学生と先哲
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:倉田百三 

     一 予言者のふたつの資格

 日蓮を理解するには予言者としての視角を離れてはならない。キリストがそうであったように、ルーテルがそうであったように、またニイチェがそうであったように、彼は時代の予言者であった。普通の高僧のように彼を見るのみでは、彼のユニイクな宗教的性格は釈かれない。予言者とは法を身に体現した自覚をもって、時代に向かって権威を帯びて呼びかけ、価値の変革を要求する者である。予言者には宇宙の真理とひとつになったという宗教的霊覚がなければならぬのは勿論であるが、さらに特に己れの生きている時代相への痛切な関心と、鋭邁な批判と、燃ゆるが如き本能的な熱愛とをもっていなければならない。普通妥当の真理への忠実公正というだけでなく、同時代への愛、――実にそのためにニイチェのいわゆる没落を辞さないところの、共存同胞のための自己犠牲を余儀なくせしめらるる「熱き腸(はらわた)」を持たねばならない。彼は永遠の真理よりの命令的要素のうながしと、この同時代への本能愛の催しのために、常に衝き動かさるるが如くに、叫び、宣し、闘いつつ生きねばならなくなるのだ。倉皇として奔命し、迫害の中に、飢えと孤独を忍び、しかも真理のとげ難き嘆きと、共存同悲の愍(あわれ)みの愛のために哭(なげ)きつつ一生を生きるのである。「日蓮は涙流さぬ日はなし」と彼はいった。
 日蓮は日本の高僧中最も日本的性格を持ったそれである。彼において、法への愛と祖国(くに)への愛とがひとつになって燃え上った。彼は仏子であって同時に国士であった。法の建てなおしと、国の建てなおしとが彼の使命の二大眼目であり、それは彼において切り離せないものであった。彼及び彼の弟子たちは皆その法名に冠するに日の字をもってし、それはわれらの祖国の国号の「日本」の日であることが意識せられていた。彼は外房州の「日本で最も早く、最も旺(さか)んなる太平洋の日の出」を見つつ育ち、清澄(きよすみ)山の山頂で、同じ日の出に向かって、彼の立宗開宣の題目「南無妙法蓮華経」を初めて唱えたのであった。彼は「われ日本の柱とならん」といった。「名のめでたきは日本第一なり、日は東より出でて西を照らす。天然の理、誰かこの理をやぶらんや」といい、「わが日本国は月氏漢土にも越え、八万の国にも勝れたる国ぞかし」ともいった。「光は東方より」の大精神はすでに彼においてあり、彼は日本主義の先駆者であった。しかも彼のそれは永遠の真理の上に、祖国を築き上げんとする宗教的大日本主義であった。
 彼の伝記はすでに数多い。今私がここにそれをそのまま縮写するのみでは役立つこと少ないであろう。それはくわしき伝記について見らるるにしくはない。ここには同じ宗教的日本主義者として今日彼に共鳴するところの多い私が、私の目をもって見た日蓮の本質的性格と、特殊的相貌の把握とを、今の日本に生きつつある若き世代の青年たちに、活ける示唆と、役立つべき解釈とによって伝えたいと思うのである。

     二 彼の問いと危機

 日蓮は太平洋の波洗う外房州の荒れたる漁村に生まれた。「日蓮は日本国東夷東条安房国海辺旃陀羅(せんだら)が子也」と彼は書いている。今より七百十五年前、後堀川天皇の、承久四年二月十六日に、安房ノ国長狭(ながさ)郡東条に貫名(ぬきな)重忠を父とし、梅菊を母として生まれ、幼名を善日麿とよんだ。
 彼の父母は元は由緒ある武士だったのが、北条氏のため房州に謫せられ、落魄(らくはく)して漁民となったのだといわれているが、彼自身は「片海の石中(いそなか)の賤民が子」とか、「片海の海人(あま)が子也」とかいっている。ともかく彼が生まれ、育ったころには父母は漁民として「なりわい」を立てていたのだ。彼は幾度か父母につれられ、船に乗って荒海に出たに相違ない。彼の激しい性格の中には、ペテロのように、海風のいきおいが見られるのである。そこで彼はその幼時を大洋の日に焼かれた。それ故「海の児」「日の児」としての烙印が彼の性格におされた。「われ日本の大船とならん」というような表現を彼は好んだ。また彼の消息には「鏡の如く、もちひのやうな」日輪の譬喩が非常に多い。
 彼の幼時の風貌を古伝記は、「容貌厳毅にして進退挺特(ていとく)」と書いている。利かぬ気の、がっしりした鬼童であったろう。そしてこの鬼童は幼時より学を好んだ。
「予はかつしろしめされて候がごとく、幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て、日本第一の智者となし給へ。十二の歳より此の願を立つ」
 日蓮の出家求道の発足は認識への要求であった。彼の胸中にわだかまる疑問を解くにたる明らかなる知恵がほしかったのだ。
それでは彼の胸裡の疑団とはどんなものであったか。
 第一には何故正しく、名分あるものが落魄して、不義にして、名正しからざるものが栄えて権をとるかということであった。
 日蓮の立ち上った動機を考えるものが忘れてならないのは承久の変である。この日本の国体の順逆を犯した不祥の事変は日蓮の生まれるすぐ前の年のできごとであった。陪臣の身をもって、北条義時は朝廷を攻め、後鳥羽、土御門、順徳三上皇を僻陲(へきすい)の島々に遠流し奉ったのであった。そして誠忠奉公の公卿たちは鎌倉で審議するという名目の下に東海道の途次で殺されてしまった。かくて政権は確実に北条氏の掌中に帰し、天下一人のこれに抗議する者なく、四民もまたこれにならされて疑う者なき有様であった。後世の史家頼山陽のごときは、「北条氏の事我れ之を云ふに忍びず」と筆を投じて憤りを示したほどであったが、当時は順逆乱れ、国民の自覚奮わず、世はおしなべて権勢と物益とに阿付し、追随しつつあった。荘園の争奪と、地頭の横暴とが最も顕著な時代相の徴候であった。
 日蓮の父祖がすでに義しくして北条氏の奸譎(かんけつ)のために貶せられて零落したものであった。資性正大にして健剛な日蓮の濁りなき年少の心には、この事実は深き疑団とならずにはいなかったろう。何故に悪が善に勝つかということほど純直な童心をいたましめるものはないからだ。
 彼は世界と人倫との究竟の理法と依拠とを求めずにはいられなかった。当時の学問と思想との文化的所与の下に、彼がそれを仏法に求めたのは当然であった。しかし仏法とは一体何であろう。当時の仏教は倶舎、律、真言、法相、三論、華厳、浄土、禅等と、八宗、九宗に分裂して各々自宗を最勝でありと自賛して、互いに相排擠(はいせい)していた。新しく、とらわれずに真理を求めようとする年少の求道者日蓮にとってはそのいずれをとって宗とすべきか途方に暮れざるを得なかった。のみならず、かくまちまちな所説が各々真理を主張することが真理そのものの所在への懐疑に導くことはいつの時代でも同じことであった。あたかもソクラテスの年少時代のギリシアのような状態であった。実際それらの教団の中には理論のための理論をもてあそぶソフィスト的学生もあれば、論争が直ちに闘争となるような暴力団体もあり、禅宗のように不立文字を標榜して教学を撥無するものもあれば、念仏の直入を力調して戒行をかえりみないものもあった。
 世界と人倫との依拠となるべき真理がかく個々別々に、主観的にわかれて、適帰するところを知らずしていいものであろうか。
 これが日蓮の第二の疑団であった。
 しかのみならず日蓮の幼時より天変地異がしきりに起こった。あるいは寛喜、貞永とつづいて飢饉が起こって百姓途上にたおれ、大風洪水が鎌倉地方に起こって人畜を損じ、奥州には隕石が雨のごとく落ち、美濃には盛夏に大雪降り、あるいは鎌倉の殿中に怪鳥集まるといった状況であった。日蓮は世相のただならぬことを感じた。また実際国外には支那を統一し、ヨーロッパを席捲した元が日本をうかがいつつあったのであった。
 こうした時代相は年少の日蓮に痛切な疑いを起こさせずにおかなかった。彼は世界の災厄の原因と、国家の混乱と顛倒とをただすべき依拠となる真理を強く要請した。
「日本第一の知者となし給へ」という彼の祈願は名利や、衒学のためではなくして、全く自ら正しくし、世を正しくするための必要から発したものであった。
 善とは何か、禍いの源は何か、真理の標識は何か。すべての偉人の問いがそれに帰宗するように、日蓮もまたそれを問い、その解決のための認識を求めて修学に出発したのであった。

