うつり香
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著者名:近松秋江 

 そうして、それとともにやる瀬のない、悔しい、無念の涙がはらはらと溢(こぼ)れて、夕暮の寒い風に乾(かわ)いて総毛立った私の痩(や)せた頬(ほお)に熱く流れた。
 涙に滲(にじ)んだ眼をあげて何の気なく西の空を眺(なが)めると、冬の日は早く牛込(うしごめ)の高台の彼方(かなた)に落ちて、淡蒼(うすあお)く晴れ渡った寒空には、姿を没した夕陽(ゆうひ)の名残(なご)りが大きな、車の輻(や)のような茜色(あかねいろ)の後光を大空いっぱいに美しく反射している。そういう日の暮れてゆく景色を見ると、私はまたさらに寂しい心地(ここち)に滅入(めい)りながら、それでもやっぱり今柳沢に毒々しく侮辱された憤怒の怨恨(うらみ)が、嬲(なぶ)り殺しに斬(き)り苛(さいな)まされた深手の傷のようにむずむず五体を疼(うず)かした。
 音羽(おとわ)の九丁目から山吹町(やまぶきちょう)の街路(とおり)を歩いて来ると、夕暮(くれ)を急ぐ多勢の人の足音、車の響きがかっとなった頭を、その上にも逆(のぼ)せ上らすように轟々(どろどろ)とどよみをあげている。私はその中を独(ひと)り狂気のようになって歩いていた。そして山吹町の中ほどにある、とある薪屋(まきや)のところまで戻(もど)って来ると、何というわけもなくはじめて傍(そば)にある物象(ものかたち)が眼につくようになって来た。そしてその陰気な灰色の薪を積み上げてあるのをじっと見据(みす)えながら、
「これからすぐお宮のところに行こう」私は口の中で独語(ひとりごと)をいった。
 色の白い、濃いけれど柔かい地蔵眉(じぞうまゆ)のお宮をば大事な秘密(ないしょ)の楽しみにして思っていたものを、根性の悪い柳沢の嫉妬心(しっとしん)から、霊魂(たましい)の安息する棲家(すみか)を引っ掻(か)きまわされて、汚されたと思えば、がっかりしてしまって、身体(からだ)が萎(な)えたようになって、うわの空に、
「もうやめだ。もうお宮はやめだ」
 柳沢が、あのお宮……を買ったと思えば、全く興覚(きょうざ)めてしまって、神経を悩む病人のように、そんなことをぶつぶつ口の先に出しながら拳固(にぎりこぶし)を振り上げて柳沢を打(ぶ)つつもりか、どうするつもりか、自分にも明瞭(はっきり)とは分らない、ただ憎いと思う者を打(ぶ)ん殴(なぐ)る気で、頭の横の空(くう)を打ち払い打ち払い歩いて来たのだが、
「これッきりお宮を止(や)めてしまう。柳沢が買ったので、すっかり面白くなくなった」
 と、残念でたまらなく言いつづけてここまでの道を夢中のようになって歩いて来たが、それでもまだどうしても止められない愛着の情が、むらむらと湧(わ)き起って来た。そうしてこういうことが考えられた。
 強盗が入って妻が汚された時に、夫は、その妻に対してその後愛情に変化(かわり)があるだろうか。それを思うと、それが現在あることというのでなく、ただ私が自身で想像に描いて判断しているだけなのだが、ちょうど今自分の身にそういう忌わしい災難が降りかかって来ているかと思われるほど、その夫の胸中が痛ましかった。
 そうしたら夫は、どうするであろう。妻は可愛(かわい)くってかわいくってたまらないのである。しかるにその可愛い妻の肉体(からだ)はみすみす浅ましくも強盗のために汚されてしまった。妻は愛したくって、あいしたくってたまらないのであるが、それを愛しようにも、その肉体は汚されてしまった。その場合の夫の心ほど気の毒なものはない。その時はただじっと観念の眼を瞑(つぶ)って諦(あきら)めるよりほかはないだろうか。私はそんなことまで考えて、お宮も強盗のために汚されてしまったのだ。まして秘密に操を売っているお宮は、明らさまに柳沢が買ったといえばひどく気に障(さわ)るようなものの、柳沢の他に自分が見知らぬ人間に幾たび接しているか分らない。
 そうも思い反(か)えすと、その柳沢に汚されたお宮の肉体に対して前より一層切ない愛着が増して来た。
「そうだ! これから今晩すぐ行ってお宮を見よう」
 そう決心すると、柳沢が今晩もまた行ってお宮を呼びはしないかと思われて、気が急(せ)けて少しも猶予してはいられない。そして柳沢が買ったのでもお宮に対する私の愛情には変化(かわり)はないと思い極(きわ)めてしまうと、もうこれから早く一旦(いったん)自家(うち)に帰って、出直して蠣殻町(かきがらちょう)にゆくことにのみ心が澄んで来た。
 喜久井町(きくいちょう)にかえると、老母(ばあ)さんは、膳立(ぜんだ)てをして六畳の机の前に運んで来た。私はそれを食べながら、銭(かね)の工面をして、出かけようとすると、
「またどこかへおいでなさるんですか」老母さんは、門の木戸を明けている私の背後(うしろ)から呼びかけた。
「ええ、ちょっと」と、いったまま、私は急いで歩き出した。
 そして先だってお宮の連れ込みで行った、清月(せいげつ)という小さい待合に行ってお宮を掛けると、すぐやって来た。
 一と口挨拶(あいさつ)をした後は黙って座(すわ)っているその顔容(かおかたち)から姿態(すがた)をややしばらくじいっと瞻(みまも)っていたが柳沢がどうもせぬ前とどこにも変ったところは見えない。肌理(きめ)の細かい真白い顔に薄く化粧をして、頸窪(うなくぼ)のところのまるで見えるように頭髪(かみ)を掻きあげて廂(ひさし)を大きく取った未通女(おぼっこ)い束髪に結ったのがあどけなさそうなお宮の顔によく映っている。そしてその女の癖で鮮(あざや)かな色した唇(くち)を少し歪(ゆが)めたようにして眩(まぶ)しそうに眸(ひとみ)をあげて微笑(え)みかけながら黙っていた。
「どうしていた?」
 私は、やっぱりじろじろとその顔を見守った。傍(はた)で、その顔を見ている者があったら薄気味わるく思ったかも知れぬ。
「いいい」お宮は何ともいえない柔かな可愛い声を出した。
 これが、あの柳沢にどうかされたのだ。と思えば他の男のことは不思議になんとも感じないのに、ただそればかりが愛情の妨げになって、名状しがたい、浅ましい汚辱を感じて堪えられない。
「お前ねえ、私の友達のところにも出たろう。――しかしそれは構わないんだけれど……」
 私はじっと平気を装ってからいって見た。
「いいえ。そんな人知らない」頭振(かぶ)りをふった。
「ああ、そりゃお前は知らないかも知れぬ。お前は知らないだろう。けれども出るのは出たんだ。僕がその友達から聞いたんだから」
「いや、知らない。あなたの友達なんか、ちっとも知らない」
「いや、知らないわけはないんだ。お前は知らないんだけど。……四、五日前に、背の低い色の浅黒い、ちょっときりッとした顔の三十ばかりの人間が来たろう」
