めでたき風景
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著者名:小出楢重 

   めでたき風景

 奈良公園の一軒家で私が自炊生活していた時、初春の梅が咲くころなどは、静かな公園を新婚の夫婦が、しばしば散歩しているのを私の窓から十分眺めることが出来た。彼ら男女は、私の一軒家の近くまで来ると必ず立ちどまる。そこには小さな池があり、杉があり、梅があり、亭(ちん)があるので甚(はなは)だ構図がよろしいためだろう。
 そして誰も見ていないと思って彼ら二人は安心して仲がいいのだ。即ち細君を池の側へ立たせて、も少し右向いて、そうそう少し笑って見い、そやそや、といって亭主はピントを合せるのだが、私はそれらの光景をあまり度々(たびたび)見せられたためか、どうもそれ以来、写真機をぶら下げた紳士を見ると少し不愉快を覚えるのである。どうも写真機というものは実は私も持っているが、一種のなまぬるさを持っていていけない。
 しかし、そのなまぬるさを嫌っては、どうも近代の女たちからの評判はよろしくないようだと思う。我々は古い男たちよと呼ばれざるを得ないであろう。
 そのなまぬるさを平気でやるだけの新鮮なる修業は、我々明治年間に生年月日を持つ男たちにとっては、かなりの悩みである。
 私は巴里(パリ)で、誰れかのアミーと共に自動車に乗る時、うっかりとお先きへ失敬して、アミーたちにその無礼を叱(しか)られがちだった。
 いつのことだったか、雨が降りそうな日に、私と私の細君とが公設市場の近くまで来た時、理髪屋の前で細君が転(ころ)んだ、高い歯の下駄(げた)を履(は)いていたのだ。私はその瞬間に大勢の人と散髪屋が笑っているのを見たので、私はさっさと歩いてしまったものだ。起き上って私に追いついた細君は、もうその薄情さには呆(あき)れたといってぶうぶういった。といっておお可哀そうに、などいって抱き上げることは、私の潜在せる大和魂(やまとだましい)という奴がどうしても承知してくれないのだ。
 その大和魂の存在がよほど口惜しかったと見えて、東京のNさん夫婦がその後遊びに来た時、細君同士は男子の薄情について語り合った末、その一例として妻は公設市場で転んだ件を話して同情を求めたところ、N夫人は、私の方はもっとひどいのよといった。それは過日市電のすぐ前で雨の日に転んだというのだ。電車は急停車したが、それを見た亭主は、十間(けん)ばかり向うへ逃げ出したそうだ。命に関する出来事であるにかかわらず逃げるとは如何(いかが)なもので御座いましょうといった。御亭主は、それはあなたと、もじもじしているので私はそれがその、我々の大和魂の現れで、かの弁慶でさえも、この点では上使の段で、鳴く蝉(せみ)よりも何んとかいって悩んでいる訳なんだからといって、すでに錆(さび)かかっている大和魂へ我々亭主はしきりに光沢布巾(つやぶきん)をかけるのであった。

   白光と毒素

 女給はクリーム入れましょうかとたずねる。どろどろの珈琲が飲みたい日は入れてくれというし、甘ったるいすべてが厭な日はいらないといって断る。考えてみるにどろどろしたクリームを要求する日は元気で心も善良で、どうかすると少しおめでたいけれども、砂糖もなきにがい珈琲を好く日はどうも少し心がひん曲っていることが多いようである。
 人間もだんだんどろどろしたものが厭になり、何事もケチがつけてみたくなり、何事にも賛成できなくなり、飛びつく食欲を覚えず、女人の顔を真正面から厚かましく眺めるような年配となってくることは淋しいことだ。
 やはり人間はカツレツと甘い珈琲が好きで、なかば霞んでいる方がかわい気はある。あまりに冴えた女性はどうも男達からの評判はよろしくないことが多い。
 私自身も近ごろだんだん霞の煙幕の向こう側が意地悪く見えすいて来たりして、なるほどこれかと思い当たるようになって来たことは気の毒だ。でも老人がいつまでも甘ったるくても迷惑なことである。私などは近頃、ついうっかりと美人の鼻の穴の黒き汚れや皺の数とその方向に見惚れたり、その皺によって運勢までも観破しかねまじき眼光の輝きをわれながら感じて来た。
 でも、この地球の上はありがたいことにも年に一回は必ずこれは女給ではなく、かの木花開耶姫が一匙のクリームを天上からそそぎかけると、たちまちにして地上の空気はどろどろとなり、甘ったるく、なまぬるく、都会の夕暮をつつみ、あるいは六甲の連山をかすめる。このクリームの毒素は私にも影響する。何かこうじっとしていては罰が当たりそうで、といって一体何をどうすればよいか見当がつかない、といった心もちだ。春過ぎた奴でさえこれだ。今春の最中にいて、この乳色のどろどろの珈琲を飲み込んでは、まったく若き男女は一体どうするのか、私もまた同情に堪えない。
 四季を通じて女性はこの世に存在するが、春はまったくこの毒素にあたったものが毒にあたったものを眺めるのだから、気狂いが気狂いを見るのと同じく、まったく女の優劣も美麗も判然と区別する能力を失い勝ちだ。ただ春のそして若き女性からは燦爛たる白光が立ち上り、ただわれわれの眼はぐらぐらとくらむだけである。まったく男達が春における女性を見ると眼はただ二個の無力なレンズであるに過ぎない。
 だからわれわれの若き時代の恋愛の手紙の一節を思い出してみるがいい。おお紅薔薇の君よ、谷間の白百合よ、私の女神よ救って下さいと嘆願したりしている。ちっともそれが百合らしくも薔薇でもないのに。
 だが、そう見えるところにこの[#「この」は底本にはなし]春の毒素の面白さがあるのだ。まったくもって、恥しいことを春には口走るが、それは幸福なたわごととしてお互いに見ぬふりの致し合いをするところに、また春のめでたさもあるようである。
 ある写生地の山桜の下で一人の女流画家が、春だわ、春だわ、青春だわ、と叫んで乳色の毒にあたってふらふらしていたのを見たことがあった。今でも春になるとその叫び声とその時の悪寒を思い出す。
 とにかく山、河、草木、池、都会、ごみ溜、ビルディングの窓という窓をことごとくこのクリームが包んでしまうと、男の眼はガラスと変じ、若き女性からは悩ましき白光が立ち上る。
 舞台では春の踊りやレヴューの足の観兵式である。白光と毒素は充満する。霞を失いつつあるわれわれも、年に一度は開耶姫の珈琲を遠慮なく飲んでおきましょう。