     三 遍歴と立宗

 十二歳にして救世の知恵を求めて清澄山に登った日蓮は、諸山遍歴の後、三十二歳の四月再び清澄山に帰って立教開宗を宣するまで、二十年間をひたすら疑団の解決のために思索し、研学したのであった。
 はじめ清澄山で師事した道善房は凡庸の好僧で情味はあったが、日蓮の大志に対して善知識たるの器ではなかった。ただ蔵経はかなり豊富だったので、彼は猛烈な勉強心を起こして、三七日の断食して誓願を立て、人並みすぐれて母思いの彼が訪ね来た母をも逢わずにかえし、あまりの精励のためについに血を吐いたほどであった。
 十六歳のとき清澄山を下って鎌倉に遊学した。鎌倉は当時政治と宗教の中心地であった。鎌倉の五年間に彼は当時鎌倉に新しく、時を得て流行していた禅宗と浄土宗との教義と実践とを探求し、また鎌倉の政治の実情を観察した。彼の犀利の眼光はこのときすでに禅宗の遁世と、浄土の俗悪との弊を見ぬき、
鎌倉の権力政治の害毒を洞察していた。二十一歳のときすでに法然の念仏を破折した「戒体即身成仏義」を書いた。
 その年転じて叡山に遊び、ここを中心として南都、高野、天王寺、園城寺等京畿諸山諸寺を巡って、各宗の奥義を研学すること十余年、つぶさに思索と体験とをつんで知恵のふくらみ、充実するのを待って、三十二歳の三月清澄山に帰った。
 かくて智恵と力をはらんで身の重きを感じたツァラツストラのように、張り切った日蓮は、ついに建長五年四月二十八日、清澄山頂の旭の森で、東海の太陽がもちいの如くに揺り出るのを見たせつなに、南無妙法蓮華経と高らかに唱題して、彼の体得した真理を述べ伝えるべく、立教開宗したのである。
 彼は王法の乱れの原因を仏法の乱れに見出した。「仏法の邪正乱れしかば王法も漸く尽きぬ」かくして過ぎなば「結局この国他国に破られて亡国となるべき也」これが日蓮の憂国であった。それ故に国家を安んぜんと欲せば正法を樹立しなければならぬ。これが彼の『立正安国論』の依拠である。
 国内に天変地災のしきりに起こるのは、正法乱れて、王法衰え、正法衰えて世間汚濁し、その汚濁の気が自ら天の怒りを呼ぶからである。
「仏法やうやく顛倒しければ世間も亦濁乱せり。仏法は体の如く、世間は影の如し。体曲がれば影斜なり」
 それ故に王法を安泰にし、民衆を救うの道は仏法を正しくするをもって根本としなければならぬ。
 しからばいかなるが仏の正法であるか。
 日蓮によれば、それは法華経をもって正宗としなければならぬ。
 なぜなれば、法華経は了義経であって、その他の華厳経、大日経、観経を初め、已、今、当の一切の経は不了義経である。しかるに涅槃経によれば、依テ二了義経ニ一不レレ依ラ二不了義経ニ一とある。
 それ故に仏の遺言を信じるならば、専ら法華経を明鏡として、一切経の心を知るべきである。したがって法華経の文を開き奉れば、「此法華経ハ於テ二諸経ノ中ニ一最モ在リ二其上ニ一」とある。
 また涅槃経に、「依ッテレ法ニ不レレ依ラレ人ニ」とあるからには、もろもろの人師によらずしてひたすら経によるべきである。したがってよるべきは経にして、了義経たる法華経のみ。その他の諸菩薩ないし人師もしくは不了義経を依拠とせる既成の八宗、十宗はことごとく邪宗である。
 既成の諸宗の誤謬は仏陀の方便の権教を、真実教と間違えたところにある。仏陀の真実教は法華経のほかには無い。仏陀出世の本懐は法華経を説くにあった。「無量義経」によれば、「四十余ニハ未だ真実ヲ顕ハサズ」とある。この仏陀の金言を無視するは許されぬ。「法華経方便品」によれば、「十方仏上ノ中ニハ、唯一乗ノ法ノミアリテ、二モ無ク亦三モ無シ」とある。
 仏陀の正法は法華経あるのみ。その他の既成の諸宗は不了義の権経にもとづく故に、ことごとく無得道である。
 以上が日蓮の論拠の根本要旨である。
 日蓮はこの論旨を、いちいち諸経を引いて論証しつつ、清澄山の南面堂で、師僧、地頭、両親、法友ならびに大衆の面前で憶するところなく闡説し、
「念仏無間。禅天魔。真言亡国。律国賊。既成の諸宗はことごとく堕地獄の因縁である」と宣言した。
 大衆は愕然とした。師僧も父母も色を失うた。諸宗の信徒たちは憤慨した。中にも念仏信者の地頭東条景信は瞋恚(しんい)肝に入り、終生とけない怨恨を結んだ。彼は師僧道善房にせまって、日蓮を清澄山から追放せしめた。
 このときの消息はウォルムスにおけるルーテルの行動をわれわれに髣髴(ほうふつ)せしめる。
「道善御房は師匠にておはしまししかども、法華経の故に地頭を恐れ給ひて、心中には不便とおぼしつらめども、外はかたきのやうににくみ給ひぬ――本尊問答抄」
 清澄山を追われた日蓮は、まず報恩の初めと、父母を法華経に帰せしめて、父を妙日、母を妙蓮と法号を付し、いよいよかねて志す鎌倉へと伝道へと伝道の途に上った。