 そういうと、お宮はしばらく思い起すような顔をしていたが、
「ああ、来た。久留米絣(くるめがすり)かなんかの羽織と着物と同じなのを着た。さっぱりした人よ。あの人よ、この間鳥安(とりやす)に連れて行ってくれた人」
 私はそれを聴(き)くと、またかっと逆上(のぼ)せて耳が塞(ふさ)がったような心地がした。
「そうだろう。あれが私の友達なの」
 私はその言葉で強(し)いて燃え立つ胸を静めようとするように温順(おとな)しくいった。
「あははは」お宮は仕方なく心持ち両頬を紅(あか)く光らして照れたように笑った。が、その、ちょっとした笑い方が何ともいえない莫連者(ばくれんもの)らしい悪性(あくしょう)な感じがした。
 それっきり私はしばらく黙ってまた独りで深く考え沈んだ。
 つい先だって来た時にお宮と一処(いっしょ)に薬師の宮松亭(みやまつてい)に清月の婆さんをつれて女義太夫(おんなぎだゆう)を聴きにいって遅(おそ)く帰った時、しるこか何か食べようかといったのを、二人とも何にも欲しくない、
「あなた欲しけりゃ、家へ帰って、叔母(おば)さんに洋食を取ってもらってお食べなさい。おいしいのがあってよ」と、いって、清月の小座敷でお宮とそれを食べている時、
「鳥安の焼いた鳥はうまいわねえ」と、いった。
「鳥安知っているの?」
「ええ、この間初めてお客に連れていってもらった。そりゃうまかったわ」
 こんなことをいっていたが、じゃ、その客は柳沢であったかと、私は思った。こういえば、お前にもすぐわかるだろうが、私といったら始終自分の小使銭にも不自由をしているくらいだが、柳沢は十円札を束にして懐中(ふところ)に入れて歩いているという話のあるほどだ。私が銭(かね)を勘定しいしいお宮と遊んでいるのに、柳沢は銭に飽かして遠くに連れ出すなり、外に物を食べに行くなりしようと思えば、したい三昧(ざんまい)のことが出来る。
 それで、私は、先だって鳥安につれてった客が柳沢であったということが分ると、もうお宮を取ってゆかれそうな気がして、また堪えられなくなって来た。
「そりゃいつごろのこと?」
「うむ、ついこの間さ」
 ついこの間といえば、いつのことだろう。先だってからお宮は、深い因縁の纏綿(つきまと)った男が、またひょっこり、自分がまたこの土地に出ていることを嗅(か)ぎつけて来たといって、今にもどこかへ姿を隠すようにいっていたのが、一週間ばかりして、また当分どこへもゆかないといって、それで、先(せん)に来た時に一緒に義太夫を聴きにいったりしたのだ。あの時もう鳥安に行ったことを言っていたから、じゃ私が一週間ばかり来なかった、その間に柳沢は来て、私がまだ女をつれて外になど少しも出ない時分に鳥安なんかへ行ったのだ。女にかけては、世間では私などを道楽者のようにいっているが、よっぽど柳沢の方が自分より上手(うわて)だ。と思うと、私はなおのことお宮のことが心もとなくなって来た。そしてつまらぬことをお宮に根掘り葉掘り訊(き)きたいのを、じっと抑(おさ)えて耐(こら)えながらもやっぱり耐えられなくなって、さあらぬようにして訊(たず)ねた。
「あの人、好い男だろう」
「本当に好い男よ。私、あんな人大好き。着物なんか絹の物なんか着ないで、着物も羽織も久留米絣かなんかの対のを着て、さっぱりしているわ」
「何か面白い話しがあったか」
「うむ、あんまり饒舌(しゃべ)らない人よ。そうしてじろじろ人の顔を見ながら時々口を利(き)いて、ちっとも無駄(むだ)をいわない人。私あんな人好き」
 お宮には本当に柳沢が気に入っているのらしい。
「君が買った女だと思ったから、じっと顔を見ていてやったら非常に興味があった」
 こんなことを、柳沢は、さっき饗庭(あいば)もいる前で話していた。
 こちらは、柳沢がそんな意地の悪いことをするとは知らないから、胸に奸計(たくらみ)を抱(いだ)いていてお宮を傍に置いていたことはない。柳沢の方じゃそうじゃない。これが雪岡(ゆきおか)の呼んでいる売女(おんな)であると初めっから知っていて、口を利くにもその腹で口を利いている。鳥安なんぞへつれ出すにも、そういう胸に一物あってしていることだ。
 こういうと、お前は、つまらない、蠣殻町の女風情(ふぜい)を柳沢に取られたといって、そんな他人聞(ひとぎ)きの悪いことをいうのはお止(よ)しなさい。あなたの器量を下げるばかりじゃありませんか。と、いうであろうが、それは私も知っているけれど、まあ、そんな具合で柳沢は最初お宮を呼んだのだ。そういえば、お前にも柳沢のすることが大抵判断がつくだろうと思って。
 そんな厭(いや)な思いをしながらも、やっぱり傍で見ていれば見ていてお宮の美目形(みめかたち)が好くって、その柳沢の買った女をまた買った。
 そうして疲れて戻(もど)って来ると、神経が一層悩まされてお宮のことが気になって気になって仕方がない。私がいっている間だけは安心しているが、見ないでいると、その間は柳沢が行って、ああもしているであろう、こうもしているであろう。と思い疲れていた。
 それから柳沢とは、なるたけ顔を合わさぬようにしようと思ってしばらく遠ざかっていたが、またあんまり柳沢に会わないでいると、今日もお宮のところに行っているであろう。いっているに違いない。きっと行っている。と思いめぐらすと、どうしても行っているように思われて、柳沢の様子を見なければ気が済まないで久しぶりに行って見た。
 例の片眼の婆さんに、
「旦那(だんな)はいるかね?」と、訊くと、
「ええ、おいでになります」
 何だか気に入らぬことでもあると思われて仏頂面(ぶっちょうづら)をしていう。
 柳沢が家にいるというので、私はいくらか安心しながら、婆さんがお上んなさいというのを、すぐには上らず、婆さんに案内をさせて、高い階段(はしごだん)を上ってゆくと、柳沢はあの小(ち)さい体格(からだ)に新調の荒い銘仙(めいせん)の茶と黒との伝法(でんぼう)な厚褞袍(あつどてら)を着て、机の前にどっしりと趺座(あぐら)をかいている。書きさえすればあちらでもこちらでも激賞されて、売り出している真最中なので、もう正月の雑誌に出す物など他人(ひと)よりは十日も早く手まわしよくかたづけてしまって、懐中(ふところ)にはまた札の束がふえたと思われて、いなせに刈ったばかりの角がりの頬(ほお)のあたりに肉つきが眼につくほど好くなって、浅黒い顔が艶々(つやつや)と光っている。
 私は、何よりもその活(い)き活(い)きとした景気の好い態度(ようす)に蹴落(けおと)されるような心持ちになりながら、おずおずしながら、火鉢(ひばち)の脇(わき)に座って、
「男らしい人よ。私あんな人大好き」と、いった宮の言葉を想(おも)い浮べて、それをまた腹の中で反復(くりかえ)しながら、柳沢の顔と見比べていた。
