幕末維新懐古談
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著者名:高村光雲 

 明治八年は私が二十三で年季が明けて、その明年私の二十四の時、その頃神仏混淆(こんこう)であった従来からの習慣(しきたり)が区別されることになった。
 これまではいわゆる両部混同で何の神社でも御神体は幣帛(へいはく)を前に、その後ろには必ず仏像を安置し、天照皇大神は本地(ほんじ)大日如来(だいにちにょらい)、八幡大明神(はちまんだいみょうじん)は本地阿弥陀(あみだ)如来、春日(かすが)明神は本地釈迦如来というようになっており、いわゆる神仏混淆が行われていたのである。
 この両部の説は宗教家が神を仏の範囲に入れて仏教宣伝の区域を拡大した一の宗教政策であったように思われる。従来は何処の神社にも坊さんがおったものである。この僧侶(そうりょ)を別当(べっとう)と称(とな)え、神主の方はむしろ別当従属の地位にいて坊さんから傭(やと)われていたような有様であった。政府はこの弊を矯(た)めるがために神仏混淆を明らかに区別することにお布令(ふれ)を出し、神の地内(じない)にある仏は一切取り除(の)けることになりました。
 そして、従来神田(かんだ)明神とか、根津権現(ねづごんげん)とかいったものは、神田神社、根津神社というようになり、三社(さんじゃ)権現も浅草神社と改称して、神仏何方(どっち)かに方附けなければならないことになったのである。これは日本全国にわたった大改革で、そのために従来別当と称して神様側に割り込んでいた僧侶の方は大手傷を受けました。奈良、京都など特に神社仏閣の多い土地ではこの問題の影響を受けることが一層甚(ひど)かったのですが、神主側からいうと、非常に利益なことであって、従来僧侶に従属した状態になっていたものがこの際神職独立の運命が拓(ひら)けて来たのですから、全く有難い。が、反対に坊さんの方は大いに困る次第である。
 そこで、例を上げて見ると、鎌倉の鶴ヶ岡八幡に一切経(いっさいきょう)が古くから蔵されていたが、このお経も今度の法令によって八幡の境内には置くことが出来なくなって、他へ持ち出しました。一切経はお寺へ属すべきものであるからというのです。そこでこのお経は今浅草の浅草寺の所有になっております。

 それから、この浅草寺ですが、混淆時代は三社権現が地主であったから馬道(うまみち)へ出る東門(随身門(ずいじんもん))には矢大臣が祭ってあった。これは神の境域であることを証している。観音の地内(じない)とすれば、こんなものは必要(いら)ないはずであります。もう一つ可笑(おか)しいことには、観音様に神馬があります。これは正(まさ)しく三社権現に属したものである(神馬は白馬で、堂に向って左の角に厩(うまや)があった。氏子のものは何か願い事があると、信者はその神馬を曳(ひ)き出し、境内の諸堂をお詣(まい)りさせ、豆をご馳走(ちそう)しお初穂(はつほ)を上げてお祓(はら)いをしたものである)。こういう風に神様の地内だか、観音様の地内だか区別がないのです。法令が出てから観音様の境内と三社様の境内とハッキリ区別が出来ましたために、諸門は観音に附属するものになって、矢大臣を取り去って二天を祭り、今日は二天門と称している。神馬も観音の地内には置くことが出来ない故、三社様の地内へ移しました。
 右のような例によって見ても、神仏の混淆していたものが悉(ことごと)く区別され、神様は神様、仏様は仏様と筋を立て大変厳格になりました。これは、つまり、神社を保護して仏様の方を自然破壊するようなやり方でありましたから、さなきだに、今まで枝葉を押し拡(ひろ)げていた仏様側のいろいろなものは悉くこの際打(ぶ)ち毀(こわ)されて行きました。経巻などは大部なものであるから、川へ流すとか、原へ持って行って焼くとかいう風で、随分結構なものが滅茶々々(めちゃめちゃ)にされました。奈良や、京都などでは特にそれが甚(ひど)かった中に、あの興福寺の塔などが二束三文で売り物に出たけれども、誰も買い手(て)がなかったというような滑稽(こっけい)な話がある位です。しかし当時は別に滑稽でも何んでもなく、時勢の急転した時代でありますから、何事につけても、こういう風で、それは自然の勢いであって、当然のこととして不思議と思うものもありませんでした。また今日でこそこういう際に、どうかしたらなど思うでしょうが当時は、誰もそれをどうする気も起らない。廃滅すべきものは物の善悪高下によらず滅茶々々になって行ったものである。これは今日ではちょっと想像に及びがたい位のものです。




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