幕末維新懐古談
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著者名:高村光雲 

 話がずっと後戻(あともど)りしますが、今日は少し別のはなしをしようかと思いますが、どうですか。
 ……では、そのはなしをすることにしましょう。

 実は、先日来、大隈(おおくま)未亡人綾子刀自(あやことじ)が御重体であると新聞紙上で承り、昔、お見知りの人のことで、蔭ながらお案じしていた次第であったが、今朝(大正十二年四月二十九日)の新聞を見ると、お歿(なく)なりになったそうで、まことに御愁傷のことである。

 それにつけて、この頃、綾子刀自の素性(すじょう)のことについて、いろいろ噂(うわさ)を聞いたり、また新聞などで見たりしますと、元、料理屋の女中であったなど、誰々の妾(めかけ)であったなどというようなことが伝えられているが、そういうことは皆間違いで一つも拠処(よりどころ)がない。こういう噂は何処(どこ)から出たものか。察するに綾子刀自が大隈家へ嫁がれた時分は、ちょうど何もかも徳川瓦解(がかい)の後を受けたドサクサの時代で、その頃の政治家という人たちは多くお国侍(くにざむらい)で、東京へ出て仮りの住居(すまい)をしておって、急に地位が高くなり政治家成り金とでもいうような有様で、何んでもヤンチャな世の中……殺風景なことが多く、したがってその配偶者のことなども乱暴無雑作なことがちで、芸妓(げいぎ)、芸人を妻や妾にするとか、女髪結の娘でも縹緻(きりょう)がよければ一足飛びに奥さんにするとかいう風であったから、こういう一体の風習の中へ綾子刀自のことも一緒に巻き込まれて、同じような行き方であったろうなど推測し、右のような噂が今日も伝えられるのであろうかと思われますが、これは全く大間違いであるのです。
 という訳は、その因縁を話しませんと分りませんが、実は、私は、昔、綾子刀自の娘盛りの時代を妙なことで能(よ)く知っている。この事を話せばおのずから綾子刀自の素性が明らかになることで、何時(いつ)か、この事を何かのついでに話して置くか、書き留めて置きたいと思っておったことであったが、今日はちょうどよい折とも思いますから一通り話しましょう。

 幕府瓦解の後は旗下(はたもと)御家人(ごけにん)というような格の家が急に生計(くらし)の方法に困っていろいろ苦労をしたものであった。
 その頃、旧旗下で三枝竜之介(さえぐさりゅうのすけ)という方がありました。この方の屋敷は御徒町にあった。立花家の屋敷を前にした右側(上野の方から)にありました。禄は何程(いかほど)であったか、七、八百石位でもあったか内証豊かな旗下であった。
 この三枝家が私の師匠東雲師の仕事先、俗にいう華客場(とくいば)であったので、師匠は平常(ふだん)当主の竜之介と極(ごく)懇意にしておりました。その中旗下は徳川の扶持を離れ、士族になって、世の中の変るにつれ今までの武家の格式も棄(す)て、町人百姓とも交際(つきあい)をせねばならなくなったので、私の師匠は従前よりも一層親しく三枝家の相談を受けておったことでしたが、三枝家でも世変のためにいろいろ事情もあって、今までの屋敷が不用になったから、それを売りたいというので師匠は相談を受けておった。けれども、他に好い買い手もなかったが、師匠がその屋敷を買い取ることになって、一時、向島(むこうじま)へ預けて置いたが、預かり主が風のよくない人で、預けた材木が段々減って行くような有様なので、師匠は空地(あきち)を見附け、右の三枝家から買い取った家の材木で家作を立てました。この家がすなわち前お話した堀田原の家。師匠の姉のお悦さんの住んでいた家であります。お悦さんは私の養母であって、私も其所(そこ)に寝泊まりをし、後には一家すべてが引き移ったのです。座敷など三枝家の時とそのままで武家風な作りであった。