   大阪弁雑談

 京阪(けいはん)地方位い特殊な言葉を使っている部分も珍らしいと思う。それも文明の中心地帯でありながら、日本の国語とは全く違った話を日常続けているのである。私はいつか、西洋人に対してさえ恥かしい思(おもい)をした事があった。その西洋人は日本の国語と、そのアクセントを丁寧に習得した人であったから、美しい東京弁なのである。そして私の言葉は少し困った大阪弁なのであった。
 大阪地方は言葉そのものも随分違ってはいるが、一番違っているのは言葉の抑揚である。それは東京弁の全く正反対のアクセントを持つ事が多い。上るべき処が下り、下るべき処が上っている。
 たとえば「何が」という「な」は東京では上るが大阪は上らない。「くも」のくの音を上げると東京では蜘蛛(くも)となり、大阪では「雲」となる。
 大阪の蜘蛛は「く」の字が低く「も」が高く発音されるのである。これは一例に過ぎないがその他無数に反対である。
 それで大阪で発祥した処の浄るりを東京人が語ると、本当の浄るりとは聞えない。さわりの部分はまだいいとして言葉に至っては全く変なものに化けている事が多い。浄るりの標準語は何といっても大阪弁である。
 従って、大阪人は浄るりさえ語らしておけば一番立派な人に見える。
 よほど以前、私は道頓堀(どうとんぼり)で大阪の若い役者によって演じられた三人吉三(さんにんきちざ)を見た事があった。その芸は熱心だったが、せりふの嫌(いや)らしさが今に忘れ得ない。大阪ぼんちが泥棒ごっこをして遊んでいるようだった。見ている間は寒気(さむけ)を感じつづけた。
 東京で私は忠臣蔵の茶屋場を見た。役者は全部東京弁で演じていた。従ってその一力(いちりき)楼は、京都でなく両国の川べりであるらしい気がした。しかしそんな事が芝居としては問題にもならず、何かさらさらとして意気な忠臣蔵だと思えただけであった。一力楼は本籍を東京へ移してしまった訳である。
 大阪役者が三人吉三をやる時にも、一層の事、本籍を大阪へ移してからやればいいと思う。
 もしも、大阪弁を使う弁天小僧や直侍(なおざむらい)が現れたら、随分面白い事だろうと思う。その極(きわ)めて歯切れの悪い、深刻でネチネチとした、粘着力のある気前(きま)えのよくない、慾張りで、しみたれた泥棒が三人生れたりするかも知れない。それならまたそれで一つの存在として見ていられるかと思う。
 先ず芝居や歌とかいうものは、言葉の違いからかえって地方色が出て、甚だ面白いというものであるが、日本の現代に生れたわれわれが、日常に使う言葉はあまり地方色の濃厚な事は昔と違って不便であり、あまり喜ばれないのである。
 標準語が定められ、読本(とくほん)があり、作文がある今日、相当教養あるものが、何かのあいさつや講演をするのに持って生れた大阪弁をそのまま出しては、立派な説も笑いの種となる事が多い。品格も何もかもを台なしにする事がある。
 そこで、今の新らしい大阪人は、全くうっかりとものがいえない時代となっている。だからなるべく若い大阪人は大阪弁を隠そうと努めているようである。ある者は読本の如く、女学生は小説の如くしゃべろうとしている傾向もあるようだ。
 ところで標準語も、読本の如く文章で書く事は、先ず記憶さえあれば誰れにも一通りは書けるし、喋(しゃべ)る事も出来るが、一番むずかしいのはその発音、抑揚、節(ふし)といったものである。
 君が代が安来節(やすぎぶし)に聞えても困るし、歯切れの悪い弁天小僧も嫌である。

 大阪人は大阪弁を、東京人は東京弁を持って生れる。持って生れた言葉が偶然にもその国の標準語であったという事は、何んといっても仕合せな事である。
 私の如く大阪弁を発するものが、何かの場合に正しくものをいおうとすると、それは芝居を演じている心持ちが離れない。それもすこぶる拙(まず)いせりふである。
 自分でせりふの拙さを意識するものだから、ついいうべき事が気遅れして、充分に心が尽せないので腹が立つ。地震で逃げる時、ワルツを考え出している位の、ちぐはぐな心である。
 自分の心と、言葉と、その表情である処の抑揚とがお互に無関係である事を感じた時の嫌さというものは、全く苦々(にがにが)しい気のするものである。
 時にはそんな事から、西を東だといってしまう位の間違いさえ感じる事がある。全く声色(こわいろ)の生活はやり切れない。
 大阪の紳士が電車の中などで、時に喧嘩(けんか)をしているのを見る事があるが、それは真(まこ)とに悲劇である。大勢の見物人の前だから、初めは標準語でやっているが、忽(たちま)ち心乱れてくると「何んやもう一ぺんいうて見い、あほめ、糞(くそ)たれめ、何吐(ぬか)してけつかる」といった調子に落ちて行く。喧嘩は殊(こと)に他人の声色ではやれるものではない。
 私は時々、ラジオの趣味講座を聴(き)く事がある、その講演者が純粋の東京人である時は、その話の内容は別として、ともかく、その音律だけは心地よく聴く事が出来るが大阪人の演ずるお話は、大概の場合、その言葉に相当した美しい抑揚が欠乏しているので、話が無表情であり、従って退屈を感じる。少し我慢して聴いていると不愉快を覚える。
 だから私は大阪人の講演では、大阪落語だけ聞く事が出来る。それは本当の大阪弁を遠慮なく使用するがために、話が殺されていないから心もちがよいのである。

 ある、いろいろの苦しまぎれからでもあるか、近頃は大阪弁に国語のころもを着せた半端(はんぱ)な言葉が随分現れ出したようである。
 例えば「それを取ってくれ」という意味の事を、ある奥様たちは頂戴(ちょうだい)という字にいんかを結びつけて、ちょっとそれ取って頂戴いんかといったりする。
 勿論(もちろん)こんな言葉は主として若い細君や、職業婦人、学校の先生、女学生、モダンガアル等が使うようである。
 それから「あのな」「そやな」の「な」を「ね」と改めた人も随分多い。「あのね」「そやね」「いうてるのんやけどね」等がある。
 少し長い言葉では「これぼんぼん、そんな事したらいけませんやありませんか、あほですね」などがある。
 これらの言葉の抑揚は、全くの大阪風であるからほとんど棒読みの響きを発する。従ってこれというまとまった表情を示さないものだから、何か交通巡査が怒っているような、役人が命令しているような調子がある。多少神経がまがっている時などこの言葉を聞くと、理由なしに腹が立ってくるのである。もし細君がこの言葉を発したら、到底ああそうかと亭主は承知する訳には行くまいと思われる位だ。「あなた、いけませんやないか」などいわれたら、何糞(なにくそ)、もっとしてやれという気になるかも知れないと思う。妙に反抗心をそそる響をもった言葉である。
 こんな不愉快な言葉も使っている本人の心もちでは決して亭主や男たちを怒らせるつもりでは更にないので、あるいは嘆願している場合もある位である。嘆願が命令となって伝わるのだから堪(たま)らない。
 笑っているのに顔の表情が泣いていてはなおさら困る。
 葬式の日に顔だけがとうとう笑いつづけていたとしたら、全く失礼の極(きわ)みである。何んと弁解しても役に立たない。
 もしこの言葉と同じ意味の事柄を流暢(りゅうちょう)な東京弁か、本当の大阪や京都弁で、ある表情を含めて申上げたら、男は直ちに柔順に承諾するであろうと考える。
 全く、気の毒にも、今の若い大阪人は、心と言葉と発音の不調和から、日々不知不識(しらずしらず)の間に、どれだけ多くの、いらない気兼ねをして見たり、かんしゃくを起したり、喧嘩をしたり、笑われたり、不愉快になったり、しているか知れないと思う。

 ところで私自身が、私の貧しい品格を相当に保ちつつ、何かしゃべらねばならない場合において、私が嫌がっている処の大阪的な国語が、私の口から出ているのを感じて、私は全く情けなくなるのだ。自分のしゃべっている言葉を厭だと考えては次の文句はのどへつかえてしまうはずである。それでは純粋の東京流の言葉と抑揚を用いようとすると、変に芝居じみるようで私の心の底で心が笑う。全くやり切れない事である。つまらない事で私はどれ位不幸を背負っているか知れないと思う。
 それで私は、私の無礼が許される程度の仲間においては、なるべく私の感情を充分気取らずに述べ得る処の、本当の大阪弁を使わしてもらうのである。すると、あらゆる私の心の親密さが全部ぞろぞろと湧(わ)き出してしまうのを感じる。
 私は、新らしい大阪人がいつまでもかかる特殊にして半端な言葉を使って、情けない気兼ねをしたり、ちぐはぐな感情を吐き出して困っているのが気の毒で堪らないのである。あるいはそれほど困っていないのかも知れないが、私にはさように思えて仕方がないのである。

