血液型殺人事件
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著者名:甲賀三郎 

     忍苦一年

 毛沼(けぬま)博士の変死事件は、今でも時々夢に見て、魘(うな)されるほど薄気味の悪い出来事だった。それから僅(わずか)に一月経(た)たないうちに、父とも仰(あお)ぐ恩師笠神(かさがみ)博士夫妻が、思いがけない自殺を遂(と)げられた時には、私は驚きを通り越して、魂が抜けたようになって終(しま)い、涙も出ないのだった。漸(ようや)くに気を取直して、博士が私に宛てられた唯一の遺書を読むと、私は忽(たちま)ち奈落の底に突落されたような絶望を感じた。私は直ぐにも博士夫妻の後を追って、この世に暇(いとま)をしようとしたが、辛うじて思い止ったのだった。
 その当時私は警察当局からも、新聞記者諸君からも、どんなに酷(きび)しく遺書の発表を迫られたか分らぬ。然(しか)し、私は堅く博士の遺志を守って、一年経たなければ公表が出来ないと、最後まで頑張り通した。その為に私は世間からどれほどの誤解を受けた事であろう。而(しか)しそれは仕方がなかったのだ。
 こうして、私にとっては辛いとも遣瀬(やるせ)ないとも、悲しいともいら立しいとも、何ともいいようのない忍苦の一年は過ぎた。
 恩師笠神博士夫妻の一周忌を迎えて、ここに公然と博士の遺書を発表することを許され、私は長い間の心の重荷を、せめて一部分だけでも軽くすることが出来て、どんなにホッとしたか分らぬ。
 以下私は博士の遺書を発表するに先立って、順序として、毛沼博士の変死事件から始める事にしよう。

     毛沼博士の変死

 二月十一日、即(すなわ)ち紀元節の日だが、この日はひどく寒く、午前六時に零下五度三分という、東京地方には稀(まれ)な低温だった。私は前夜の飲過ぎと、学校が休みなのと、そのひどい寒さと、三拍子揃った原因から、すっぽり頭から蒲団(ふとん)を被って、九時が過ぎるのも知らずにいた。
「鵜澤(うざわ)さん」
 不意に枕許(まくらもと)で呼ぶ声がするので、ひょいと頭を上げると、下宿のおかみが蒼い顔をして、疑り深かそうな眼で、じッとこちらを見詰めている。どうも只ならぬ気色(けしき)なので、私は寒いのも忘れて、むっくり起き上った。
「何か用ですか」
 すると、おかみは返辞の代りに、手に持っていた名刺を差出した。何より前に私の眼を打ったのは、S警察署刑事という肩書だった。
「ど、どうしたんですか」
 私はドキンとして、我ながら恥かしいほどドギマギした。別に警察に呼ばれるような悪い事をした覚えはないのだけれども、腹が出来ていないというのだろうか、私はだらしなくうろたえたものだった。
 おかみは探るような眼付で、もう一度私を見ながら、
「何の用だか分りませんけれども、会いたいんだそうです」
 私は大急ぎで着物を着替えて、乱れた頭髪を掻き上げながら階下に降りた。
 階下にはキチンとした服装をしたモダンボーイのような若い男が立っていた。それがS署の刑事だった。
「鵜澤さんですか。実はね、毛沼博士が死なれましてね――」
「え、え」
 私は飛上った。恰(まる)で夢のような話だ。私は昨夜遅く、毛沼博士を自宅に送って、ちゃんと寝室に寝る所まで見届けて帰って来たのである。私だって、兎(と)に角(かく)もう二月すれば医科の三年になるんだから、危険な兆候があったかなかった位は分る。毛沼博士は酒にこそ酔っていたが、どこにも危険な兆候はなかった。博士は年はもう五十二だが、我々を凌ぐほどの元気で、身体にどこ一つ故障のない素晴らしい健康体なのだ。
 私が飛上ったのを見て、刑事はニヤリと笑いながら、
「あなたは昨夜自宅まで送ったそうですね」
「ええ」
「参考の為にお聞きしたい事があるので、鳥渡(ちょっと)署まで御苦労願いたいのですが」
「まさか、殺されたのじゃないでしょうね」
 病死ということはどうしても考えられないので、ふと頭の中に浮んだ事だったが、頭が未だ命令も何もしないのに、口だけで勝手に動いたように、私はこんな事をいって終った。
 刑事はそのモダンボーイのような服装とはうって変った、鋭い眼でジロリと私を見て、
「署でゆっくりお話しますから、兎に角お出下さい」
 そこで私はそこそこに仕度をして、半ば夢心地で、S署に連れて行かれたのだった。
 私は暫(しばら)く待たされた後、調室に呼ばれた。頭髪を短く刈った、肩の角張ったいかにも警察官らしい人が、粗末な机の向うに座っていた。別に誰とも名乗らなかったが、話のうちに、それが署長であることが分った。
「あなたは昨夜毛沼博士を自宅まで送ったそうですね」
 署長の質問も先刻刑事のいった通りの言葉で始まった。
「はア」
「何時頃でしたか」
「十時過ぎだったと思います」
 と、この時に博士邸の寝室に置いてあった時計を思い出したので、
「そうでした、寝室を出る時に、確か十時三十五分でした」
「そうすると、会場を出たのは」
「円タクで十分位の距離ですから、十時二十五分頃に出た事になります」
「どういう会合だったのですか」
「医科の学生で、M高出身の者の懇親会でした」
「何名位集まりました?」
「学生は十四五名でした。教授が毛沼博士と笠神博士の二人、他に助教授が一人、助手が一人、M高出身がいるのですけれども、差支えで欠席でした」
「会場では変った事はありませんでしたか」
「ええ、別に」
 私はこの時に、会場で毛沼博士と笠神博士とが、いつもとは違って、何となく話合うのを避けていたようだったのを思い出したが、取り立てていうほどの事でもなし、それには言及しなかった。
「毛沼博士は元気だったですか」
「ええ」
「酒は大分呑まれたですか」
「ええ、可成呑まれました」
「どれ位? 正体のなくなるほど?」
「いいえ、それほどではなかったと思います。自宅へ帰っても、ちゃんと御自身で寝衣(ねまき)に着替えて、『有難う、もう君帰って呉れ給え』といって、お寝(やす)みになりましたから」
「君はいつも先生を送って行くのですか」
「いいえ、そういう訳ではありませんけれども。先生の家は私の近所だものですから、みんな送って行けというので」
「毛沼博士と君とが一番先に出たんですね」
「いいえ、笠神博士が一足先でした」
「やはり誰か送って行ったのですか」
「いいえ、笠神博士はお酒をあまりお呑みになりませんので、殆(ほとん)ど酔っていらっしゃいませんでしたから――」
「毛沼博士が家に這入(はい)ってから、寝られるまでの間を、出来るだけ委(くわ)しく話して呉れませんか」
「そうですね。円タクから降りて、大分足許のよろよろしている先生の手を取って、玄関の中に這入ると、先生はペタンとそこへ腰を掛けて終(しま)われました。取次に出た婆やさんが『まア』と顔をしかめて、私に『すみませんけれども、先生を上に挙げて下さい』というので――」
「玄関に出たのは婆やだけでしたか」
「いいえ、女中がいました。女中は下に降りて、先生の靴を脱がせていました」
「書生はいなかったのですね」
「ええ、いつもいる書生が二三日暇を貰って、故郷に帰ったという話で――それで私が頼まれたのですが、私は頭の方を持ち、婆やと女中が足の方を持って、引摺(ひきず)るようにして、洋間の寝室へ連れて行きました」
「その時に寝室には瓦斯(ガス)ストーブがついていましたか」
「いいえ、ついていませんでした。婆やがストーブに火をつけますと、先生は縺(もつ)れた舌で、『もっと以前(まえ)からつけて置かなくちゃ、寒くていかんじゃないか』といいながら、よろよろと手足を躍るように動かして、洋服を脱ぎ始められました」
「そして寝衣に着替えて、寝られたんですね」
「ええ」
 とうなずいて、いおうかいうまいかと鳥渡ためらったが、やはりいった方がいいと思って、
「その時に、先生はひょろひょろしながら、上衣やズボンのポケットから、いろいろのものを掴み出して、傍の机の上に置かれましたが、一品だけ、ポケットの中で手に触ると、ハッとしたように、一瞬間身体のよろめくのを止めて緊張されましたが、その品を私達に見せないようにしながら、手早く取出すと、寝台の枕の下に押し込まれました」
「何でしたか、それは」
「小型の自動拳銃でした」
「ふん」署長は私が何事も隠さないのを賞讃するようにうなずいて、「先生は以前からそんなものを持っておられましたか」
「存じません。見たのが昨夜初めてですから」
「その他に変った事はありませんでしたか」
「ええ、他にはありません。先生は寝衣に着替えると、直ぐ寝台に潜り込まれました。そうして、帰って呉れ給えといわれたのです」
「それですぐ帰ったのですね」
「ええ」と又ためらいながら、「先生の寝室へ這入ったのは初めてですから、鳥渡好奇心を起しまして、暫く、といってもホンの一二分ですが、室内を眺めました」
「眺めただけですか」
「珍らしい原書や、学界の雑誌が机の上に積んでありましたので、鳥渡触りました」
「本だけですか」
「ええ、他のものは絶対に触りません」
「それから部屋を出たのですね」
「ええ、その間に婆やと女中とが先生の脱ぎ棄てた洋服をザッと片付けて、それぞれ手に持っていました。私が出て、続いて婆やと女中とが出ました」
「瓦斯ストーブはつけたままでしたね」
「ええ、そうです」
「君が出た時に、先生はとうに眠っていましたか」
「半分眠って居られたようです。ムニャムニャ何かいいながら、枕に押しつけた頭を左右に振っておられました」
「直ぐ立上って、扉(ドア)に鍵をかけられた様子はありませんでしたか」
「ええ、気がつきませんでした。――鍵がかかっていたんですか」
 署長は然し、私の質問には答えなかった。
「電灯は婆やが消したんですね」
「ええ、扉に近い内側の壁にスイッチがありまして、それを出がけに婆やが押して消しました」
「お蔭でよく分りました。もう一つお訊きしますが、君は先刻迎えに行った刑事に、『先生は殺されたのじゃないか』といったそうですが――」
 私はドキンとした。余計な事をいわなければよかったと後悔した。然し、署長は私の心の中などはお構いなし、どんどん言葉を続けていた。
「どういう訳で、そういう事をいったのですか。理由(わけ)もないのに、そんな事をいわれる筈がないと思いますがね」

