幕末維新懐古談
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著者名:高村光雲 

 この時代のことで、おもしろい話がある。これは神仏混淆の例証ではありませんが、やはり神仏区別のお布令(ふれ)からして仏様側が手酷(てきび)しくやられた余波から起った事柄であります。
 本所(ほんじょ)の五ツ目に天恩山羅漢寺(らかんじ)というお寺がありました。その地内(じない)に蠑螺堂(さざえどう)という有名な御堂がありました。形は細く高い堂で、ちょうど蠑螺の穀(から)のようにぐるぐると廻って昇り降りが出来るような仕掛けに出来ており、三層位になっていて大層能(よ)く出来た堂であった。もし今日これが残っておれば建築家の参考となったであろう。堂の中には百観音が祭ってあった。上(のぼ)り下(くだ)りに五十体ずつ並んで、それはまことに美事(みごと)なもので、当寺の五百羅漢と並んで有名であります。
 この百観音は、羅漢寺建立(こんりゅう)当時から、多くの信仰者が、親の冥福(めいふく)を祈るためとか、愛児の死の追善(ついぜん)のためとか、いろいろ仏匠をもっての関係から寄進したものであって、いずれも中流以上の生活をしている人々の手から信仰的に成り立ったものであります。それで、各自(てんで)にその寄進の観音をば出来得るだけ旨(うま)く上手に製作(こしら)えてもらおうというので、当時、江戸では誰、何処(どこ)では誰と、その時々の名人上手といわれている仏師に依頼して彫らしたもので、それが一堂に配列されることであるから、自然と自分の寄進したものが、他より優(すぐ)れているようにと、一種の競争心を生じ、一層このことに熱心になるという傾向(かたむき)を為(な)します。一方依嘱された仏師の方でも、各名人たちの製作が並んで公衆の面前に開展されることでありますから、これも腕によりをかけるという風、伎倆(ぎりょう)一杯に丹精を擬らし、報酬の多寡などは眼中に置かないという有様となる。そして、その寄進された観音には京都の仏師もある。奈良の仏師もある。江戸の仏師が多分を占めてはおりますが、いずれも腕揃(うでぞろ)いであって、凡作は稀(まれ)で、なかなか結構でありました。
 そして、その中には、五百羅漢を彫った当羅漢寺の創建者である松雲元慶(げんけい)禅師の観音もありましたこと故、私の修業時代は、本所の五ツ目の五百羅漢寺といえば、東京方面における唯一(ゆいつ)の修業場であって、好い参考仏が一纏(ひとまと)まりになって集まっているのでした。もっとも、五百羅漢、百観音は、いずれも元禄以降の作であって、古代な彫刻を研究するには不適当であったが、とにかく、その時代の名匠良工の作風によって、いろいろと見学の功を積むには、江戸では此寺(これ)に越した場所はありませんでした。
 それで、私などは、朝から、握り飯を持って、テクテク歩きでこの羅漢寺へやって来て、種々(いろいろ)と研究をしたものであります。日が暮れると、またテクテクとやって家へ帰る。他に便利な乗り物がないから、弟子も師匠も、小僧も旦那(だんな)も、それだけは一切平等でありました。

 右の如く、羅漢寺は名刹(めいさつ)でありましたが、多年の風霜のために、大破損を致している。さりながら、時代は前に述べた通り、仏さまに対しては手酷(てきび)しくやられたものであるから、さながらに仏法地に堕(お)つるという感がありました。で、このお寺を維持保存するなどは容易のことではない。部分的にちょっとした修繕をするということさえむずかしい。彼の百観音を納めてある蠑螺堂のある場所を、神葬祭場にするという評判さえあって、この霊場の運命も段々心細くなるばかり……その中、とうとう蠑螺堂は取り毀(つぶ)すことになって、壊(こわ)し屋に売ってしまいました。
 ところが、この売るということが、お話しのほかで、買い手もないといった頃、その頃の堂々たる大名、旗本の家屋敷、あるいは豪商大家の寮とか別荘とかいうものでも、いざ、売り払うとなると二束三文、貰ってもしようがないと貰い手もない時節であるから、この蠑螺堂を、壊し屋が買った値段も想像されます。とにかく、その建築物の骨をば商売人が買ったが、その中に百観音が納まっている、さあ、この観音様の処分をどうしましたか。これが涙の出るようなことでありました。




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