贋紙幣事件
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著者名:甲賀三郎 

      一

 稀(たま)に田舎に来ると実に好(い)いなあと思う。東京なんかに住まないで、こう云う田舎に住んで見たいなあと思う。空気が澄んでいるから空の色が綺麗(きれい)で、林があって、野原があって、牧場があって、静かでのんびりしていて本当に好い。東京からそう遠くない所にこんな好い所があるんだもの、日曜には活動なんか見に行かないで、空気の好い広々とした田舎へ来る方が、どんなに気持が好いか知れやしない。
 中学にはいって始めての学期試験が間もなく来るので、うんと勉強しなくちゃいけない。臨時試験には算術と読方(よみかた)は十点だったけれども、英語が七点で、理科と地理が六点だった。だから学年試験は余程(よほど)しっかりやらなくちゃならないのだけれども、お母さんが、勉強する時にはウンと勉強して、遊ぶ時にはウンと遊びなさい。日曜は空気の好い郊外に出て、身体を丈夫になさいと云われたから、今日はこうして森春雄君と一緒に田舎に来た。
 東京からそう離れてないと云ったけれども、これだけの道を、仮令(たとえ)途中は電車に乗るにしても、毎日通うのは大変だ。だから飛山(とびやま)君は偉いと思う。毎日この辺から学校に通っているのだから。
 飛山君は中学にはいってから始めて友達になった人だ。森君は小学校からずっと一緒で、とてもよく出来て、級長で通して来た、僕の大好きな友達だが、中学に来てもやっぱりよく出来て、臨時試験は皆満点だった。けれども中学となると、流石(さすが)に方々の小学校からよく出来るものが集っているだけに、森君に負けないような人も二三人ある。飛山君はその一人で、臨時試験はやはり皆満点だった。それに真面目(まじめ)でおとなしいから、僕は直(す)ぐ仲の好(い)い友達になった。
 今日は森君と相談して飛山君の田舎に遊びに来た。本当に淋しい道だ。家はチラホラあるけれども、しーんとしていて、人がいるのかいないのか分らない位、通る人にも滅多(めった)に会わない。東京の町とは大変な違いだ。
「ああ、可愛(かわい)い犬が来たぜ」
 森君はだしぬけに云った。森君は犬気違いだ。とても犬が好きで、犬とさえ見れば直(す)ぐ呼んで可愛がる。妙なもので、犬の方でも可愛がって呉(く)れる人は分ると見えて、時にはわんわん吠えて逃げて行くのもあるけれども、大抵(たいてい)の犬は尻尾(しっぽ)を振りながら森君の傍(そば)に寄って来る。
 森君は舌を鳴らしながらその犬を呼んだ。真白のおとなしそうな犬で、おどおどしながらも、嬉(うれ)しそうにヒョコヒョコと森君の傍に寄って来た。見ると、可哀相(かわいそう)にびっこを引いている。森君も直ぐ気がついた。
「オヤ。びっこを引いているじゃないか。どうしたんだい。ちょっと脚をお見せ」
 森君は往来にしゃがんで犬を抱えるようにして、びっこを引いている脚を持上げて、丁寧に調べた。
「やっぱり蝨(だに)がついているんだ。可哀そうに。脚の爪の間に蝨がつくと、自分では取れないからな。よしよし取ってやるぞ」
 森君は犬の脚を高く上げて、爪の間に西瓜(すいか)の種ほどの大きさに脹(ふく)れている蒼黒(あおぐろ)い蝨をつまんで、力一杯引張って漸(ようや)くの事で引離して、地面に投げつけると踏み潰した。その間犬は何をされているのか分っていると見えて、眼を細くしてじっとしていた。
「さあ、これでもうびっこを引かなくても好(い)いぞ」
 森君はそう云って、犬の脚を離そうとしたが、その時にオヤと云って首を捻(ひね)った。見ると、脚の裏に何だか赤黒いものがベットリついている。