     四 時と法の相応

 日蓮の行動の予言者なる性格はそのときと法との相応の思想にこくあらわれている。彼は普遍妥当の真理を超時間的に、いつの時代にも一様にあてはまるように説くことでは満足しなかった。彼の思想はある時代、ことに彼が生きている時代へのエンファシスを帯びていた。すなわち彼は歴史の真理を述べ伝えたかったのだ。
 彼は釈迦の予言をみたすために出世したものとして自己の使命を自覚した。あたかもあのナザレのイエスがイザヤの予言にかなわせんため、自己をキリストと自覚したのと同じように。釈迦の予言によれば、釈迦滅後、五百歳ずつを一区画として、正法千年、像法千年を経て第五の末法の五百年に、「我が法の中に於て、闘諍言訟(とうじょうごんじょう)して白法(びゃくほふ)隠没せん(大集経)」時ひとり大白法たる法華経を留めて「閻浮提(えんぶだい)に広宣流布して断絶せしむることなし(法華経薬王品)」と録されてある。また、「後の五百歳濁悪世の中に於て、是の経典を受持することあらば、我当に守護して、その衰患を除き、安穏なることを得しめん(法華経、勧発品)」とも録されてある。
 今の時代は末法濁悪の時代であり、この時代と世相とはまさに、法華経宣布のしゅん刻限に当っているものである。今の時代を救うものは法華経のほかにはない。日蓮は自らをもって仏説に予言されている本化の上行(じょうぎょう)菩薩たることを期し、「閻浮提第一の聖人」と自ら宣した。
 日蓮のかような自負は、普遍妥当の科学的真理と、普通のモラルとしての謙遜というような視角からのみみれば、独断であり、傲慢であることをまぬがれない。しかし一度視角を転じて、ニイチェ的な暗示と、力調とのある直観的把握と高貴の徳との支配する世界に立つならば、日蓮のドグマと、矜恃と、ある意味で偏執狂(モノマニア)的な態度とは興味津々たるものがあるのである。われわれは予言者に科学者の態度を要求してはならない。
 他宗を破折する彼の論拠にも、理論的には幾多の抗論を立てることができるであろう。しかし日蓮宗の教徒ならぬわれわれにとっては、その教理がここで主なる関心ではなく、彼の信念、活動の歴史的意義、その人格と、行状と、人間味との独特のニュアンスとが問題なのである。
 日蓮の性格と行動とのあとはわれわれに幾度かツァラツストラを連想せしめる。彼は雷電のごとくに馳駆し、風雨のごとくに敵を吹きまくり、あるいは瀑布(ばくふ)のごとくはげしく衝撃するかと思えば、また霊鷲のように孤独に深山にかくれるのである。熱烈と孤高と純直と、そして大衆への哭くが如きの愛とを持った、日本におけるまれに見る超人的性格者であった。

     五 立正安国論

 日蓮は鎌倉に登ると、松葉(まつば)ヶ谷(やつ)に草庵を結んで、ここを根本道場として法幡(ほうばん)をひるがえし、彼の法戦を始めた。彼の伝道には当初からたたかいの意識があった。昼は小町(こまち)の街頭に立って、往来(ゆきき)の大衆に向かって法華経を説いた。彼の説教の態度が予言者的なゼスチュアを伴ったものであったことはたやすく想像できる。彼は「権威ある者の如く」に語り、既成教団をせめ、世相を嘆き、仏法、王法二つながら地におちたことを悲憤して、正法を立てて国を安らかにし、民を救うの道を獅子吼(ししく)した。たちまちにして悪声が起こり、瓦石の雨が降(くだ)った。群衆はしかしあやしみつつ、ののしりつつもひきつけられ、次第に彼の熱誠に打たれ、動かされた。夜は草庵に人々が訪ねて教えをこいはじめた。彼は唱題し、教化し、演説に、著述に、夜も昼も精励した。彼の熱情は群衆に感染して、克服しつつ、彼の街頭宣伝は首都における一つの「事件」となってきた。
 既成教団の迫害が生ずるのはいうまでもない成行きであった。また鎌倉政庁の耳目を聳動させたのももとよりのことであった。
 法華経を広める者には必ず三類の怨敵が起こって、「遠離於塔寺」「悪口罵言」「刀杖瓦石」の難に会うべしという予言は、そのままに現われつつあった。そして日蓮はもとよりそれを期し、法華経護持のほこりのために、むしろそれを喜んだ。
 かくて三年たった。関東一帯には天変地妖しきりに起こり出した。正嘉元年大地震。同二年大風。同三年大飢饉。正元元年より二年にかけては大疫病流行し、「四季に亙つて已まず、万民既に大半に超えて死を招き了んぬ。日蓮世間の体を見て、粗(ほぼ)一切経を勘ふるに、道理文証之を得了んぬ。終に止むなく勘文一通を造りなして、其の名を立正安国論と号す。文応元年七月十六日、屋戸野(やどや)入道に付して、古最明寺入道殿に進め了んぬ。これ偏に国土の恩を報ぜん為めなり。(安国論御勘由来)」
 これが日蓮の国家三大諫暁の第一回であった。
 この日蓮の「国土の恩」の思想はわれわれ今日の日本の知識層が新しく猛省して、再認識せねばならぬものである。われわれは具体的共同体、くにの中に生を得て、その維持に必要な衣食と精神文化とを供せられて成育するのである。共同体の基本は父母であり、氏族であり、血と土地と言語と風習と防敵とを共同にするところの、具体的単位がすなわちくになのである。共生(ミットレーベン)ということの意味を生活体験的に考えるならば、必ず父母を基として、国土に及ばねばならぬ。そしてわれわれに文化伝統を与えてくれた師長を忘れることはできぬ。日蓮は父母の恩、師の恩と並べて、国土の恩を一生涯実に感謝していた。これは一見封建的の古い思想のように見えるが決してそうでない。最近の運命共同体の思想はこれを新たに見直してきたのである。国土というものに対して活きた関心を持たぬのは、これまでのこの国の知識青年の最大の認識不足なのである。今や新しい転換がきつつある。
 しかし日蓮の熱誠憂国の進言も幕府のいれるところとならず、何の沙汰もなかった。それのみか、これが機縁となって、翌月二十八日夜に松葉ヶ谷草庵が焼打ちされるという法難となって報いられた。
「国主の御用ひなき法師なれば、あやまちたりとも科あらじとや思ひけん、念仏者並びに檀那等、又さるべき人々も同意したりとぞ聞えし、夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて、殺害せんとせしかども、いかんがしたりけん、其夜の害も免れぬ。(下山御消息)」
 このさるべき人々というのは幕府の要人を指すのだ。彼らは自ら手を下さず、市井の頭目を語らって、群衆を煽動せしめたのであった。
 日蓮は一時難を避けて、下総中山の帰衣者富木(とき)氏の邸にあって、法華経を説いていた。