   主として女の顔

 電車の中へ、若い女が新しく立ち現れた時、大概の女客はまずその衣服を眺めるけれども、われわれ男達はまずその顔を注視する。相当の年輩の老人でさえも雑誌や新聞の上から瞰むが如くつくづくと眺めているのを私は見る。
 そしてなんだつまらないといった顔して再び新聞を安心して読みつづける男もあれば、興奮を感じて幾度も、幾度もその顔を見返しながら、ある陶酔を覚えているらしい男達をも私は認める。そして老人であればあるほど、無遠慮に相手の顔を厚かましく観賞するものである。
 人間が人間の顔の構造を見て楽しむということは誰でもがすることだが、考えると何だか不思議な事柄である。それは単に二つの目とたった一つの鼻と口と位の造作に過ぎないのだが、その並べ方とちょっとした形のくるいによって千種万別の相貌を呈し、中村と、池田と、つる子と、かめ子との差を生じ、悩ましきものを生み、汚なきものを造る。
 地球上の絵画が線と色と調子と形の組み合わせ方によってあらゆる絵画を生み、上には上があり下には下があるかの如きものである。
 形は正確でちゃんとしているにかかわらず無味なるもの、あるいは多少憎らしきもの、鼻の影淡きもなんとなくまるまるとして猫に類して愛らしきもの、目と目と遠く離れて鳥に類するもの、造作長く上下に延びて狐や馬の如きもの、あるいは短くして狸の如きもの、鼻のみ見えて象を思わせるもの、目の位置上方に過ぎて猿に似たる、その他微細の変化によって幾千億の顔をこの地球の上に現している。その中で子は一人の母親の顔を記憶する。自然の力の不思議を私は奇妙に感じている。

 私は男の故をもってか、男の顔にはあまり興味が持てない。まず男については聖人か君子か、おめでたいか、悪人か、厭な奴か、善良な者か、色魔か、福相か、貧相か、馬鹿か、目から鼻へ抜けるけちな奴か、等の区別をつける位のあらゆる観相的なことのみに興味は多少持てるけれども、女の顔にいたっては本当の観賞を企てることが出来る、そしてあまりに多く興味を持ち過ぎて、うっかりするとその観相の方面を誤りはしないかとさえ思われることさえあるような気がする。要するに女の顔を見る時にはあまりに純情的になり過ぎる嫌いはありそうだ。
 したがって私は相貌、人品ともに世界第一位としてただ一人という女神のような顔があるとは思えない。またあっても交際すると案外つまらないものであるかも知れないと思う。多少の歪みや欠点はあっても、千差万別の顔をことごとくそれぞれの特質をつまみ出して賞する方が私には適当している。
 しかしながら顔についての大体の好き嫌いというものが各人に存在するようである。私は鼻高過ぎてやせている狐面や長くて馬に類するものよりも、鼻低しといえども丸々として猫に類する厚ぽったい相貌を好む。ことに西洋の鷲鼻の女が怖ろしい。彼女が一尺の距離に近づくと、それは天狗とも見えてくる。私の好みは支那、日本の鼻低くして皮膚の淡黄にして滑らかなものを選ぶ。
 しかしながら低い鼻といっても、平坦にして二つの穴が黒く正面へ向かって並んでいるのは珍奇であり下等である。その他皮膚の毛穴や、鼻のつけ根や、目尻や耳の中、そのつけ根、その皺、口の周囲等に何か不潔なものが溜っていたり、その形妙にいじけて歪みたるはほんとに貧相にして不幸な心を起こさせるものである。
 私のもっとも嫌な思いをするのは日本ものの映画において女優が大写となって笑う時、何とそれはいじけてけち臭く下等に見えることであることかと思う。日本の女がフィルムの上で本当に心もちよく笑い得るようになったら、その美しさをどれ程増すことであるか知れない。東洋の女性としてフィルムの上では私はメイ ウォンの顔を楽しむ。
(「アトリエ」昭和四年七月)
   旅の断片

 私の旅の希望をいうと、東風が吹けば東へ東へと用事も責任もなく流れて行く流儀の旅がしてみたいと思うのである。一枚でも多くの写生がしてみたい、八号を幾枚、一〇号を何枚、ついでに大作も一枚、あの風景は絵になるかどうか、雨は降りはしないだろうか、女中の祝儀はいかにしたものか、といった風のことを考えることは随分やり切れないことなのだ。
 私は画室を旅へ持ち出すことはたまらないと考える。あらゆる責任から離れて、ただふらふらとのんきな風にのっていたいのである。
 去年の春、偶然そんな風がちょっと吹いた、それは友人T君夫婦が郷里の松山へ帰るから行かないかと突然に私を誘ったのだ。私は大作をてこずって肩のこりで悩んでいた最中だったから早速その風に乗ってみた。そして一切、自分の意志を動かさず、終始一貫してT君夫婦の行くところへついて行くことにした。随分[#「随分」は底本にはなし]無責任な旅である。したがって今は大半何もかもその時のことを忘れてしまったがある場面の断片だけは思い出すことが出来る。
 まず退屈なのは尾の道までの車窓の眺めだ。一体、東海道線から山陽線にかけては素晴らしく平凡にして温雅な風景が続き過ぎるようだ。
 そのうち、ことに平凡な播州平野の中に石の宝殿[#「宝殿」は底本では「寛殿」]という岩山が一つある。この近くの高砂の町に私の中学時代の親友があったが、七、八年前の流感で死んでしまった。その友人の案内で私は十年前の真夏、この岩山の一軒宿で一カ月ばかり暮したことがあったのだ。当時私は金もないのに子供が生まれ、それが病身で泣き通す上に、絵はろくさま描けない、種々雑多のやけ糞から万事を母と細君にまかせて、この淋しい岩山の上へ逃げ出したのだった。
 その時、日本全体は米騒動の最中だった。私はここで生まれて初めてであるところの五〇号という大作を汗だらけとなって作り上げたものだった。どうせやけ糞から生まれた絵などろくなものではなかったが、万事の苦しまぎれから私はそれを文展へまで運んでみたものだった。そして落選したことがあった。石の宝殿[#「宝殿」は底本では「寛殿」]は私の情けない記念塔でもあるのだ。私はその山だけはなつかしく窓から眺めてみた。やはり相変わらず十年以前の如く白い岩山に松が茂っていた。そして、相変わらずカチンカチンと石を割って切り出しては運んでいるのも見えた。私はこの記念塔がかなり小さく遠ざかって行くまで眺めていた。
 尾の道から高浜までの連絡船はいい眺めだった。静かな海上と船の揺れ具合と汽船が持つ独特の匂いとは、私にとって珍しくうれしいものだった。私は船のまかない部屋あたりまでもその匂いを嗅ぎに出かけたりした。したくもないのに便所へまで行って船の匂いを嗅いで歩いた。そしてこんな連絡船の匂いから、私はインド洋、紅海などをさえ思い起こしたりした。
 T夫人は船のボーイに幾度となく今日は波は立ちませんかと訊いた。そのたびにボーイはヘイ大丈夫ですと受け合ったにもかかわらずだんだん揺れ出して来た。とうとう高浜へつく手前から雨さえ降り出して来た。
 道後温泉へは七、八年前ちょっと来たことがあった。あまり変わってもいなかった。しかし私の宿は大変ハイカラなもので洋館で、そして畳敷でお茶の代りに甘い煎薬のようなコーヒーをさえ飲ませてくれた。
 町は博覧会のためにかなり賑わっていた。道後の公園はちょうど夜桜の真盛りだった。夜桜の点景人物は概して男と芸妓だった。それらの情景のためにわれわれは多少の悩ましさを感じて帰り、湯に入って寝てしまった。
 翌日雨の[#「翌日雨の」は底本では「翌朝揺れ」]ドシャ降りの中を自動車で太山寺へ向った。そこは西国第何番かの札所だ。T君のお父さんが閑居しているところの閑寂をきわめたところだった。山には桃が多かった。境内には花が散って泥にまみれていた、巡礼がたくさん詠歌を唱えている。昔、二十年の昔なら洋画家は必ずや画架を立てかけたに違いないところのモティフであった。
 道後の湯は神社か寺の本堂の如く浴槽は何となく陰鬱で、あまり清潔な気はしない。湯口から落ちてくる湯に肩をたたかせようとするものが順番を待つために行列をしていた。ある老人は悠々と四つ這いとなって尻の穴をたたかせている。面白い形である。多分痔持ちなのだろう。私は湯の不潔さを感じて早く逃げ出そうと思った。
 博覧会は雨の中、どろたんぼの中に立っていた。T君夫婦とその一族は会場内の茶室へ招待されている間、私は娘曲芸団の立ち見をしていた。ちょうど[#「ちょうど」は底本では「ちょぅど」]呼物であるところの空中美人大飛行というのを演じているところ。高い空中のブランコから離れてかわいい娘が次から次と、張られた網の上へ落下してくる有様は凄く憐れなものだった。私は往生要集の地獄変相図を思い出した。
 最後の一日を高松で暮した。栗林公園も桜の真盛りだった。三味線と酒と、大勢が踊っていた。ある座敷では洋服の男が六、七名、芸妓とともに円陣を作ってやっちょろまかせのよやまかしょというものを踊っていた。T夫人はそれを眺めて、男の方は宴会や宴会や[#「宴会や」は底本では「宴会」]というていつもあんなことをしているのですか、と私に詰問したが、私はさあどうですか、まさか、といってみたが、本当のことは多少わからなかった。T君も何かわけのわからない答弁を製造しているようにみえた。
 翌日再び海を渡り、退屈な山陽線によって神戸へ近づくにしたがって、私は私の神経がかなり暢びてしまっているのに気がついて来た。ほんの四、五日の旅だったが、旅は私の神経の結び目をことごとく解いてしまった。もちろん肩のこりも下がっていた。