     勝利者と惨敗者

 私が毛沼博士が死んだという事を聞いた時に、殺されたのではないかと思ったのは、別に深い根底がある訳ではなかったのだ。
 前にもいった通り、毛沼博士の死が病死とは考えられなかったし、といって博士が自殺するという事は、それ以上に考えられない事だし、過失死という事も鳥渡思い浮ばなかったので、つい殺されたのではないかと口を滑らしたのだが、といって、全然理由がなかった訳でもない。先(ま)ず第一は毛沼博士が自動拳銃を持っていたということ、それから第二には博士が最近二三月何となく物を恐れる風があった事だった。
 一体毛沼博士は、外科の教授に在勝(ありがち)な豪放磊落(ごうほうらいらく)な所があって、酒豪ではあるし、講義もキビキビしていて、五十二歳とは思えない元気溌剌(げんきはつらつ)たる人で、小事には拘泥しないという性質(たち)だった。所が、この二三月はそんなに目立つ程ではないが、何となく意気消沈したような所があり、鳥渡した物音にもギクッとしたり、講義中に詰らない間違いをしたり、いつも進んでする手術を、態(わざ)と若い助教授に譲ったり、些細な事ながら、少し平素と変った所があったのだ。
 私は署長の顔色を覘(うかが)いながら、
「別に深い理由はないのですが、先生は近頃何となく様子が変だったし、それにピストルなんか持っておられたものですから」
 と、私の考えを述べた。
 署長はうなずいて、
「もう一つ訊きますがね、君は毛沼博士が何故一生独身でいたか、その理由について何か知っている事はありませんか」
 私は又ハッとした。私がひそかに恐れていた事に突当ったような気がしたのだ。私は然しすぐに答えた。
「存じません」
 知らないと答えた事は決して嘘ではなかった。知っているといえば、なるほど知っている、然し、それはみんな噂が基で、それに私自身の憶測が加ったに過ぎないのだ。確実に知っていると答えられる範囲のものではない。
 噂によると、毛沼博士は若い時に失恋をしたという事だ。而もその相手の女性は笠神博士夫人なのである。毛沼博士と笠神博士とは郷里も隣村同士で、同じ県立中学に机を並べ、一番二番の席次を争いながら、同じM高に入学し、ここでも成績を争いながら、帝大の医科に入学した。ここでは、毛沼博士は外科、笠神博士は法医と別れたが、それも卒業してからの事で、在学中はやはり競争を続けていた。考え方によると、両博士は実に不幸な人達で、恰(まる)で互に競争する為に生れて来たようなものである。而も、その争いは武器を取って雌雄(しゆう)を決(けっ)する闘争ではなく、暗黙のうちに郷里の評判や、学科の点数や、席次や、社会的地位を争うのだから、そこに不純な名誉心や嫉妬心や猜疑心が介在して来るから、本人達に取っては、非常に苦しいものだったに違いないと思う。
 噂をして誤りなく、又私の推察が正しければ、この二人は、場合によっては名誉も権勢も生命も弊履(へいり)のように棄てようという恋を争ったというのだから、実に悲惨である。三角関係にどんな経緯(いきさつ)があったか知らないが、兎に角、笠神博士が恋の勝利者となり、毛沼博士が惨敗者となって、遂に一生を独身に送ることになったのだ。私はM高出身ではあるけれども、東京で生れ東京で育った人間なので、帝大に這入って初めて両博士に接し、そういう噂話を耳にしたのだが、爾来(じらい)三年間に、親しく両先生の教えを受け、殊(こと)に笠神博士には一層近づいて、家族へも出入したので、今いった噂話が一片の噂でなく、事実に近いものであることは、十分推察せられていたのだった。
 然し、両先生の口や、笠神博士夫人の口から直接聞き出した事ではなし、何の証拠もない事であるから、私は署長の質問に対して知らないと答えたのである。
 署長は暫く私の顔を見つめていたが、その事については、もう追及しようとせず、質問の鉾先(ほこさき)を一転したのだった。
「君は笠神博士の所へ、よく出入するそうですね」
「は」
 いよいよ来たなと思った。私がひそかに恐れていたのはそれだった。全く私は笠神博士の所へは繁々(しげしげ)出入した。今では私は博士を啻(ただ)に恩師としてでなく、慈父のように慕っているのだ。静かに考えて見ると、私は別にその為に恐れる所はないのだ。よし笠神博士と毛沼博士とが、恋の三角関係があったにせよ、それはもう二十数年も以前の事なのだ。その当時こそ互にどんな感情を持ったか分らないが、爾来二人は同じ学校に講堂を持って、何事もなく年月を送り、今はもう互に五十の年を越えている。今更二人の間にどうという事があろう筈がない、従って毛沼博士が自宅の一室で変死を遂げたにせよ、それが笠神博士に関係がありそうな事はないのだ。
 然し、今こうやって、署長から事新しく毛沼博士が独身生活をしている理由や、私が笠神博士と親しくしている事などを訊かれるとそれは私の杞憂(きゆう)に過ぎないだろうけれども、何となく気味が悪いのだ。何といっても、私が毛沼博士を自宅の寝室まで送り届けたのだし、恐らく私が生きている毛沼博士を見た最後の人間だろうから、それを笠神博士と親しくしている事に結びつけて、変な眼で見られると、油断のならない結果を招くかも知れない。全く世の中に誤解ほど恐ろしく、且(か)つ弁解し悪(にく)いものはないのだ。
 私は蛇足だと思いながらも、言いわけがましく、つけ加える事を止められなかった。
「僕は将来法医の方をやる積りなので、笠神博士に一番接近している訳なんです」
「ふん」
 署長は私が恐れているほど、私と笠神博士との関係を重要視していないらしく、軽くうなずいて、
「笠神博士という人は、大へん変った人だそうですね」
「ええ、少し」
「夫人は大へん美しい方だそうですね」
「ええ、でも、もう四十を越えておられますから」
「然し、実際の年より余ほど若く見えるようじゃありませんか」
「ええ、人によっては三十そこそこに見られるそうです」
「笠神博士は家庭を少しも顧みられないそうですね」
「ええ」
 私は肯定せざるを得なかった。全く博士は学問の研究にばかり没頭して、美しい夫人などは全く眼中にないようなのだ。昔は知らず今は之(これ)が激しい恋愛をした間なのかと疑われる位である。
「笠神博士は学問以外に何にもない、博士の恋人は学問だといわれているそうですね」
「ええ」
「それで夫人にはいろいろの噂があるそうじゃありませんか」
「そんな事はありません」
 私は少しむっとしながら答えた。博士夫人は博士からそうした冷い取扱いを受けながら、実に貞淑に仕えた、何一つ非難される所のない人なのだ。
 署長は探るような眼つきで私を見ながら、
「そうかな。夫が仕事に没頭して家庭を顧みない。勢い妻は勝手な事をする、なんて事は世間に在勝(ありがち)の事だからな」
「他の家庭は知りませんが、笠神博士の夫人は絶対にそんな事はありません」
「然し、君のような若い色男が出入するんだからね」
 何たる侮辱だ! 私は唇をブルブル顫(ふる)わせた。
「な、なんといわれるのです。ぼ、僕は笠神博士を敬慕のあまり、お宅に度々(たびたび)お伺いするのです。い、一体あなたは何を調べようと仰有(おっしゃ)るのですか」
 私の剣幕が激しかった為か、署長はニヤニヤしていた笑顔を急に引込めて、
「そうむきになっちゃいかん。僕はそういう事実があるかないかという事について、調べているんだからね」
「事柄によります。第一、そんな事を、何の必要があって調べるんですか」
「必要があるとかないとかという事について、君の指図は受けない」
 署長は鳥渡気色(けしき)ばんだが、直ぐ元の調子になって、
「この話は打切としよう。君は法医の方に興味があるそうだが、之を一つ鑑定して呉れませんか」
 署長は机の抽斗(ひきだし)を開けて、紙片のようなものを取出した。