     六 相つぐ法難

 日蓮の闘志はひるまなかった。百日の後彼は再び鎌倉に帰って松葉ヶ谷の道場を再興し、前にもまして烈々とした気魄をもって、小町の辻にあらわれては、幕府の政治を糺弾し、既成教団を折伏(しゃくふく)した。すでに時代と世相とに相応した機をつかんで立ってる日蓮の説法が、大衆の胸に痛切に響かないはずはない。まして上行菩薩を自覚してる彼が、国を憂い、世を嘆いて、何の私慾もない熱誠のほとばしりに、舌端火を発するとき、とりまく群衆の心に燃えうつらないわけにはいかなかったろう。彼の帰依者はまし、反響は大きくなった。そこで弘長元年五月十二日幕吏は突如として、彼の説法中を小町の街頭で捕えて、由比ヶ浜から船に乗せて伊豆の伊東に流した。これが彼の第二の法難であった。
 この配流は日蓮の信仰を内面的に強靭にした。彼はあわただしい法戦の間に、昼夜唱題し得る閑暇を得たことを喜び、行住坐臥に法華経をよみ行ずること、人生の至悦であると帰依者天津ノ城主工藤吉隆に書いている。
 二年の後に日蓮は許されて鎌倉に帰った。
 彼は法難によって殉教することを期する身の、しきりに故郷のことが思われて、清澄を追われて十三年ぶりに故郷の母をかえりみた。父は彼の岩本入蔵中にみまかったのでその墓参をかねての帰省であった。
「日蓮此の法門の故に怨まれて死せんこと決定也。今一度故郷へ下つて親しき人々をも見ばやと思ひ、文永元年十月三日に安房国へ下つて三十余日也。(波木井御書)」
 折しも母は大病であったのを、日蓮は祈願をこめてこれを癒した。日蓮はいたって孝心深かった。それは後に身延隠棲のところでも書くが、その至情はそくそくとしてわれわれを感動させるものがある。今も安房誕生寺には日蓮自刻の父母の木像がある。追福のために刻んだのだ。
うつそみの親のみすがた木につくりただに額(ぬか)ずり哭き給ひけん
 これは先年その木像を見て私が作った歌だ。
 この帰省中に日蓮は清澄山での旧師道善房に会って、彼の愚痴にして用いざるべきを知りつつも、じゅんじゅんとして法華経に帰するようにいましめた。日蓮のこの道善への弟子としての礼と情愛とは世にも美しいものであり、この一事あるによって私は日蓮をいかばかり敬愛するかしれない。凡庸の師をも本師道善房といって、「表にはかたきの如くにくみ給うた」師を身延隠栖の後まで一生涯うやまい慕うた。父母の恩、師の恩、国土の恩、日蓮をつき動かしたこの感恩の至情は近代知識層の冷やかに見来ったところのものであり、しかも運命共同体の根本結紐として、今や最も重視されんとしつつあるところのものである。
 しかるにその翌月、十一月十一日には果してまたもや大法難にあって日蓮は危うく一命を失うところであった。
 天津ノ城主工藤吉隆の招請に応じて、おもむく途中を、地頭東条景信が多年の宿怨をはらそうと、自ら衆をひきいて、安房の小松原にむかえ撃ったのであった。
 弟子の鏡忍房は松の木を引っこ抜いて防戦したが討ち死にし、難を聞いて駆けつけた工藤吉隆も奮闘したが、衆寡敵せず、ついに傷ついて絶命した。
 日蓮は不思議に一命は助かったが、頭に傷をうけ、左の手を折った。
 日蓮は工藤吉隆の法華経のための殉教を賞めて、大僧の礼をもって葬り、日玉上人の法名を贈った。鏡忍房の墓には「手向ノ松」を植えた。
 日蓮はこの法難によって、経に符合する意味で法華経の行者としての自信を得た。「日蓮は日本第一の法華経の行者也」という宣言をあえて発する自覚を得た。彼がこの小松原の法難における吉隆と鏡忍との殉教を如何に尊び、感謝しているかは、彼の消息を見れば、輝くほどの霊文となって現われているのであるが、ここに引用する余裕がない。後に書くが日蓮はまれに見る名文家なのである。
 この法難から文永五年蒙古来寇のころまで、三、四年間は日蓮の身辺は比較的静安であった。この間に彼の法化が関東の所々にのびたのであった。