   春の彼岸とたこめがね

 私は昔から骨と皮とで出来上っているために、冬の寒さを人一倍苦に病む。それで私は冬中彼岸の来るのを待っている。
 寒さのはては春の彼岸、暑さのはては秋の彼岸だと母は私に教えてくれた。そこで暦を見るに、彼岸は春二月の節(せつ)より十一日目に入(いり)七日の間を彼岸という、昼夜とも長短なく、さむからず、あつからざる故時正(じしょう)といえり。彼岸仏参し、施しをなし、善根(ぜんこん)をすべしとある。
 彼岸七日の真中を中日(ちゅうにち)という、春季皇霊祭に当る。中日というのは何をする日か私ははっきり知らないが、何んでも死んだ父の話によると、この日は地獄の定休日らしいのである、そしてこの日の落日は、一年中で最も大きくかつ美しいという事である。
 私が子供の時、父は彼岸の中日には必ず私を天王寺(てんのうじ)へつれて行ってくれた。ある年、その帰途父はこの落日を指(さ)して、それ見なはれ、大きかろうがな、じっと見てるとキリキリ舞おうがなといった。なるほど、素晴らしく大きな太陽は紫色にかすんだ大阪市の上でキリキリと舞いながら、国旗のように赤く落ちて行くのであった。私はその時父を天文学者位いえらい人だと考えた。
 この教えはよほど私の頭へ沁(し)み込んだものと見えて、彼岸になると私は落日を今もなお眺めたがるくせがある。そしてその時の夕日を浴びた父の幻覚をはっきりと見る事が出来る。
 彼岸は仏参し、施しをなしとあるが故に、天王寺の繁盛(はんじょう)はまた格別だ。そのころの天王寺は本当の田舎だった。今の公園など春は一面の菜の花の田圃(たんぼ)だった。私たちは牛車が立てる砂ぼこりを浴びながら王阪をぶらぶらとのぼったものであった。境内へ入るとその雑沓(ざっとう)の中には種々雑多の見世物(みせもの)小屋が客を呼んでいた、のぞき屋は当時の人気もの熊太郎(くまたろう)弥五郎(やごろう)十人殺しの活劇を見せていた、その向うには極めてエロチックな形相をした、ろくろ首が三味線を弾(ひ)いている、それから顔は人間で胴体は牛だと称する奇怪なものや、海女(あま)の手踊、軽業(かるわざ)、こま廻(まわ)し等、それから、竹ごまのうなり声だ、これが頗(すこぶ)る春らしく彼岸らしい心を私に起させた。かくして私は天王寺において頗る沢山有益な春の教育を受けたものである。
 その多くの見世物の中で、特に私の興味を捉(とら)えたものは蛸(たこ)めがねという馬鹿気(ばかげ)た奴だった。これは私が勝手に呼んだ名であって、原名を何んというのか知らないが、とにかく一人の男が泥絵具と金紙で作った張(はり)ぼての蛸を頭から被(かぶ)るのだ、その相棒の男は、大刀を振翳(ふりかざ)しつつ、これも張ぼての金紙づくりの鎧(よろい)を着用に及んで張ぼての馬を腰へぶら下げてヤアヤアといいながら蛸を追い廻すのである。蛸はブリキのかんを敲(たた)きながら走る。今一人の男はきりこのレンズの眼鏡を見物人へ貸付けてあるくのである。
 この眼鏡を借りて、蛸退治を覗(のぞ)く時は即ち光は分解して虹となり、無数の蛸は無数の大将に追廻されるのである。蛸と大将と色彩の大洪水である。未来派と活動写真が合同した訳だから面白くて堪まらないのだ。私はこの近代的な興行に共鳴してなかなか動かず父を手古摺(てこず)らせたものである。
 私は、今になお彼岸といえばこの蛸めがねを考える。やはり相変らず彼岸となれば天王寺の境内へ現われているものかどうか、それともあの蛸も大将も死んでしまって息子(むすこ)の代となっていはしないか、あるいは息子はあんな馬鹿な真似(まね)は嫌だといって相続をしなかったろうか、あるいは現代の子供はそんなものを相手にしないので自滅してしまったのではないかとも思う。何にしても忘れられない見世物である。

