幕末維新懐古談
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著者名:高村光雲 

 堀田原から従前通り私は相更(あいかわ)らず師匠の家へ通っている。すると、明治十年の四月に、我邦(わがくに)で初めての内国勧業博覧会が開催されることになるという。ところが、その博覧会というものが、まだ一般その頃の社会に何んのことかサッパリ様子が分らない。実にそれはおかしいほど分らんのである。今日(こんにち)ではまたおかしい位に知れ渡っているのであるが、当時はさらに何んのことか意味が分らん。それで政府の方からは掛かりの人たちが勧誘に出て、諸商店、工人などの家々へ行って、博覧会というものの趣意などを説き、また出品の順序手続きといったようなものを詳しく世話をして、分らんことは面倒を厭(いと)わず、説明もすれば勧誘もするという風に、なかなか世話を焼いて廻ったものであった。
 当時、政府の当路の人たちは夙(つと)に海外の文明を視察して来ておって、博覧会などの智識も充分研究して来られたものであったが、それらは当局者のほんの少数の人たちだけで、一般人民の智識は、そういうことは一切知らない。その見聞智識の懸隔は官民の上では大層な差があって、今日ではちょっと想像のほかであるような次第のものであった。
 右の通りの訳故(ゆえ)、博覧会開催で、出品勧誘を受けても、どうも面倒臭いようで、困ったものだという有様でありました。ところが師匠東雲師も美術部の方へ何か出すようにという催促を受けました。師匠も博覧会がいかなるものであるか、一向分っておりません。それでどんなものを出して好いかというと、彫刻師の職掌のものなら、何んでもよろしい出してよい。従来製作しておるものと同じものでよろしいという。それではというので師匠は白衣(びゃくえ)観音を出品することにしたのでありますが、そこで師匠が私に向い、今度の博覧会で白衣観音を出すことにしたから、これは幸吉お前が引き受けてやってくれ、他の彫刻師たちもそれぞれ出品することであろうから、一生懸命にやってくれということでありました。
 私はこうした晴れの場所へ出すものだということだからなかなか気が張ります。師匠の言葉もあることで、腕限りやるつもりで引き受けて、いよいよその製作に取り掛かったのであった。

 その白衣観音は今日から考えても別段目先の変ったものではなく、従来の型の如く観音は置き物にするように製作(こしら)えましたが、厨子(ずし)などは六角形塗り箔で、六方へ瓔珞(ようらく)を下げて、押し出しはなかなか立派であった。それでその売価はというと、これが不思議な位のことで、観音は大きさが一尺で、材は白檀(びゃくだん)、充分に手間をかけた念入りの作。厨子はこれまた腕一杯に作ってある。それで売価七十円というのであった。今日では箱だけ樅(もみ)で拵(こしら)えてもそれ位の代価は掛かるかも分りませんが、何しろ一ヶ月その仕事に掛かり切っていても、手間は七円五十銭という時代であるから、自然そういう売価が附けられたことと思われます。とにかくお話しにならぬほど安いものでありました。
 さて、博覧会は立派に上野で開会されました。博覧会がどんなものかということを一切知らなかったその頃の社会では多大の驚きであったことですが、これらのことについての話はまた他日に譲るとしまして、とにかく、博覧会も滞りなく半ば過ぎた頃、或る日、当会から師匠の許へ呼び出しが来ました。それは何時(いつ)何日(いつか)に出陳の品に賞が附いて、その賞牌の授与式があるのだということです。しかし、師匠、私なども、賞が附くというようなことを一向知らぬ。ただ、拵えたものを出して置いただけのものであったが、師匠は呼び出しが来たので、当日は袴羽織で(師匠の家の紋は三(み)ツ柏(がしわ)であった)上野の会場へ出掛けて行きました。授与式がどういう有様であったかは私は知る由もないが、受けた賞牌は竜紋(りゅうもん)賞であった。ところが、またその竜紋賞が好いのか悪いのかも師匠は知らない。くれるものを貰って来たという有様であった。

