幕末維新懐古談
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著者名:高村光雲 

 これから話の順序が学校へ奉職(はい)った時分のことにちょうどなって参ります。今日はそのはなしを致しましょう。……ところが随分迂闊(うかつ)なことでありますが、私は自分の拝命する学校を知らなかったというようなわけであった。
 明治二十二年の二月十一日は憲法発布式の当日でありましたので、東京市中は一般のお祝いで大した賑わいでありました。市中はいろいろな催しもの、行列などがあり、諸学校でも教員が生徒を伴(つ)れて宮城外の指定の場所へ参列でもするのか、畏(かしこ)きあたりのお通りを拝するのであるか、とにかく大した賑わいであるという評判。私はそういうものを見物に出掛けもしなかったが、家内には子供を伴れさせて見物に出しましたが(光太郎がちょうど六、七歳の時と思います。母につれられて行きました)。広小路でいろいろな催し物行列などを見てから間もなく帰って参った家内のはなしに、「上野の方は大層な人出で、いろいろな催しがありましたが、その中に、何時(いつ)か家(うち)へお出(い)でになった竹内(たけうち)さんが行列の中に這入ってお出ででした。その行列は朝鮮人か支那人かというような風をして頭に冠をかぶり金襴(きんらん)の旗を立てて大勢が練って行きましたが、この行列が一番変っていました」
ということ。私はその話を聞いて、あの竹内さんは数寄者(すきしゃ)で変ったことが好きだから、町内の催しで、変った風をして行列の中に交ったのであろう、元禄風俗を研究したりしていなすったから、きっとその時代の故実を引っ張り出して面白い打扮(なり)をやったのであろう、など私は話したことでありました。

 その日憲法発布の式場へ参列のため大礼服(たいれいふく)をつけて官舎を出るところを玄関前で文部大臣の森有礼(もりありのり)氏が刺客に刺されたのであった。お目出たいことのあった後の不祥事で人々は驚いていました。
 それから、ずっと後(あと)になって、私が美術学校へ奉職するようになり、憲法発布式の当日に家内が上野で竹内先生が不思議な風をして行列の中に交っていたという話しの訳が分りました。それは竹内先生はその時美術学校の教官であったので、学校の正服を着けて、学生を率いて式場附近へ参列する途中であったということが分ったのでありました。私は実は早合点(はやがてん)をして竹内さんの好みで古代の服装でも真似(まね)て町内の行列へ這入ったのだと思ったことで、竹内さんが学校の教師になっていられることなどは少しも知りませんのでした。

 憲法発布式のあったのは二月のこと。三月にはいって間もなく、或る日竹内久一(きゅういち)氏が私宅(わたくしたく)を訪問されました。
「高村さん、今日は私は個人の用向きで来たのではありません。今日は岡倉覚三(おかくらかくぞう)氏の使者で来たのです」
という前置きで、その用件を話されるのを聞くと、私に美術学校へはいって、働いてもらいたいという岡倉氏の意を受けてお願いに来たのだということであった。私は寝耳に水で、竹内さんのいってることがちょっと要領を得ないので、
「一体、今お話しの美術学校というのは何んですか。またその学校は何処(どこ)です」
と聞くと、竹内さんもちょっと意外な顔をしていましたが、
「美術学校は上野にあります。現に私はその美術学校の教師を勤めているのです。浜尾新(はまおあらた)氏が校長で、岡倉さんは幹事です。この美術学校というのは日本画と彫刻とで立っているので、岡倉さんがあなたに来てもらいたいという主意はその木彫(もくちょう)の方の教師になってもらいたいというのです。岡倉さんもいろいろこの事については考えたが、どうも他に適当の人がない。それで是非あなたに這入ってもらって一つ働いて頂こうということになったのだから、これは一つ否(いや)が応でも引き受けて頂かねばなりません」という話であった。