     血液型の研究

 私はここで少し傍路に這入るけれども、私と笠神博士の奇妙な因縁について、述べて置きたいと思う。
 笠神博士も毛沼博士も、前に述べたように、M高の先輩ではあるけれども、そうして無論M高在学中に、どこの学校にもあるように先輩についての自慢話に、医科には先輩の錚々たる教授が二人まであることは、よく聞かされていたが、親しく接するようになったのは、大学に這入ってからの事であった。
 両先生の教授を受けるようになってから、誰でも経験するように、私は直ぐに毛沼博士が好きになって、笠神博士はどっちかというと嫌いだった。毛沼博士は磊落で朗かであるのに、笠神博士は蒼白い顔をして、陰気だったから、誰でも前者を好いて、後者には親しまなかったのだった。
 全く、両博士のように、故郷を同くし、中学から大学まで同じ級で、同じ道を進み、卒業後も肩を並べて、同じ学校の教授の席を占めているという事も珍らしいが、その性格が全く正反対なのも珍らしいと思う。
 毛沼博士は表面豪放で磊落で、酒も呑めば、独身の関係もあるが、カフェ歩きやダンスホール通いもするし、談論風発で非常に社交的である。だから、誰でも直ぐ眩惑(げんわく)されて、敬愛するようになるが、よく観察すると、内面的には小心で、中々意地の悪い所があり、且つ狡猾(ずる)い所がある。自分の名声については、汲々(きゅうきゅう)として、それを保つ為には時に巧妙な卑劣な方法を取る事を辞さない。勝れた学識と、外科手術の手腕を持つ助教授が、栄転という美名の許に、地方の大学の教授に巧みに敬遠せられた例が二三あるし、弟子に研究させて、それを誇らしげに自分の研究として、学界に報告した事も、私は知っている。何しろ口が旨いから、空疎な講義の内容も、十分胡麻化(ごまか)されるし、学者仲間には兎も角、世間に対しては、いかにも学殖のある篤学の士のように見せかける事は、易々(いい)たる事である。そんな訳で、先生の颯爽(さっそう)たる講義に接した最初は、どの学生でもみんな眩惑されて終う、そうして、多数は最後まで引摺られて行くのだ。
 所が、之に反して笠神博士は表面誠に陰気で、無愛想で口下手だ。酒も呑まないし、変に固苦しくて、誰だって親しめるものではない。然し、よく観察すると、内面的には実に親切な人で、慈悲深く、意地の悪い所や狡猾い所は微塵もなく、学問に忠実で、公平無私だ。弟子は少いけれども、非常によく可愛がって、自分の功績を惜しげもなく譲って終う。毛沼博士は自分に都合のいい人間は、よく可愛がるが、都合の悪い人間は排斥するし、昨日までよくても、今日はもう悪くなるという風だが、笠神博士は自分の悪口をいうような人間でも、学問の上で見所があれば、どこまでも親切に面倒を見る。交際(つきあ)えば交際うほど、親しくすればするほど、味の出て来る人である。
 私はN大学のA教授のように、血液型で人の性質が定るものだとは考えない。然し、毛沼博士と笠神博士との血液型が、全く異っているのは、興味のある事だと思う。即ち毛沼博士はB型で、笠神博士はA型なのだ。而もこの血液型の相違が、後に傷(いたま)しい悲劇の重大要素となり、この物語の骨子ともなるのだから、軽々しく見逃すことは出来ないのだ。
 人間の血液型については、今日では殆ど常識的になっているから、ここに改めて諄々(くどくど)しく述べる必要はないが、後にこの物語に重大な関係を持って来るし、私を笠神博士に結びつけたのも、血液型の問題が重要な役目をしているので、ここで鳥渡触れたいと思う。
 笠神博士が法医学が専門であることは既に述べたが、先生は血液型については、最も深く研究せられて、その第一の権威者なのである。人間の血液が、そのうちに含まれている血球と血清の性質によって、A、B、O、ABの四型に分類されることは、最早動かすべからざる事であり、その分類も比較的容易に出来るから、法医学に於て重要視するのは、寧(むし)ろその応用にあるのだ。中でも一番重要なのは血液型による親子の決定である。
 抑々(そもそも)忠孝といい、仁義といい、礼智信といい、人倫の根本となるべきものは親子である。所が、文化の非常に進んだ今日、未だ科学的に確実に親子を決定すべき方法がないのは、悲しむべき事であるが、事実であるのは致し方がない。然し、血液型の研究によって、相当の程度まで、親子に非ずという決定は出来る。即ち、両親のどちらにもA型がない場合に、子には決してA型は現われないし、双方にB型のない場合は、子には決してB型は現われない。父がA型であり、母がO型である場合に、子がB型、或(ある)いはAB型であればその父なり、母なり、或いは双方なりが否定されなければならない。母が確実であれば、無論父は他にあるのである。然しながら、父がA型、母がO型で、子がA或いはO型の場合、その両親は否定されないけれども、積極的に肯定することは出来ない。何故ならO型の母は、他のA型の男子によって、A或いはO型の子を、いくらでも生むことが出来るからだ。
 所で、AB型に関係して来ると、学説が二つに別れる。即ち二対対等形質説に従えば、四遺伝単位説となって、両親のどちらかにAB型があれば、子供には各型のものが生れる事になっている。も一つの三遺伝単位説に従えば、O型とAB型との間からは、A型又はB型が生れ、AとAB型、BとAB型、AB型同士からは、A、B、AB型が生れて、決してO型は生れない。要するに、AB型からは決してO型は生れず、O型の親には決してAB型はないという事になるのだ。
 この両説は久しい論争の後に、後説が正しい事が、実験的に決定したといっていい。笠神博士は熱心な三遺伝単位説の支持者で、その為に涙ぐましいような努力を払われている。私は医科に入学後、だんだん法医学に興味を持つようになり、殊(こと)に血液型とその応用について、最も興味を覚えたので、勢い笠神博士に近づかざるを得なかったのだが、始めにもいった通り、博士は非社交的で、堅苦しくて容易に親しめなかった。友人の中には私が法医学に進もうとするのを、嘲笑して、