 当時、竜之介氏も他の旗下衆の人たちと同じように一家の事も充分でなかったと見え、或る日、東雲師の家に来られて、
「東雲さん、私も、どうもこの頃運が悪くて困る。一つ運が好(よ)くなるように、縁喜直(えんぎなお)しに大黒(だいこく)さんを彫ってくれませんか」
という頼み、師匠も尋常(ただ)ならぬ三枝氏の頼みだから、「それは、早速彫りましょう」といって和白檀で二寸四分の小さな大黒さんを彫って上げました。すると、それが大変竜之介氏の気に入ったのでした。というのは、木の木目(きめ)の玉(たま)が、頭巾(ずきん)にも腹のところにも、また、俵の左右の宝球のところにもまるで球(たま)のように旨(うま)く出たのであったので、それが縁喜が好いといって三枝氏が大層よろこんだのでした。
 この木の玉の出るのは、必ずしも偶然ではなく、木取りの仕様で、出そうと思えば出るものです。師匠は特にそういう風に作られたのですが、素人(しろうと)にはそういうことは分らないから、奇瑞(きずい)のようにも思われてよろこんだのでありました。すると、この大黒が出来上がって間もなく、妹御(いもうとご)のお綾さんが、時の大官大隈重信(しげのぶ)という人の処へ貰われて大変に出世をされた。これは東雲師の彫った大黒の御利益(ごりやく)だといって三枝家の親類の人たちは目出たがって、自分たちもあやかりたいものだと、二軒の御親類から、また、大黒を頼まれたが、この方は御利益があったか、私はそこまでは知りません。

 竜之介氏と妹御のお綾さんとの母親になる方は、その頃は未亡人で、頭を丸めてお比丘(びく)さんのように坊さんでしたが、そんなにお婆(ばあ)さんではありませんでした。俗にいう美人型の面長(おもなが)な顔で、品格といい縹緻(きりょう)といい、旗下の奥さんとして恥ずかしからぬ相貌(そうぼう)の方で、なかなか立派な婦人でありました。お綾さんも、母親に似てまことに美しかったが、もちっと丸顔であった。後に歳を老(と)られてからの写真を新聞などで見ても、やはり、その時の悌(おもかげ)がよく残っておって、母人(ははびと)よりも丸い方に私は思ったことだが……それはとにかく、三枝未亡人は、このお綾さんのことを心配されて、よりより師匠へ縁談のことについて相談をしておられました。
 或る時も三枝未亡人が駒形(こまがた)の師匠の宅へ見えられ、娘のことについて師匠に相談をされている。
「……今日では、もはや、武家、町人と区別(けじめ)を立てる時節でもなく、町家でも手堅い家であり、また気立ての好い人物(ひと)ならば、綾を何処(どこ)へでもお世話をお願いしたい。貴君(あなた)は世間が広いから、好い縁があらば、どうか、おたのみします」
など話しておられる(私はまだ小僧時代であるが、店のことや、奥のことも走り使いをしている時のことで、よくその消息を知っている)。それで、師匠もその事について心配をしておられました。

 ここにまた師匠の華客先(とくいさき)で神田和泉橋(いずみばし)に辻屋(つじや)という糸屋がありました。糸屋でこそあれ辻屋は土地の旧家で身代もなかなか確(しっ)かりしたもの、普通の糸屋と異(ちが)って、鎧(よろい)の縅(おどし)の糸、下緒(さげお)など専門にして老舗(しにせ)であった。主人は代々上品な数寄者(すきしゃ)であって、いろいろその頃の名工の作など集められた。それで師匠も辻屋に出入りをしておった訳である。彼の彫金の大先生加納夏雄(かのうなつお)さんが京から江戸へ出た時に草鞋(わらじ)を脱いだ家がこの辻屋ということです。今日でいう美術家とはいろいろ深い縁故のある家であった。
 この辻屋の次男に貨一郎という人があった。神田お玉ヶ他に徳川様のお大工棟梁(とうりょう)をしていた柏木稲葉(かしわぎいなば)という人の養子になって柏木貨一郎と名乗っておった。二十四、五の立派な人品のよい、すこぶる美男子で、少し小柄ではあるが大家の若旦那といって恥ずかしからぬ人でした。この人もまた美術愛好家であって、夏雄さんの彫り物では鏡蓋(かがみぶた)、前金具(まえかなぐ)、煙管(キセル)など沢山に所持しており、また古いものにも精通しておられ、柏木貨一郎というとその頃の数寄者仲間には知られた人で、同氏が所持していたものといえば、それを譲り受けるにも人が安心した位、信用のあった人でありました。
 この柏木氏は今申す通り、大工棟梁の家筋で素(す)の町人ではない。屋敷も門構えで武家住居(すまい)のような立派な構え、したがって資産もあり、男振(おとこぶ)りは美男子というのであるから、私の師匠はこの人に目を附けたのでした。この師匠の見立てが、甚だ適当で、一方お旗下のお嬢様であるお綾さんにはいかにも似合いの縁辺というべきであった。それにお綾さんはまたなかなかの美人であり、武家の家庭のことで教育(しつけ)は充分、生まれつき怜悧(れいり)で、母人はまたよろしい方、今は瓦解をして士族になって、多少は昔の威光が薄くなっているけれども、まだまだ品格は昔のままである。でこの柏木貨一郎さんとお綾さんとを並べると、それこそお雛様(ひなさま)の女夫(みょうと)のような一対の美しい夫婦が出来ると、師匠も家にいてその事を妻君などに話し、どうか、この縁は纏(まと)めて見たいものだ、といっておられました。