   春眠雑談

 関東の空には、四季を通じて、殊(こと)に暑い真夏でさえも、何か一脈の冷気のようなものが、何処(どこ)とも知れず流れているように私には思えてならない。ところが一晩汽車にゆられて大阪駅へ降りて見ると、あるいはすでに名古屋あたりで夜が明けて見ると、窓外の風景が何かしら妙に明るく白(しら)ばくれ、その上に妙な温気(うんき)さえも天上地下にたちこめているらしいのを私は感じる、風景に限らず、乗客全体の話声からしてが、妙に白ばくれてくるのを感じるのである。
 近年、私は阪神沿線へ居を移してからというものは、殊(こと)の外(ほか)、地面の色の真白さと、常に降りそそぐ陽光の明るさに驚かされている。それらのことが如何(いか)に健康のためによろしいかということは問題にならないが、その地面の真白さと松の葉の堅き黒さの調子というものは、ちょうど、何か、度外(どはず)れに大きな電燈を室内へ点じた如き調子である。物体はあらゆる調子の階段を失って兵隊のラッパ位いの音階にまで縮められてしまって見えるのである。
 従ってこれら度外(どは)ずれの調子と真白の地面と明るい陽光とに最もよく釣合うところの風景の点景は如何なるものかといえば多少飛上ったもののすべてでなくてはならない。例えば素晴らしく平坦(へいたん)な阪神国道、その上を走るオートバイの爆音、高級車のドライヴ、スポーツマンの白シャツ、海水着のダンダラ染め、シネコダックの撮影、大きな耳掃除の道具を抱(かか)えたゴルフの紳士、登山、競馬、テニス、野球、少女歌劇、家族温泉等であるかも知れない。
 大体において、阪神地方のみに限らず、全関西を通じて気候は関東よりも熱帯的である。従って、あらゆる風景には常にわけのわからない温気が漂うていることを私は感じる。
 この温気というものは、何も暑くて堪らないという暑気のことをいうのではない、その温気のため寒暖計が何度上るというわけのものでもないところの、ただ人間の心を妙にだるくさせるところの、多少とも阿呆(あほ)にするかも知れないところの温気なのである。
 私は、大阪市の真中に生れたがために、この温気を十分に吸いつくし、この温気なしでは生活が淋しくてやり切れないまでに中毒してしまっている。しかし、かなり鼻について困ってもいる。そしてよほど阿呆にされている。時に何かの用件によって上京する時、汽車が箱根のトンネルを東へ抜けてしまうと、それが春であろうと夏であろうにかかわらず、初秋の冷気を心の底に感じて心が引締るのを覚える。勿論その辺から温気そのものの如き大阪弁が姿を消して行くだけでも、大層、心すがすがしい気がするのである。私はこの温気のない世界をいかに羨(うらや)むことか知れない。
 或年の夏の末、私の友人が私を吉祥寺(きちじょうじ)方面へ誘った、そして私の仕事の便宜上、その辺で住めばいいだろうといって地所や家を共に見てあるいたことがあった。
 その時、初秋に近い武蔵野(むさしの)は、すすきが白く空が北国までも見通せるくらいに澄み切っていて、妙にしんかんとして、その有様が来るべき冬のやり切れない物悲しさを想像させたのである。私は私の鼻についた温気の世界に後髪を引かれ、とうとうそのまま家探しをあきらめて帰ってしまったことさえあった。
 春眠暁を覚えずとか何んとかいう言葉があるが、全く春の朝寝のぬくぬくとした寝床の温気は、実はこうしていられないのだと思いながらも這(は)い出すことが容易でないのと同じように、大阪地方の温気に馴(な)れた純粋の大阪人にとっては、何かの必要上、この土地を抜け出すことには随分未練が伴うようである。

 大体温気は、悪くいえばものを腐らせ、退屈させ、あくびさせ、間のびさせ、物事をはっきりと考えることを邪魔臭(くさ)がらせる傾きがあるものである。
 大阪では、まあその辺のところで何分よろしく頼んますという風の言葉によって、かなり重大な事件が進められて行く様子がある。従って頗(すこぶ)るあてにならない人物をついでながらに養成してしまうことが多い。よたな人物などいうものは関西の特産であるかも知れない。
 しかしながら、このぬるま湯の温気が常に悪くばかり役立っているとは思えない。温気なればこそ育つべきものがあるだろうと思う。例えば関東の音曲や芝居と、関西の音曲、芝居とにおいてその温気の非常な有無を感じている。
 即ち私は、浄るりと、大阪落語と鴈治郎(がんじろう)の芝居と雨の如くボツンボツンと鳴る地歌(じうた)の三味線等において、まずよくもあれだけ温気が役に立ったものだと思って感心している。
 しかしそれは万事が過去である。現代の温気の世界は何を創造しつつあるか、まだよく判然しないけれども、先ず河合(かわい)ダンスと少女歌劇と、あしべ踊りと家族温泉と赤玉女給等は、かなり確かな存在であろうと考える。
 北極がペンギン鳥を産み、印度が象を産み出す如く、地球の表面の様々の温度がいろいろの人種や樹木、鳥獣、文化、芸術、人の根性(こんじょう)を産むようであるが、この関西殊(こと)に大阪の温気によって成人した大阪人は、まだわれわれの窺(うかが)い知ることのできない次の芸術と特殊な面白い文化を産み出しつつあるに違いないことだろうと思っている。

   かんぴょう

 家族が病気で大騒ぎの時、いちじく印の灌腸薬を書生M君に大急ぎで買いにやりました。私が「オイ灌腸はまだか、早く早く」と待ち兼ねている時、M君は「いちじく印のものはありませんでしたけれども」といいながら一束のかんぴょうを携げて帰って来ました。それはかんぴょうではないかと私は怒りました。八百屋のおやじもおやじです。病人も痛む腹から微苦笑をかすかに洩らしました。

   グロテスク

 一部分というものは奇怪にして気味のよくないものである。人間の一部分である処の指が一本もし道路に落ちていたとしたら、われわれは青くなる。テーブルの上に眼玉が一個置き忘れてあったとしたら、われわれは気絶するかも知れない。レールの側に下駄が一足並んでいてさえ巡査の何人かが走り出すのである。毛髪の一本がお汁の中に浮んでいても食慾に関係する。その不気味な人間の部分品が寄り集ると美しい女となったり、羽左衛門となったり、アドルフマンジュウとなったりする。
 私はいつも電車やバスに乗りながら退屈な時こんな莫迦(ばか)々々しい事を考え出すのである。電車の中の人間の眼玉だけを考えて見る。すると電車の中は一対の眼玉ばかりと見えて来る。運転手が眼玉であり、眼玉ばかりの乗客である、道行く人も眼玉ばかりだ。すると世界中眼玉ばかりが横行している事になる。幾億万の眼玉。考えてもぞっとする。
 今度は臍(へそ)ばかりを考えて見る。日本中、世界中は臍と化してしまう。怖るべき臍の数だ。
 無数の乳房を考えて見る。そして無数の生殖器を考えて見る。全くやり切れない気がする。
 やはり人間は全体として見て置く方が完全であり、美しくもあるようだ。それだのに、私は何んだか部分品が気にかかる。

   大和の記憶

 五月になると、大和の長谷寺には牡丹の花が咲く。常は寂しい町であるが、この季節になると小料理屋が軒を並べ、だるまという女が軒に立ち、真昼の三時でさえもわれわれを誘うのである。初夏の陽光に照されただるまの化粧と、牡丹と、山門の際でたべたきのめでんがくの味を私は今に忘れ得ない。そしてそれらが何よりも大和を大和らしく私に感ぜしめ、五月を五月らしく思わしめるものである。