 柳沢は最初(はじめ)から、私が階段(はしごだん)を上って来たのを、じろじろと用心したような眼つきで瞻(みまも)ったきり口一つ利かないでやっぱり黙りつづけていた。私も黙り競(くら)をするような気になって、いつまでも黙っていた。
「どうだ。このごろは蠣殻町にゆくかね?」打って変ったような優しい顔をしてさばけた口を利いた。
「うむ。ゆかない。もう止めだ。つまらないから。君はどうだね?」
「僕もあんまり行かないが、……その後お宮を見ないかね?」
 柳沢は、日ごろに似ぬどこまでも軽い口の利きようをする。
 私には、何だか両方が互いの腹を探っているような感じがして来た。そうして柳沢との仲でそんな思いをするのが厭でいやでたまらないのだけれど、今度のことは最初から柳沢が私たち二人の中へ横から割り込んで来たのだから仕方がない。
「いや、見やしないさ。あれっきり行かないから……」
 といったが、お宮が、私が来たということを、もし柳沢に話していたら、すぐ尻(しり)が割れてしまう。そんな嘘(うそ)を言って隠し立てをしているこちらの腹の中を見透かされると、柳沢の平生の性質から一層嵩(かさ)にかかって逆に出られると思ったから、
「……おお、あれから一度ちょっと行ったかナ」
 と、さあらぬようにいった。そうして腹の中では、どこまでも、どこまでも後を追跡していられるようで気持ちが悪かった。
「よく売れると思われて、いつ行って見てもいたことがない」柳沢はやや語声を強めていった。
 じゃあ柳沢はあれからたびたびいって、お宮を掛けているのだナ。と、私は秘(ひそ)かに思っていた。
「君はこのごろまた大変に肥(ふと)って、英気颯爽(さっそう)としているナ」
 柳沢の顔を見守りながら、私は話頭を転ずるようにいった。
「うむ。僕はこのごろ食べる物が何を食ってもうまい」
 愉快そうにいって、柳沢は両手で頬のあたりを撫(な)でた。
「君はこのごろ何だか影が薄くなったような気がする」
 と、冷やかに笑い笑いいって、また私の顔をじろじろ凝視(みつ)めながら、
「そうして、だんだんいけなくなって……」
 柳沢は、惨(みじ)めな者を見るのも、聞くのも、さもさも厭だというように、顔を顰(しか)めていった。
「ああ、影が薄くなったろう」私は憮然(ぶぜん)として痩(や)せた両頬を撫でて見た。
 そうしてこう思った。自分は、何も柳沢に同情をしてもらいたくはないが、しかし私がどうして今こんなになっているか、その原因については、とても柳沢は理解(わか)る人間ではない。あるいはわかるにしてもそのことが私ほど馬鹿馬鹿しく骨身に喰(く)い入る人間ではないと思ったし、お前に置き棄(す)て同然の目に逢(あ)わされたがためにこうなっているのだともいえないし、またそんな気持ちは話したからとて、そういう経験のない者にはわかるものでもないから、私はただそういったまままた黙り込んでしまった。
「お宮が、雪岡さんを見ると気の毒な気がする。と、いっていた」
 柳沢は、またそういって笑った。
「…………」私はしょげたように黙って笑っていた。
「……今日はお宮いるか知らん。……これからいって見ようか……」
 柳沢は私を戯弄(からか)うのか、それとも口では何でもなくいっていても、その実自分で大いにお宮に気があるのか、あるいはまた影の薄い私が思うようにお宮の顔を見ることが出来ぬのを惨めに思って、お勝手口の塵埃箱(ごみばこ)に魚の骨をうっちゃりに出たついで、そこに犬のいるのを見て、そっちへ骨を投げてやるように、連れていってお宮に逢わしてやろうというお情けかと、私はちょっと考えたが、それはどちらにしたって構わない、とにかく柳沢とお宮と一座したら、両方にどんな様子が見られるか、柳沢にはお宮が好いのには違いない。そう思案すると、
「ああ、行ってもいい」
 これから二人はややしばらく気の置けない雑談に時を過しながら点燈(ひともし)ごろから蠣殻町に出かけていった。
 柳沢は歳暮(くれ)にしこたま入った銭(かね)の中から、先だって水道町の丸屋を呼んで新調さした越後結城(えちごゆうき)か何かのそれも羽織と着物と対の、黒地に茶の千筋の厭味っ気のない、りゅうとした着物を着て、大黒さまの頭巾(ずきん)のような三円五十銭もする鳥打帽を冠(かぶ)っている。私はあの銘仙の焦茶色になった野暮の絣を着て出たままだ。
 小石川は水道町の場末から九段坂下、須田町(すだちょう)を通って両国橋の方へつづく電車通りにかけて年の暮れに押し迫った人の往来(ゆきき)忙しく、売出しの広告の楽隊が人の出盛る辻々(つじつじ)や勧工場の二階などで騒々しい音を立てていた。私はそんな人の心をもどかしがらすような街(まち)のどよみに耳を塞がれながら、がっかりしたような気持ちになって、柳沢が電車の回数券に二人分鋏(はさみ)を入れさせているのを見て、何もかも人まかせにして窓枠(まどわく)に頭を凭(もた)していた。
「今日いるか知らん?」
 電車を降りると柳沢は先に立って歩きながら小頸(こくび)を傾けて、
「どこへゆこう?」
「さあ、どこでもいいが、その、君の先だって行ったところがよかないか」
 私は、これから後々自分が忍んでゆくところにしようと思っている清月に柳沢と一緒にゆくのは厭であった。
「じゃやっぱり彼家(あすこ)にしよう。……僕もあんまり行かない待合(うち)だがお宮を初めて呼んだ待合だから」
 そういってお宮のいる置屋(うち)からつい近所の待合(まちあい)に入った。
「……宮ちゃんすぐまいります」女中は報(し)らせて来た。
「いたナ!」私は微笑しながらいった。
「うむ」柳沢は、わざと苦い顔をした。
「今日はどんな顔をしているか。この間、昼、日の照っているところへ連れ出したら顔の蒼白(あおじろ)いところへ白粉(おしろい)の斑(まだら)に剥(は)げているのが眼について汚(きたな)くってたまらなかった」
 そういって柳沢は顔を顰めて、
「どう見ても高等淫売(いんばい)としか見えない」
「芸者ともどこか違うしねえ」
「そりゃ芸者と違うさ。この間鳥安に連れていった時に鳥安の女中が黙って笑っていたが、これは淫売をつれて来たなと思ったのだろう。少し眼のこえた者には誰れが見てもすぐそれと分るもの」
 柳沢はしきりにお宮のことを気にして話をする。柳沢がそんなに女というものに興味を持って話をするのは、まだ一緒に学校にいっている時から十年の余知っている仲だが、ついぞこれまでに聞かぬことである。
「これは、よっぽど執心なのだナ」と、私は、ますます柳沢の心が飲み込めて来るにつれて、どうしてもこれは吾々(われわれ)の間に厭な心持ちのすることが持ち上らずにはいない。困ったことだと、ひそかに腹の中で太息(ためいき)を吐(つ)いていた。