 これで一通り事情は分ったが、さて、私に取っては困ったことであった。
「そうですか、私はちっともそういう学校の出来ていることを知らなかった。今のお話でよく訳は分りましたが、どうも私はそういう学校というような所へ出て教師の役をつとめるなどということは私には不向きだと思います。つまり、私はその衝に当たる人でないと思います。家にいて仕事をして傍(かたわ)ら弟子を教えることなら教えますが、学校というようなことになると私には見当が附きません。御承知の通り、私はそういう生(お)い立ちでありませんから……なまじっか、柄にないことに手を出して見た処で、自分も困るし、他も迷惑と思います。これはお断わりしたいものです」
とお答えをしました。
「君にそういうことをいわれた日には甚(はなは)だ困る。君はひどく謙遜して、自分は器(うつわ)ではないといわれるが、現にこの私がその美術学校の教師をやっている。あなたも私も生い立ちは同じようなものじゃありませんか」
 竹内さんはこういっておられる。
「いや、そうは思いません。あなたはいろいろ古いことなども能(よ)く穿鑿(せんさく)して知ってお出(い)でで、なかなか学もある方だから、あなたは適しております。自分はそうは思いません」
といいました。
「それは、あなたの勘違いというものだが、それを今ここで議論して見たところで初まらない。とにかく、私は岡倉さんの使者でお願いに来たのですが、君が、承知されないとなると、私も使者に立った役目が仕終(しおお)せられないので岡倉さんに対しても面目ないが……それでは、とにかく、右の返辞は君から直接岡倉さんへしてくれることにして下さい。今日一つ岡倉さんの家(うち)へ行って、逢った上のことにして下さい」
「では、そうしましょう。岡倉さんの家は何処(どこ)ですか」
「池の端茅町で、山高(やまたか)さんの手前の所です。馬見場(以前不忍池(しのばずのいけ)の周囲が競馬場であった頃、今の勧業協会の処にあった建物)から向うへ廻ると二、三軒で冠木門(かぶきもん)の家(うち)がそれです。承知不承知はとにかく岡倉さんに逢ってよく同氏の話を聞いて下さい。私は今日は都合があって、御同席は出来ませんが万事よろしく……」
といって竹内氏は帰られました。

 それから、午後四時頃私は出掛けて行った。岡倉氏に面会すると、同氏は私の来訪を待っていた所だといって、「今日、竹内氏をもって御願いした件はどういうことになりましたか」
という。私は竹内氏に答えたことと同じ意味のことを答えますと、
「高村さん、それはあなたは考え違いをしていられる。学校をそうむずかしく考えることはいりません。あなたは字もならわない、学問もやらないから学校は不適任とおいいですが、今日、あなたにこの事をお願いするまでには私の方でも充分あなたのことについては認めた上のことですから、そういうことは万事御心配のないように願いたい。あなたに出来ることをやって頂こうというので、あなたの不得手なことをやって頂こうというのではありません。多くの生徒に就(つ)くことなどが鬱陶(うっとう)しいなら、生徒に接しなくとも好いのです」
というように岡倉氏は説いていられる。岡倉氏の説明するところはなかなか上手(うま)いので、私に嫌(いや)といわさないように話しを運んでいられる。氏はさらに言葉を継ぎ、
「それで、あなたがお宅の仕事場でやっていられることを学校へ来てやって下さい。学校を一つの仕事場と思って……つまり、お宅の仕事場を学校へ移したという風に考えて下すって好いのでそれであなたの仕事を生徒が見学すれば好いのです。一々生徒に教える必要はないので、生徒はあなたの仕事の運びを見ていれば好いわけで、それが取りも直さず、あなたが生徒を教えることになるのです」
という風に話されるので、自分のことを私がいおうと思えば、先を越していってしまってどうにも辞退の言葉がないような有様になりました。
「お話はよく分りました。そういうことなら私にも必ずしも出来ないこととは思いませんが、私には、現在、いろいろ他から引き受けてやっている仕事がありますので、仮りに学校の方でお世話になるとしても、二、三ヶ月後のことでないと困ります」
 こういいますと、岡倉氏はまたすかさず、
「それはどういう訳でしょう」
と突っ込みますから、
「それは、今日までの仕事を方附(かたつ)けてしまってから、お世話になるものなら改めてお世話になることに致しましょう」
と答えると、
「いや、それは、まだ、あなたは能(よ)く私の申し条を会得(えとく)して下すっておらん。それでは、学校のことと、内のこととを別にしていられることになる。お宅の仕事場でなさることを学校でして下されば結構と申したのはすなわちそこで、ただ、仕事部屋が、お宅から学校へ移ったというだけのことで……そう考えて頂けば現在お引き受けになっている仕事を学校の部屋へ持って来てやって下されば結構なので、つまり、生徒の学ぶのは、あなたの仕事を実地に見学することが何よりなので、私のあなたに学校へ来て頂こうという主意も実に此所(ここ)にあることです。仕事部屋も早速拵えましょう。で、仕事をそっちへ持って来て下さい。また今後とても、他からの依頼は何んなりとお引き受け下すって、それを学校で拵えて下さい。それがかえって結構で、学校の方では至極好都合なのです。現在、学校にも木彫科の方は一切教科書と同様の木彫りの手本がありません。竹内さんともいろいろ相談をして、どういう風にしたらということを研究中でありますが、まず何より、差し当ってあなたに学校へ来て頂いて、仕事をしておもらいすれば、それこそ、それが生きた教科書であるから、これに越した授業の方法はほかにあるまいと、実は竹内氏もあなたを推薦されているわけなので、私たちは、あなたにこがれているので、どうか学校のために一つ御尽力を願いたい」
 こういう訳で、一々抜き差しの出来ないように岡倉氏は説かれるので、私にも能(よ)く了解が出来、なかなか断わるにも断わることが出来なくなりました。実際岡倉氏のいう如き方法ならば、私の立場として見て、そう仕事の上に差し閊(つか)えることもないように思われ、怪しむところもなくなって来ました。
 そこで、岡倉氏は明日からでも学校へ出てもらいたいと、短兵急(たんぺいきゅう)なことで、私もとにかく、お受けを致したわけであった。