   去年のこと

 私は去年の秋、一種の神経的な苦しい病気をした。それは心臓の活動が一分間に数回も休止するというすこぶる不安な病気であった。医者にそのくるしみを訴えても、本当によくのみ込めないらしかった。
「なるほど、そう、はあ」
という位の事務的な同情をするだけであった。そして決して死ぬものでないといった。
 死なないことが確かであっても、苦しいことには相違はなかった。心臓が停止するたびに、私はまったく死と生の間をうろうろするのであった。
 もっとも悪い時は寝ていたものであるが、多少いい時には用足し位に出あるいたものだ。
 途中でふと停滞が始まると、私は直ぐタキシー[#「タキシー」は底本では「タクシー」]を呼んだ。そして自らの脈拍を数えながら走るのであった。タキシー[#「タキシー」は底本では「タクシー」]の窓から死生の間にゆらゆらと見える街景こそ羨ましく美しいものであった。ことに女のパラソルの色はその美しさを数倍に見せた。
 ある時などあまりの苦しさからタキシー[#「タキシー」は底本では「タクシー」]を捨てるに忍びず、とうとう阪神国道を芦屋まで走らせてしまった。そして私の家を見るに及んで私の心臓は安らかに動き出したのであった。
 今大変だった、死にかかった。といってみたが、もう慣れ切っている細君は医者と同じ顔をしながら自動車に乗りたかったのでしょうといった。私は随分いまいましかったが、考えてみると多少その傾向もないとはいえなかった。
 M夫人は私と同じ病気をした人だったことを思いだしたのでこの事を話してみた。
 すると夫人はこの病気をよく了解してくれる人が出来たといって大変よろこんだ。そして今度また停滞が起こったらすぐ電話をかけなさい。わたし同情しに行ってあげるといってくれた。私はまったく何々博士の来診よりもこの方が本当の効験があるだろうと考えた。
 しかしながらその後私の心臓はまず順調に動いている。

   入湯戯画

 私は入浴を厭(いと)う訳ではないが、石鹸(せっけん)を持って何町か歩いて、それから衣服を脱いで、また着て歩いて帰るという、その諸々の仕事が大変うるさいので、一旦着たものは寝るまで脱ぎたくないというのが私の好みである。それで私は、なかなか風呂へ容易に行こうとはしない。そのくせ、思い切ってお湯につかって見ると随分いい気持ちでよく来た事だと思う。以来は再々お湯へ這入る事にしようと考えながら、その次の日はすっかり忘れてしまう。ふと思い出しても再び行く心を失っている。
 やがて爪先へ黒いものが溜(たま)り、手の甲が汚れてくるころ、われながら穢(きた)ないと思い、やむをえず近所の風呂屋へまで出かける。行って見ると即ちよく来たことだと思う。
 中でも、最も入浴を怠(おこた)ったのはフランスにいた時である。勿論私の下宿には湯殿があるにはあったが、それをたてさせるためには、またわからない言葉を何か喋(しゃべ)らねばならぬのも億劫(おっくう)の種であるので、とうとう一ケ月以上も入浴をしない事は稀(めず)らしくはなかった。殊に南仏カアニュにいた時などはその村に一軒の湯屋もなく私の宿にも湯殿はなかった。女中に訊ねて見ると、この村では一生風呂へ入らぬものが多いといっていた。その女中自身もまだ風呂の味は知らないらしかった。私は半月に一度くらいはヴァンスから来る乗合自動車で二十分を費(ついや)してニースの町まで出かけたものだった。そこには二、三軒の湯屋があった。汗の乾かぬうちに、シャツと洋服とオーバーを着て、ちょっとの用達(ようた)しと散歩をして帰るのであるが、途中で湯冷(ゆざ)めがして、全身の皮が一枚剥落(はくらく)してしまったくらいの寒さを感じたものであった。
 私は入浴をうるさがるが、しかし風呂の味は厭ではない。殊に町の風呂屋は、町内浮世の混浴であるがために、その味は殊に深いものがある。
 私は思いついた時勝負で風呂へ飛んで行くので、朝風呂、昼、夜の仕舞(しまい)風呂の差別がない。朝風呂にはさも朝風呂らしい男が大勢来ているし、昼には昼の顔があり、夜は丁稚(でっち)、小僧、番頭、職人の類が私のいた島之内では多かった。
 何杯も何杯も、頭から水をかぶって、遠慮なく飛沫(ひまつ)を周囲へ飛ばせ、謡曲らしきものをうなりながら自由体操を行うところの脂(あぶら)ぎった男などは、朝風呂に多いのである。何か見覚えのあるおやじだと思って考えると、それが文楽の人形使いであったり、落語家であったり、役者であったりする。
 今は故人となった桂文団治(かつらぶんだんじ)なども、そのつるつる頭を薬湯へ浮かばせていたものであった。私の驚いたことには、彼の背には一面の桜と花札が散らしてあった。その素晴らしく美しい入墨が足にまで及んでいた。噂(うわさ)によると四十幾枚の札は背に、残る二枚の札は両足の裏に描かれてあるのだということである。その桜には朱がちりばめてあり、私の見た入墨の中で殊に美しいものの一つであり、その味は末期の浮世絵であり、ガラス絵の味さえあった。まず下手(げて)ものの味でもある。それは文団治皮として保存したいものである逸品だったがどうもこれだけは蒐集する気にはなれない。私はいつか衛生博覧会だったか何かで有名な女賊の皮を見た事があったが、随分美しいもので感心はしたが、入墨も皮になってしまっては如何にも血色がよくないので困る。
 文団治は高座から、俺(おれ)の話が今時の客に解(わか)るものかといって、客と屡次(しばしば)喧嘩をして、話を途中でやめて引下った事を私は覚えているので、この入墨を見た時、なるほどと思った。
 しかし、彼の話は高慢ちきで多少の不愉快さはあったようだが、私はその芸に対する落語家らしい彼の執着と意気に対して、随分愛好していたものだった。近ごろはだんだん落語家がその芸に対する執着を失いつつあるごとく思える。勿論、本当の大阪落語を聴こうとする肝腎(かんじん)の客が消滅しつつあることは重大な淋(さび)しさである。
 太陽の光が湯ぶねに落ちている昼ごろ、誰一人客のない、がらんとした風呂で一人、ちゃぶちゃぶと湯を楽しんでいるのは長閑(のどか)なことである。
 しかしながら、私はまた夜の仕舞風呂の混雑を愛する。朝風呂の新湯の感触がトゲトゲしいのに反して、仕舞風呂の湯の軟かさは格別である。湯は垢(あか)と幾分かの小僧たちの小便と、塵埃(じんあい)と黴菌(ばいきん)とのポタージュである。穢ないといえば穢ないが、その触感は、朝湯のコンソメよりもすてがたい味を持っている。その混雑は私にとって不愉快だが、私の頭の上に他人の尻の大写しが重ねられたりする事も風情ある出来事である。そしてそれらは西洋人にはちょっと諒解出来難い風情(ふぜい)である。
 昔、私は一度それは田舎の風呂屋で、甚だ赤面したことを覚えている。美校を出て間もないころだった。私たち三人のものが、仕事をしまうと汗を流しに毎日出かけたものだった。男湯と女湯との境界に跨(またが)って共同の水槽があった。私は何気なくその水面を眺めながら洗っていると、そこへゆらゆらと美女の倒影がいくつもいくつも現われるのであった。私は友人を招いて水面を指した、彼はなるほどといってまた他を招いた、三人は折重って倒影の去来を楽しむのであったが、時々水を汲(く)む奴があるので美女は破れて皺が寄るのであった。漸(ようや)くにして波静まると思えば倒影は立ち去って無色透明であったりした。私たちは毎日水槽の一等席を争ったものだったが、数日の後、水槽の真中に一枚の板が張られていた。おや、変なことになったと三人が思っている時、うしろから三助が旦那、あまり覗(のぞ)かぬように頼んまっせ、あんたらの顔も向う側へよう映(うつ)ってまっさかいと注意した。なるほどわれわれはうっかりしていた。
 われわれはアトリエにあって、静物のトマトや、器物と同等において裸女を描き、毎日の如く仕事をし、馴(な)れ切っているにかかわらず、見るべからざる場所でちらちらするものに対して、あさましくも誘惑を感じるのである。
 洋装の極端に短い裾(すそ)や、海水着から出た両足は、ただ美しい両足であるに過ぎないが、芸妓や娘の長い裾に風が当る時、電車のつり革から女の腕がぶら下る時、多くの男は悩みを感じることが多いように思えるのである。
 近来、私は郊外に住んでいるために、風呂は家の五右衛門風呂をたてている。家にあれば風呂も億劫ではない。私は毎日の湯を楽しむようになってしまった。
 春夏秋冬、風呂は人間が生きている間の最も安価にして、しかも重大な幸福の一つだろうと考えている。しかし近ごろは浮世の混浴から遠ざかっている事を遺憾に思っているが、といってわざわざ電車に乗って、大阪へ入湯に行くという事は、今もなお億劫である。