「血じゃないか。森君」
 僕がびっくりして云うと、森君は首を振った。
「血じゃないよ。何かくっついているんだよ。変だなあ」
 森君はポケットから紙を出して、犬の脚の裏をちょっとこすって見てから、脚を放した。犬は暫(しばら)くクンクン云って尾を振りながら森君にジャレていたが、やがて一目散にどこかへ駆けて行った。
 森君は何か考えながら黙って歩き出した。森君が考え事をしている時に、うっかり話しかけると怒るので、僕も矢張(やは)り黙って肩を並べて歩いて行った。
 一軒の百姓家の前に来ると、十か十一位の女の子がぼんやり往来を眺めながら立っていた。森君は何と思ったか、女の子の傍に寄って訊(き)いた。
「このへんにペンキ屋さんがある?」
 女の子は首を振った。森君は又訊いた。
「飛山さんて家どこ?」
 すると、女の子は急に顔をしかめて、私達を軽蔑(けいべつ)したような眼でジロリと見たかと思うと、ぷいと向うの方に行ってしまった。
 ああ、僕はその訳を知っている。いつか、島内君の時もそうだったけれども、飛山君は可哀そうに今この村の人に排斥(はいせき)されているのだ。その訳は、一体飛山君のうちは貧乏で、とても飛山君を中学へなんか出せないのだけれども、飛山君が学問が好きでよく出来るものだから、無理にせがんで中学に入れて貰(もら)ったので、飛山君は苦学をしているんだ。朝早く起きて近所の牧場へ行って、牛乳を搾(しぼ)ったり、いろいろの用をして、それから遠い道を学校まで通って来るのだ。学校から帰れば又人の家へ働きに行く。そんなに働きながら森君にまけない位よく出来るのだから全く偉いと思う。
 所が、その飛山君がこの頃だんだん出来なくなってきた。臨時試験には何でも満点を取って置きながら、この頃はどうかすると先生の質問につかえて返事が出来なかったり、前の日に習った事を忘れたりする。どうも変だと思っていたら、やっぱり訳があった。その訳と云うのは、飛山君のお父さんは東京のどこかで贋紙幣(にせさつ)を使おうとして捕まったんだそうだ。そして今は警察に留(と)められているんだって。こんな心配があっては飛山君の出来が悪くなるのは当前(あたりまえ)だ。そんな事で、村の人はきっと飛山君を排斥しているに違いない。
 僕は前の島内君の事があるので、飛山君と遊んで好(い)いかお母さんに訊(き)いて見た。するとお母さんは、
「構いませんとも。飛山さんは少しも悪い事をしたんじゃありませんし、飛山君のお父さんも、学校の先生に伺ったり、新聞で読んで知ったのですけれども、贋紙幣を拵(こしら)えたのではなくて、使おうとしただけで、しかもそれは贋(にせ)だとは知らなかったのです。けれども、飛山さんのお父さんは、その紙幣(さつ)がどうして手にはいったかと云う事をどうしても云わないのです。それで警察に留められているのです。お父さんは大方誰か恩になっている人から、それを貰ったので、その事を云うと、その人の迷惑になると思って黙っているのでしょう。今時他人(ひと)の迷惑になるのを恐れて、警察に留められても黙っているなんて珍らしい方ですよ」
「お母さん、贋紙幣ってどうして造るの」と訊いて見たら、お母さんはそんな事は知らないと云った。そうして紙幣(さつ)と云っているけれども、あれは正しくは兌換券(だかんけん)と云うもので、日本銀行と云う銀行が発行しているので、兌換券と云うのは、そこへ持って行けば金貨と兌換して呉れるからで、兌換と云うのは換える事だそうだ。あんな紙だけれども日本銀行へ持って行けばいつでも金貨と換えて呉れるから、それだけの値打があるので、贋紙幣だったら紙だけの値打しかないのだそうだ。だからそんなものを無闇(むやみ)に造って使われたら大変なので、重い罪にしてあるそうだ。この紙幣(さつ)の発行は日本銀行だけれども、拵(こしら)えるのは印刷局だそうだ。造幣局と云うのは、金貨や銀貨や銅貨を造る所だそうだ。紙幣(さつ)は贋(にせ)が中々出来ないように、紙から特別に拵えて、意匠やら模様やら色やら骨が折ってあるので、ちょっとした事では贋紙幣なんか出来るものではないそうだ。