     七 蒙古来寇の予言

 日蓮はさきに立正安国論において、他国侵逼難を予言して幕府当局をいましめ、一笑にふされていたが、この予言はあたって文永五年正月蒙古の使者が国書をもたらして幕府をおどかした。
「日蓮が去ぬる文応元年勘へたりし立正安国論、すこしも違はず符合しぬ。此の書は白楽天が楽府にも越え、仏の未来記にもをとらず、末代の不思議何事かこれに過ぎん。(種々御振舞御書)」
 そこで日蓮は今度こそ幕府から意見を徴せらるることを期待したが、やはり何の沙汰もなかった。日蓮はここにおいて決するところあり、自ら進んで、積極的に十一通の檄文(げきぶん)を書いて、幕府の要路及び代表的宗教家に送って、正々堂々と、公庁が対決的討論をなさんことを申しいどんだ。
 これは憂国の至情黙視しておられなかったのであるが、また彼の性格の如何に激烈で、白熱的であるかを示すものである。それにつけても今の日本の非常の時に、これほどの烈々たる情熱ある精神の使徒を私は期待することを禁じ得ない。
 当局及び諸宗は震駭した。中にも極楽寺の良観は、日蓮は宗教に名をかって政治の転覆をはかる者であると讒訴(ざんそ)した。時節柄当局の神経は尖鋭となっていたので、ついにこの不穏の言動をもって、人心を攪乱するところの沙門を、流罪に処するということになった。
 これは貞永式目に出家の死罪を禁じてあるので、表は流罪として、実は竜ノ口で斬ろうという計画であった。
 日蓮はこの危急に際しても自若としていた。彼の法華経のための殉教の気魄は最高潮に達していた。
「幸なる哉、法華経のために身を捨てんことよ。臭き頭をはなたれば、沙に金を振替へ、石に玉をあきなへるが如し。(種々御振舞御書)」
 彼は刑場におもむく前、鎌倉の市中を馬に乗せられて、引き回されたとき、若宮八幡宮の社前にかかるや、馬をとめて、八幡大菩薩に呼びかけて権威にみちた、神がかりとしか思えない寓諫を発した。
「如何に八幡大菩薩はまことの神か」とそれは始まる。彼は釈迦が法華経を説いたとき、「十方の諸仏菩薩集まりて、日と日と、月と月と、星と星と、鏡と鏡とを並べたるが如くなりし時」その会(え)中にあって、法華経の行者を守護すべきを誓言したる八幡大菩薩は、いま日蓮の難を救うべき義務があるに、「いかに此の所に出で合はせ給はぬぞ」と責めた。
 神明を叱咤(しった)するの権威には、驚嘆せざるを得ぬではないか。
 急を聞いて馳せつけた四条金吾が日蓮の馬にとりついて泣くのを見て、彼はこれを励まして、「この数年が間願いし事是なり。此の娑婆世界にして雉となりし時は鷹につかまれ、鼠となりし時は猫に□(くら)われ、或いは妻子に、敵に身を捨て、所領に命を失いし事大地微塵よりも多し。法華経の為には一度も失う事なし。されば日蓮貧道の身と生まれて、父母の孝養心に足らず、国恩を報ずべき力なし。今度頸を法華経に奉って、その功徳を父母に回向し、其の余をば弟子檀那等にはぶくべし」
といった、また左衛ノ尉の悲嘆に乱れるのを叱って、
「不覚の殿原かな。是程の喜びをば笑えかし。……各々思い切り給え。此身を法華経にかうるは石にこがねをかえ、糞に米をかうるなり」
 かくて濤声高き竜ノ口の海辺に着いて、まさに頸刎ねられんとした際、異様の光りものがして、刑吏たちのまどうところに、助命の急使が鎌倉から来て、急に佐渡へ遠流ということになった。
 文永八年十月十日相模の依智(えち)を発って、佐渡の配所に向かった日蓮は、十八日を経て、佐渡に着き、鎌倉の土籠に入れられてる弟子の日朗へ消息している。
「十二[#「十二」はママ]月二十八日に佐渡へ着きぬ。十一月一日に六郎左衛門が家のうしろの家より、塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に、一間四面なる堂の仏もなし。上は板間合はず、四壁はあばらに、雪降り積りて消ゆる事なし。かゝる所に敷皮うちしき、蓑うちきて夜を明かし、日を暮らす。夜は雪雹雷電ひまなし。昼は日の光もささせ給はず、心細かるべき住居なり」
 こうした荒寥の明け暮れであったのだ。
 承久の変の順徳上皇の流され給うた佐渡へ、その順逆の顛倒に憤って立った日蓮が、同じ北条氏によって配流されるというのも運命であった。
「彼の島の者ども、因果の理をも弁えぬ荒夷(あらえびす)なれば、荒く当りたりし事は申す計りなし」
「彼の国の道俗は相州の男女よりも怨(あだ)をなしき。野中に捨てられて雪に肌をまじえ、草を摘みて命を支えたりき」
 かかる欠乏と寂寥の境にいて日蓮はなお『開目鈔』二巻を撰述した。
 この著については彼自ら「此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし」といい、「日蓮は日本国のたましひなり」という、仏陀の予言と、化導の真意をあらわす、彼の本領の宣言書である。彼の不屈の精神はこの磽□(こうかく)の荒野にあっても、なお法華経の行者、祖国の護持者としての使命とほこりとを失わなかった。
 佐渡の配所にあること二年半にして、文永十一年三月日蓮は許されて鎌倉に帰った。しかるに翌四月八日に平ノ左衛門尉に対面した際、日蓮はみたび、他国の来り侵すべきことを警告した。左衛門尉は「何の頃か大蒙古は寄せ候ふべき」と問うた。日蓮は「天の御気色を拝見し奉るに、以ての外に此の国を睨みさせ給ふか。今年は一定寄せぬと覚ふ」と大胆にいいきった。平ノ左衛門尉はさすがに一言も発せず、不興の面持であった。
 しかるに果して十月にこの予言は的中したのであった。
 彼はこの断言の時の心境を述懐して、「日蓮が申したるには非ず、只ひとへに釈迦如来の御神我身に入りかはせ給ひけるにや。我身ながら悦び身にあまる。法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり」と書いている。かような宗教経験の特異な事実は、客観的には否定も、肯定もできない。今後の心霊学的研究(サイキカルリサーチ)の謙遜な課題として残しておくよりない。しかし日蓮という一個の性格の伝記的な風貌の特色としては興趣わくが如きものである。