   歪んだ寝顔

 昆虫の顔は皆ことごとく揃えの顔とわれわれには見える。蜻蛉の顔、蝉の顔などちょっと顔だけ見ていては、あの蜻蛉とこの蜻蛉との区別がつかない。均一でその代り不出来な顔もない。皆ことごとくが十人なみの美人で揃っている。そしてその形は皆ことごとく正しく機械的に整頓している。
 猫や犬の顔もその機械的正確さにおいては変わりはない。しかし昆虫や鯛の如く皆ことごとく均一の顔はしていない。うちの猫とお隣の猫とは一見して区別が出来る。しかし私はいつも感心していることは昆虫、犬、猫、虎、猿の類にして出歯で困っているものや、鼻がぴっしゃんこで穴だけであったり、常に口をぼんやりと開けていたりするもののないことである。
 まったく動物や昆虫の類で口の収まりの悪いものはいない。西洋でもあまり口の締りの悪いのや歯並みの乱れて飛出したものを見なかったが、もっともわれわれは多くの日本人にのみ接しているがためかどうか知らないが、とくに日本人の口もとに締りのよくないのが多くはないかと思う。私も実は口の辺りの不完全な構造によって常に悩まされている。
 出歯の犬、出歯の猫、口の締らない虎、などあまり見たことがない。したがってその寝顔も、人間の寝顔においてもっとも不完全さを発見することがある。整然として正確な鳥の寝顔、猫の寝顔に私は清潔な美しさを感じる。そして汽車、電車の中で居眠る人間の顔がなぜ不正確で歪みがあるのかを少し情けなく思うことである。
 朝起きて犬は口中を洗わないが歯糞がたまることもない。人間は歯糞、鼻糞、鼻汁等を排泄すること多量であるがために朝は必ず大掃除をせねばならぬ。かくも相当厄介な構造になっているのはどんなわけからか。どうも私はまだよく飲み込めないのだ。誰か詳しい専門家に会ったら訊ねてみたいと思っている。とにかく寝顔の美しいのは優秀な美人の特質と昔から日本ではきめられているのをみても、なかなか素晴らしき寝顔というものはざらにはないものとみえる。

   蟋蟀(こおろぎ)の箱

 今、秋となって、私の画室の周囲にあらゆる虫が鳴いている。その中には蟋蟀(こおろぎ)も鳴いている。この蟋蟀という奴が私に辛(つら)い思いをさせた事があるのだ。私は蟋蟀の声を聴くときっとそれを思い出すのである。
 私が小学校へ通っている時分だった。私の家のあった堺筋(さかいすじ)は、今こそ、上海(シャンハイ)位いの騒々しさとなってしまったが、その頃はまだ大阪に電車さえもなかった時代だ。ちょっと裏手へ入るとかなりの草むらや空地(あきち)が沢山にあったものだ。私の家の向いにも土蔵と土蔵との間に湿っぽい空地があって、陽気不足の情けない雑草が茂り、石ころと瓦(かわら)のかけらが、ごろごろと積まれてあった。
 秋になると、そこには蟋蟀が鳴くのであった。私は学校から帰ると私の友達と共にこの空地へ這入(はい)ってじめじめした石ころや瓦を持ち上げて、その下から飛出す蟋蟀を捉(とら)えるのが何よりの楽しみだった。
 初めは石鹸(せっけん)の空箱へ雑草を入れ、その中へ捉えた蟋蟀をつめ込んだ。私たちは学校から帰るとその箱をそっとあけて見るのだ。すると、萎(しな)びた雑草の中から蟋蟀のつるつるした頭と髭(ひげ)が動いているのを見て、何んともいえず可愛くて堪(たま)らなかった。
 私は何んとかして、も少しいい住宅を彼らのために作ってやりたいと思い、私は手頃(てごろ)なボール箱を持ち出して、その中をあたかもビルディングの如く、厚紙で五階に仕切り、沢山の部屋を作り階段をつけ、各部屋への通路には勿論(もちろん)入口を設け、窓を作り、空気の流通もよくしてやった。然(しか)る後、私は大切の蟋蟀を悉(ことごと)くそのビルディングの中へ収容して見た。すると二階で髭を動かしている奴があり、三階の窓から頭を出している奴がおり、五階の入口からお尻(しり)の毛を出している奴がいたりするのであった。
 私は彼らを無理矢理に階段を昇(のぼ)らせて見たりして楽しんだ。
 夜になると、ビルディングの彼らはそろそろ鳴き出すのであったが、どうも市中で蟋蟀が鳴くのは、多く下水道とか、空家(あきや)の庭とか、土蔵の裏とかに限るようだから、私の座敷は妙に空家臭くなるのであった。父はそれを厭(いや)がって早く逃がしてしまえといった。
 父はかなりの虫好きで、秋になると、松虫、鈴虫、といったものを買って来て、上等の籠(かご)へ入れて楽しんでいたが、どうも私の蟋蟀には全く理解がなかった。むしろ不吉なものだと思っているらしかった。
 ところで私の作ったビルディングは、どうも虫の生活には不適当だと見えて、日々かなりの死者を出すのであった。
 これではならぬと思い、私は考えた末、これを私の前栽(せんざい)へ解放してやろうと思った。前栽には大きな石が積み重ねてあり、その上には稲荷(いなり)様が祀(まつ)ってあった。私はこの石崖(いしがけ)こそは自然のビルディングだと思ったから、私は早速彼らをこの石崖へ撒(ま)き散らしてしまったのであった。二、三十匹は確かにいたはずだ。
 その夜、彼らは一斉に、元気に、鳴き出した。
 すると、肝腎の鈴虫や、朝すずの声は蹴落(けおと)されてしまった上、前栽は完全に空家の感じを出してしまった。でも私は、内心かなり得意なつもりで寝たものだ。ところへ父が帰って来た。そしてなぜこう一時に蟋蟀が鳴き出したのかといって大そう驚いた。母も察する処、楢重(ならしげ)の所業だとにらんだらしい。多分昼の間に逃がしたんだすやろといった。私は忽(たちま)ち恐縮を感じたが、もう如何(いか)んともする術(すべ)はなかった。仕方がないので寝たふりをしていると、父は一人で庭へカンテラを持ち出して、石崖の間を狙(ねら)っているのだ。弱った事になって来たと思っていると果して、私はゆり起された。楢重、ちょっと来いお前やろ、さあこの虫を皆退治(たいじ)てしまえといい渡された。ねむい眼で石崖の穴を覗いて見たが何も見えなかったが、なるほど、合唱隊は随分騒いでいる。
 私はそれからおおよそ一週間というもの、毎晩の如く石崖の前へ立たせられた。私は棒を握ってカンテラの火で虫を呼びよせて見た。そして石崖の間に私の愛する彼らのツルツル頭を発見すると同時に、私は棒でたたき潰(つぶ)さねばならなかった。
 だが、このビルディングの奥深く這入(はい)り込んだ蟋蟀は容易に出て来てはくれなかった。喧(やか)ましゅうて寝られんやないかと父が怒る度(た)びに、私は全く、蟋蟀が自殺をしてくれたらいいと思った。結局、石崖を取毀(とりこぼ)たない限りは完全な退治は出来難い事になってしまった。
 私は、以来、蟋蟀の声を聴く度びにその時の情なさを思い出す。そしてその頃の堺筋の情景を思い出す。あの家も既に売払ってから十年近くなる。今は何かハイカラな洋館と化けてしまっている。勿論、あの前栽も石崖もなくなったであろう。しかし、あの蟋蟀の子孫は、まだ、裏の下水のあたりで鳴いているにちがいないと思う。

