幕末維新懐古談
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著者名:高村光雲 

 そこでまた話がいろいろ転々しますが、平尾賛平氏が、どうしてこうも私のために厚い同情を注いで下すったかということについては、今までお話をしたばかりでは少し腑に落ちかねましょうが、これにはちょっと因縁のあることで、それをついでに話します。どういう訳か知らないが、私の一生には一つの仕事をするにも、いろいろ曰(いわ)くいんねんが附いて廻るのは不思議で、ただ、その事はその事と一口に話せないような仕儀であります。それは本当に妙です。

 或る晩、私は上野広小路を通りました。
 元は岡野今の風月(ふうげつ)の前のところへ来ると、古道具屋の夜店が並んでいます。ひょいと見ると、小さな厨子(ずし)に這入(はい)っている不動様が出ている。夜の十時頃で、もう店の仕舞い際(ぎわ)でしたが、カンテラの灯(ひ)の明りでも普通(ただ)のものでない気がしましたので、手に取って見ると、果してそれは好いこなしで、こんな所に転がっているものではありません。片方の足が折れていましたが、値を聞くと、十銭といいました。妙なもので一円でも素通りは出来ないのに、八銭に負けろといったら、負けましたから、二銭つりを取って袂(たもと)に入れて帰りました。

 その後、私は右の不動を出して見ると、なかなか凡作でない。折れた足を継ぎ、無疵(むきず)にして、私の守り本尊の這入っている観音の祠(ほこら)(これは前におはなしした観音です)の中へ入れて飾って置きました。これは西町時代のことであります。
 ちょうどその頃、彼の後藤貞行氏は馬の彫刻のことで私の宅へ稽古(けいこ)に来ていた時分、親しみも一層深くなっていた時ですから、或る日、私の本尊の観音様の祠を開(あ)けて見ると、中に小さな不動様の厨子があるので、それを見ると、非常に欲しくなったらしいのです。
 初めの中(うち)は後藤氏も、あの不動さまは実に好いと褒(ほ)めていた位でしたが、いかにも心が惹(ひ)かれたと見えて、
「高村さん、どうか、私に、あの不動さまを譲ってくれませんか。私は一目あれを見てから、どうも欲しくてしようがありません」
という言葉つき。いかにも余念なく見えましたが、
「あれは私の彫刻の参考ですからお譲りするわけに行きません」
 私は一応お断わりしました。
 すると、後藤君は押し返して、
「そうですか。私は実は酉年(とりどし)で不動さまを信仰しております。私の守り本尊にしたいと思いますから是非どうかお譲り下さい」
と、たっての頼み。
「そうですか。あなたが、あの不動さまを拝むというのならあなたに差し上げましょう。実をいうと、あれは広小路の夜店で八銭で買ったのです、値は八銭であっても、作は凡作でない。どんな大きな不動を作るにも立派に参考になると思って私は買ったのですが、あなたがそんなに御執心なら差し上げます。しかし、なくなさないようにして下さい。私が参考にしたい時はまた借して下さい」
 こういうことで、右の不動様を後藤君に進呈しました。後藤君は大いによろこび、それを自分の守り本尊として持っていたのでした。おかしいことには、よほど後藤君もあの不動が欲しかったか、ちょっと私へたのむのに細工をしたことが後で分って笑いましたが、実は後藤君は酉年ではなくて、戌年(いぬどし)であったのでした。