 それから、酒が出たりしました。岡倉氏は酒は強い方。私もその頃は多少いける方であった。酒間にいろいろ寛(くだ)けて話し合いました。岡倉氏は、話が纏(まと)まって悦(よろこ)ばしい。浜尾校長もさぞよろこぶことであろうといって満足の体であったが、氏はちょっと話頭を更(か)え、「高村さん、いよいよ話が極(き)まったら、一つ早速実行(やっ)ておもらいしたいものがある……」そういって女中を呼んで持って来させたものがあった。
「それは美術学校の正服(ふく)です。一つこれを着て下さい」
といって、岡倉氏は自分でその服をひろげ、強いて私を起(た)たして背後(うしろ)から着せてくれましたが、袖(そで)を通すと、どうも妙なもので私は驚きました。私は心の中で、憲法発布式の当日に竹内さんが着て行列の中に混っていたというのはこれだなと思ったことでした。これは岡倉氏の意匠で学校の正服に採用された闕腋(けってき)というものだそうで、氏は私に着せてから、
「それを明日から着て学校へ出て下さい。今日もそのままでお宅へ帰って下さい」
などいわれるので、私はこれには大いに閉口しました。
「いずれ学校へ出るときまりましてから着て行くことにしましょう」
といってその場は済んだが、それから、それを着て出るのが苦労になりまして、どうしても、それを着ては何んだか身に添わないような気がして、戸外に出られないので、一度着たものをまた脱いで、羽織袴で二、三度も出掛けたことがありました。

 私はいよいよ学校へ出ることになりました。
 しかし、その時はまだ本官ではなかった。お雇いというのであったが、東京美術学校雇いを命ずという辞令を受けたのが明治二十二年三月十二日で、月俸三十五円給すということでありました。生まれて初めて辞令を手にした私にはよく分らない。学校へ雇われるのだからお雇いというので、皆(みんな)がお雇いなのか、自分だけが雇いなのか、そんなことすら一向訳が分らなかった。学校は二月十一日の憲法発布式当日に開校したので、私が這入(はい)る前に加納鉄哉(かのうてつや)氏が這入っておられたらしいが、どういう訳であったか、氏は暫くの間で出てしまわれたので、そのあとへ私を岡倉氏や竹内氏が引っ張り出したのでありました。
 約束通りに私は学校の仕事場へ行って仕事をすることになった。それで毎日学校へ行くのに、例の服を着て出なければならないのに、変てこで困りましたが、しまいには馴(な)れて着て出ました。