 飛山君の家を訊いたら女の子が逃げ出したので、森君と僕とは又歩き出した。すると向うの方から白い犬が尻尾(しっぽ)を振りながら飛んで来た、見ると、先刻森君が脚の蝨(だに)を取ってやった犬だ。その犬の他に二三匹仲間の犬がいてしきりに、ジャレ始めた。
 森君は例の如く舌を鳴らして、他の犬をみんな呼び寄せたが、何と思ったか、一匹ずつ抱いては脚を上げて脚の裏を調べた。最後に一匹少し大きい茶の斑(ぶち)の強そうな犬は、わんわんと吠えて、中々傍へ来そうになかったが、森君は例の可愛(かわい)い白い犬を囮(おとり)にして、とうとう傍に来させて捕まえた。前脚をあげると、その犬にはベットリと例の赤黒いものがついていた。
 森君が余り自由に犬を扱うので、面白くなったと見えて、さっきの女の子が又傍に寄って来た。森君は白い犬を指(さ)しながら訊いた。
「これ、どこの犬?」
「藤山さんとこんだ」
「これは」森君は茶の斑犬(ぶちいぬ)を指した。
「お寺んだ」
「お寺? どこにあるの」
「この先の大きな銀杏(いちょう)のあるお寺だあ」
 森君は犬を放して起上(おきあが)った。
「風岡君。お寺へ行って見ようや」

      二

 僕達は大きな銀杏(いちょう)の木を目当にお寺に行った。白と茶斑の犬はジャレながらついて来た。
 見上げるような大きい太い銀杏は墓場を仕切っている土塀(どべい)の傍に突立っていた。土塀は大方崩れかかっていた。墓場から少し離れた所に本堂があった。本堂は可成(かなり)大きくて、廻りがずっと空いていた。本堂は随分古びていたけれども、中々しっかりしていた。前側の階段にはキラキラと日が当っていた。あたりには誰もいなかった。
 森君は階段を上って、お堂の中を覗(のぞ)き込んで、廻郎を歩き廻って下へ降りて、今度はお堂の廻りをグルグル歩き初めた。さっきからついて来た二匹の犬は、馴(な)れた場所だと見えて、大はしゃぎで、飛びついたり一緒に転んだり、追い駆け廻したりしていたが、そのうちに一匹が勢(いきおい)よくお堂の下に飛込むと、後の一匹がその後を追って縁の下に消えた。暫くすると、二匹が又勢よく飛出してきた。
 森君は暫く犬のふざけているのを見ていたが、又お堂の上に昇った。そうして何と思ったのか、蟇口(がまぐち)を取り出して中から五十銭銀貨をつまんだかと思うと、廊下の隙間から縁の下へポタンと落した。そうして、しまったと云いながら、(その癖(くせ)森君はニヤニヤ笑っていた)急いで下に降りて縁の下に潜り込んだ。
 僕は何の事だか訳が分らないので、ボンヤリ立って縁の下の方を眺めていた。
 森君は、余程奥の方にはいり込んだらしく、少しばかり外に食(は)み出していた靴の先もやがて見えなくなった。
 すると、この時に背後(うしろ)の方に人の足音がしたので、僕は吃驚(びっくり)して振り向いた。和尚(おしょう)さんだろう。背の高い恐い顔をした坊さんが立っていた。
「何をしているんだ」
 坊さんらしくない横柄(おうへい)な声で訊いた。僕はどう云おうかと思っていると、縁の下からあとずさりをしながら森君が這(は)いだして来た。洋服中泥だらけだ。僕は森君があとずさりで這っている姿がおかしかったので、クスリと笑った。然(しか)し、坊さんは笑おうともしないで益々(ますます)恐い顔をして、今度は這い出したばかりで、ズボンの泥を払っている森君の方を向いて云った。