 さて、その後、平尾賛平氏が、後藤さんの大切にしている右の不動さまを見たのでありました(平尾氏と後藤氏とは、どういう縁故か知りませんが、ずっと前から親しい間柄であったのです)。すると、平尾さんが大変惚(ほ)れ込み、どうか、これを譲ってくれといいました。しかし、後藤君は、実はこの不動だけはお譲り出来ない。その訳はかくかくと私と後藤君との間の約束のことを平尾氏に打ち明けました。
 すると、平尾さんは、
「なるほど、もっともの話だが、高村さんが君になくなさないようにといった意味は、行処(ありか)が分らなくなることを恐れたためだろう。君のところにあるも、私のところにあるも、在(あ)り所がわかっていれば同じことではないか。君が師匠同様の人の言葉を背(そむ)くのが気が済まないなら、一つ高村さんから君が許しを受けてくれたまえ。そうして是非僕に譲ってくれたまえ」というので、後藤君も詮方(せんかた)なく私に右の趣を話して「どうしたものでしょう」との話でした。
「それは呈(や)りなさい。行処が分っていれば好いじゃないか。それに、平尾さんの処へ行けば不動さまも仕合せ。命日々々には私の所や君の処よりも、平尾さんの処の方が御馳走(ごちそう)もあろう。ただ、我々が借りたい時は借りる条件をつけて置けば好いでしょう」
 で、後藤君は、快く不動さまを平尾氏に譲ったのでした。
 この時に私の事が平尾さんの話頭に上り、高村という人物について後藤君からも聞き、また他からも聴いたことであったと思います。これが縁で……といってまだ逢ったこともないが、後藤君を通して、平尾氏から大黒(だいこく)と蛭子(えびす)の面を彫ってくれと頼まれて、こしらえてあげたことなどがあり、それ以来、近しいともなく近しく思って私のことを心配してくれられていたものと見えます。私の方では一向他(ひと)の気は分りませんから、知らずにいたが、その後、後藤さんを通して、私のために家を持たしてやろうと考えるまでに平尾氏の好意が進んで来たのは、平尾氏の技術家を尊重する心持も手伝ったことでありましょうが、私の考えでは後藤君がかつて私が氏に対してした仕打ちを恩義的に感じていて、私のことを平尾氏に特に推奨したような心持もあったのではないかと推察もされるのであります。
 それはとにかく、また、平尾氏の奥さんという人もなかなかよく出来た人で、平尾氏が人のために尽くすことに関しては、良人(おっと)の善事を内で助けて行った質(たち)の人でありました。私は今日でも、平尾氏の好意は特に恩に思っている次第であります。

 それから、家持ちになれというので、平尾氏から立て代えて頂いた金銭は、技芸員のお手当の金や、いろいろのその他の収入のあった都度、二年間ばかり平尾氏の方へ運びました。二年目の終りの頃に平尾氏は、
「もう、よほど、金が来過ぎている」
ということで、
「では、おついでの時に調べて置いて下さい」
といって置きましたが、調べた結果、大分(だいぶ)余っていました。平尾氏は、
「私は商人のことだから、銀行へ預けて置くだけの利子は貰いますよ」
といって一旦利子をお取りになって勘定を済ませ、やがて日を変えて改まって利子の分五十余円を持って来て、これはお老人(としより)が何かの楽しみになさるようにいって差し上げて下さいと、老人に下されたので、年寄(としより)も非常な喜びでありました。
 ちょうど二ヶ年間に七百十五円の地所と家作代、それから百五十円の隠居建築費、合せて八百六十五円をお返ししましたが、都合の好い時に自儘(じまま)に運んだので、私には、そう骨の折れたことではありませんでした。けれども、妙なもので、一時に纏まったものを出して強いても私を家持ちにさせて下すった平尾氏の御親切がなければ、私はその後幾年経っても借家住居(ずまい)でいたかも知れません。家持ちになってから今日まで三十年にもなりますか。その間(あいだ)私の家は段々古くなって建て直しをする必要も感じましたが、さらに新築をする自力もないことではあるけれども、それよりもなるべく、三十年前の家持ちになった当時の家の儘(まま)を存して置きたいと思い、破損のひどい所だけは余儀なく修繕をして出来得る限り昔日の俤(おもかげ)を残して置いてあります。
 只今こうしてお話をしているこの九畳の座敷も、その時そのままで、初めて、石川光明氏と打ちつれ盆栽会を見物に来た時も、この部屋(へや)や縁側に盆栽が沢山並んでいました。
 今日から思えば三十年はかなり古く、また私としても、それ以来いろいろな境涯を経来(へきた)ったことであります。




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