「それでもこの間歌舞伎座(かぶきざ)の立見につれていってやったら、ちょうど重(しげ)の井(い)の子別れのところだったが、眼を赤くして涙を流して黙って泣いていた。あれで人情を感じるには感じるんだろう」
 柳沢は、そのお宮の涙をしおらしそうにいった。
「歌舞伎座にもつれて行ったの?」
「うむ」
「いつ?」
「やっぱりこの間鳥安につれて行った時に」柳沢は済まない顔をして、そういって、ちょっとそこをまぎらすように「立見から座外(そと)に出ると、こう好い月の晩で、何ともいえないセンチメンタルな夜だった。僕は黙っているし、お宮も黙ってとぼとぼと蹤(つ)いて来ていたが、ふと月を見上げて『いい月だわねえ』と、いいながら真白い顔をこちらに振り向けた時には、まだ眼に涙を滲ませていて、そりゃ綺麗(きれい)なことは綺麗だったよ」
 さすがに柳沢も思い入ったようにいった。
 私は、それを聴いていて胸が塞がるような気がした。私がわずかばかりの銭(かね)の工面をして、お宮にただ逢(あ)うのでさえ精一ぱいでいるのに柳沢はもうお宮とそんな小説の中の人間のような楽しい筋を運んでいるかと思うと、世の中のものが何もかも私を虐(しいた)げているような悲痛な怨恨(うらみ)が胸の底に波立つようにこみあげて来た。そうしてよそ目には気抜けのしたもののように呆然(ぼんやり)として自分一人のことに思い耽(ふけ)っていた。すると自分が耐力(たあい)もなく可哀(かわい)そうになって来て、今にも泣き溢(こぼ)れそうになるのをじっと呑(の)み込むように抑えていた。
 ややしばらく経(た)ってから取着手(とって)もない時分になって、
「歌舞伎座にもつれて行ったのか!」と、曖昧(あいまい)な勢(せい)のない声を出した。
「その帰途(かえり)に鳥安にいったのだ」
 そして私は腹の中で、先日お宮が、
「書生らしい、厭味のない人よ。鳥安を出てから浅草橋のところまで一緒に歩いて行ったの。『僕はここから帰る。電車賃だ』と、いって十銭銀貨をすうっと私の掌(て)に載せて、自分はそれきり電車に飛び乗ってしまって」
 こういって思い味わうようにしていたのを、自分でもまた想いだして、下らなく繰り返していた。
 そこへそうっと襖(ふすま)を明けてお宮が入って来た。後からも一人若い女がつづいて入った。
「あらッ!」とお宮は、入って来るからちょうど真正面(まとも)にそっち向きに趺座(あぐら)をかいていた柳沢の顔を見て燥(はしゃ)いだように笑いかかった。
 いつもよく例の小豆(あずき)色の矢絣(やがすり)のお召の着物に、濃い藍鼠(あいねずみ)に薄く茶のしっぽうつなぎを織り出したお召の羽織を着てやって来たのだが、今日は藍色の地に細く白い雨絣の銘仙の羽織に、やっぱり銘仙か何かの荒い紫紺がかった綿入れを着ているのが、良い家の小間使か、ちょっとした家の生娘のようで格別あどけなく美しく見えた。そうして私は、柳沢がいつか小間使というものが好きだ。といって、かつて大倉喜八郎の家へ新聞記者で招待せられた時、そこで一人の美しい小間使が眼にとまって、
「僕はあんな女が好きだ」と話していたことを思い出していた。
 白い顔に薄く白粉をして、両頬に少し縦に長い靨笑(えくぼ)を刻みながら、眩しいような長い睫毛(まつげ)をして
「どうしていたの? あなた。しばらくじゃないの」
 やっぱり柳沢の方に向ってそういいながら餉台(ちゃぶだい)を挟(はさ)んで柳沢と向い合って座った。そしてその横手に黙って坐っている私の方をチラリと振り向きながら、
「いらっしゃい!」と、一口低い調子でいった。
「よく売れると思われていつ来たっていないね」柳沢はじろじろお宮を瞻(みまも)りながらいった。
「あら、あれから来たの。だって来たと言わないんだもの」
「僕は来たって、来たということを誰にもいわないもの。名なんかいやあしないもの」
 そういう名をこんな土地で明かして、少しでも女に好かれようとするようなことは自分はしないのだといわぬばかりにいった。
「あなたの名は何という名?」
「俺(おれ)には名なんかないのだ」
 今にも対手(あいて)を噛(か)み付くような恐ろしい顔をしていながら柳沢はしきりに軽口を利いて女どもの対手になっていた。
「じゃ、名なし権兵衛(ごんべえ)?」も一人の十六、七の瓢箪(ひょうたん)のような形の顔をした口先のませた女がいった。
「ああ、僕は名なしの権兵衛」
「好い名だわねえ」
「うむ、好い名だろう」
 柳沢は、まるで人が違ったように気軽に饒舌(しゃべ)っていた。
「今日お前はいつものよそゆきと違って大変直(ちょく)な生(うぶ)な身装(なり)をしているねえ」
 私は、お宮を見上げ見下していった。
「うむ。僕は、あんなお召や何かあんな物を着たのよりも、こんな風をした方が好きだ。……君は好い着物を持ってるねえ」
 柳沢がよくいいそうなことをいった。
「そう。これがそんなにあなたに気に入って?」お宮は乳のまわりを見廻(みまわ)しながらそういって、柳沢の方を見守りつつ、
「あなたも今日は大変好い着物を着てるねえ。……今日はあの絣を着て来なかったの。あれが私大好き。活溌(かっぱつ)で。……だけどその着物も好い着物だわ。こんど拵(こしら)えたの?」
「うむ。いいだろう」柳沢も自分の胸のあたりを見まわして、気持ちよさそうに言った。
「私もこんど好い春着を拵えたわ。……もう出来て来たわねえ」
 お宮はも一人の小女をちょっと誘うように見ていった。
「どんな着物だい?」私は黙っていた口を開いた。
「どんなって、ちょっと言えないねえ。羽織は縮緬(ちりめん)の紋付、着物は上下揃(そろ)った、やっぱりお召さ」
 そこへ誂(あつら)えた寿司(すし)が来た。
「君たちも食べないか」私は女どもにすすめながら摘(つま)んだ。柳沢はもう黙って口に押し込んでいた。
「食べようねえ」お宮はも一人の女に合図して食べた。
 柳沢は口をもぐもぐさせながら指先の汚(よご)れたのを何で拭(ふ)こうかと迷っていた。
「ああ拭くもの?……これでお拭きなさい」
 お宮は女持ちの小(ち)さい、唐草(からくさ)を刺繍(ししゅう)した半巾(ハンケチ)を投げやった。
 柳沢はそれで掌先を拭いて、それから茶を飲んだ後の口を拭いた。
「君、あっちい二人で行ったらいいじゃないか」
 柳沢は気を利かしてそっと私に目配せした。
「うむ。……まあ好いさ。……君はどうする?」私は自分でも明らかに意味のわからないことをいって訊いた。
「僕は、お前とここで話しをしているねえ」柳沢はふざけたようにも一人の女の顔を窺(のぞ)くように見ていった。
 私は、自分の慎むべき秘密を人にあけすけに見ていられるような侮辱を感じたけれどこんなところにすでに来ていてそんな外見(みえ)をしなくってもいいと思ったから、遠慮をしないでお宮をつれて別の部屋に入っていった。