「笠神さんなんて、意味ないぜ」
 といった者さえあった。
 然し、少し宛(ずつ)接近して行くうちに、博士には陰気の裏には誠意があり、堅苦しい反面には慈愛があり、無愛想の一面には公平無私のあることが、だんだん分って来たので、私は敬愛の度を次第に増して行った。所が一年ばかり以前に次のような出来事があって、先生が、
「自宅へ遊びに来ませんか」
 という二十余年の教授生活に、未だかつてどの学生にもいわれた事がないという言葉を貰い、私達の親交は急速に進展したのだった。
 血液型に興味を持った私は、無論自分の血液型を計って、A型であることを知ったが、更に両親や兄弟の血液型を調べて、統計上の助けにしようと思って、先生の指導を仰いだ。
 その時分には、先生も私を熱心な研究生と認めて、大分厚意を示しておられたので、快よく血液型決定の方法(メトード)を教えて呉れて、それに必要な血清を分与されたのだった。
 私は早速父母を始め弟妹の血液型を調べたが、思いがけない結果が現われたのである。
 即ち、私の父はB型、母はO型で、弟妹共にO型なのだ。所が私一人だけA型である。而(しか)も血液型の定説に従えば、B型とO型の両親からは、絶対にA型は生れない事になっている。といって、私が両親を疑わなければならない理由は全然ないのだ。
 私はこの事を先生に報告して、
「例外じゃないのでしょうか」
 というと、先生はじっと私の顔を眺めて、
「測定の間違いはないでしょうね」
 といわれた。先生はいつも口癖のように、血液型の決定は一見非常に容易のようで、素人でも一回教われば、直ぐその次から出来るように思える。又事実出来もするのであるが、決して馬鹿にしたものでなく、十分の経験と周到な用意を持ってしないと、往々にして他の原因で凝集するのを見誤る場合があるから、経験の足りないものの測定は危険性があるという事を、強調しておられたのだった。
「大丈夫だと思うのですけれども」
 と答えると、先生は暫く考えて、
「もう一度やってごらんなさい」
 といわれた。
 それで、もう一回やって見たのだが、結果はやはり同様だった。
 先生は、
「君の手腕を疑う理由(わけ)ではないんですが、一度採血して持って来ませんか」
 そこで私は又かと嫌がる両親弟妹から、それぞれ少量の血を採って、先生の所へ持って行った。
 それから二三日して、先生は結果については少しも触れないで、
「君は今の家で生れたんですか」
 と訊(き)かれた。
「いいえ、今の家は移(こ)してから、未だ五六年にしかなりません。僕は病院で生れたのだそうですよ」
「病院で」
「ええ、初産ですし、大事をとって、四谷のK病院でお産をしたんだそうです」
「病院で」
 先生は吃驚(びっくり)したようにいわれたが、直ぐにいつもの冷静な調子で、
「ああ、そうですか」
 といって、それっきり何事もいわれなかった。
 それから一週間ほど経つと、先生が不意に、
「君、自宅へ遊びに来ませんか」
 といわれたのだった。
 私は無論喜んで、先生の厚意ある言葉に従った。それから私は足繁く出入するようになった。
 私が訪問すると、先生は直ぐに書斎に入れて、いろいろ有益な話をしたり、珍らしい原書を示したり、私の家の事を訊いたり、平生(へいぜい)無口な非社交的な先生としては、それがどれほどの努力であるかという事が、はっきり感ぜられるほど、一生懸命に私をもてなして呉れるのだった。それによって、私は先生の内面に充ち溢れる親切と、慈愛とを初めて知ることが出来たのだった。
 博士夫人にも度々お目にかかった。夫人は前にもいった通り、実際の年よりも十も若く見えるほど美しい人で、殆ど白粉気のない顔ながら、白く艶々しく、飾気のない服装ながら、いかにも清楚な感じのする人だった。只、意外なのは、夫婦の間が何となく他人行儀で、よそよそしい事だった。博士は私に対しては、努めていろいろの話をされるにも関(かかわ)らず、夫人に対しては、必要な言葉以外には殆ど話しかけられず、稀々(たまたま)話しかけられる言葉も、いつでもせいぜい四五文字にしかならない短いものだった。私は二人の結婚が激しい恋愛の後に成立したと聞いていたので、この冷い仲を見て、どうも合点(がてん)が行かなかった。然し、考え方によると、こうした他人行儀的態度は、博士の性格に基くもので、学問に没頭して、それ以外の何の趣味もなく、何の興味もない博士の事であるから、必ずしも冷いというものではないかも知れないのだ。
 夫人は飽くまで温良貞淑だった。少しも博士の意に逆おうとせず、自分を出そうとせず、控え目にして、書斎の出入には足音さえ立てないという風だった。私に対しても、控え目な然し十分な厚意を示された。決して一部で憶測しているような、博士は博士、夫人は夫人といったような離れ放れの夫婦ではなかった。噂によると、博士と夫人がこういう外観的の冷い仲になったのは、十年ばかり以前に夫婦の間の一粒種だった男の子が、十いくつかで死んでからだともいい、又、それは結婚すると間もなく始まったともいう。私にはどっちが正しいのか、それとも両方とも間違っているのか分らない。
 話が大分傍路に這入ったが、之で私が血液型の研究から、博士と非常に親しくなった経緯は分って貰えたと思う。
 話を本筋に戻そう。

     脅迫状

 署長は机の抽斗から、紙片を取り出して、私に示した。紙片は薄いケント紙を長方形に切ったもので、葉書よりやや大きいかと思われるものだった。それに丸味書体(ルンド・シュリフト)という製図家の使う一種の書体で、次のような文字と、記号が書かれていた。

Erinnern Sie sich zweiundzwanzigjahrevor !
Warum O×A → B ?