 当日は、私は何かの都合であったか堀田原(ほったわら)の家に休んでおりました。日暮れ少し前頃に、私の家の表の這入(はい)り口に地主の岡田というのがあって、その次男が私の宅へ飛び込んで来て、突如(だしぬけ)に、
「高村さん、あなたはえらいことをやったね」
と頓狂(とんきょう)な声でいいますので、私はびっくりして、
「何を私がやったんです……」
と訳が分らんからいいますと、
「何をやったって、大したことをやったじゃありませんか。君の観音は竜紋賞を得たのですよ」
「そうですか。その竜紋賞というのはどういう賞なのですね」
など、私はさすがに自分のことの話であるから聞いたりする。岡田の次男は予(かね)てから、隣りずからのことで、私が白衣観音を製作していたことなどを知っており、師匠の代をやっていた種を知っていることだから、私の手柄のように褒(ほ)めそやしている。そして、今日の新聞に(今の号外のようなもの)その事が載っているが、賞牌の一番が竜紋賞で、二番目が鳳紋(ほうもん)賞、三番目が花紋(かもん)賞というのです。君の観音は一番の賞牌ですよ、など物語る。私は岡田のいうことばかりでは信がおけないから、やがて蔵前へ出掛けて行くと、師匠は帰っておられた。
「今日(こんにち)、賞牌をお貰いなすったそうですね」
 私が訊(き)きますと、
「ふむ。竜紋賞というのを貰って来た。竜紋というのが一番好いのだそうだ」
と、師匠はいっていられるが、別段その事については気にも留めておられぬような様子であるから、私もそれ切りで家へ帰って来ました。
 翌日、私は師匠の家で、例(いつも)の通り仕事をしている。その時分は仕事場は店でなく、二階が仕事場になっていて、表二階の方が私、奥二階が兄弟子の政吉の仕事場になっておって、皆々仕事をしていると、表通りをその頃の『読売』が声高々と読んで通るのを聞くともなく聞くと、「当所蔵前にて、高村東雲の作白衣観音が勧業博覧会において竜紋賞を得たり」と大声で読んでおりますので、一同はそれに耳を澄ますというようなわけでありました。それに師匠の家の隣家遠州屋という外療(げりょう)道具商でも外療器械を出品し、それが鳳紋賞を得たので、一町内から二軒並んで名誉のことだと、町内を行きつ戻りつ『読売』は読んで歩いては、師匠の家の前では特に立ち留まってやっております。その頃は事件のあった時には善悪ともにその当事者の家の前で特に声を張ってやったもので、蔵前では例の高橋お伝(でん)の事件などやかましかったものですが、これはまず名誉のことだというので騒ぎましたから、自然、そういうことが町内の人々、また一般にも噂(うわさ)高くなりましたのでした。
 十年の博覧会も目出たく閉会になりましたが、最初博覧会というものが何んのことであるか一切分らなかった市民一般も、これで、まず博覧会のどんなものかを知りましたと同時に、また出品人の中でも、訳が分らなくなって、面倒がったり、困ったりしたものも、大きに了解を得、「なるほど、博覧会というものは、好い工合のものだ」など大いに讃辞を呈するというような結果を生じました。というのは、当時、政府もいろいろ意を用いたものと見えて、政府から出品者に対して補助があったのでした。七十円の売価のものに対しては約三分の一位の補助金が出た上、閉会後、入場料総計算の剰余金を出品人に割り戻したので、出品高に応じて十円か十五円位を各自(てんで)に下げ渡しました。
 こんなことで、まず博覧会の評判もよろしく、そういうことなら、もっと高価なものを出品すればよかった。自家(うち)のものは余り安過ぎたなど、私の師匠なども後で申された位でありました。万事こんな訳で、十年の博覧会も一段落ついたことでありました。
 それから、今の出品の白衣観音でありますが、それは、開会当時はそのままであったが、閉会後間もなく横浜商人の西洋人が師匠の宅へ右の観音を買いに来て、定価七十円で話がきまり、或る日師匠がそれを持って横浜の商館へ行かれましたが、この時はちょうど東京横浜間の汽車が開通して早々のことで、師匠は初めて汽車に乗ったので、帰って来られてから、「どうも汽車ってものは恐ろしく迅(はや)いものだ。まるで飛ぶようだ。電信柱はとんで来るように見え、砂利(じゃり)は縞(しま)に見える」など胆(きも)をつぶして話されました。




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