 間もなく私たちは其待合(そこ)を出て戻った。
「ふん! あんな変な女を連れて来て」
 柳沢は人形町の電車通りまで出て来ると、吐き出すようにいった。
「君は、どうもしなかったかね?」
「どうもするもんか。あんな小便臭い子供を。お宮はあんな奴(やつ)を、自分の妹分だといって、あれを他の客によく勧めるんだ。だれがあんな奴を買うものがあるもんか!」
 中二日置いて、この間からいっていた、外套(コート)を買ってやる約束があったのでまたお宮に逢いに行った。清月にいって掛けるとお宮はすぐやって来た。
「今日外套を一緒に買いにゆこう」
「今日」と、お宮は嬉(うれ)しさを包みきれぬように微笑(わら)い徴笑い「これから? 遅(おそ)かなくって?」行きとうもあるし、躊躇(ためら)うようにもいった。
「ゆこうよ。遅かない」
「そうねえ。何だか私、今日怠儀(たいぎ)だ。……あなた一人行って買って来て下さい。私どこへもゆかない、ここに待っているから……その辺にいくらもある」と、無愛相にいう。
「いや、それはいけない、僕は一緒に物を買いにゆくのが楽しみなのだ」
 先だってから、
「私コ―トが欲しい。あなた表だけ買って下さい。裏は自分でするから」
 といっていた。私はお前と足掛け七年一緒にいたけれどコート一枚拵えてはやらなかった。それに三、四度逢ったばかりの蠣穀町の売女風情(ばいたふぜい)に探切立てをしていくら安物とはいいながら女の言うがままにコートを買ってやるなんて、どうしてそんな気になったろうかと、自分でも阿呆(あほう)のようでもあり、またおかしくもなって考えて見た。そうすると先き立つものは涙だ。
「ああ、おすまには済まなかった。七年の間ろくろく着物を一枚着せず、いつも襷掛(たすきがけ)けの水仕業(みずしわざ)ばかりさせていた」
 そう思うと、売女(おんな)にたった十五円ばかりのコートの表を一反買ってやるにしても、お前に対して済まないことをするようで気が咎(とが)めたけれど、また
「俺(わし)が、蔭(かげ)でこんなに独(ひと)りの心で、ああ彼女(あれ)には済まない。と思っているのをも知らないで、九月の末に姿を隠したきり私のところには足踏みもしないのだ。あんまりな奴だ。……あんまりひどいことをする奴だ。……ナニ構うものか、お宮にコートを買ってやる! 買ってやる! おすまが見ていなくってもいい、面当(つらあ)てにお宮に買ってやるんだ!」
 誰れもいない喜久井町の家で、机の前に我れながら悄然(しょんぼり)と趺座(あぐら)をかいて、そんな独言をいっていると自分の言葉に急(せ)きあげて来て悲しいやら哀れなやら悔しいやらに洪水(おおみず)の湧(わ)き出るように涙が滲(にじ)んで何も見えなくなってしまう。
 それで当然(あたりまえ)ならば正月着(はるぎ)の一つも拵えなければならぬ冬なかばに、またありもせぬ身の皮を剥いだり、惜しいのばかり取り残しておいた書籍(ほん)を売ったりしてやっといるだけの銭(ぜに)を工夫してお宮の気嫌(げん)をとりにやって来たのだ。
 それを、さぞ喜ぶかと思いのほか、ありがとうともいわないで、何か厭なところへでも行くように怠儀そうにいう。女というものはこんなにも我儘(わがまま)なものか、今に罰(ばち)が当るだろう。と腹の中で思ったがこの間は柳沢と一緒に外に出て、歌舞伎座や鳥安に行ったことがあるので、私もぜひどこかへ連れていきたくて仕方がなかった。それで「この不貞腐(ふてくさ)れの売女(ばいた)め!」と思ったが、素直にいそいそと立とうとしないのが業腹で、どうかして気嫌よく連れてゆこうと思って
「ねえ行こうよ。そして帰途(かえり)に何か食べよう」と、優しくいうと、
「そう、じゃ行こうかねえ。すぐそこらにいくらもあるよ」いけ粗雑(ぞんざい)な口でいう。
「ああ、お前はさっきからすぐそこらで買うつもりでいたの? それで私に一人で行って買って来てくれといったのか」
「そうさ! あんな物どこにだってあるよ」
「いや、そりゃいけない。どこかもっと好いところにゆこう」
「日本橋の方へ?」
「ああ」
「そう、じゃ私ちょっと自家(うち)へ帰って主婦(おかみ)さんにそういって来るから」
 と、いってお宮は帰っていった。間もなくやって来て、今度は前(さき)と打って変って、いつか一週間も逢わないでいて久しぶりにお宮のいる家の横の露地口で出会った時のようにげらげら顔を崩(くず)しながら
「自家の主婦さん、『雪岡さん深切な人だ。ゆっくりいっておいで』と、いっていたわ!」
 こんどは、そんなことを言やあがる。何というむらっ気の奴だろうと癪(しゃく)に障(さわ)ったけれど、一緒に連れ出したいのが腹一ぱいなので気嫌を直して行くというから、こちらも嬉しくって外に出た。
「主婦さあ、『日本橋の松屋においで、松屋が安くって好いから』と、いっていたわ。うちの主婦さあも彼店(あすこ)で買うの」
 お宮が気の浮いた時によく出す主婦さあというような調子で声を出しながらいそいそとして歩いた。
「安いといったって、何ほど違うものか」と思いながら「じゃそこへ行こう」私は、お宮の言うとおりになった。
 蠣殻町から汚い水の澱(おど)んだ堀割を新材木町の方へ渡ってゆくと、短い冬の日はもう高い棟(むね)の彼方(かなた)に姿を隠して、夕暮らしい寒い風が問屋物(とんやもの)を運搬する荷馬車の軋(きし)って行く跡から涸(かわ)ききった砂塵(すなほこり)を巻き揚げていった。
 柳沢の言い草じゃないが、こうして連れ出して見ると、もう暗い冬の日光(ひかげ)の照りやんだ暮れ方だからまだしもだとはいいながら今さらにお宮の姿が見る影もなくって、例(いつも)のお召の羽織はまあいいとして、その下には変な唐草模様のある友禅めりんすの袷衣(あわせ)か綿入れを着ているじゃないか。それが忙がしそうに多勢の往来している問屋町の前を通って行くのがひどく目に立って、私はせっかくの思いに連れ出していながら、独り足早にさっさっと先きに立って歩いた。
 そんな風をした女をつれて松屋へ入って行くのが冷汗をかくようであったが誰れも知った人間に遭(あ)いはしないだろうかと恐る恐る二階に上ってゆくと、よくしたもので二階のすぐ上り口の鼻先に知った人間が夫婦(ふたり)で買い物をしている。私はちょいとお宮の袖(そで)を引っ張ってすうと物蔭に隠れてしまった。間もなくそれらが降りていったので私は恥かしそうに売場の番頭の前に安物の下着のようなめりんす友禅を着たお宮をつれて行った。
 すると、お宮がちょうどお前と同じことだ。どうして女というものはああなんだろう。お前にいつか袷衣(あわせ)にするからといって紡績物の絣を買った時にどうだったろう、私が見立てて買って来てやったのを、柄が気に入らぬからといって、何といった?
