#「そのままで」に傍点]芸術的リアリティーとなる処に、映画固有なリアリズムがあるのであって、同時にそこに他の芸術の真似の出来ない大衆的な満足感を与えるものが横たわっているというのである。之は映画がもつべき本来の劇的又文学的価値とは一応別で、それ以前の先決条件に他ならないのだが、この条件を離れて映画の劇的文学的本質を論じることは、恐らく映画を劇や文学に解消して了うことになりはしないかと考える。世界の現実を見聞きすると同様にスクリーンの上で見聞出来るということが、それだけの単純な判り切ったことが、映画固有の面白さを与えるらしい、という結論なのだ。映画の劇的機能や文学的価値については今論じることはひかえる。また観照者の立場を離れて映画製作の技術的・経済的・社会的・諸条件を省ることも私には今は不可能だ。これ等の観点を離れても、映画の大衆性を或る程度まで説明出来るように思う。[#改頁]3 文芸と風俗   一 文芸時評の改組 読者も御承知のように、最近、新聞雑誌その他における文学批評の形式というのが、やかましく議論されている。しばらく前には局外批評が善いか悪いか、それから又匿名批評が善いか、悪いか、がお喋りの流行(?)だった。全く「善いか悪いか」が喋られたので、「何であるか」が喋られたのではない。つまりそれほど子供らしくまた道徳屋的に喋られたわけだ。 しかしこのお喋りはただのお喋りとして片づけることの出来ないものを持っていた。なぜなら問題は専ら文学がどうやったら広い世間へ出られるかということだ。或いは、いわば女子供向きの所謂文学なるものを、どうしたら世間の大人にとっても必要なものにすることが出来るか、ということだ。少し語弊はあるが、そういえば端的だと思う。 やがて批評形式の論議は一転して、文芸時評の形式をどうしようかということにもなって来た。これも大部分はお喋りみたいに見えるのだけれども、併し矢張り、どうやったらば文学という温室産のモヤシを社会の汐風に耐え得るものにするか、という興味が根本動因をなしている。文芸時評は専門家の楽屋のぞき的な作品批評や作家批評ではなく、読者に作品や作家の社会的意義を紹介するような大衆的な形でなくてはならぬとか、文学の色々な現象が持つ文学外的な又は文学前的な思想や社会性を摘発するような形の時評にしなければならぬとか、色々にいわれている。 と同時に、文芸時評の時評[#「時評」に傍点](即ち月評[#「月評」に傍点])という形式もまた段々疑問にされるようになって来た。それというのもこれまでの月評は月々の雑誌に現われる作品についての所謂「作品評」(あの作品は感心した、あの作品は説話体だ。あの作品は化物と格闘している、等々という所謂作品批評[#「作品批評」に傍点]?)に過ぎなかったということへの不満からで、必ずしも月評という様式が悪いからというわけではない。一般に時評の性質を欠いた評論は決して完全なものとは考えられないのであり、そして文芸評論も時評である以上、月評になるのはそんなに特別な制限でも何でもないと私は思っている。要は矢張り、これまでの文芸時評において文学の社会性・大衆性・思想性・といった一連の要求が意識的に注意を払われることが少なかったという不満にあるので、それで月評という様式そのものが不可ないのだという風な混乱にも陥ったのだろう。 そこで、文芸時評も社会時評も、また論壇時評も、実は一つのようなものであっていい、というような見方が段々起きて来つつあるのではないだろうか。私は文学と社会時評との本質上の連絡を強調するものであるが(「風俗文学としての社会時評」)、この主張からすれば、文芸時評だって社会時評や論壇時評と大して別なジャンルのものではないということになる。――この頃は論壇時評というものが多少軽んじられて来たようだ。これと共に起きた動きが文芸時評改組問題だと見れば、面白いと思う。 こういう何か新しい文芸時評の型が出来て行くとすれば、その文芸時評にとって一番都合のよい対手は、直接時事問題を取り扱った作品だろう。ところが事実、そういう性質の作品が注目を惹きつつあるのである。岸田国士はこの間「風俗時評」という題の作品を発表した。焦点[#「焦点」は底本では「集点」となっている]にやや疑問を持つところのその内容よりも、この名前に私は好意を持った。ところが新聞では早速「風俗時評欄」を設けたし、新居格は本当の(?)「風俗時評」を試みている(『新潮』三六年七月「現代風俗時評」)。   二 軽風俗と重風俗 無論新居格の「現代風俗時評」は文学作品ではない。無論その心算でもない。単に街頭のスナップだ。だが、とに角これを見ていて、少なくとも風俗時評という言葉が文学的な響きを持って来たなという判断の合図を感じる。岸田国士の「風俗時評」は何かと一種の社会的判断をいい現わしている。これはいうまでもなく文学作品としてだ。――でこれから見ると、風俗の意義にも二つあって、女のメーキャップから戒厳令にまで及んでいるわけだ。だが風俗については後で述べよう。 時事的な作品としてセンセーショナルな興味を惹く予算になっていたらしいのは、『中央公論』(三六年七月)付録「日出づる国」である。
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