 師匠はこの縁談を柏木家へ申し込んだのでありました。これは師匠が辻屋に出入りをしていた関係で柏木家へも出入りする。柏木家の未亡人からも養子に相当な嫁があったら世話してくれと頼まれていたので、ちょうど両方からの依頼で、自然と一対のものが出来たような塩梅(あんばい)になったのですから、師匠もこれは出来ると思った柏木家へ申し込んだのであります。すると、案の条、柏木家でもまことに結構とある。そこで柏木家から改めて師匠を介して三枝家へお綾さんを貰いたいと申し込んだのです。三枝さんでは師匠に一切を任した位に師匠を信じて頼んでいるのであるから、こちらもまた甚だ結構ということで、どうか骨折って纏めてくれという挨拶(あいさつ)である。で、師匠が双方を幾度か往復していよいよ見合いをしようという運びになりました。

 さて、見合いということになりましたが、当時世の中もまだ充分に静謐(せいひつ)になったというではなく明治新政の手の附け初めで、何となく騒々しい時で、前から多少とも物持ちの家でも財産を減らさぬようにと心掛け、万事控え目にした時でありますから、この見合いのことなども双方ともに極(ごく)質素に致すがよろしかろうということで、師匠の宅の坐敷で、双方が落ち合うようにしたらというのであったが、師匠は、どうも、自分宅といっても坐敷というほどの坐敷もなし、柏木家と三枝家との歴とした両方の関係者をお招きするだけのことは出来ませんから、何処か、極(ごく)倹約で、人目に立たない好い場所を考えましょうといって、思い附いたのが諏訪町河岸(すわちょうがし)の「坊主そば」の二階であった。
 このそば屋のことは、前に浅草界隈(かいわい)の名代な店のはなしをした折はなしました通り、主人が聾(つんぼ)であるから「聾そば」ともいってなかなか名の売れた店で並みの二八そばやではない。この二階をその見合いの場所にするということになった。

 当日は無論、私の師匠は双方の仲介者であるから誰を差し措(お)いても出掛けなければなりません。で師匠は羽織など着て出掛けることになったが、そのお伴(とも)は相変らず私である。私はその時分はまだ小僧で、師匠に幸吉々々と可愛がられ重宝がられたもので、使い先のことはもとより、お伴も毎々のことで、辻屋でも、三枝さんでも、また柏木家でも師匠と多少とも関係交渉のあった家は何処でも知っており、また種々(いろいろ)な事件の真相なども大方は心得ておったものでありました。それで、今度もお伴を仰せつかって師匠の後から「坊主そば屋」へお伴をして参ったのでありました。
 かれこれする中(うち)に柏木貨一郎さんが養母とともに見える。三枝のお嬢さんお綾さんには母者人(ははじゃびと)のおびくさんが附いて見えられる。二階で落ち合って蕎麦(そば)を食べて見合いをされた。一方は水の垂(た)るような美男、一方は近所でも美人の評ある旧旗本のお嬢さん、まことに似合いの縹緻人揃(ぞろ)いのことで、どっちに嫌(いや)のあろうはずなく、相談はたちまち整ったのでありました。この時、お綾さんは確か十八で貨一郎さんは二十五位であったと思う。私はお綾さんよりは一つ年下で十七であった。小僧とはいっても最早中(ちゅう)小僧で、今日でいえば中学校の青年位の年輩であるから、記憶などは人間一生の中で一番確かな時分――見合いというものは、どういうことをするものかなど恐らく好奇心もあったか、婿(むこ)さんの貨一郎さんも、お嫁さんの方のお綾さんも、今日でもその美しい似合いの一対であったことがハッキリと記憶に残っております。