「ドイツ語ですね」私はいった。「二十二年以前(まえ)を思い出せ、と書いてありますね。それから何故(ワルーム)、というのですが、この記号は――」
 私は首を捻った。
 兎角人は物事を、自分の一番よく知っている知識で解決しようとするものだ。例えば患者が激しい腹痛を訴えた時、外科医は直ぐ盲腸炎だと考え、内科医は直ぐ胆石病だと考える、というような事がいわれている。そこで、私はこの記号を、直ぐ血液型ではないかと考えた(そしてこれは間違ではなかったのだが)。
「えーと、之は血液型の事をいったのじゃないでしょうか」
「どういう事ですか」
「つまり、何故ですね、何故、O型とA型から、B型が生れるか」
「何の事です。それは」
「そういう事ですね。O型とA型の両親からB型が生れるのは何故か、という事なんでしょう」
「それと前の言葉とどういう関係があるんですか」
「分りません」
「ふん」
 署長は仕方がないという風にうなずいた。
 私は訊いた。
「一体なんです。之は」
「毛沼博士の寝室で発見されたんです」
「へえ」
 意外だったが、意外というだけで、それ以上の考えは出なかった。それよりも、今まで肝腎の事を少しも分らせないで、散々尋問された事に気がついたのだった。私は最早猶予が出来なかった。
「毛沼博士はどうして死んだんですか」
「瓦斯の中毒ですよ。ストーブ管がどうしてか外れたんですね。部屋中に瓦斯が充満していてね、今朝八時頃に漸く発見されたのです」
「過失ですか。博士の」
「まあ、そうでしょうね。部屋の扉が内側から鍵がかかっていましたからね」
「じゃ、博士が管を蹴飛ばしでもしたんでしょうか。私が出た時には、確かについていましたから」
「そうです。博士が少くても一度起きたという事は確かですから。鍵を掛ける時にですね」
「八時までも気がつかなかったのはどういうものでしょう」
「休日ですからね。それに前夜遅かったし、グッスリ寝ていたんでしょう」
 説明を聞くと、十分あり得ることだ。現に知名の士で、ストーブの瓦斯漏洩(もれ)から、死んだ人も一二ある。だが、私には毛沼博士の死が、どことなく不合理な点があるような気がするのだった。
「じゃ、過失と定ったのですか」
「ええ」
 署長はジロリと私の顔を眺めて、
「大体決定しています。然し、相当知名の方ですから、念を入れなくてはね。それで、態々(わざわざ)来て貰ったのですが、御足労序(ついで)に一度現場へ来て呉れませんか。現場についてお訊きしたい事もあるし、それに君は法医の方が委しいから、何か有益な忠告がして貰えるかも知れない」
「忠告なんて出来る気遣いはありませんけれども、喜んでお伴しますよ」
 私達は直ぐ自動車を駆って、毛沼博士邸へ行った。もう十時を少し過ぎていて、曇り勝な空から薄日が射していたが、外は依然として寒く、街路に撒(ま)かれた水は、未だカンカンに凍っていた。邸前に見張をしていた制服巡査は寒そうに肩をすぼめていたが、署長を見ると、急に直立して、恭々(うやうや)しく敬礼した。
 寝室は死骸もそのまま、少しも手がつけてないで保たれていた。昨夜あんなに元気だった博士は、もうすっかり血の気を失って、半眼を見開き、口を歪めて、蒲団から上半身を現わしながら、強直して縡切(ことき)れていた。
 私は鳥渡不審を起した。
 死体の強直の様子から見ると、少くとも死後十時間は経過しているように思われる。そうすると、博士の死は夜半の十二時後になり私達が部屋を出てから一時間半後には、絶命した事になる。仮りに私達が部屋を出た直後、博士が起きて、扉の鍵をかけ、その時に誤って、ストーブの管を抜いたとしても、絶命までには瓦斯の漏洩は一時間半である。僅かに一時間半の漏洩で、健康体が完全に死ぬものだろうか。
 私は部屋を見廻した。部屋は十二畳位の広さで、天井も可成高い。今はすっかり窓が開け放たれているけれども、仮りにすっかり締められたとしても、天井の隅には金網を張った通風孔が、二ヶ所も開けてある。私には瓦斯がどれ位の毒性のあるものか、正確な知識はないが、この部屋にこのガス管から一時間半噴出したとして、或いは知覚を失うとか、半死の状態にあるとか、仮死の状態になるとかいう事はあり得るかも知れないが、その時間内に絶命するという事はどうかと思われるのだ。
 私がキョロキョロ室内を見廻したので、署長は直ぐに訊いた。
「昨夜と何か変った所がありますか」
「いいえ」
 と答えたが、署長の言葉に刺戟されて、ふと昨夜興味を持った雑誌の事を思い出して、机の上を見ると、私は確かにちゃんと揃えて置いたのに、少し乱雑になっているようである。
(夜中に博士が触ったのだろうか)
 と思いながら、傍に寄って、一番上の雑誌を取上げて、鳥渡頁を繰って見たが、私は思わずアッと声を出す所だった。然し、辛うじて堪(こら)えて、そっと署長の方を盗み見たが、幸いに床の上にしゃがんで、頻(しき)りに何か調べている所だったので、少しも気づかれないようだった。
 何が私をそんなに驚かしたのか。私は昨夜ここへ毛沼博士を送って、ふと机の上の雑誌を見て、興味を持ったのは、それがかねて、私が、というよりは笠神博士の為に、熱心に探し求めていた雑誌だったからである。それは一二年以前にドイツで発刊された医学雑誌であるが、その中には法医学上貴重な参考になるべき、特種な縊死体の写真版が載っていたのだった。この雑誌は日本に来ているのは極く少数である許(ばか)りでなく、ドイツ本国でも発行部数が少ないので、どうしても手に這入らなかったものだった。昨夜ふとこの雑誌を見つけた時に、毛沼博士は笠神博士が之を欲しがっている事を知っている筈だし、毛沼博士にとっては専門違いのもので、さして惜しくもないものだから、快く進呈すればいいのに、持っていながら黙って隠している意地悪さに、鳥渡義憤を感じたのだったが、今開いてみると、どうだろう、その写真版だけが、引ちぎってあるのだ。而もそれが非常に急いだものらしく、写真の隅の一部が残っているほど、乱暴に引ちぎってあるのだ。
(毛沼博士が引ちぎったのだろうか)
 博士は寝台の上で半眠の状態にいて、私がこの雑誌を見た事を知って、私が部屋を出ると、すぐに起上って、急いで引ちぎったのだろうか。博士はそれ程の事をしかねない人である。然しながら、それをそんなに急いでしなければならないだろうか。私が再び部屋に帰って来て、それを持って行く事を恐れたのだろうか。それなら、写真版だけ引ちぎらなくても、防ぐ事は出来るではないか。まさか私が夜中にそっと盗みに来ると思った訳でもないだろう。何とも合点の行かない事である。私は出来るなら、机の抽斗その他を探して、引ちぎった写真版の行方を尋ねたいと思ったが、そんな自由は許される筈がなかった。
 私は雑誌をそっと元の所に置いた。署長の方を見ると、まだ床の上にしゃがんで何かしている。私は静かに傍に寄って覗(のぞ)き込んだ。
 署長は頻に床の上の厚い絨氈(じゅうたん)を擦(さす)っていた。見ると、厚ぼったい絨氈が直径一寸ばかりの円形に、すっかり色が変っているのだ。そして、手で擦ると恰で焼け焦げのように、ボロボロになるのだった。といって、普通の焼け焦げでない事は一見して分るのだ。
 署長は私が傍によった為か、口の中でブツブツ何か呟きながら、急に立上った。そうして、手を洗う為に、部屋の隅の洗場(ウォッシュ・スタンド)に歩み寄って、水道の栓を捻ったが、水は少しも出て来なかった。
 署長は舌打をした。
「チョッ、損じているのか」
 すると、扉の外にいた婆やが、その声を聞きつけたと見えて、
「今朝の寒さで凍ったのでございましょう」
 といった。
 署長はそれには返辞をせず、手を洗うのを諦めて、部屋の中央へ戻って来た。
 その時に、一人の刑事が何か発見をしたらしく、西洋封筒様のものを掴みながら、急ぎ足で部屋に這入って来た。
「署長、これが書斎の机の抽斗の中にありました」
 署長は封筒様のものを受取って、中から四角い紙片を取り出したが、
「又ドイツ語か」
 といって、私の方を向いて、
「君、もう一度読んで下さい」
 それは先刻見せられたものと、全く同じ紙質の、同じ大きさのもので、やはり丸味書体で書かれていた。
 私は読んで行くうちに、サッと顔色を変えた。なんと、その紙片にはドイツ語でこう書いてあるではないか。
 千九百二十二年四月二十四日を思い出せ。
 ああ、そうして、之れはなんと私の生年月日なのだ!
「ど、どうしたんだ。君」
 私の啻ならない様子を見て、署長は詰問するように叫んだ。
「千九百二十二年四月二十四日を思い出せと書いてあるのです。それは私の生れた日なんです」
「ふむ」
 署長は疑わしそうに私を見つめながら、
「その他に何も書いてないか」
「ええ」
 私は先刻警察署で同じような紙片を見せられた時には、少しも見当がつかなかったが、今はハッキリと分った。この紙片は、何者かが毛沼博士に送った脅迫状なのだ。その紙片には単に二十二年前を思い出せと書かれていたが、後の紙片にはちゃんと年月日が書かれている。而もそれが私の生年月日なのだ。前の紙片に書き加えられていた血液型のような記号は何を意味するのか。もし、私の事を暗示するのなら、
 O×B→A
でなければならないのだ。何故なら私はO型の母とB型の父から生れたA型なんだから。
 私は何が何だか分らなくなって来た。然し、たった一つ、毛沼博士の変死事件の渦中に私が引摺り込まれようとしている事は確かなのだ!