「何をしているのか」
「僕この上から五十銭銀貨を落したので、潜り込んで探しているんです。中々見つからないのです」
 森君が弁解すると、坊さんは少し顔を和(やわら)げて優しくなった。
「なに、五十銭銀貨を落したって。そそっかしい子供だなあ。小父さんが五十銭出して上げるから、縁の下に潜るのはお止(よ)し」
 そう云って坊さんは懐中(ふところ)から財布をだして、五十銭銀貨を森君に渡そうとした。森君は手を振って受取らなかった。
「好(い)いんです。僕が悪かったのですから。もう縁の下なんかに潜りません。さようなら」
 森君は帽子を取ってペコンとお辞儀をして、坊さんが呆(あき)れている暇にさっさと歩きだした。僕も少し呆れながら森君の後について行った。
 お寺の門の外へ出ると、森君は又妙な事を云い出した。
「この辺に電灯会社の出張所はないかなあ」
 暫くブラブラ歩いているうちに、十軒ばかり家が並んでいる所へ来た。その外(はず)れの一軒に電力会社工夫(こうふ)詰所(つめしょ)と書いた札が出ていた。森君はその中にはいって行った。中には恐い顔をした工夫が二三人いたが、森君は平気だった。森君は全く勇敢だ。
「小父(おじ)さん」森君はなれなれしく云った。「この近所に動力を使っている所がありますか」
「ああ、あるよ。この向うの精米所(せいまいじょ)と、それからこっちの機織場(はたおりば)と。妙な事を聞くね」工夫の一人は不審そうに森君を見た。金ボタンの制服を来た小さい中学生がだしぬけに変な質問をしたのだから、工夫の驚いたのは無理がない。
「有難う。その他にありませんか」
「その他には、この近所にはないね」
「この頃盗電はありませんか」
「あるよ。盗電があって困っているんだ」
 工夫はびっくりしたように森君の顔を眺めながら答えた。
「どこで盗んでいるんだか分らないんですか」
「分らないので困っているんだよ。君はどうしてそんな事を訊くんだい」
「別にどうという事はないんです。どうも有難う。さようなら」
 森君は又ペコンと頭を下げて外に出たが、珍らしく僕に話かけた。
「大人なんて、案外駄目なもんだなあ」
 僕は何が駄目なのかよく分らなかったので黙っていた。
 工夫詰所を出た森君は後戻(あともど)りを始めた。すると、来る時には気がつかなかったが、一軒の小さい鍛冶屋(かじや)があった。ブーブーと鞴(ふいご)でコークスの火を燃やして、その中で真赤にした鉄を鉄床(かなとこ)の中に鋏(はさみ)で挟(はさ)んで置いて、二人の男がトッテンカンと交(かわ)る交(がわ)る鉄鎚(てっつい)で叩いていた。叩く度にパッパッと火花が散った。
 森君は鍛冶屋の前に行くと又ツカツカと中にはいった。
「お寺の和尚さんの頼んだものはいつ出来ますか」
「ネジ廻しかね」向う鎚(づち)を振上げた男は迂散(うさん)そうな顔をして、森君を見ながら、「明日の朝出来ますだよ」
「有難う」
 森君は鍛冶屋を出たが、ニコニコしていて何だか嬉しそうだった。
 森君は先に立ってグングン歩いて行くので、僕はどこへ行く積(つも)りだろうと怪しみながらついて行くと、又(また)先刻(さっき)のお寺の門の所に来た。森君は平気でさっさと門を潜ってお寺の中へはいった。
「風岡君、僕はもう一ぺん縁の下に潜るから、あの変な坊さんが来ないか見ていて呉(く)れ給え。もし来たら、来たッと云って呉れ給え。好いかい」
 僕がもうそんな事は好し給えと止めようと思っているうちに、森君はもう縁の下に潜ってしまった。僕は先刻の和尚さんが来たら又怒るだろうと思って気が気ではなかった。すると、向うの方から急いで来る和尚さんの姿が見えたから、僕は縁の下を覗(のぞ)きながら大きな声で、