 そこでこの縁談は整い、早速仕度をしてお輿入(こしい)れという段になって、目出たく婚儀は整いました。しかるに、これが意外にも不縁となってしまったのでありますが、これにはまた理由があった。……というのは貨一郎さんには養母がある。これは柏木家の未亡人で、すなわちお大工棟梁稲葉という人の後家さんであります。この方が、今日(こんにち)でいえばヒステリーのような工合の人で、なかなかちょっと始末の悪い質(たち)の婦人。まず一種の機嫌かいで、好いとなると火の附くように急(せ)き立て、また悪いとなり、嫌となると前後の分別もなく、纏まったことでも破談にしてしまうという質で、甚だ面倒な人であった。
 こういう性質の人を養母にしていた柏木貨一郎さんは、とてもこの縁は一生添い遂げることは困難(むつか)しかろうと想(おも)われたらしい。元来、この貨一郎という人は考え深い人であったから、今度の縁談については、いろいろ深く考えておったものらしく思われる。これは私の後日に到(いた)っての想像でありますが、どうもそうと解釈される。つまり、貨一郎氏の肚(はら)では、あの養母がいられる間は、いかに発明な婦人を妻としたとても、一家に波が立たずに済もうとも思わず、また添い遂げ得られようとも思われぬ。どうで、添い遂げられぬものなら、一旦、自分の妻となった女であっても、その人へ傷を附けたくない。とこう考えられたものと見える。それで御夫婦の間のことは極(ごく)疎遠であったらしい。夫婦のかための杯(さかずき)はあったが、夫婦の語らいはなかった。で、お綾さんが里へ来て、その事をお母様へお話をしたものらしい。
 三枝未亡人がこの娘の話を聞くと、意外に感じたことは道理(もっとも)なこと。これはまず何より媒酌人(なこうど)の東雲さんに話すが好(よ)かろう。この嫁入り前より何か他に思い込んだ婦人でもあるのではないか。もしそういう事なら今の内引き取った方が双方のために好かろうというので、御母様が来て話されましたので、東雲師もこれは困ったと思ったが、貨一郎氏にも深い考えあってしている心持ちが分ると、夫婦の中へ立ち入って好い工合に纏めることも出来ずそのままになっている中(うち)とうとう柏木未亡人方にも何か都合があって、双方話合いでいよいよ破談となってお綾さんは里へ引き取られることになりました。
 三枝家の方では、婿の貨一郎さんの真意のある所が分りませんから、やはり疑惑を懐(いだ)き、先方の仕打ちを面白く思わないのも道理(もっとも)な次第です。また、柏木貨一郎氏の心の中には種々(いろいろ)辛(つら)いこともあったでありましょう。しかし、当人に傷の附かない中に綺麗(きれい)に還(かえ)すということが、この際何よりのことと最初から思い極(きわ)め、お綾さんのために後々のことを心配し、また自分にも用心をして非常にたしなんでいたものらしいが、そういう深い実情は三枝家の方には分りようもなく、ついに双方の間に意思の疎通を欠いたまま不縁となったことはまことに残念なことでありました。
 私の師匠もこの間に挟(はさ)まって、いろいろ斡旋(あっせん)しましたことはいうまでもないが、何しろ、一方のお袋さんが、嫁を貰う時には貨一郎氏が何んといっても自分先に立って極(き)めてしまい、少し気に向かなければ、なかなか気随者(きずいもの)で、いい張ったとなると、誰が何んといっても我意を張り通すような有様で随分手古摺(てこず)らされたような塩梅(あんばい)でありました。私は小僧のことで直接にはそういう交渉に当ったわけではないが、毎度、これらの要件のことで師匠の意を受けてお使いをしたり、また師匠が妻君に話していること、時々、私に愚痴(ぐち)を洩(も)らされることなどで、この結婚が破れるのであろうということを予想しておりました。後に至っても偶々(たまたま)師匠が当時のことを私に話して、本当に媒酌人をするということは重大な責任のあることを語られましたが、この時の心配苦労の一通りでなかったことが推察されました。

