幕末維新懐古談
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著者名:高村光雲 

 さて、これから後(あと)の始末をつける段となるのでありますが、急に師匠に逝(ゆ)かれては、どうして好いか方角も付きません。しかし相更(あいかわ)らず仕事だけはやらねばならぬから、まずこの方のことを引き締めて掛かることにしました。
 ここでちょっと思い出しましたが妙なお話がある。それは師匠が生前丹精して寛永通宝の中から、俗に「耳白(みみしろ)」という文銭を選(よ)り出しては箱に入れて集めておられ、それが貯(たま)り貯りして大変な量(かさ)になっていたのを、蔵の中にある穴蔵の中へ入れてありました。それを奥の人たちが師匠歿後(ぼつご)早々取り出し調べて見ると、勘算してちょうど五十円ほどありました。一文銭の五十円ですから、随分大した量、ちょっとどうするにも困るようなわけでありましたが、ちょうど彼(か)の亀岡氏から用立てて頂いた葬式費用の五十円という借用の方へ、亀岡氏の望みでその文銭五十円でお払いを済ましたようなことがありました。亀岡氏は、師匠生前永(なが)の歳月を丹精して集められたもの故、自分はこれを神仏へのお賽銭(さいせん)に使用するつもりである。師匠の供養ともなるであろうと申されていたのを聞いて、私は涙ぐましく思ったことがありました。
 師匠の仮初(かりそめ)の楽しみが、偶然葬式の料となったことなども考えて見れば妙なことと思われます。

 また或る日のこと、亀岡氏は私に向い、
「師匠没後の高村家の一切は、君が当面に立ってやってもらわねばならぬ。この事も未亡人にも私から話してあるから、そのつもりで万事を遠慮なくやってくれるよう。政吉はあの通りの人であるから、決して当てにせぬように」
との事であった。そして亀岡氏は高村家のために或る組織の下に店の業務を取り計らおうなどいわれたこともあったが、そういうことは私などもまだ智識が足らぬ時分で能(よ)く分りもせず、そのことはそれ切りで実現はしませんでした。そして私は寿町(ことぶきちょう)の宅から(堀田原から寿町へ転居)毎日通い、仕事の方のことをやっておったのでありますが、いかに私が表面に立って師匠没後の仕事を取り扱う責任を持つとはいえ、私は一個の手間取りでありますから、高村家の後事(こうじ)について一家の内事にまで指図(さしず)をするというわけには参らず、甚だ工合の悪い立場に立ったのであった。

 それで、私はまず専念仕事の方のことを処理するが何よりと、従来よりも一層仕事の上に忠実を尽くし、すべての注文の上に手一杯念入りにして、東雲師没後の彫刻に一層好評を得るよう心掛けました。これは、店の寂(さび)れることを用心するには、注文の品を手堅く念入りにして、一層華客場(とくいば)の信用を高めることが何よりと感じたからであった。しかるに、私の考えと、政吉の考えとは、どうも一致いたしませんで、政吉はまず差し当りの儲(もう)けを見て行くという意見で、たとえば私が下職の方の塗師(ぬし)の上手(じょうず)の方へやろうというのでも、政吉は安手の方の塗師重(ぬしじゅう)で済まして、手間を省こうという遣り口。しかし昼間はすべて私が積りをして、これこれの目算を立て、政吉に一応相談をすると、それが好いだろうと同意している。私はその手順にして夜分家に帰ると、夜になって、政吉は、未亡人に向い、
「幸吉はこれこれと積っているが、あれでは儲けが薄い。素人(しろうと)の客に馬鹿念を入れてやって見たってしようがない。塗りのことなんぞ素人に分るもんじゃない」
などいう風に自分の意見を吹き込むので、度重(たびかさ)なれば、未亡人は利溌(りはつ)な人であっても、やっぱりその気になって、政吉の意見に従おうとする。それに政吉は当時師匠の没後ずっと師宅に寝泊まりをしていて、遠慮のない男で、夜になると、酒を火鉢(ひばち)で燗(かん)をしてのむなど甚だ不行儀で、そのくせ、必要な客との応対などは尻込みをして姿を隠すなど、なかなか奇癖のある人物で、私とはどうも性(しょう)が合いかねました。
 まず右のような行きさつで、私が一つこの際踏ン張るとすると、勢い兄弟子を下ッ取りにしなければならぬ。それも嫌(いや)なり。何ともつかずやれば成績は上がらず、かえって邪魔をされ、邪魔されて師匠の没後の家のためにならぬにかかわらず、のんべんだらりで附いているはさらに嫌なり。亀岡氏に話してこの成り行きを詳しくすれば、これまた自然同氏から未亡人へ小言(こごと)が行くことになる。何か物をいいつけるような形になってこれまた私の性として好まぬところ、あれやこれやにてどうも面白からず思いましたので、これはこの辺にて、もはや見切りを附けるところか。今日(こんにち)まで独立を思い立っても、義理にからまれ、それも思うに任せなんだが、もはや年(ねん)が明けて六年の歳月をいささか師匠にも尽くしたと思うこともあるによって、今日、この場合、自分が身を引いたとあっても道にはずれたことでもあるまい。どうやら、自分の独立する時機が自然と来たのかも知れぬ。また、一方から考えると、自分というものが師匠没後の事に当っていればこそ、政吉も当面に立って充分に働きを見せぬが、自分が身を引けば、彼は立って働くに相違ない。自分が未亡人と政吉と頭の上に二人人間があって仕事のしにくいと同じように、政吉とても、自分があっては、やっぱり同様の感があるであろう。これは政吉を表面に立たせて働かすこそかえって目下(もっか)のためであろう。――こう私は考えました。
 この事は誰にも相談したのではなく、自分でかく決心して身を退(ひ)く覚悟をきめたのでありましたが、さりながら、足元から鳥の立つよう、今日からお暇を頂くというのも余りいい出しにくく、月に半月ずつの暇を貰いたいことを申し出ました。すると、未亡人は、では、そうしてもらいましょうと、別に私を引き止めもしませんから、なるほど、これなれば身を引くにもかえって好都合と、それから十日のものが七日、五日と段々足が遠のくにつれて、こちらはますます入れ子の人間となり、政吉は、果して、まず立派に店のことをやって行くようになりましたから、今は、もう、すべてを政吉に譲るべきであると思い、清く私の身を引いたことでありました。
 政吉は後年ずっと師匠没後の家におり、その二階で病死したのでありました。

 さて私のその後のことについては、ここで初めて師匠の家を離れ、独立することになるのであるから、私の境遇はまた一段と形が変って来るわけであります。
 私は、その頃は、堀田原の家を移って森下へ抜ける寿町へ一軒の家を借り其所(そこ)におりました。堀田原の家は師匠在生中、蔵前に移ったにつき、同所は火堅(ひがた)い所故(ゆえ)、別段立ち退(の)き用心の家も不必要の所から堀田原の家は売られましたので、私は寿町へ転じました。
 堀田原の家で私の総領娘咲子(さくこ)が生まれました。それは明治十年九月五日であった。
 寿町時代は翌十一年頃のこと。それから浅草小島町へ、次は下谷(したや)西町(にしまち)に移りました。
 師匠没後養母お悦さんは心細いことと思い私は出来るだけ気を附けておりましたが、明治三十二年八月十九日、七十九歳の長命でおきせさんの家で没しました。




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