     八 身延の隠棲

 日蓮の最後の極諫もついに聞かれなかった。このとき日蓮の心中にはもはや深く決するところがあった。
「三度諫めて用ゐられずんば山林に身を隠さん」
 これが日蓮の覚悟であった。やはり彼は東洋の血と精神に育った予言者であったのだ。大衆に失望して山に帰る聖賢の清く、淋しき諦観が彼にもあったのだ。絶叫し、論争し、折伏する闘いの人日蓮をみて、彼を奥ゆかしき、寂しさと諦めとを知らぬ粗剛の性格と思うならあやまりである。
 鎌倉幕府の要路者は日蓮への畏怖と、敬愛の情とをようやくに感じはじめたので、彼を威迫することをやめて、優遇によって懐柔しようと考えるようになった。そして「今日以後永く他宗折伏を停めるならば、城西に愛染堂を建て、荘田千町を付けて衣鉢の資に充て、以て国家安泰、蒙古調伏の祈祷を願ひたいが、如何」とさそうた。このとき日蓮は厳然として、「国家の安泰、蒙古調伏を祈らんと欲するならば、邪法を禁ずべきである。立正こそ安国の根本だからだ。自分は正法を願うて爵録を慕はない。いづくんぞ、仏勅を以て爵録に換へんや」
 かくいい放って誘惑を一蹴した。時宗が嘆じて「ああ日蓮は真に大丈夫である。自ら仏使と称するも宜なる哉」とついに文永十一年五月宗門弘通許可状を下し、日蓮をもって、「後代にも有り難き高僧、何の宗か之に比せん。日本国中に宗弘して妨げあるべからず」という護法の牒を与えた。
 けれども日蓮は悦ばず、正法を立せずして、弘教を頌揚するのは阿附(あふ)である。暁(さと)しがたきは澆季の世である。このまま邪宗とまじわり、弘教せんより、しばらく山林にのがれるにはしかないと、ついに甲斐国身延山に去ったのである。
 これは日蓮の生涯を高く、美しくする行持(ぎょうじ)であった。実に日蓮が闘争的、熱狂的で、あるときは傲慢にして、風波を喜ぶ荒々しき性格であるかのように見ゆる誤解は、この身延の隠棲九年間の静寂と、その間に諸国の信徒や、檀那や、故郷の人々等へ書かれた、世にもやさしく美しく、感動すべき幾多の消息によって、完全に一掃されるのである。それとともに、彼の立宗以来五十三歳までの、二十二年間の獅子王のごとき奮闘がいかにかかるやさしく、美しき心情から発し得たかに、驚異の念を持たざるを得ないのである。実に優(いう)にやさしき者が純熱一すじによって、火焔の如く、瀑布の如く猛烈たり得る活ける例証をわれわれは日蓮において見得るのである。このことは今の私にとっていかばかり感謝と希望であることぞ。
 日蓮は実に身延の隠棲の間に、心しみじみとした名文を書いている。私は限りない愛惜をもって、紙幅の許すまで彼自らの文章に語らせたい。
「五月十二日、鎌倉を立ちて甲斐の国へ分け入る。路次のいぶせさ、峰に登れば日月をいただく如し。谷に下れば穴に入るが如し。河たけくして船渡らず、大石流れて箭をつくが如し。道は狭くして繩の如し。草木繁りて路みえず。かかる所へ尋ね入る事、浅からざる宿習也。かかる道なれども釈迦仏は手を引き、帝釈は馬となり、梵王は身に立ちそひ、日月は眼に入りかはらせ給ふ故にや、同十七日、甲斐国波木井の郷へ着きぬ。波木井殿に対面ありしかば大に悦び、今生は実長が身に及ばん程は見つぎ奉るべし、後生をば聖人助け給へと契りし事は、ただ事とも覚えず、偏に慈父悲母波木井殿の身に入りかはり、日蓮をば哀れみ給ふか。(波木井殿御書)」
 かくて六月十七日にいよいよ身延山に入った。彼は山中に読経唱題して自ら精進し、子弟を教えて法種を植え、また著述を残して、大法を万年の後に伝えようと志したのであった。さてその身延山中の聖境とはどんな所であろう。
「此の山のていたらく……戌亥の方に入りて二十余里の深山あり。北は身延山、南は鷹取山、西は七面山、東は天子山也。板を四枚つい立てたるが如し。此外を回りて四つの河あり。北より南へ富士河、西より東へ早河、此は後也。前に西より東へ波木井河の中に一つの滝あり、身延河と名づけたり。中天竺の鷲峰を此処に移せるか。はた又漢土の天台山の来れるかと覚ゆ。此の四山四河の中に手の広さ程の平らかなる処あり。爰に庵室を結んで天雨を脱れ、木の皮をはぎて四壁とし、自死の鹿の皮を衣とし、春は蕨を折りて身を養ひ、秋は果を拾ひて命を支へ候。(筒御器鈔)」
 今日交通の便開けた時代でも、身延山詣でした人はその途中の難と幽邃(ゆうすい)さとに驚かぬ者はあるまい。それが鎌倉時代の道も開けぬ時代に、鎌倉から身延を志して隠れるということがすでに尋常一様な人には出来るものでないことは一度身延詣でしてみれば直ちに解るのである。
 ことには冬季の寒冷は恐るべきものがあったに相違ない。
 雪が一丈も、二丈もつもった消息も書かれてあり、上野殿母尼への消息にも「……大雪かさなり、かんはせめ候。身の冷ゆること石の如し。胸の冷めたき事氷の如し」と書いてある。
 こうした深山に日蓮は五十三歳のときから九年間行ない澄ましたのである。
「かかる砌なれば、庵の内には昼はひねもす、一乗妙典のみ法(のり)を論談し、夜はよもすがら、要文誦持の声のみす。……霧立ち嵐はげしき折々も、山に入りて薪をとり、露深き草を分けて、深山に下り芹を摘み、山河の流れも早き巌瀬に菜をすすぎ、袂しほれて干わぶる思ひは、昔人丸が詠じたる和歌の浦にもしほ垂れつつ世を渡る海士(あま)も、かくやと思ひ遣る。さま/″\思ひつづけて、観念の牀(とこ)の上に夢を結べば、妻恋ふ鹿の声に目をさまし、……(身延山御書)」
 こうしたやさしき文藻は粗剛な荒法師には書けるものでない。
 建治二年三月旧師道善房の訃音に接するや、日蓮は悲嘆やる方なく、報恩鈔二巻をつくって、弟子日向に持たせて房州につかわし、墓前に読ましめ「花は根にかえる。真味は土にとどまる。此の功徳は故道善房の御身にあつまるべし」と師の恩を感謝した。
 それにもまして美しい、私の感嘆してやまない消息は新尼御前への返書として、故郷の父母の追憶を述べた文字である。
「海苔(あまのり)一ふくろ送り給ひ畢んぬ。……峰に上りてわかめや生ひたると見候へば、さにてはなくて蕨のみ並び立ちたり。谷に下りて、あまのりや生ひたると尋ぬれば、あやまりてや見るらん、芹のみ茂りふしたり。古郷の事、はるかに思ひ忘れて候ひつるに、今此のあまのりを見候て、よし無き心おもひでて憂(う)くつらし。かたうみ、いちかは、小港の磯のほとりにて、昔見しあまのりなり。色、形、味はひもかはらず、など我父母かはらせ給ひけんと方違(かたちが)へなる恨めしさ、涙おさへがたし」
 そくそくとして心に沁みる名文である。こうしたやさしき情緒の持主なればこそ、われわれは彼の往年の猛烈な、火を吐くような、折伏のための戦いを荒々しと見ることはできないのである。また彼のすべての消息を見て感じることはその礼の行きわたり方である。今日日蓮の徒の折伏にはこの礼の感じの欠けたるものが少なくない。日蓮の折伏はいかに猛烈なときでも、粗野ではなかったに相違ないことは充分に想像し得るのである。やさしき心情と、礼儀とを持って、しかも彼の如く猛烈に真理のために闘わねばならない。そのことたる、ひとえに心境の純潔にして疾ましからざると、真理への忠誠と熱情のみによって可能なことである。私は晩年の日蓮のやさしさに触れて、ますます往年の果敢な法戦に敬意を抑え得ないのである。
 彼は故郷への思慕のあまり、五十町もある岨峻をよじて、東の方雲の彼方に、房州の浜辺を髣髴しては父母の墓を遙拝して、涙を流した。今に身延山に思恩閣として遺跡がある。
「父母は今初めて事あらたに申すべきに候はねども、母の御恩の事殊に心肝に染みて貴くおぼえ候。飛鳥の子を養ひ、地を走る獣の子にせめられ候事、目も当てられず、魂も消えぬべくおぼえ候。其につきても母の御恩忘れ難し。……日蓮が母存生しておはせしに、仰せ候ひしことも、あまりに背き参らせて候ひしかば、今遅れ参らせて候が、あながちにくやしく覚えて候へば、一代聖教を検べて、母の孝養を仕らんと存じ候。(刑部左衛門尉女房御返事)」
 一体日蓮には一方パセティックな、ほとんど哭くが如き、熱腸の感情の昂揚があるのだ。たとえば、竜ノ口の法難のとき、四条金吾が頸の座で、師に事あらば、自らも腹切らんとしたことを、肝に銘じて、後年になって追憶して、
「返す/\も今に忘れぬ事は、頸切られんとせし時、殿は供して馬の口に付て、泣き悲しみ給ひしは、如何なる世にも忘れ難し。たとひ殿の罪深くして、地獄に入り給はば、日蓮を如何に仏に成さんと釈迦誘(こし)らへさせ給ふとも、用ひ参らせ候べからず。同じ地獄なるべし」
 これなどは断腸の文字といわねばならぬ。
 また上野殿への返書として、
「鎌倉にてかりそめの御事とこそ思ひ参らせ候ひしに、思ひ忘れさせ給はざりける事申すばかりなし。故上野殿だにもおはせしかば、つねに申しうけ給はりなんと嘆き思ひ候ひつるに、御形見に御身を若くしてとどめ置かれけるか。姿の違はせ給はぬに、御心さへ似られける事云ふばかりなし。法華経にて仏にならせ給ひて候と承はりて、御墓に参りて候」
 こうした深くしみ入り二世をかけて結ぶ愛の誠と誓いとは、日蓮に接したものの渇仰と思慕とを強めたものであろう。