     三つの疑問

 正午(ひる)近くなって、私は漸く帰宅することを許されたので、ズキンズキン痛む頭を押えながら、毛沼博士邸を出た。すると、私は忽(たちま)ち待構えていた新聞記者の包囲を受けた。
「君は誰ですか」
「毛沼博士は自殺したんですか」
「博士には何か女の関係はなかったですか」
 彼等は鉛筆をなめながら、めいめい勝手な無遠慮な質問を浴せかけるのだった。
 辛うじてそこを切抜けて下宿へ帰ると、そこにも記者が待受けていた。それから入れ代り立ち代り、各社の記者の訪問を受けた。私は終いには大声を挙げて泣きたくなった。
 二時頃になって、やっと解放されたけれども、私は何を考える気力もなかった。すぐに蒲団を敷いて、その中に潜り込んだ。然し、頭が非常に疲れていながら、ちっとも眠れない。といって、纏った事は少しも考えられない。今まで経験したり、書物で読んだりした事のうちで、気味の悪い恐ろしい事ばかりが、次々に頭の中に浮んで来る。ウトウトとしては、直ぐにハッと目を覚ます。そんな状態で夕方を迎えた。
 夕方に私は起上った。そうして外に出ると、重なる新聞の夕刊をすっかり買い込んで帰って来た。誰でも経験することだろうが、自分が少しでも関係した事の新聞記事というものは、実に読みたいものだ。況(いわん)や、よく分らないながらも、重大な関係のあるらしい事件なのだから、私は貪るようにして、読み耽(ふけ)ったのだった。
 自分が実際に関係して、警察署に呼ばれ、訊問をされ、現場まで見ていながら、事件の委しい内容については、全然触れる事が出来ないで、反(かえ)って新聞記事から教えられるという事は、いかにも皮肉な事であるけれども、その通りなのだから、どうも仕方がない。
 新聞の記事はいずれも大同小異だった。その中から拾い集めた事実を総合すると、毛沼博士の変死事件は次のようだった。
 毛沼博士は今朝八時、寝室の寝台の上に、冷くなって死んでいるのが発見された。部屋の中にはガスが充満して、ストーブに連結された螺線管は、ガス管から抜離され、ガス管からは現に猛烈な勢いでガスが噴出していた。屍体は死後七八時間を経過し、外傷等は全然なく、全くガス中毒によるものと判明した。
 博士は前夜、M高校出身の医科学生の会合に出席して、非常に酩酊して、学生の一人に送られて、十時半頃家に帰って寝についたのだが、一旦寝台に横(よこたわ)ってから、一度起上って扉に内側から鍵をかけた形跡が歴然としていたので、その際誤ってガス管を足に引かけ、抜け去ったのを知らないで、寝た為にこの惨事を起したものと見られている。
 然し、一方では、博士が最近に脅迫状らしきものを受取り、不安を感じていたらしく、護身用の自動拳銃(オートマチック)を携帯していた事実があり、且つ、泥酔していながらも、扉に鍵をかける事を忘れなかった点、及び扉に鍵をかける気力のあるものが、ストーブを蹴飛して、ガスの放出するのに気づかないのは可笑しいという説も生じ、当局では一層精査を遂げる由である。
 屍体は現場に於ける警察医の検視で、ガス中毒なることは明かであるが、前述の理由によって、大学に送って解剖に付することになった。法医学の権威笠神博士が執刀される筈だったが、都合で宮内(みやうち)助教授がそれに当ることになった。