「来たッ!」と云った。
 森君は急いで這い出して来て起上(おきあが)ると、泥を払う暇もなく、
「風岡(かざおか)君逃げろ、逃げろ」と云って、一目散に走り出した。僕も夢中で駆け出したが、先に駆けて行く森君の手を見ると、何だか瓶(びん)みたいなものを掴(つか)んでいた。
「待てッ! こら泥棒!」
 和尚さんは大きな声で怒鳴って、ドシンドシンと僕達の後を追い駆けて来た。僕達はもう少しの所で捕まる所だったが、その時に森君は以前(まえ)に見て置いたと見えて、村の交番の中に駆け込んだ。(ここは交番と云うのではなく駐在所と云うんだそうだ)僕も続いて駆け込んだ。中にいた巡査は目を丸くした。
「そ、そいつは泥棒です」
 息を切らしながら後から駆けて来た坊さんは、巡査とは知合(しりあい)の中だから、ちょっと会釈(えしゃく)して、僕たちを睨(にら)みながら云った。
「泥棒でも何でもありませんよ。坊さんの方が悪いのです。これを見て下さい」
 森君も息を弾(はず)ませながら云って、手に握っていた瓶を巡査の前に差出した。
「な、なんじゃね。之(これ)は」
 巡査は吃驚(びっくり)したように云った。びっくりするのも無理がない、誰だって出し抜けに汚い瓶を目の前に出されたら、何が何だか分りゃしないもの。
「之はお寺の縁の下にあったのです。これは劇薬の塩酸の瓶です。これは――」
 森君が云いかけると、坊さんは今まで真赤にしていた顔を、急に真蒼(まっさお)にして森君に飛びかかろうとしたが、直ぐに思い返して、ドンドン元来た方へ逃げようとした。
 森君は大きな声で叫んだ。
「アッ、逃がしてはいけません。早く捕まえて下さい。あの坊さんが贋紙幣(にせさつ)を造っているんですッ!」
 交番の巡査は泡を喰って坊さんの後を追(おっ)かけた。

      三

「僕は始めには何にも知らなかったさ」
 坊さんが捕まって、森君の云った通り贋紙幣を造っていた事を白状した時に、森君はちょっと得意になって云いました。
「僕は飛山君が気の毒だと思って、一ぺん飛山君の家へ行って、お父さんが貰って使おうとしたと云う贋紙幣はどこから来たのか、旨(うま)く行けば尋ね出したいと思ったんだよ。所が道で、ホラ、びっこを引いた犬がいたろう。脚の爪の間の蝨(だに)を取ってやる時に、ふと脚の裏を見ると赤味のかかった紫色のインキがついているじゃないか。僕は知っているけれども、之(これ)は普通のインキじゃない。印刷用の上等のインキなんだ。念の為にペンキ屋があるかと聞いて見たがないと云うし、田舎に印刷屋がある筈(はず)もない。おかしいなと思って、他の犬を調べて見たが、一匹だけ、ホラ、茶の斑(ぶち)のお寺の犬の脚の裏にベットリと同じインキがついているんだ。白い犬と斑犬(ぶちいぬ)は親友らしく、いつも一緒にふざけているらしい。そこで、僕はお寺へ行って見る気になったのさ。そうしたら、二匹の犬がお堂の縁の下へ駆け込んだろう」
「うん」僕はうなずいた。「それで、君はわざと五十銭銀貨を落して、縁の下へ潜りこんだのだね」
「そうなんだよ。けれども、実は僕はあの時には未(ま)だ何にも分らなかった。所が、お寺の和尚さんが僕をひどく叱りつけて、銀貨を探していると云ったら、銀貨をやるから縁の下には潜るなと云ったろう。あの時に僕はふと怪しいと思い出したんだ。和尚さんの様子が只事(ただごと)じゃなかったからね。二匹の犬はどこで印刷に使う赤紫のインキを踏んだのか知らないけれども、仮(か)りにお堂の下で踏んだものとしたら、そして和尚さんがお堂の下を見られるのを嫌(いや)がっているとしたら、大いに怪しくなって来るじゃないか」