 さて、その後、お綾さんが里へ帰られ、間もなく大隈さんへ貰われることになったのですが、この関係は私は知りません。また、師匠もこの時のことには立ち入っておりませんでした。しかし、或る日三枝未亡人が師匠宅へ見えられてお綾さんのその後のことについて話しておられました。
「……実は、綾のことですが、今度お国のお侍で大隈という人から是非慾(ほ)しいというので、遣わすことに承諾しましたのですが、まるで娘を掠奪(さら)われるような工合で、私も実に驚きました」
と、愚痴交じりにいっておられた所を見ると、未亡人も承諾はしたものの、先方の行方(やりかた)が乱暴なので迷惑に感じたような口裏であった。
 これは一方は直参(じきさん)のお旗下で、とにかく、お上品で三指式(みつゆびしき)に行こうというところへ、一方は西国大名の中でも荒い評判の鍋島(なべしま)藩中のお国侍、大隈八太郎といって非常な論客で政治に熱狂していた志士の一人。その時は既に大官を得て出世しているとはいえ、万事が粗野放胆で婚儀のことなど礼節にかかわらず、妻を娶(めと)るは品物のやり取り位に思っていたであろうから、お品の好い御殿風な三枝未亡人を驚かしたも無理ならぬことと思われます。何んでも人力車(じんりきしゃ)に書生(しょせい)をつけてよこして、花嫁御寮(ごりょう)を乗せて、さっさと伴(つ)れて行ったりしては、お袋さんも娘の出世はよろこんでも、愚痴の一つもいいたくなって、東雲師の宅へ出掛けてお出(い)でになったものと見えます。
 東雲師は、黙って話しを聴(き)いておられたが、
「なるほど、しかし、そりゃ仕方がありませんよ。東京の方と、田舎(いなか)の人とでは、どうも……」
など挨拶をしている。
「でもねえ、何んだか、私は不安心ですよ。綾が取って食べられそうな人なんで……」
「いや、御隠居様。今の世の中は、そういう男が役に立つのでございますよ。御安心なさいまし」
 師匠は高声で、笑い声も交じって奥で話していられる。私は店にいて、聞くともなくそんな話しを聞いて、あの御婦人も今度田舎のお武士(さむらい)へお片附きになったかと思ったことでありました。

 その後、幾日かを経て、三枝未亡人はまた東雲師宅へ参られ、申すには、東雲さん、今日は妙なことをちょっとお願いしたいので参りましたが、実はこれを貴君(あなた)に始末して頂こうと思って持って参じましたといって風呂敷包(ふろしきづつ)みを解かれると、中に絹の服紗(ふくさ)に包んだものが米ならば一升五合もあろうかと思うほどの嵩(かさ)になっている。それを拡(ひろ)げると、中から出たものが無数の紙片の束であった。
「これは綾子が宅におります時分、長い間掛かって丹精して書きためたものですが、仕舞って置くにしても置き所もなし、焼いて棄てるにしては勿体(もったい)なし。貴君は仏師のことで、こういうものの始末はよく御存じと思いますので、何んとか好い方法で始末をなすって下さい」
との事。
 師匠は何んであるかと、その物を見ると、それらの紙片は短冊(たんざく)なりに切った長さ三寸巾六、七分位の薄様美濃(みの)に一枚々々南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の御名号(おんみょうごう)が書いてある。それが一束々々になっているが、一束が千枚あるか、二千枚あるか、実に非常な数である。
「どうもこれは驚きました。これをお嬢様がお書きになったのでございますか」
「さようで……」
「何か御心願でもあってこんなに御丹精をなされたのでございますか」
「さあ、どうで御座いますか。あの娘の心持は私には分りませんが、何んでも毎日の勤行(ごんぎょう)のようにして、幾年か掛かって書きためたのですが、一心の籠(こも)ったもの故、こうして置くのは勿体なく……」
「なるほど、宣(よろ)しゅうございます。では、これは隅田川(すみだがわ)で川施餓鬼(かわせがき)のある時に川へ流すことに致しましょう。焼いて棄てるは勿体ない。このまま仏間になど置きましてもよろしいが、それより川へ流せば一番綺麗でよろしゅうございましょう」
「では、どうか、よろしく……」
というような談話(はなし)をして、三枝未亡人は帰られました。