 新聞で見ると、当局も毛沼博士の死因については一抹(いちまつ)の疑惑を持っているらしいのだ。毛沼博士の死は、警察医の推定では死後七八時間とあるが、之は午前八時頃の診断だから、やはり博士の死は、前夜の十二時前後となり、私が帰ってから二時間以内の出来事である事は確からしい。あの瓦斯ストーブから僅々(きんきん)二時間足らずのガスの漏洩で、果して死ぬものだろうか。新聞にはこの事には少しも触れていないけれども、私は第一の大きな疑問だと思うのだ。
 第二に、之は私以外の誰も知らない事であるが、例の雑誌の写真版が破りとってあった事で、私が出てから毛沼博士が起き上って、破りとったのでなければ、誰かが這入ったものと見なければならない。然し、その者はどういう方法で忍び込んだのだろうか。扉には内側から鍵がかかっていたというから、博士の許可を得て這入ったものと考えざるを得ない。それとも、博士が未だ鍵をかけないうちに、そっと部屋に忍び込んで、写真版を破りとり、又そっと出て行ったその後で、博士はふと眼を覚まして、起き上って扉に鍵を下したのだろうか。それにしても、学術上以外になんの価値もない、うす気味の悪い縊死の写真などを、一体誰が欲しがろうというのだ! そうすると、写真はやはり毛沼博士自身が破ったのかも知れない。いずれにしても、写真版の行方は相当重要な問題である。
 第三にはあの奇怪な脅迫状だ。私の生年月日が書いてあったが、あれは偶然の暗合だろうか。偶然の暗合にしては、あまりピタリと合いすぎるけれども、仮りにそうとして、一体何事を意味するのか。考えれば考えるほど分らない事ばかりだ。
 私はふと思いついて、本箱の奥の方に突込んであった無機化学の教科書を引張り出して、一酸化炭素の所を調べて見た。我々が燃料に使っているガスは石炭ガスと水成ガスの混合で、約 (ママ)%の一酸化炭素を含んでいる。この一酸化炭素は猛毒性のもので、燃料ガスに中毒するというのは、つまりこの一酸化炭素にやられるのである。
 教科書の一酸化炭素の項には次のように書いてあった。

 無色無臭の気体で、極めて激しい毒性がある。空気一〇〇、○○○容中に一容を含むと、呼吸者は既に中毒の徴候を現わし、八○○容中に一容を含むものであると、三〇分位、一%を含むものでは僅々二分間で死を致すという。一酸化炭素が吸収せられると、血液中のヘモグロビンと結合し、ヘモグロビンの機能(酸素の運搬)を失わしめる。

 私は鉛筆と紙を出して、ザッと計算して見た。毛沼博士の寝室は大体十二畳位だったから、十二尺に十八尺とし、天井の高さを十尺とすると、部屋の容積は約二千二百立方尺になる。瓦斯ストーブの噴出量はハッキリ分らないが、あれ位のものでは、私が経験した所によると、最大一分五立(リットル)を出ないと思う。すると一時間に三〇〇立になり、約十立方尺である。仮りに毛沼博士の死が夜中の一時に起ったとしても、噴出時間は最大二時間半で、二十五立方尺である。ガスの一酸化炭素含有量を八%とすると、二千二百立方尺の空気に対し○・一%以下となる。これが二時間半後に達する最大濃度であるから、ここでは未だ死が起き得ないと断言出来ると思う。尤(もっと)も博士の絶命時間については未だ正確に分らないから、解剖の結果を待たないと、結論は早計であるかも知れないが、之を見ると、博士の死は変な事になるのだ。
 といって、私には博士が他のどんな原因で死んだかという事については、少しも見当がつかない。外傷もなにもなく、明かに一酸化炭素の中毒で死んでいたものなら、ガス中毒と見るより以外にないのだ。
 私の頭は又割れるように痛くなって来た。私は鉛筆と紙を抛(ほう)り出して、畳の上にゴロリと横になった。