「それから君は電灯会社の詰所へ行ったね」
「ああ、僕はね、もしどこかで紙幣(さつ)を印刷していたら、きっと機械を動かすのに電気を使うだろうし、その電気は黙って盗むに違いないと思ったから工夫の詰所へ行って聞いて見たのさ。そうしたら僕の思い通りだったんだ」
「それから鍛冶屋へ行ったのは」
「もし、僕が怪しいと思った和尚さんが、贋紙幣を拵えていたら、機械を使うのだから、何か鍛冶屋に注文してはいないかと思ったから訊いて見たんだ。そうしたら、お寺に要りそうもないネジ廻しを注文していたと云う事が分った。これでいよいよお寺が怪しくなったので、もう一度お寺に帰って縁の下に潜りこんだのさ。そうして、ずっと奥の方に入って見ると、暗くてよく分らないけれども、大きな穴が掘ってあって、その中に機械らしいものが見えた。その時に君の来たッ! と云う声が聞えたので、急いで飛出したんだが、その時に傍に転げていた瓶を拾って来た。外へ出て見たら、それは劇薬の塩酸の空瓶(あきびん)だった。塩酸は印刷に使う銅の板を磨いたり、腐蝕(ふしょく)させて、いろいろの文字や模様を彫り込むのに使うのさ。駐在所まで追かけて来た坊さんは僕にすっかり見破られたと思ったので、あわてて逃げ出したんだよ」
 僕は感心して森君の顔を見た。全く森君はいろんな事を知っているのには敬服する。
 お寺の縁の下は直ぐ調べられたが、森君の云った通り中ほどに大きな穴が掘ってあって、そこに精巧な印刷機械が据えつけてあった。印刷機械は電気で動くようになっていて、電気は勝手に線を引いて盗んでいた。大きなお堂の縁の下だし、廻りは広々と明いているし、お寺がすでに一軒ポツンと離れているのだから、少し位機械の音がしても聞えはしなかったのだ。それに誰だってお寺の坊さんと云えば尊敬しているのが常だから、そんな悪い事をしようとは思わなかったので、中々知れなかったのだ。
 坊さんは縁の下の秘密が分ったので、すっかり白状してしまった。外にも四五人仲間があって、中には印刷の職工や画工や彫刻師があったが、みんな捕まってしまった。だんだん調べてみると、主謀者は他にあって、坊さんは無理に引込まれたのだと云う事だった。飛山君のお父さんは家が貧乏で、お寺からお金を借りたり、いろいろ世話になっていたので、今度も、坊さんから贋紙幣と知らないでお金を借りたのだったが、警察へ連れて行かれた時に恩になった坊さんの名を出すまいと、どんなに調べられても黙っていたのだった。飛山君のお父さんは恩を忘れないで感心には感心な人だけれども、そう云う悪い事をする人の世話になったのはいけないとお母さんがおっしゃった。だから人は無闇(むやみ)に他人の世話にならないで、独立してやって行けるようにならなくてはいけませんとおっしゃった。
 森君は又警察から賞(ほ)められて褒美(ほうび)を貰った。飛山君は元通り学校に来ているが、何でも飛山君の感心な事を聞いて、誰かが学資を出して呉れるようになったので、飛山君は前のように苦学をしなくても好いようになって、前よりももっと出来るようになった。好い事をしていればいつか報いられるものだと思う。
 飛山君は幸福となるし、飛山君のお父さんは疑いが晴れるし、森君は本当に好い事をしたと思う。大人も見つける事の出来なかった悪者を見つけて、この世の中から退治たのは偉いと思う。森君は大人のような智慧(ちえ)があって、何だか恐(こわ)いけれども、一方ではとても優しい所があるから僕は大好(だいすき)だ。現に今度の事でも、森君が優しくびっこの犬を介抱してやったればこそ、緒(いとぐち)が見つかったんだから。




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