 それから、その年の夏に隅田川で川施餓鬼のあった日、師匠は私を呼んで、これを吾妻橋(あずまばし)から流すようにといいつかりました。
 で、弟(おとうと)弟子の小沢松五郎を伴(つ)れ(上野戦争のはなしの条(くだり)にて、半さんの家へ私と一緒に参った小僧)、小風呂敷に包んだものを持って吾妻橋へ行きました。川施餓鬼の船がテンテンテンテンと囃(はや)して卒塔婆(そとば)を積んで橋下を抜けて行くのを見掛け、私と松五郎と南無阿弥陀仏の名号の書いてある紙片を一枚々々水面へ向けて流し出しました。妙なもので、どうもこういう風に一枚々々丹念に名号が書かれてある短冊ですから、それを束なりに川の中へ抛(ほう)り込むわけには行かない。流すという心持になりますと、やはり一枚々々と我が手から離れて風がひらひらと持って行って水に流れて行くのでないと流した心になりませんから、私たちは丁寧に一枚々々とめくっては流したことですが、何しろ、無数の紙片のこと故、二、三時間も掛かってやっと流してしまいました。
 私は、その時は別に何んとも深く考えもしはしませんでしたが、後年、その時のことを想い出して信神(しんじん)も信神であるが、これだけのことを倦(あ)きず撓(たわ)まず、毎日々々やり透すということは普通のものに出来ることではない。噂(うわさ)に聞けば大隈夫人綾子という人は、大層よく出来た人だとの評判であるが、なるほど、娘時代からあれだけの辛抱をして心を錬(ね)っておられただけあって、今日天下一、二といわれる政治家の夫人となってもやはりその妻としての役儀を立派に仕終(しおお)せるというは、心掛けがまた別なものであるかと感心したことでありました。

 私が綾子刀自について知っている因縁ばなしというのはこれだけのことで、そのほか何もありません。
 けれども、私は、刀自が初縁の際の見合いに仲介人の師匠のお伴までしてその席を実見したほど、その時代のことを能(よ)く知っており、正銘(しょうみょう)疑いなしの話である。よって、私は、この奇妙な話はまことに不思議ともいうべきであるから、何時(いつ)かは何かに書き残して置きたいとも思っていたのですが、ここにそれを差し控え、今日まで、かつて口外したこともなく、これだけの話をそのまま黙っておったのは、綾子刀自が大隈家へ方附(かたづ)かれたのが、初縁でないのであるから、もし、ひょっとそういうことを私の口から口外しては、と遠慮を致したわけでありました。もっとも、大隈家へ再縁されたと申しても、事情は前申す通りの訳で、一向処女というに変りはないことで、刀自の身上に何ら潔白を傷つける次第でもありませんが、御当人、およびその御良人(ごりょうじん)の存生中は善悪ともに他人のとかくをいうべきはずもないことと、実は口を緘(かん)しておったわけであります。
 が、今日はもはや、御両方(おふたかた)とも黄泉(こうせん)の客となられた場合、私がこのはなしをしたとて、さして差(さ)し閊(つか)えもないことかと思うばかりでなく、かえってこのはなしは、刀自の素性について世間の噂が全く間違って、飛んでもない悪名をつけるような有様になって、女中であるとか、芸妓をしていたとか、甚だしきは他人(ひと)のおめかけであったなど取りとめもつかぬ噂を立てるのを耳にもし、また目にもするにつけ、昔は旧お旗下の令嬢にて、立派に輿入(こしい)れをされ、また清く元の身のままにて里へ帰され、そうして、また立派に大隈家へ貰われてお出(い)でになった当時の事実を、知りながら黙っているより、今日を好機会として、この昔ばなしの中にはなして置くことは、間違いを矯(ただ)し、偽(うそ)を取り消すよすがともなろうと存じてかくは話をしたような訳であります。
 なお、因(ちな)みに、彼の柏木貨一郎氏は、後年、確か、某家の飛鳥山(あすかやま)の別荘へお茶の会に招かれての帰り途(みち)、鉄道のレエルに下駄の歯を取られ、あっという間に汽車が来て、無惨の最後を遂げられました。
 これは明治三十一年九月の事と記憶しています。

 また、三枝竜之介という方は、先年、私が、一、二度大隈邸へ招かれ参ったことのあった時、お玄関で一人の老人にお目に掛かったが、その方が竜之介氏であったことを記憶しております。




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