幕末維新懐古談
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著者名:高村光雲 

 とかくする中(うち)、ここに降って湧(わ)いたような事件が起りました。
 明治六年に寅歳(とらどし)の男が徴兵に取られた。それはそれ切りのことと思って念頭にもなかった。その当時の社会一般に人民が政治ということに意を留めなかった証拠で、こういう事柄に関する世の中のことは一向分らぬ。もっとも徴兵令はその以前に発布されて新しい規則が布(し)かれていたのであろうが、新聞といっても『読売(よみうり)』が半紙位のものであるかないかというような時代、徴兵適齢が頭の上に来ていることに私は気が附かなかった。
 ところが、明治七年の九月に突然今年は子歳(ねどし)のものを徴集(と)るのだといって、扱所といったと思う、今日の区役所のようなものが町内々々にあって、其所(そこ)から達(たっ)しが私の処へもあったのです。なるほど当年二十三のものは子歳で、私は正にそれに当っている。何時(いつ)何日(いくか)に扱所に出頭して寸法や何やかやを調べるという布令(ふれ)である。これは大騒ぎ。今日から思うと迂闊(うかつ)極まることではあるが、今日とは物情大変な相違であるから、我々は実に意外の感。まず第一に親たちの驚き。夜もおちおち眠られぬという始末。また師匠の心配。私が兵隊に取られるとあっては、容易ならぬ事件。仕事の上からいっても、仕事先のこともあるから、今、私を取られては仕事その他種々差し支(つか)えがあるというので、当人の私よりも師匠がまず非常の心配をしました。
 そこでいろいろ調べて見ると、其所にはまた楽なことがある。いわば逃(のが)れ道があるのです。というは、総領は取らぬということです。私は事実は総領のことをしているが、戸籍の上では次男でありますから、この逃(のが)れ道は何んにもならない。私は兵隊に取られる方である。ところが、また、次男でも、親を一人持ち、戸主であれば取らぬという。それから、もう一つ、二百七十円政府へ上納すれば取らんというのです。
 それで、金銭(かね)のある人は金を出して逃れる道をした、その当時何んでもない爺(じい)さま婆(ばあ)さまが、思い掛けなく、金持の息子の養子親となって仕合わせをしたなどいう話があって、これを「徴兵養子」と称(とな)えたものです。毎年この徴兵令のことは打ち続いて行われるのだそうで、国家のため、さらに忌み嫌うべきことではないが、師匠の考えでは、幸吉がこれから三年の兵役を受けることになると、今が正に大事な所、これから一修業という矢先へ、剣付鉄砲(けんつきでっぽう)を肩にして調練に三ヶ年の長の月日をやられては、第一技術の進歩を挫(くじ)き、折角のこれまでの修業も後戻(あともど)りする。親たちの心配もさぞかし。これは如何(どう)してもその抜け道を利用して何んとかこの場を切り抜けて始末をせんければならないと師匠東雲師が先に立って、いろいろ苦心をされ知り合いのうちにこんなことを引き受けて奔走する人があって、その人に相談をすると、次男なら仮りの親を立てれば好い。誰か仮りの親になる人がないかということであった。そこで師匠は直ぐに思い付き、
「それは格好な人がある。私の姉悦(えつ)が、今日まで独身にて私の家にいる。それに一軒持たして、幸吉を養子に、同時に戸主にしては如何(いかが)でしょう」
というと、その人は、それが好(よ)かろう、しかし、日限が迫っているから、大急ぎという。で、師匠は右の趣を姉お悦に話すと、もちろん承知で、早速、堀田原に、かねてから師匠が立ち退(の)きの用心の家を一軒持っていた其家(それ)へ引き移ることにしたのであった。この事につき万事その人が始末を附けてくれました。

 堀田原の家は二間(ふたま)あって、物置きが広い。お悦さんが籍を移し、私が養子となり、今まで中島幸吉であった私が高村幸吉となった訳であります。私が高村姓を名乗るようになったのは全く徴兵よけのためであったので、これで一切始末が附いて、私は兵隊にならずに終(す)んだのでありました。今から考えるとこれはあまり良い事ではないようです。
 右の如く、万事都合よく行ったので、師匠は、広小路の万年屋の隣りの花屋という料理屋に骨を折ってもらった彼(か)の人を招いてお礼に夜食のふるまいをしました。私も少し預けてあった金銭もありましたので、それを当夜の費用に充(あ)てるよう師匠に申しましたが、師匠は自分ですべてを支払いました。当夜の勘定その他すべてで十五円位掛かったようであった。
 その時、その席で、師匠が彼の人に話しているのを私は聞いていたが、もし幸吉が悦の養子になれないとすれば、自分は二百七十円政府へ納めるつもりであったが、お蔭で手軽く済んでよかったなどいっておられました。思うに師匠は私のために大金を出しても兵隊に取られぬようにしようという決心であったと察せられました。師匠がいかに私のことを考えていられたか、今日でもその当時のことを思うと師恩の大なることを感ぜぬわけに参りません。

 さて、私はお悦さんの養子という名義になったのですから、私はお悦さんに対し養子であるから、何か形をと考えて、月々一円五十銭を小遣いに差し上げることに師匠に話しますと、それは自分として甚だ困る。姉は私の親替わりに私が何所(どこ)までも見るつもり、今度の事は名義だけだから別に心配はいらぬ。しかし強(し)いてお前が気が済まぬというならば、堀田原の家の家賃ということにして、それを受けよう。そして、それを姉の小遣いに差し上げることにしようと義理堅く、私は自分の志が通れば好(い)いことだからそういうことにしてもらいました。
 何かにつけて、東雲師は義理堅い人であった。




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