「あなた、そんな押し付けるようなことをいうもんじゃないわ、何か買って来た時は――『お前にこんな物を買って来てやったが、どうだい、気に入るか』って、まず訊(き)くものよ」
 そんなことをいった。あの時お前は、先(せん)の亭主(ていしゅ)は、それは深切であった、深切であったと、よく口癖のようにいっていたから、
「それはお前の先の亭主はそんなことをいってお前を可愛(かわい)がったか知れないが、俺はそんなことをいうのは厭(いや)だ」
 と、いって笑ってやったら、その時お前は気嫌悪そうな顔をしながら笑った。でも、やっぱりその柄が気に入らないからといって、せっかく私とその呉服屋の息子とで見立ててこれが好いときめた物を、また他なのを子僧に持って来さして比べて見た。そしてやっぱり先のがお前にも気に入った。それから早速仕立てて着て見たら、「あなた、これはなかなか好い柄ですよ。姉のところに着て行ったら、『好いのが出来たねえ』って、引っ張って見ていました」
 そういったじゃないか。
 お宮がそのとおりだ。
 たかがセルのコートを一枚買うのに、いろいろ番頭の出して見せる品物(もの)を、
「ああこれが好い!」と、手に取り上げているかと思うと、後から変った柄のが出ると、
「ああこの方がいいわ!」そしてまたそっちに手を出す。
「じゃ、その方に定(き)めたらいいだろう」と急くと、
「やっぱりこっちの方が好いわ」と、指を一本口の中に入れて考えたようにしている。私は番頭の手前つくづく穴にもはいりたくなって、
「じゃ、そっちのにするさ」
「…………」
「これも、なかなかおよろしい柄でございます」
 番頭がそういって、お宮が手放した方を取り上げて斜めに眺(なが)めていると、
「じゃあ、あっちにしようか?」こうだ。
「さあさあ□ もういい加減にしてどれかに早くきめたらいいじゃないか」私は焦(じ)れったくなって、せき立てた。
「いえ、どうぞ御ゆっくりと御覧なすって下さいまし」番頭はお世辞をいった。
「これがおよろしいじゃございませんか」こんどは先(せん)のと違ったのを取って見た。
「じゃ、あれにするわ!」お宮は口から指を出していった。そしてついに番頭が二度めに取り上げたのにきめた。
 きめたのはいいが、後で聞くと、家へ持って帰ってから多勢(みんな)にいろいろにいわれて、翌日(あくるひ)自分でまたわざわざ松屋まで取り換えにいって、他なのを取って来ると、また主婦(おかみ)や他の売女(おんな)どもに何とかかとかいわれて、こんどは電話をかけて持って来てもらって、多勢で見比べたが、やっぱり元のにきめたのだそうな。
 私はそんなことを聞いてから、お宮という奴はよっぽど浮気な、しょっちゅう心の動揺(ぐらつ)いている売女だと、ちょっと厭あになったが、それでもやっぱり止(や)められなかった。
 松屋から帰途(かえり)に食傷横丁に入って、あすこの鳥料理に上った。私は海鼠(なまこ)の肴(さかな)で飲(い)けぬ口ながら、ゆっくりした気持ちになって一ぱい飲みながら、お宮のために鳥を焼いてやって
「どうだ? うまいか」と訊くと
「あんまりうまくないわねえ。……私今日昼から歯が痛いの」
 そういって渋面(しかめつら)をして、口を歪(ゆが)めてすすり込むような音を立てていた。
 その夜遅くなってから
「俺はもう帰ろう!」
 考えていると、だんだんつまあらなくなったので、私はむくりと起き上ってこっちもあんまり口を利(き)かないで戻(もど)って来た。自家(うち)に戻るといえばいいが、ようよう電車に間に合って寒い深更(よふ)けに喜久井町に帰って来ると婆さんは、今晩もまた戻って来ないと思ってか、とっくに戸締りをして寝ていた。どんどん叩(たた)いて起すと、
「あなたですか、また遅くかえって!」
 と、ぶつぶつ口の中でいいながら戸を明けてくれた。
 私は押入れを明けて氷のような蒲団(ふとん)の中へ自棄糞(やけくそ)にもぐりこんで軒下の野良犬(のらいぬ)のように丸く曲ってそのまま困睡した。

 老婆(ばあ)さんは、前にもいったようにきっとお前や柳町の入れ知恵もあったのだろうが、私にここのうちを出ていってくれといって、後には毒づくように言って追い立てようとした。
 私も、お前がどこにどうしているか、それを知りたいばかりに喜久井町の家で欝(ふさ)ぎこんで湿っぽい日を暮しているものの、そこにいたって所詮(しょせん)分るあてのないものとなればどこか他の、もっと日当りの好い清洒(こざっぱり)とした間借りでもしようかと思っていたが、それにしても六年も七年も永い間不如意ながら自分で所帯をもって食べたい物を食べて来たのに、これから他人の家の一間(ま)を借りて、恋でも情けでもない見知らぬ人間に気兼ねをするのが私には億劫(おっくう)であった。それでずるずるにやっぱり居馴(いな)れた喜久井町の家に腐れ着いていたのだ。
 すると弟の柳沢のいた、あの関口の加藤の二階が先だってから明いていて、柳沢のところの老婢(ばあさん)に
「雪岡さん、本当においでになるんでしょうか、おいでになるんなら、なるんでそのつもりで明けておくから」
 といって、加藤の家の主婦(おかみ)さんが伝言(ことづけ)をしていたというから、それで喜久井町の家の未練を思いきって其家(そこ)へ移ることに決心した。
 それは確か十二月の十七日であった。宵(よい)から矢来(やらい)の婆さんのところの小倉(おぐら)の隠居に頼んでおいて荷物を運んでもらった。
 萎(な)えたような心を我れから引き立てて行李(こうり)をしばったり書籍(ほん)をかたづけたりしながらそこらを見まわすと、何かにつけて先立つものは無念の涙だ。
「何で自分はこんなに意気地(いくじ)がないのだろう。男がこんなことでは仕方がない」
 と、自身で自身を叱(しか)って見たが、私にはただたわいもなく哀れっぽく悲しくって何か深い淵(ふち)の底にでも滅入(めい)りこんでゆくようで耐(こら)え性(しょう)も何もなかった。
 小倉に一と車積み出さしておいて、私は散らかった机の前で老母(ばあさん)の膳立(ぜんだ)てしてくれた朝飯の箸(はし)を取り上げながら
「お老母(ばあ)さん、長いことお世話になりましたが、私も今日かぎり此家(ここ)を出てゆきます。もう此家を出てしまえば私とおすまやあなた方との縁もそれで切れてしまいます。七年の間には随分あなたやおすまに対してひどいことをいったこともありますが、それは勘弁してもらいます。……私も出て行ってしまえば、もうおすまをどうしようとも思いませんから安心して下さい。……真実(ほんとう)におすまはどうしているんです。私がこうして綺麗に引き払って出てゆくんですから、それだけ言ってきかしたって別条ないでしょう」
 私は心から詫(わ)びるような気になって優しくいった。すると老母さんはどう思ったか、きっとそんな言葉には何とも感じなかったろうが、膳を置いてゆきがけに体(からだ)を半分襖に隠すようにして
「おすまは女の児の一人ある年寄りのところに嫁(かたづ)いています……」
 老母さんの癖で言葉尻を消すようにただそれだけいって、そのまま襖をぴたりと閉(し)めて勝手の方へ行ってしまった。
 私はそれを聴(き)くと一時(ひととき)に手腕(うで)が痲痺(しび)れたようになって、そのまま両手に持っていた茶碗(ちゃわん)と箸を膳の上にゴトリと落した。一と口入れた御飯が、もくし上げて来るようで咽喉(のど)へ通らなかった。
 そして引越しの方はそのまま小倉に任せておいて私はまるで狂気のようになって家を飛び出した。
「ああ、七年添寝をしていたあの肉体(からだ)は、もう知らぬ間に他の男の自由になっていたのだ。ああもう未来永劫(えいごう)取返しのつかぬ肉体になっていたのか!」