     九 滅度

 身延山の寒気は、佐渡の荒涼の生活で損われていた彼の健康をさらに傷つけた。特に執拗な下痢に悩まされた。
「此の法門申し候事すでに二十九年なり。日々の論議、月々の難、両度の流罪に身疲れ、心いたみ候ひし故にや、此の七八年が間、年々に衰病起り候ひつれども、なのめにて候ひつるが、今年(弘安四年)は正月より其の気分出来して、既に一期をはりになりぬべし。其の上齢すでに六十にみちぬ。たとひ十に一、今年は過ぎ候とも、一、二をばいかでかすぎ候べき。(池上兄弟への消息)」
 その生涯のきわめて戯曲的であった日蓮は、その死もまた牧歌的な詩韻を帯びたものであった。
 弘安五年九月、秋風立ち初むるころ、日蓮は波木井氏から贈られた栗毛の馬に乗って、九年間住みなれた身延を立ち出で、甲州路を経て、同じく十八日に武蔵国池上の右衛門太夫宗仲の館へ着いた。驢馬に乗ったキリストを私たちは連想する。日蓮はこの栗毛の馬に愛と感興とを持った。彼の最後の消息がこの可憐な、忠実な動物へのいつくしみの表示をもって終わっているのも余韻嫋々としている。彼の生涯はあくまで詩であった。
「みちのほど、べち事候はで池上までつきて候。みちの間、山と申し、河と申し、そこばく大事にて候ひけるを、公達に守護せられ参らせ候て、難もなくこれまで着きて候事、おそれ入り候ひながら悦び存じ候。……所労の身にて候へば、不足なる事も候はんずらん。さりながらも、日本国に、そこばくもてあつかうて候身を、九年迄御帰依候ひぬる御志、申すばかりなく候へば、いづくにて死に候とも、墓をば身延の沢にせさせ候べく候。又栗毛の御馬はあまりにおもしろく覚え候程に、いつまでも失ふまじく候。常陸の湯にひかせ候はんと思ひ候が、若し人にもとられ候はん、又その外いたはしく覚えば、上総の藻原の殿のもとに預け置き奉るべく候。知らぬ舎人をつけて候へば、をぼつかなく覚え候。(下略)」
 これが日蓮の書いた最後の消息であった。
 十月八日病革(あらた)まるや、日昭、日朗以下六老僧をきめて懇ろに滅後の弘経を遺嘱し、同じく十八日朝日蓮自ら法華経を読誦し、長老日昭臨滅度時の鐘を撞(つ)けば、帰依の大衆これに和して、寿量品(しゅりょうぼん)の所に至って、寂然として、この偉大なたましいは、彼が一生待ち望んでいた仏陀の霊山に帰還した。そこでは並びなき法華経の護持者としての栄冠が彼を待っていることを門弟、檀那、帰依の大衆は信じて疑わず、声をうち揃えて、南無妙法蓮華経を高らかに唱題したのであった。

