幕末維新懐古談
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著者名:高村光雲 

 当日は会の発表祝賀会を兼ねて製作展覧を催したのでありました。
 展覧の方は今日のように硝子箱(ガラスばこ)に製品を陳列するなどの準備などは無論なく、無雑作なやり方ではあったが、牙彫(げちょう)の製品はかなり出品があって賑やかであった。木彫の方は私は都合が悪くて出品しませんでしたが、林美雲が一点だけ牙彫の中に混って出品しました。
 発会式は非常な景気で諸万からお遣い物などが来て盛大を極め、会合するもの三百人以上で予期以上の成功であった。
 それに井生村楼の女将(おかみ)が同会に大変肩を入れ、楼の全部の席を同会のために提供してくれ、しかも席料なども安くしてくれ、非常に同情的に暗(あん)に後援してくれたのでいろいろ都合がよく、会員一同も女将の好意を感謝したことであった。
 会は充分の成功をもって終りました。
 本会の成立について、特に尽力をされた人々は旭玉山、石川光明、島村俊明、金田兼次郎、塩田真、前田健次郎、大森惟中、平山英造の諸氏で、事務所は仮りに玉山先生の自宅に置き、当分同氏が事務を扱ってくれました。そして井生村でこの会は二、三回催されました。

 こういう風に東京彫工会の成立が予期以上に盛大でありましたので、形勢全く一変し、東京の彫刻界を風靡(ふうび)するという有様で、会員は渦を巻いて集まって来て、三百人以上と称されました。
 そうなると、今度は谷中派の方からかえって和解を申し込んで来たりして、両派に関係のあった人たちを介して会員になりたいなど続々申し納(い)れがあったりしました。彫工会の方はもとより心から谷中派を敵視しているわけでないから、そういう要求は快く容(い)れましたので、谷中側の人も大分入会したような訳でした。
 先生側の人々が反抗態度を手強(てごわ)くし、歩調を揃(そろ)えて熱心に行動を取ったためにかえって好結果を来たしたような訳で、したがって両派の軋轢(あつれき)も穏便に済んだのでした。もっとも初めから喧嘩をしたわけではない。暗闘的ないさかいはあったが、見ともなく喧嘩するようなことはなくて終ったのであった。
 それで府の勧業課の掛かりの人たちもよろこび、中に彫刻熱心の人たちが賛助会員になったりしました。
 既に彫工会も充分成立の基礎が認められたので、学芸員と一般会員の多数で二十一年上野の美術協会陳列館で第一回彫刻競技会を開き一般の観覧を許しました。これが彫工会の競技会の初まりです。こうなるといよいよ会頭がなくてはならないので、最初の会頭に渡辺洪基(わたなべこうき)氏を撰みました。同氏は永く会のために尽力されました。途中死去され、没後は榎本武揚氏。氏が没して後は土方久元(ひじかたひさもと)氏。それから現在の会頭は平山成信(ひらやまなりのぶ)氏で、井生村で発会以来今日までおよそ四十余年の間継続されております。

 右の如く東京彫工会は、彫刻会の先駆であった日本美術協会に次いでの古い会でありますが、当初美術協会の存在しているのにかかわらず、この会の出来たのは、美術協会に対して不平があって分派したとか独立したとかいう訳ではなくして、前述の通りの行きさつから勢いとして生じたものでありますが、この彫工会の方は全く彫刻専門であった。後日に到(いた)って彫刻の世界のものは種々包含されて、木の部に竹彫が入って木竹部となりました。牙彫の方は牙角介甲部となりその他種々部が出来て、今では十何部となってすべてを網羅(もうら)したのであるが、最初は牙彫だけで、木彫は一両人であったのです。
 かくの如く、種々網羅されるにつけて、会の性質が美術協会に似て来ましたが、しかし協会の方は絵画が中堅となっており、蒔絵、織物、刺繍(ししゅう)、写真など工芸的に一層範囲が広く、彫工会の彫刻と限られたのとはもっと広大なものになりました。そうして彫工会の方でも、金工部は金工会など独立して会を成立しますし、また協会の方でも蒔絵の方では漆工会などが独立して、種々雑多な会が現われて来ました。
 要するに、東京彫工会もまた当時美術界に貢献することの多かったことは美術協会に次いでの功績であったことと思います。
 同会は現在の会員数は八百名以上であります。




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