 と、心を空にその年寄りだという娘の子の一人ある男の顔容(かおかたち)などをいろいろに空想しながら、やたらに道を歩いていった。
 そうしていつか矢来の老婆(ばあ)さんが
「どうもおすまさんは伝通院(でんづういん)の近くにいるらしい」
 と、いったことを思って山吹町の通りからいっさんに小石川の方に出て伝通院まで行って、あすこの裏あたりのごみごみした長屋を軒別(けんべつ)見て廻った。そしてがっかり疲(くたび)れた脚(あし)を引(ひ)き擦(ず)りながら竹早町から同心町の界隈(かいわい)をあてどもなくうろうろ駆けまわってまた喜久井町に戻って来た。
「もう皆な小倉さんが持っていきなすったんですよ。もう何にもありやしません」
 老婆さんは、何しに来たかというように言った。
 だんだん減っていた私の所持品(もちもの)といっては小(ち)さい荷車一つにも足らなかった。小倉は暇にまかせて近いところを二度に運んでいった。
 そうなくてさえ薄暗い六畳二間ががらんとして荷物を運び出した後がまるで空家(あきや)のように荒れていた。
 私は老母(ばあ)さんのぶつぶつ言っているのを尻目(しりめ)にかけながら座敷に上って喪心したようにどかりと尻を落してぐったりとなっていた。
 家外(そと)は静かな暖(あった)かな冬の日が照って、どこかそこらを歩いたらば、どんなに愉快だろうと思うようにカラリと空が晴れていた。
 ようやく立ち上って私はそこらの家ん中を見てまわった。すると台所の板の間に鼠入(ねずみい)らずがあるのに気がついて、
「ああ、これは高い銭(かね)を出して買ったのだ」と思いながら、方々の戸棚(とだな)を明けて見るといろんな物が入っている。よく二人の仲が無事であった時分に私が手伝って西洋料理をこしらえて食べた時のパン粉やヘットの臭(にお)いがして、戸棚の中に溢(こぼ)れている。
 小袖斗(こひきだし)の中には新らしい割箸がまだたくさんにある。
「お客に割箸の一度使ったのを使うのは、しみったれていますよ。あんな安いものはない。それでもよく黒くなったのを出す家がありますよ。私はあんな人気が知れない」
 そういって割箸の新しいのなどには欠かさなかったお前の効々(かいがい)しい勝手の間の働き振りなどを、私はふと思い起してしばらくうっとりと鼠入らずの前に立ち尽して考え込んでいた。すると、
「なんです?」
 老母(ばあ)さんが四畳半の部屋から顔を窺(のぞ)けて私が鼠入らずの前に突っ立って考えているのを見て
「あなたその鼠入らずまで持っておいでなさるんですか? それはおすまにやるんじゃありませんかおすまにやるとおいいなすったんじゃありませんか」
 口の中で独語(ひとりごと)でもいうようにぶつくさいった。
 私は癪に障ったから、道具屋を呼んで来てそいつを叩き売ってやろうという考えが起った。
 なるほどこれはお前にやるとはいったことはあるようだが、矢来の老婆(ばあ)さんのところに来ての話しにも
「お姑(ば)さん、こんど雪岡が来たら、そういって所帯道具などは安い物だ。後腐りのないように何もかも売ってしまうようにいって下さい。あんな物がいつまでも残っていてしょっちゅう眼についているとかえっていろいろなことを想(おも)い起していけないから」
 と、そういっていたというのを思い浮べたから、私は外の通りに出て古道具屋を探(さが)したが、一軒近くにあった家では亭主が出ていて、いなかった。それでまた「え、面倒くさい!」と思って老母さんのいうがままにうっちゃらかしてとうとう喜久井町の家を出て加藤の家へやって来た。
 加藤の家では主婦(かみさん)が手伝って小倉と二人がかりであの大きな本箱を二階に持って上って置き場を工夫しているところであった。
南向きの障子には一ぱい暖かい日が射(さ)して、そこを明けると崖下(がけした)を流れている江戸川を越して牛込の窪地(くぼち)の向うに赤城(あかぎ)から築土八幡(つくどはちまん)につづく高台がぼうと靄(もや)にとざされている。砲兵工廠(こうしょう)の煙突から吐き出す毒々しい煤煙(けむり)の影には遠く日本銀行かなんかの建物が微(かす)かに眺められた。
 私は、そこの□子窓(れんじまど)の閾(しきい)に腰をかけてついこの春の初めまでいた赤城坂の家の屋根瓦(やねがわら)をあれかこれかと遠目に探したり、日本橋の方の人家を眺めわたしたりして、いくらか伸び伸びとした気持ちになっていた。

 まだ一緒にいる時分よく先(せん)のうち、お前が前の亭主と別れて帰った時の話しをして、四年前一緒になる時にも仲に立った人間が、
「おすまさんもまんざら悪くもなければこそこうして四年もいたのだから、あの人の顔を立てて半歳(はんとし)の間はどんな好い縁談(はなし)があっても嫁かないようにして下さい」
 と、いって別れて戻ったと言ったじゃないか、私とは満(まる)七年近くも一緒にいて、それで私がまだ現在お前の親の家にいる間にそんなことをしたかと思うと、どれほど私の方でああ済まぬことをした、苦労をさした、気の毒である、可愛(かわい)そうだと思っていても、そう思っていればいるほどお前ら一族の者の不人情な仕打ちを胸に据えかねて、そのままあのとおりの手紙を寝床の中で書いたのだ。
 柳町の新吉の奴、どうしてくれよう。まだ暑い時分であった。私が、ともかくもお前と別れることになって、当分永い間東京に帰らぬつもりで函根(はこね)にいって、二十日(はつか)ばかりいて間もなくまた舞い戻って来た時、
 新橋に着くとやッと青の電車の間に合って、須田町まで来ると、もう江戸川ゆきはなかった。ようよう電車賃が片道あったばかりだから俥(くるま)にも乗らず、幸い夏の夜で歩くのによかったから、須田町から喜久井町までてくてく歩いて戻った。
 思いきって一旦(いったん)出て去った家へ帰るのは、それは仲に入って口を利いた柳町に対しても好かあないと思ったけれど、一時過ぎてから門を潜(くぐ)って庭から廻り四畳半の老母(ばあ)さんに聞えぬようにお前の枕頭(まくらもと)と思う六畳の縁側の戸を叩くと、
「あなたですか□」
 と、お前が眼を覚(さ)まして内(なか)から忍ぶように低声(こごえ)で合図をしてくれた。
 私は、やれ嬉しやと、お前が起き出て明けてくれた雨戸からそうっとはいりこんだ。夏の夜更(よふ)けの、外は露気を含んで冷や冷やと好い肌触(はだざわ)りだけれど部屋の中は締め込んでいるのでむうっと寝臭い蚊帳(かや)の臭いに混ってお前臭いにおいが、夜道に歩き疲(くたび)れた私の肉体(からだ)を浸すようにそこらに籠(こ)もっていた。私は何とも言いがたいそのにおいの懐(なつ)かしさにそのまま蚊帳の裾(すそ)をはねて寝床に転(ころ)げ込むと、初めの内はやさしく私を忍ばせたお前が何と思ったか寝床に横たわりながら
「あなたあっちいってお休みなさい。別にあなたの蚊帳を吊(つ)ってあげますから……ここは私の寝るところです」
 と、神経の亢進(たかぶ)ったようにはねつけた。
「いんにゃ、ここでいい、もう怠儀だ」
「怠儀だって、それはあなたの勝手じゃありませんか。あなたはもうここを出て去(い)った人です。一旦切れてしまえば、あなたと私とはもう赤の他人ですから、どこか他へ宿を取るなり、友達のところに行くなり、よそへいって泊って下さい」
「…………」
「ねえ、そうして下さい。ここは私の家です、あなたの家じゃありません。こうしていて明日(あす)老母(おばあ)さんに何といいます。あなた私の家の者を馬鹿にしているんだからそんなことは何とも思わないでしょうが、私が翌朝(あす)お老母(ばあ)さんに対して言いようがないじゃありませんか。私がすき好んでまたあなたを引き入れでもしたように思われて……」
「…………」
