幕末維新懐古談
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著者名:高村光雲 

 そこで、この会名の相談になったのでありますが、牙彫家(げちょうか)の集団の会であるから、牙彫の「牙(げ)」という文字を入れるか、入れないかという間題になった。
 無論牙彫の人たちばかりのこと故、「牙」を入れるが当然であるが、しかし、御相談を受けて私もその席上にあってこの話を聴(き)いていたことであったが、元来、私は牙彫師でないのにかかわらず、この会合の仲間に這入(はい)って来ているので、或る人などは、高村は畠違いへ踏み込んで来て牙彫の土を持っているなど悪口をいっていることも私は薄々(うすうす)耳にしている所である。けれど、私の考えとしては、彫刻界の発達進歩の事に骨を折る会合であると思ってこの会に仲間入りしているのでありますからして、彫刻という大きい意味の世界のことについての利害得失に関しては、充分に自己の考えをも申し述べるつもりで、真面目(まじめ)に審議の是非について考えていた所でありました。
 で、右の会名の問題となって「牙(げ)」の文字を入れる入れないとなって、そうして、入れるが当然という話になると、私は一応自分の考えを述べる必要を感じたのであった。
「私の考えを申しますが、「牙(げ)」を表わすことになると「木(き)」をも表わしてもらいたいと私は思います」
 こういう意味で述べました。
 つまり、私の考えは、今日の審議する所は、単に牙彫と限られた会の名を附ける主意のものでなくして、日本の彫刻家の集合でもっと広義な意味のものであると思うのであったわけであります。
 すると、或る人は、
「なるほど、お考えは一応御尤(ごもっとも)と存じますが、しかし木の方は幾人ありますか」
という質問をされました。
「幾人あるかとお質問(たず)ねに対しては、只今の所差し当り私一人で、弟子に林美雲(はやしびうん)というものがある位のもので、何んともお答えのしようもありませんが、しかし、今日、私一人であっても、何時(いつ)までも一人や二人という訳はありますまい。他日、幾人に殖(ふ)えて来るかも分りません。木彫りの方がもし殖えた場合「牙」の字を表わした会名では如何(いかが)かと思われます。で、牙は牙、木は木とその部によって部を作る時が来ることでありましょうが、その時には自(おのず)から部長というものが必要だろうと思います。会名は牙を表わし、また木を表わす必要はない。牙も木もすべてを総括した彫刻の意を全体にいい表わす会名が命(つ)けられるならば、それは甚だ結構と思います。私は木の方であって、当席に連なっておりますのですが、既に列席を致している以上、右の主意は申し上げて置きたいのであります」
という意味のことを申し述べた。
「只今、木の方の部長ということを申されたが、木の方はどういうことになりますか」
 またこういう質問が出ました。
「只今も申す如く木は私一人であるから、部長も何もあり得ることではないが、段々殖えると見るべきが至当であって、入れ物だけは今日この会の成立に際して拵えて置くが順序でないかと思います。木の人員が私一人でも、既に一人はあるのである。他に今一人あるから両人(ふたり)は既にあるのである。今日の場合は部長を欠くということにして、他日殖えた場合に部長を置いたらよろしかろうと思います」
と意見を述べた。
 私のこの主張は大体において人々の了解を得ました。また了解を得られたことは至当のことであったと思います。そこで、大森、塩田、前田などの学者側の人と相談をして「東京彫工会」と命名したのでありました。
 内部の献立(こんだて)が悉皆(すっかり)出来上がり、会名が附いたので届(とどけ)を出し、許可になったので、その年の秋すなわち明治十九年十一月向(むこう)両国の貸席井生村楼(いぶむらろう)で発会することになった。




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