     ちぎった写真版

 翌日学校へ出るのが、何となく後めたいような気持だった。むろん、何にも疾(やま)しい事はないのだが、顔を見られるのが不愉快なような気がした。みんなは毛沼博士の死のことを盛に噂し合った。新聞記者ほどではないが、私に無遠慮な質問をするものが少くなかった。この日、笠神博士の講義があったが、先生は最初に毛沼博士の不慮の死を哀悼するといって、すぐいつもの通り講義を始めようとされた。すると、級の一人が、
「先生、毛沼先生の死因はガス中毒ですか」
 と訊いた。
 笠神博士はジロリとその学生を眺めて、
「多分そうだと思います。実は死因を確める為に、私が解剖を命ぜられたのですけれども、思う所があって辞退して、宮内君にやって貰う事にしました。先刻鳥渡(ちょっと)訊きましたら、やはり一酸化炭素の中毒に相違ないということでした」
 いつの場合でもそうだが、今日の先生はいつもより一層謹厳な態度だったので、弥次(やじ)学生もそれ以上弥次質問をする事が出来ず、黙って終った。私はふと絶命の時間について訊いて見ようと思ったが、時間中でなくとも、いつでも訊けると思い直して、口を開かなかった。
 先生は講義を始められた。思いなしか、いつもほど元気がないようだった。同僚の不慮の死にあって、心を痛めておられるのだろうと、私はひそかに思った。
 放課後、私は先生の教室に行った。
「毛沼先生が大へんな事になりまして」
「ええ、大へんな事でした。然し、あなたは大分迷惑しましたね」
「いいえ、そんな事は問題じゃありません。先生、毛沼博士は十二時前後に死なれたのじゃないかと思うんですが、どうでしょうか」
「宮内君の鑑定では十一時乃至(ないし)一時という事です」
「十一時? そうすると、私が出てから三十分足らずの間ですね」
「死亡時間の推定は正確に一点を指すことは出来ませんから、通常相当の間隔をとるものです。一時の方に近いのでしょうね」
「仮りに一時としても、私が先生を最後に見てから、二時間半ですけれども、その間放出したガス量で中毒死が起りましょうか」
「起りましょうね」
 といって、鳥渡言葉を切って考えて、
「少くとも仮死の状態にはなりましょう」
「そうすると、真の死はそれ以後に起る訳ですね」
「そういう事になりましょうね」
「すると、死亡時刻は――」
 といいかけるのを、先生は軽く遮って、
「それはむずかしい問題です。殊にガス中毒の場合は一層むずかしいでしょう」
「そうなんですか」
 私は少し変だと思ったが、法医学の権威がいわれるのだから、承服せざるを得なかった。
「それはそうとして」
 先生は意味ありげな眼で、じっと私を眺めながら、
「少し話したい事があるんですが、今日でも宅へ来て呉れませんか」
「ええ、お伺いいたしましょう」
 何の話だか見当はつかなかったけれども、私は即座に承知した。先生の宅へ行って、いろいろ話を聞くという事は、その頃の一番楽しいものの一つだったのである。
 その日の夕刊には、もう毛沼博士の事は数行しか出ていなかった。死体解剖の結果一酸化炭素中毒による死であることが判明して、当局は前後の事情から、過失によるガス中毒と決定したという事だった。
 その夜私は笠神博士を訪ねた。博士は大へん喜んで私を迎えて、いつもの通り書斎でいろいろ有益な話をして呉れたが、今日の昼何となく意味ありげにいわれた「話」については、少しも触れなかった。尤も、こっちの思いなしかも知れないが、時々先生は話を始めかけようとしては、直ぐ思い返しては、学問上の話に戻られるのだった。そんな事が二三回あったが、先生はとうとう何にもいわれなかった。後で考えると、この時に、先生は私にもっと重要な話がしたかったらしいのだ。然し、どうしてもそれをいい出すことが出来ないで、そっと溜息をついては、他の学問の話を続けておられたのだ。私がもう少し早くその事に気がつけば、こちらから積極的に尋ねかけて、委しい話を聞いたものを、私がぼんやりしていた許りに、引続いて起る悲劇を防ぐ事の出来なかったのは、実に遺憾極ることではあった。
 毛沼博士の葬式は、笠神博士が葬儀委員長になって、頗(すこぶ)る盛大に行われた。何しろ頗る社交的な先生で、実社会の各方面に友人があったから、会葬者も二千名を超え、知名の士だけでも数百名を算した。然し、それは恰度(ちょうど)線香花火のようなもので、葬式がすんで終うと、妻もなく子もない先生の後は、文字通り火の消えたように淋しくなった。交際が派手だっただけ、それだけ後までもシンミリ見ようという友人は殆どないのだった。
 一週間経ち二週間経つ時分には、もう多くの人は毛沼博士の事などは忘れて終った。学校も学生も、友人も世間の誰もが、もう毛沼博士の存在を忘れて終っていた。もし誰かが毛沼博士の事を訊いたら、「え、毛沼博士、そうそう、そんな人がいましたね」と返辞をしたに違いない。もし、毛沼博士の死を未だ覚えているものがあるとしたら、恐らくそれは私一人だったろう。
 私がひそかに抱いていた三つの疑問は、日が経っても中々消えなかった。殊(こと)に、例の脅迫状の文句は、日が経つにつれて、反って益々私の脳裏にその鮮明の度を増して行くのだった。二十二年前を想起せよ。それから私の生年月日! それが私に全然無関係のものとはどうしても考えられないのだ。
 然し、もし私が次の出来事に遭遇しなかったなら、私も結局はやはり世間一般の人と同様、毛沼博士の事は忘れるともなく忘れて終ったろう。然し、運命はそれを許さなかった。私は一層苦しまなければならないようになったのだ。
 毛沼博士の死後半月ばかりだったと思う。私はいつもの通り笠神博士の宅を訪ねた。
 前にも述べた通り、私達二人の親密の度は一回毎に加速度を以て増して行った。それはむしろ先生の方から積極的に近づいて来られるのだった。無論私も親しくすればするほど、先生の慈愛深い点や、正直一方の所や、いろいろの美点を認めて、敬愛の念を深めて行ったけれども、終いには先生が教えるというよりは、恰(まる)で親身のようになって、而も私がもし離れでもしたら大変だというようにして、自ら屈してまで機嫌をとられるのが、はっきり分るほどになった。それが毛沼博士の死以来益々激しくなって、それは恰で恋人に対するような態度だった。私は内心うす気味悪くさえ感じたのだった。
 さて、その日はいつもの通り、いろいろ話合った末、晩餐の御馳走にまでなったが――この時は夫人も一緒だった。之も一つの不思議で、世間に噂を立てられたほど、夫人によそよそしかった先生が、この頃では次第に態度を変えられて、夫人にも大へん優しく親切にされるようになっていた。それが、やはり毛沼博士の死を境にして、急角度に転向して、流石(さすが)に言葉に出して、ちやほやはされなかったが、普通一般の夫よりも、もっと夫人に対し忠実になられたのだった。夫人の方ではそれを喜びながらも、反ってあまり激しい変化に、幾分の恐れを抱いておられたようだった。今までに、食卓を共にするなどということは絶対になかったのだが、この時は私と三人で快く会食せられたのである――会食後、夫人は後片付けに台所へ退られ、先生も鳥渡中座されたので、私は何心なく机の上に置いてあった先生の著書を取上げて、バラバラと頁を繰っているうに[#「うに」はママ]、その間からパラリと畳の上に落ちたものがあった。
 私は急いで、それを拾い上げたが、見るとそれは先生が大へん欲しがっておられた例の雑誌の写真版だった。いつの間に手に入れられたのか知らんと思って、じっと眺めると、私はハッと顔色を変えた。写真版の隅の方が欠けているではないか。切口も大へんギザギザしている。明かに鋏(はさみ)なぞで切取ったのではなく、手で引ちぎったものだ。而もその欠けている隅が、私にはハッキリ見覚えがある。確かに毛沼博士の所にあった雑誌に、その欠けた隅が残っている筈だ。もし、その写真版をあの雑誌に残っている切端に合せたら、寸分の狂いなくピタリと一致するに相違ない。
 私は余りに意外な出来事に、茫然とその写真版を見つめていた。それで、いつの間にか、先生が帰って来て、私の背後にじっと立っておられるのを知らなかった。
 私がふと振り向くと、先生は蒼い顔をして、佇(たたず)んでおられたが、ハッとしたように、
「ああ、君にいうのを忘れていたが、その写真を見つけましたよ」
 と何気なくいって、そのまま元の座につかれたが、その声が怪しくかすれているのを、私は聞き逃さなかった。私は然し何事もないように答えた。
「そうでしたか。私も一生懸命探していたのですが、とうとう見つかりませんでした」
「出入の古本屋が見つけて来てね。他の記事は別に欲しい人があるというので、私は写真版だけあればいいのだから、後は持たしてやったのです」
 私には博士が明かに嘘をついていることが分った。もし古本屋が雑誌を持って来て、切取ったものなら、こんな乱暴な取り方はしない筈である。いっそ嘘をいうのなら、始めから古本屋が写真版だけを取って持って来たといえばいいのに。平素正直な博士は突然にそんな旨い嘘はいえなかったのだ。
 博士は尚弁解を続けられた。
「君に頼んであったのだから、見つかった事を話すべきでしたね。ついうっかりしていて、すみませんでしたね」
「どういたしまして」
 私は写真版を元の通り本の間に挟んで、机の上に戻すと、直ぐに話題を他に転じた。先生もそれを喜ばれるように、二度と写真版の事については話されなかった。
 私はともすると心が暗くなるのを禁ずることが出来なかった。先生には努めてそれを隠しながら、そこそこに私は帰り仕度をしたのだった。

     盗んだ者は?

 写真版の発見は私の心に、ひどい重荷を背負せた。
 笠神博士の所にあった写真版が、毛沼博士の寝室にあった雑誌から取り去られたものであることは、疑いを挟(はさ)む余地がない。あの雑誌は数が大へん少なくて、笠神博士と私が出来るだけの手を尽しても、手に入らなかったものである。それも、笠神博士の所にあるものが、完全な切抜だったら問題はないが、隅の方が欠けていて、乱暴に引ちぎった形跡が歴然としているのだ。もう一冊あの雑誌があって、それからむりやりに写真版を引ちぎり、恰度同じように片隅が雑誌の方に残ったとしたら別問題だが、そんな筈はありようがない。第一雑誌そのものの数が非常に少ないのだし、写真版は大へん貴重なものだし、そんな乱暴な切取り方は普通の場合では、誰もしないだろう。仮りに破り損ったとしても、破片は破片で別に切取り、裏うちでもして、完全なものにする筈だ。
 写真版は毛沼博士の寝室にあった雑誌から引ちぎられたものに相違ないとして、さて、何人(なんぴと)がそれをやったか。
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