幕末維新懐古談
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著者名:高村光雲 

 下谷(したや)西町(にしまち)で相変らずコツコツと自分の仕事を専念にやっている中に、妙なことで計らず少し突飛(とっぴ)な思い附きで余計な仕事を遊び半分にしたことがあります。これも私の思い出の一つとして記憶にあること故、今日(こんにち)はその事を話しましょう。

 その頃(明治十八年の頃)下谷に通称「佐竹原(さたけっぱら)」という大きな原がありました。この原の中へ思い附きで大仏を拵(こしら)えたというはなし……それは八角形の下台ともに高さが四丈八尺あった。奈良の大仏よりは一丈ほど小さいが、鎌倉の大仏よりよほど大きなもの、今日では佐竹の原も跡形(あとかた)なくちょっと今の人には想像もつかないし、無論その大仏の影も形もあることではない。夢のようなはなしではありますが、それがかえってはっきりと思い出されます。
 私の住んでいる西町から佐竹の原へは二丁もない。向う側は仲御徒町(なかおかちまち)で、私の宅からは初めての横町を右に曲り、これを真直に行くと生駒(いこま)屋敷の裏門となる。西町の通りを真直に浅草の方へ向いて行けば左側が七軒町、右が小島町で今の楽山堂病院のある通りとなる。竹町(たけちょう)は佐竹の原が形を変えて市街となったので、それで竹町というのであって、佐竹の屋敷を取り払った跡が佐竹の原です。東南に堀があって、南方は佐竹の表門で、その前が三味線堀(しゃみせんぼり)です。東方が竹町と七軒町の界(さかい)でこの堀が下谷と浅草の界だと思います。七軒町の取っ附きまでが一丁半位、南北は二丁以上、随分佐竹屋敷は広かったものです。それが取り払われて原となってぼうぼうと雑草が生(は)え、地面はでこぼこして、東京の真ん中にこんな大きな野原があるかと思う位、蛇や蛙(かえる)やなどの巣で、人通りも稀(まれ)で、江戸の繁昌(はんじょう)が打(ぶ)ち毀(こわ)されたままで、そうしてまた明治の新しい時代が形にならない間の変な時でありました。

 すると、誰の思い附きであったか。この佐竹の原を利用して、今でいうと一つの遊園地のようなものにしようという考え……それほど大仕掛けではないが、ちょっとした興業地を此所(ここ)へ拵えようと出願したものがあって、原の或る場所へいろいろのものが出来たのであった。まず御定(おきま)りの活惚(かっぽ)れの小屋が掛かる。するとデロレン祭文(さいもん)が出来る(これは浪花節(なにわぶし)の元です)。いずれも葭簀張(よしずば)りの小屋掛け。それから借り馬、打毬場(だきゅうば)、吹き矢、大弓、その他色々な大道商売位のもので、これといって足を止め腰を落ち附けて見る物はないが、一つの下等な遊戯場のような形になって来ました。それで人がぞろぞろと出る。陽気は春に掛かっていてぽかぽか暖かくなって来るし、今まで狐(きつね)狸(たぬき)のいそうな原の中が急にこう賑(にぎ)やかになったのであるから、評判が次第に高くなって、後にはこの原へ通う人で西町の往来は目立つようになって来ました。こうなると、それに伴(つ)れてまた色々な飲食店が出来て来る。粟餅(あわもち)の曲搗(きょくづ)きの隣りには汁粉屋(しるこや)が出来る。吹き矢と並んで煮込みおでん、その前に大福餅、稲荷鮓(いなりずし)、などとごった返して、一盛りその景気は大したものでありました。
 といって別にこれといって落ち附いて、深く見物しようなどというものはない。いわば縁日の本尊のないようなもので、何んというきまりもなく、ただ一時の客を呼んでドンチャンと騒いでいました。

 私は、西町の例の往来の見える仕事場で仕事をしていると、ぞろぞろ前を人が通る。これが皆佐竹の原へ行くのだということ。花時(はなどき)に上野の方へ人出の多いは不思議がないが、昼でも追(お)い剥(は)ぎの出そうな佐竹の原へこんなに人出があるとは妙な時節になったものだと思って仕事をしていたことであった。




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