 その頃の美術学校は上野公園の現在の場所とは模様が違っておった。その頃、屏風坂(びょうぶざか)を上って真直に行くと動物園の方から来る通りで突き当りになる、其処(そこ)に教育博物館というのがあって、わずかな入場料を取って公衆に見せていた。その博物館の後ろの方に空(あ)いた室があって、それを美術学校で使っていたので、学校は博物館に同居していたのです。博物館の裏口に美術学校の看板が掲っていました。それで、彫刻の教場はどうかというと、バラックようのもので、まだ一つの教場という形を為(な)しておらなかった。
 教育博物館の方はなかなか整頓(せいとん)していて、植物などはいろいろな珍しいものが蒐(あつ)めてあったが、或る方面は草茫々(ぼうぼう)として樹木繁(しげ)り、蚊の多いことは無類で、全く、まだ美術学校も開校早々という有様でありましたが、その中(うち)段々と生徒も殖(ふ)えて、学校の範囲が広くなったものですから、博物館は引っ越して全部その跡を学校が使うことになり、年とともに旺(さか)んになったのであるが、明治四十四年の一月二十五日の零時二十分に出火して大半を焼失してから、さらに新築して現在のような形になったのであります。
 私の学校へ這入った時分は、今の枢密院副議長浜尾男爵が校長で、故岡倉覚三先生が幹事、有名なフェノロサ氏が教頭という格で生徒がすべてで四十人位であったと思います。科は日本画と木彫(もくちょう)との二科であった。これは日本の在来の美術を保存しまた奨励するという趣旨の下にこの学校が出来たもののように見えました。日本画も木彫も古来から伝統的に日本の美術として立派に存在して来たものであるから、それを今日において、日本国民に普及させ、在来のものを一層発達させようという主意であったものと見えます。当時は普通科が二年と専修科が三年、合せて五年で卒業というのであった。普通科は絵画と木彫と両方をやった。そうして二年目になって、生徒は、絵画なり、木彫なり、自分の志望の科を選んで専修することになっていたので、普通科の二年間に生徒は充分自分の適当と思う道を撰むことも出来たので、今から思うと、この法は大変よかったように思われます。今日でも当時、普通科をやった人たちがよくこの普通科を修めたために、絵をやる方の人でもちょっと小刀が使え、木彫りをやる人の方でも、絵のことが分るというわけで、相当の用が足りるので都合が好いといっておりますが、全くそういう便利があって、これは重宝で好いと思うことであります。

 第一期の普通科には、大村西崖(おおむらせいがい)、横山大観(よこやまたいかん)、下村観山(しもむらかんざん)、白井雨山(しらいうざん)、関保之助(せきやすのすけ)、岡本勝元、溝口禎次郎(みぞぐちていじろう)、島田佳矣(よしなり)、本田佑輔、高屋徳太郎の諸氏でありました。専修科になって、絵の方と木彫りの方とへこの生徒は別れて行ったのであります。教師には狩野芳崖(かのうほうがい)(芳崖先生は私が這入った時には、既に故人となっておりました。氏は美術学校の前身が小石川(こいしかわ)の植物園にあって、まだ美術取調所といった時分から這入っていられたので、その時代は彼のフェノロサ氏が日本美術を鼓吹された時代であります)、橋本雅邦(がほう)、川端玉章(かわばたぎょくしょう)、狩野友信(とものぶ)、結城正明(ゆうきまさあき)などいう先生方が絵画の方を受け持たれ、木彫は竹内久一先生、それから私が這入ってその方をやっておった。私は二十二年の五月に本官の辞令を貰いまして教授ということになり、奏任官五等を拝命して、年俸五百円を給されました。




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