「ねえ、そうして下さい。どっか他へいって泊って下さい。あなたは何をいっても私の言うことなど馬鹿にしている。そうなくてさえ柳町の姉を初め自家(うち)の者は皆な私が浮気であなたとこんなことをしているように思っているんですから。あなたは、そりゃ男だし、ちゃんとお銭(かね)をかけて一人で食べてゆかれるようにしてある体ですから、浮気をしたっていいでしょうが、私は少しもそんな考えであなたと今まで一緒にいたんじゃない」
 そういいながらだんだん眼が冴(さ)えて来たと思われて、寝床の上に起き直ってむやみと長煙管(ながぎせる)で灰吹きを叩いていた。
 蚊帳ごしに洩(も)れくる幽暗(うすぐら)い豆ランプの灯影(ほかげ)に映るその顔を、そっと知らぬ風をして細眼に眺めると、凄(すご)いほど蒼(あお)ざめた顔に色気もなく束(つか)ねた束髪の頭髪(あたま)がぼうぼうと這(は)いかかっていた。
 私は、いいたいだけ言わしておいて、借りて来た猫(ねこ)のように敷布団の外に身を縮めてそのまま睡(ねむ)りこけた。
 
 翌朝(あくるあさ)になると、それでも気嫌よさそうに
「お老母さんには、柳町に行っても、あなたのことは何にもいわないようにしておくれ。と、いっておきました」
 そういった。
「ああそうか」
 と、いいながら、私は、久しぶりで口に馴れたお前の手で漬(つ)けた茄子(なす)と生瓜(きゅうり)の新漬で朝涼(あさすず)の風に吹かれつつ以前のとおりに餉台(ちゃぶだい)に向い合って箸を取った。
「あなた、またああそうかって、ああそうかじゃいけませんよ。老母さんに口留めしている間に二、三日の内に下宿なり、間借りをするなり早く他へ行って下さい」
 そういわれて、私はせっかくうまく食べかけていた朝飯が溜飲(りゅういん)になってしまった。
 三日目に老母さんから聴いたと思われて、柳町から新吉が凄(すさま)じい権幕でやって来た。
 私は折から来客があったので、老母さんの四畳半の方に上っていった様子をチラリと認(み)たから、わざとその客を引き留めて雑談に時を過しながらヒステリーの女みたいに癇癪(かんしゃく)の強い新吉の気を抜いていた。
「あなた、新さんが、ちょっと雪岡さんに話しがあるといって、他室(あちら)でさっきから来て待っています」
 お前が、さも新吉の凄じい権幕に懼(おび)えたように、神経の硬(こわ)ばった相形(そうぎょう)に強(し)いて微笑(わらい)を見せながら、そういって私の部屋に入って来た。
「雪岡さん、君は一体どんな考えでいたんです? つい此間(こないだ)函根に行く前に奇麗に此女(これ)と手を切って行ったんじゃありませんか」
 私には、新吉のいう文句よりもその躍起となって一時血の循環(めぐり)の止ったかと思われるように真青になった相形が見ていて厭(いや)だった。
 私は、その毒々しい顔を見ながら、わざとずるく構えて新吉にばかり言いたいだけ文句を並べさして黙り込んでいた。
「お前さんはずるいよ、人にこんなに饒舌(しゃべ)らしておいて。さあ、どうしてくれるんだ? 雪岡さん、今ここを出ていって下さい」
「あなたがそんなに言わなくっても出てゆくさ。しかし出てゆくには出てゆくで、私の方でも下宿するなりどうするなり、いろいろ準備をしなければならぬから」
 私は対手(あいて)にするのが厭で鄭寧(ていねい)にいうと、
「準備をするのはもう何日も前から分っているじゃないか、そりゃお前さんの勝手だ。こっちはそんなことは知らない。早くこの老母(おふくろ)の家を出て行っておくんなさいッ……さあ出て行っておくんなさいッ」
 私がつい一と口くちを出すと、また図に乗って十口も文句を並べた。
「猫や犬じゃあるまいしそんなに早く出てゆかれるものか」
「お前さんのような道理(わけ)の分らない人間は猫や犬を見たようなものだ。何だ教育があるの何のといって、人の娘を玩弄(おもちゃ)にしておいて教育が聴いて呆(あき)れらあ。……へんッお前さんなんぞのような田舎者(いなかもの)に江戸ッ児が馬鹿にされてたまるものか」
 まるで人間を見たことのない田舎の犬が吠(ほ)えつくようにぎんぎんいった。
 私は微笑(うすわらい)しながら黙っていた。
「あなた、今日出て行って下さい。……義兄(あに)さんのいうのが本当です。あなたが一体函根からまた此家(ここ)へ舞い戻って来るというのが違っているんですもの」そういって新吉の方に向いて言葉を柔らげて「私が出します。ほんとに義兄さんには多忙(いそが)しいところを毎度毎度こんなつまらぬことで御心配ばかりかけて済みません」
「ええ、いや。しかしおすまさんもおすまさんじゃないか。雪岡さんがいくら戻って来たってお前さんが家へ入れるというのがよくない……」
「ええ、それはもう私が悪いんです。そのこともこの人によくそういったんです。お急がしいところをどうも済みません。きっとこの人も出てゆきますから、どうぞもう引き取って下さいまし。……また大きな仕事を何かお請けなすったって」お前はそういってほかへ話をそらそうとした。
「いえ、ええ」と、新吉は得意げな返辞を洩らしながらだんだん静かになって来た。
「……あなた、新さんがあんなにいうんですから、どうぞ新さんのために別れると思って此家(ここ)を出ていって下さい」
 新吉が帰っていってからお前は私の傍に戻って来てそういった。
「何だ。あの物のいい振りは。俺(わし)はあんな人間がお前の姉の亭主だと思うと厭だからいわなくとも早くどこか探して出てゆくよ」
「初めガラッと門をあけて入って来た時に、あんまり恐ろしい権幕だったから、私はどうしようかと思った。私を打(ぶ)ちでもするかと思った。私、あれが新さんが厭なの。そりゃ姉の亭主だから義兄(にい)さんにいさんと下手(したで)に出ていれば親切なことは親切な人なんですけれど」
「なんだ。教育がどうのこうのッて」
「自分一人偉い者のようにいって」お前もそういって冷笑(わら)った。
 そんな喧(やかま)しいことがあったけれど、私がどうしてもずるずるに居据って出てゆかなかったのでとうとうお前の方から姿を隠してしまったのだった。
 そしていつの間にかもうそんなところへ嫁(かたづ)いていたのだと聴いたから、私は、新吉はじめお前たちを身を八裂きにして煮て喰(く)ってもなお飽き足らぬくらい腹が立ってあんなに、お前をどこの街頭(まちつじ)でも構わない、見つけ次第打ち殺すと書いたのだ。
 加藤の二階で、寂しさやる瀬なさに寝つかれぬままその手紙を書きながら、どうあってもお前を殺すという覚悟をしていると、いくらか今朝からの怨恨(うらみ)が鎮静して来たようだった。
 翌朝(あくるあさ)その手紙を入れた足で矢来の老婆(ばあ)さんのところにゆき
「おばさん、もうおすまの奴(やつ)ほかへ嫁づいていやがるんだ!」
 そういって、私は身を投げるようにそこに寝転んだ。
「へえ! もう嫁いているんですって?……誰れがそんなことをいいました」
 昨日(きのう)これこれでお前の老母(おっか)さんから聴いたという話しをすると、
「そうですか。……どうも私にはそんなには思われませんがねえ。けれどもおすまさんも年がもう年ですから、急いでそうしたかも知れません」
 老婆(ばあ)さんは手頼(たよ)りないことをいいながら、相変らず状袋をはる手をつづけていた。
 あんなに私がしおれて正直に出たのだからお前の老母(おっか)さんがよもや嘘(うそ)をいいはすまい。そうすると嫁いているに違いない。嫁づいているとすれば、返すがえすも無念だ。そう思うとその無念やら怨恨(うらみ)やらは一層お宮を思い焦がれる情を切ながらした。

 お宮のいる家の主婦(おかみ)とも心やすくなって、
「雪岡さん親切な人だ。
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