   迷惑なる奇蹟

 私は常に静物を描くために野菜や果物を眺め、あるいは人間の顔や裸女を観て暮している。それでは野菜や美人の選択はよほど上手かというと、案外うまくないように思う。日本一の美人は誰ですかと聞かれたら早速に返事は出来ないのである。
 私達は一番いいというものを探しているのでは決してないので、手当たりしだいの手近なものに美しさを認めている。そして第一その野菜なり美人なりを食べようとは思わない。大概の場合その静物が絵となってしまうころは野菜は萎びてしまい果実は腐りかかっているから、皆そのまま芥溜めへ捨ててしまう。モデルは腐らない代りに、金を受け取るとすぐアトリエから去ってしまう。
 裸女や野菜を私達は眺めているが、それを一々細君として見たり、毎日のおかずとはしない。したがって私達はそれらのモティフに対して、非常に自由な選択が許されている。
 あまりに自由であるから、かえってまごつくのである。だから私達の前へ十人の美人の写真を並べてどれを細君にしたらよいか、どれと恋愛をしたら間違いがないかを鑑定してくれと注文したら、案外一番妙なものをつかみ出すかも知れない。
 AはAとして、BはBとして、CはCとして面白い、これはこれとしてあれはあれとして面白いと思うから結局どれが日本一だかさっぱり判らなくなってしまう。その点、女色を漁る色魔とか、食物を極端に味わうところの悪食家の心にも似ている。
 何事によらず素人というものは日本一を要求する。日本一の風景はどこですかと訊く。日本三景何々八景というものを考えてみたりする。美人投票一等当選というものを嫁にほしいといって両親を困らせる息子もある。
 世界一の音楽家を定めようとするし、世界一の絵描きさんは誰ですかと訊く人も多い。これでは世の中では、女は常にただ一人だけが看板として要求される筈である。
 その結果かも知れないが、ショーウィンドの飾り人形の顔を見ると、皆均一の顔である。そしてその顔は、昔一番有名であってかつ面白味のなかった名妓何々の顔をそのまま拝借してあるようだ。
 それでは日本人は皆芸妓何々に似た女と結婚しているかというと、なかなかそうでない。あらゆる変化あるものを同伴している。
 しかしながら無理の通せる財産家の極道息子が結婚する時などはしばしばあれでないこれでない、やはり何となくあの妓に似ているという点でようやく承知したりする。要するに、名妓何々のイミタシオンを買ってしまう。
 現代ではすでに名妓は廃れてしまいその代り活動女優とか西洋もののフィルムの中にその第一番を求めようとするようだ。
 ある素人の美術通などという男の説によると、日本の女の裸体は見ていられない。裸体は西洋人に限るそうだ。なるほど整頓していることは西洋人に限るかも知れないが、整頓しているものが必ずいい味を持っているとは限らない。不整頓な街景が整頓した街よりも絵になることがある。私などは日本婦人の味を西洋人の味よりも深いと思うことさえある。
 おかしいことには、その美術通でさえも、丸くて小さい代表的日本婦人とともに仲よく散歩しているのであるからやはり何かひそかに、味は感じているのかも知れない。
 ところで人はみな日本一、世界一を考えているのでまず無事なのだ。もし芸術を作らない普通の人が、何に限らず食べたがる普通人が、あらゆる女に対してそれ相当の興味を感じ出したり、手当たり次第に食慾を感じたりしてくれては無数の色魔が現れて危険だ。
 まず何とかかとかいいながらも、あり合わせたところのものを自然から恵まれ、身分相応の恋愛をするにいたり、そしてそれが日本一に見えてくる仕掛けになっているらしいところでちょうど安全である。
 ところで世には悪食家というものがあって、まず普通人間が食うべからざるものでも食ってみたりして喜ぶ道楽者がある。最近に聞いた話によると、ある人は蝿の頭を集めて食べてみたという。そして[#「そして」は底本では「そしして」]下痢を起こした。まずいろいろと食べてみたがこんなまずいものはなかったということだ。
 悪食家というものは、食慾界の色魔ではないかと思う。われわれ画家は美に対しては多少の色魔となっているかも知れない。ちょっと食えないものでも食っている。そして貧乏に苦しみながら一代を好色に費やしてなお足りないという次第となっている。
 だがしかし芸術上の食慾は猫を殺したり、蝿の頭を集めたり、女を食べてしまったり、要するに、左様な殺生や、他人を不幸に陥れたりは決してしないつもりである。本当の仏性とはこのことかと自ら考えるくらいあらゆるものを敬い過ぎるようである。悪食家でさえも自分の責任は自分で背負って立って行くものだ。例えば下痢をするとか、あるいは中毒して死んでしまうとか。
 すると何といっても好色という悪食家が一番いけないことになる。色魔というものは自分の責任を負わないからいけない。責任を全うする色魔というものがあったとしたら、それは決して色魔ではない。

 私の知っているある名誉職という老人にして女中専門という悪食家があったが、食べる方はいいとして食べられるものこそ災難だ。
 ある時も[#「時も」は底本では「時」]午後三時ごろだというのに、お茶屋の女中を貸席へこの老人が引張り込もうとしていたそうだ。女中は大阪へ最近出たばかりのものだった。そして決して美しいものではなかったが、悪食家にとってはいいモティフであったに違いない。
 彼女は一生懸命道端の電柱へしがみついていたそうだ。あまり強情であるところから、その貸席の仲居が走って来て、なあ[#「なあ」は底本では「なお」]ほかの人ではないのやさかい、いいはることは聞いときなはれ、ためにならんといって、とうとう二階へ押し上げたということだった。
 彼女はしかる後、老人から金子三円を頂戴に及び、その中の半分は貯金にしておけよといい渡されたそうだ。
 でも一円五〇銭の貯えが出来るということはまだ幸福な方かも知れない。
 時には銀行も預かってくれない因果の種を宿してみたりする。
 因果の種を生んで幸福を感じた女というものはあまりたくさんはあるまい。でもまだ生む方はいいとして、生み出された因果の種自身にとっては大した迷惑である。
 大体、母体の中へ初めて現れてみた時、誰一人として悦んでくれたものがなかったということは実に憐れにも張合いのないことだと思う。
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