 毎年十月十八日の彼の命日には、私の住居にほど近き池上本門寺の御会式(おえしき)に、数十万の日蓮の信徒たちが万燈をかかげ、太鼓を打って方々から集まってくるのである。
 スピリットに憑(つ)かれたように、幾千の万燈は軒端を高々と大群衆に揺られて、後から後からと通りに続き、法華経をほめる歓呼の声は天地にとよもして、世にもさかんな光景を呈するのである。フランスのある有名な詩人がこの御会式の大群衆を見て絶賛した。それは見知らぬ大衆が法によっておのずと統一されて、秩序を失わず、霊の勝利と生気との気魄がみなぎりあふれているからである。
 日蓮の張り切った精神と、高揚した宗教的熱情とは、その雰囲気をおのずと保って、六百五十年後の今日まで伝統しているのだ。
 彼はあくまでも高邁の精神をまもった予言者であり、仏子にして同時に国士であった。法の建てなおし、国の建てなおしが彼の一生の念願であった。同時代への燃えるような愛にうながされて、世のため、祖国のため憂い、叫び、論じ、闘った。彼は父母と、師長と、国土への恩愛を通して、活ける民族的、運命的共同体くにへの自覚と、感謝と、護持の念にみちみちていた。彼はその活きたくにへの愛護の本能によって、大蒙古の侵逼を直覚し、この厄難から、祖国を守らんがために、身の危険を忘れて、時の政権の把持者を警諫した。彼は国本を正しくすることによって、世を済い、人間の精神を建てなおすことによって国を建てなおそうとして奔命した。彼は時代の悪を憎み、政治の曲を責め、教学の邪を討って、権力と抗争した。
 人はあるいは彼はたましいの静謐(せいひつ)なき荒々しき狂僧となすかも知れない。しかし彼のやさしき、美しき、礼ある心情はわれわれのすでに見てきた通りである。それにもかかわらず、何故彼はかくの如く、猛烈に、火を吐く如くに叫び、罵り、挑戦し、さながら僧にしてまた兵の如くに奮闘馳駆しなければならなかったか。
 それは天意への絶対尊信と、その奉行のための使命の自覚と、同時代への関心と、祖国の愛護と、共存大衆への本能的悲愍につき動かされて、やむにやまれなかったのである。
 同時代への関心を持たぬ普遍妥当の真理の把持者は落ち着いていられる。民族共同体の運命に本能的な安危を感じない国際主義者は冷やかに静観してすまされる。共存同悲の大衆へのあわれみが肉体的な交感にまで現実化していない者は、いわゆる「助けせきこむ」気持が理解できないのである。
 われわれは宗教家である日蓮が政治的関心を発せずにいられなかった動機が実感できる。街頭に立って大衆に呼びかけ、政治を批判し、当局に対決をいどみ、当時の精神文化指導階級を責め鞭った心事が身に近く共感されるのを覚える。
 今日の日本の現状は日蓮の時代と似たおもむきはないであろうか。
 われわれは現在の政治的権力、経済的支配、文化的指導に対して、抗争せずにいられるであろうか。
 今の日本の知識層を一般に支配している冷淡と、無反応との空気は決して健康の徴候ではないのである。その空気は祖国への無関心を伴うたものであり、新しき祖国への愛に目ざめしめることが一般的に文化への熱情を呼び起こす前提である。
 そのためには具体的の共同体というものが、父母から発生し、大家族を通しての、血族的、言的共生を契機とし、共同防敵によって統一され、師長による文化伝統の教育と、共存同胞による衣食の共同自給にまつものである事情、すなわち父母と、師長と、国土とへの恩愛と従属との観念を呼びさまさなければならない。そしてそれこそ日蓮の強調したところのものである。日本の知識層は実は文化に冷淡なのではなく、民族的文化、国家的思潮に冷淡なのである。そしてこのことたる全く従来の文化的指導者の認識のあやまりに由るのである。
 日本の文化的指導者は祖国への冷淡と、民族共同体への隠されたる反感とによって、次代の青年たちを、生かしも、殺しもせぬ生煮えの状態にいぶしつつあるのである。これは悲しむべき光景である。是非ともこれは文化的真理と、人類的公所を失わぬ、新しい民族国家主義を樹立して、次代の青年たちを活々とした舞台に解放しなければならないのである。
 われわれは今日の文化的指導層に対しては真理のために、祖国のために抗争せざるを得ないものである。
 日本の文化指導層の政治的関心の欠如もまたこれに類する。彼らは文化人が政治にかかわることを軽蔑する。しかし今日の、人間の文化と禍福とがますます密接に政治に依属しつつある時代において、政治の根本精神を正し、その理想を標幟せしむる啓蒙運動に、文化指導の任務を自覚するわれわれが関わりを持たずにいられないのは当然なことである。それは日蓮の時代よりももっと切実になっているのである。何故なら今日は文化も、経済も国家社会的規模に拡大され、計画されつつあるからである。
「大きすぎもせねば、小さすぎもせぬ」声で語るカルチュアの人は尊いであろう。しかしそのために雷霆(らいてい)の如く怒号する野の予言者を排斥してはならない。質素な襟飾をつけた謙遜な教授は尊敬すべきであるが、そのために舌端火を吐く街頭の闘士を軽蔑することはできぬ。むしろわれわれが要望するのは最も柔和なる者の獅子吼である。最も優美なる者の烈々たる雄叫びである。そしてキリストも日蓮も実はかかる性格者の典型であった。
 その内心に私を蔵する者は予言者たり得ない。そのたましいに「天」を宿さぬものは予言者たり得ない。予言者は天意の代弁者であり、その権威に代わる者だからである。
 その同時代と、大衆への没落的の愛を抱かぬ者も予言者たり得ない。そのカラーを汚し、その靴を泥濘へ、象牙の塔よりも塵労のちまたに、汗と涙と――血にさえもまみれることを欲うこそ予言者の本能である。
 しかもまた大衆を仏子として尊ぶの故に、彼らに単に「最大多数の最大幸福」の功利的満足を与えんとはせずに、常に彼らを高め、導き、精神的法悦と文化的向上とに生きる高貴なる人格たらんことをすすめ、かくて理想的共同体を――究竟には聖衆倶会の地上天国を建設せんがために、自己を犠牲にして奔命する者、これこそまことの予言者である。
 そして日蓮はかくの如き条件にかなえる者であったことは、上来簡叙したところの彼の生涯の行跡が示している。われわれは七百年以前の鎌倉時代に生きた日蓮の生涯を、今日の日本の非常の時代に思い比べて、自ら肯き、そして期する所がなければならないのである。(一九三七・一一・二五)

     参考書のたぐい

田中智学 大国聖日蓮聖人
清水竜山 日蓮聖人の生涯
山川智応 日蓮聖人伝十講
有朋堂文庫 日蓮聖人文集
室伏高信 立正安国論
高山樗牛 日蓮とはいかなる人ぞ
姉崎正治 法華経の行者日蓮
倉田百三 祖国への愛と認識
ニーチェ ツァラツストラ如是説
旧約聖書中のイザヤ書。妙法蓮華経。マルチン・ルーテル伝。




ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:40 KB

担当:undef